いかん。人類を嘆く前に自分の境遇を嘆かなければいけない。私は知らぬ間に人生を終えてしまったのだ。たとえそれが不満の多い人生だったとしても。たとえそれが後悔と懐古と舌打ちと耳掻きに満ちた人生だったとしても。死を予定したくはないが、予定しない死はやはり乗り遅れた電車のような悔悟を伴うものだということに、死んでから気づいた。気づいても手遅れである。ただ、人間はよほど現金に出来ているらしい。人生を終えてもこうして意識が続き世界を眺められるのだとわかれば、冥界と言えども張りぼての虎、あるいはせいぜい虎の衣を借る狐。正直なところ、身をもって嘆き悲しめないのも確かである。なんだ、死んでも生きてるじゃないか。しかもこちらの方がよっぽど楽ちんである。空腹感も肩の凝りもない。暴飲で長年弱っていた肝臓まで治ったような気がする。あるいは肝臓自体がなくなったのかも知れない。幽体離脱者に内臓器官はそもそも要らないはずであろうから、それもあながちあり得ないことではない。ああ、肉体の重みを嘆いたプラトンよ、汝は真理ではなく幽体離脱者を目指すべきであった。
つまり私は生の終わりを惜しみながら死の始まりに期待した。この上はどうか下手に成仏してこの意識の雲散霧消しませんようにと手を合わせて、それから私は改めて室内を眺め渡した。
つまり私は生の終わりを惜しみながら死の始まりに期待した。この上はどうか下手に成仏してこの意識の雲散霧消しませんようにと手を合わせて、それから私は改めて室内を眺め渡した。
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