た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

2016年09月12日 | 短編

   酒場で夢を語る男がいた。夢は大きく、国どころか世界を巻き込んで果てしがなかった。居合わせた者は皆心惹かれ、男の言葉に同じ夢を見て酔いしれた。男の語る夢は貧困を解決した。憎しみを和らげ、友情を拡げた。なるほどそうなれば世の中はもっとずっと生き易くなると、耳を傾けた誰もが思った。そこへある女が口を挟んだ。「で、あんたはその夢の実現のために、どんなことをするの」夢を語った男は口をつぐんだ。

   次の酒が黙って男のグラスに注がれた。

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射影

2016年05月23日 | 短編

   まるで誰かの悪だくみのように、急に途方もなく暑くなった。信州松本の暑さは関西の暑さのように、下からむっと沸き起こる湿気ではなく、上から直接叩きつける日差しの強さにある。太陽が近いのである。油断して帽子も被らず外に出ると、すりこ木でごりごりと首筋や頭を押し付けられるような痛みを味わう。めまいがする。足がふらつく。どこに向かっていたのか分からなくなるような感覚に陥る。

   先日の日曜日、妻と二人で街を歩いた。日傘を差していた妻もさすがの暑さに参ったらしく、次第に足取りが覚束なくなった。私は私で頭上に容赦なく降り注ぐ日射に辟易し、一刻も早くその場を立ち去りたくて自然と足取りを早めた。気が付くと、二人の間には半町ほどの隔たりができていた。私は立ち止まり、小さく見える妻を待った。

   極限の環境に置かれると、人は本性を表すという。私は何だか自分のさもしい本性を見透かされたような気分になり、日差しのまぶしさも相まって、視線を落としてじっと妻を待つ。

   首筋を汗が伝う。

   妻はなかなか追いつかない。

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春・一番

2016年03月31日 | 短編

   怒りと憎しみは違う。憎しみと悪意はもっと違う。だんだん下等になるのだろうが、気がついて見れば、世間一般その辺の機微を一緒くたにごった煮にして、悪臭をまき散らし、わりかし平気である。

   ただこれらに連続性があるのも事実である。怒りは憎しみを呼び、憎しみは悪意を喚起させずにいられない。順次、正義感は薄まっていくが、欲得打算の気配は次第に濃くなっていく。そんなことを考え始めると、ひょっとして資本主義の根幹は悪意ではないかとまで勘ぐってしまうが、もちろんそれは勘ぐり過ぎであろう。

   桜が咲き始めた。桜はあくまで、あくまで美しい。たとえ人類が滅んでも、桜の木一本残れば、それは春に確かな花を咲かせよう。可笑しなことを言うようだが、逆を考えてみられたい。花が滅んで、人が独り地上に生き残ったとして、その人物は果たして幸せを咲かせようか。

   人間の営みなど所詮その程度である。憎しみは執念く居場所を探し、花は潔く咲いて散る。

   三月が終わった。四月である。

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馬鹿野郎!

2016年02月27日 | 短編

 その人をMさんと呼んでおく。年上なので、さん付けで呼ぶのである。

 Mさんは酒豪である。年齢的に言えば、一升瓶を手にするより、干し柿を食べ茶を啜(すす)るのが似合う年頃であるし、家族はどちらかというとそれを望んでいるようだが、本人はいつでも赤い顔でへべれけに酔いつぶれて一向に平気である。

 そのMさんが、ホルモンの煙の立ちこめる店で、焼酎の水割りを口に付けながら私を睨(にら)んできた。若い頃は山登りに明け暮れたという顔の皺(しわ)は、まじめな話になると、きりりと引き締まる。

 「馬鹿野郎」

 Mさんが唐突に話題を変えるときは、だいたいがこの接頭語から始まる。叱りつけるときもあれば、単なる世相批判のときもある。褒(ほ)め言葉で使うこともある。つまりほとんど意味のない言葉なのだが、それでも私は形だけ居住まいを正した。

   「はい」

   「馬鹿野郎。お前は、文を綴(つづ)れ」

 しばらく前から箸のつかない網の上のホルモンは、一様に焦げついて、もうもうと煙を立ち上げている。私は煙たさに目を擦った。

 「ありがとうございます」

 「あきらめるな」

 「はい」

 私は諦めていたのだ。文筆の道を歩むことを。才が無いことなどとっくの昔に気づいている。それでも持病のようにときたま書き散らす駄文を、Mさんは片端から丁寧に読む。読むだけでなく、辛辣(しんらつ)な批評を浴びせる。多くは酒の席で。そんな関係がもう何年も続いていた。ところが最近は私に商売っ気が出て、他分野でいろいろと奔走するようになり、そうなると夢から醒(さ)めたように創作意欲が消え失せてしまっていた。それならそれでいいと思っていた。Mさんはそんな私を叱責したのだ。何も、私に大成しろと言っているわけではない。何とか賞を取れと言っているわけでもない(たまに言うこともあるが、酔っ払いの戯言(ざれごと)である)。ただ、書き続けろと言っているのだ。お前はお前らしく、書き続けろ、と言っているのだ。

 私は嬉しかった。簡単に顔に表せないほどに嬉しかった。

 「おい、食え」

 「はい」

 「みんな食ってしまえ」

 「はい」

 店内に残る客はそろそろ我々だけになろうとしていた。炭火は最後の任務を終え、後はもう消壺に入ることだけを待ち望んでいた。Mさんは黙って焼酎の水割りを傾けた。私は何となく正座をしたまま箸を動かした。焦げたホルモンはたっぷり味噌ダレに浸しても、口に入れて噛み締めるとツンと、ほろ苦い味がした。

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『因』

2016年02月14日 | 短編

 

   限界だった。私の魂はもう、限界だった。

 そんな私を焚きつけるように、雨は激しく窓を打った。いやらしい滴が次から次へと窓に吸着し、まるで無数のヒルのようだった。まったく、あんまり風雨が激しいので、窓ガラスが割れるのではないかと思ったほどだ。

 悶絶するように体をくの字に折り曲げ、手にした出刃包丁の刃渡りを見つめる。妖しく、艶やかに、震えている。これで実の父親を殺すとは到底思えなかった。だが限界なのだ。「さあ、あたしを使ってあんたのお父さんを刺してごらん」と、切っ先が語りかけてくる。「そうしたらずいぶん楽になるわよ」。は! 私は楽になるだろうが、親父は苦しむだろう。いや、そんな感覚が果たして彼に残っているか。自分の息子の顔も覚えていない。糞尿をパンツに漏らしても何ともない。人間的な感覚などない。彼はもう、人間として生きているわけではないのだ。ダニのように煎餅布団にへばりついて、毎日呼吸しているに過ぎないのだ。彼が死ねば、彼も、私も、双方が楽になる。これが最善の道なのだ・・・・私。私は楽になるのだろうか。生みの親を殺して。犯罪。自由。生きる権利。罪悪感と解放感は、同じ天秤にかけられうるのか。黙れ。それどころではなかったのだ。

 雨音に掻き消されるように、救急車のサイレンが遠のいていく。

 私は荒い息を吐きながら、出刃包丁の刃を指でなぞった。人差し指が切れて血が出た。 

   介護とは何だ。介護とは何だったのだ。それを考え始めると、私はいつも憤怒で息が詰まりそうになる。あまりにも壮絶な日々。自分の親の糞の臭い。腹が立つほど臭く、物悲しく・・・・それは、血を分けた子にしかわからない、屈辱に満ちた、やるせない臭いだ。介護とは、一人の人間の重みで、もう一人の人間を押し潰すことだ。人一人の抜け殻で、別の人間を窒息死させることだ。一人前の不幸で、二人前を地獄に送ることだ。

 私には無理だった! それだけだ。小賢しく語ろうとするのはよせ。

   雨音に満ちた薄暗い四畳半の部屋で、私は自分の体が一回り小さくなったように感じた。そのままもっともっと小さくなって、石ころほどの塊になり、畳を突き破って地下深くに沈み込み、地球の深淵に達し、二度と浮かび上がってこない姿を想像した。

   隣の部屋で、親父は昼間から、生まれたての醜い赤子のようにすやすやと眠っている。痴呆が進行しているから、本当に赤子の気分でいるかも知れない。いや、かつては聡明だった人だ。自分の息子の殺意など、とっくに勘づいているかも知れない。勘づいていたら、それでいい。どうせ立ち上がることすらできない体だ。私が今、包丁を手に襖(ふすま)を開け放っても、彼には何もできない。私は確実に、彼を殺せる。

   私は愕然とした。

   私は、私を可愛がり、ときには厳しく叱りながら育ててくれた親を、この手で殺そうとしているのだ

   全身から汗が噴き出た。

   大好きな親父ではなかった。実直なだけに不器用な人だった。こちらの気持ちをなかなか理解してもらえなかった。八年前から寝たきりになり、介護していた母親が三年前に他界した後は、自分が面倒を見るしかなかった。最初は責任感で懸命だったが、すぐに死ぬほど嫌になった。一度でも感謝の言葉をかけてもらったことなどなかった。そもそも感謝の意味がわからない人になっていた。だがもちろん、もちろん、殺すほどのことではない。

   かつては、「父さん」と呼んだこともあった。

   いたたまれない感情が吐き気のように込み上げてきて、私は包丁を振り上げ、思い切り畳の上に刺した。繊維の切れる音がして、鈍い手ごたえがあった。

   私が殺そうとしているのは別物だ。この隣の部屋に横たわっている半分干からびた肉塊は、もはや私の父親ではない。私から自由を奪い、人生を奪い、恋愛するチャンスを奪い、未来を奪った悪魔だ。

   額から流れる汗は止めどなかった。私は思わずにやついた。

   恋愛だと? 笑止。私は自分に寝たきりの親父がいなかったら、果たして恋愛ができていたのか? 恋愛まで親父のせいにするのか? 親父がいなくても私はやっぱり、私の中の別の何かを寝たきり老人のようにして、その介護に自分を追いやることで人との出会いから逃れようとしたのではないか

   馬鹿馬鹿しい! 私は畳に刺さった包丁を抜き取り、立ち上がった。ふらつく体を支えるために、二、三歩地団太を踏まなければならなかった。私は被害者だ。一人息子として強制的に不幸を押しつけられたのだ。三年前母さんが脳梗塞で倒れたときから、すべての歯車が狂ったのだ。そしてもうどうしようもなくなったのだ。こうなる日を、ただただ待つしかなかったのだ。

 私は襖(ふすま)を開け放った。

 隣部屋を覗いた瞬間、私の心臓は凍りついた。日中でもカーテンは閉め切ったまま。雨の日はなおさら薄暗く、老人が寝起きする部屋特有の加齢臭が湿っぽく満ちている。だが、布団の上に、彼がいない。布団はいつもの場所に敷いてある。汚い湯呑みと急須を置いた丸盆も枕元にある。鼻を噛んだり零れた茶を拭いたタオルがくしゃくしゃのまま抛られているのさえ、いつも通りである。しかし、布団に横たわっているはずの当人がいない。立ち上がるのさえ、困難なはずの当人が。

 部屋の四隅を見渡しても、どこにも、影も形もない。

 カーテン越しの雨音が一段と強くなったように思われた。

 出刃包丁がするりと私の右手から滑り落ち、敷居に刺さった。

 私は、私こそがその布団の上に横たわるべき人間であったことにようやく気づいた。私はふらふらと布団の上に膝を突き、身を横たえ、掛け布団を首まで被った。全身がガタガタと震えていた。私はいろんなことを思い出していた。自分はもう八十に手が届く年齢で、中年になる息子がいること。もう少し待てば、彼が職場から帰ってくること。息子は部屋に入るなり、おそらくすぐに、敷居に刺さった出刃包丁に目を留め、初めは驚くだろうが、やがてすべてを合点し、包丁を抜き取り、私の胸元に力いっぱい突き立てるだろうこと。これまで三年間も散々苦しめられてきた私から、今こそ解放されるために。

 体の震えは、一向に止まらなかった。ひどい寒気を感じていた。雨は行く先の定まらない風にひっきりなしに翻弄されていた。私は掛け布団を目元まで引き上げて被り、やっぱり全身をガタガタと震わせながら、ほとんど影としかわからない、敷居に突き刺さった出刃包丁をじっと見つめ続けた。

 (おわり)

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エレベーターの神様

2015年11月19日 | 短編

 

(吉田こういち君の独り言) 保科さんが来た。まずいな。さっき会議でぼろかすに言ったばかりなのに。エレベーター、まだ来ないかな。怒ってるだろうな、俺のこと。会議中泣きそうだったもん。それとも泣いたのかな? でもこの子が悪いんだよ。どんくさ過ぎるんだよ、やることすべてが。まだ来ないのかエレベーター。このエレベーターもどんくさいんだよな。うちの市役所はどんくさいもので満ちているな。どうしてこの子、いつも抱えきれないほどの書類を抱きしめているんだろう。そこから間違ってるんだけど。今どき両手に山盛りの書類なんて、能率の悪い仕事をしてますって白状してるようなもんじゃないか。でもまあ、ちょっと赤い顔して、一生懸命書類を抱えている姿がとっても似合うって言えば似合うんだけどな。そういうのが似合う子だよな。おいおい、エレベーターのやつ、一階で寝込んでるんじゃないのか。あ、付箋紙が落ちた。拾ってやるか。

 

 「あ、あの、あの、すみません。ありがとうございます」

 「いいえ。先ほどはどうも」

 「あ、こちらこそいろいろ、あの、ご指導ありがとうございます」

   「ご指導ね。ご指導か。ご指導ついでだけど、ちょっと荷物多すぎない?」

 「あ、これですか、すみません。でもこれ全部必要な書類なんです」

 「へえ。付箋紙も一束必要なんだ」

 

(保科かおりさんの独り言) やな人。ほんとやな人。まだ私を攻撃し足らないのね。イヤミばっかり言って、にやにや笑って。いつもイヤミ言ってにやけてるんだから。私にばっかり。私に気があるのかしら。多分そうね。自分が格好いいと思ってるから、いじめてやったほうがむしろ自分に惚れるだろうくらいに思ってるのよ。おあいにく様。確かにちょっとは格好いいかもしれないけど、心が醜いんです。心が醜い人は駄目なんです。ほんと悔しい。そりゃ私がいけないんだけど、でもあんなに言うことないじゃない。そりゃ私はまだ仕事ができませんよ。無駄な動きが多いですよ。勘違いばっかりですよ、確かに。じゃあどうすりゃいいの? 脳ミソ取り出して洗浄すりゃいいの? エレベーター遅いなあ。あ、やっと来た。

 

            砂の噛んでいる音を立ててエレベーターの厚い扉が開き、どやどやと四人の男が降りた。三人はスーツ姿で、一人はくたびれたジャンパーを着た浅黒い男である。みな、つまらぬ場所からつまらぬ場所へ移動するような表情をしている。彼らをやり過ごしてから吉田君と保科さんがエレベーターに乗りこむと、他に乗る者は誰もいなかった。エレベーターの扉は再び砂の噛む音を立てて閉じた。

 

(吉田こういち君の独り言) おいおい、保科ちゃんと二人っきりかい。まいったな。気まずいでしょ、いくらなんでもこれは。なんだかこっちまで緊張してくるな。さっきの言い過ぎのお詫びにお茶にでも誘ってみるか。案外喜んだりして。でも絶対に断るタイプだよな。

 

  「また付箋紙落ちそうだよ」

 「あ、大丈夫です。すみません」

 「ほらほら、ペンが落ちたよ」

 「あ、すみません、すみません。大丈夫です。自分で拾えます」

 「いいよ。かがまない方がいい。ほらまた付箋紙が落ちた」

 

 (保科かおりさんの独り言) 笑われてる! 笑われてるわ! 悔しい。私が間抜けなのよ。私っていつでも間抜けなんだから。コアラみたいに荷物抱えこんで。でもそんなに笑うことないじゃん。吉田さん最低。人がうろたえるのを見て喜ぶなんて、人間として最低。四階まだ? このエレベーターも最低! あれ?

 

            鉄骨を二三本折るような音を立てて、エレベーターは急停止した。溜息のような音を漏らし、電気もすべて消え、機械音が止んだ。扉が開くわけでもない。まるではるか昔から外界と隔たった空気を密かに保管してきた隔離倉庫のように、指先も見えないほどの真っ暗闇に戸惑う若い男女を納め、エレベーターは固く沈黙した。  

 

 「どう・・・どうしちゃったんでしょうか」

 「止まった」

 「壊れたんですか」

 「停電かな」

 「やだ、どうしましょう」

 「さすが市役所のエレベーターだ。人を閉じ込めておいて、アナウンスの一つもない」

 「怖い」

 「大丈夫だよ。知らないけど」

 

            沈黙。心なしか蒸し暑い。

 

 「保科さん」

 「あ、はい」

 「大丈夫だね」

 「はい。あ、やだ、いろいろ落としちゃった」

 「書類も落ちたね」

 「はい。大丈夫です。拾います」

 「今無理して拾わない方がいい。止めなさい。どうせ見えないよ。待っていれば、すぐ明かりが戻る」

 「あ、はい。でも」

 「保科さん」

          「はい」

                「ここって、監視カメラがついてるのかな」

 「え? ええっと…何にも光ってないし、ついてないんじゃないでしょうか」

 「ついてないんだ。さすが、我らが市役所のエレベーターだ」

 「はい、市役所のエレベーターですから」

 

          二人は暗闇の中でくすくすと笑い合った。

 

 (吉田こういち君の独り言) おい、今がチャンスだろ? 今しかないだろ! 完璧なシチュエーションじゃないか。抱きしめてキスしてしまえ! 保科さん怒るかなあ。怒るだろうなあ。でもすべてがどさくさに紛れてってわけでもないんだけどな、俺としては。監視カメラ、本当についてないのかなあ。

 

 (保科かおりさんの独り言) どうしよう。危険すぎないこの状況? 吉田さんと暗い密室に二人きりなんて・・・。京子ちゃんに話したら羨ましがるかも知れないけど、私は・・・私はどうしよう? もし不意に抱きしめられたりしたら! ばっかじゃない、私。私、どうかしてる。あ、もう! やだ、全部落としちゃった。ここ、監視カメラないって本当?

 

  「保科さん」

 「はい」

 「君は、君のやり方でやればいい」

 「え?」

 

 (吉田こういち君の独り言) 何言ってんだ俺?

 

  「保科さん」

 「は・・・はい」

 「全部落としたね」

 「あ、はい。見えましたか」

 「見えてないけどね。拾おう」

 「え、でも、見えません」

 「慎重に手で探れば、わかるよ」

 

    ・・・・・・・・ 

 

  「これで書類は全部かな。ええと、手を出してごらん。そう。受け取ったね」

 「あ、あ、はい。ありがとうございます」

 「それからペンと、ペンは・・・もう一つ向こうに転がったような・・・あった、ペンは全部で三本だね?」

 「あ、はい」

 「書類を抱えたまま、丸めて突き出して。そう。ここに滑らせて入れるからね。落ちないようによろしく。まだ動かないで。それと・・・あった、付箋紙だ。これで全部だろう。これもここに入れておくからね」

 「あ、あの、ほんとに、ほんとにありがとうございます」

 「うん」

 

(吉田こういち君の独り言) さあ、どうする俺?

 

(保科かおりさんの独り言) やだ・・・私・・・どうしよう? 

 

 「保科さん」

 「はい」

 

            唐突に電気がついた。がくん、と揺れたかと思うと、エレベーターが一段登った。中にいた二人はよろめいたが、保科さんも今度は何一つ落とさなかった。ちん、とまるで何事もなかったかのように鈴の音が鳴り、扉が開いた。心配というよりは好奇の目を光らせたスーツ姿の男女たちが十人ほども、身を乗り出すようにして、扉の向こうに寄り集まっていた。

          

 「助かったね」

 「・・・助かりました」

 「お疲れさま」

 「お疲れさまです」

 

         この話はここで終わる。終わるのだから仕方ない。エレベーターを出てきた二人に浴びせられた質問や野次、冷やかしの数々は、ここに記すほどのものではない。(おわり)

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小編:  束縛の人

2015年10月23日 | 短編


 その人は、ぼくにとって特別な人だった。
 さらりとした黒髪がいつもえくぼにかかっていた。しなやかに伸びた四肢でぼくをまるごと包みこみ、しかもちっともぼくを束縛しなかった。
 まるで、天女の羽衣を縫ってできた柔らかいクッションのような、そんな人だった。
 大学一年の夏から足かけ六年間にわたる交際中、ぼくは一度だけ浮気をした。ゼミの後輩の女の子で、ぎらぎらと挑発的な目をした子だった。隠さなくてはいけないのに、なんだか自慢したい気持ちになり、すぐわかるような嘘をついた。
 その人はぼくの背中をたたいて泣きくずれた。
 一週間口をきいてくれなかった。彼女もぼくも、少しだけやつれた。ある晩おそく、友だちと飲んで酔いつぶれてから彼女のアパートに押しかけ、床に倒れこんだぼくを、彼女はやさしく抱きしめてくれた。
 それからぼくらはまた、恋人同士としてすごし始めた。 
 やがて二人とも大学を卒業した。彼女は保育士になり、ぼくはフリーターとして彼女のアパートに転がりこんだ。何となく同棲生活が始まった。まともな就職先もさがさずにふらふらしているぼくを彼女がなじり、それがもとでけんかになった。ぼくがそんなに不満なら別れると言い出し、彼女のアパートを飛び出した。三日間、友だちの家を渡り歩いてから、彼女のアパートにもどった。彼女はさびしい笑顔でぼくを迎え入れてくれた。
 いつも、ぼくが彼女を困らせるたび、彼女はさびしい笑顔でゆるしてくれた。
 ああ、ぼくの心には意地悪い悪魔が棲みついていたのだ。彼女のうれしいときの笑顔より、さびしいときの笑顔を、どこかぼくは見たい気がした。
 ぼくはあの人をボロボロにした。柔らかいクッションをそうするように。
 ぼくはことあるごとにあの人を責めた。「独りよがりだ」と言っては責め、「心が弱い」と言っては責めた。彼女を責め続けることで、ぼくは自分が責められることを未然に防いだ。
 それでもあの人はあたたかくぼくを包み続け、
 十年前の春、ぼくを捨てた。
 
 あれから十年。
 就職先も見つけ、サラリーマンとなり、ぼくは大都会でひとり、なんとか暮らしている。収入は決して多くはないけれど、週に一度は昔の友だちと飲みにいっている。趣味でバンド演奏もふた月に一度続けている。去年の十一月に妹が結婚した。姪の写真も見せてもらった。
 ぼくは、あの人の残影に苦しめられつづけている。
 これはかんぺきな復讐だ。もちろん、ぼくがそう思っているだけだ。
 寝ても覚めても彼女のことが頭から離れない。あれからいくつかの出会いがあったけど、すべて思いきれずにふいにしてきた。
 枯葉のしきつめられた公園のベンチに座って頭を抱えこみ、声を上げて泣いたこともあった。
 夜ふけになるとあの人のアパートのところまで電車を乗りついで行き、窓明かりを見上げながら何時間でもたたずんだ。
 あの人は美しい人だったということを、本当に美しい人だったということを、別れてからようやく理解した。自分の肉体をバラバラに引きちぎりたくなるほどに理解した。
 すべてぼくが悪かった。
 それをあの人に伝えたくても、もうそのすべもない。 
 あれから十年。
 いったいいつになったら、ぼくはゆるしてもらえるのだろうか。
 いつまで待てば、
 思い出という
 この束縛から解き放たれるのだろうか。
 

 (壁一枚隔てた隣の部屋で今、子どもが泣いている。ずっと泣いている。よく泣く子だ。子どもは失うことを恐れて泣く。大人は、失ったものは取りもどせないと知って泣く。そんなことも、この歳になって初めてわかった。まったく、この歳になって初めて、そんなことがわかったのだ。)


 《終わり》
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極小編  『腕』

2014年01月08日 | 短編
*   *   *


 女の腕ばかりを男は見ていた。
 「エリちゃん、なんか歌おうか」
 エリちゃんは歯をむき出しにして笑い転げた。男の方など見てもいなかった。男のとなりの松田さんが卑猥なことを彼女に言って、それで笑い転げたのだ。
 「なあ。なんか一緒に歌おうか」
 「え? シノさん歌ってよ。自分の好きなの歌えばいいじゃん」
 「一緒に歌おうって言ってるんだ」
 シノさんの声は掻き消された。松田さんがまたいっそう卑猥な駄洒落を言ったので、エリちゃんはそっちを向いてひーひー笑って、おまけにママさんともう一人の客まで吹き出し、エリちゃんはついに松田さんをぶつ真似までした。
 シンさんは両手でグラスを握り締めた。
 「シンさん歌ってよ。シンさんの曲、難しくてエリ歌えないもの」
 「白い腕だな」
 「え? あたし? か弱い腕でしょ。やだ、もう、松田さんこぼれるから止めて!」
 「かぶりつきたいな」
 エリちゃんはやっぱり松田さんの方ばかり気になっている。
 「松田さん、馬鹿言って! 自分のが濡れてるんじゃない?」
 突然、スナックは地鳴りのような喧噪に包まれた。誰もが青ざめて立ちすくんだ。シンさんがエリちゃんの腕にかぶりついたのだ。エリちゃんが悲鳴を上げ、松田さんやら徳山さんやらがシンさんを羽交い締めにして引き離しにかかった。
 「離せこら!」
 行動の自由を奪われたシンさんは、奪った相手である松田さんや徳山さんに当たり散らした。
 「離せと言ってるだろうこら!」
 松田さんも徳山さんも、顔を赤くして説教にかかった。
 「あんたが、おい、あんたがエリちゃんの腕を噛むからだろ、自分のしたことわかってんのか?」
 「エリちゃん見てみろ、ほら、エリちゃん泣いてるだろうが。なあ、自分のしたことをちゃんと見ろ!」
 「うるせえ離せこら!」
 シンさんはエリちゃん以上にぼろぼろ涙をこぼしていた。猿のように顔をしわくちゃにして泣いていた。もはや誰に対してというのでもなく、ただただ泣きたくて泣いていることは、そのスナックにいる誰もがひそかに理解していた。
 「離せこら! 離せと言ってるだろうが! 畜生離せよこら! ぶっ殺すぞこら!」
 「見ろ、血が、エリちゃん、血が出てる!」
 「ぶっ殺せこら!」

*   *   *


 誰も見ない置き時計が、食器棚の片隅で、そろそろ、今晩の閉店時刻を告げていた。(終) 

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

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にくしみ

2013年04月28日 | 短編
 「落ち着かないんだ」
 背を丸め、顎を突き出し、貧乏ゆすりをしながら、目はやたらぎろぎろとして正面に座る私を見つめていた。その姿は、確かに落ち着きがなかった。
 「何をしても落ち着かないんだ」
 そんな言葉さえどもり気味である。声に力はなく、性急で、哀れっぽかった。この世で一番嫌いなものは自分自身だと白状しているようなものであった。
 私はいらいらした。こういう相談を持ちかけてくる人間は、たいてい、全ての原因を自分に持っている。そのくせ、決まったように、全てが手遅れになってから口に出してくるのだ。
 「ねえ、どうしたらいいと思う?」
 「知ったことか。もう遅い。自分で解決しろ」
 私は精いっぱいの皮肉を込めて言い返してやった。
 はい、本番五分前です、という声が私の後ろから掛った。
 私は溜め息をつき、意を決し、鏡の前から立ち上がった。
 
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松本ダンス 第三話『エオンタ』前編

2012年01月18日 | 短編
 松本平の短い夏は

 アルプスの峰と烏城

 堀に流せぬ涙たたえて

 エオンタの夜にJazzを聴く


 松本城は黒い城である。別名烏城と呼ばれる。漆塗りの外壁が青空と穂高連峰によく映える。松本城はまた、近い城である。ことに内堀は庭池ほどに足元に近い。水面が初夏の日差しを受けてきらめく。

 天気は良い。観光客が気紛れに投げ入れる鯉の餌を失敬しようと水に漂うカルガモと、藤棚のベンチに腰掛けてそのカルガモたちをつくねんと眺める観光客とは、だいたい同じ心持ちである。

 「こちら、拝借していいだか」

 白い山高帽を被る老紳士が、ベンチに座る背のかがんだ皺くちゃの老婆に声をかけた。

 「はあ、どうぞ。空いてるずら」

 老婆はしわがれ声で、顎と膝がくっつくほどにうなづく。

 老紳士は帽子を持ち上げて会釈し、杖に両手を重ねて腰かけた。

 観光客が絶え間なく二人の前を行き交う。カルガモがガアガアと鳴く。

 「人の出が多いですな」と老紳士。

 「へえ」と老婆。

 沈黙。

 老紳士はちらと老婆を見てから、帽子のつばに手を掛ける。

 「陽気のせいですかな」

 老婆は返事をする代わりに、背をひどく曲げて、くっ、くっ、と笑った。

 「何がおかしいですか」

 「あんた、気づいてなさるかの」

 老いた男の頬に隠しきれない緊張が走る。「はて、何に」

 「何にて、ほれ、ぞろぞろ来とる今日の観光客の中にゃ、ちらほらと私服警官が混じってるで」

 「ほお、それはまた。何か事件でも起こりましたか」

 老婆は愉快そうに目を細めた。その目には不敵な光が宿っている。

 「知らんはずないずら。ほれ、おとといの晩、裏町の路上でやくざの親玉が撃たれただ」

 「そんなことが。ふむ。いえ、本当に存じませんでしたな」

 「またまた。おっきなニュースずら。警察も組のもんも、殺った奴を逃すめえとピリピリしとる。だども、へへ、お城を見に来た観光客を警備してもしょうがねえずら。第一、私服ポリ公さ入れてもバレバレだわ」

 「いや・・・私にはまったく気づきませんな。その私服警官とやらがどこにいるのか。よくお気づきで・・・」

 「そりゃあんた」老婆は可笑しくてたまらない、という風に、筋張った手でベンチの手すりをぺし、ぺし、と叩いた。目は笑っていない。老紳士の方に身を乗り出し、ひどく声を落として囁く。「せめてあんたくらいに変装がうまけりゃ、あたしもうっかり気づかねえかも知れねえだ」

 微風が通り抜けた。カルガモの羽ばたきと観光客のざわめきが、二人の長い沈黙の間を埋めた。

 顔をこわばらせていた老紳士は、ふっ、と微笑んで、白い帽子を脱いだ。額が汗ばんでいる。彼も小声で、「さすがに、平成の二十一面相と呼ばれるハセ松さんにはすっかりお見通しでしたか。こちらとしては、敬意を表すつもりで精一杯装ってきたつもりでしたが」

 「なあに、なあに」老婆はしなびた手を伸ばして彼の膝に置いた。「おたくこそご立派なもんだよ。あたしの変装を見破って近づいてくるなんざ、なかなか大した眼力だ。ここいらの警察にゃ、確かそんな凄腕のはいなかったはずだけどね」

 「私立探偵です」

 「ほう。私立探偵。そりゃほっとした。だったら、組のヒットマンでもないね。まあ、そうじゃないとは見当ついたけどね。私立探偵。ふうん。名前は」

 「JK」

 「ふうん。目的は」

 はいチーズ、と言って写真を撮る家族をやり過ごしてから、老紳士は小声で答えた。

 「目的。目的なんて、特別ありません。警察に依頼された仕事でもありません。組に雇われたわけでも・・・うむ・・・正確に言うと実は、あなたが一昨日うら町で撃った組長の舟橋竜雄に、生前、彼の身辺の護衛を依頼されたことがあるんです。でもまあ、丁重にお断わりしました。裏社会が舞台となりゃ、とてもとても、私みたいに手ぶらじゃお勤めしきれませんので。だから、その筋で動いているわけでもないんです。ただ」

 彼は杖を突く位置をわずかに動かした。

 「ただ、どんな肩書きの人間であれ、一度でも私に助けを求めてきた人物が、実際に殺されたとなると、何となく寝覚めが悪い。たとえその依頼を引き受けてなくても。いや、引き受けなかったから、なおさらかな。せめて、殺った当の張本人に、殺った動機だけでも訊きたくなったと、それだけです」

 「なるほど」

 遠い過去に忘れ去ったものを思い出そうとでもするかのように、老婆はじっと内堀のきらめきを見つめた。この瞬間は誰もが水面を見つめていたかのように、それは美しかった。

 彼女は再び小声で話し始めたが、それは八十の老婆の掠れ声から、五十代の男の押し殺した低音に変わっていた。

 「大した話じゃない。二十年ばかし前、俺は松本(ここ)に流れ着いた。首までサラ金に漬かってな。けちな盗みでもして捕まるか、穏当に自殺で済ますかして、このくだらねえ人生を終えるつもりだった。そこをあの男に拾われた。偶然だった。救われたと、思った。杯を酌み交わし、以来二十年、あの男のために働いてきた。結局、自殺以外は何でもやった感じだ。殺しもおととい済ませたところだしな。

 あの男は───あの男は、ケダモノだった。己が少し足を伸ばしてくつろぎたいってだけで、親族をセメント詰めにするような男だ。そんなことどうでもいい。あの男は俺の女房に手を出しやがった。俺が言うのも何だが、女房は、いい女でね。やつは俺を香港に旅立たせておいて、その留守を狙いやがった。強姦だ。わかるかい。強姦だよ。それも杯を交わした子分の女房を。いくら極道の世界でも、そんな無法は許されねえよ。許されねえ。あいつの想定外だったことは、俺がやつの罠にはまらず香港から生きて帰ってきたことと、女房が心底俺に惚れこんでいたことだ。女房は飛び降り自殺した。俺が日本に戻る二日前に。・・・まあ、それくらいのことだ」

 「・・・・」

 観光地ならではの陽気なざわめきが蘇り、老いたなりをした二人に降り注いだ。

 「俺を捕まえる気かね」

 老紳士を装う男はうつむいた。

 「頼まれた仕事ではありません」

 「そうかい。そうかい。じゃ」

 安堵感をにじませて、老婆特有のしわがれた甲高い声が戻ってきた。

 「あたしゃちょっくら、お城に登ってくるで。おたくはどうする」

 JKは静かに首を横に振った。

 「そうかい。じゃあここでお別れだ。が、お前さん。最後に一つ聞かせとくれ。どうして、あたしがお城に来ると思ったかい」

 老紳士として、JKは、老いを重ねた穏やかな声でそれに答えた。

 「さあ・・・。どうですかな。町中がこれだけ騒いでるときだから、案外、こういう観光地の方が心休まるかなあと・・・」

 「へへ。なるほどね」

 「それに」

 「それに?」

 「よそ者は松本(ここ)を去る前に、よそ者だからこそ、もう一度だけこの城を見ておきたいと・・・とくに、永遠に戻ってこない気のするときは・・・ええと、私自身がよそ者だから、そんな風に想像するんです」

 満面が皺になるほどにたっと笑って、老婆はよろよろと立ちあがった。「お前さん、いい仕事するよ」

 そう言い残して、老婆は曲がった腰で、朱塗りの埋み(うずみ)橋の方へゆっくりと去っていった。

 日差しは強い。

 鯉の太り具合を検分していた観光客から、ひときわ高い歓声が上がった。

 老紳士は山高帽を目深にかぶり、しばらくの間、じっと身動きをしなかった。よほど近くまで寄らなければ、彼が奥歯を噛みしめて煩悶している様に気づくのは、難しかったろう。

 彼は目を閉じた。

(つづく)
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