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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 148

2009年06月17日 | 連続物語
 「人一人死ぬと、見慣れた風景もまるで変わって見えるのね」
 「何ですか奥様」
 「何でも」
 大仁田は女主人の呟きを聞き取るべく自らもしゃがみこんだ。「何でございましょう」
 女二人が庭に膝を抱えていると、まるで鶏である。飼う人がいなくなっても、鶏は庭に出て草をついばむ。
 「何でもないけどさ」美咲は思い出を点検するかのようにあちらこちらを眺めている。首が疲れたのか、俯いて次の雑草に手をかけた。
 「でもね、この家を買ったころからなのよ。宇津木との夫婦関係がぎくしゃくしはじめたのは」
 「私が出入りさせていただくようになった前のことでございますね」
 「そうね」
 くたびれた苦笑い。「皮肉よね。家を買って、いよいよ家族の場所を確保したら、家族の絆が解けていくなんて」
 大仁田はげんこつを三重顎に当てて唸った。
 「家の種類によりけりでしょうね」と不明なことを言う。
 「あたくしどものアパートなんて狭過ぎて駄目でございます。主人と口喧嘩が始まるでしょ、すると声が壁に反響して、すぐエスカレートしちゃうんです。狭過ぎて何言い合ってるかわかんなくなるんですから。こちらのお宅は逆に広過ぎるんでございますよ」
 「そお」
 美咲は雑草を手にしたまま屋敷を振り返った。
 「そうでございます。広過ぎるんでございますよ。今だから言うんですが、この家の中にいると、ちょっと寂しい感じがしたもんです」
 「そりゃ、会話が少なかったもの」
 「ええ。やっぱり旦那様があんまり・・・・」
 「私、ここを出たかった」
 美咲は大仁田の言葉など待っていられない。熱に浮かされたように饒舌になっている。
 「ずっとね。ずっとこの家を出たかった。どうしてだろうね。ずっと飛び出したかった。逃げ出したかった。狭い所に閉じ込められている気がしたの。こんなに広い家なのに。ここに引っ越してきてすぐに、この家の何もかもが嫌になっちゃった。古い台所やお手洗いとか、床の間が暗いのとか、重そうな屋根とか、廊下を歩くとき、ぎいっと鳴るのとか。もう何でもよ。そう・・・そういうマイナスの気持ちが起こるのは、宇津木のせいだとずっと思っていたわ。彼が暴君で我が儘で、私を嫌っているからと。私も、彼を嫌っているからと。でもね、彼が死んでもやっぱりこの家は何だか高圧的な気配がするのよ。嫌な感じが続いているの。この家の主人が死んでも、この家はぜんぜん変わらなかったの。それでわかったわ。家庭不和の原因は、宇津木じゃなくてこの建物にあったんだって。あの松の木と一緒。この敷地にあるものは、何かを感じさせるのよ。なんて言うか、この家には意志があるのよ」

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険 149

2009年06月17日 | 連続物語
 大仁田は家政婦として許される最大限のしかめ面をして女主人の顔を覗き込んだ。
 「意志でございますか」
 「ええ。笑われるかもしれないけど」美咲はそう言って自ら浅い笑みを浮かべた。「でもね、近頃は、何でもこの家のせいに思えてくるの。宇津木すら被害者で、彼を殺したのもこの家なんじゃないかとすら思うの」
 何を言い出すのか。美咲はいよいよ乱心したらしい。
 「奥様」
 狼狽した大仁田は思わず女主人の二の腕に触れた。
 「奥様、ご主人を殺したのは笛森志穂でしょう」
 風の音が鳴った。美咲の表情は極度に強張っている。発言した大仁田も唾を呑み込む。
 どちらからということもなく、二人は立ち上がった。
 「これ」
 低い声で美咲が制す。
 「憶測でものを言うもんじゃありません」
 「でも奥様。警察は彼女をつけ回っているんでしょう。この前来た二人組の警官だって笛森志穂のことばっかり訊いてきたじゃないですか」
 「確かな証拠がないんだから」
 確かな証拠がないから犯人ではないと言いたいのか、それとも、確かな証拠がないから、犯人であるにもかかわらず捕まえられないと言いたいのか。美咲のこの発言からは真意を汲み難い。
 大仁田は探偵気取りで腕を組む。
 「私が思うに、捕まるのは時間の問題ですよ」
 「私たちの知ったことじゃないわ」
 「でも奥様。奥様。私たちはあの日、笛森志穂を居間に入れてます」
 美咲の細い目が一段と吊り上った。
 「それがどうしたの」

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険 150

2009年06月17日 | 連続物語
 「どうしたのって、そんな奥様、何でございます。何だか私たちまで疑われるんじゃないかと。ええ。共犯で」
 いい加減にして、とつぶやいたように思えた。とにかく聞き取れないほどの早口で、美咲は短い言葉を吐き捨てると、大仁田に背を向けて首を振り、玄関口に向かった。
 「奥様」情けない声の大仁田が追いすがる。
 「どうして私が疑われなきゃいけないの」奥様の怒りは玄関にぶつけられる。
 「もちろん何もしてませんでございます」
 「何もしてないわよ。何も悪いことを私はしてないのよ」
憤りの狐目は大仁田を睨んだ。
 「私がしたことって何? 私は、あの宇津木の死んだ愛人の娘を部屋に入れたわ。それのどこがいけないの?」
 「奥様」
 大仁田は冷汗をかくほど慌てている。誰かに聞こえやしないかと恐れているのだ。だがすでに庭の松の木にははっきり聞こえてしまった。あの宇津木の死んだ愛人の娘。やはり美咲は全てを知っていたのだ。何もかも承知していたのだ。雪音の存在。雪音と私との、包み隠されていたはずの、そして包み隠されたまま終わったはずの関係────私は寒さに震えはしなかったか?


(お、久しぶりです。まだつづく)

無計画な死をめぐる冒険 151

2009年06月17日 | 連続物語
 やすりをかけたような痛切な声が止まない。
 「夫に浮気されて、浮気の相手の女は捨てられて、捨てられてから交通事故で死んじゃって、死んだ女の娘が復讐するために家までやってきて、夫に毒を盛った。ひどい話よ。ひどい話。でも、でも私はどこが悪いの? 私が何をしたって言うの? 確かにあの娘を中に入れたわ。あの娘が何を企んでいるかなんてわからなかった。何か企んでいるような気もした。そんなことわかるわけないじゃない。何か・・・・そうよ、何か期待していたかも。何か、けど、何か期待したらそれだけで罪になるの?」
 「奥様、そんなことはございません。どうかお静かに」
 「毎晩、夢に宇津木が現れるわ」
 しゃっくりが一つ漏れ、急に口調は弱々しくなった。
 「夢で私を責めるの」
 夢? 私は奴の夢枕なぞに立っていない。してみると、概して悪夢というのはやはり本人の幻想か。
 「私が笛森志穂を家の中に招き入れたことを責めるの。わかっていたんだろうって。何が起こるかはわかっていたんだろうって。あの子のぎらぎらした目の光は見えていたはずだって。そんなもの見えていたわ」
 「奥様」
 「見えていたわ。でも招き入れたの。それだけで罪なの?」
 「そんなことございません」
 「こんな風に苛まれるくらいなら、いっそ自分で手を」
 「奥様!」
 堪らず大仁田が美咲に飛びついて制した。
 美咲は泣いていた。
 泣きながら、私の妻は再びしゃがみこんだ。嘔吐するように彼女は泣いた。冬枯れの日の忌中の家に、それはいかにも惨めな光景であった。

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険 152

2009年06月17日 | 連続物語
 己が饒舌に裁かれるがよい、アウグスティヌス。一人の惨めな女がここに、自分の罪を告白した。やはり彼女は直接手を下していないとはいえ、幇助罪に問われてしかるべきほどのやましさはあったのだ。この女は、黙認した。笛森志穂が私に殺意を抱いていることを直感しながら、黙って彼女を居間に招き入れた。その無責任な手助けが、夫の身にいかなる危険をもたらすかは、奴自身が一番知っていたはずであろうに! だからいまだ罪の意識に苛まれるのだ。だから悪夢にうなされるのだ。
 だがこの性悪女は、自らに向けてと同時に、この私に裁きの鉄槌を振り下ろした。私は、やはり怨恨の壁に四方を囲まれていたのだ。嫌悪の焼けぼっくいで全身を貫かれていたのだ。私は四十九まで生きた。しかし四十九まで殺されずに済んだという、それは僥倖に過ぎなかった! 殺意は毎朝配達される牛乳瓶のようにつねに身近にあった。私は実の妻にまで、殺したいと思われていた。世界で一番惨めな人間とは他ならぬ私のことではなかったのか。
 私はいつ誰に殺されてもおかしくなかった。ただ、私の存在を毛嫌いする、というそれだけの動機で。それを今思い知らされたのだ。これほどの過酷な裁きが他にあろうか?



(つづく。まだ?)

無計画な死をめぐる冒険 153 

2009年06月17日 | 連続物語
 かつて私の妻だった女は家政婦に抱きかかえられて家の中に消えた。引き戸の閉まる音が、ひび割れた私の心に反響した。
 落ちないはずの松葉が落ちた。
 我が身よ、もはや耐えるなかれ! 汝が存在はあまりにも哀れである。汝が生きてきた理由は何か。死んでなお生きてきた虚しさを見せつけられるのはなぜか。逃げ場もなく佇むのはなぜか。せめて涙があれば、美咲のように泣けよう。しかし亡霊であり枯れ木である私には、それすら、その湿潤なる最後の自己救済手段すら許されていないのだ。なるほど、これが地獄であるか。

 日が西に傾く。影が伸びる。影が陰から風を誘う。
 門の外で車の停まる音がした。先端部分がのぞいて見える。どうやらタクシーである。ドアが開く音。男女の言い合う声が聞こえる。
 「やっぱり降ります」胸を騒がす、可憐な声。「本当かい。き、危険だよ」こちらは耳障りな小心者の声。「降りてみたいんです」「参ったな。運転手さん、ちょっ、ちょっと待ってて。すぐだから」
 間違いない。双方とも聞き覚えのある声である。だが、なぜその二人が? 私は身を固くした。もっとも、樹木の身の上、これ以上身を固くすることなど出来ないのだが。

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険 154

2009年06月17日 | 連続物語
 彼らが門に姿を現せた。まずは、笛森志穂! 私を殺害した娘。憎らしいほどに愛らしい娘。老松となって以来、どれほど彼女の出現を待ち望んだことか。そうだ、この顔、この背格好。灯籠のように静かなこの気配。暗褐色のコートにかたく包み隠しているのは、汝の身体か、それとも汝の計り知れぬ心か? 人形のような白い顔に、意志はあっても表情はない。寒風を浴びてわずかに薄紅が頬を染める。うなじまでの黒髪が柔らかくそよぐ。笛森雪音に生き写しの娘。
 後に続いて、人参皮むき器のような顔が覗いた。藤岡である。隣に並べれば、食べる料理も飲む酒も不味くする不細工な顔。一緒にいるとどうしても悪態をつきたくなってしまう面構え。私は背中に鈍器を受けたような衝撃を覚えた。でもなぜだ。なぜ藤岡が志穂と一緒にいるのだ。
 藤岡はどこの大学でも必ずいる、才能のない万年助教授である。大いなる誤解であるが、彼は、私のせいで教授になれないと思い込んでいた。必然、私を怨んでいた。私が死んでようやく彼も、自分が昇進できないのは私のせいでも、誰のせいでもなく、己が無能のせいだと気がついたことであろう。もちろん奴は今後とも埃を被った助教授であり続けるだろう。その藤岡が今、周りをはばかりながら志穂のうしろについてくる。動揺している。なるべく早く引き返したいという表情である。
 一方で、笛森志穂は決然としている。一つ一つの造作を確かめるように、ゆっくりと屋敷を見渡す。ここは因縁の場所のはずだ。半年前、私の葬儀に訪れ、私を見て悲鳴を上げて逃げ出した場所である。母親譲りの二重のくっきりした、罪深き麗しき眼よ。そちは何を思いながら犯行現場をねめ回すのか?
 人参皮むき器は気が気でない。

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険  155

2009年06月17日 | 連続物語
 「こんなところに突っ立っているのを見られたら、それこそ疑われちゃうよ」
 白い吐息が一つ、女の口から流れた。
 「どうせもうすぐ捕まるんです」
 「そん、そんな、そんなことはない」
 「でも警察はずっと私を付け狙ってるし。もう、何だか疲れました」
 「笛森君、だから私を信用してくれないかなあ」
 藤岡は志穂の背後に寄り添う。
 「だからさ、私の研究室に来て君が尋ねたことは、私しか知らない事実なわけだよ。私しか。私の出方次第で・・・も、もちろん、もちろん君は何一つ、警察に疑われるようなことは私に尋ねていない。いない。いないけどさ」
 女の自分を見る目に、藤岡は慌てて訂正を入れた。「だけど、ほら、私の所にもすでにけ、警察が来ている。二月四日の君の行動を調べに。わかるだろう? ね? 私は何とでも答えられるわけだ。それなのに、私は必死で、必死で君をかばおうとしているんだよ。それもそろそろ限界に近い。ね、私の言うことを聞きなさい。だからもう行こう」
 笛森志穂は、弱みを握られている人間特有の、憎々しげだが力ない視線を男に投げかけた。
 すぐに視線を屋敷に戻す。
 「犯罪者は、犯行現場にもう一度戻ってみたくなるんですってね」
 「笛森君」
 「私が警察に自首したら、藤岡さんも捕まるんでしょう?」
 「な、な、な、何を言うんだ」藤岡の狼狽ぶりは甚だしい。「私は君に、宇津木教授の住まいを教えただけじゃないか」
 「教授が在宅の日と、不在の日、それに、学生のふりをしても気づかれないことを教えてくださいました」
 「ちょっ、ちょっと笛森君。いい加減にしたまえ。君はひ、人の親切を、あだで返すつもりかい」
 女の白い息は、ため息である。
 「安心してください。私だけです」
 遠い記憶を見つめるように、二重瞼は屋敷を見つめた。
 「私だけです。手を下したのは」



(こちらはこちらでつづく)

無計画な死をめぐる冒険  156

2009年06月17日 | 連続物語
 長いクラクションが冷え切った街の空気を切り裂いた。笛森志穂は決然として唇をかむ。その目は泣き出しそうな潤みを帯びている。頬の筋肉がかすかに震えている。隣で呆然と口を空ける藤岡などまるで眼中にない。
 「私、何がしたかったんだろうって思うんです。あの男が憎かった。お母さんの人生をぼろぼろにして、お母さんを死に至らしめて────でもそれって、私の勝手な思い込みですよね。お母さんは本当に、ただの事故で死んだのかも知れない。自分から飛び込んでなんかいないのかも。どっちにしても、あの男には関係ないことよ。お母さんは、お母さんはあの男に惚れて、不倫とわかっていながら、それでも引き返せずにいて、別れて、不幸になって・・・・自業自得じゃない。わからない。でも少なくとも、娘である私に、あの男を裁く権利なんてなかった。いや、そうじゃなくて────そうじゃない。ほんとうに悔しいのは、私があんなことしたせいで、あの男が寿命より早く死んだとしても、あの男は反省なんか全然、全然しなかったってこと。私たちの親子の悲しみには何も気づかずに死んだってこと。あの男は人の痛みなんてわからない。だから死んでも、自分が死んだ理由なんてわかりっこない。わかりっこないから、呪って出るのよ。じゃあ私がしたことって何? 夜眠れなくなるほど苦しんでまで、私がしたことって何?」
 泣き叫ぶような言葉であった。皮の手袋をはめた両のこぶしが見えない何かに対し、抵抗を示すように突き出され、震えていた。
 笛森志穂よ、気づけ。私はここにいる。志穂よ、志穂よ。もう一度私に対して言ってみるがいい。私は、人の痛みのわからない男なのか?
 生前一度も会っていないお前にまで罵倒される私は、一体何なのだ?
 絶望と憤怒と、少し遅れて哄笑が、同時に私の中に湧き起こった。
 そうだ。そうだ。私は一木の老松である。人の痛みなどわかるはずがない。愛しき故人の、美しき娘よ。私をもっといたぶるがよい。嫌うがよい。私はお前によってどんなに心傷ついても、木であるがゆえに膝を屈することさえできないのだ。
 つねに、つねに。憤死するずっと前から、いつだって、私は役立たずの古木のようなものであった。人間的なことは何一つできなかった。誰に愛されるすべもなかった。
 そのとき玄関の引き戸が開いた。
 美咲が、戸口に立っていた。

(つづく)

無計画な死をめぐる冒険 157 

2009年06月10日 | 連続物語
             第六章
 

 息遣いの音が聞こえる。美咲のものである。
 私を殺害した女と、夫を殺害された女が見つめ合う。いや。私を殺害した女と、その殺害に加担したと思われる女が。私を憎み、その一点で繋がってしまった二人の女が、その宿縁の太さに慄然として見つめ合う。
 日は没する前に薄雲に隠れた。つむじ風が起こり、止む。 
 美咲が口を開いた。
 「何の御用」
 砥石で擦ったようなかすれ声である。
 志穂は答えを返せない。まさか犯行現場に舞い戻りたくなったからとは言えない。しかしそう気取られてもおかしくない沈黙である。万事休すである。
 それでも、彼女は大きな目で美咲を見つめ返す。すべてを諦めつつある女は動揺しない。口をもぐもぐさせているのは藤岡ばかりである。
 美咲の背後に人影が現れた。「奥様、ま、奥様!」と耳障りな声でささやきかける。大仁田である。大仁田もまた、うろたえている。美咲は振り向きもしない。
 見つめ合う女が二人。うろたえる取り巻きが双方に一人ずつ。
 四者が揃った。

(つづく)