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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

女人。サンプルE

2005年01月31日 | 習作:市民
 三代目中村雁治郎扮する唐木政右衛門が白い筒紙で、主君の真剣をかわす。何度もかわす。最後には主君の動きを完全に封じ込める形で剣を受け止める。雁治郎が見得を切ったところで、その女(ひと)は私の隣に現れた。
 私の驚いたことに、彼女は和服だった。しかも晴れ着ではなく、昔の人がそのまま普段着で着ていそうな一重であった。柿色に雲が棚引いたような細い筋が何本も入った柄である。丁寧に色褪せていて、白い肌が透けて見えそうである。それは古風な顔立ちの彼女にとても似合っていた。化粧気のないところがいいと思った。虫除けのかすかな名残と木綿生地の香ばしいような匂いと、女性そのものの持つ甘い香りが混ざり合って、肘の触れ合う距離に隣り合う私の鼻腔をくすぐった。
 ───首尾よう本望。
 舞台では、機嫌を直した主君が快活に、唐木政右衛門の出立を励ましていた。私は舞台に向き直った。体の芯がむず痒いように、じん、と温かくなるのを感じた。私はいよいよ舞台に目を凝らした。
 和服姿の彼女も舞台に目を向けたまま、小さく頭を下げた。
 「遅れて申し訳ありません」
 「いえ。初めまして。**です」
 「初めまして。**と申します」
 私と彼女をこういう形で引き合わした尾形老は、彼女の向こう側の席で、舞台広告のチラシを手に丸めて口をもぐもぐさせている。
 「いい所を見逃しちゃったみたいですね」女は短い髪に手を入れて、私に向かってささやいた。
 私は一呼吸置いた。「ええ。なかなかです」
 女はくすりと微笑み、それから手にしていた緑茶のペットボトルを小さな唇に当てた。
 
 舞台で拍子木が鳴った。


 
 
 
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女人。サンプルD

2004年12月16日 | 習作:市民
 後年コアラの絵を見たときに、ああ、これが彼女の目だ、と思った。彼女は草食動物のような黒目がちの目をしていたのだ。可愛い目をしばたたかせて、丸いあごに手を当て、ううん、と考え込みながら話すのが、何とも好印象だった。私との会話を大事にしてくれている、と私は一人合点した。実際には、いついかなるときでも、いかなる相手に対しても、彼女は「ううん」と考え込みながら話していたのだが。性急な人をじらす子であった。はっきりとものを言わないので、勘ぐりの強い人には不正直だと思われた。私はしかし、言葉を選びながら宙を見つめる漆黒の瞳の奥にあるものを、信用した。

 「誰かを好きになるだけじゃ、ううん、どうかな、幸せにはなれないと思いますよ」
 私は苦笑いしながらコーヒーに口をつけた。内心少し傷ついたのだ。誰かを好きになる人は幸せだ、と私が言った直後のことだった。
 「それは幸せの観点が違うよ」と私は言い返した。「幸せの観点が違う。いや、ぼくの言っているのはだね・・・ぼくの言いたいのは、誰も好きになれないよりは、誰かを好きになった方が、人生は面白い、と、この、面白い、という意味で、幸せだと言ったんだよ。うん。もちろん、一方的に好きになるだけじゃ幸せはつかめないさ」
 「ううん」
 彼女はコアラの黒目を左だけ少しゆがめた。花園に吹くほんのかすかなそよ風のようで、私は彼女の悩める表情を見るのがとても好きだった。
 「どうなんでしょう。そういう意味でもないんだけど」
 「そういう意味じゃないって?」
 「いえ、その・・・・。幸せになるには、好きになる、ってだけじゃ足らないような気がするんです」
 「ほう」
 私は大袈裟に相槌を打った。「足らないって、何が?」
 「ううん。わかんないです」
 さらにしばらく考え込んでから、彼女は思考を諦めたように顔を上げて、私に向かって微笑んだ。「□□さんは、誰も女の人を好きになれないんですか」
 いや、ちがう。そう答えようとして、私はとっさの言葉に逡巡した。私は沈黙した。彼女に感染されたように、うーん、と唸って頭を抱えた。
 そのとき私は気づいたのだ。まったく偶然に。私は誰も好きになれないのではなく、現にそのとき目の前にいた彼女に強く心を惹かれていたにも関わらず、私は、まるで心すさんだ殺人鬼のように、好き、という言葉を心の辞書から失っていたのだと。私はいつの頃からか、好きなものを好きであると言えない人間になっていたのだと。言えないのではなく、言わない人間になっていたのだと。私は、誰かを好きであると言えるための努力すら怠ってしまっていたのだと。彼女がそういう意味ではない、と言っていたことも、おそらくこういう意味のことなんだろう、と。
 私は有袋類のつぶらな瞳が注ぎかける好奇の視線を前にして、苦笑いしながら戸惑うばかりであった。

 あれから三年が経った。彼女は職場が変わり遠くに行ってしまった。彼女の黒い瞳を見返しながら気づいた自分なりの結論は、不幸にも、いまだ変わらずにある。
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女人。サンプルC

2004年11月05日 | 習作:市民
 霧のような雨の降る日に公園のベンチに猫がうずくまっていた。もう五年も前のことである。多くの友人に恵まれながらも、一人の美しい異性に恵まれなかった当時の私は、ひどい寂寥感を抱えて傘を差し、その公園を通りがかった。黄土色の毛を汚く濡らした猫と眼が合った瞬間の、えも言えぬ胸騒ぎを私は忘れない。猫ごとき獣(と私は従来から動物を低く見る癖があった)が、故意に雨に全身を濡らすという、ある意味で極めて人間的な叙情を見せたこと、加えてかの猫の私を見つめる眼が、とても、───なんとも表現しがたいが───とても、「人間的」だったこと。今思っても、あの猫はあのとき、あまりにも獣離れした雰囲気を漂わせていた。私を待っていたとしか思えなかった。五年もの間、あの刹那的な光景を、私はその極めて凡庸な内容にも関わらず、完全に頭から消し去ることができなかった。

 この夏、小劇場の薄暗い客席で空席一つ隔てて隣り合わせに座った女性は、私にあの霧雨の日の猫を思い出させた。そうだ、あのときの仔猫のようだ、と私は心につぶやいたものだ。劇場は狭い階段を降りた地下にあった。微調整の効かないクーラーがまばらな客席をさらに寒いものにしていた。舞台は犯罪と言えるほど面白くなかった。若い男の役者は面白いことを言おうとするたびにとちった。女の役者は声が甲高くて聞き取りにくかった。そしてクーラーは殺人的に私の背中を冷やした。一つ向こうの席に彼女が座っていなかったら、私は本当に立ち上がって帰っていたかもしれない。
 私はちらちらと彼女を観察した。やや不健康な長い鬢が、痩せた頬に絡み付いていた。前髪も少し乱れていた。濡れそぼちた感が、その横顔にはあった。だからあの猫と連想が結びついたのであろう。白い肩と鎖骨の覗く薄緑色のスリーブレス一枚では、彼女はひょっとして凍えているんじゃないだろうか、と私は訝った。あれだけ両腕をきつく組んでいるのだから、しかし体を硬くして舞台を見つめる彼女は、実際には、ただ単に演劇に集中していたのであろう。それにしても詰まらない舞台であった。他愛もない日常の他愛もない虚無感が演じられていた。彼女の落ち窪んだ目がじっと見つめる先は、もっとドラマチックな現実があるはずだ。あるいは涙も乾くほど、遠い昔の追憶か。
 彼女はゆっくりと目を閉じた。スポットライトを浴びた舞台では、赤いネクタイを斜めに締めた三枚目の役者が、大きく膨らんだごみ袋に寄りかかりながら叫んでいた。

 「明日がもしその先で昨日につながっていたとしたら。希望がすでに絶望を終着点としていたとしたら。ごみ収集日前のごみ袋のように瀬戸際まで膨らんだぼくのこの孤独は、いったい誰が引き取ってくれるんだろう?・・・・・」

 
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女人。サンプルB

2004年10月31日 | 習作:市民
 見つめる、という行為それ自体が、その女性にとっては一つの駆け引きになっている。あまり幸せな家庭に育ったのではないかもしれない。何気ない日常の眼差しの中にさえ、警戒や防御や誘惑や攻撃や、そしてなによりほとんど無意識に見境なく発してしまう愛情豊かな女性性─────それを、この人は幼いころから、自分の欲望のためよりは、むしろ自分の身を守るために使用してきたのだろう、いかなるときにも、いかなる「他人」に対しても─────といったものが、涙のように溢れている。大きな眼である。不遜でどこか何かを諦めたような目つきである。ほとんど正視できない魅力である。瞬きするたびに、もう見つめるのをやめそうな気配がするのだが、彼女はなかなかどうして見つめることを止めない。

 喫茶店で私は彼女と向かい合わせに腰掛けた。我々二人の間は、実際には二つのテーブルと汚らしく禿げ上がった親父のうしろ頭と競馬新聞と紫煙によって隔てられていたのだが、それでも彼女は頬杖をだらしなく突いたまま、しばらく私を見つめていた。瞬きを何度かした。それから面白くもなさそうに飲み干したアイスコーヒーのストローに顔を戻した。
 私は席を立った。支払いをするため彼女のテーブルのそばを通り過ぎたとき、彼女が遠目よりもふくよかな体をしていることに、私は気づいた。その上小柄であることにも気づいた。彼女は老婆のように背を丸めていた。その姿勢がなぜか、支払いを済ませてその店を出たのちまでずっと、私には、彼女にとても良く似合っているように思われた。
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女人。サンプルA

2004年10月31日 | 習作:市民
 可愛い女の子である。どれぐらい若いのかわからない。わずかに離れ気味の小さな双眼が小鹿のように形良い。小ぶりながら筋の通った鼻、美味しいものを常に頬張っていそうな頬、引き締めるとえくぼの出る赤い唇。丹念に櫛とかれた前髪がやわらかく広がり、彼女の知的な前頭部と負けん気の強い眉毛を隠す。神様がやさしい手で捏ね上げたその小さな顔は、ひょっとして世界一の美人かもしれないし、いやしょせんどこの街角でも日曜の昼下がりには、友達とたわいないことで笑っていそうである。
 彼女に目立つものは何もない。何一つ目立たないほどに調和が取れているところがどうにも可愛い。


 日曜の昼下がりに、駅前のスクランブル交差点で彼女を見かけた。今後、ときどき人間のサンプルをここに書き留めておこうと思った。そうすることでなんとか失わないで済む輝きがあるはずだ。街の中にか、あるいは私の心の中に。
 
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