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小松の嫁入り(前編) (本多忠勝公を大河ドラマにしたい)

2011年09月25日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

 本多忠勝の長女、忠朝の姉、後に徳川家康の養女となり、

真田幸村が義理の弟となる小松姫(1573年~1620年)のお話です。 

著者は、市川市在住の福富正樹さんです。

イラストは福田さん作:http://sengoku-gallery.com/ 

『本多忠勝公をNHK大河ドラマにしよう☆勝手に応援団』の皆様は、小説やイラスト、人形で盛り上げてくださっています。 

一人でも多くの方に親しんでいただけたら嬉しいです。

 

小松の嫁入り (前編)

「これ、降りておいで。危ないじゃないか。どうした、どうした、泣くんじゃない。男だろう。」
 少女がその屋敷の庭の木の上に向かって叫んでいる。木の上には四歳ぐらいの男の子が枝にまたがり、幹にしがみついて泣いている。
「姉上ええ、こわいよう。」
 男の子は右手で木の幹にしがみつき、木の下から自分を見上げる少女に向かって左手を差し出し、手の平を握ったり開いたりしている。
「自分で登ったんだ。自分で降りてきな。」
 しかし男の子は口をへの字にして首を振るだけであった。
 ここは徳川家康の家臣、四天王の一人と言われた本多忠勝の屋敷の庭である。木の上の男の子は後に上総大多喜城二代目城主となる本多忠朝、それを見上げる少女はその姉である稲姫だ。
 木の上で泣き叫ぶ弟を見上げながら稲姫が途方に暮れていると、二人の父親が屋敷の中から庭に下りてきた。本多忠勝である。
「があはは、また木のぼりか。それにしても、あいつは泣くために木に登るようなもんだな。どうしてかのう。自分降りてこられないのがわかっているのに、どうして登るのかのう。なあ、稲よう?」
「知りません。忠朝に聞いてください。それより、早く助けて下さい。落ちて怪我でもしたら大変です。」
「なああんに、サムライの子供が怪我を恐れてどうする。」
「また、そのようなことを。まだ小さな子供ですよ。」
「ふうん。小さな子供が木に止まって泣いている。まるで蝉のようじゃな。」
「父上!」
「わかった、わかった。おう、忠政。ちょうど良かった。その梯子を持ってこい。」
 騒ぎを聞きつけてやってきたのは忠勝の長男忠政である。父に言いつけられ、忠政は庭の隅にたてかけてあった梯子を引きずるようにして持ってきた。
「懲りないやつだ。父上、戒めにほうっておいた方が良いのではありませんか?」
「そうはいくまい。」
 忠勝はにやにやしながら、梯子を木にたてかけ登り始めた。小さな男であるからそれほど高く登ったわけではない。忠勝はあっという間に忠朝の体をつかみ、梯子を降りようとした。その時である。
 忠朝同様に他の木に止まって鳴いていた蝉が飛んできて、忠朝の肩に止まった。驚いた忠朝がその蝉を振り払おうとした時、姿勢を崩した忠勝は忠朝を抱きながら梯子と共に地面に倒れた。地面にたたきつけられる瞬間、忠勝は体をひねり背中から落ちた。
 仰向けに倒れた忠勝の腹の上には忠朝が目をつぶりしがみついている。それは一瞬の出来事であったが、我が子を守ろうとする親の本能が働いたのであろう。
「くう、、」
 忠勝は背中の痛みに顔をゆがめながらたちあがると肩腕に抱いた我が子のほほをつまみ上げ、
「ぼうず、今度は自分で降りろよ。」
と言った。
「いててて、、、」
と、顔をゆがめる忠朝をみて稲姫は思わず微笑んだ。
 忠政はそんな三人の様子をじっと見ていたが、何も言わずに屋敷の中に消えて行った。

 

     

       忠朝と母・お久       忠勝と小松の母・乙女 

 稲姫、忠政、忠朝の三人は忠勝の実子ではあるが母親は違う。忠政と忠朝の母は正室のお久であるが、稲姫の母は側室の乙女である。乙女は松平家の家臣松平弥一の娘であり、忠勝とは幼馴染だったと言う。正式に結婚したわけではないが、実質的な夫婦であり、最初の子供稲姫が生まれた。その後、徳川家康の媒酌で正室として嫁いできたのが阿知和右衛門玄銕の娘、お久である。
 忠勝はこの三人の子供の他に四人の娘があり、それぞれが大名の家に嫁いで行った。つまり、忠勝には七人の子供がいたが、後の世にかたりつがれていったのは、稲姫、忠政、忠朝の三人で、そしてこの、短い物語の主人公は後に真田信之の正室小松の方となる稲姫である。

 本多忠勝は悩んでいた。それは娘、稲の嫁入りについてであった。当時のさむらいの家の結婚と言うのは親が決めた相手に嫁ぐと言うことが多く、現代の様に結婚する当事者の気持ちを重く考えることは少なかったようだ。親の決めた相手と結婚すると言うと現代でいう見合い結婚と考えがちだが、結婚前に夫婦となる二人が事前に会うと言うことは無かった。
 ある大名の息子が婚儀の前に相手の顔が見たいと、他国からやってきた新妻の部屋を訪れようとした時に、
「婚儀の前にお会いするとは、はしたない。」
と、待女に追い返されたと言う話も残っている。婚儀の席で夫婦となる二人が初めて顔を合わせることも多かったようだ。現代の我々の感覚では信じがたいことではあるが、当時の習慣になれた人々の間では、
「それが当然。」
と言うことだったのであろう。こんな話がある。
 ある有力大名のあまり美しくはない姫が嫁いだ時に、婚儀の席で初めて顔を合わせた新郎がその姿を見て思わず顔をしかめてしまった。婚儀の後、新郎と二人になったこの新妻が、
「殿様、私のことがお嫌いであれば側室をお持ちください。お世継ぎがその側室から生まれても恨みには思いません。それでも私は正室としての務めは果たすつもりでございますので、なにとぞ、よろしくお願い致します。」
と言った。新郎は怪訝な顔をしたが、
「なれない土地へ来てつかれたであろう。今日は遠慮せずにゆっくり休みが良い。」
と、言いさっさと眠ってしまった。ああ、やはり自分は醜いから相手にされていないのだと思ったが、翌年には嫡男が生まれ、この夫は生涯側室を持つことは無かった。結婚後に二人の気持ちがぴたりと合った事はこの二人にとっては幸せなことであったろう。もちろん、自分の意思に反した結婚で生涯仲が悪かった不幸な例も多かったようではあるが。
 下々の者はいざ知らず、公家や武家の結婚とはそういうものであったが、
「私は嫁ぐ相手は自分より強い人で無いと嫌でございます。」
と、稲姫は宣言していた。
 徳川四天王の一人の本多忠勝の娘である。是非我が息子の妻にと言う申し出も多かったが、そのたびに、
「私がこの目で確かめたい。」
と、今で言うところの見合いの席が設けられた。徳川家の家臣の子息と何度も見合いをしたが、稲姫の目には誰もが物足りなく、ひ弱に見えた。そんなあるとき、
「是非、私の妻に。」
と、堂々たる風貌の若者が現れた。稲姫は「この人ならば。」と期待をしたが、父の忠勝もが驚くことを言いだした。
「私と試合をして、私に勝てば嫁ぎます。」
 何を小娘がと若者は思ったが、稲姫と対峙した時、相手が若い女であると言うことで遠慮があった。意識的に手を抜いたわけでは無かろうが、隙が生じた。若者は試合に負けてしまった。
 稲姫が試合に勝った瞬間、
「やれやれ。」
と、忠勝は頭を抱えてしまった。

 天正十七年。嫁ぎ先が決まらぬまま、稲姫は十八歳になった。当時の十八歳といえばよほどの事が無い限り、嫁ぎ先が決まっているものである。
 その日、稲姫は母親の乙女と裁縫の仕事をしていた。前述の話では稲姫は男勝りのおてんば娘という印象があるが、裁縫や料理などの家事仕事もきっちりとやっている。父や弟の着物を縫うことも楽しみの一つであった。母親と妹とおしゃべりをしながらの手仕事は楽しい。楽しいが、
「稲、良い加減に嫁に行く気なったらどうです。」
と、母親に言いだすと「またか」とうんざりしてしまった。
(私だって良い人がいれば嫁に行きたい。)
と稲姫が思った時、だれかが廊下をバタバタと奔ってくる音がした。
「姉上、お仕事はまだ終わらないの。」
 女たちの仕事場に顔を出したのは忠朝であった。
「ちょうど、今、終わったところ。」
「じゃあ、遊ぼう。」
 仕事はまだ終わっていなかったが、忠朝が遊びたがっているのを口実に母親の小言から逃げようということだ。
「これ、待ちなさい。」
 乙女の呼ぶ声には答えずに、稲姫は道具をさっさと片付けて、忠朝と手をつなぎ、部屋を飛び出して行った。

「えい。」
「たあ。」
 稲姫と忠朝は屋敷の庭で木刀を持って剣術遊びを始めた。忠朝にとって大好きな姉と木刀で打ち合うことが何よりも楽しい遊びであった。そんな二人の姿を眺めながら、本多忠勝は二人の男を伴って客間に続く廊下を歩いていた。
「さすが、四天王の本多殿の家じゃ。娘ごとあのように幼い子供までが剣術の稽古に励んでいるとは。」
 忠勝に話しかけた小柄の中年のさむらいは信州上田城主の真田昌幸である。もう一人の昌幸より一回り大きな若い男はその息子の真田信幸であった。
「いや、いや、剣術などと。真田殿の目から見ればままごとの様に見えましょう。」
「なにを、ご謙遜を。先が楽しみではありませんか。」
 忠勝は「いやいや。」と片手を振りながらも、うれしそうに真田親子を客間へと誘い入れた。
「姉上、どなたでしょう?」
 障子が開け放たれた客間で談笑する三人を見ながら、忠朝が稲姫に聞いた。
「そうねえ、見たことない人たちね。ちょっと様子を見に行きましょうか。」
 稲姫と忠朝は剣術遊びを止めて、客間からは見えないように庭の隅を歩きながら客間へと近づいて行った。
「それにしても、上田の合戦では我らは相当苦しめられましたな。殿もたかが信州の小城ひとつ、あいや失礼、真田殿を攻めるにあたっては、勝利を確信しておりましたが、さすがは信玄公のもとで働かれた真田殿と、舌を巻いておりました。」
 本多忠勝が真田親子を褒めると真田昌幸はにやにやしながら答えた。
「いや、なになに、我らはまさに小国の弱輩もの、東海の雄である徳川殿相手に必死でありました。それに、、、」
「それに?」
「本多殿が出陣されていれば、我らが勝てたかどうか。」
 四年前の天正十三年、徳川軍は真田家の本拠である上田を攻撃した。その時の徳川家の司令官は鳥居元忠らであり、本多忠勝は出陣しなかった。忠勝の言うとおり、徳川家康は上田城を落とすことは楽勝と考えていたが、徳川軍は地の利を生かした昌幸、信幸親子の陽動作戦に翻弄され、大打撃を受けてほうほうの体で浜松に帰ってきた。当時は織田信長が本能寺で果て、武将たちの勢力再編が進められ、どうやら豊臣秀吉と徳川家康の二大勢力にまとめられようと言うところであった。信州の小大名である真田親子の戦の進め方のあざやかさに、彼らに対する家康の見方は返ってこう評価となったとのこと。豊臣秀吉の仲介によって、両家は和睦をした。上田合戦の周辺を語るだけでも一つの物語になってしまうが、このお話の主人公は稲姫である。このあたりでやめておこう。
 両家の和睦がなったと言うことで真田親子は浜松の家康のもとを訪れ、
「これを機会に是非とも本多忠勝殿とお近づきになりたい。」
と言う昌幸の願いで、本多邸に招かれたと言うわけだ。しかし、この日信幸の生涯が決定的なものとなると当の本人は思ってもいなかったろう。
 過去に戦った相手とは言え、戦国の武将である。和睦がなされれば、お互いを尊敬しあい合戦話に花が咲くと言うこともある。戦のことであるから血なまぐさい話ではあるが、三人は和やかに談笑していた。
「さて、かわいらしい剣士の稽古も終わったようですな。」
 話が一区切りついたところで信幸が言った。そう言えば、話に夢中で稲姫と忠朝が庭からいなくなっていたことに三人は気付かなかった。客間の廊下がわずかにきしむの聞いて、
「これ、そこにいるのは稲であろう。ちょうど良かった。入りなさい。」
忠勝が廊下に向かって呼びかけた。稲姫が部屋に入ってきて、忠勝の横に座った。
「長女の稲でござる。」
 忠勝に紹介されると稲は首を少し動かした。会釈をしたつもりであったのであろう。
「これ、この通り無作法もので困ります。女のくせにいつもああやって、弟相手に剣術のまねごとばかりのじゃじゃ馬でござるよ。今まで何度か家中の男と試合をしましたが、負けたことがなくのう。いやいや、さてさて、お恥ずかしい。女にしておくのがもったいない。男であればとっくに初陣を済ませているものを。何とも残念な・・・・」
と、困っているのか、自慢なのか良くわからない忠勝の紹介の仕方に昌幸は微笑み、
「真田昌幸でござる。これは長男の信幸。」
と信幸を紹介した。
「真田信幸でござる。よろしくお頼み申す。」
 胡坐の両膝に手を当て、信幸は頭を下げたが、稲姫は、
「稲でございます。」
と言って、頭も下げずに信幸をじっと見つめた。そして膝をすり、首をのばし右から左からと信幸の顔をなめるように観察を始めた。
(やれやれ、また始まった。)
 本多忠勝は暗い表情となり、
「ほ、ほほ。これはこれは、誠に、どうも。」
真田昌幸は妙な笑い方をしたが、信幸は人懐っこい微笑みで稲姫の視線を受け止めている。

後編に続く・・・お楽しみに

 

こちらは、大多喜町観光本陣の小松姫像。いすみ市在住の奥村さんの作品です。

 

連載中の小説:忠朝と伊三 

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3 コメント

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女達の歴史 (ジャンヌ)
2011-09-25 23:56:53
真田家に嫁いだ小松姫はとっても有名ですね。

真田家は、家を守るために親子で敵味方になり大変なご苦労をされたのですよね。
戦国の世は、女性も違う形で戦さをしています。
今の大河ドラマ「江」では、いよいよ千姫が豊臣に嫁ぎました。
家康が一番かわいがったとされる千姫は、後に本多家に嫁ぐことになったりするのが、目が離せない女たちの歴史です。




小説を書いてくださっている久我原さんの別の顔が見れます。多才ぶりにびっくりです(*^_^*)
http://www.youtube.com/watch?v=mazG0J__Ixo&feature=player_embedded
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役者が楽しみです (茂辺地)
2011-09-26 08:16:37
本多総出演で、面白くなりますよ。福富さんは本名?
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大多喜から上田市に (ただとも)
2011-09-29 23:35:55
9月19日に長野県上田市において行われました上田城まつりに大多喜城手づくり甲冑会が参加しました。

掲示板に写真を投稿しました。
http://otakitown-1.bbs.fc2.com/
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