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小説 本多忠朝と伊三 30

2011年06月19日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

大多喜城ドラマ小説の時間です!

市川市在住・久我原さんの妄想の入った小説で~す 

久我原さんからメッセージです 「舞台も大多喜から京へと移ってしまい、忠朝と伊三からはかけ離れた話のようにもお思いでしょうが、僕としてはこの家康と秀頼の二条城での会見は、忠朝の運命の大坂の陣へと続く重要なエピソードと思っていますので、もう少々御辛抱を。

ところで、今回は正則と清正が幼馴染みという雰囲気を出すために、尾張弁でみゃあみゃあしゃべらせてしまいましたが、ちょいと悪乗りな感じもします。それに尾張弁をきっちりとわかっているわけではないので、誤用もあるかとも思いますが、その辺は多めに見て下さい。尾張出身の方に校正していただけたらとも思っています。」 
 

これまでのお話 1~29 は コチラ

第1部          10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

第2部 21 22 23 24 25 26 27 28 29 

 

第2部  忠朝と伊三 30

「市松よ、このたびは、是が非でも、秀頼様にもご上洛していただかにゃあならんで。」
「そのことよ。おりゃあ、この命にかけても説得するつもりだがや。」
 市松と呼ばれた福島正則は、右手の親指を自分の脇腹に押しつけた。その姿を見て、加藤清正は渋い顔になり、
「おみゃあが腹切っても、何のええこともにゃあでえ。もっと、頭を使え。人間生きているうちに頭をつかわにゃあ。なんぞ、ええ知恵は浮かばんか。」
と、正則の額をつっついた。
「なんぞ、ええ知恵かね。ああ、おりゃあ、おみゃあみてぇにええおつむりを持っとらんでかなわんわ。」
 正則はつつかれた自分の額を右手でこすって、それからぺちぺちと軽く叩いた。
「口実だがね。なんぞ、秀頼さまがご上洛いただく口実だがや。おふくろ様が文句もつけようがにゃあ口実を考えにゃあ。」
「なぁるほど、口実かあ。やあっぱり、お虎はおつむがええでえ。おりゃあとは大違いだがね。」
「なあに、いうとりゃあす。おつむが良けりゃ、とうの昔におふくろ様を説得しとりゃあすがね。なんぞないかぁ、なんぞないか。」

    

加藤清正          福島正則  

 イラスト 提供:天守/戦国画

 

 加藤清正と福島正則は若いころから亡き豊臣秀吉に臣従し、まだ戦乱のうち続く世の中を競い合ってきた良きライバルであり、幼馴染である。二人きりになると、その幼名、お虎と市松と呼びあい、尾張弁丸出しの田舎侍に戻ってしまう。その尾張の悪ガキの二人も今や、安芸広島五十万石の城主福島左衛門大夫正則と肥後熊本七十五万石の城主加藤主計頭清正である。
 秀吉のもとでの二人の活躍はすさまじく、秀吉が柴田勝家と信長亡きあとの覇権を争った山崎の合戦では「賤ヶ岳の七本槍」と讃えられる働きをした。また、朝鮮出兵の際の清正の虎退治の話はあまりにも名高い。
 若いころは猪突猛進、戦場での手柄で出世した二人であったが、年を取ってからは論語を読み込む勉強家の清正に福島正則は一目置いていた。豊臣家のために、と思い関ヶ原の戦いで奮戦した正則であるが、戦後、徳川が天下を掌握してしまうと、
「これよかったのかのう。」
と、酒に鬱憤を紛らわすこともあった。一方、加藤清正は、徳川家康に従いながらも豊臣家への忠義は忘れず、徳川の世になり、諸大名が大人しくなり始めた今となっても戦国大名の気骨を残す数少ない男になっていた。はたからはそれが時代遅れだと見られても、清正は気にせず堂々としたものである。徐々に平和な世の中になりもはや実戦向きの城は不要となり始めていたが、大熊本城を築き、幕府からの詰問に対しても、
「徳川の泰平の世を守るために西の守りを堅くする備えじゃ。どこがわるい。」
と、豪語した。家康も「主計にはかなわん。」とあきれかえっている。
 余談ながら。明治維新後の西南戦争の時、熊本鎮台が置かれた熊本城を攻撃し、大敗したとき、
「政府に負けたんではない、清正公に負けたんだ。」
と言わしめたと言う。
 また、家康の側室の息子の義直のために名古屋築城命令が発せられた時、正則が
「なんで、妾の子供の城をわしらが作らにゃいかんのだ。」
と愚痴を言った時に清正は、
「ぐずぐずいうなら、広島に帰って兵をあげろ。」
と言ったとか、言わないとか。
 泰平の国造りのために労を惜しまない一方、豊臣家への忠義をあらわにして、堂々とした親友の清正を正則は、
「お虎が言うことを聞いとりゃ、間違いはにゃあ。」
と、頼りにしている。
 頼りにされている加藤清正であるが、この夜は秀頼上洛の名案はついに浮かばず、
「これは、かか様に相談するしかにゃあで。」
と、かか様、つまりはこの二人を悪ガキのころから母親の様に面倒を見てきた秀吉の未亡人、高台院に意見を聞くことになった。
 

 かか様に相談するのはいいが、自分たちにはいい知恵が浮ばず、腕を組み、瞑目し、押し黙っているところにお冬が肴と徳利を持ってやってきた。
「まあまあ、お二人ともこわい顔をなされて。ちょいと一服したらいかがですか。」
 その、お冬を見て、清正は愕然とした。
「い、市松よ。こ、この人は、、、こさと、、、かあ?」
「ふふ、おみゃあもそう思うか?」
 それまで渋い顔をしていた正則の顔が笑顔にゆがんだ。
「いや、こさとがこんなに若いはずにゃあ。」
 こさと、とは。それは、正則と清正がまだ若いころ、正則が熱をあげた村の娘のことだ。秀吉の家来になるかならぬかのころである。こさとは土臭い、真っ黒な顔をした百姓の娘であった。背が低く、背中を丸めて歩く姿を村の若者は
「だんごむし、だんごむし。」
と、からかったが、市松と名乗っていた福島正則はこさとを好ましく思っていた。市松はころころとしたこさとに、
「こさと、誰が何を言おうと気にするでにゃあ。おみゃあをいたぶる奴はおれが懲らしめてやる。」
と、肩を抱いて慰めた。市松は大人になったら、こさとと夫婦になろうと思っていたが、面食いの主人の秀吉が、
「なあにを好きこのんで、こんな団子みたいな娘と一緒になることはにゃあが。俺がどえりゃあ別嬪をさがしてやるがね。」
と、言われその時はさすがに市松も口答えはできなかった。それから秀吉にひきまわされて、忙しい市松はいつの日かこさとの事を忘れてしまった。いや、忘れたわけではないが、こさとのことを考える暇もない忙しさであった。こさとは、、、きっと尾張の百姓のせがれと夫婦になり、今はいずこかで土と共に生きる大年増になっていることであろう。
 秀吉のもとで寝る間もなく働き、こさとの事など忘れかけていた福島正則であったが、やはり秀吉の家来であった津田長義の娘と結婚してからは、ふと、こさとの事を思い出すことがあった。津田長義の娘は美しい顔だちをした女房であったが、いかんせん気性が荒い。それに嫉妬深い女だった。正則はしばしば、
(美しい顔をした鬼よりも、だんごむしの様なこさとのほうがどれだけかわゆいか。)
と、思うようになった。その女房も関ヶ原の合戦の後、正則の息子正利の出産の際、難産で亡くなった。その後、正則は徳川の家臣、牧野康成の娘と再婚したが、その待女の中にお冬がいた。初めてお冬を見た時、正則は胸の奥に心地よい痛みを感じた。だんごむしと呼ばれたこさとの、顔を洗い、化粧をほどこし、少しやせて大人にすれば、目の前にいるお冬になるのではないかと、正則は思った。
「似ている。」
「だろう。」
 清正の茫然とした顔を正則はにやにやと見つめている。
「いやですよ。誰に似ているっていうんですか。」
 二人の男はそれには答えず、お冬の顔を見つめた。
 清正は正則がお冬を妾にしていると考えたが、そのようなことはなかった。正則も、もう年である。今更若い妾を相手にしようとは考えてはいなかったが、ただ、お冬を見ているとほろにがい青春時代を思い出すことが心地よいだけである。お冬の手を握って戯言を言うだけで十分であった。
 お冬がその場を去ったあと、しばらく正則と清正は話をしていたが、
「さて、雨もやんだようだし、今日はもう帰ろう。」
と、清正が帰り、それを見送った正則は部屋に戻り一人酒を飲んでいたが、そのうちに眠ってしまった。再びお冬が来て、正則に布団をかけてやったが、正則はそれには気がつかず、お冬は明りを吹き消すとしばらく正則の横にじっと座っていた。
「さて、さて、今日は蛇もネズミもおとなしいようで、殿さまのお休みを邪魔することもないかしらん。」
 お冬は独り言とは思えぬ大きな声で言ったかと思うと部屋から出て行き、その後は正則のいびきが聞こえてくるだけであった。正則のいびきだけがひびき渡る部屋の縁の下から庭に出ると、甚太は音もなく、屋敷を抜け出した。その気になれば正則の首をとることもたやすく思えたが、今の甚太の使命は正則の命を狙うことではない。福島屋敷を後に甚太は思った。
(あの女、やはり只者ではないな。)

 翌日、正則と清正は二人揃って、高台院の元を訪ねた。
「あんれま、お虎に市松、二人揃ってどうしたかね。」
「やっとかめだなも、かか様。」
 二人は高台院に出された茶をすすりながら、今回の家康の上洛に際して、秀頼にも上洛させる手立てがないか相談に来たと話すと、高台院は、
「ほお、ほお。」
と、にこにこしながら聞いているだけで、何とも返答はしなかった。
「かか様、なんぞええお知恵は・・・」
 清正が問いかけると、高台院は今の話を聞いていたのか、いないのか、
「太閤が亡くなられたのは、暑い日であったがねえ。」
と、言って庭を見たまま、また黙り込んでしまった。
「はあ。」
 正則も清正もうなずくしかなかった。ちんまりと座って庭を見つめる高台院に二人はそれ以上話しかけることもできずにいると、
「殿下の十三回忌はいつじゃったか。去年じゃったかのう。」
と高台院がぽつりといった。秀吉が死んだのは慶長三年八月十八日であるから、慶長十五年の命日が十三回忌である。正則と清正が高台院を訪ねたこの日は慶長十六年の二月であるから、京都の豊国神社で秀吉の十三回忌が催されたのは去年の八月十八日であった。
「そうそう、去年の夏だがね。そんときゃあ、秀頼も参らんで、殿下もさぞ寂しかったろうがのう。」
「?」
 正則はわけがわからぬと言う顔で高台院を見ているが、清正が
「なあるほど。その手があったなもう。」
と両手をぱちんと叩いた。
 高台院はにっこりと笑い、
「お虎、わかったかい。でも、秀頼に無理強いしちゃあなんねえぞ。秀頼が自分から豊国様にお参りすっといわせにゃなんねえ。わかるな。」
と言った。つまりは秀頼が自主的に自分の亡き父の法要のために豊国神社を参拝したいと言い出せば、大坂のおふくろ様、淀君もそれを止めることはできないだろうと言う作戦だ。
「はい。わかりもうした。しかし、どうやって、秀頼様にその気にさせるかのう。」
 すると、高台院が清正の額を人差指でつつき、
「頭は生きているうちにつかうもんだで。」
と笑った。昨夜、清正に同じことをされた正則もつられて笑い、
「さあすが、かか様とお虎だ。」
と、自分の額をぺちぺちと叩いた。その後、三人は秀頼にその気にさせる方法は無いかと相談をし始めた。

 そして三月、駿府の大御所、徳川家康は後陽成天皇譲位の儀式のために京へ向けて出発したが、秀頼に対しての上洛の催促は、いまだに届いていない。



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1 コメント

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いろいろ (ジャンヌ)
2011-06-20 01:38:47
久我原さん
辛抱できますよ。
なんせ福島正則さん、加藤清正さんのことを知るチャンスなんですから。

剣客商売なら三冬ですが、こちらのお冬さんってもしや「く・・・」じゃ? 
きっとそうに違いなんて思ったりして想像いえ妄想しています。
 



>やっとかめだなも、かか様
どういう意味かと思って調べちゃいました。
「お久しぶりですね。かか様」ですか~ 漢字で書くと「八十日目だなも」名古屋弁面白いですね


高台院さんは、大河ドラマ「江」では、大竹忍さんが演じておられますね。そのお方ですね。
うんうん、わかるわかる♪ 徳川家康さんも頼りにしていたとか。 みんなのお母さんなんですね。

時に、忠朝もどなたかと親交があったとか。どなたでしたっけ~? すっかり忘れてしまいました。  思い出させていただける展開が待っているような気がします。

今物語りの陰では、大多喜、いすみ、粟又、スペイン、御宿・・・で、何かがうごめいているってことですよね。
どうぞ、よろしくお願いします(●^o^●)

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