大多喜町観光協会 サポーター

大多喜町の良いところを、ジャンルを問わず☆魅力まるごと☆ご紹介します。

小説 本多忠朝と伊三 31

2011年07月04日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

6月24日千葉県議会にて、秋山県議が「本県を舞台にしたNHK大河ドラマの誘致について県の姿勢」を尋ねられたところ、森田知事は、

 

房総半島一帯を治めた里見一族や徳川四天王の1人・本多忠勝らの名を挙げ「取り上げられればPR効果は絶大で経済効果も期待される」と意欲を示した。「誘致合戦は激しいが、誘致には市町村や市民団体、経済団体など地元の熱意が重要であり、県も積極的に支援する」と呼び掛けられました。 情報はこちら

 

では、熱意ということでは負けないサポーター達登場です☆ 

本多忠勝ポストカード  

福田彰宏さん

 

そして、連載してます☆ 市川市在住・久我原さんの妄想の入った小説です   

第2部  忠朝と伊三 31

 これまでのお話 

 第1部          10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

第2部 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

 

 当時の家康は本多上野介正純を謀臣として重く用いていた。本多正純は、家康の側近として仕えてきた本多正信の息子であり、父正信が幕府の老中として将軍秀忠のそば近く仕えるようになってからは息子の正純が家康の側近となっている。姓は忠勝・忠朝と同じ本多であるから、数代をさかのぼれば祖先は同じで、遠い親戚と言うことになろうが、本多正信という男ははかりごとに長けた性質であったらしく、忠勝からは
「正信の腰ぬけめ!本多は本多でも、あ奴と一緒にされてはたまらん!」
と毛嫌いされていた。忠勝・忠朝親子は武を尊び、活躍がすがすがしかったが、正信・正純は陰謀好きな親子であった。その陰気さに忠勝だけでなく、鬼作左と呼ばれた本多重次や榊原康政からも嫌われていた。
 その本多正純は上洛する家康に先行して京に入り、ある男に会っていた。その男の名は織田長益という。織田信長の実弟であり、信長の武田攻めでは木曽口を攻め、降伏した松本城の城受け取りをし、関ヶ原では本多忠勝の配下で働き戦功をあげている。しかし、その戦場での働きよりも、織田有楽斉と言う名で利休七哲としての後世に名を残している。東京の有楽町は有楽斉が住んでいたことからその地名が残っていると言われるが、その住居が有楽町にあったと言う確証はない。
 さて、正純は長益に秀頼上洛の仲介を頼みに来たのである。長益は正純の話を聞いて渋い顔をしていたが、
「まあ、よかろう。徳川と豊臣の仲裁を織田が引き受けると言うのも一興。」
と、承諾した。しかしながら、必ずしもうまくいくとは限らないと付け加えた。
「大御所ももう京においでになろう。何故、もっと早く話をもってこなかった。これでは説得に時間をかけることができない。何か存念があるのではないか?」
 正純は薄笑いを浮かべて頭を下げるだけであった。
 長益は早速、大坂に出向き秀頼を、と言うより淀の方の説得にかかったが、
「叔父上が徳川の使いでくるとは。さてさて、あきれたものよ。」
と、淀の方は長益の申し出を一蹴した。信長の姪である淀の方にとって、信長の弟である長益は叔父にあたる。

 一方、正純は高台院のもとをも訪れた。高台院は正純の顔を見るやいなや、
「秀頼君の上洛の事であろう。」
と、いきなり問いかけた。正純は頭を下げ、
「さすが高台院様、ご明察でございます。」
と言った。
「大御所様ご上洛の時にあなたが参られれば、用事は決まっている。こんなこともあろうかと、すでに加藤殿、福島殿、浅野殿が大坂に向かっている。淀の方が首を縦に振るまでは生きて大坂城からは出ぬ覚悟で出かけて行った。」
「高台院様にはお気づかいいただき、ありがたきことでございます。」
「なあにが、ありがたきじゃ。大御所様がすでに京に参られているこの期に及んで、秀頼君上洛を催促に来るとは、下心が見え見えじゃ。これで秀頼君がご上洛されなければ、それを種に大坂に難癖をつけるつもりであろうが。大御所様のなされようとは思えません。上野介殿、あなたの策略か。」
 これには答えずに、
「御配慮ありがとうございます。」
と、正純は頭を下げた。高台院は「ふうん。」とため息をつき、
「豊臣家については、このばばができることがあれば、ご協力するゆえ、くれぐれも手荒なまね、はかりごとなどなさらぬようにと、大御所様にお伝え下され。」
と言って、立ち去った。
 正純がこのことを報告すると、家康はにこりと笑った。
「ほお、高台院様がそのようにな。それはそれは、高台院様にもご心配をおかけした。これで久しぶりに秀頼に会えるかな。いや、会えそうな気がする。きっと会えよう。これで両家の間もうまくいこう。なあ、上野。」
「はい。仰せの通り。誠にめでたい事と思われます。」

 大坂城の大広間には険悪な雰囲気が漂っていた。上座には豊臣秀頼とその生母、淀の方が座り、加藤清正、福島正則、浅野幸長が対面している。清正は今この時、徳川との対面を拒むことは豊臣家にとって良いことはない、良いことはないばかりではなく危険なことであり、豊臣家の安泰のためには京で家康に会うことは避けて通れないことを延々と話し続けたが、淀の方は聞く耳を持たなかった。
「ならん、ならん。主計頭よ、あなたは誰の家臣ですか。先日も織田の叔父が同じ話をしに参られた。豊臣家に恩義があるものが皆、豊臣を見捨てて徳川に従っている。ああ、情けない、ああ、悲しい。」
「お方様、それは違います。みな、豊臣家の事を思って、大御所との会見をお勧めしているのです。」
「ふん。」
 淀の方は清正から視線を外し、横を向いた。その時、清正の目から涙こぼれた。
「おふくろ様、お願いでございます。腹を切れと言えば切りまする。このたびは、なにとぞ、なにとぞ。」
 清正が両手を就き頭を下げると、それまで一言も口を利かなかった秀頼が声を発した。
「主計頭は余が京に行かないとそんなにつらいのか?」
「つろうございます。この清正の命に代えても秀頼様を京にお連れしたく、、、、」
「母上、主計頭が可愛そうじゃ。願いを聞いてやったらいかがでしょう。」
 秀頼は他人ごとの様な事を言ったが、清正は秀頼にやさしい声をかけられて、感動に肩がふるえた。しかし、淀の方の返事は冷ややかだった。
「なりません。上様はこの城を一歩も出てはいけません。城の外には悪霊がさまよい、一歩外へ出れば、上様はとり殺されてしまいます。」
 この言葉に福島正則はあきれた。
(悪霊に取りつかれているのはおふくろ様だがや。)
 淀の方のあまりの言いように、広間は静まり返った。どれほど時が流れたか、福島正則が唐突に秀頼に問いかけた。
「秀頼様は城の外をご覧になりたいとは思われませんか?」
 淀の方がぎろりと正則を睨んだが、正則は構わずに続けた。
「高台院様も寂しがっておられました。太閤様の十三回忌にたった一人のお世継ぎ様がおいでにならなかった、殿下もさぞ悲しんでおられようと。」
 淀の方の眉がつり上がったが、正則は無視し、去年の秀吉の十三回忌の京の様子を語り、大きな声では言えないが、京の人々は今でも秀吉を慕っていると言った。
「左様か。では、遅ればせながら余も父上のために京の豊国社を詣でることにいたそう。よろしいか、母上。」
と言って、秀頼は淀の方を見た。その顔は有無を言わせぬ迫力に満ちていた。それまでは淀の方には口応えができない秀頼の事を(いつまでも子供な)とひそかに思う家臣もいたほどだが、この時の秀頼の態度にその場にいた全てのものが度肝を抜かれた。
「い、いけません、上様。城の外には、、、」
「魑魅魍魎ですか。織田の大叔父から聞きました。魑魅魍魎など人間が勝手に作りだしたもの、外に出ることをこわがってはいけないと。」
 淀の方はぽかんと口を開けた。
「父上の供養のために豊国社を詣で、そのついでに江戸のじいに会ってまいる。ついでじゃ、ついで。京へまいる目的は父上の供養です。それなら、よろしいでしょう、母上。」
 淀の方はそれでも納得はしなかった。おろおろしながら立ち上がり、こう言った。
「心配じゃ、心配じゃ。誰ぞ上様のお命をねろうて、、、」
 その言葉をさえぎるように加藤清正が立ち上がった。
「我らが命がけで秀頼様をお守りいたす!心配ご無用!」
 淀の方はへなへなと座り込んだ。
「わかりました。お頼みします。」

 御殿から外に出ると正則がにやにやしながら、清正を見つめた。
「市松、気味わるいのう、おりゃの顔になあにかついとるだかね。」
 正則はにやにやしながら首を小さく横に振った。
「おお、気味が悪い。」
 首をすくめる清正を見ながら、正則は思った。
(おりゃには、腹切ってもええことはないというとったが、自分で腹切ると言い出すとはあきれかえったでかんわ。)

 正則と清正の努力がみのり、ついに秀頼は京の二条城で家康と会見することになった。
「命にかけても秀頼君をお守りいたす。」
 その言葉通り、加藤清正は秀頼のそばにぴたりと張り付き、一時も離れることなく京まで秀頼に就き従ってきた。しかし、京へ向かう秀頼一行のなかには清正の盟友正則の姿はなかった。
「どうも、体の具合が良くない。」
と、大坂に残ることになった。実は、病と言い会見には欠席したが、万が一のために大坂から京までの街道筋を一万の大軍で警護をするためであった。
 上洛途中、家康の息子、義直と頼宣が出迎えた。義直が、立ったまま、
「秀頼殿、ご上洛御苦労に存ずる。」
と言った時、それまで腰低く秀頼に付従っていた清正が大喝した。
「それが故太閤殿下の御子息にして、右大臣であらせられる秀頼公に対する態度か!無礼であろう、軽々しく秀頼殿など呼ばず、右府様とお呼びするのが礼儀である。」
 まだ子供であった家康の二人の息子は、清正の大音声に驚き、膝をつき、
「右府様には、わざわざのお出まし、恐れ入り、、、、」
と言葉を改めた。
 二条城に帰った義直が家康にそのことを報告すると、
「そうか、そうか。清正の申しよう、もっともである。そちたちもまだまだ子供じゃ。礼を重んじることを学ばねばならんな。それにしても、清正に怒鳴りつけられたとはのう。驚いたじゃろう。」
と、笑顔でやさしく諭した。年老いてからできた孫の様な二人の息子が可愛く仕方がないらしい。
「それにしても、この家康の息子を怒鳴りつけるとはのう。」
 家康は笑顔で言ったが、その眼は決して笑ってはいなかった。

 そして、ついに秀頼と家康の会見の日が来た。会見の直前に小さな騒ぎがおこった。秀頼の従者に対しては別室が設けられ、家康との会見には高台院が秀頼の保護者として同席することになっていたが、別室に案内しようとする徳川の家臣に清正は自分も同席をすると言ってきかないのである。困り果てた家臣が家康にそのことを告げると、
「なに?」
 ぎろりとその家臣を睨んだが、すぐに笑顔になり、
「忠義者の主計頭のこと、許してやれ。その代わり、部屋の隅でじっとしているようにと申しておけ。」
と言った。家臣は家康の言葉を伝えるために清正のもとに向かった。
「よろしいので?」
 本多正純が家康に問うと、
「主計頭には困ったものよ。まあ、今日のところはわがままを聞いてやろう。」
と答えた。
 淀の方が心配したように、豊臣方には家康が秀頼に対して害を及ぼすつもりがあるのではないかと考えるものもいて、清正は「まさか。」とは思うものの、念のために大坂城に戻るまでは秀頼からは決して離れない覚悟をしているのである。豊臣方にそのような心配があったが、家康にはその意図はなかった。今日の会見を実現させる目的は二つ。一つは今や天下人となった徳川家に対し、豊臣家も服する事を世間に知らしめること。一つは秀頼という人物を家康が自分の目で確かめることであった。
 家康には豊臣家に服従させる意図があるものの、実は秀頼との会見には気を使っていた。家康は隠居とはいえ前征夷将軍、つまりは武家の棟梁であったのに対して、豊臣秀頼は今や一大名にすぎないが、官職は正二位右大臣である。結局、席は相対すること、、要は上も下もなしの同等の座を設けると言うことに決まった。また、家康に害意がない表れとして、親交のある高台院を秀頼の保護者として同席させたことでも秀頼に気を使っていることがわかる。
 家康は対面の間で着座し、秀頼を待っていた。家康は幼いころの秀頼は知っているが、大人になった秀頼とあうのはこの時が初めてである。
(はたして、どのように成長したことか。)
 と、ふすまが開き、大柄の貴公子が部屋に入ってきた。豊臣秀頼である。秀頼が着座するとその堂々とした風貌に家康は思わず頭を下げてしまった。しまったと思った時、
「お久しゅうございます。」
にこりと笑い、秀頼も頭を下げた。先に頭を下げてしまった家康は頭をあげると胸をはり、
「おお、おお、久しい。御立派になられた。江戸のじいもうれしゅうござる。」
と言った。
(思ったよりも大きな男だ。さて、その器量はどのようなものか。)
 家康は京の様子など語ると、
「大坂を出たのは今回が初めて、外の世界がこの様に華やかとは思いませんでした。」
と、答えた。その後も家康は江戸の様子を語ったり、故秀吉の思い出話などをしたが、秀頼は「はい、はい。」と家康の話にうなずくだけである。
 その後も、ほとんど家康だけがしゃべり会見も終了となった。
「今日はお目にかかり、うれしゅうございました。」
と、秀頼が言うと、
「お送り致そう。」
家康も腰をあげた。控えていた本多正純は瞠目した。家康が退出して会見は終了で、家康が秀頼を見送るという予定はなかった。家康は秀頼を二条城の大手門まで見送った。秀頼は家康に向き直り、一礼して門から出て行った。その時である。門の外から歓声が沸き起こった。京の町民が秀頼と家康の会見が無事に終了したことへ歓呼のどよめきであった。京ではいまだに豊臣人気は根強い。
 その歓喜の声を家康と正純主従はどうの様に聞いていたのであろうか。  

 続く

 大多喜手作り甲冑隊は、いろいろな場所でPRを行っています

各地で甲冑試着体験なども行っています。

大多喜町観光本陣には、大多喜の竹を素材にした手作り「本多忠勝像」「小松姫(忠勝の娘)」を展示。

 いすみ市の奥村さん制作。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ジャンヌ)
2011-07-05 00:54:12
久我原さん、執筆お疲れ様です。
最近は、枯れたお肌に化粧水を沁みこめ沁みこめとパタパタしている気分で読ませていただいています。


>秀頼が着座するとその堂々とした風貌に家康は思わず頭を下げてしまった。

本当の父親はだれか説もありますが、秀頼は長身のイケメンだったとか。 ヨン様風に想像していいのかしら? 



>家康は笑顔で言ったが、その眼は決して笑ってはいなかった。

きゃ~こわ~~い ブルッ

久我原さん、実はこういう表現がたまらなく好きですよ~(*^_^*) 
オホホ・・・妄想が膨らみます。←性格悪い女ということがわかっちゃいますね

久我原さんは、今年も大多喜お城祭りの武者行列に参加申込されますか? 




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2009年千葉日報の記事を検索してみました。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1257125255

>大河ドラマ「本多忠勝」実現へ

誘致実行委を設立 大多喜町

2009年11月02日10時27分[県南エリア]

>地元ゆかりの戦国武将、本多忠勝らを題材にNHK大河ドラマの誘致に意欲を示していた大多喜町は、誘致活動を担う実行委員会を立ち上げた。知事への名誉顧問就任要請、忠勝サミット、町民勉強会の開催など主な活動目標をリストアップし実現に向けて動き出した。

 同町は歴史資源を生かし城下町風の町づくりを通じて地域活性化を図っている。しかし、商店街などでの町並み整備事業だけでは周知が不十分と判断。400年前の御宿沖での座礁船の乗員救助をきっかけにした日本・メキシコ交流が今年で400周年を迎えたのを機に、インパクトのある大河ドラマの誘致に目をつけた。

 実現すれば、ロケ地となり町の知名度が上がるのをはじめ、いすみ鉄道の乗客増加など、さまざまな効果が期待できるとそろばんをはじく。

 会の名称は「NHK大河ドラマ『本多忠勝』誘致実行委員会」。町文化財審議会会長の君塚善利さんが実行委会長となり、会員は町内の学識経験者や企業トップなど約30人で構成。設立総会では田嶋隆威町長から委嘱状がメンバーに手渡された。

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どなたか、ご存知でしたら教えてください。

森田知事に名誉顧問就任要請はその後いかがされたのでしょうか? 
実行委員会のみなさんの活動も教えていただきたいです。
大河ドラマにしようという地元の盛り上がりも教えてください。


大多喜町出身の私が思うに(私だけかも?)、大河ドラマの実現への責任感を感じてしまうのが、大多喜気質ですよね~。 
そこが大多喜町の良いところでもあるのですが。
気軽に~気軽に~と、時々思うのです。 

「本多忠勝」「本多忠朝」と、名前を親しめるように広めるその過程が活性化になると思いますので、そろそろ何か・・・・


返信する
よっ..読み終わりましたぁ... (倭音)
2011-07-05 13:15:19
久我原様...

やっと...やっと...以前に..だまされた...これまでのお話...を読破しましたょぉ...

しっかしぃ...正直言って...ちょっと疲れました......後から..知ったので...既に...お話は...ずーっと..ずーっとぉ..進んでしまっているぅしぃ...

最初から読みたいしぃ...


でも...読みましたぁ目の下にくまをを作りぃ...眉間にしわを寄せながらぁ...

読みはじめたら...やめられないものですね...ほんとぉ

でも...おかげさまで...まだ..まだ..可愛かったご幼少の頃の疑問が...ひとつ...解消されました...

子供の頃...良く養老渓谷に泊まりに行った倭音一家なのですがぁ...

その際...メキシコ通りを通って...「これはなぁに」...と素朴な質問をしたの..時...

親に「おじさんに聞いてみなさい」...と言われ...そのままになっていた...大多喜とメキシコとのつながりが...

今...やっと...判りました
遅いとは...言わないで...

久我原様..ありがとう

ひとり...感動している倭音なのでした

そして...ジャンヌさん...その台詞...倭音も..好きです...

てっ..ことは...倭音も悪女なのかしら...

ちょっと...うれしぃかもぉ


では...久我原様...ごきげんよう..続きを楽しみにしています

返信する
大河ドラマおさらい。 (弓足軽)
2011-07-05 21:24:39
久我原さま、いつも拝読させていただいてます。

大河ドラマについて発表されたものについておさらいしてみます。

来年は「平清盛」、主演は松山ケンイチさん。5月に主要キャストの発表がありました。

再来年は「八重の桜」、会津藩の新島八重を描き、主演は綾瀬はるかさん。来年夏、撮入予定。
再来年分は当初、別の企画だったが、今回の東日本大震災により東北地方への応援・支援という意味も含めて決定したとの事です。

きっと日本中で大河ドラマ誘致の動きがあるんでしょうね。

現在放送中の「江~姫たちの戦国」もそろそろ関ヶ原の合戦の撮影を予定されているようです。
山梨で「ある武将」が関ヶ原に赴くシーンのエキストラを募集しています。

東京エキストラNOTES
yanaken.cocolog-nifty.com/
諏訪圏フィルムコミッション
http://www.suwafc.com/
yanaken.cocolog-nifty.com/
返信する
Unknown (久我原)
2011-07-07 22:47:29
ジャンヌさん、倭音さん、弓足軽殿、毎度お付き合いいただきありがとうございます。

ジャンヌさん、大多喜の大河ドラマ実現するといいですね。その時は僕もエキストラで使ってください。

弓足軽殿、そうですか、再来年の大河も決まっているのですね。新島八重って誰だ?勉強不足ですみません。

>山梨で「ある武将」が関ヶ原に赴くシーン

う~ん、誰だだろう。妄想が膨らみます。

さてさて、倭音さん、はじめから読んでいただき恐悦至極に存じます。お疲れ様です。そんな倭音さんにプレゼントです。
「忠朝と伊三」を書く前に、練習のつもりで書いた「忠勝、吠える」です。関ヶ原の戦の後、本多忠勝が真田昌幸・幸村親子の助命を願うエピソードです。こちらは短いので、サクッと読んでください。


忠勝、吠える

 秀忠はあせっていた。信州方面の鎮圧を目的に秀忠率いる三万の軍勢は、真田が立てこもる上田城を攻めたが、打ち出しては引く真田隊に翻弄され、秀忠はついに上田を落とす事を諦めて西へ軍を進めた。家康から東海道を西上する本隊への合流命令が来たからである。
 秀忠の率いる大軍隊は中山道を通っていた。秀忠の気持ちはあせる一方だが、ただでさえ曲がりくねった山道を大軍の列は間延びして思うように進軍できず、その上雨で足止めされることもあり、時間は過ぎ去るばかりである。
 そんな秀忠に悪い知らせがあった。いや、徳川にとっては良い事ではあるが、真田に翻弄され、雨にたたられ、山の中で無駄に時間を費やしてしまった秀忠にとっては最悪の知らせである。伝令はこう言った。
「九月十五日、我が軍は関が原にて石田軍と合戦となり、大激戦の末、徳川方の大勝利!」
「なんじゃと、すでに戦は終わった?三成が首はどうした?」
「敵将、石田三成は戦場より離脱し、ただいま捜索中でございます。大谷吉次殿は討ち死に、島津義久殿は戦線離脱。」
「よしっ!三成が首はなんとしても、わしの手で上げねばならん!急ぎ出発じゃ。」
 しかし、秀忠が家康と合流した時はすでに全て終わっていた。

 こうして天下分け目の決戦と言われる関が原の戦いは、秀忠軍の到着を待つことなく、家康を総大将とする諸大名のいわば連合軍の力のみでわずか半日のうちに済んでしまった。
 秀忠と合流するまで家康は上機嫌で諸大名の働きを褒め称えていたが、秀忠の顔を見るなり、
「そちは、今まで何処で遊んでおったのじゃ。戦も勝利のうちに終わったゆえ、ボンはしばらく休んでおれ。」
 戦が終わったからと言って、すぐに休むわけにはいかない。将来自分の部下になるかもしれない諸将の前で、実の父に大恥をかかされ秀忠も黙ってはいなかった。
「それがし、上田にこもる我が家の宿敵、真田を倒すべく全力で事に当りましたが、父上もご存知の通り戦巧者の真田相手で、、、」
「いいわけは良い!」
 いいわけである。秀忠も自分でしゃべりながら、(無駄ないいわけを、、)と思っていた。
「秀忠!わしが呼ぶまでわしの目の前には現れるな!」
 一喝!先ほどの上機嫌とは打って変わった家康の我が子への仕打ちに居並ぶ武将も凍りついた。
 その時なぜか、家康は信長との関係上、やむにやむを得ず死に至らしめた長男の信康の顔を思い出した。
「ああ、信康が生きていたらな。」
と、つぶやくとその場を去ろうとした秀忠はピタリと立ち止まり、その後姿はわなわなと震えた。そして、走り去るようにその場から消えた。
「殿!そのお言葉はあんまりじゃ、、、」
と、本多正信が声をかけると、家康は「しまった。」と思った。
 秀忠が決戦に間に合わなかった事は諸将に対して徳川家の恥をさらした事には間違い無い。家康は恥を恐れた。家康だけでは無い。当時の武士は恥を恐れた。恥をかく事よりは命をかけることの方を選んだものである。勝利の祝いの場で、息子の失態に怒り謹慎処分のようなことを言い、おまけに亡き長兄の信康に比べて自分が劣るような事までいわれて、恥と感じて秀忠が死を選んでも家康は悔いる事はなかっただろうか?家康も秀忠が可愛くないわけではない。秀忠を面前で罵倒するのは計算の上の事、ある意味芝居がかった所があったが、最後の一言は余計であった。家康自身が公衆に知られてはならないと思っていた本音であり、誰よりも秀忠の前では言ってはいけない言葉であった。

返信する
つづき (久我原)
2011-07-07 22:49:08
 秀忠は永遠に父には目通りが許されないと思ったが、意外と早く呼び出しがかかった。大阪城の論功行賞の決定の場である。
 まずは、功績のあったものへの褒美である。福島正則が二十万石から四十九万八千石に加増、加藤清正が二十五万石から五十二万石に加増、山内一豊が六万九千石から二十万二千石に加増されたのをはじめとして、徳川の外様大名には大幅の加増があったのにくらべて、譜代の本多忠勝、井伊直正、榊原康政への加増は十万石程度に抑えられていた。
 その次に、敵方に与したものの処分である。石田三成、宇喜田秀家、安国寺恵瓊らはすでに斬首されており、その家は改易となった。豊臣家の大老であった上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封、毛利輝元、広島百二十万石から長門三十六万石へ減封となり、西軍に味方した大名がことごとく改易、減封となったにも拘らず、なぜか島津家だけは現状維持であった。

 そして、誰もがどうなるかと思っていた真田家の処分である。家康が
「さて、真田の処分はどうするかのう。」
と、言うのを受けて、秀忠は、
「昌幸、幸村親子は斬首、信之は改易が妥当と存じます。」
と、答えた。徳川と真田の因縁は深い。真田がまだ武田信玄の家臣の頃から徳川家は散々煮え湯を飲まされつづけた。正直言うと家康も、秀忠が土壇場で西軍についた真田昌幸、幸村親子を上田で葬り去ろうとした気持ちも良くわかる。
「ふっふっふ、そうよのう。、、、そうじゃのう。」
 家康は秀忠の言葉を聞いて本当に嬉しそうに笑った。それにつられて秀忠も笑った。つい先日、父親の諸将の前で罵倒されたばかりであったので、秀忠は父親が自分の意見を受け入れてくれた事が嬉しかった。
「よし。決まりじゃ、昌幸、幸村親子は斬首、信之は改易。」
 それを聞いた本多正信が、
「昌幸、幸村親子の斬首は当然なれど、、信之殿の改易はちと厳しいかと、、、」
と言った。真田信之が上田で、昌幸、幸村親子に投降するように必死の説得を試みていたのを秀忠軍に従った正信はその目でよく見ていたので信之を哀れに思った。その時、当の信之と本多忠勝がやってきた。そして、信之は家康、秀忠親子の前にひれ伏して言った。
「お願いでございます。此度、父昌幸、弟幸村が、徳川殿には多大な迷惑をお掛けした罪、重々承知ながら、何卒、この信之の働きに免じ、命ばかりお助け下さいますよう、お願い致します。」
 すると、秀忠が言った。
「何、そちに免じてじゃと?そちの働きとはなんじゃ?上田攻めでは何の役にも立たなかったではないか。そちも改易じゃ。」
「か、改易、、」
 信之が絶句すると、突然大音声が響き渡った。
「いや、いや、そりゃいかん。殿さん、そんな理不尽はいかん。」
 声を荒げて、無作法にも前に進み出てきたのは本多平八郎忠勝であった。

 本多平八郎忠勝と真田信之は義理の親子である。
 軍略の優れた真田家を徳川陣営に引き寄せる為に、忠勝は自分の娘の稲姫を家康の養女として信之に嫁がせた。真田信之は忠勝にとっては娘婿であり、その器量を非常にかっていた。信之と稲姫の夫婦仲も非常に良かったという。
 その稲姫が信之の居城で昌幸、幸村親子が家康軍から離れて上田に引き上げていくという知らせを聞いたのは、今から三ヶ月前の七月であった。その知らせを聞くと稲姫は城に残った者たちに武装を命じた。そして正幸、幸村親子が上田に向かう途中、沼田に立ち寄ったとき、稲姫自ら額に鉢がね、なぎなた片手に城門に立ち、昌幸、幸村親子に向かって叫んだ。
「舅といえども敵方を城に入れるわけには参りません。」
 幸村は「無礼な!」と怒ったが、昌幸は、
「今や信之とは敵味方。戦の前にせめて孫の顔を見ながら、嫁の淹れた茶でも飲みたかったが、、、さすが本多の嫁じゃ。あの嫁がいれば沼田も安心じゃ。幸村、これで後顧の憂いは無くなった。思う存分徳川と戦おうぞ。お稲よお、沼田と信之が事はよろしく頼むぞ!」
と大笑し、上田へと引き上げていった。それを聞いたこの稲姫は立ち去る昌幸の後姿に深々と頭を下げた。

 忠勝の娘、稲姫はそんな女性であった。娘が娘なら親も親、と言うべきか、親が親なら娘も娘と言うべきか、、、
 さて、真田家の処分を聞いて思わず大声を上げた忠勝は更に続けた。
「殿さん、そいつはいかん。そんな事は納得できん。」
 家康は答えた。
「なんじゃい、平八。真田の裏切りの罪は大きい、当然の処分じゃわい。秀忠初め、皆もそう思っておろうが。」
「いんや、わいは納得できん。わが婿、真田は今後、徳川つまりは天下の為に必ず、立派にお役に立ちまする。」
「むむ、信之の改易はちと厳しいかのう。秀忠、どう思う。」
 家康の問いに秀忠は勢いづき、
「何を仰せか、真田を信用しては行けませんぞ。必ず、禍根を残します。今、この時、真田を葬り去らねばなりません。」
と、又も本多忠勝は叫び声をあげた。
「わいの婿を信用できんのかあ!殿さん、わいらの頼み、きいてもらえんなら、この平八、殿さんに一戦ご馳走いたす。」
 驚きの言葉に、同席したものは皆、思わずのけぞった。家康ものけぞった。秀忠にいたっては大口を開けて仁王立ちの忠勝を見上げている。すると、それまで、あまりの出来事に呆然としていた同族の本多正行が、
「これ、平八、無礼であろう。言葉を慎め!殿の意見するのも無礼なのに、なんじゃいその態度は?謀反を起こす気か?」
「じゃかわしい、この腰抜けが!おのれこそ、殿さんが若く、苦労されているころ、一揆に加わり刃向かったではないか。その後、徳川家を去り、臆面も無く出戻りおって。口先ばかりの腰抜けじゃ。上田で若殿が勝てなんだも貴様のせいじゃろうが。同じ、本多でもわいとおぬしは縁もゆかりも無いわ!」
 忠勝のあまりの言葉に正信はひっくり返った。本当に腰が抜けてしまったようだ。
 家康は目をつぶり、渋い顔をして考え込んだ。どれだけの時間がたったのか、おそらく三十秒とはたっていないだろうが、仁王立ちの忠勝を中心に時間が凍りついたような永遠の時間のように思えた。その沈黙を押し破るよう家康が言った。
「、、、、、仕方ないのう。、、、、、平八と喧嘩になってはかなわないのう。、、、、、、よし、信之の改易は許し、上田に転封に致す。だが、昌幸親子の死は免れんぞ。」
 信之はひれ伏したまま、答えた。
「わたくしの事はありがたきことなれど、父と弟の死だけは何卒、お許しを。」
「婿殿!もう良いわ、早う沼田に戻って戦仕度じゃ!」
 忠勝が信之を促すと、家康は慌てて、
「わかった。平八にはかなわんのう。真田親子はどこぞに流刑に致す。場所は追って知らせる。それでええか?」
と、家康が言った。すると、今まで必死の形相で仁王立ちの忠勝が、倒れるように信之の横でひれ伏し、
「ありがたきし合わせ。上様のご厚情、この平八、一生忘れません。ありがとうございます。今までのご無礼、ひらに、ひらにご容赦を。この上は存分のご処分を。」
と、今までのためぐちとはうって変わって、低姿勢で平あやまりだ。
「平八よう、おめえに喧嘩売られたら、この家康もかなわんよ。なにせ無傷の豪将だでの。」
 家康がそう言うと忠勝は顔を上げて、にっこりと笑い、
「なあに殿さん、そん時は殿さんがはじめてわいの皮を突き破るお人なりましょう。それに、喧嘩を売ったのわいではなくて、殿さんじゃい。」
と言った。家康もにたりと笑った。信之は「ありがたい、ありがたい。」とひれ伏したまま肩を振るわせ泣いている。い合わせた他のものもほっとした表情になっていた。ただ二人をのぞいては。怒りの形相に顔を赤くして小刻みに震えている徳川秀忠と本多正信をのぞいては。

 その後。
 昌幸、幸村親子は紀州九度山に流され、信之は加増のうえ上田に転封された。
 平八郎忠勝は大多喜を次男に譲り、長男と共に桑名へと移った。石高は大多喜と桑名は同じだが、本多家としてはあわせて倍の石高になった事になる。家康の前であれだけの啖呵をきり、切腹でも不思議はなかった平八郎忠勝の本多家が加増の報酬を受けたのは、やはり家康は忠勝を買っていたからだろう。

 しかし、世の中は変わった。関が原の戦で徳川が圧勝し、ついに家康は征夷大将軍になった。徳川に面と向かってたてつくのは大阪にいる豊臣秀頼母子だけとなり、世の中一応は平和となった。そうなると、忠勝のような武人は必要無くなってくる。家康は将軍位を秀忠に譲り、本多正信は幕府の要職となった。
 あの日、忠勝の啖呵に怒り震えた秀忠と正信が幕府の中心人物となり、あの日の主役の家康と忠勝は隠居の身となった。隠居といっても家康はいずれやってくる豊臣との決着の日の準備に、相変わらず政治活動を続けている。一方忠勝は、本当に隠居だ。平和で、退屈な日々を桑名で送っていた。
 ある日、自分の居室の縁側で小太刀の手入れをしていると、つるっと手が滑って親指を傷つけた。忠勝は生まれて初めて、自分の皮膚から血が流れ出すところを見た。
「……、何度、いくさばを駆けずり回ったかのう。敵に傷を負わされた事はないわいが、おのれの不注意で傷を負うとは、もうこれまでじゃ。」
と、独り言を言いがっくりとうなだれた。まるで、それが予言であったかのように十日後、戦場のつわものも、静かに息を引き取った。慶長十五年十月十八日、享年六十三であった。静かな死が忠勝に覆い被さろうとした時、忠勝の目に浮かんだのはいっしょに戦ってきた仲間たちと、初めて得た領地、大多喜の領民たちが新しい町を築いていく姿だった。

おわり

ジャンヌさん、またまたコメントとは思えぬものをねじ込んでしまいました。
邪魔だったら遠慮なく削除してください。
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こんな私に誰が・・・ (ジャンヌ)
2011-07-07 23:18:46
久我原さん

真田親子と忠勝公のお話。
これが私の入門編でしたね~。
まさに、こんな私に誰がした! ですね。


倭音さんは、子供の時からメキシコ通りを意識していたのですね。それはすごいです。
わたしなんか、高校生の時、メキシコ大統領をお迎えし、「ビバ・メヒコ」と旗を振っていたものの、なんのことやらさっぱりわかりませんでした。
本多忠勝という名前さえ、多分知らなかったです。忠勝さん、ごめんね~ごめんね~。

あああ、こんな私に誰が・・・・
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