本日9/29(土)の午後3時より、大多喜町役場大会議室にて
本多忠勝・忠朝サミットが開催されます。
県内外の本多忠勝にゆかりのある自治体の方々が参加予定です。
ご希望の方は傍聴が可能です。
詳しくはこちらをご確認下さい。「本多忠勝・忠朝」サミットの開催について(pdf)
本日9/29(土)の午後3時より、大多喜町役場大会議室にて
本多忠勝・忠朝サミットが開催されます。
県内外の本多忠勝にゆかりのある自治体の方々が参加予定です。
ご希望の方は傍聴が可能です。
詳しくはこちらをご確認下さい。「本多忠勝・忠朝」サミットの開催について(pdf)
船子交差点近くの大型観光看板が新しくなりました。
車で通るときはチラリと、歩いて通るときはじっくりと見てみてください。
おたっきーもよろしくお願いします。
いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅から大多喜城(千葉県立中央博物館大多喜城分館)へ向かって徒歩7分くらいの所に「メキシコ通り」と呼ばれる遊歩道があります。
メキシコ通り遊歩道は、今から約400年前に御宿海岸の沖合いで遭難したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を時の城主が庇護し帰国させ、その答礼として昭和53年(1978年)に来日したメキシコ大統領が当町を訪問し、これを記念して整備された遊歩道(プロムナード)です。
起点にはメキシコ塔が立ち歩道には古代メキシコの魚や鳥、人、太陽などが刻印されたタイルが埋め込まれています。
古代メキシコの太陽のスタンプデザイン 古代メキシコの人体のスタンプデザイン
とってもユニークですよね 車だと見逃しますから歩いてみてください
古代メキシコのちょうのスタンプデザイン 古代メキシコの魚のスタンプデザイン
~日本とメキシコの関係~
江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風の為房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船でメキシコへ送還したことから、日本とメキシコとの交流が始まった。
そして1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべくメキシコ、スペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・フアン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。
また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)メキシコと締結した日墨修好通商条約は日本にとって初めての平等条約であり(1871年の日清修好条規は平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であるため)、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にある。
19世紀末には榎本移民団によるメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計10,000人余りに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人としてメキシコの各地に住んでいる。
(ウィキペディア メキシコ 日本との関係より)
日本にとって初めての平等条約締結は、1609年のことをメキシコの人達が忘れていなかったからだそうです。
大多喜お城祭りも近いです。 前夜際10月8日(土)、メインイベント10月9日(日)
『大多喜城賛歌』から歴史が学びましょう こちら
武家の生活用具、武芸の道具など当館収蔵資料が盛り沢山です。
大多喜城分館 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
今回の資料展には複製品ではありますが、菱川師宣筆の「江戸風俗図屏風(複製)」が出品されています。
原品はアメリカのフリーア美術館に所蔵されている門外不出の屏風ですが、この度、京都文化協会と㈱キャノンが同美術館の協力を得て、高精度デジタルで製作され、中央博物館に寄贈された貴重な資料です。
この他にも40点の資料を併せて紹介しておりますので、是非ご覧ください。
江戸風俗図屏風 左隻
江戸風俗図屏風 右隻
大多喜城分館は、いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅下車徒歩15分です。
大多喜町の観光スポット GO
千葉県立中央博物館・大多喜城分館では、
収蔵資料展「武家の身代」を開催しております。(10月23日まで)
大多喜城分館の体験コーナーの記事をご覧になって「本多忠勝になっちゃおう」とtwitterでつぶやいてくださった方、どうもありがとうございます。
開運・勝利の神将 本多忠勝(ほんだ ただかつ)
徳川家康時代の四天王、十六神将のひとりであり、上総大多喜藩十万石の初代藩主である、本多忠勝公は、生涯五十七度の合戦に出陣し、如何なる窮地においても決してあきらめず、ただの一度も傷を受けなかった強運の持ち主です。
そこで大多喜城で本格的な甲冑の試着をしたい方に朗報です
難関をも通りぬけた忠勝公の強運を あたにも!!
大多喜城分館体験教室「甲冑の試着」今後の予定
10月 2日(日) 1回目 10:00~ 2回目13:30~
11月 3日(木) 〃
12月18日(日) 〃
2月11日(土) 〃
3月 4日(日) 〃
※お電話にてご予約してくださいね。
〒298-0216 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
TEL 0470-82-3007 FAX 0470-82-4959
大多喜城分館 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
twitter otakitown http://otakitown.web.fc2.com/
大多喜町のこと、養老渓谷のことを、いっぱいつぶやいてください
千葉県立中央博物館 大多喜城分館では、
平成23年度収蔵資料展「武家の身代」を
7月14日(木)~10月23日(日)まで開催しております。
大多喜城分館 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
楽しんでください! 体験コーナー
大多喜お城祭りでは武者募集をしておりますが、一足お先に本多忠勝公になってみませんか。
予約なしで、どなたでも体験できます
見逃すと後悔するかも!
今回の資料展には複製品ではありますが、菱川師宣筆の「江戸風俗図屏風(複製)」が出品されています。
原品はアメリカのフリーア美術館に所蔵されている門外不出の屏風ですが、この度、京都文化協会と㈱キャノンが同美術館の協力を得て、高精度デジタルで製作され、中央博物館に寄贈された貴重な資料です。
本多忠勝を大河ドラマに☆ エピソード1
著者は市川市の福富さん(ペンネームは久我原さん)です。
「本多忠勝を大河ドラマに!」 応援ありがとうございます。
忠勝、吠える!
秀忠はあせっていた。信州方面の鎮圧を目的に秀忠率いる三万の軍勢は、真田が立てこもる上田城を攻めたが、打ち出しては引く真田隊に翻弄され、秀忠はついに上田を落とす事を諦めて西へ軍を進めた。家康から東海道を西上する本隊への合流命令が来たからである。
秀忠の率いる大軍隊は中山道を通っていた。秀忠の気持ちはあせる一方だが、ただでさえ曲がりくねった山道を大軍の列は間延びして思うように進軍できず、その上雨で足止めされることもあり、時間は過ぎ去るばかりである。
そんな秀忠に悪い知らせがあった。いや、徳川にとっては良い事ではあるが、真田に翻弄され、雨にたたられ、山の中で無駄に時間を費やしてしまった秀忠にとっては最悪の知らせである。伝令はこう言った。
「九月十五日、我が軍は関が原にて石田軍と合戦となり、大激戦の末、徳川方の大勝利!」
「なんじゃと、すでに戦は終わった?三成が首はどうした?」
「敵将、石田三成は戦場より離脱し、ただいま捜索中でございます。大谷吉次殿は討ち死に、島津義久殿は戦線離脱。」
「よしっ!三成が首はなんとしても、わしの手で上げねばならん!急ぎ出発じゃ。」
しかし、秀忠が家康と合流した時はすでに全て終わっていた。
こうして天下分け目の決戦と言われる関が原の戦いは、秀忠軍の到着を待つことなく、家康を総大将とする諸大名のいわば連合軍の力のみでわずか半日のうちに済んでしまった。
秀忠と合流するまで家康は上機嫌で諸大名の働きを褒め称えていたが、秀忠の顔を見るなり、
「そちは、今まで何処で遊んでおったのじゃ。戦も勝利のうちに終わったゆえ、ボンはしばらく休んでおれ。」
戦が終わったからと言って、すぐに休むわけにはいかない。将来自分の部下になるかもしれない諸将の前で、実の父に大恥をかかされ秀忠も黙ってはいなかった。
「それがし、上田にこもる我が家の宿敵、真田を倒すべく全力で事に当りましたが、父上もご存知の通り戦巧者の真田相手で、、、」
「いいわけは良い!」
いいわけである。秀忠も自分でしゃべりながら、(無駄ないいわけを、、)と思っていた。
「秀忠!わしが呼ぶまでわしの目の前には現れるな!」
一喝!先ほどの上機嫌とは打って変わった家康の我が子への仕打ちに居並ぶ武将も凍りついた。
その時なぜか、家康は信長との関係上、やむにやむを得ず死に至らしめた長男の信康の顔を思い出した。
「ああ、信康が生きていたらな。」
と、つぶやくとその場を去ろうとした秀忠はピタリと立ち止まり、その後姿はわなわなと震えた。そして、走り去るようにその場から消えた。
「殿!そのお言葉はあんまりじゃ、、、」
と、本多正信が声をかけると、家康は「しまった。」と思った。
秀忠が決戦に間に合わなかった事は諸将に対して徳川家の恥をさらした事には間違い無い。家康は恥を恐れた。家康だけでは無い。当時の武士は恥を恐れた。恥をかく事よりは命をかけることの方を選んだものである。勝利の祝いの場で、息子の失態に怒り謹慎処分のようなことを言い、おまけに亡き長兄の信康に比べて自分が劣るような事までいわれて、恥と感じて秀忠が死を選んでも家康は悔いる事はなかっただろうか?家康も秀忠が可愛くないわけではない。秀忠を面前で罵倒するのは計算の上の事、ある意味芝居がかった所があったが、最後の一言は余計であった。家康自身が公衆に知られてはならないと思っていた本音であり、誰よりも秀忠の前では言ってはいけない言葉であった。
秀忠は永遠に父には目通りが許されないと思ったが、意外と早く呼び出しがかかった。大阪城の論功行賞の決定の場である。
まずは、功績のあったものへの褒美である。福島正則が二十万石から四十九万八千石に加増、加藤清正が二十五万石から五十二万石に加増、山内一豊が六万九千石から二十万二千石に加増されたのをはじめとして、徳川の外様大名には大幅の加増があったのにくらべて、譜代の本多忠勝、井伊直正、榊原康政への加増は十万石程度に抑えられていた。
その次に、敵方に与したものの処分である。石田三成、宇喜田秀家、安国寺恵瓊らはすでに斬首されており、その家は改易となった。豊臣家の大老であった上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封、毛利輝元、広島百二十万石から長門三十六万石へ減封となり、西軍に味方した大名がことごとく改易、減封となったにも拘らず、なぜか島津家だけは現状維持であった。
そして、誰もがどうなるかと思っていた真田家の処分である。家康が
「さて、真田の処分はどうするかのう。」
と、言うのを受けて、秀忠は、
「昌幸、幸村親子は斬首、信之は改易が妥当と存じます。」
と、答えた。徳川と真田の因縁は深い。真田がまだ武田信玄の家臣の頃から徳川家は散々煮え湯を飲まされつづけた。正直言うと家康も、秀忠が土壇場で西軍についた真田昌幸、幸村親子を上田で葬り去ろうとした気持ちも良くわかる。
「ふっふっふ、そうよのう。、、、そうじゃのう。」
家康は秀忠の言葉を聞いて本当に嬉しそうに笑った。それにつられて秀忠も笑った。つい先日、父親の諸将の前で罵倒されたばかりであったので、秀忠は父親が自分の意見を受け入れてくれた事が嬉しかった。
「よし。決まりじゃ、昌幸、幸村親子は斬首、信之は改易。」
それを聞いた本多正信が、
「昌幸、幸村親子の斬首は当然なれど、、信之殿の改易はちと厳しいかと、、、」
と言った。真田信之が上田で、昌幸、幸村親子に投降するように必死の説得を試みていたのを秀忠軍に従った正信はその目でよく見ていたので信之を哀れに思った。その時、当の信之と本多忠勝がやってきた。そして、信之は家康、秀忠親子の前にひれ伏して言った。
「お願いでございます。此度、父昌幸、弟幸村が、徳川殿には多大な迷惑をお掛けした罪、重々承知ながら、何卒、この信之の働きに免じ、命ばかりお助け下さいますよう、お願い致します。」
すると、秀忠が言った。
「何、そちに免じてじゃと?そちの働きとはなんじゃ?上田攻めでは何の役にも立たなかったではないか。そちも改易じゃ。」
「か、改易、、」
信之が絶句すると、突然大音声が響き渡った。
「いや、いや、そりゃいかん。殿さん、そんな理不尽はいかん。」
声を荒げて、無作法にも前に進み出てきたのは本多平八郎忠勝であった。
本多忠勝と乙女 娘 稲姫(小松姫) http://sengoku-gallery.com/index.html より
本多平八郎忠勝と真田信之は義理の親子である。
軍略の優れた真田家を徳川陣営に引き寄せる為に、忠勝は自分の娘の稲姫を家康の養女として信之に嫁がせた。真田信之は忠勝にとっては娘婿であり、その器量を非常にかっていた。信之と稲姫の夫婦仲も非常に良かったという。
その稲姫が信之の居城で昌幸、幸村親子が家康軍から離れて上田に引き上げていくという知らせを聞いたのは、今から三ヶ月前の七月であった。その知らせを聞くと稲姫は城に残った者たちに武装を命じた。そして正幸、幸村親子が上田に向かう途中、沼田に立ち寄ったとき、稲姫自ら額に鉢がね、なぎなた片手に城門に立ち、昌幸、幸村親子に向かって叫んだ。
「舅といえども敵方を城に入れるわけには参りません。」
幸村は「無礼な!」と怒ったが、昌幸は、
「今や信之とは敵味方。戦の前にせめて孫の顔を見ながら、嫁の淹れた茶でも飲みたかったが、、、さすが本多の嫁じゃ。あの嫁がいれば沼田も安心じゃ。幸村、これで後顧の憂いは無くなった。思う存分徳川と戦おうぞ。お稲よお、沼田と信之が事はよろしく頼むぞ!」
と大笑し、上田へと引き上げていった。それを聞いたこの稲姫は立ち去る昌幸の後姿に深々と頭を下げた。
忠勝の娘、稲姫はそんな女性であった。娘が娘なら親も親、と言うべきか、親が親なら娘も娘と言うべきか、、、
さて、真田家の処分を聞いて思わず大声を上げた忠勝は更に続けた。
「殿さん、そいつはいかん。そんな事は納得できん。」
家康は答えた。
「なんじゃい、平八。真田の裏切りの罪は大きい、当然の処分じゃわい。秀忠初め、皆もそう思っておろうが。」
「いんや、わいは納得できん。わが婿、真田は今後、徳川つまりは天下の為に必ず、立派にお役に立ちまする。」
「むむ、信之の改易はちと厳しいかのう。秀忠、どう思う。」
家康の問いに秀忠は勢いづき、
「何を仰せか、真田を信用しては行けませんぞ。必ず、禍根を残します。今、この時、真田を葬り去らねばなりません。」
と、又も本多忠勝は叫び声をあげた。
殿さん、わいらの頼み、きいてもらえんなら、 この平八、殿さんに一戦ご馳走いたす。」 驚きの言葉に、同席したものは皆、思わずのけぞった。家康ものけぞった。秀忠にいたっては大口を開けて仁王立ちの忠勝を見上げている。すると、それまで、あまりの出来事に呆然としていた同族の本多正行が、
「わいの婿を信用できんのかあ!
「これ、平八、無礼であろう。言葉を慎め!殿の意見するのも無礼なのに、なんじゃいその態度は?謀反を起こす気か?」
「じゃかわしい、この腰抜けが!おのれこそ、殿さんが若く、苦労されているころ、一揆に加わり刃向かったではないか。その後、徳川家を去り、臆面も無く出戻りおって。口先ばかりの腰抜けじゃ。上田で若殿が勝てなんだも貴様のせいじゃろうが。同じ、本多でもわいとおぬしは縁もゆかりも無いわ!」
忠勝のあまりの言葉に正信はひっくり返った。本当に腰が抜けてしまったようだ。
家康は目をつぶり、渋い顔をして考え込んだ。どれだけの時間がたったのか、おそらく三十秒とはたっていないだろうが、仁王立ちの忠勝を中心に時間が凍りついたような永遠の時間のように思えた。その沈黙を押し破るよう家康が言った。
「、、、、、仕方ないのう。、、、、、平八と喧嘩になってはかなわないのう。、、、、、、よし、信之の改易は許し、上田に転封に致す。だが、昌幸親子の死は免れんぞ。」
信之はひれ伏したまま、答えた。
「わたくしの事はありがたきことなれど、父と弟の死だけは何卒、お許しを。」
「婿殿!もう良いわ、早う沼田に戻って戦仕度じゃ!」
忠勝が信之を促すと、家康は慌てて、
「わかった。平八にはかなわんのう。真田親子はどこぞに流刑に致す。場所は追って知らせる。それでええか?」
と、家康が言った。すると、今まで必死の形相で仁王立ちの忠勝が、倒れるように信之の横でひれ伏し、
「ありがたきし合わせ。上様のご厚情、この平八、一生忘れません。ありがとうございます。今までのご無礼、ひらに、ひらにご容赦を。この上は存分のご処分を。」
と、今までのためぐちとはうって変わって、低姿勢で平あやまりだ。
「平八よう、おめえに喧嘩売られたら、この家康もかなわんよ。なにせ無傷の豪将だでの。」
家康がそう言うと忠勝は顔を上げて、にっこりと笑い、
「なあに殿さん、そん時は殿さんがはじめてわいの皮を突き破るお人なりましょう。それに、喧嘩を売ったのわいではなくて、殿さんじゃい。」
と言った。家康もにたりと笑った。信之は「ありがたい、ありがたい。」とひれ伏したまま肩を振るわせ泣いている。い合わせた他のものもほっとした表情になっていた。ただ二人をのぞいては。怒りの形相に顔を赤くして小刻みに震えている徳川秀忠と本多正信をのぞいては。
その後。
昌幸、幸村親子は紀州九度山に流され、信之は加増のうえ上田に転封された。
平八郎忠勝は大多喜を次男に譲り、長男と共に桑名へと移った。石高は大多喜と桑名は同じだが、本多家としてはあわせて倍の石高になった事になる。家康の前であれだけの啖呵をきり、切腹でも不思議はなかった平八郎忠勝の本多家が加増の報酬を受けたのは、やはり家康は忠勝を買っていたからだろう。
しかし、世の中は変わった。関が原の戦で徳川が圧勝し、ついに家康は征夷大将軍になった。徳川に面と向かってたてつくのは大阪にいる豊臣秀頼母子だけとなり、世の中一応は平和となった。そうなると、忠勝のような武人は必要無くなってくる。家康は将軍位を秀忠に譲り、本多正信は幕府の要職となった。
あの日、忠勝の啖呵に怒り震えた秀忠と正信が幕府の中心人物となり、あの日の主役の家康と忠勝は隠居の身となった。隠居といっても家康はいずれやってくる豊臣との決着の日の準備に、相変わらず政治活動を続けている。一方忠勝は、本当に隠居だ。平和で、退屈な日々を桑名で送っていた。
ある日、自分の居室の縁側で小太刀の手入れをしていると、つるっと手が滑って親指を傷つけた。忠勝は生まれて初めて、自分の皮膚から血が流れ出すところを見た。
「……、何度、いくさばを駆けずり回ったかのう。敵に傷を負わされた事はないわいが、おのれの不注意で傷を負うとは、もうこれまでじゃ。」
と、独り言を言いがっくりとうなだれた。まるで、それが予言であったかのように十日後、戦場のつわものも、静かに息を引き取った。慶長十五年十月十八日、享年六十三であった。静かな死が忠勝に覆い被さろうとした時、忠勝の目に浮かんだのはいっしょに戦ってきた仲間たちと、初めて得た領地、大多喜の領民たちが新しい町を築いていく姿だった。
おわり
大多喜城 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
NHK大河ドラマ「本多忠勝」誘致実行委員会制作の冊子(下)については⇒こちら
戦国グッズなら戦国ブランドのパイオニア【もののふ】
http://www.mononofu.net/index.htm
『もののふ』様主催
7/2(土)第八回もののふ戦国バスツアー
房総の城、本多忠勝公の居城をゆく
詳細とお申し込みは、『もののふ』様の上記ホームページでご確認ください。
ちなみに、7月2日(土)朝8:30 新宿西口スバルビル前に集合です。
では、大多喜城から眺めてみましょう。(お天気が悪くてすみません)
千葉県立中央博物館 大多喜城分館
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
鍋之助さんよりメッセージをいただきました。
「主宰の田中さんは本多忠勝公のファンで、“悲願の”もののふツアーとまでおっしゃってくださいました。
今回で、もののふツアーは8回になるそうですが、当初は第1回にと企画されていたそうです。
戦国武将グッズ【もののふ】さんのサイトはこちらですが
http://www.mononofu.net/
戦国武将グッズもののふのサイトのトップに忠勝公の甲冑のシルエット、Tシャツの第1弾は本多忠勝公、忠勝公甲冑の草摺の携帯電話ケースと本多忠勝公に対する思い入れがうかがえます。
それこそNHK大河ドラマ『本多忠勝』誘致実行委員会に加わって頂けたら力強い味方になってくれそうです。
本多忠勝公ファンの方、ぜひもののふツアーご参加を!定員がありますのでお急ぎください。私もいきたいのですが仕事が・・・。
そして、大多喜の皆様にお願いです。
もののふツアーの皆様をぜひ、暖かく迎えてあげてください。」
鍋之助さんの「戦国画廊」
http://sengokugarou.blog.fc2.com/
戦国ブランド「もののふ」イベント「戦国楽市」企画。
戦国iPhoneケース展におきまして、
大多喜観光協会「本多忠勝」部門サポーターの
福田彰宏さんが、
正子公也賞を受賞されました。
http://www.sengoku-style.net/2011/05/iphone.html
おめでとうございます
福田彰宏さん公式HP http://sengoku-gallery.com/
戦国文化と現代コンテンツのコラボレーション!
新宿マルイ ワンに最先端の戦国コンテンツが集う
【期間】2011年5月30日(月)~2011年6月17日(金)
【場所】新宿マルイ ワン 1階 スペースワン
http://www.0101.co.jp/stores/guide/store060.html
=千葉県立中央博物館 大多喜城分館=
親子で本多忠勝体験!!
今年度より、大人も子供も、本多忠勝の甲冑の試着体験ができるようになりました。
小・中学生やその保護者を対象に等身大の複製甲冑を試着してもらい、
武士の生活していた時代への興味・関心を持つためのお手伝いをします。
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/
試着体験は、6月15日(水)「県民の日」
【時間】午前の部は10時からですが、 お申し込み満員となり締め切りました。
午後の部 13時30分~ 募集中!
【場所】当館研修館 【対象】一般10名(受付順) 【参加費】 無料
【申込】電話での事前申込み TEL 0470-82-3007
〒298-0216 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
【今後の予定】2011年 10月2日(日)、11月3日(木)、12月18日(日)、2012年 2月11日(土・祝)、3月4日(日)
Otaki castle museum has event of wearing a life-sized armors for visitors 7times in a year to have interest a period of samurai. You can join that program besides particular date if you make a reservation. This program is especially popular among foreign visitors.
Introduction of Otaki castle - Honda Tadakatsu - http://blog.goo.ne.jp/otakikankou/e/6d68ac1dd897f8f5e3937ed766206088
大多喜城と花の写真展 作品募集!
募集期間 3月1日(火)~4月15日(金)
主催:千葉県立中央博物館大多喜城分館
後援:大多喜町、いすみ鉄道
応募作品の中から審査により入選作品を選び、大多喜城分館に展示します。審査は千葉県立中央博物館職員等が行います。入選作品については、今後、ポスター・チラシなどの広報活動に使用する場合がありますので、ご了承ください。
展示期間:4月26日(火)~5月15日(日)
午前9時から午後4時30分 (入館は午後4時まで)
皆様のご応募お待ちしています!
お問い合わせは 千葉県立中央博物館 大多喜城分館
電話 0470-82-3007
*この記事に使用させていただいた、いすみ鉄道と桜の写真は、山岡みづはさんより「うえるかむ大多喜」へ投稿していただきました。
「大多喜城跡(栗山台地区)発掘調査の成果」のご案内
平成22年10月から11月に実施された大多喜城跡(栗山台地区)発掘調査の成果を調査担当者等から発表していただきます。
また、同地区から発掘された出土品も展示します。
1.主 催 千葉県立中央博物館 大多喜城分館
2.日 時 平成23年3月5日(土) 13時30分~15時30分
3.会 場 大多喜城分館 研修館
(いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅より徒歩15分)
4.講 演
講師 寺門義範氏(大多喜町教育委員会発掘調査担当者)
講師 小高春雄氏(千葉県教育振興財団上席研究員)
5.定 員 40名 (参加費無料)
6.申込み・問合せ 大多喜城分館 ℡0470-82-3007
広報おおたき2011年12月号P5より(下の画像)
こんなHPも見つけちゃった すごいですよ はたぼーさんの『平八郎軍艦』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/index.html
大多喜城がライトアップされます!
12月24日 時間は17時から22時。(今年はクリスマスイブ特別に)
12月28日から1月3日までは、17時から午前2時までライトアップがお楽しみいただけます。
大多喜城(県立中央博物館 大多喜城分館)は、お正月は2日から臨時開館しております。
大多喜城では1月2日、3日ご来館のお客様先着50名様にプレゼントあります。 初詣は大多喜城へ。 デンタルサポート大多喜駅から徒歩15分です。
写真提供は明日香様より (by ただ勝)
大多喜城では、「武と華やぎの装い」の企画展開催中!
12月5日まで!
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/leaflet_2010_kikaku.htm
この季節は、お城までの小路も情緒たっぷりです。
大多喜城は、いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅より徒歩15分。
千葉県立中央博物館 大多喜城分館 こちら
小松姫が里帰り!
いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅前の観光本陣で会えます
ムーミン人形師として有名な、いすみ市の奥村ユージさんが作ってくださいました ありがとうございます
小松姫とは? 小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日)は、上田藩藩主(後に松代藩に移封)真田信之(信幸)の妻。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の長女(第1子)で、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)と称する。もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝の姉。徳川家康の養女(徳川秀忠の養女という説もある)となり、天正14年(1586年、17年あるいは18年の説もある)に真田信之に嫁ぐ。信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)ら2男2女の母。
『戦国無双』シリーズでは幼名の「稲姫」の名で登場しています