大多喜町観光協会 サポーター

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小説 本多忠朝と伊三 22  (第ニ部)

2010年11月19日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

ちょっと挿入してみました。「二代目のあり方」を考える ~森祇晶 (徳川秀忠を通して)

市川市在住の久我原さんの妄想の入った小説です 

第2部  忠朝と伊三 22

 これまでのお話 1~21 は コチラ

 江戸の空も晴れていた。メヒコで田中勝介とケンがドン・ロドリゴと会見をした同じころ、慶長十六年正月のある日のことである。。
 江戸城の客間で
本多出雲守忠朝将軍秀忠のお出ましを待っていた。
 年賀のあいさつのため江戸に来ていた忠朝だが、将軍家へのあいさつが終わり、正月に江戸に集まっていた大名たちと親交を深め、大多喜への帰国の準備をしているところに秀忠から呼び出しがかかったのである。
 忠朝のところに来た使いの者は随分とあわてた様子だったので、急ぎの用事かと思い駆けつけたのだが、客間に通されたまま、もう小半時(一時間)ほど待たされていた。
 小姓が三度お茶を替えに来たが、三杯目のお茶はすでに冷たくなっている。
「殿、上様はまだお出ましにはなりませんかね。もう一時(二時間)も立つのではありませんか。こちらは帰国の準備で忙しいというのに、、、」
 忠朝は供の大原を睨みつけた。
「大原、わざわざのお呼び出し、上様はこの忠朝に特別の用があるのであろうよ。それに屋敷を出るとき供を願い出てきたのはお前ではないか。文句を言うならもう帰れ。」
「い、いや、とんでもない。これは口が過ぎました。申し訳ありません。」
「ふん。」
 忠朝が大原を一瞥して鼻を鳴らした時、廊下に人の気配がした。障子が開くと将軍徳川秀忠が薄気味悪い微笑みを浮かべながら忠朝と大原が待つ部屋に入ってきた。
「いや、いや、出雲守、待たせてすまなんだ。」
 秀忠が部屋に入ってくると忠朝と大原はひれ伏した。
「そちの屋敷に使いをやった後、彦左衛門につかまってなあ。年寄りは口うるさくてかなわん、いつまでも子ども扱いしよって。いや、いや、ご苦労であった。帰国の準備の忙しい中、急に呼び出してすまなんだ。」
 秀忠がすまなんだ、すまなんだと繰り返すので、忠朝はひれ伏したまま答えた。
「とんでもないことです。こちらでも、帰国の前にご挨拶をと考えていたところでございます。」
「そうか、そうか。まあ、表をあげよ。徳川と本多は三河以来の主従、親戚も同然じゃ。そう堅苦しくせんでもいい。」
 忠朝は頭をあげた。目に飛び込んできた秀忠の顔は口元は笑っているが、目が笑っていない。能面のような中根忠古の表情には慣れている忠朝だが、この二代目将軍の目の奥には忠古とは違う不気味な光が宿っている。
「わざわざのお呼び出し、光栄にございます。久しぶりに江戸に参り、大多喜の田舎では味わえない思いをさせていただきました。」
「出雲。」
「はい。」
「いや、特別な用事があるわけではないがのう、帰国の前に話をしたかったのでな。」
「?」
「まあ、世間話じゃ。別に内密の話ではないが、できたら二人だけで話をしたくてな。いや、なに、ちょいと思い出話をしたくなってな。」
 秀忠は忠朝の後ろに控えている大原をちらりと見た。忠朝は振りかえって大原に目で席をはずせと指示した。大原は無言で一礼すると部屋から出て行った。
 忠朝は世間話と言いながら、何か内密に重要な話があるのではないかと緊張した。
 大原が部屋から出て行くのを見送り、秀忠は渋い顔をした。
「何じゃ、無愛想な男だのう。」
「申し訳ないことです。あれでもなかなかの忠義者。私にとっては大切な家臣です。」
 忠朝が答えると、秀忠は天井見つめ、腕を組んで黙り込んだ。
 しばらくすると秀忠は腕を解き、忠朝の顔を見ないで話し始めた。
「上田攻めの時に感じたのだが、、、」
「上田攻めと言うと、関ヶ原の合戦の時の事でございますか?」
「そうじゃ。そちの義兄の信之な、本当に徳川に臣従しておるのかのう。」
 信之と言うのは忠朝の姉の
小松が嫁いでいる真田信之の事である。関ヶ原の合戦の時、西軍に味方した父の真田昌幸と袂を分かち、信之は徳川に従った。秀忠は中山道を通り、関ヶ原に向かう途中、真田昌幸が籠る上田城を囲んだ。信之は義弟である本多忠政と供に真田昌幸に降伏するように説得したが、失敗に終わった。その後、信之は戸石城に籠る弟信繁と対峙するが、信繁はあっさりと兵を引き、一方、上田を囲む秀忠率いる徳川本隊は少数の真田軍に翻弄された。本多正信の時間を費やすよりも早く家康と合流した方が良いという進言を取り、秀忠は関ヶ原に向かったがついには決戦には間に合わず、大勢の家臣の前で家康に叱責された。その時の屈辱は今でも胸の奥に重い塊となって残っている。
 上田攻めに手間がかかり決戦に間に合わなかった秀忠は、上田での真田信之の振る舞いは時間稼ぎだったのではないか、と疑っている。
「あの折は、父上、いや大御所様に大叱責されてなあ、廃嫡も覚悟した程じゃった。」
「お言葉ではございますが、兄上(信之)のその後の振る舞いをみれば徳川に忠誠を誓っているのは明白。血縁の情がありますれば、昌幸殿の命乞いはしたものの、それは私の父も同じこと。」
 忠朝がそういうと秀忠はあの薄気味悪い微笑みを浮かべた。
 関ヶ原の戦後処理を決めるとき、秀忠は昌幸と信繁の親子の切腹を主張したが、真田信之と本多忠勝の体を張った命乞いに家康は真田親子を紀州九度山に流刑としたのであった。悔しかった。父、家康は息子の秀忠よりも家臣の忠勝の意見を取り入れたのである。
「そちは忠勝と供に島津相手に大奮闘したからのう。わしはみておらんがの。大御所様からおほめの言葉もいただいた。あの時はそちの兄、忠政も悔しがっておったぞ。」
 忠朝は去年、父を見舞うために桑名に言った時に兄に同じ様なことを言われたのを思い出した。
「あの時、供に中山道を行軍したからというわけではないが、わしは忠政の気持ちはなんとなくわかるんじゃ。」
「兄上の気持ち?」
「嫉妬じゃよ。」
 秀忠にそう言われて、忠朝は背筋に冷たいものを感じた。言葉にこそ出さないが、忠朝はそのことを感じていた。
(兄は私をうらやんでいる。)
 思わず曇った忠朝の表情に気付いているのか、いないのか、秀忠は話を続けた。
「存じてはおろうが、わしには信康と言う兄がおった。わしが生まれた年に、信長公の命令で自害してしまったがな。お陰でわしは今、将軍様だ。」
 秀忠はまた、にたりと笑った。
「じゃが、一度だけ父上が『信康が生きておればのう。』とつぶやいたのを聞いたことがある。わしは兄の事を知らんが、羨んだ。父は兄を惜しんでいる。そりゃ、親が子供の死を悼むのは当たり前だが、兄と比べられて劣っていると言われているようでわしは辛かった。」
「上様、そのような、、、」
「まあ、聞け。忠朝。」
 忠朝はドキリとした。今まで、秀忠は忠朝のことを官職で「出雲」と呼んでいたのに、初めて忠朝の名前を口にした。
「忠政も同じ様に思っているのではないか?関ヶ原で手柄を立て、今回の遺産の件でも忠朝潔しと言ううわさはこの江戸でも評判じゃ。忠政もすぐれた男であることはわかっているが、常に弟と比べられて、そちに嫉妬しているのであろう。」
 忠朝は考え込んだ。秀忠は何故この様な話をし始めたのか?
「兄と弟の立場は違うが、わしは忠政と同じような境遇、、、いや、すまんすまん。こんな話ができる相手はなかなかおらんでな。ついつい思い出話にしゃべりすぎたわ。」
 とても、思い出話には思えない。兄を差し置いて出しゃばるなと言う忠告であろうか?忠朝はそう考えた。
「お言葉、十分に胸にしみわたりました。肝に銘じます。」
「肝に銘じる?ただの世間話じゃ、つまらん愚痴と忘れてくれ。」
「はは。」
「ところで、上総の事だが、土岐の家来どもはどうしている。」
「はい。土岐の旧臣、我が本多家で召しかかえるか、多くは帰農しております。まだ、一部、浪人となり怪しい動きをするものもいますが、事あるごとに捕縛、処分しております。」
「そうか。上総、安房は永らく小豪族が争いあった地だ。うまく治めるのは難しかろうが、よろしく頼むぞ。」
「はは。お任せ下さい。近々、新田開発を行いますが、その仕事に土岐の旧臣を使おうと思っています。仕事を与えれば余計なことは考えないのではないかと。」
「そうか。それは良い。できることがあれば、わしからも援助いたそう。」
「滅相もない。これは、我が領地の事。私どもの力で成し遂げてご覧にいれます。」
「そうか。さすが、忠朝じゃ。」
 また、秀忠はにたりと笑った。
 その後、秀忠は取りとめのない世間話をし、
「おお、そうじゃ、今日は他にも客があるでな。まあ、さっきの話は気にせんでくれ。桑名にいる桑名よりも、大多喜にいるそちの方がこの江戸には近いことだ、これからも色々と協力してもらうこともあるだろう。よろしく頼むぞ」
と、言って客間から出て行った。
(上様は一体何を言いたかっただろう?)
 一人残された忠朝が考えを巡らせていると、背後に人の気配を感じた。
「大原か?」
 振り向くとみたことのない、四十がらみの小さな男が座っていた。
「お、お手前、どちらかな?」
 忠朝がたずねると、その小さな男は、
「服部半蔵と申す。」
と短く答えた。
「服部半蔵、、殿?生きておられたのか。父から御活躍の話は聞いております。お会いできて光栄です。」
 忠朝は思ったより若い半蔵を不思議そうにみた。服部半蔵と言えば小田原の戦の後、死んだものとばかり思っていたが、、
「ふん、私の活躍?忠朝殿にも知られているとは私もまだまだだな。」
「?」
「ぐふふ、いやいや、冗談でござるよ。忠勝殿から聞いたという服部半蔵とは父、正成のことでござろう。」
「それでは、あなたは。」
「服部半蔵正成の息子、
半蔵正就でござる。」
 今忠朝の目の前にいる服部半蔵は徳川家康のそば近く仕えた半蔵正成の息子正就であった。
 服部半蔵はその出身が伊賀であり、伊賀忍者の統率をしていた上忍(忍者集団の頭)と思われているが、半蔵自身は武将であり、得意なのは手裏剣ではなく槍であった。
「そうですか、いや、思いのほかお若いと思いました。そうですか、あの半蔵殿の御子息。私は本多忠勝の息子本多忠朝にござる。以後、よろしゅう。」
と言って、忠朝は頭を下げた。下げた頭をあげるとそこにはもはや正就の姿はなかった。
 忠朝はニンマリとした。
(さすが伊賀者。)
 音もなく正就が去ったところへ、ふすまが開いて大原が顔をのぞかせた。
「殿、そろそろお帰りになりませんか。帰国の準備もせねばなりません。」
「おお、そうだな。ところで、今、背の低い四十がらみの男に会わなかったか?」
「いいえ。」
「そうか。」
「上様の他にだれか来たのですか?」
「いや、なんでもない。気のせいかもしれん。」
 忠朝は正就とたった今会ったことが、ふと一瞬のゆめっだたのではないかと感じた。」     
続く



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3 コメント

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いろいろ含んでいます (ジャンヌ)
2010-11-25 20:12:14
>服部半蔵正成の息子、半蔵正就

登場の仕方がいいですね~♪ これからの何かを匂わす、匂わす。くんくんくん 


色々な歴史の中のお話では、兄弟というものの関係が一番こわいですけど、そんなことも書かれるのでしょうか?・・・なんて、聞いちゃダメね。ハイ
久我原さんは、忠朝公は大多喜に残れて幸せだったと思いますか? 
私は、短い生涯でしたが幸せだったと思います。
それから、大多喜に残った母お久様、夫と共に行かなかったのは、その頃では普通なんでしょうか?

いそいろ質問しちゃいましたが、回答はしないでね! 皆さんの楽しみが半減しちゃいますので。


そして2代目。考えちゃいますね。現代なら、自分で仕事を選べますが、昔はそうじゃなかったわけですから。  

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では (久我原)
2010-11-26 12:20:16
忠朝は大多喜に残って幸せだったと思います。

新田開発、ロドリゴ救援、館山城の城受け取りと、平和になり始めた世の中で、これだけの仕事をしたのですから、幸せというより充実感があったんじゃないでしょうか。

正妻が大多喜に残って、側室が桑名に行ったというのは真相はわかりませんが、忠勝は乙女が好きで、お久は忠朝をかわいがっていた、そんなところでしょうか?よくわかりません。

奥さんといえば、忠朝にも奥さんがいるんですが、どんな人だったんでしょう?誰か知っていたら教えてください。
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えぇぇ~ (ジャンヌ)
2010-11-26 23:13:27
うわ、久我原さん、ご回答ありがとうございます。・・・読者の皆さん、ごめんなさい。
どうしても先は気になるもので。

久我原さん、衝撃の新事実!
>忠朝にも奥さんがいるんですが、どんな人だったんでしょう

プチショックです!
忠朝公の奥さんってやっぱりいらしたのですね。これはもう妄想で付き進むのがいいのでは? 
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