大多喜町観光協会 サポーター

大多喜町の良いところを、ジャンルを問わず☆魅力まるごと☆ご紹介します。

養老渓谷紅葉ポスター

2011年09月30日 | 大多喜町の観光スポット

養老渓谷紅葉のポスターが完成しました。

ポスターには毎年11月23日に行われている紅葉まつりの情報や、

昼と夜、それぞれの紅葉の写真が使われています。

また、今年からいすみ鉄道フォトコンテストに、養老渓谷紅葉写真の部門が新設されました。

入賞された人の作品の中から、翌年の紅葉ポスターを作製する予定ですので、たくさんの応募をお待ちしています。


大多喜高校にうえるかむ☆長生夷隅地区中学生のための進学フェア

2011年09月28日 | 大多喜高校の話題 (大高)

☆大多喜高等学校にうえるかむ☆

http://www.chiba-c.ed.jp/otaki-h/

高校3年間は人生において決定的に重要な期間です

この期間に求められるものは、

しっかり基礎学力をつけること

部活動を通して体力や感性を養うこと

よき友人をつくること の3つです。

大多喜高校は、この3つの目標を十分に充たす学校です。

  

 

大多喜町観光協会サポーターブログで取り上げた大多喜高校の話題こちら

 

 

そこで、中学3年生の皆さんと保護者の皆さまに向けてのご案内です。

長生夷隅地区の高等学校が少しでも皆さんの高校選びのお役に立てればと考え,
長生夷隅地区を中心とした関係中学校の生徒及び保護者の方を対象として,合同説明会を実施いたします。

日時  平成23年10月22日(土)午前11時~午後3時
場所  茂原駅前「学習プラザ」(JR茂原駅南口徒歩約1分(サンヴェル6階)

参加高等学校  (私立)茂原北陵高等学校、(県立)長生高等学校・茂原高等学校、茂原樟陽高等学校・一宮商業高等学校・大多喜高等学校・大原高等学校・岬高等学校・勝浦若潮高等学校 計9校

詳細PDF  http://www.chiba-c.ed.jp/otaki-h/shingakufeahogosya.pdf

*ポスターは大多喜高校美術部生徒の作品です。

 

 


大多喜の朝市 夷隅神社境内

2011年09月27日 | 大多喜町 大多喜周辺

夷隅神社境内の朝市

 

大多喜の朝市は、夷隅神社境内で開かれます。

地元でとれたての新鮮な山の幸、近郊の海の幸が並びます。

昭和30年(1955年)頃から続いています。

開催日には近隣の人や朝市目当ての観光客などが訪れ賑わいます。

 

 夷隅神社境内(夷隅郡大多喜町新丁)で毎月:5日、10日、15日、20日、25日、30日

いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅から徒歩10分
お問い合わせ  0470-80-1146(月曜日は0470-82-2111へ)
 
 
 
夷隅神社は、鎮座の年代は不詳です。通称牛頭天王宮と呼ばれます。祭神は、素盞鳴命を祀っています。古老の口碑によれば、古の創立で長久2年に再建と社伝にあります。天正15年(1587年)に里見左馬頭治の領地となり正木大膳が再築しました。天正18年(1590年)の本多中務大輔忠勝依頼、大多喜知事大河内正質の所管まで崇拝社として続きました。牛頭天王宮と称され明治元年(1868年)10月に夷隅神社と改称されました。境内は敷地721坪あります。本殿は銅板葺権現造(4坪)で玉垣を廻し整った形式です。幣殿、拝殿があります。
 
 

小松の嫁入り(後編) (本多忠勝公を大河ドラマにしたい)

2011年09月26日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

 昨夜に続き、秋の夜長に贈る物語(後編)です。

本多家と深いかかわりを持つことになる真田信幸 (1566~1658)は、昌幸の長男。幸村の兄です。

参考にどうぞ: 真田氏の館  真田太平記

下の動画は「真田太平記・本多忠勝の遺言」です。真田信幸と本多忠勝の関係がわかります。

 

小松の嫁入り (後編)

 稲姫の執拗な視線を受け止めて微笑む信幸が静かに口を開いた。
「姫様、この信幸、いかがでござろう。」
 稲姫はその言葉が聞こえているのかいないのか、じろじろ信幸の顔を眺めまわすだけである。
「姫、聞こえていますか。」
 信幸の問いかけに、稲姫は右手で信幸の顔に触れようとした。その時、
「無礼であろう。」
信幸は微笑みが止まり、厳しい顔つきで一喝し、その右手をぴしりと払いのけた。
 稲姫の胸に衝撃が走った。今までに、彼女に対してこの様に強い態度を示した男はいない。稲姫に見つめられると、その父本多忠勝が同席していることもあり、ほとんどの男は視線をそらしてうつむいてしまう。しかし、真田信幸は稲姫が差し出した右手をはらいのけ、
「このような無礼な振る舞い、本多殿の姫とも思われぬ。」
と、静かながらも威圧的な声で言い、稲姫をぐっと睨みつけた。
 その声を聞くと稲姫は、
「試合をしてください。」
と言った。
「ふっ。」
 信幸は短く笑った。
「姫様、正気の事とは思われません。」
「お願い致します。是非とも、試合を。」
 稲姫の言葉を聞くと忠勝は、「おや?」と稲姫の後ろ姿を見た。
(こやつ、信幸殿を見染めたか?)
 試合がしたいと言うことは、稲姫はその男が気にいったと言うことである。ではあるが、自分より強い男でないと満足できないと言う傲慢な心も持っていると言うことだ。
 忠勝は信幸が試合に勝ち、稲姫が真田に嫁ぐことを期待した。家康もが称賛する真田家へ我が娘が嫁ぐことは忠勝にとっては願っても無いことだ。しかし、信幸は意外なことを稲姫に問いかけてきた。
「姫は戦場にでたことがあるか?」
 稲姫は答えた。
「いいえ。」
「では、命のやり取りをしたことは?」
「いいえ。」
 信幸はすさまじい形相で続けた。
「戦場に出たこともなく、真剣の命をやり取りもしたことがない小娘が、この真田信幸に試合を請うとは片腹痛い。我は信州の片田舎に住む者なれど、誇りを持ったさむらいである。おなごと試合などをすると思うか。悪ふざけは言い加減にせよ。」
 稲姫は顔を真っ赤に紅潮させ、立ち上がると、片足でドンと床を踏み付け、客間から走り去った。稲姫が部屋を飛び出すと、信幸は忠勝に深く頭を下げ、
「ご無礼をいたしました。誠に、誠に申し訳ありません。あのような僭越な言葉、なにとぞお許しください。」
と、心から詫びたが、その態度は決して卑屈なところは無く、むしろ堂々たるものだった。
「いやいや、面をあげられよ。よくぞ、申して下された。忠勝、ますます信幸殿が好きになりもうした。」
 忠勝は昌幸に向かい、
「いかがであろう、真田殿。あのようなできの悪い娘であるが、信幸殿の嫁にもうろうてはくださらぬか。」
と言った。
「ほっ、ほほほ。これは面白い事を申される。信幸の言いよう、あれでは姫様も信幸の事をお嫌いになられたであろうよ。」
 昌幸が答えると、忠勝は首を横に振った。
「いやいや、娘も信幸殿を気にいったようである。是非とも、な、信幸殿、娘をお頼み申す。」
 信幸は思わず頭を下げて、
「願っても無いことでございます。」
と答えた。昌幸は驚いて信幸を見た。
(あのような、じゃじゃ馬が真田の嫁に?こ奴本気か?)
 昌幸は思わず渋い顔になったが、忠勝は手を叩き、満面に喜びの表情を浮かべた。
「これで、決まりだ。いや、うれしい。このようにうれしいことになるとは思うてもみなかった。めでたい、めでたい。」

 その夜。忠勝は稲姫を自分の居室に呼び出した。稲姫はすっかりとしょげていた。
「稲よ、やっとお前にふさわしい男が現れたのう。」
「なにを、あのような無礼な男。父上以外で私に怒鳴りつけた男は初めてです。ああ、思い出しただけでも悔しい。」
 忠勝はにたりと笑い、稲の肩をに右手でぽんぽんと叩くと、
「うれしそうな顔をして、何を言うやら。お前の嫁ぎ先は真田と決まった。」
と言った。
「嫌でございます。」
 稲姫の言葉に押しかぶせるように、
「いい加減にせよ。決めたことじゃ。真田と縁を結ぶ事は徳川にとっても重要なことであり、殿様からもきつく言われている。お前一人の我がままが通じると思うか。」
と怒鳴りつけた。
「私は嫌です。嫁ぎ先は自分で決めたい。他人が決めた嫁ぎ先など嫌でございます。」
「わかっておる。で、あるから今日、信幸殿に会わせたではないか。」
「ですから、あのような無礼な男は嫌だと言っているのです。」
「そうかな?」
「そうです。」
 父と娘はしばらく、見つめあっていた。どれほどの時間が過ぎたか。
「嫌でございます。」
 稲姫が繰り返すと、
「わかった。では、殿様に詫びを入れなければならん。真田との縁組は失敗したと。」
と忠勝は立ち上がろうとした。
「今から?」
「今からだ。」
 忠勝は立ち上がり、部屋を出ようとしたところ、
「お待ちください。」
と稲姫が呼びとめた。
「真田様との縁組が失敗したとなると父上は、、、、」
 忠勝は黙って、右手を腹にあて、ゆっくりと横に動かした。
「仕方ありません。真田様との縁組、お受けします。」
 稲姫は両手をついて頭を下げた。
「良いのだな。」
「はい。」
 顔をあげた稲姫の口角がわずかに上がり、頬が赤く染まったのを忠勝は見逃さなかった。
(ほれたら、ほれたと、素直になればよいものを。ひねくれものめが。)

イラストは福田さんの新作:http://sengoku-gallery.com/ 

 

 こうして、真田信幸と稲姫と縁組が決まり、稲姫は徳川家康の養女として嫁ぐことになった。
 稲姫が真田に嫁いることを聞くと忠朝は稲姫のもとに行き、
「姉上は、嫁にいくの。」
と寂しそうにした。
「そうよ。どうしたの、そんな寂しそうな顔をしないでおくれ。」
「もう、あえなくなるの。もうあそべないの。」
「忠政がいるでしょう。これからは兄上と仲良くして、お前が父上と母上を守って行くのですよ。」
 稲姫に父と母を守れと言われ、忠朝は泣きそうな顔をした。
「はい。忠朝は姉上の様に強くなります。でも、でも、、、」
「でも、なあに?」
「兄上と遊ぶのはつまらない。」
 稲姫は忠朝を抱きしめた。
「そのような事を言うものではありません。」
 そう言いながら、稲姫はおとなしい忠政の顔を思い浮かべた。

 真田家の人となった稲姫は、小松の方と呼ばれ、信幸の家臣からも慕われ、徳川と真田の間を結ぶ重要な役割を果たすこととなる。
 もちろん、夫婦仲は良く、激動の戦国の世をきびしいながらも幸せな人生を送ったと言う。  

 完

おまけLOVE真田太平記ではこうです。 こちらは、はっきりと惚れていますね 

 

連載中の小説:忠朝と伊三 

第1部          10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

第2部 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32  

番外編 小松姫の嫁入り(前)


小松の嫁入り(前編) (本多忠勝公を大河ドラマにしたい)

2011年09月25日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

 本多忠勝の長女、忠朝の姉、後に徳川家康の養女となり、

真田幸村が義理の弟となる小松姫(1573年~1620年)のお話です。 

著者は、市川市在住の福富正樹さんです。

イラストは福田さん作:http://sengoku-gallery.com/ 

『本多忠勝公をNHK大河ドラマにしよう☆勝手に応援団』の皆様は、小説やイラスト、人形で盛り上げてくださっています。 

一人でも多くの方に親しんでいただけたら嬉しいです。

 

小松の嫁入り (前編)

「これ、降りておいで。危ないじゃないか。どうした、どうした、泣くんじゃない。男だろう。」
 少女がその屋敷の庭の木の上に向かって叫んでいる。木の上には四歳ぐらいの男の子が枝にまたがり、幹にしがみついて泣いている。
「姉上ええ、こわいよう。」
 男の子は右手で木の幹にしがみつき、木の下から自分を見上げる少女に向かって左手を差し出し、手の平を握ったり開いたりしている。
「自分で登ったんだ。自分で降りてきな。」
 しかし男の子は口をへの字にして首を振るだけであった。
 ここは徳川家康の家臣、四天王の一人と言われた本多忠勝の屋敷の庭である。木の上の男の子は後に上総大多喜城二代目城主となる本多忠朝、それを見上げる少女はその姉である稲姫だ。
 木の上で泣き叫ぶ弟を見上げながら稲姫が途方に暮れていると、二人の父親が屋敷の中から庭に下りてきた。本多忠勝である。
「があはは、また木のぼりか。それにしても、あいつは泣くために木に登るようなもんだな。どうしてかのう。自分降りてこられないのがわかっているのに、どうして登るのかのう。なあ、稲よう?」
「知りません。忠朝に聞いてください。それより、早く助けて下さい。落ちて怪我でもしたら大変です。」
「なああんに、サムライの子供が怪我を恐れてどうする。」
「また、そのようなことを。まだ小さな子供ですよ。」
「ふうん。小さな子供が木に止まって泣いている。まるで蝉のようじゃな。」
「父上!」
「わかった、わかった。おう、忠政。ちょうど良かった。その梯子を持ってこい。」
 騒ぎを聞きつけてやってきたのは忠勝の長男忠政である。父に言いつけられ、忠政は庭の隅にたてかけてあった梯子を引きずるようにして持ってきた。
「懲りないやつだ。父上、戒めにほうっておいた方が良いのではありませんか?」
「そうはいくまい。」
 忠勝はにやにやしながら、梯子を木にたてかけ登り始めた。小さな男であるからそれほど高く登ったわけではない。忠勝はあっという間に忠朝の体をつかみ、梯子を降りようとした。その時である。
 忠朝同様に他の木に止まって鳴いていた蝉が飛んできて、忠朝の肩に止まった。驚いた忠朝がその蝉を振り払おうとした時、姿勢を崩した忠勝は忠朝を抱きながら梯子と共に地面に倒れた。地面にたたきつけられる瞬間、忠勝は体をひねり背中から落ちた。
 仰向けに倒れた忠勝の腹の上には忠朝が目をつぶりしがみついている。それは一瞬の出来事であったが、我が子を守ろうとする親の本能が働いたのであろう。
「くう、、」
 忠勝は背中の痛みに顔をゆがめながらたちあがると肩腕に抱いた我が子のほほをつまみ上げ、
「ぼうず、今度は自分で降りろよ。」
と言った。
「いててて、、、」
と、顔をゆがめる忠朝をみて稲姫は思わず微笑んだ。
 忠政はそんな三人の様子をじっと見ていたが、何も言わずに屋敷の中に消えて行った。

 

     

       忠朝と母・お久       忠勝と小松の母・乙女 

 稲姫、忠政、忠朝の三人は忠勝の実子ではあるが母親は違う。忠政と忠朝の母は正室のお久であるが、稲姫の母は側室の乙女である。乙女は松平家の家臣松平弥一の娘であり、忠勝とは幼馴染だったと言う。正式に結婚したわけではないが、実質的な夫婦であり、最初の子供稲姫が生まれた。その後、徳川家康の媒酌で正室として嫁いできたのが阿知和右衛門玄銕の娘、お久である。
 忠勝はこの三人の子供の他に四人の娘があり、それぞれが大名の家に嫁いで行った。つまり、忠勝には七人の子供がいたが、後の世にかたりつがれていったのは、稲姫、忠政、忠朝の三人で、そしてこの、短い物語の主人公は後に真田信之の正室小松の方となる稲姫である。

 本多忠勝は悩んでいた。それは娘、稲の嫁入りについてであった。当時のさむらいの家の結婚と言うのは親が決めた相手に嫁ぐと言うことが多く、現代の様に結婚する当事者の気持ちを重く考えることは少なかったようだ。親の決めた相手と結婚すると言うと現代でいう見合い結婚と考えがちだが、結婚前に夫婦となる二人が事前に会うと言うことは無かった。
 ある大名の息子が婚儀の前に相手の顔が見たいと、他国からやってきた新妻の部屋を訪れようとした時に、
「婚儀の前にお会いするとは、はしたない。」
と、待女に追い返されたと言う話も残っている。婚儀の席で夫婦となる二人が初めて顔を合わせることも多かったようだ。現代の我々の感覚では信じがたいことではあるが、当時の習慣になれた人々の間では、
「それが当然。」
と言うことだったのであろう。こんな話がある。
 ある有力大名のあまり美しくはない姫が嫁いだ時に、婚儀の席で初めて顔を合わせた新郎がその姿を見て思わず顔をしかめてしまった。婚儀の後、新郎と二人になったこの新妻が、
「殿様、私のことがお嫌いであれば側室をお持ちください。お世継ぎがその側室から生まれても恨みには思いません。それでも私は正室としての務めは果たすつもりでございますので、なにとぞ、よろしくお願い致します。」
と言った。新郎は怪訝な顔をしたが、
「なれない土地へ来てつかれたであろう。今日は遠慮せずにゆっくり休みが良い。」
と、言いさっさと眠ってしまった。ああ、やはり自分は醜いから相手にされていないのだと思ったが、翌年には嫡男が生まれ、この夫は生涯側室を持つことは無かった。結婚後に二人の気持ちがぴたりと合った事はこの二人にとっては幸せなことであったろう。もちろん、自分の意思に反した結婚で生涯仲が悪かった不幸な例も多かったようではあるが。
 下々の者はいざ知らず、公家や武家の結婚とはそういうものであったが、
「私は嫁ぐ相手は自分より強い人で無いと嫌でございます。」
と、稲姫は宣言していた。
 徳川四天王の一人の本多忠勝の娘である。是非我が息子の妻にと言う申し出も多かったが、そのたびに、
「私がこの目で確かめたい。」
と、今で言うところの見合いの席が設けられた。徳川家の家臣の子息と何度も見合いをしたが、稲姫の目には誰もが物足りなく、ひ弱に見えた。そんなあるとき、
「是非、私の妻に。」
と、堂々たる風貌の若者が現れた。稲姫は「この人ならば。」と期待をしたが、父の忠勝もが驚くことを言いだした。
「私と試合をして、私に勝てば嫁ぎます。」
 何を小娘がと若者は思ったが、稲姫と対峙した時、相手が若い女であると言うことで遠慮があった。意識的に手を抜いたわけでは無かろうが、隙が生じた。若者は試合に負けてしまった。
 稲姫が試合に勝った瞬間、
「やれやれ。」
と、忠勝は頭を抱えてしまった。

 天正十七年。嫁ぎ先が決まらぬまま、稲姫は十八歳になった。当時の十八歳といえばよほどの事が無い限り、嫁ぎ先が決まっているものである。
 その日、稲姫は母親の乙女と裁縫の仕事をしていた。前述の話では稲姫は男勝りのおてんば娘という印象があるが、裁縫や料理などの家事仕事もきっちりとやっている。父や弟の着物を縫うことも楽しみの一つであった。母親と妹とおしゃべりをしながらの手仕事は楽しい。楽しいが、
「稲、良い加減に嫁に行く気なったらどうです。」
と、母親に言いだすと「またか」とうんざりしてしまった。
(私だって良い人がいれば嫁に行きたい。)
と稲姫が思った時、だれかが廊下をバタバタと奔ってくる音がした。
「姉上、お仕事はまだ終わらないの。」
 女たちの仕事場に顔を出したのは忠朝であった。
「ちょうど、今、終わったところ。」
「じゃあ、遊ぼう。」
 仕事はまだ終わっていなかったが、忠朝が遊びたがっているのを口実に母親の小言から逃げようということだ。
「これ、待ちなさい。」
 乙女の呼ぶ声には答えずに、稲姫は道具をさっさと片付けて、忠朝と手をつなぎ、部屋を飛び出して行った。

「えい。」
「たあ。」
 稲姫と忠朝は屋敷の庭で木刀を持って剣術遊びを始めた。忠朝にとって大好きな姉と木刀で打ち合うことが何よりも楽しい遊びであった。そんな二人の姿を眺めながら、本多忠勝は二人の男を伴って客間に続く廊下を歩いていた。
「さすが、四天王の本多殿の家じゃ。娘ごとあのように幼い子供までが剣術の稽古に励んでいるとは。」
 忠勝に話しかけた小柄の中年のさむらいは信州上田城主の真田昌幸である。もう一人の昌幸より一回り大きな若い男はその息子の真田信幸であった。
「いや、いや、剣術などと。真田殿の目から見ればままごとの様に見えましょう。」
「なにを、ご謙遜を。先が楽しみではありませんか。」
 忠勝は「いやいや。」と片手を振りながらも、うれしそうに真田親子を客間へと誘い入れた。
「姉上、どなたでしょう?」
 障子が開け放たれた客間で談笑する三人を見ながら、忠朝が稲姫に聞いた。
「そうねえ、見たことない人たちね。ちょっと様子を見に行きましょうか。」
 稲姫と忠朝は剣術遊びを止めて、客間からは見えないように庭の隅を歩きながら客間へと近づいて行った。
「それにしても、上田の合戦では我らは相当苦しめられましたな。殿もたかが信州の小城ひとつ、あいや失礼、真田殿を攻めるにあたっては、勝利を確信しておりましたが、さすがは信玄公のもとで働かれた真田殿と、舌を巻いておりました。」
 本多忠勝が真田親子を褒めると真田昌幸はにやにやしながら答えた。
「いや、なになに、我らはまさに小国の弱輩もの、東海の雄である徳川殿相手に必死でありました。それに、、、」
「それに?」
「本多殿が出陣されていれば、我らが勝てたかどうか。」
 四年前の天正十三年、徳川軍は真田家の本拠である上田を攻撃した。その時の徳川家の司令官は鳥居元忠らであり、本多忠勝は出陣しなかった。忠勝の言うとおり、徳川家康は上田城を落とすことは楽勝と考えていたが、徳川軍は地の利を生かした昌幸、信幸親子の陽動作戦に翻弄され、大打撃を受けてほうほうの体で浜松に帰ってきた。当時は織田信長が本能寺で果て、武将たちの勢力再編が進められ、どうやら豊臣秀吉と徳川家康の二大勢力にまとめられようと言うところであった。信州の小大名である真田親子の戦の進め方のあざやかさに、彼らに対する家康の見方は返ってこう評価となったとのこと。豊臣秀吉の仲介によって、両家は和睦をした。上田合戦の周辺を語るだけでも一つの物語になってしまうが、このお話の主人公は稲姫である。このあたりでやめておこう。
 両家の和睦がなったと言うことで真田親子は浜松の家康のもとを訪れ、
「これを機会に是非とも本多忠勝殿とお近づきになりたい。」
と言う昌幸の願いで、本多邸に招かれたと言うわけだ。しかし、この日信幸の生涯が決定的なものとなると当の本人は思ってもいなかったろう。
 過去に戦った相手とは言え、戦国の武将である。和睦がなされれば、お互いを尊敬しあい合戦話に花が咲くと言うこともある。戦のことであるから血なまぐさい話ではあるが、三人は和やかに談笑していた。
「さて、かわいらしい剣士の稽古も終わったようですな。」
 話が一区切りついたところで信幸が言った。そう言えば、話に夢中で稲姫と忠朝が庭からいなくなっていたことに三人は気付かなかった。客間の廊下がわずかにきしむの聞いて、
「これ、そこにいるのは稲であろう。ちょうど良かった。入りなさい。」
忠勝が廊下に向かって呼びかけた。稲姫が部屋に入ってきて、忠勝の横に座った。
「長女の稲でござる。」
 忠勝に紹介されると稲は首を少し動かした。会釈をしたつもりであったのであろう。
「これ、この通り無作法もので困ります。女のくせにいつもああやって、弟相手に剣術のまねごとばかりのじゃじゃ馬でござるよ。今まで何度か家中の男と試合をしましたが、負けたことがなくのう。いやいや、さてさて、お恥ずかしい。女にしておくのがもったいない。男であればとっくに初陣を済ませているものを。何とも残念な・・・・」
と、困っているのか、自慢なのか良くわからない忠勝の紹介の仕方に昌幸は微笑み、
「真田昌幸でござる。これは長男の信幸。」
と信幸を紹介した。
「真田信幸でござる。よろしくお頼み申す。」
 胡坐の両膝に手を当て、信幸は頭を下げたが、稲姫は、
「稲でございます。」
と言って、頭も下げずに信幸をじっと見つめた。そして膝をすり、首をのばし右から左からと信幸の顔をなめるように観察を始めた。
(やれやれ、また始まった。)
 本多忠勝は暗い表情となり、
「ほ、ほほ。これはこれは、誠に、どうも。」
真田昌幸は妙な笑い方をしたが、信幸は人懐っこい微笑みで稲姫の視線を受け止めている。

後編に続く・・・お楽しみに

 

こちらは、大多喜町観光本陣の小松姫像。いすみ市在住の奥村さんの作品です。

 

連載中の小説:忠朝と伊三 

第1部          10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

第2部 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32

 


い鉄おススメお土産・お菓子編 (いすみ鉄道)

2011年09月25日 | 大多喜町のグルメ、名産、物産

画像はおとGさんと山岡さんからいただきました。

 

「いすみ鉄道に乗ってきたよ~」

い鉄おススメお土産・お菓子編

ご乗車記念のお土産にいかがでしょうか?

掲示板うぇるかむ大多喜に寄せられた、おいしい顔

 

おススメその1

いすみ鉄道もなか

いすみ鉄道の車両をかたどった箱に入っています

見た目も可愛く美味しいもなかです

10個入りや3個入りもあるのでお土産として配るのに最適です

食べちゃったら   飾るのよ

 

 

おススメその2

い鉄揚げ

人気商品です濡れせんべいを香ばしく揚げたしっとり仕立ての煎餅ですよく見ると、煎餅一つ一つがい鉄沿線を彩る菜の花の形をしているんですこちらも、い鉄こだわり商品です

・オリジナル

・カレー

・かりんとう

の全3種類です

 

これらの商品は下記の駅にて販売しています

 

デンタルサポート大多喜駅

風そよぐ谷国吉駅

大原駅

 

また、webショップにても販売しておりますのでこちらもチェックしてみてください

いすみ鉄道webショップ

 

今回紹介させていただいた商品の他にもいすみ鉄道グッズはたくさんありますいすみ鉄道ご乗車の際には是非現地のグッズショップにもいらしてみてくださいね~

これはね・・・  ティッシュケース

 

 

  


藤本幸一展☆ アートと森林と温泉が揃っています(千葉県・養老渓谷)

2011年09月24日 | 大多喜町の観光スポット

古民家を改修したギャラリー「アートハウス あそうばらの谷」では、9月10日から10月10日(会期中の金・土・日・祝日開館)水彩スケッチ画『藤本幸一展』を開催中。入館、見学無料。

 
藤本さんの作品は、不安定なペン描写に水彩絵の具でのやわらかな色付けが特長です。

昭和30年代を彷彿とさせる、どこか懐かしい雰囲気を感じさせるものが多くあります。

市原市朝生原1083-1 TEL:0436-50-8770 

小湊鉄道・養老渓谷駅から徒歩約5分。

 

最近はパワースポットと言われて注目の養老渓谷(千葉県市原市~大多喜町)

粟又の滝遊歩道 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/yuuhodou.html

中瀬遊歩道 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/nakase.html

弘文筒跡 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/koubundou.html

養老渓谷で、渓谷、川、滝、自然をハイキングなどでリラックスするもいいのですが、温泉でリフレッシュするのも楽しみなものの1つですね。
養老温泉は、房総最大の規模をもつ温泉地です。
養老渓谷温泉はコーヒーのような色の黒湯で、すり傷や、やけど、リューマチ、皮膚病等に効能があるといわれています。

宿泊はもちろん日帰り入浴も可能です。

どの湯がお好みですか?  

クリック 大多喜町・宿泊案内 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/accommodation/

クリック 養老渓谷温泉郷公式HP http://www.yorokeikoku.com/

クリック 大多喜町観光スポット http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/

 

  鉄道ファン&ムーミンファンの方は いすみ鉄道 http://www.isumirail.co.jp/

 二つのローカル線で房総を横断するのもいい 小湊鉄道 http://www.kominato.co.jp/


浮世絵の祖☆菱川師宣筆の「江戸風俗図屏風」展示(千葉県大多喜町)

2011年09月23日 | 大多喜町の観光スポット

千葉県立中央博物館・大多喜城分館収蔵資料展

武家の身代10月23日まで開催中。

 今回の資料展には複製品ではありますが、浮世絵の祖と称され「見返り美人図」で有名な菱川師宣筆の「江戸風俗図屏風(複製)」が出品されています。当時の市井の暮らしぶりがいきいきと描写されています。  

江戸風俗図屏風 左隻

江戸風俗図屏風 右隻

原品はアメリカのフリーア美術館に所蔵されている門外不出の屏風ですが、この度、京都文化協会と㈱キャノンが同美術館の協力を得て、高精度デジタルで製作され、中央博物館に寄贈された貴重な資料です。 

日本の高度な技術に驚かれることでしょう。(パソコンの画面とは全然違いますのでご注意ください)

 

 

武家の生活用具、武芸の道具など当館収蔵資料が盛り沢山です。

 

大多喜城分館 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/

 

 大多喜城分館は、いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅下車徒歩15分です。

大多喜町の観光スポット  GO


大多喜城手づくり甲冑展の開催(千葉県大多喜町)

2011年09月22日 | 大多喜町の観光スポット

大多喜城手づくり甲冑会方々の手づくりによる甲冑展を、観光本陣で開催します。

皆様のおいでをお待ちしています。

  ○展示期間      平成23年9月23日(祝)~10月7日(金)

  ○場   所      大多喜町観光本陣 (いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅前)

  ○問  合 せ      観光本陣   ℡:0470-80-1146 

 

 

 

↑ 福田さんのオリジナルイラストをお借りしています http://sengoku-gallery.com/

 

大多喜お城祭りの詳細  http://www.town.otaki.chiba.jp/

 


キッチンさわ いちじくケーキ 千葉県優良県産品に認定

2011年09月21日 | 大多喜町のグルメ、名産、物産

キッチンさわ いちじくケーキ

千葉県優良県産品に認定されました

地元大多喜産自家栽培採れたてのいちじくを使った、

手作りの素朴で懐かしい味です。 1本1,200円。

キッチンさわ http://kitchen-sawa.com/index.html

TEL/FAX:0470-82-3844

 

道の駅たけゆらの里、いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅前の観光本陣でも販売しています

  


上総大多喜城最中十万石 津知家

2011年09月21日 | 大多喜町のグルメ、名産、物産

本多十万石の城下町に伝わる歴史の味 

千葉県優良県産品


上総大多喜城 最中十万石

 (かずさおおたきじょうもなかじゅうまんごく)

最中十万石は、昭和50年(1075年)に上総大多喜城の本丸跡に千葉県立総南博物館が城閣様式で建設され、開館に合わせて大正8年(1019年)に創業の御菓子司「津知家」の家伝の製法をとり入れた「最中十万石」を製造しました。

十勝産の小豆を使用したつぶあんで国産のもち米を原料に大多喜城主であった本多家の家紋である「立ち葵」と元禄16年(1703年)入城し廃藩となった松平家の「三つ扇」を最中の皮に配しています。

あんがたっぷりで皮がふさがらないんです  

写真は借り物ですが↓  これで130円ですよ~

 

御菓子司  津知家 
〒298-0214 夷隅郡大多喜町新丁83   TEL.0470(82)2255

デンタルサポート大多喜駅から徒歩約10分


    

 

房総の小江戸・大多喜

大多喜町では、城下町大多喜の歴史や文化を活かしたまちづくりを進めようと、平成12年度から10年計画でスタートした「街なみ環境整備事業」を進めています。店舗や一般住宅等で建物の改築や石畳・店頭看板の設置など、景観を整備しています。 こちら 

 


ふくだや☆ 明治時代より4代続く和菓子処 (大多喜町)

2011年09月20日 | 大多喜町のグルメ、名産、物産

大多喜町で明治時代より4代続く和菓子処

ふ く だ や

 

十万石大多喜どら焼です

北海道産の小豆を一晩じっくりと、蜜をふくませて炊き上げた程よい甘さの餡と、

地元の卵を使用し風味豊かに焼き上げた皮で、昔ながらの製法にこだわっっているどら焼きです

どら焼きには、栗、梅とチーズ味があります 

 

チーズ? と、お思いかもしれませんが、一度お試しください

これは病みつきになります (←ジャンヌさんが・・・)

 

福田屋さんの冷たい大福「お抹茶が好き」「モンブランが好き」と様々

 

お城サブレ、栗家紋、月餅等など、どれをお土産にしようか迷ってください

 

なかのは、知らなかったのですが、本多家の家紋入り18cm四方の重箱に、大多喜城のイラスト(シナモンパウダー)入りの羊羹。

すごいっ

9月~1月下旬のみ販売の 季節限定 「大多喜 芋ようかん」 

大多喜のお土産に是非どうぞ

 

御菓子司 ふくだや 千葉県夷隅郡大多喜町新丁24

電話 0470-82-2553 

いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅から徒歩8分

(by なかの


房総の小江戸大多喜☆『出没!アド街ック天国』の撮影が行われました。 

2011年09月19日 | 大多喜町 大多喜周辺

大多喜は、徳川四天王の一人「本多忠勝」が大多喜城を築城した歴史のある町です。
城下の良玄寺には忠勝の墓があり、忠勝が関ヶ原の戦いまで生涯57度の戦いにおいて傷ひとつ負わなかったということから、勝運を授かりに参拝者が訪れます。


大多喜城の城下町として栄え、明治・大正・昭和と時の流れの中で平成へと伝え続けられてきた大多喜商人の心意気を感じる街並みを散策してください。 

特に城下町の面影を残す久保、桜台、新丁地区には、江戸時代から変わらぬたたずまいを残す建物が点在し、昔を偲ばせています。

大多喜城下の商人を支えてきた道具の数々、また庶民の生活を支えてきた品々の展示される「商い資料館」(下)

また城下町大多喜の歴史や文化を活かしたまちづくりを進めようと、店舗や一般住宅等で建物の改築や石畳・店頭看板の設置など、景観が整備されました。

 

人力車が、町内の名所旧跡をご案内しています。土・日曜日、休日にご利用できますが、天候の悪い場合など休ませていただく場合がありますので、事前にお問い合わせ下さい。料金は一回30分3000円。

 

画像提供は葵の会さん(うえるかむ大多喜)。 葵の会は、 商い・市の神様の「青龍日吉神社」賑わいの復活を願い、様々な工夫をしながら、大多喜町を訪れる方々へのおもてなしのお手伝いをしてくれるおかみさんの会です

葵の会さんからの情報によりますと、 テレビ東京の土曜日放送『出没!アド街ック天国』の撮影が行われたとか。放送は10月 29日。

 

房総の小江戸大多喜  http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/koedo.html

商い資料館 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/akinai.html

人力車 http://www.town.otaki.chiba.jp/kankou/spot/jinriki.html

葵の会 http://blog.goo.ne.jp/aoi20090302

大多喜城と本多忠勝 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/ 

当ブログでの大多喜城・本多忠勝・本多忠朝情報  こちら     

*房総の小江戸は、いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅からタイムスリップできます。  


日本酒の美味しい季節です☆ 豊乃鶴酒造 (千葉県大多喜町)

2011年09月18日 | 大多喜町のグルメ、名産、物産

豊乃鶴酒造 

 清酒「大多喜城」の蔵元豊乃鶴酒造は、徳川四天王の一人本多忠勝が、初代城主になった大多喜城下の銭神地区に、天明年間(1781年~89年)に創業と伝えられています。当主田嶋豊彦さんは17代目です。

明治7年(1874年)に建てられた庄家造りの建物は、城下町の風情を色濃く残しており国の有形文化財に指定されています。

 

酒蔵には、直角に曲がる道、格子戸と蔵造りの家屋などが数多く残され、

歴史的文化遺産として昔の面影を色濃く今に伝えています。

 

主力銘柄は昭和49年(1974年)の大多喜城の再建を機に発表した

大多喜城」と、創業の地名を命名した「銭神」です。

いずれも端麗型、キレの良い辛口でありながら、しっかりと酒本来の旨味を楽しめる味わいです。

 酒造の見学が体験できますのでお問い合わせしてみてはいかがでしょうか。

千葉県夷隅郡大多喜町新丁88  電話 0470-82-2026  日曜定休 

いすみ鉄道・デンタルサポート大多喜駅から徒歩7分

ホームページ  http://www.toyonotsuru.com/ 

 

房総の小江戸・大多喜

大多喜町では、城下町大多喜の歴史や文化を活かしたまちづくりを進めようと、平成12年度から10年計画でスタートした「街なみ環境整備事業」を進めています。店舗や一般住宅等で建物の改築や石畳・店頭看板の設置など、景観を整備しています。 こちら 

 


いすみ鉄道と笑顔の3連休☆☆☆ 

2011年09月16日 | 頑張れ!いすみ鉄道

嬉しい3連休が  連続でやってきます

いすみ鉄道では、臨時列車をキハ52で運転します。

 

動画は4月に投稿されたものをお借りしています


 


【時刻】
61D 大多喜 9:28―――9:48 上総中野
60D 上総中野 9:54―――10:14 大多喜

大多喜―上総中野間は普通列車として運転します。全席自由席です。
この列車に引き続き、大多喜―大原間で臨時急行列車をいつも通りの時刻で運転します。

【61D・60D運転日】
9月17~19日・23~25日

今月はこの6日間のみ上総中野へ入ります。
特製サボ(行先表示板)を付ける予定です。

 

詳しくは、いすみ鉄道社長ブログ GO

 

皆様、カメラを持っておでかけくださ~い

いすみ鉄道で楽しく過ごした

とびっきりの笑顔の写真を応募してみませんか。

いすみ鉄道と笑顔フォトコンテスト http://www.atpress.ne.jp/view/22133

10月15日まで!

ムーミンの列車も走っていますよ~

 

 

「第2回 いすみ鉄道と笑顔」フォトコンテストのポスター掲示にご協力いただいた皆様が、

デンタルサポートのグループ報『D.S.News』に掲載されました。

大きくしてご覧ください。【D.S.News】2011年9月号(PDF)

 


本多忠勝と本多忠朝

本多忠勝没後400年記念≪動画≫ 制作:いすみ鉄道応援団 写真はいすみ鉄道応援団、戦国画は福田彰宏さん、音楽は、moka(モカ)さんの「ロボット」。大多喜城へは、世界で唯一のムーミン列車・いすみ鉄道をご利用ください。   

大多喜城讃歌

大多喜城讃歌   作詞 尾本信平  作曲 市角源一 ≪1≫ 世は戦国の 房総に    武田や正木の 根古屋(ネゴヤ)城   万喜(マンギ)の土岐(ドキ)と 幾度か   干戈(カンカ)交へし 刈谷原   ああ夢遠し 大多喜城   鐘の音何処 無縁堂 ≪2≫ 三河の本多 忠勝は   徳川勢の 四天王   里見に備へ 舞鶴(ブカク)城   夕陽きらめく 天守閣   ああ夢遠し 大多喜城   冑の絵姿(スガタ) 今に見る ≪3≫ 慶長秋に ロドリゴは   ルソンを出でて 岩和田に   漂着難破 忠朝(タダトモ)の   なさけは世界に 伝はりぬ   ああ夢遠し 大多喜城   支倉(ハセクラ)ローマの 縁かな ≪4≫ 天下を分つ 関ヶ原   大阪冬や 夏の陣   忠朝あはれ 討死す   苔むす墓石(ハカ)や 良玄寺   ああ夢遠し 大多喜城   名将ここに 眠れるか ≪5≫ 京洛の秋 風寒し   薩長土肥か 徳川か   城主の老中 正質(マサタダ)は   幕軍率いて 鳥羽伏見   ああ夢遠し 大多喜城   調練励む 民人も ≪6≫ 昔を偲ぶ 大井戸や   空壕(カラボリ)跡も 草しげし   若殿輩(ワカトノバラ)も 此の城門(モン)を   立ち出てたらむ 花吹雪    ああ夢遠し 大多喜城   影こそ映れ 御禁止(オトメ)川

大多喜町観光本陣(この記事は常時TOPにあります)

大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前) 電話 0470-80-1146(代)  FAX 0470-82-6860 ○開館時間 午前9時から午後5時 ○休館日 毎週月曜日(祝日等の場合は翌日)及び12月29日から1月3日 〇貸し自転車、人力車あり