積極的苦悩と消極的苦悩
積極的苦悩と消極的苦悩
自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」
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-それでも私はなぜ出馬するのか- 西川攻著
第三章 主体性と自立心について
5・積極的苦悩と消極的苦悩
自らが好んで所期の目的貫徹せんと必然的に解決しなければならない渦中に敢えて挑むことから生ずる積極的苦悩。
外部的理由によって否応無しにに本人の意思に関係なく受けざるを得ない消極的苦悩。
前者は価値的且つ生産的であるのに反し、後者は無価値且つ非生産的と言えます。
挑戦意欲を持って行動する場合の苦悩の全ては、問題解決を考え出し、そのための創意工夫が絶えず頭をよぎり脳細胞が間断なく分裂を繰り返し活性化が促進されます。
従ってそのような苦悩の場合は、本人が飛躍する上で不可欠のものとなります。
所謂、修行や練磨の糧となるわけです。
反対に自己保身や逃避だけを考え、平穏無事を壊れないように必死に支える事だけを考え、自らの向上のチヤンスとなる冒険心を無くしている人は、意外に多くなっている様に思えてなりません。
彼らの悩みは全て受動的であり、常に外部的原因や他者からの影響に左右される故に、極めて不安定な心理状態に陥り、その苦悩は、より一層、陰湿になることは明らかです。
消極的苦悩は一見積極的なそれよりも無難で負担が軽いように見えますが、実は人間の精神を残酷なほど蝕み、脳細胞を麻痺せしめ、本人が気付くことなく、果ては志や、夢を持てない消極人間になってしまうわけです。
「何を好んで大変な道を」と消極人間は積極人間の本質を理解せず、開拓せんとする他人の人生の生き方について安易に忖度し、無用な発言が出来るのか、理解に苦しみます。
余計なお世話とは、将にこのようなことを指して言う事に他なりません。
起伏のない平坦な道を終生過ごす人生のなかにそんなに素晴らしいものがあるとは、私は決して思えません。
”いろんな場面や局面に立ったときにどう判断し、どう対処すべきか”このようなテ-マが一貫して自らの生きぬく上で毎日のように、しかも具体的に襲うにも拘らず,その解決に向けてテキパキと積極人間は苦悩を処理しています。
従ってこのような人は愚痴や弱音は顔にも言葉にも出しません。
なぜならばそのこと自体が充実に向けての最低条件たることを認識しているからです。
小説がそうであるように、片言片句や一行のみでその価値や批評をすること等は出来ません。全体を読んだ中で、はじめて、真の評価がわかるわけです。
人生でも然りです。
一時期のみを捉えての評価はすべきではないし、人の一生とは棺を覆ってみて始めて判るとは将に、真実なのです。
中には死後何10年、何100年後に始めてその人の偉大さが改めて見直される例さえたびたびあります。
要するに、その人の生き方は、将に歴史が判定する訳であり、そもそも他人の人格や生き方については軽々に忖度すべき事柄ではないのです。
万金を積まれても変えることが出来ないだけの価値があるのが人生なのです。
これだけはどんなことがあっても譲れないものを心の中でしっかり持っていること、其のこと自体が人間としての個我の自覚の現われなのです。
このような自覚があれば消極的苦悩の生活を繰り返すだけの意味のない生涯は送りたくないと悟り、考えるのが正当且つ自然です。
健康で明日への希望と楽しさが積極的苦悩と混在してこそ幅広い重厚な心を持った信頼される人間へと飛躍することになる訳です。
いずれにせよ人生は積極的に生きたほうがはるかに面白いはずです。
平成24年3月6日
西川攻(さいかわおさむ)でした