大地震が起きた日

2011年03月11日 16時13分00秒 | B地点 おかか

 

 

私(作者)の母は、03月09日の夜、救急車で搬送され、そのまま緊急入院となり、救急室で一晩を過ごした。

翌日(10日)から病棟に移った母の経過は、とりあえず順調。

そしてこの日、03月11日

正午過ぎに、私が病棟に行くと、ナースステーションには誰もおらず、心拍等をモニタする機器のアラーム音だけが響いていた。「何か」があったようだ。やがて、医師やナース達が、廊下を慌ただしく走る姿が。

そして、一般病室からストレッチャーで運ばれてきたのは ―― 母だった。また発作を起こしたのだ。
母が運び込まれた集中治療室(?)には、入れ替わり立ち替わり、病院のスタッフが出入りする。懸命の処置が行われているのだ。

私は部屋の外に立って、母の心拍をそのまま伝える機器の音を、ずっと聞いていた。あの音が途切れることがないように ―― それだけを願っていた。

一時間ほどの処置の後、母の容態は安定した。

入室を許された私は、しばらくの間、母の枕頭で過ごしたが、とりあえず私がすべきことは何もなくなったので、帰宅することにした。

―― そんなわけで、あの時、即ち、14時46分、私はちょうど、病院から出たところだった。

地震に気付いた私は、すぐに病院内に引き返し、8階まで階段を駆け上がった。(エレベーターはどうせ止まっているだろう。仮に止まっていないにせよ、使うつもりはなかった。閉じ込められたくないので。)

治療室に駆け込むと ―― 母は無事。スタッフは誰もいなかった。

治療機器類が、揺れのせいでかなり動いていたが、見たところちゃんと動作しているようだ。
余震に備えて待機。

床頭に備え付けの読書灯(?)が可動式で、たいへん危険に思われたので、私はそれを取り外した。

大きな余震が来た時、私は病棟スタッフ二人と共に、母のベッドを囲み、治療機器類が動かないよう、手で押さえていた。(キャスターがロックできないタイプの点滴スタンドが、いちばん危険に思えた。)
携帯電話は地震直後から使えなくなった。緑の公衆電話もだめ。グレーの ISDN 公衆電話で、やっと父の安全を確認。兄夫婦とは連絡がつかない。

母は病院にまかせて大丈夫だろう。私は帰宅することにした。
帰宅する前に、「いつもの場所」に行った。

いつもの猫たちがいた。ご覧の通り。特に普段と変りはないようだ。

ただし、よっちゃんだけ、いなかった。(よっちゃんは、二日後にようやく、元気な姿がボラさんによって確認された。)