私(作者)の母は、03月09日の夜、救急車で搬送され、そのまま緊急入院となり、救急室で一晩を過ごした。 |
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そしてこの日、03月11日。 正午過ぎに、私が病棟に行くと、ナースステーションには誰もおらず、心拍等をモニタする機器のアラーム音だけが響いていた。「何か」があったようだ。やがて、医師やナース達が、廊下を慌ただしく走る姿が。 そして、一般病室からストレッチャーで運ばれてきたのは ―― 母だった。また発作を起こしたのだ。 |
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母が運び込まれた集中治療室(?)には、入れ替わり立ち替わり、病院のスタッフが出入りする。懸命の処置が行われているのだ。 私は部屋の外に立って、母の心拍をそのまま伝える機器の音を、ずっと聞いていた。あの音が途切れることがないように ―― それだけを願っていた。 |
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一時間ほどの処置の後、母の容態は安定した。 入室を許された私は、しばらくの間、母の枕頭で過ごしたが、とりあえず私がすべきことは何もなくなったので、帰宅することにした。 |
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地震に気付いた私は、すぐに病院内に引き返し、8階まで階段を駆け上がった。(エレベーターはどうせ止まっているだろう。仮に止まっていないにせよ、使うつもりはなかった。閉じ込められたくないので。) 治療室に駆け込むと ―― 母は無事。スタッフは誰もいなかった。 治療機器類が、揺れのせいでかなり動いていたが、見たところちゃんと動作しているようだ。 |
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余震に備えて待機。 床頭に備え付けの読書灯(?)が可動式で、たいへん危険に思われたので、私はそれを取り外した。 大きな余震が来た時、私は病棟スタッフ二人と共に、母のベッドを囲み、治療機器類が動かないよう、手で押さえていた。(キャスターがロックできないタイプの点滴スタンドが、いちばん危険に思えた。) |
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携帯電話は地震直後から使えなくなった。緑の公衆電話もだめ。グレーの ISDN 公衆電話で、やっと父の安全を確認。兄夫婦とは連絡がつかない。 母は病院にまかせて大丈夫だろう。私は帰宅することにした。 |
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帰宅する前に、「いつもの場所」に行った。 いつもの猫たちがいた。ご覧の通り。特に普段と変りはないようだ。 ただし、よっちゃんだけ、いなかった。(よっちゃんは、二日後にようやく、元気な姿がボラさんによって確認された。) |
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私も昨年 母が救急車で1日に2回も運ばれ大変でした
おにいさんの心中お察しします
お母様 そして おかか先生 お大事になさってください
q太郎は 毎日3回 高カロリー食をシリンジで注入してます 普段は 前足で抵抗するので タオルでつつんであげてたんですが 昨日から 抵抗せず 前足を私の足の上に置き 大人しく シリンジを受け入れてくれてます それがいい事とは思えませんが 鼻から膿が出て まだ嫌な膿臭いにおいがします ゆで節だけは食べるようになりましたが ほかの生の餌は 受け付けません かりかりは 骨折がないってないので もちろん食べられません
「飼うなら 捨てるな 捨てるなら 飼うな!」ですよね もう不憫でたまりません
q太郎君がんばれ!
私もがんばるぞ。