釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

メディアも三権分立もなくした日本

2015-08-31 19:18:26 | 社会
昨日の国会前デモはかっての1960年安保闘争以来の大規模デモになったようだ。当初主催者は12万人と発表したが、現場にいたオランダ人記者Kjeld Duits氏によると、12万人を上回ったと言う。主催者も後にのべ35万人に達したと訂正している。全国各地のデモを合わせると相当数の全国的な規模となるだろう。7月4日、早稲田大学で行われた「ジャーナリズムは権力を撃てるのか?」と言うシンポジウムで、野中章弘早稲田大学教授は「首相動静を見ると、日本のメディアの経営幹部と編集幹部が頻繁に安倍首相と会食をしている。・・・・それについて、メディアの中でおかしいという声がまったく出てきていない。・・・・日本では、政治家の懐に入って情報をとって半日早いスクープをとるのが優秀な記者だと思われていて、政治家と一体化してしまう取材のやり方が広く行われている。」と述べ、それに対して、ニューヨークタイムズのマーティン・ファクラー東京支局長は「大きい新聞やテレビの記者は、東大、早稲田、慶応という一流大学の人がほとんどだが、財務省や外務省、トヨタも同じ出身で、非常にエリートの階層。日本を支配しているのは官僚体制で、メディアはその一部になっている。」、「あまり国民の側に立たなくなる。(権力との距離という点で)非常に近いところに立つことになる。同じエリートとしての意識が強くて、それが当たり前と考えている」と述べている。昨日のデモについてもメディアは政府の顔色を伺った萎縮的な記事しか報じていない。戦中の大本営発表を垂れ流したメディアの体質が今も変わらない。日本には健全なメディアが存在しないだけではなく、何よりも民主主義の根幹をなす三権分立が確立されていない未成熟な民主主義国家だ。そう普段から考えていたが、芥川賞受賞作家の池澤夏樹氏もずっと以前からそう考えていたようだ。池澤氏はやはり作家で学習院大学教授でもあったフランス文学研究者の福永武彦の長男でもある。1997年4月に駐留軍用地特措法が改正され、国は地主の意思を無視して民有地を米軍用地として永久に借りていられるとなった。この時池澤氏はこれは「憲法95条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」に違反すると考えられた。沖縄だけが民有地であった。さらに、1972年の沖縄返還の際にも、「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」が制定されており、これもやはり違反している。「憲法とは本来このように国民を国の圧政から守るためのものである。一地方を犠牲にして他が利を得てはいけない。個人の権利を守ると同じように地方の権利も守る。それが機能しないのは日本国の司法府が憲法判断を逃げているからだ。」と述べている。最高裁判所が1959年の砂川判決で、日米安保のような高度に政治的な問題は「その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」と言う、いわゆる統治行為論による判例を作ってしまった。「日本では国の根幹に関わる問題で司法府が憲法判断を放棄してしまった。一九九七年の段階で九十五条は死んだ。今は九条が死にそう。」と述べている。さらには、「最近になって立法府も死にかけてきた。民意を反映しない選挙制度が一強多弱の体制を生み出し、それにうんざりした国民の無関心が投票率を下げ、全国民の二十四パーセントの票を集めたにすぎない自民党と公明党が絶対多数になった。しかも議員の多くは党の方針に逆らえない若手の陣笠くんたち。かくして国会はヤジと手続きの機関に堕した。 今の日本は行政府の独裁という状態である。」としている。「既に司法なく、今また立法なし。日本は三権分立で運営される民主主義国家から行政独裁へと、途上ならぬ途下の道を粛々と歩んでいる。三脚のはずが一脚では立てない、主権在民という地面に穴を穿(うが)たないかぎり。」民主主義制度がこれほどまでに危機に瀕していて、メディアも首相の食事仲間に成り果ててしまった日本は国民の力で今立て直さなければ、間違いなく、いつか来た道を歩くことになる。
天候不順が続き育ちが悪くなったスイカ

崩壊している議会制民主主義を補強するデモ

2015-08-30 19:12:49 | 社会
今日もまた小雨の降る曇天が続いた。もうこんな日が20日近くも続いている。まるで梅雨に逆戻りだ。そのためか暑さはすっかり去ってしまって、今日は最高気温が20度だった。夜はもう布団をかけないと寒い。庭の花たちや農作物への影響が心配になる。日照時間があまりにも少ない。 今日は午後から東京で安保関連法案に反対する10万人デモが行われ、全国300カ所以上でも同時にデモが一斉に行われた。民主主義には制度化されたものと制度化されていないものがある。いずれも現憲法が保障する。憲法が保障する、思想・良心の自由、言論の自由、表現の自由、結社の自由などはデモもまた保障している。日本の歴史では民衆によるデモは室町時代の「蜂起」に始まり、戦国時代の「一揆」へと移り、江戸時代末期にも引き継がれた。明治時代の足尾鉱毒事件では「押出し」と言われている。戦後は、1960年の安保闘争で岸内閣が崩壊し、1960年代後半の学生運動では次第に暴力が前面に出されたことで、孤立化し、以後はデモが縮小して行った。2010年に始まった北アフリカのチュニジアの「ジャスミン革命」に触発されて、アラブ各国に「アラブの春」と呼ばれた民衆の大規模なデモが2013頃まで拡散して行った。そんな中で2011年の福島第一原発事故が起き、2012年7月16日、原発再稼働に反対して、東京の代々木公園で「さようなら原発10万人集会」が開かれ、主催者発表で17万人が集まった。そこで、当時90才にもなる瀬戸内寂聴さんが「私たちは税金を払っている国民。言い分があれば、言葉に出し、体で表現していいんです。たとえ相手が聞かなくても言い続けましょう」と語りかけた。ノーベル賞受賞の大江健三郎氏は750万人もの反対署名を首相官邸に提出した。今日の東京のデモは若者たちのSEALDs、中高年のMIDDLEs、高齢のOLDsなど、世代を超えて集まり、海外に住む日本人からはOVERSEAsが立ち上げられている。26日には日本弁護士連合会が呼びかけ、学者や元最高裁判事、元内閣法制局長官ら、全国108の大学の「有志の会」が一体となって、安保関連法案の廃案に向けて集まった。1960 年代は労組や学生党派のデモが主体であったが、2010年代はむしろ労組や党派とは無縁の人で構成されようになった。その背景には中曽根政権での労組の解体も一因となってはいるのだろうが。安倍政権は有権者の3割にも満たない得票数で多数党を占め、その多数に物言わせ、強権的に次々に日本の未来を左右させる重要法案をろくな審議も経ないで成立させて来た。一部に言われるように「独裁」的であるとすら言える手法だ。憲法の理念を真っ向から否定している。戦後の政治思想研究の大家であった丸山真男は議会制民主主義が機能しない時のデモを対極の民主主義の一形態として高く評価している。今、首相が最も恐れているのは祖父の岸信介と同じく、デモにより自分の政権が崩壊することだろう。
菊の花たち

対米従属国家、日本

2015-08-28 19:11:07 | 社会
もう二週間以上にわたって日射しの出ない異常な天候が続き、ついに今朝、2000年前の大賀ハスは蕾のまま花びらをすべて落としてしまい、緑の蜂の巣のような花托だけが残されていた。せっかく蕾が二つ大きく育ったが、天候のせいで今年は綺麗に開いた花を見ることが出来なかった。 世界の政治も経済も覇権が揺らいでるとは言え、米国の動きで左右される。中国は大国の仲間入りをしたがまだまだ政治と経済に確固たる基盤は持ち得ていない。日本などは政治家も官僚も対米従属一辺倒で、現在の安倍政権の安保関連法案も労働規制の緩和や労働の流動化を名目とした派遣社員の拡大、日本銀行の金融緩和のすべてが米国の要求に従った政策でしかない。かっての政治家はそれでも日本の国益を米国に主張するところがあったが、何も見識を持たない安倍首相はひたすら米国の顔色を見るばかりだ。製造業から脱皮して、金融経済を中心に据えた米国は、物を作らないで、お金でお金を生み出す方法で経済を維持するようになった。債権の証券化と言うマネーゲームを導入し、その行き過ぎが、2007年から2009年にかけて起きたサブプライム住宅ローン危機であり、返済も不可能だと分かっている人にまでローンを組んでいた。2008年のリーマンショックに代表される金融機関の大量負債を生み出した。米国政府はここで生まれた負債金融機関を救済するために一大金融緩和を打ち出した。ドルを市中に大量に流し続けるのだ。多量のドルが出回れば、当然ドルの価値は下がる。しかし、それは覇権を維持したい米国にとって不都合だ。一方、市中では流れて来た多量のドルをゼロ金利政策の下で、低利で借りた投資家たちが新興諸国へその資金を投入する。リーマンショック後の6年余りで、代表的な15の新興諸国に対し、2.2兆ドルの資金が流れたと言われる。しかし、中国だけでなく新興諸国が世界の需要以上のものを生産し、供給過剰となり、経済が今や減速し始めた。ここに来て、米国は基軸通貨としてのドルの価値を下げ続けることがドルの信用をなくすことに危機感を持ち、それまでの方針を転換して、ドル高と金融引き締め(金利が上がる)を打ち出した。投資家たちは新興諸国へ投資した資金の3割を引き上げて国内に戻した。中国の株価低下に始まる各国の株価低下の背景にはこうした事情がある(もっとも、国内の株価急落にあわてた米国は利上げを一時思い留まることにしたので、米国の投資マネーは日米の株に向かい、再び株価は上昇したが)。日本銀行の異次元の金融緩和はデフレ解消のためなどではない。いつまでも金融緩和を続けられなくなった米国が、米国に代わって日本と欧州に金融緩和を要望したため、米国のために行ったに過ぎない。前代未聞の金融緩和をしたにもかかわらず、未だにデフレ脱却は成し得てない。企業が先行きを考えて、金融機関から資金を借りて投資をするような環境ではないため、市中にはお金が回らず、単に市中銀行の当座預金が日本銀行に積み上げられているだけである。市中にお金が出回り、人が物を買う気にならなければ、インフレにはなり得ない。いくら日本銀行が金融緩和をやろうと人の実質賃金は低下し続けているのだ。これでは誰も物を買う気にはなれない。米国の金融緩和がそうであったように、日本の金融緩和は株高、円安をもたらせただけである。米国に追従して、結局は日本の経済をダメにしているのが、異次元の金融緩和だ。一部の輸出大企業が円安による見かけの利益を上げただけで、輸出量は伸びず、消費も停滞し、経済成長率はマイナスとなり、実体経済はまったく回復していない。米国から頼まれた経済政策はあくまで米国のためであり、日本のためではないから、当たり前と言えば当たり前なのだろうが。安保関連法案も日本のためではなく、財政難で軍事費をこれ以上は出せない米国に代わって、日本に軍事行動を肩代わりさせようとする米国の要望にそったものでしかない。自衛隊は日本の自衛のためではなく、米国のために命を落とそうとしているのだ。
オランダ豌豆(えんどう)に似ているが色が鮮やかだった

蓮(はす)

2015-08-26 19:13:53 | 科学
朝は17度で昼には21度まで上がったが、曇天で時々小雨も降り、ほんとうにここ1週間は日射しが極めて少ない。今日はセミの声もさすがに聴こえて来なかった。 長く日射しが出ないせいか、2000年前の大賀蓮(おおがはす)の二つ目の蕾が開いて来ない。大きな桃のように膨らんではいるが。蓮は睡蓮とともに午後の半ばまでしか花が開かず、それも3日間だけである。大きな池だと一つの花は3日間だけであっても、蕾がたくさんあるために、次々に花を開かせてくれる。しかし、我が家の庭では今年ようやく二つだけ蕾をつけてくれた。一つ目も雨のために十分に開かないうちに花びらが散って、今は花托と呼ばれる種を含んだ緑の蜂の巣ようなものが残されただけだ。蓮は古くは「蜂巣(はちす)」と呼ばれたようで、花托から連想されたのだろう。「はちす」から「はす」になったそうだ。仏教では蓮も睡蓮もともに蓮華(れんげ)と呼ばれる。睡蓮は日本でただ一種類の未草(ひつじぐさ)のみが自生し、他はすべて品種改良されたものだ。未の刻、午後2時頃になると花が閉じるところから未草と呼ばれ、その様が午後に眠る蓮と言うところから睡蓮と呼ばれると言う。蓮も同じく午後には閉じるのだが、何故か睡蓮とは呼ばないようだ。蓮はまた「水芙蓉」とか「池見草」、「水の花」とも呼ばれるようだ。蓮は葉以外はすべて食用になり、根は蓮根(れんこん)として馴染み深い。葉も様々に用いられて来ており、すべてが有用であった。蓮の花はとても大きく丸みを帯びた花びらは色合いも綺麗でとても美しい。愛知県に住んでいた頃には、東浦町と言うところに於大(おだい)公園と言う公園があって、そこに南米の大鬼蓮(おおおにはす)が花を咲かせ、家族で何度か見に行ったことがある。大鬼蓮の葉は小さな子供が乗れるほど大きいが、花も大きい。しかし、やはり見ていて優雅さがあるのは通常の蓮の花だろう。万葉集では「はちす」の読みで4首登場するが3首は「詠み人知らず」であり、それらはいずれも蓮の葉を詠んでいる。蓮の花を直接詠んだ歌はないようだ。この「詠み人知らず」は万葉集にはたくさんあるが、万葉集は奈良時代中期以後に成立しており、こうした「詠み人知らず」は九州王朝の歌人たちの歌を集めた「九州王朝の万葉集」からの盗用だと考えられる。白村江の戦いを詠んだ歌も一首もない。近畿王朝を築いた人々はその戦いには参加してないからだ。いずれにしろこれほど美しい花がその花自体が詠まれていないのも不思議である。乱世の宮廷歌人藤原定家に「蓮(はちす)咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄す池かな」がある。蓮の花が咲く池は、あたりに蓮の香りが漂って、心まで澄んでいくようだ、と言った意味だろう。定家のこの歌には蓮の花が良く歌われている。蓮は流れのある澄んだ水では綺麗な花を咲かせない。濁った泥の水でなければ美しい花が咲かない。こうした泥の中から美しい花を咲かせる蓮を仏教では煩悩に満ちた世に染まることなく、理想の境地へと昇華させた悟りの象徴とされ、11世紀の中国の儒学者も「蓮は泥より出でて泥に染まらず」として蓮の清らかさを説いている。
開いて来ない大賀蓮の蕾

天照(あまてらす)は皇祖ではない

2015-08-25 19:13:17 | 歴史
今日も昨日とあまり変わらず、最高気温は22度となった。昨日と違って今日は時々日も射したが、やはり吹く風が少し肌寒さを感じさせた。もうすっかり秋の空気になってしまったが、周りではひまりや百日紅などの夏の花もまだ咲いており、紫陽花までもが目に入る。ほんとうに岩手は花の咲く期間が長い。 現在、天皇家の祖、皇祖は天照(あまてらす)とされている。古事記や日本書記をそのまま受け入れているからだ。しかし、天皇家が編んだそれらの歴史書はあくまで勝者の歴史であり、自分たちに都合よく書かれている。史実とは異なる。近畿が勢力を持つきっかけとなったのは神武の東征による。神武はあくまでも天照の傍流であり、主流ではなかったが故に筑紫を出て、新天地を求めた。しかも、新天地へは15年もかけて到達しており、経路の豪族の助けを得て、ようやく大和の銅鐸文明を征服している。征服した大和で神武に続く2代から9代までの天皇には記紀では事跡がなく、いわゆる「欠史八代」として、現在ではそれらの天皇の実在が否定されている。しかし、これらの人物たちも実在したが、近畿王朝とは血脈が異なるために、史実が記されていないのだ。さらには第26代継体天皇などは応神天皇5世の子孫として越前国にいたのを請われて即位したものの、大和に入るのに19年もかかっている。これはそれまでの系譜とは継体が異なっていたために、それまでの系譜を駆逐するのに時を要したのである。つまり、少なくとも現在の天皇家の祖は継体以後である。それ以前とは明らかに血脈的に断絶している。また、天照の名で孫のニニギが侵略したのは「筑紫の日向の高千穂のクシフル峯」であり、「日向」は「ひゅうが」ではなく、「ひなた」である。記紀や明治政府は天照と現天皇家が血脈的に断絶しているために、事実が分からないまま「日向」を「ひゅうが」と解した。しかし、その「ひゅうが」にはまったく豊富な弥生の遺跡は見られない。筑紫の「ひなた」には三種の神器を擁する弥生の王墓が5つも見出されている。ニニギは天照の命で菜畑遺跡や板付遺跡の豊かな稲作地帯である北部九州を侵略し、そこに王朝を立てた。その印として三種の神器がある。神武もそこに生まれたが傍流であるためにうだつが上がらないために、兄弟とともにその「ひなた」を出て、東に向かったのであり、紀伊半島から侵入しなおした神武の兵士たちが歌った歌も筑紫の海辺の者たちの歌う歌であった。ニニギや神武の父のいわゆる「神代三陵」を日本書記が「日向」と記しているため、明治政府は薩摩の官僚の意向に沿って、「ひゅうが」とみなし、「ひゅうが」に「神代三陵」を無理やり設けた。筑紫の「ひなた」に定着したニニギの末裔はその北部九州で西暦57年「漢委奴国王」印を受けた王へと続き、さらには卑弥呼、倭の五王、「日出ずる処の天子」多利思北孤、白村江の戦いで捕虜となった筑紫の君へと続く九州王朝であった。白村江の戦いで天子が捕虜となった九州王朝に代わって唐と手を結んだ近畿の王朝が勢力を増し、九州王朝の残された勢力から武器や九州王朝の存在を示す書物を奪い取るために、続日本紀にあるように707年に「山沢に亡命し、軍器を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」との勅書を出し、708年には「軍器」を「禁書」に変えた同文の勅書を、717年にはさらに「禁書」の部分を「兵器」に変えた勅書を出した。これにより、残された九州王朝の勢力からは武器が奪われただけではなく、その存在をも書物から抹殺された。こうした上で古事記や日本書記が近畿王朝の都合に合わせて編まれたのである。私が生まれ育った愛媛県には紫宸殿の地名や斉明天皇の行幸や朝倉天皇などの名が残り、古田武彦氏はそれは九州王朝最後の天皇である斉明天皇が白村江の戦いの敗北後に「伊予」に皇宮を移したものと言われている。しかも愛媛では「さいみょうてんのう」であり、これは南朝に従って来た九州王朝が「呉音」であったためであり、唐と言う北朝系譜に従った近畿王朝は「さいめいてんのう」と言う漢音で読んでいるのだされる。

『熱狂なきファシズム』

2015-08-24 19:18:09 | 社会
今日も昨日までと同じく小雨が時々降る曇天の一日であった。最高気温は21度で、職員では寒いと言う人もいた。お盆を過ぎると、東北は一気に秋が訪れたように感じる。今日はセミの声も聞かれなかった。 昨年8月、『熱狂なきファシズム ニッポンの無関心を観察する』と言う著書が映画監督の想田和弘氏によって出されている。出版社の河出書房新社の紹介に、「現代的なファシズムは、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものなのではないか。僕は「熱狂なきファシズム」という造語に、そのような認識とステイトメントを込めたのである――。」と言う著者の言葉が載せられている。麻生太郎副総理兼財務、金融担当大臣は2013年7月29日、保守系シンクタンクの国家基本問題研究所の月例研究会で自党の憲法改正案に関連して、「憲法はある日、気づいたらワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ 誰も気づかないで変わった あの手口に学んだらどうかね」と発言して、批難を浴びた。しかし、その発言の前には「ヒトラーは民主主義によって議会で多数を握って出てきた いかにも軍事力で政権を取ったように思われる 全然違う ヒトラーは選挙で選ばれた ドイツ国民はヒトラーを選んだ ワイマール憲法という当時、欧州で最も進んだ憲法下でヒトラーが出てきた 常に憲法は良くてもそういうことはありうる」と歴史的な事実に無知な発言もしている。ヒトラーはワイマール憲法を無視して、民主主義的な手続きを形式的に保つためにあらかじめ反対勢力を逮捕、拘束したり、強引な総選挙を使って、ワイマール憲法を骨抜きにしてしまった。自民党の憲法改正法草案では天皇は「象徴」から「元首」となり、日章旗を国旗とし、君が代を国歌に、「戦争放棄」が「安全保障」に置き換わり、自衛隊は国防軍としている。想田氏が表題に掲げるように現在の日本は静かにファシズム化が進行している。元外務省官僚で防衛大学校教授でもあった孫崎享氏はすでに2年前にウキペディアの「ファシズム」の定義の19が現政権に当てはまることを挙げている。昨年2月にはジャーナリストの鳥越俊太郎氏も日本弁護士連合会の講演で、特定秘密保護法に反対して、「安倍政権はファシズム化している。やっていることは独裁だ」と強く批判している。また、同志社大大学院浜矩子教授は「経済政策の本来の役割は、崩れた均衡の回復と弱者の救済」にあるとした上で、現政権は「「再び世界の中心で輝く日本になる」などと宣言し、強者をより強くする政策を推し進めています。こうした発想は、実にファシズム的」だとし、「中央銀行が通貨価値の番人としての位置づけの放棄を強いられて、国家のための通貨供給装置となるというのは、最も極限的な「ファシズムの経済学」だ」と述べている。憲法が無視され、民主主義の否定が静かに進行している。機能不全に陥ったメディアがそれを加速させている。今まさに『熱狂なきファシズム』が日本に根を下ろし始めている。
今も咲く紫陽花

岩手と四国

2015-08-23 19:16:21 | 歴史
昨日から梅雨に逆戻りしたような天気が続く。最高気温は23度で1日そんな気温が続いた。曇天だとすっかり秋の気配だ。2000年前の大賀ハスの二つ目の蕾が膨らんで来た。二つ目はずっと高く伸びて、藤棚の高さを超えて蕾を付けた。夏至も過ぎて2ヶ月になるため、日が暮れるのも随分早くなっている。 岩手は四国4県の広さがあると言われるが、厳密には四国よりは少し狭い。四国の面積は18,807Km2だが岩手県は15,275Km2だ。しかし、それでも岩手県は北海道に次ぐ日本では2番目に広い県である。その広さに127万5000人が住む。人口密度はKm2当たり83.5人だ。北海道はさらに低い64.8人である。私の実家は松山市だが、松山市のある愛媛県は面積は岩手県の3分の1にもかかわらず、人口は岩手県より多い138万8000人が住む。従って人口密度は四国でも最大で、岩手県の4倍近い244人にもなる。松山市は愛媛県の県庁所在地で、四国最大の都市で人口は51万6000人いる。岩手の県庁所在地は盛岡市だが、その人口は29万9000人だ。その二つの市を比較してみると面積は松山市が429Km2であるのに対して盛岡市はその倍の886Km2あり、人口密度では松山が1,200人で盛岡が338人となり、松山は盛岡の4倍近い。やはり県同士の比較と同じ結果になっている。四国では高知県が面積では一番広く7104Km2あるが、人口はその高知県が一番少ないため、人口密度は4県の中で最も岩手県に近い103人となっている。逆に四国で人口密度の最も高い県は香川県で、岩手県の12%の面積に97万8000人が住み、人口密度は岩手県の6倍の521人にもなる。かっての岩手は「日高見国」と言われたとされるが、和田家文書ではその名も称されているが、本来は「日之本」国であるとされる。四国は一般に古事記では「伊予之二名島」がそれにあたるとされる。四国は4つの国があるため四国と呼ばれる。しかし、九州は何故9つの国があって九国と呼ばれないのか。やはり古事記では「筑紫島」と呼ばれている。いつ頃から九州と呼ばれるようになったのかは定かではない。四国が何故「伊予之二名島」と呼ばれたのかも古事記は明らかにしていない。無論古事記には「日高見国」や「日之本国」の名はない。古田武彦氏は『九州王朝の論理』で「九州」とは中国では「天子の直轄領」を表す概念であり、中国の南朝が滅亡した後、自らを天子と名乗った隋書の倭国伝の俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤とある人物が自らの直轄領を九州と名付けたとされる。歴史学者や教科書はこれまでこの人物を推古天皇として来た。しかし、妻や太子を持つこの人物は男性であり、女性である推古天皇ではあり得ない、と古田氏は再三述べられている。四国と同様に九国とされなかったのはまさに九州王朝が存在していたからだ。その地の歴史は全て勝者が作る。敗者の歴史は抹殺され、痕跡すらも塗り替えられてしまう。
二つ目の大賀ハスの蕾

潜在的な核抑止力としての原発

2015-08-21 19:18:50 | 社会
安倍晋三首相の祖父、岸信介は戦中のいわゆる「革新官僚」であり、統制経済を推進した実力者である。皮肉なことに統制経済をやり抜くために、岸たち「革新官僚」はソ連の計画経済を学び、マルクス主義を研究した。満州で統制経済の実績を上げた岸は大東亜共栄圏の実現に向けて侵略した国家の方針を担う人物であった。極東軍事裁判ではA級戦犯被疑者であったが、ソ連の台頭で、米国に許され、政界へ進出した。自主憲法制定、自主防衛、大東亜共栄圏を引き継いだアジアへの経済進出、反共親米を抱いて、再軍備された日本での核武装の下地を用意しようとした。1957年2月に首相となって、国民の反対を押し切って安保条約を成立させた1960年7月まで続けた。その間の1957年5月の参議院内閣委員会で「名前が核兵器とつけばすべて憲法違反だということは、憲法の解釈として正しくないのじゃないか、自衛権を裏づけるに必要な最小限度の実力であれば、私はたとえ核兵器と名がつくものであっても持ちうるということを憲法解釈としてもっております」と発言している。また1958年1月に茨城県東海村に完成させた研究用原子炉の視察に触れて、「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用も共に可能である。  日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を強めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることができる」としている。そして1960年には安保闘争の陰に隠れて、東京大学工学部に日本で初めて原子力工学科が新設された。現在は福島原発事故の影響でシステム量子工学科に改名されているが。日本に原発が国策として導入された裏にはこうした原発の「核兵器としての潜在的な可能性」が担保されていた。祖父からのこうした遺伝子を受け継いだ安倍首相は例え原発が安全ではないと暴露された現在であっても、「核兵器としての潜在的な可能性」だけは維持しなければならい。また同じく祖父の抱いた自主憲法制定、自主防衛も自分が実現しなければならないと思っており、祖父ほどの能力も実力もないが故に、強権的な手法で進めていかざるを得なくなっている。2011年の福島第一原発事故のあった直後に防衛大臣も歴任した石破茂大臣は雑誌で「核 の潜在的抑止力を維持するために、原発をやめるべきとは思いません」と明言している。事実上政府広報紙である読売新聞も同年9月7日の社説で「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現 状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」「高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきでは ない」と述べて政府の姿勢を代弁している。1955年11月に保守合同で成立した自由民主党の初代幹事長となった岸信介が内包した「潜在的な核抑止力としての原発」は結党以来自由民主党の遺伝子でもある。
早くも色付いたナナカマド

「積極的平和主義」

2015-08-20 19:18:49 | 社会
朝から青空が見えていて、次第に青空が広がり、昼には最高気温26度になった。しかし、もう秋風が吹き、さほど暑くは感じなかった。日陰はさらに涼しさを感じた。職場の裏山ではミンミンゼミとアブラゼミがよく鳴いていた。昨夜などはもうすっかり秋の夜になっていた。 2013年9月27日、安倍首相はニューヨークの国連総会で一般討論演説を行い、「Proactive Contributor to Peace(率先的な平和貢献者)」と言う言葉で首相の主張する「積極的平和主義」を表明した。同年12月4日には、改正された国家安全保障会議設置法に基づき、米国を真似て、国家安全保障会議National Security Counsil(NSC)が設置され、「国家安全保障戦略」の基本理念として「積極的平和主義」が打ち出された。もともとこの「積極的平和主義」は1991年5月に小沢一郎元自民党幹事長が会長を務めた「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」が設置され、1992年2月20日に発表された「日本の安全保障に関する答申案」の中で、「積極的・能動的平和主義」が登場し、以後引き継がれた憲法調査会でも「積極的平和主義」が謳われて行く。「積極的平和主義」は謳われた当初から、それまでの専守防衛から脱して、自衛隊が海外で積極的に他国と協力して「平和」を維持して行く、と言う意味を含むものとして使われた。小沢一朗は憲法前文の「「国際社会で名誉ある地位を占める」を上げて、国連軍への自衛隊の参加は憲法前文の精神に反しないとした。こうした、憲法解釈はまさに「木を見て森を見ず」を地で行く解釈であり、憲法のある部分だけを取り上げた、勝手な解釈でしかない。この手法が以来自民党内で根付いた。「積極的平和」の概念はノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングJohan Galtungによって、ただ戦争のない状態と捉える「消極的平和」に対するものとして、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない平和として確立された概念だ。国際的にもこの概念は広く認められており、安倍首相が唱える「積極的平和主義」とは似て非なるものであり、むしろこれまでに構築されて来た平和研究の蓄積を無視するものであり、単なる欺瞞でしかない。そして首相が国連で述べた「「Proactive Contributor to Peace」の「Proactive」は軍事用語では「先制攻撃」を意味すると言う。従って、スピーチを聞いた他国の人たちにはそのような形で受け取っている可能性があるだろうし、また、首相自身もそのような理解でこの言葉を使っているだろう。まさに武力によって「平和」を維持することが、首相の「積極的平和主義」である。こうした「積極的平和主義」が憲法の精神から大きく逸脱していることは言うまでもない。
山裾の萩

複都制

2015-08-19 19:14:22 | 歴史
5月14日にNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」で「聖武天皇 未完の遷都計画~最新発掘が明かした大国家構想~」と言う放送があった。724年から749年まで在位した天皇とされている。番組は聖武天皇の複都制計画を紹介している。都を複数設ける制度だ。これは673年~686年に在位したとされる天武天皇でも計画されていた。日本書紀天武12年12月17日に「凡そ都城、宮室、一處に非ず。必ず兩參造らむ。故れ、先ず難波に都つくらんと欲ふ。是を以て、百寮の者、各往(まか)りて家地を請はれ。」として、複数の都を造る意志を表明している。都を複数設ける制度はすでに中国で先行して見られている。3世紀の三国時代の魏や6世紀の南北朝時代の北周、その後の随や唐でも複都が見られ、唐と連合して倭国を滅ぼした新羅もやはり複都制をとっていた。663年とされる白村江の戦いで唐・新羅連合軍に負けた倭国とは九州王朝であり、この九州王朝もまた複都制をとっていたようだ。紀元前649年に安日彦を王とし、長髄彦を副王として東北に建国された荒覇吐王国(あらはばきおうこく)も中心王城を高倉(はららや)と称し、東西南北の遠地にそれぞれ分倉(わけぐら)を起き、東王、西王、南王、北王としている。こうした荒覇吐王国の統治制度は初代王である安日彦王が晋の群公子の娘を娶っていることから、おそらく中国の晋の統治制度なども参考にされているのだろう。釜石市の北に宮古市があるが、この宮古の名が何に由来するのか。京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする説など諸説があるようだが、定まってはいない。しかし、和田家文書によれば安日彦・長髄彦兄弟が亡くなると、高倉を東日流(つがる)より閉伊に移し、飽田(秋田)の熟族(にぎぞく)、嚴丁(岩手)の鹿族(あらぞく)を併合している。まさに荒覇吐王国の王都である。以前、閉伊は爾薩体(にさったい)(現在の二戸市仁左平のあたりだろう)を指すのでは、と考えたこともあるが、和田家文書ではやはりその後高倉は爾薩体にも移されたとあるので、閉伊と爾薩体は別だと言うことだ。閉伊の中心地が現在の宮古市であることから、やはり宮古市に荒覇吐王国の王都があったと見ることが出来るだろう。そこから都が宮古に転じたと考えられる。紀元前7世紀に始まる荒覇吐王国に複都制があったのであるから、おそらく、中国にもすでに複都制があったと思われる。しかし、現在のところは3世紀の魏の時代が最も古い。いずれこの分野の研究も進んで、紀元前の中国の王朝の史実もさらに明らかになって行くのだろう。複都制は現代の日本にこそ必要な制度ではないだろうか。
稲穂と入道雲