釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

蓮(はす)

2015-08-26 19:13:53 | 科学
朝は17度で昼には21度まで上がったが、曇天で時々小雨も降り、ほんとうにここ1週間は日射しが極めて少ない。今日はセミの声もさすがに聴こえて来なかった。 長く日射しが出ないせいか、2000年前の大賀蓮(おおがはす)の二つ目の蕾が開いて来ない。大きな桃のように膨らんではいるが。蓮は睡蓮とともに午後の半ばまでしか花が開かず、それも3日間だけである。大きな池だと一つの花は3日間だけであっても、蕾がたくさんあるために、次々に花を開かせてくれる。しかし、我が家の庭では今年ようやく二つだけ蕾をつけてくれた。一つ目も雨のために十分に開かないうちに花びらが散って、今は花托と呼ばれる種を含んだ緑の蜂の巣ようなものが残されただけだ。蓮は古くは「蜂巣(はちす)」と呼ばれたようで、花托から連想されたのだろう。「はちす」から「はす」になったそうだ。仏教では蓮も睡蓮もともに蓮華(れんげ)と呼ばれる。睡蓮は日本でただ一種類の未草(ひつじぐさ)のみが自生し、他はすべて品種改良されたものだ。未の刻、午後2時頃になると花が閉じるところから未草と呼ばれ、その様が午後に眠る蓮と言うところから睡蓮と呼ばれると言う。蓮も同じく午後には閉じるのだが、何故か睡蓮とは呼ばないようだ。蓮はまた「水芙蓉」とか「池見草」、「水の花」とも呼ばれるようだ。蓮は葉以外はすべて食用になり、根は蓮根(れんこん)として馴染み深い。葉も様々に用いられて来ており、すべてが有用であった。蓮の花はとても大きく丸みを帯びた花びらは色合いも綺麗でとても美しい。愛知県に住んでいた頃には、東浦町と言うところに於大(おだい)公園と言う公園があって、そこに南米の大鬼蓮(おおおにはす)が花を咲かせ、家族で何度か見に行ったことがある。大鬼蓮の葉は小さな子供が乗れるほど大きいが、花も大きい。しかし、やはり見ていて優雅さがあるのは通常の蓮の花だろう。万葉集では「はちす」の読みで4首登場するが3首は「詠み人知らず」であり、それらはいずれも蓮の葉を詠んでいる。蓮の花を直接詠んだ歌はないようだ。この「詠み人知らず」は万葉集にはたくさんあるが、万葉集は奈良時代中期以後に成立しており、こうした「詠み人知らず」は九州王朝の歌人たちの歌を集めた「九州王朝の万葉集」からの盗用だと考えられる。白村江の戦いを詠んだ歌も一首もない。近畿王朝を築いた人々はその戦いには参加してないからだ。いずれにしろこれほど美しい花がその花自体が詠まれていないのも不思議である。乱世の宮廷歌人藤原定家に「蓮(はちす)咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄す池かな」がある。蓮の花が咲く池は、あたりに蓮の香りが漂って、心まで澄んでいくようだ、と言った意味だろう。定家のこの歌には蓮の花が良く歌われている。蓮は流れのある澄んだ水では綺麗な花を咲かせない。濁った泥の水でなければ美しい花が咲かない。こうした泥の中から美しい花を咲かせる蓮を仏教では煩悩に満ちた世に染まることなく、理想の境地へと昇華させた悟りの象徴とされ、11世紀の中国の儒学者も「蓮は泥より出でて泥に染まらず」として蓮の清らかさを説いている。
開いて来ない大賀蓮の蕾