今朝も氷が張り、霜柱が立っていた。曇天で、午後には細雪が降り続いた。周囲は真っ白に様変わりしてしまった。ほんとうに雪が降ると音が消える。小鳥たちのさえずりも聞こえなくなってしまった。雪で市街地の南側の低い山も見えなくなった。暗くなって来ると、本格的な雪に変わった。今晩も雪が続きそうだ。珍しく釜石でも大雪になりそうだ。釜石は沿岸部にあるため、南からの暖流で内陸より気温が高く、雪も積もることがあまりないが、一冬で何度かは積もることがある。しかし、ほとんどは一日もすれば融けてしまう。同じ東北にありながら、沿岸部は東北の冬のイメージはない。岩手県は四国四県の広さがあるため、地域差が大きい。北海道ほども気温が下がるところさえある。西は秋田県と接するが、秋田に近いほど雪の量も多くなる。沿岸部でも北の久慈市などは冬は時には内陸との交通が雪のために遮断され、一時的に陸の孤島になることさえある。気温が下がり、雪が降る景色を見ていると、東北や北海道の冬の寒さを凌いで来た人々のことが頭に浮かんで来る。戦後、電化製品や石油製品が普及するまでは太古から続いた暖房方法しかなかったのだ。木を燃料とする暖房しかなかったのだ。もう日常的にあたりまえのように使っているストーブ類も長い歴史からするとごく最近利用出来るようになったものなのだ。かまどや囲炉裏では十分な暖は取れなかったろう。ほとんど縄文や弥生の時代の人々と変わらない寒さの中で生活していたのだろう。冬の移動も車が普及するまではソリが使われていたのだ。今の子供たちの世代は生まれてからすでに生活で使われるものがすべて現在の便利な生活器具で満たされていたのだ。歴史の中で現代があまりにも急激に生活様式を変えてしまった。そして生まれた時からその変わった様式があたりまえのものとして存在した世代がいることに少し不安を覚えてしまう。「進歩」は人に快適さを与えてくれたが、それと引き換えに人は動物としての側面を急速に失って来ている。かっては古老が伝えた動物としての人間の知恵も失われて来ている。子供の頃は、風邪を引いたからと言って、すぐに医者にかかるようなことはなかった。今では子供が風邪を引くと早々と母親が医者に連れて行く。しかも高校生にもなっている子供に母親が一緒に付いて来て、母親が子供の状態を説明する。本人はほとんど何も話さない。心身ともに虚弱になって来ているのではないか、と思わざるを得ない。スーパーにも便利な食品がたくさん並び、それらはほとんどが何らかの保存料や添加物が加えられている。口に入るものまで自然、野生から遊離して来ている。人の体質が内部から変えられて行っている。様々のアレルギーはその現れだろう。そう見ると、人の生活がとても急速に変わっていることに驚きと不安が出るのも当然ではないだろうか。人は本来動物であり、その野生を失うことで動物としての強さをなくしている。もはや逆戻りが出来ないとすれば、人はどこに向かっているのだろうか。地球の歴史でも環境の変化が多くの種の絶滅に繋がっている。核物質や巨大な地殻変動などではなくとも人は自ら生み出したもので環境を大きく変えて来ている。豊かな食料と便利な交通手段がもたらす運動不足が生活習慣病を生み出したように、人は自ら病気をつくり出して来た。それは「進歩」なのだろうか。何が人の生活のあるべき姿なのか、何も考えないで流れに乗って生活しているのではないだろうか。
杉木立に積もり始めた細雪