今朝は-2度で、朝から青空が見えていた。愛染山の南を雲が流れ、朝日を遮っていたが、雲が去って行くと、徐々に山頂が朝日に照らし出されて来た。その眺めがとても清々しく見えた。出勤時に6羽の白鳥たち親子の姿は見えたが、他の3羽の白鳥の姿はなかった。日中も良く晴れていたが、気温は2度までしか上がらず、風も冷たかった。職場の裏山ではゴイサギを1羽だけ朝見かけたが、午前中のうちにいなくなってしまった。職場の窓から薬師公園を見ていると、何羽かの小鳥がやって来た。よく見ると冬場だけ山から平地に下りて来るアオジだった。大きさも模様もスズメに似ているが、頭は緑がかったグレイで、お腹が緑で、スズメよりは綺麗な模様をしている。たいては群れで見かけることが多い。 2006年12月第一次安倍内閣によって戦後維持されて来た教育基本法の改定案が強行採決された。これにより法律的には教育に於ける民主主義が大きく交替した。1947年に成立した教育基本法は国家に対して、教育に関する国民への責務を定めた。第10条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきもの」と謳っていた。それを「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と変えてしまった。前者では国民が主体であったが、後者では国家が主体となってしまった。また前者では「自主的精神に充ちた・・・国民の育成」であったものが後者では「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成」に変えられてしまった。個人を育成する観点から国家や社会に適応する人材を育てる方向へ転換された。1989年に国連が定めた児童の権利に関する条約、通称子供の権利条約についても政府は批准をしぶり、ようやく第37条Cを保留にし、2項を独自解釈するなどして1994年に批准された。その後の度重なる国連からの勧告にも誠意的には答えていないばかりか、広く公表もしていない。戦前回帰を目指す安倍首相はこうして国民のための教育から国家のための教育への法的な変更を成し遂げた。次にはそれを実践させるための組織造りになる。それが現在報じられている「教育委員会制度改革」である。これまで自治体での教育は教育委員会が責務を負って来た。教育委員の中から教育委員長、教育長が選任される。教育長は事務の執行者であり、言わば役人と同列である。今回の改正は現段階では教育委員長、教育長を兼務した「代表教育委員」とし、首長が直接任命権を有するものとされようとしている。これが実現すれば、国家の思う教育運営が可能となる。教育に於ける政治的中立性などは完全に崩壊する。戦後、個性ある教員が次第に姿を消し、教科書検定により文部官僚が教科書を管理し、同じく指導要領と言う官僚お得意の手法で、法規を経ない、つまりは国会でのチェックを経ない形での教員の管理を行なって来た。「日本を取り戻す」安倍首相は教育をこれまでと180度方向を変えた国家のための教育に大きく変えようとしている。武器輸出の緩和により軍需産業をより強大にし、軍備を増強すると同時に、軍事活動の範囲を広げようとしている。あえて、近隣アジア諸国と対立し、不安を煽ってもいる。安倍首相が頼りとする米国すら危惧している状況だ。「日本を取り戻す」ことに執着した安倍首相は、自分の理念だけしか見えていない。国民も日本を取り巻く情勢も視野には入っていない。アベノミックスは膨大な国費の浪費であり、そのつけは後世に残される。震災復興、東京オリンピックに加え、やみくもな公共事業により建設労働者や資材の不足が深刻になっている。強引に教育で子供を変え、軍事活動を拡大することで周辺国に不信感を持たせ、国費を浪費することで企業からの支持を確保しようとしている。戦後に導入された理念としての民主主義を深めるどころか、むしろ、崩壊させているとしか思えない。主体が国民から国家に大きく変わろうとしている。世界の先進国とされる国々のなかでも異質で、孤立の道に入ろうとしている。少子高齢化が進み、人口は減少する。経済の支柱であった自動車や家電産業もこれからは斜陽化して行くことが見えている。こんな状況の今の日本こそ、自由な発想の出来る子供たちが求められている。これまでも官僚を育てるための暗記主体の教育でしかなかった。自分で考え、自分の意見をどこでも言える子供の育成こそが今の日本には必要なのだ。しかし、安倍首相はただただ過去の日本にこだわるだけで、日本の現在や未来を見ていない。少子化の歯止めすらなんの対策も打たれていない。国民は今後実質所得は確実に減少し、ますます貧しくなって行くだろう。「貧困大国アメリカ」を後追いしているのが日本なのだ。子供の数が増えようがないだろう。教育はこれから一層画一化されてしまうだろう。国家に従順な子供が安倍首相の理想像なのだろう。
薬師公園のアオジ