庭の隅の日陰に少しだけ残っていた雪も昨日の小雨で消えてしまった。今日は雲もかなり流れていて、小雪が舞うかと思えば時々日射しも射して来る。朝、またツグミの声を聞き、影の鳥、ミソサザエもやって来た。寒くはあるが、先日のような厳しい寒さは遠のいた。早くも今日で今年も終わる。昨日から娘は新年を迎えるための買い出しに出かけ、今日も大槌町の大型店まで出かけて行った。何日か前に、釜石のスーパーで流れていた正月飾りやおせちのビデオを見て、日本の正月の風習の意味を知ったようで、ひどく感心して帰って来た。クリスチャンでありながら、自分が日本人であることにも自覚させられたのだろう。最近は日本のキリスト教会の在り方にも疑問を感じるところがあるようだ。もっと日本人的な教会の在り方というのがあるのではないか、と考えているようだ。10月に大阪へ行った際には、周囲ではもう震災の話題が出ることがないことに驚きを感じたそうだ。メディアもほとんどもう震災のその後を報じることがなくなった。昨日、買い物に出かけた時に、ついでに釜石の唐丹地区へ足を運び、津波に襲われた堤防の上に怖々上ってみたそうだ。瓦礫は確かに取り除かれているが、それ以外は何も変わっていない。復興の影すら見えない。24日に釜石へ戻って来て、S先生とともに仮設住宅での支援者の会議にも出席し、被災者の方達にも話を聞き、被災者や支援者の精神的な落ち込みが大きくなっていることを感じたようだ。海外からは地元のボランティアが比較的自由に使える資金援助などが今も提供されている。しかし、日本の支援は地元が地元の事情にあった形でなかなか自由に資金を使うことが出来ないものが多い。日本はまだまだボランティア活動への理解が十分ではない。国もたとえ被災者であっても、個人への金銭的な支援は従来の法規に則ってできないという姿勢だ。巨大な震災であっても日常の決め事の範囲から出られない。それが役人の発想だ。そして企業などの支援もほぼそれに准じる形になっている。震災と言う非日常に遭遇しても臨機応変な対応ができない。震災の被災者だけでなく、低所得者数も増え続けており、65歳以上の高齢者世帯の4割が年収250万以下の最低生活保障水準となっている。一昨日政府は消費税増税に伴う低所得者対策、税率8%から現金を配る「簡素な給付措置」の具体化を見送ることを決めた。現在国民健康保険も低所得者が増加したため5人に1人は保険料を滞納せざるを得なくなっている。特に、非正規労働者が増え続けている都市部では深刻になっている。働ける人であっても所得は低下しており、働きたくても働く職がない人も増えている。まして、高齢で肉体的にも就労に差し支えのある人たちは絶望的な毎日を送っている。これほど物質の豊富な世となっても誰にも看取られずに亡くなってはじめて発見される高齢者も後を絶たない。一時新自由主義が席巻した際、よく自己責任という言葉が横行した。どんな世であっても自助努力は人として当然である。しかし、自助努力しても、なお、収入を得られない人が余りにも増え続けている。そして、今の日本を見る限り、今後もそうした人たちがさらに増えて行くだろう。
一昨日まで残っていた庭の隅の日陰の雪