釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

蘇民祭という裸祭り

2009-01-31 08:43:50 | 歴史
奥州市水沢の黒石寺は何年か前の蘇民祭のポスターが問題になりマスコミで騒がれたことがあった。この騒ぎを機に黒石寺の蘇民祭の取材が何倍にも膨れ上がったそうだ。岩手県下でもこの黒石寺に限らず花巻や一関の神社でも蘇民祭は行われている。寺や神社で共に行われているわけである。蘇民信仰は地域的にも全国に広がりがある。山形県の幸徳院、京都の八坂神社、青森県の岩木山神社にもあり、備後国風土記にも見られるから広島県から岡山県にかけてもかっては見られたものだろう。長岡京跡から「蘇民将来」と記した札も出土しているということなので平安時代に既にあったものと思われる。もともとはインドから中国を経て伝わったものではないかと言われる。裸の祭りの由来がはっきりしないが本来は一糸もまとわない姿で行われていたと言う。これは地方農村部の跡継ぎとしての若者の肉体的な健康を評価する機会として利用されたと言う。蘇民信仰に限らなければ全国にはまだまだ多くのいわゆる裸祭りなるものが見られる。北海道から東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州とそれこそまさに全国的に見られる行事である。面白いのはそれぞれの行事の行われる季節が夏や秋も幾つかあるが圧倒的に冬である。男性の逞しさが試されるこうした行事の由来が示された資料がはっきりしないがその動物的な有り様を思うと縄文の文化のような気がするが考え過ぎだろうか。土着の文化に神仏がくっ付けられたように思うのだが。


黒石寺本堂 透かし彫りを含めた彫刻は見事だ

奥州市水沢の黒石寺と正法寺

2009-01-30 06:36:59 | 寺社
奥州市水沢(旧水沢市)の黒石寺(こくせきじ)と正法寺(しょうほうじ)を訪ねた。黒石寺(天台宗)は現来奈良薬師寺の僧侶が730に東光山薬師寺と号して開山されたそうだ。その後征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地に住む蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)を倒して胆沢城を築くとその神宮寺的な存在となり、4000人の人々が移り住んだという。807年に夷賊によって薬師寺を焼失し、田村麻呂が城内にいた飛騨の内匠(たくみ)に修復させたという。849年に東大寺慈覚大師円仁がこの地に来られ薬師如来を本尊とする黒石寺と号して再興したそうだ。3日後に裸の祭り、蘇民祭を控えて境内前は露店の区画らしきものが準備されていた。本堂と鐘楼が建っていたがここも本堂の彫刻は見事で、かっての面影は見られないが土塀などを見ると京都の影響が強いように思われた。ただ黒石寺で残念なのは本堂や鐘楼も立派なのだがどちらかというと住職の住まいを京都風に整えて立派な庭園らしきものがそちらにあることだ。黒石寺を主として訪ねたがかえって正法寺の方に惹かれた。正法寺(曹洞宗)は1348年開基で往時は1200もの末寺を有していたそうだ。総門前には精進料理の店もあり、総門から左右へ源氏塀が伸び、総門の前後は蛇紋岩を積み上げた段差の強い階段になっていて境内は広く、正面に巨大な茅葺き屋根の本堂が見えて来る。茅葺き屋根の建物としては日本一だそうだ。庫裏も大きくやはり茅葺き屋根になっている。鐘楼もこれまで見聞した中で最大のものに思える。庫裏や本堂内部も荘厳でともかく大きい造りに驚かされる。禅修行の20人の修行僧のお一人で30代の方にお茶をいただきながらお話を伺ったが、日本で一番寒い修行寺だということだった。以前は永平寺と同格の寺であったという。現在の中尊寺よりもはるかに寺らしく立派だ。春には必ず再訪したい。


正法寺本堂 大きな本堂でしかも茅葺きでは国内最大の建物、岩手のお気に入りの一つになった

美味いイワシと興味深い郷土史

2009-01-29 06:53:15 | 歴史
昨夕は暗くなってから西の空に宵の明星が明るく輝いていた。匠の方からお招きがありお宅へ伺った。味の匠の方が奥様と二人で両石湾で釣った真イワシとカタクチイワシがメインの料理であった。イワシのハンバーグなるものを初めていただいた。とても美味でイワシが材料とは思えなかった。干して焼いたイワシも新鮮でこれも非常に美味であった。新鮮な材料を本当にさらに上手に料理する腕はいつもながらに感心させられる。同じく獲れたてのムール貝、釜石ではシューリと言うそうだが、カキも焼いてたべるのだがいずれも酒と合わせて食べたくなるような旨味がある。イワシのひっつみもいただいた。いつもの人たちが集まって来られたがいずれも味にこだわりのある人たちで、どの料理をとっても味付けにも満足させられるものばかりであった。昨夜は釜石の昔の川で獲れた沢ガニやうなぎの話、渋柿の渋の抜き方の話、初めて知った山の梨ー山梨の話や匠の方の敷地にかって釜石近辺で最大の館(たて)があったり、山の神様として巨石があるという話を真剣に聞かせていただいた。最後の話は特に興味があり南部氏が岩手を治める以前の阿曽沼氏の時代のもではないかと思われるのと、巨石は縄文時代の巨石を使った祭事と関連があるのでは、と言う疑いが感じられ、そのうち一度は拝見したくなった。そうした話からこの地方の葬儀の列では宗派に関係なく4つの龍(たつ)が立ち、曹洞宗では黒の龍が重要だと言うことも語られた。これについても興味をそそられ、宗派に関係なくということからむしろその由来は仏教的なものというよりもこの地方の土着の風習と関連しているのではないかと言う疑問が湧いて来た。東北の歴史にも魅せられて来ているのでなかなか楽しい夜だった。


干されたイワシ


カタクチイワシとマイワシ

沿岸部寺社めぐりで感じたこと

2009-01-28 08:15:39 | 寺社
北は大槌から南は陸前高田まで、内陸は住田、遠野まで釜石を除いて一部の寺社を訪ねたがやはり気仙大工の存在が大きいと感じた。三層の垂木や山門の造りが地方の末寺であっても立派である。各所に施された彫刻も繊細で見事なものが多く、屋根の傾斜も非常に美しく軒の出にも微妙な反りが入れられている。もともと気仙大工の発祥には京都の職人の影響があるようで岩手沿岸部に限らず全国に出稼ぎとして出ていたため尚厳しい修練を積んだ大工が生まれたという。歴史的な背景がある所ほど寺社の構えが立派なのはある意味で当然なのかも知れない。寺院の植木を見るとこれまでにも記したように他所でも見られはするがこの近辺の寺院の百日紅は異常に多い。しかも古木が。1つの寺院に2~3本の古木が見られることもある。同じ中国に産する梅が逆にこの地方には少ない。京都あたりの寺院はむしろ必ずと言っていいほど梅の古木が見られ、周囲の苔の緑によく映えている。そのことが頭にあるせいでやや寂しい気がする。一方で枝垂れ桜を多く見かけるがこれは東北全体の傾向と関係しているように思われる。東北ではソメイヨシノも勿論見られるがどちらかと言うとソメイヨシノのは新しく計画的に植えられた感じが強い。民家でも枝垂れ桜がごく自然に植えられていて、ソメイヨシノがむしろ見られない。少し山間の農家の庭先などを見ると枝垂れ桜の立派な木が植えられていたりするとびっくりすることがある。寺院もどちらかというと枝垂れ桜の比率の方が高いようだ。


陸前高田本稱寺 山門中心に白壁が左右に広がり塀の途中で百日紅が伸びている

自己責任

2009-01-27 09:35:24 | 経済
イギリス経済の破綻がいよいよ現実化して来ているようだ。米国の金融危機が過剰に高値になっていたロンドンの不動産市場を暴落させ、昨年末の決算で英大手銀行の債務超過がはっきりしてきた。銀行株とポンドが急落している。現在の英政府の財政赤字は前回破綻しIMF(国際通貨基金)に救済を求めた1976年よりもはるかに大きくなっているので政府の打つ手は制限される。米国も昨年の大手金融機関の破綻に引き続き400兆円といわれる個人ローンの破綻が控えている。日本国内でも新日鉄が過去最大の減産を行い、君津高炉も休止される。ソニーは営業赤字が2600億円となり、6大銀行の最終利益は8割減となるという。同じく08年の貿易黒字も8割減で09年度の経済成長はマイナス2%になるという。英経済の破綻はさらに遅れて日本にも波及して来るだろう。米国の第二次の影響もあり、今年から来年にかけては日本経済は愚鈍な政治家や財界人によって一層深刻な状況に追い込まれるに違いない。まだまだ政財界には市場原理主義、新自由主義を信奉する人たちが残っているのだ。過去を見てもこの人たちは自己責任を振りかざし国民である個人には自己責任論を展開するが企業にはそれを適用しない。自動車の育ての親と言われるヘンリー・フォードHenry Fordは「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」と言い、「ほかの要因はさておき、我々の売上は、ある程度賃金に依存しているのだ。より高い賃金を出せば、その金はどこかで使われ、ほかの分野の商店主や卸売り業者や製造業者、それに労働者の繁栄につながり、 それがまた我々の売上に反映される。全国規模の高賃金は全国規模の繁栄をもたらす」と言ってそれを実践して大恐慌を乗り切った。現在の米英や日本はまったくこの逆をやってきた。そもそも市場原理主義は恐慌を招くと言う歴史の見本があったのにである。また無能な政財界のつけを国民が払わされるのだ。ただ政治家に関しては選んだのが国民だからその点は国民にも 自己責任 があるのだろう。


陸前高田古川沼のオオバン 嘴から前頭部にかけて白く赤い目をしている

陸前高田の寺社めぐり

2009-01-26 06:41:10 | 寺社
昨日は風が冷たかったが天気が良かったので陸前高田へ出かけた。やはり寺社めぐりが目的だ。少し道を間違ったが先ずは普門寺を訪ねた。ここはさすがに風格がある。山門付近を老婆が箒を持って掃いていた。誰もいない広い境内で絵になる姿だった。もう80近い方だった。本堂も京都と遜色のない立派なもので住田、大船渡の寺社同様気仙大工の手になる伽藍は素晴らしい造りだ。本堂前には県の天然記念物の百日紅があり、幹の太さがかなりの古木であることを示している。鐘楼と鼓楼にも風格が出ていた。鼓楼のそばに梅の古木と桜がある。本堂左手奥に池があり池の中に相当古そうな石造りの観音像が立っている。池の奥に三重塔と大きな仏像がある。ここも春にはもう一度是非訪れたい。道の駅高田松原で食事後そばの古川沼でスズガモ、ヒドリガモ、ホシハジロが入っているのをしばらく観察していた。留鳥のオオバンも沢山いた。本稱寺に向かったがここでも少し道を行き過ぎてしまった。本稱寺は山門の両横に白壁が伸びていてその内側に鼓楼と鐘楼が見える景観は独特で素晴らしいのだが中がやや荒れていて山門裏に自転車が放置されていたり折角の境内が興ざめしてしまった。本堂前の枝垂れ桜のそばに棕櫚の木が植えられているのも残念だった。次に浄土寺へ行ったがここでも石門から山門までの杉の巨木がことごとく切り倒されていて無性に腹が立った。隣には境内に幼稚園のようなものがありその運動場周囲に枝垂れ桜がある。ここも本来ならば寺社の景観となる場所であったと思う。山門の上が鐘楼になった珍しい山門があり、本堂も威厳があり本堂前には枝垂れ桜の大きな木があり横の五葉松も立派なので一層残念であった。最後に式内社の格式を持つ氷上神社を訪ねた。創建は不詳だが古代からの氷上山の信仰と結びついた相当の古社と思われる。社殿の造りも立派である。縄文からの繋がりが想像される神社だった。


普門寺本堂 左に県の天然記念物の百日紅の枝が伸びている


普門寺本堂の伽藍 牡丹と思われる花をくわえた見事な獅子像 

えみし考

2009-01-25 08:03:28 | 歴史
東北は古来まつ(服(順))ろわぬ人々の住む地として蝦夷(えぞ)と呼ばれ、そこに住む人々を蝦夷(えみし)、蝦夷(えびす)と呼ばれて来た。蝦夷の字はこれら3つの読みを当てられ、いずれも蝦夷という蔑称を使われたわけである。しかし本来それぞれ、えぞ、えみし、えびすという音で表される言葉が先にあり、それに大和朝廷が蔑称とするべく蝦夷の字を当てたのである。では本来の音で表される言葉はどうゆう意味を持っていたのだろうか。まずえぞについて調べてみるとアイヌ語のエンジュ・エンチウ(人、の意)からえぞという言葉が生まれたという。つまりえぞは人を表すということだ。またえびすは伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされる。えみしはどうか。えみしの言葉が出て来る文献上最も古い記事は日本書紀の神武紀で神武の東征で戦勝歌として詠まれた歌で えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず(えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった) と詠まれているがここでえみしに当てられている字は愛瀰詩となっている。むしろ雅のある字が当てられているのである。これは一つの驚きである。ではえみしの音のもともとの意味は何だったのか。えみしの え はえにしのえ、昔の の意味で、み は尊いの意味、し は魚河岸などのしと同じで場所の意味でえみしは 昔の尊い人が住むところ を意味し、昔の皇族を表すと言う。つまり東北とはかっての皇族に連なる人々が何らかの理由で移り住んだ場所なのだ。応神天皇に追われた崇神天皇が逃れた場所という説もあるようだ。いずれにしろ大和朝廷と同等の人が住んでいたということだ。それ故にまつろわぬ人々として抗い続けたのだ。そうして大和朝廷はその人々を歴史から消し去った。


火の見やぐらと貞任高原の遠景

寺院の百日紅(さるすべり)

2009-01-24 08:30:51 | 寺社
以前の寺院めぐりで東北の寺院には百日紅が多いと感じたが勿論他所でも寺院に百日紅が見られるが比率的に東北が多く感じられる。京都でも金閣寺、清水寺、大覚寺、銀閣寺、永観堂、東寺などでも見られる。もともと百日紅は中国南部が原産のようで中国でも韓国でも良く似た伝説があるようで昔ある漁村で毎年首が3つある大蛇が現れ若い娘を捧げていたが、ある年勇者が現れ大蛇の1つの首を切り捨てて一人の娘を助けたが娘に後の2つの首を獲るために100日待っていてくれるように言ったそうだ。帰って来たとき白旗の船であれば勝利を、赤旗の船であれば敗北して死んでいるだろうと言って去って行った。100日目に海上に船が現れたがその船には赤旗が翻っていた。娘は絶望して自害した。しかし船が着くと勇者が乗っており、白旗が大蛇の血で赤く染まっていた。以来娘の墓に100日間赤い花が咲くようになり百日紅(ひゃくじつこう)と呼ばれるようになったと言う。この他中国では紫微(宮廷)によく植えられたことから紫薇と呼ばれたり、日本では幹がつるつるしているので、木登りの上手な猿でさえ登れないというところから猿滑りと呼んでいる。地方によっては百日紅には亡くなった人の魂が宿ると言われているそうだ。これもお寺に百日紅が見られることと関係しているのかも知れないが、陸前高田の普門寺の由緒にあるように仏教を中国で学んだ僧が日本へ持ち帰って寺に植えたことがもっともな由来らしく思われる。当然そうした寺の末寺へも伝わったはずで、この辺が寺院に百日紅が多い理由なのだろう。陸前高田の普門寺の百日紅は樹齢約 300年で岩手県指定の天然記念物だそうだ。


大船渡長安寺山門前の百日紅

三陸沿岸にもナマハゲはあった

2009-01-23 07:05:13 | 文化
秋田県男鹿半島のナマハゲは全国的に余りにも有名だ。大晦日に角のある丹塗りの面をつけ、黒く染めた海菅の髪を振り乱し、肩蓑(けら)を着て大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ったナマハゲが家々を訪れ、「泣ぐコはいねがー」という荒々しい声を発しながら怠け者、子供や初嫁を探して暴れる。主人はなまはげをなだめながら丁重にもてなす。冬に囲炉裏にあたっていると手足に「ナモミ」という低温火傷ができることがあり、それを剥いで怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与える「ナモミはぎ」から「なまはげ」と呼ばれるようになったそうだ。漢の武王(前漢の武帝ー紀元前156~紀元前87年のことか)が5人の鬼を連れて来たことが始まりと言う伝承があるそうだ。男鹿のこのナマハゲだけがメディアでも報じられて来たためナマハゲは男鹿半島だけのものと思っていた。ところがこの三陸沿岸部にもナマハゲがあった。柳田国男「妖怪古意」に「(岩手県)九戸郡久慈町でも小正月の天ナガミという者がやって来るが、 これは子供の行事であってホロロ・ホロロと唱えつつ家々を訪れて 餅を乞うばかりで・・・同じ岩手県でも上閉伊の釜石付近では、 右の小正月の訪問をナナミタクリといひ、これが大ナナミと小ナナミに 分かれていた。小ナナミは前の久慈地方のナガミのごとく、少年たちの餅をもらい歩く行事であり、大ナナミは男鹿のナマハギと似ていた」 とある。釜石ではガンボ、タラッポナナミ、ナゴミ、ナナキなどと呼ばれるものが類似のもののようだ。大船渡市吉浜ではスネカと呼ばれ小正月の奇習のようだ。男鹿のナマハゲの面の最も古い1662年頃のものには角や牙はないそうだ。由来はいずれも漂着した異人に起因するのではないかという。内陸よりも沿岸に圧倒的に多いと言う。


銀色に輝く遠野の善明寺の黒瓦

人首という地名

2009-01-22 06:58:31 | 歴史
作家高橋克彦は1947年釜石生まれで現在盛岡市在住である。1993年7月から翌年3月まで放映されたNHK大河ドラマ「炎立つ」は原作が高橋克彦である。父は医師の高橋又郎である。大和朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂に敗れた阿弖流為アテルイを描た「火怨」という作品もあり、劇団わらび座がこれを脚色して「北の燿星 アテルイ」と題して上演している。釜石から水沢方面へ向かうとき盛街道397号線で姥石峠の下を抜けるトンネルとそれに続く短いトンネルを抜けるとすぐ397号線と分かれる道があり標識に人首と出ている。そばを流れる川も人首川である。最初にその標識に気付いたのは釜石へ帰る逆方向で夜であった。ひとくびと読んであまり気持ちのいいものではなかった記憶がある。釜石へ帰ると早速調べた。ひとかべと読むことが分かった。人首はアルテイの子人首丸の名前から来ていることも分かった。802年にアルテイは坂上田村麻呂に敗れて都へ連れて行かれ、都人の蝦夷への憎悪により河内で斬首される。子の人首丸は残った人々と共に抵抗するが806年についに討ち取られてしまう。戦勝祈願に801年に坂上田村麻呂が京都の清水寺同様に達谷窟毘沙門堂を建立してから5年の歳月が流れている。田村麻呂自身は同じく勇猛なアテルイを都から蝦夷へ返すよう訴えたと言う。大和朝廷の東征の真の目的は749年に完成した奈良の大仏のメッキに使われた金が東北からもたらされた事実から東北の金や鉄であったと思われる。アルテイについては彼の首が口伝に基づいて木製で復元奉納されている鹿島神宮『宝物館』の案内で大陸系の漂着民族とみられる、となっている。また空海(弘法大師)(774-835年)は蝦夷について「時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。」と言い、典型的な狩猟民族の姿を表しており、靺鞨(ツングース)ではないかという説がある。


雪上の小動物の足跡