釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

かっての釜石への往来を思う

2009-01-21 08:14:30 | 文化
今年の釜石の冬は雪の降る回数が去年より多い。とは言っても遠野とは違って雪が一日中積もったままということはない。夕方までに市街地はまず溶けてしまう。同じ釜石でも海岸に近くなればなるほど雪が見られなくなる。内陸の雪の多さを思うと本当に釜石でよかったと思うし、そもそも地図上で見る岩手県の位置からして沿岸部だけが雪がほとんど積もらないなど想像もできなかった。雪の降る内陸のことを考えていると昔の街道のことが知りたくなった。そこで調べてみると江戸時代に整備されたようだ。江戸の日本橋から福島県の白河までが奥州道中として1646年に完成され江戸幕府道中奉行の直轄下にあったそうだ。白河から仙台までを仙台道、仙台から蝦夷筥館(えぞはこだて)までが松前道として主に諸藩が管理した。釜石へは盛岡から遠野を通って旧の仙人峠を通るルートだったようだ。江戸時代は遠野に遠野南部藩があり、釜石の北の大槌には代官所があったので釜石は行政的にはあまり重要な役所はなかったようだ。そのため江戸時代はむしろ遠野から堺木(さかいぎ)峠を通り和山を抜けて大槌へ出るルートと、笛吹峠を通って鵜住居へ出るルートが一番多く利用されたようだ。これらは遠野街道と呼ばれた。笛吹峠ルートの沿岸側の途中にある橋野地区へ初めて行った時に釜石とは雰囲気が違っていてむしろ遠野に似ていると感じたのもやはりこの道が多く往来されたことと関係があったのだと納得させられた。馬に荷を負わせて雪の積もった笛吹峠やもっと険しかっただろう仙人峠を越える辛さは大変なものだったろう。現代では考えるだけでめげてしまう。


みぞれの降る夜に

遠野の寺社めぐり

2009-01-20 06:30:45 | 寺社
今朝は昨夜の雨が途中で雪に変り、うっすらと地面を白く覆っている。そばの山の頂きに下弦の月が浮かぶ。先日遠野の寺社めぐりに出かけたがさすが遠野は内陸側だけあって幹線からはずれると結構雪が積もっていて脇道の路面は滑り易く北海道の冬道を思い出させられた。最初は亡くなった作家宇野千代が愛したと言う寳壽院(真言宗)を訪ねた。周囲は10センチ以上の雪が積もっていたが万世の里と隣り合っていて万世の里の茅葺き屋根の門や同じく中の茅葺き屋根の荘厳で大きな別荘風の建物が目を引き、庭や門に植えられた桜や紅葉の木の配置も良く、春と秋が待ちどうしい気持ちになる。寳壽院も含め無人で寳壽院は門も閉まっていた。ここはさすがに宇野千代が愛したというだけのことはある場所だ。次に青笹の喜清院(曹洞宗)を訪ねたが場所が分かりずらかった。ここには遠野市指定の枝垂れ桜の古木がある。入り口の石門のそばにも枝垂れ桜があるが圧巻は本堂前の枝垂れ桜だ。大船渡の長安寺の枝垂れ桜よりは小さいがここの枝垂は本堂と重ねてすばらしい絵になる。盛岡の米内浄水場の何本もの枝垂れ桜も確かにきれいだが絵にはなりにくい所がある。春には必ず再訪したい。街の中心部へ向かう途中雪の積もった畑地で馬が運動のために引き出されていてしばらく見ていた。道産子のようにずんぐりとした馬だがいかにも筋肉質で戦国武士を乗せた馬もこうした馬だろうと思った。中心部に集まる萬福寺(真宗大谷派)、善明寺(浄土宗)、瑞應院(臨済宗妙心寺派)、対泉院(曹洞宗)の順に訪ねた。萬福寺は現在敷地が狭く本堂と庫裏のみ。善明寺は山門と立派な本堂があり、山門をくぐると左手に古い石を重ねた五輪塔がある。桜や紅葉も配されている。黒瓦の本堂の屋根が日射しで銀色に反射しているのが印象的だった。鐘楼と思われる建物は古く鐘が吊るされていなかった。瑞應院は山門と本堂、鐘楼を備え、鐘楼の色彩が豊かで変わっていた。大きくはないが木々もそこそこに配されている。対泉院は山門と本堂、八角の屋根を持つ仁王堂があり、この仁王堂は朱塗りの鉄製の柱で支えられている。本堂のそばには枝垂れ桜が配されやはりその時期には絵になりそうだ。この春は盛岡まで出かけなくとも遠野や住田、大船渡で見事な枝垂れ桜が見られることがわかり楽しみだ。


雪の中でひっそりと佇む万世の里の茅葺きの建物


運動のために引き出された5才の馬 遠くに雪を冠る早池峰山が見える

自然の中で生まれた匠の人たち

2009-01-19 06:36:38 | 文化
昨日は釜石の冬の味覚まつりに少しだけ立ち寄って、遠野の寺社巡りをやり夕方巨匠のお招きで匠の方のところへ出かけた。鹿肉の寿司に獲れたてのナマコ、北海道直送のししゃも、野菜作りの匠の方の手によるとろろなど珍味と美味のごちそうをまたいただいた。最近はごちそうもそうだがそこに集まる匠の方々の含蓄のある話も楽しみになった。ともかく自分たち以外はみんな何らかの分野の匠の方達ばかりである。簡単には身につけられないものを身につけた人たちである。味利きの匠、野菜作りの匠、山歩きの匠、釣りや刃物の匠、そしてランや小鳥の品種改良から料理など多種に渡る才能を持った巨匠等々、実にいずれも中途半端ではないのだ。その上、みんな気持ちが優しく、明るく、実に楽しい。野菜作りの匠の方は鳥も好きでその方からイスカという名の小鳥がいることを教えていただいた。イカルなら見たこともあったが知らない鳥であった。嘴の先端が噛み合ず横にずれているという。後で調べてみるとオレンジのカナリヤが嘴だけが変形しているような感じの鳥だった。巨匠の話では今年は川にまだ氷が張らないのでオシドリは来ていないという。山歩きの匠の方はサンコウチョウを見たそうだが一度は見てみたい。写真を見ると尾が長く、全身が青い鳥で非常にきれいな鳥だ。釣りの匠の方は自分が釣ろうとしていた魚をヤマセミに一瞬のうちに獲られてしまったことがあるという。自分に興味のある野鳥の話を楽しまさせていただいた。やはり自然豊かな中で育まれた匠の方達はよく自然を知っていて鳥のことまでしっかりと見ている。気温が低くないのかこの時期としては珍しく昨夜から今朝まで雨が降った。


鹿肉の寿司 癖が全くなく非常に美味

大槌の寺院

2009-01-18 09:22:43 | 寺社
昨日は釜石で冬の味覚まつりがあったがまずまずの天気だったので大槌の寺院めぐりを優先した。寺社は各地方の歴史と文化の遺産なので非常に興味を惹かれる。その上寺社によっては花木の古木が見られるので尚さらだ。特に東北は枝垂れ桜が多く、まるで京都の寺社めぐりをしているような錯覚さえ覚える。京都との相違は苔にあるようだ。京都の寺社は苔が多く、苔の緑が花や紅葉に彩りを添えてまさに見せる庭園になっている。東北では特に地方の寺社は苔が少ない上に剪定も京都ほどしっかりとされていない分ある意味で自然体になっている。大槌へはまだ数回しか行っていなかったが狭い地域だからとあまり下調べもしないで出かけた。街中の大念寺(浄土宗)から江岸寺(曹洞宗)へ向かった後、蓮乗寺(日蓮宗)へ行くつもりが通り過ぎてしまったことに気付き、しかたなくそのまま10Km以上離れた川井村方向の金沢地区にある大勝院(臨済宗妙心寺派)へ行くことにした。大勝院から引き返して来た時に蓮乗寺を見つけて立ち寄り、最後に吉祥寺に向かった。しかしこの吉祥寺は3度も人に聞いてやっとたどり着いた。そのかいがあって吉祥寺が一番心を惹いた。寺の前の雑木林にも数種類の野鳥がおり、ベニマシコをはじめて目にした。石の階段の横にはツツジや椿があり、かなりの年数の銀杏の巨木がある。山門をくぐると左手に百日紅の巨木、右手の鐘楼のそばには枝垂れ桜があり、その下には竹の筒から水が流れ落ちる手水(ちょうず)が置かれている。正面には立派な本堂がある。1615年の開基という。三代目の豪商前川善兵衛が現在地に移したそうだ。春、夏,秋と季節を楽しめる寺だ。


吉祥寺(大槌町) 右端の椿の影に鐘楼が見える この位置の手前まで杉並木が続く

遠野を中心にした遠野・釜石の歴史

2009-01-17 08:05:09 | 歴史
801年に坂上田村麻呂が東北へやって来るまでの遠野は東北の他地域同様えみしが住んでいたと考えられている。平安末期に安倍頼時が勢力を持ち遠野もその支配下にあった。安倍氏の出自は諸説ありはっきりしないが神武天皇の東征により追われた王族の長脛彦(ながすねひこ)、安日彦(あびひこ)兄弟を祖とする伝承が幾つかある。しかし息子の安倍貞任が朝廷と対立するようになり前九年の役(1051-1062年)で源頼義により滅ぼされる。この戦いで源頼義に勝利をもたらした清原光頼が安倍氏の跡を継ぐが清原氏もまた源頼義の嫡男の源義家により後三年の役(1083年-1087年)で滅亡する。ここで歴史の皮肉か安倍頼時の娘が藤原経清に嫁ぎ生まれた子が藤原経清没後母が清原氏に嫁いでいたことから実父の姓に復して藤原清衡と名乗り清原氏の領地を継いだ。これが奥州藤原氏の始まりとなる。奥州藤原氏は4代100年の繁栄を謳歌したが1189年28万の源頼朝の軍勢を前に滅びてしまう。この奥州藤原氏討伐の戦功により下野国(栃木県)の阿曽沼広綱が遠野を含む領地を与えられ、二男の親綱が着任し、遠野市松崎町に横田城を築き、以後400年間この地方の支配を続ける。1590年豊臣秀吉の小田原城攻めに阿曽沼広郷が参戦しなかったため領地を没収されそうになる。この時、葛西氏・稗貫氏・和賀氏・江刺氏・大崎氏らは不参戦を理由に領地没収となっている。しかし南部利直の策謀により内紛を生じ阿曽沼広長は住田町世田米に追われる。南部氏の支配となった遠野は南部光行の三男の実長の八戸南部氏の系譜が1627年に領地替えとなり遠野南部氏となる。尚、この南部実長が日蓮宗の総本山、山梨県の見延山久遠寺を寄進したとされる。釜石もほぼ同じ歴史を辿っている。


まだ残る柿に集まる鳥たち ツグミとムクドリがいるようだ

米国が生んだゴールドマン・サックスという企業

2009-01-16 06:34:47 | 経済
先日記した小泉内閣の総合規制改革会議の委員の一人であった米企業ゴールドマン・サックスは現在502の日本企業の株式を保有している。築地中央卸市場の業者の株までもだ。一時は三菱自動車も保有した。年末には三洋電機をパナソニックと競った。一昨年来続いた原油・ガソリンの高騰もゴールドマン・サックスがしかけた投機によるものと言われている。昨年9月破綻した米国の投資銀行&証券のリーマンブラザーズによる損失も裏経路で補填を受けられたという噂もある。ゴールドマン・サックスは歴代米政権内に人材を送り続けて来た。レーガン政権の国務副長官、クリントン政権の財務長官、ブッシュ政権の現財務長官はいずれもゴールドマン・サックスの元会長である。つまり米国の風土は私企業の元トップが政権内の重要ポストに入って堂々と元の企業に有利に制度改革することが許されている。日本の構造改革はまさにそれを日本にも取り入れたものだった。日本で一番多く読まれていると言われる経済学者ガルブレイス、ジョン・ケネス・ガルブレイスが1955年に出した「大恐慌」が昨年「大暴落1929」と表題を変えられて日本で再出版された。その中でわざわざ第三章をゴールドマン・サックス登場、と題して一章を割いている。今回と基本的に同様の金融商品を駆使して過剰な投機に邁進し、ついには大暴落が訪れ、後に議会で経緯を証言させられている様子が描かれている。当時と現代では同じ主役が登場しても金融のスケールが違うだけに今回の経済危機は尚深刻であり、一番の問題は金融被害の総額が読み切れないほど深く、広く影響があることだ。これからも津波の二波、三波が襲って来る。ところでこのゴールドマン・サックスを率いているのは現在上院議員のジョン・デイヴィソン "ジェイ" ロックフェラー4世だ。ロックフェラー一族の両雄の一人である。


常盤山櫨子(トキワサンザシ) 最近は洋名でピラカンサと呼ばれる

住田町の古刹

2009-01-15 06:46:33 | 寺社
雪道がやや不安だったが五葉山に接して釜石に隣接する住田町へ出かけた。仙人峠道路の滝観洞ICから降りて住田町の中心街へ向かう。何年か前に熊が出没して人が襲われたという上有住地区を抜けながら熊が出没したと言うことに何となく納得した。最初に訪れたのは世田米地区の浄福寺という真宗大谷派のお寺で入り口の石の柱門を抜けると目の前に1536年創建時に植えられたという銀杏の巨木の列が並びその向こうに鐘楼らしきものが見える。参道両側に銀杏の実が一面に落ちている。石垣が組まれた前は小さな堀になっており以前記した同宗の愛知県安城市の本證寺と似ている。階段を登り大きな山門をくぐって石垣の上に出ると左手に鐘楼と鼓楼が一つになった建物がある。正面に大きな本堂があり、左手の本堂前に梅の古木ががある。鐘楼・鼓楼のそばにはまた大きな百日紅がある。本堂左手へ入った所には椿や杉の巨木があった。次に少し離れた738年開基で天台宗から改宗した曹洞宗の満蔵寺を訪ねた。石門から始まって本堂まで一直線に並ぶという。総門の右手に見事な枝振りの枝垂れ桜の古木があり、前には仁王の石像が両側に立っている。総門をくぐると正面にこれまた見事な重層の山門(三番目の門ということで三門ともいうそうだ)がそびえる。山門の奥に本堂が控えているが右手に池がありその池の岸から池の対岸へ向かって幹が池を這うようにのびた百年以上の柳の木があり、さらに奥にまたまた百日紅の巨木がある。本堂へ上がる前に温厚なご住職が姿を見せられ貴重なお話を伺い、小一時間立ち話をさせていただいた。山門は昔篤志家が私財を投じて建立し財が尽きたため未完成なのだそうだ。山門の仁王像は1本の松の木から2体が作られたと言う。岩手ではじめてお寺に立派な百日紅があるのに出会ったので伺ってみると百日も長く咲く花ということではないかとのことだった。旧仙台藩に属した住田町にこれほどの寺院があったことに驚いた。花の季節の楽しみがまた増えた。


満蔵寺総門から重層の山門を眺む

ニュースを聞いて落胆してしまった

2009-01-14 08:05:10 | 文化
夜また降り積もった雪で今朝も庭が真っ白になっている。釜石のこの時期にしては珍しいのではないだろうか。昨夜の国営放送地方局のニュースを聞いて落胆したことがいくつかある。県立大船渡病院の23才の看護士が釜石市内のコンビニで人の金銭の入った物を盗ったということがニュースとして報道され、岩手県医療局の人が報道陣を前に詫びる姿が映された。先ずは驚いた。こんなことが国営放送地方局が報道する内容だろうかと。他に今の地方にはもっと重要なことが沢山あるだろうと思った。この点だけは残念だが地方局の報道陣のレベルの低さを感じる。また内容からして県の医療局が詫びなければならない問題では全くなく、医療局も報道陣も情けなく思った。医療事故でさえないだろう。一番残念なのは23才の若者の地方では特に数の少ない看護士への扱われ方に岩手人のこれまで感じて来た優しさや心の温かさが感じられないことだ。悪いことをやったことには違いがないが昔の大人たちはもう少し人に寛大だった。その寛大さ故に多くの若者を逆に小さな悪から立ち直らせた。当の看護士が盗った相手に対し、看護士は心からすまなかったと思えるだろうか。ここが本当は一番大事なことなのだ。そのことを現代人は忘れて人間味が薄れ殺伐とした世の中になっていると思う。要するに人と人の繋がりを大事にする姿勢が感じられなくなってきている。


炭焼き小屋 岩手ではところどころで見かける

南部氏の始まり

2009-01-13 07:06:31 | 歴史
昨日は午後から雪が降り続けて、周囲が白く化粧をしてしまった。南部氏の始祖は南部光行と言われている。南部光行は清和源氏(清和天皇の孫が源姓を天皇から与えられた)の流れを汲む河内源氏から分かれた甲斐源氏の嫡流で、鎌倉幕府を開いた源頼朝は河内源氏の嫡流と言う関係になる。南部光行は父が弓の名手の加賀美遠光で三男であった。1180年頼朝と伴に現在の小田原市の石橋山の戦いに加わり、甲斐国南部牧を与えられ、南部氏を名乗るようになった。現在も山梨県南巨摩(みなみこま)郡南部町がある。長男の秋山光朝は平家嫡流の平重盛の娘をもらい後に頼朝に滅ぼされたが、その系譜は秋山氏として残る。次男の小笠原長清は小笠原氏の始祖となる。四男の加賀美光経が加賀美氏を継ぐ。五男は於曽経行である。南部光行はその後1189年奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げ、陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん-青森県東部から岩手県北部)を与えられる。現在、青森県三戸郡南部町が残っている。しかし南部光行自身は鎌倉に終生住んでいたようだ。南部光行には六人の息子たちがおり、それぞれ、長男の行朝が庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が南部氏を継ぎ、三男の実長が八戸氏の祖、四男の朝清が七戸氏の祖、五男の宗清が四戸氏の祖、六男の行連が九戸氏の祖になったそうだ。南部光行が甲斐国南部牧を与えられたことから馬を良く知ったため後に南部駒に発展することになったと言われる。甲斐(山梨)からは多くの郎党が移り住み、山梨の言葉が多く南部領に伝わることになった。南部氏の領地支配が変わらず700年近くも続いたと言うことは日本の歴史では他に例を見ないものだ。それだけその伝統が深く根付くことにもなったのだろう。


雪の華 近在の山

いつも新鮮な発見に出会う釜石

2009-01-12 09:13:29 | 文化
昨夜は2日前からの強い風が収まり、澄み渡った空に丸い寒月が煌煌と照り輝いていた。昨夕巨匠の招きで匠の方のところへ出かけ、鹿肉のたたきやスペアリブ、牡丹えびの刺身、熊汁などの珍味かつ美味をいただいた。いつもの如く一つ一つが味付けに手が加えられ、簡単にまね出来ないものばかりである。暖かいストーブを囲って岩手の人たちの優しく、愛情に満ちた愉快な話を聞きながらの一時はほんとうに気持ちが良く、心和む時間になっている。湧き水を引いた水も美味しく、すべてが自然溢れる世界なのだ。酒を飲める家人に言わせると釜石に来て初めてお酒がこれほど美味しいことが分かったと言う。匠の方のところにはお邪魔するたびに東北各地の銘酒が寄せられている。それもそこに集まる東北の人たちの人柄のなせる技だと感心させられる。ここには自然の豊かさの真の姿が見られる。自然の豊かさと人の豊かさの共存と言える。人の生活の豊かさはその心の豊かさが伴っていなければ、見かけが豊かであっても貧しいのだと気付かされる。そして人の心の豊かさは周囲の自然の豊かさと無縁ではないと気付かされる。匠の方のところへ出かけるたびに新たな自分を発見しているように思える。都市は一見華やかだが世の中の影響を受け易く、ある意味では非常に脆いと言える。地方は地味だがそこにしっかり生活が根付いていて都市の脆さがない。地方の人々の良さもその強さに気付いていないことなのかも知れない。すべてが当たり前で、自然なのだから。


初春を待つ椿の蕾