釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

皇祖神

2010-09-20 12:55:05 | 歴史
秋の長雨というが、確かにこの時期は降り出すと長く降っているし、今日のように降らなくとも雨雲が空を覆ってなんとなく気分がすっきりしなくなることは確かだ。天照大神を祀る神社や天照大神と記された石碑は非常に多い。明治政府が神の国として神道を持ち上げ、第二次大戦時には国を挙げて現人神を讃えた。天孫降臨神話も巧みに利用された。日本の古代神話について書かれたいくつかの書籍を読むとこれまで強調されて来た皇祖神、天皇家の祖先神が天照大神であるというのは、どうも天武、持統の夫婦によって変更されたのだと言う。それまでは皇祖神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)であったのだと言う。天地開闢の時に登場したのが造化の三神と呼ばれる天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神であり、日本書紀では天孫降臨の時に天照大神の孫であるニニギに葦原中国の平定を命じたのは天照大神ではなく高皇産霊神となっている。高皇産霊神の娘、栲幡千々姫(たくはたちじひめ)を娶ったのが天照大神の子である天忍穂耳(あめのおしほみみ)で、その二人の子がニニギである。従ってニニギは天照大神にとっても、高皇産霊神にとっても孫と言うことにはなる。神話では高皇産霊神は造化の三神と言われるように、天照大神より一種、格が上である。高皇産霊神が皇祖神であったのを天武、持統が中国の神仙思想に則って天照大神に変更し、持統天皇の時代に伊勢神宮が完成されたと言う。であれば、これはまさに古田武彦氏の言う九州王朝の存在と符合するように思われる。白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れ、衰退した九州王朝は高皇産霊神を皇祖神としてしていたが、唐を味方につけて力を付けた天武は自らの統治者としての正統性を創出するために天照大神を皇祖神とする神話を創りだした。

雨滴 夜の間に雨が降ったのだろう