釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

北上川を見下ろす胡四王神社

2010-03-04 07:02:47 | 寺社
現存する5つの風土記の中でほぼ完全な形で残る『出雲国風土記』には国引き神話が記されている。古事記や日本書紀には記されていない。すでにこの事実が出雲にあったはずの王朝を記紀が認めようとしていないことを物語る。記紀はあくまで日本には初めから大和王朝だけしか存在しなかったということを主張する目的のために書かれた。しかしはるか縄文後期には出雲王朝があり、その傘下の越(こし)の国があった。恐らくそのころ東北の津軽にはツングース系の人々がいたと考えられる。越の王は勢力を現在の岩手まで延ばしていたのだろう。花巻市矢沢の胡四王神社やかっては胡四王神社であった紫波郡矢巾町徳田にある徳田神社などがその名残と思われる。花巻市の胡四王神社はその名も同じく胡四王山と称される山に鎮座する。ちょうど二コブラクダのコブのように山頂部が二つに分かれ、一つには宮沢賢治記念館がある。残る一つに胡四王神社が祀られている。胡四王山は標高176mの小高い山で北に向けて祀られた胡四王神社の近くからは北から南に向かって流れる北上川を見下ろすことが出来る。かってはここから眺望する縄文の櫓が聳えていたのかも知れない。胡四王神社はまさしく北に向けて祀られており、拝殿と本殿が鎮座する。毎年1月には蘇民祭が行われる。蘇民兄弟と建速須佐之男命について記された『備後国風土記』逸文から考えるとこの祭りの起源もその裸体の行事であることを合わせて弥生初頭前後に遡るのかも知れない。須佐之男は出雲系の神であり、越は出雲の傘下にあった。同じく出雲の傘下にあって筑紫で縄文の稲作を行っていた安日彦・長髄彦兄弟は天照の命でこの地に攻め入った邇邇芸(ににぎ)に降伏することを潔しとせず、津軽へ落ち延びて荒吐王国(あらはばきおうこく)を打ち立てる。この時邇邇芸(ににぎ)の傘下に落ちた越の国も勢力を弱めて行ったのではないだろうか。もともと同じ出雲の傘下であった越と荒吐の間にはほとんど戦いはなかっただろうと思われる。越のごく自然な勢力の縮小に伴い荒吐王国が拡大して行ったのではないかと思う。でなければ荒吐王国の支配領域となったはずの岩手に胡四王神社や1000年以上の歴史を持つと言われる蘇民祭が残ることはなかったのではないだろうか。人の誰もいない胡四王神社のそばで眼下に花巻の平野部を悠久の時を越えて流れ続ける北上川を眺めていると上古の様々な想念が浮かんで来る。

花巻市の胡四王神社 北向きの社殿のため背後から光が射す

「胡四王神社」の名が入る額

胡四王神社の西方の眺望 北上川が北から南に流れる

胡四王神社の北東に早池峰山が望まれる

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