釜石の日々

志賀理和氣神社(しかりわけじんじゃ)

花巻市と盛岡市に南北を挟まれて紫波町がある。ここに以前から気になっていた神社がある。最北の式内社であり、背後に北上川と接する志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)だ。「しかりわけ」とは何なのか、普通には解せない。これだけでも興味が惹かれた。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)、武甕槌命(たけみかずちのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、保食命(うけもちのかみ)、少彦名命(すくなひこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、船霊命(ふなだまのみこと)の七柱となっている。いずれも縄文から弥生初頭にかけての神々だと思われる。特に出雲との関連が強い。しかし社伝では「志賀理和気」はアイヌ語に由来すると言う。確かに東北は地名もアイヌ語由来だとされるところが多い。ただいつもそうした由来に接すると思うのは名称だけが伝承されて文化が伝承されないなどということがあるのだろうか、という疑問だ。アイヌ語由来名称だけ残されて、アイヌ文化は伝承されない。まずは考えにくいのではないだろうか。ある1カ所だけということであれば偶然そう言うことになったということもあるだろうがアイヌ語由来とされる地名などはたくさんある。その全てで文化は伝承されないなどというのは考え難い。むしろアイヌ語は縄文語の一部として残り、本来はアイヌ語地名と称されるものが縄文語地名の可能性の方があるのではないだろうか。昨年末に亡くなられた名高い言語学者の小泉保氏が書かれた『縄文語の発見』を読んでみたいのだが、現在この書は入手が困難になっている。早稲田大学名誉教授でアイヌ語研究で高名な田村すず子氏は安易な日本語とアイヌ語の関連付けを警告しているようだが。志賀理和氣神社は道路に面して厳島神社に代表される前後に副柱を持つ赤い両部鳥居が立つ。この鳥居を過ぎると北側になる左手に恋に落ちた若い都人と近在の領主の娘が植えたとされる樹齢700年の「南面の桜」がある。娘を置いて都へ帰ってしまた人を恋しく思う娘の気持ちの現れで桜は南に向いて咲くと言う。この桜を過ぎてさらに北上川に向かって進むと石造りの第二の鳥居があるが、その手前左手の木立の中に山神が祀られていた。社殿はおそらくかって現在よりはるかに広くあったと思われる鎮守の森の中に鎮座している。社殿は式内社であり、南部一宮であっただけの壮麗さをどことなく醸し出している。前面の大きな拝殿の後ろには朱に彩られた本殿(神殿)が控えている。社殿の右には赤石天満宮と坂下稲荷神社が並ぶ。さらに右手前には小野藤稲荷神社と「紫波」の言われとなった赤石が祀られている。かって北上川の川底に赤い大石があり、川波が立つと美しい紫色に染まったことから「紫波」の地名が称えられるようになったそうだ。志賀理和氣神社もそうだがアイヌ語由来と伝承されながら祭神はいずれもこの神社固有の祭神ではなくなっている。敗者の固有の神々は葬り去られたということなのだろう。

志賀理和氣神社の朱塗りの両部鳥居

南を向いて咲くと言われる樹齢700年の江戸彼岸桜(東彼岸、姥彼岸桜ともいう)

第二の鳥居前の木立の中に祀られる山神ー周囲に巨石はない。農耕時期の里神として祀られたのかも

石の第二の鳥居ー社殿周囲に鎮守の森がある

志賀理和氣神社の拝殿 正月の飾り幕や提灯が残っているのか

側面から見た朱塗りの本殿 本殿の後ろの森のさらに後ろに北上川が流れる

「紫波」の謂れとなった赤石も祀られている
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