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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

遠野郷はほんとうに広い

2009-07-13 07:01:18 | 寺社
遠野の蓮の咲き具合を見ようと遠野に向かった。仙人峠道路を下りてすぐに340号線から土淵に向かう道に入る。この道筋は車もあまり通らず、遠野らしい田園風景が広がりお気に入りの道だ。青笹の荒神神社も周囲の緑の水田に囲まれいつもの落ち着いた佇まいを見せてくれた。道沿いには立ち葵や幾種類ものユリの花が咲き、ところどころで焚き火の煙がたなびき、遠野ならではの風景を見ることが出来る。火渡の石碑群も遠野らしい風景だ。ふるさと村の駐車場はさすがにこの時期だけあって一杯だ。附馬牛から大出方向へ右折してしばらく行くと右手に4段の田に蓮が植えられている。上から2段目までは蕾がかなり出ていたが3段、4段目は蓮そのものが去年よりかなり減っているように思えた。まだ花には1週間位早いのかも知れない。睡蓮も咲いていて、白、赤、ピンクと三色見られた。赤トンボが蓮の若葉に止まって水に映っていた。この辺ものどかでたまに訪れるにはいいところだ。去年はここでミサゴが争うのを見かけた。大出までさらに足を伸ばし、初めて早池峰神社(はやちねじんじゃ)へ行ってみた。標識のそばに大きな石に神社名が書かれていて、そのすぐそばには巨石があった。さらに道を進むと神門があり、階段を上る。由来を読むとここはもともと妙泉寺というお寺だったのを明治の廃仏令で早池峰神社となったそうだ。脇道に入ると駒形神社もあり、その横には山神の石が祀られていた。本殿横には雌雄の一位の巨木がありこの一体に霊場のような厳かさを感じさせられた。大出小・中学校の横をさらに山の中に進みかなり奥へ行ったところに大原牧場があり、そこを過ぎて道なりに進むと車止めがあり、そこから30分歩くと又一ノ滝となっていた。さすがに一人で熊の危険を背負うわけにはいかないので引き返すことにした。帰路滝川を横切る電線にヤマセミが止まっていた。1年ぶりにヤマセミを見た。しかし遠野は実に広く、山深いことを知った。山紫陽花が咲き始めたばかりで花が若々しくきれいだった。

遠野火渡の石碑群

早池峰神社の本殿 建物はすべて寺院建築のままだ

薬師堂付近

2009-07-11 07:18:12 | 寺社
釜石の薬師公園の階段横には石碑がたくさん残されているがその近くに石で造られた祠があり、古峰神社とある。調べてみると古峰神社は栃木県鹿沼市の古峰ヶ原にある古峰神社が元社で関東から東北にかけて広く信仰されているようだ。日本武尊を祭り、火防・盗難除・海上安全・五穀豊穣の神として信仰されている。西暦700年頃、隼人なる人物が京都よりこの地を訪れ、創祀したのが由来のようでその後日光を開山した勝道上人が古峯ヶ原を修行の場としたことから神仏混淆の形をとり、さらに天狗信仰も加わったようだ。釜石に限らず東北の道端にはこの「古峰神社」の石碑・石塔が多く存在する。ただ古峯ヶ原の元社である古峰神社も勝道上人が修行したとされる場所に巨石があり、釜石の薬師公園入り口の「古峰神社」石塔近辺にも巨石を認める。このあたりは縄文の巨石信仰とも繋がりがあるように思える。この入り口の階段近辺に金比羅の石碑があったり、少し上の観音寺横には不動明王の石碑と大きな降魔鉄剣も見られる。この一体は古くからの霊所であったのだろうと思われる。古い釜石の地図を見ると昔は海がかなりここに迫っていたようでここに建つ石柱にも釜石甚句が記されていて、田舎なれども釜石薬師 出船入船目の下に と歌われている。観音寺・薬師堂の一段上には磯崎稲荷があり、下の薬師堂側から稲荷に続く階段があり、その階段周囲には今各種の紫陽花が見頃となっている。おそらくここの紫陽花は釜石の隠れた名所だと思う。紫陽花の時期でもまずこの紫陽花近くで人を見かけることがない。


磯崎稲荷の紫陽花 額紫陽花や八重の住田の花火もある

あじさい寺はまだ少し早かった

2009-07-03 07:02:32 | 寺社
曇り空の中を先日北上市の外れにある萬蔵寺へ出かけた。初めて訪れる寺だが以前通りがかりにあじさい寺と標識が出ていたのでそろそろあじさいが咲いているのではと思い出かけることにした。遠野を抜けて花巻方向へ進み宮守町鱒沢のめがね橋直売所の信号から107号へ入る。花巻市の今年から閉鎖された田瀬湖のあやめ園の前を通り、奥州市を抜け、北上市へ入って長い下り坂になり、その途中の右手を少し入ったところに萬蔵寺がある。門前には広い芝生の敷地がありその中心に池がある。池の中心には落ち着いた姿勢で休んでいる仏像がありその周囲には睡蓮が咲いていた。目的のあじさいは残念ながらここではまだ少し早かったようでわずかに開いたあじさいを見ることが出来る程度だった。寺の構えは沿岸部とは異なり本堂はそれなりのものだが全体にやや簡素な感じである。岩手の寺の例に漏れずここにも百日紅の木が植えられていた。境内を一通り見て回った後帰路についた。萬蔵寺から107号に出て遠野方向へ向かってすぐのところにまきさわミートピアの工場と直売所があり、そこへ立寄り、ロースハムとソーセージを買った。北上の指定農場の豚を使いドイツから取り寄せた香辛料と天然の塩、さとうきび砂糖を使用したドイツ仕込みの技術で作られたものだそうだ。さらにそこからほど近い産直で薄紫の可憐な花の咲く千なりほおずきを買ってしまった。山中を走る107号線の両側には月見草が花を閉じて並んでいた。めがね橋直売所へも立寄り幾つか山野草を見たがここは値段がやや高い。かしわ葉あじさいが咲いていてよほど迷ったが結局パスした。産直遠野風の丘へも寄ってみようか迷ったが通り過ぎてしまった。最後にお気に入りの上郷の産直へも立ち寄ってみたがここは時期に合わせた山野草が安く売られている。ここでも三種類のユリをまとめて買ってしまった。濃い紫のあやめも欲しかったがあやめは湿地を用意してやらないと可哀想なので断念した。釜石へ来てからはこうした産直が楽しみの一つになった。


萬蔵寺門前に咲き始めたあじさい


睡蓮の咲く池に座した仏像

新緑の5月を満喫する

2009-05-21 07:06:36 | 寺社
釜石市の中では鵜住居から笛吹峠へ向かうルートが好きだ。橋野のどんぐり広場は無論だが、この橋野近辺はいつ通っても釜石の市街とは異質のものを感じる。ずっと遠野に似ている。実際遠野から移住したと思われる菊池姓の方が住んでおられる。どんぐり広場には茅葺き屋根の水車小屋があるが伊達で水車小屋を置いたのではないようだ。この橋野近辺には昭和20年代には22の水車が動いていたそうだ。製鉄の動力源も水車だったと言う。鉄の歴史観には橋野三番高炉の直径3mの水車(実際に使われたのは直径6mのもの)が復元されているそうだ。どんぐり広場よりもう少し下流の人家の間を山に入ったところにも小さな神社のそばに水車小屋があった。こちらも復元されたものか動いてはいなかった。瀧澤神社の奥の院へも初めて行って見たが道の前方に突然松の巨木が現れそれとすぐ気付く。沢桧川の不動の滝の音が聞こえるが新緑に覆われて奥の院自体にはすぐ気付かなかった。川伝いに少しだけ下流に歩くと見えて来た。不動の滝直下の大きな淵の対岸に祠が佇んでいた。この景観は霊的な荘厳さを感じさせる。古代には間違いなく人々の信仰の地であったと思う。実際しめ縄を張った巨石もある。残念ながらこの奥の院の由来が分からないが縄文時代から続くことは間違いないだろう。遠野物語拾遺33の一尾の鮫がここまで川を上って来た話も何かを象徴したものだと思う。どんぐり広場を過ぎてしばらく行くと鷲ノ巣滝があり、上流から続く滝がやはり新緑に囲まれて気持ちよく流れていた。青ノ木平ではまだ桜が咲いており、こうして釜石近辺では標高差で結構長く桜を見ることができることがうれしい。笛吹峠を越えて遠野に下りて行くと最初の民家近辺でも遅咲きの里桜の関山が咲いていた。遠野の市街地よりも一月近く遅い。橋野や遠野ではもうアヤメが咲いていた。晴れた日はのんびり車を走らせながら近辺を目で楽しみながら過ごせる。釜石はいつもすばらしいと思える。


不動の滝直下の大きな淵を前に巨石の上に佇む瀧澤神社奥の院


鷲ノ巣滝 滝の両側の木々にはよく見ると山藤の花が咲いていた


青ノ木平の中心あたりに桜が咲いている

春の晴れた日に

2009-05-01 07:04:02 | 寺社
ここのところ上天気が続きあちこちで新しい花が次々に開いて来た。山法師、花蘇芳(はなずおう)、遅咲き桜、ライラック、シャクナゲ、などが桃や山吹、木蓮、チューリップなどと一緒に目を楽しませてくれる。山々は薄いほのかな緑が木々に芽吹いて柔らかいクッションのような起伏を見せて山桜を一層引き立たせている。東北の春は遅いけれども咲き始めるとたくさんの花が重なって咲き続ける。庭に山野草が次々に芽を出し、日増しに伸びて来る。先日家人が巨匠たちに連れられて山菜採りに山へ出かけ、山菜とともに一人静を採っていただき早速持ち帰って鉢植えにした。山菜もそうなのだが桜も時期を逃せないので岩手では最後の桜の一つになる遠野の桜を見に一人で出かけた。遠野青笹の喜清院の立派な枝垂れ桜を手始めに作家宇野千代が愛した万世の里へも足を運んだ。人のいない広い敷地に建つ茅葺きのどっしりとした建物と庭に咲く桜を木陰から忍ぶようにして眺めた。遠野の八幡宮は人があまりいないが鳥居前の枝垂れ桜がちょうど見頃だった。福泉寺の駐車場はさすがにこの時期はほぼ一杯で昼食の時間も惜しんで広い境内を歩いた。境内には桜がたくさん咲いていて庫裏のそばの池や本堂前、大観音堂の前の階段、多宝塔の近く、五重塔のそばなどに植えられた桜はそれぞれの建物を景観として引き立たせていた。街中の智恩寺は本堂が丘の上にありそれを見上げると枝垂や染井吉野が取り囲むように咲いている。道路を隔てた反対側には老齢の方がその桜の景色を絵に描かれていた。桜にはたくさんのメジロやシジュウカラがやって来ていた。最後に猿ヶ石川の堤の桜並木を見に行った。こちらも他と同様満開で真っ青な空に川の流れとともに春の暖かい日射しを受けて十分に目を楽しませてくれた。


遠野から眺めた雪の残る早池峰山

八雲神社

2009-04-18 06:44:01 | 寺社
先日大天場公園の片栗の花を見に行ったがそのすぐそばに八雲神社がある。由緒ではかっては大天姥権現と言われ釜石郷の惣鎮守だったそうだ。祭神は最初は倭姫命(やまとひめのみこと)であったと言う。第11代垂仁天皇の第4皇女で日本武尊の叔母でもある。伊勢神宮を現在地に創建した人とされる。八雲神社の祭神はその後素盞嗚尊(すさのおのみこと)になったそうだ。そして日本書紀には歴史上初めて詠まれた歌とされる 八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を の歌が素盞嗚尊の歌として記されている。<出雲の国は八方から雲が湧き、群がるように、未だ危険の多い所だ。そこで、私は妻を守る為に堅固な城砦(じょうさい)を築き、みんなにも同じ事を義務づけるとしよう。>と言う意味の歌だがこの歌から八雲の名が取られたようだ。記紀では八岐大蛇(八俣遠呂智)(やまたのおろち)を素盞嗚尊が退治したと描かれているが唯一全巻が揃っている出雲国風土記ではそのことが全く触れられていない。また素盞嗚尊が天下る場所も記紀で食い違いが見られるところがある。以前にも記したがどうも記紀は各地の実際の伝承を記紀の登場人物にすげ替えて描いている節がある。出雲国風土記では天の下造らしし大神は出雲国を造った最高の神である大穴持命(おおあなもちのみこと)、すなわち大国主命であり、素盞嗚尊ではない。島根県に大国村と言うところがあり、そこの古老の伝承でその古老の家に賊に追われて逃げてきた大国主命を匿ったことがあると言う。まだ出雲がまとまっていないころの伝承だろう。出雲は大国主命の国であったものを家臣であった天照皇大神が強奪したと言う説の方が納得できる。記紀はこれをあたかも禅譲であるかの如く脚色している。残念ながら八雲神社の古い記述が残されておらず何故大天姥権現とされたのかが不明である。明らかに尾崎神社の系譜とは異なっており、興味が引かれるのだが。


日射しを浴びる満開の桜

春を満喫した一日

2009-04-13 06:47:02 | 寺社
昨日も春の薄雲はかかっていたが暖かい日だった。いつもとは逆に釜石自動車道を通り滝観洞ICで降りて、住田町の浄福寺へ向かった。先日のパトカーを意識してややスピードを落として運転した。一度対向車がフラッシングしたので気を付けていると無人のパトカーが止まっているのを見かけただけだった。浄福寺の白梅は満開を少し過ぎていたが日射しの方向が先日とは異なる状態で白梅を見ておきたかった。しかし期待した程の変化は見られなかった。メジロがたくさん花の蜜を吸いにやって来ていた。可愛い声で互いにさえずっている。満蔵寺では紅梅がちょうど見頃で青空がもう少し出ていてくれると尚きれいだったろうと思われる。柳も新鮮な緑の枝を垂らしていた。大船渡では長安寺の紅梅が見られたがここの梅は古木のためか花の数が少なく少し残念だった。駐車場にいた家人に匠の方の奥さんから電話があり家に寄るようにとのお誘いだった。海岸の45号線を北上して釜石へ向かい、釜石市街地の5分咲きの桜並木を抜けてホームセンターへ立寄りかねてから考えていた鬱金桜を購入した。一度家に戻ってから匠の方の家に向かった。着いて程なく若手の匠の方と匠の方が何か作業を始めた。聞いてみると竹やぶのそばの白梅のライトアップをやるのだという。立派な孟宗竹の竹やぶが控えていて白梅がきれいなのだ。これで京都のように竹の灯籠が周囲にあれば最高だろうと思った。匠の方のこの竹やぶのある敷地はいつも気持ちがよくその後ろの山の上には星がきらめき北斗七星が真上に大きく輝いていた。偶然人工衛星もその北斗七星を横切っていた。楽しい話にあっと言う間に時間が過ぎて行った。薪ストーブの気持ちいい暖かさと外の梅の香りに満たされて至福の春の宵だった。


匠の方の敷地のライトアップされた白梅

晴れた日は気をつけなければ

2009-04-09 07:00:05 | 寺社
ここ何日間かは晴天が続き気温も15度を超えて来ている。釜石で給油した後懲りずに大船渡へ向かった。45号線沿いはあちこちで梅が満開になっていて白梅と紅梅が青空によく映えていた。長安寺の駐車場そばの畑には菜の花が咲いていた。風は少しあるが気温が上がって暖かだった。山門前の池のそばの紅梅はまだ3分咲き程度で、立派な山門を潜って本堂と鐘楼のそれぞれのそばにある紅梅は1分咲きでまだ少し早いようだった。市街地から山手へ奥まっているためだけではなくどうも古い木でもあるためか近辺より遅いようだ。107号線で住田町へ向かい、商店街の南部食堂でラーメンを食べた。ここも特徴があるわけではないが決して不味くはないのでよく立ち寄る店だ。満蔵寺山門の白梅がきれいに咲いており、鐘楼前にも8分咲きのやはり白梅が見られた。本堂前の紅梅はまだ早く、花が開いていなかった。紅梅は枝も密に出ていて沢山の蕾が出ているので開くのが楽しみだ。最後に浄福寺へ向かい、駐車場手前から鐘楼が見えて来るとその両側に白梅が清々しく開いているのが見えて来た。階段を上って見事な松の古木のそばを過ぎると左手に大きな白梅の木が日を受けて本堂とよく溶け込んでいた。ここの白梅は枝がすばらしい。メジロやシジュウカラが沢山群がってさえずりながら枝から枝へ花の蜜を吸いながら渡っていた。都会と違ってほとんど人がいないのでゆっくりと堪能することが出来る。山茱萸もまだ鮮やかな黄色の輝きを見せている。帰路は釜石自動車道へ入るために340号線を走ったがたまたま家人が知り合った頃の話を思い出して話に引き込まれている内にバックミラーに赤い点滅が映り、気が付くとパトカーだった。大船渡署のパトカーでこんなところで取り締まりをやっていた。広い道でついつい話し込んでいたものだからそれほど出しているとは感じていなかった。ステーキを食べに行った話をしていたので罰則金のことを考えればまたステーキを食べられたものをとつい愚痴ってしまった。


咲きそろった満蔵寺山門の白梅

北へ帰る白鳥の休息

2009-03-26 07:11:30 | 寺社
昨日は午後から早春の雪になり、夕方には一面が真っ白になった。家人と遠野の白鳥に会いに出かけた。職場の方から先日はまだ白鳥がいたという話を聞いていた。早瀬川と猿ヶ石川の合流点に砂州がありその付近でいつも白鳥を見かける。9羽の白鳥が北帰行を前にゆっくりと川水の中を移動していた。近くにはマガモとオナガガモのそれぞれ番いがいた。白鳥の1羽の首には明らかに何かで首を締め付けられたような痕がついていた。無事にそれがはずれたようで特に体に不具合が残る様子もなかった。外気はおそらく-2~3度と思われしばらくいると身体が冷えて来た。遠野の市街地の中には南部藩時代の名残を思わせる町並みが残っておりそれをゆっくり眺めながら次の目的地へ向かった。樹齢が何百年にもなる桜の巨木が残されている賀茂神社にほどなく到着し神社前に書かれた賀茂神社の由来を読んだ。12~13世紀の創建らしいが昔は鬱蒼とした杜が広がり神社内には京都の上賀茂神社にならった競馬も行われた馬場があったという。現在は神社として荒廃気味でちょっと寂しさを感じる。ただ桜の巨木には圧倒されるばかりでこの桜がかっての由緒を唯一示していた。それとその桜の巨木のそばに小さな祠と石碑があり、石碑には水神と大書されていた。賀茂神社の祭神は上賀茂神社など全国の賀茂神社同様別雷神(わけいかづちのかみ)で山城国風土記にみる賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀ったもののようだ。雷は「神鳴り」のことを指すそうで治水神だという。古事記にも山城国風土記の賀茂別雷命の説話と同様のものがあるそうだが例によってというか登場する人物名が違っている。記紀には各地の伝承説話を拝借したものが使われている可能性が強いようだ。


川水の中で憩う白鳥たち


桜の巨木と祠と水神と刻された石碑

奥州市水沢の黒石寺と正法寺

2009-01-30 06:36:59 | 寺社
奥州市水沢(旧水沢市)の黒石寺(こくせきじ)と正法寺(しょうほうじ)を訪ねた。黒石寺(天台宗)は現来奈良薬師寺の僧侶が730に東光山薬師寺と号して開山されたそうだ。その後征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地に住む蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)を倒して胆沢城を築くとその神宮寺的な存在となり、4000人の人々が移り住んだという。807年に夷賊によって薬師寺を焼失し、田村麻呂が城内にいた飛騨の内匠(たくみ)に修復させたという。849年に東大寺慈覚大師円仁がこの地に来られ薬師如来を本尊とする黒石寺と号して再興したそうだ。3日後に裸の祭り、蘇民祭を控えて境内前は露店の区画らしきものが準備されていた。本堂と鐘楼が建っていたがここも本堂の彫刻は見事で、かっての面影は見られないが土塀などを見ると京都の影響が強いように思われた。ただ黒石寺で残念なのは本堂や鐘楼も立派なのだがどちらかというと住職の住まいを京都風に整えて立派な庭園らしきものがそちらにあることだ。黒石寺を主として訪ねたがかえって正法寺の方に惹かれた。正法寺(曹洞宗)は1348年開基で往時は1200もの末寺を有していたそうだ。総門前には精進料理の店もあり、総門から左右へ源氏塀が伸び、総門の前後は蛇紋岩を積み上げた段差の強い階段になっていて境内は広く、正面に巨大な茅葺き屋根の本堂が見えて来る。茅葺き屋根の建物としては日本一だそうだ。庫裏も大きくやはり茅葺き屋根になっている。鐘楼もこれまで見聞した中で最大のものに思える。庫裏や本堂内部も荘厳でともかく大きい造りに驚かされる。禅修行の20人の修行僧のお一人で30代の方にお茶をいただきながらお話を伺ったが、日本で一番寒い修行寺だということだった。以前は永平寺と同格の寺であったという。現在の中尊寺よりもはるかに寺らしく立派だ。春には必ず再訪したい。


正法寺本堂 大きな本堂でしかも茅葺きでは国内最大の建物、岩手のお気に入りの一つになった