なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

使命、縁尋、なだれ込み

2006-10-12 01:22:07 | Weblog
日本経済新聞の夕刊に「フリートーク」というコーナーがある。今日は、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコが、レイキャビクに世界平和を願うモニュメントを作ることになっての発言が載っていた。
「私たち一人一人が今という時に生まれてきたのは偶然ではない。使命を果たすためだ。しかし、その使命はまだ果たされていない」

この一文を読んで、最近つらつらと考えていたことを思った。

人というものは、地球という星に生まれては死に、また生まれては死んでいく。全てを司るものがいるのだとしたら、何のために人を誕生させ、好き勝手に生きさせているのだろう。たった数十年の命をまっとうし、造っては壊し、さらに造り、それが何世代も続き、では何が残るかといえば、時代ごとにつくりかえられていく風景が残るだけのような気がする。それが、長い長い地球という命の中で、どんな意味を持つのだろう。

人は、自らの意志で何かを選択しながら生きているように思っているが、実は自分が決めて行動していることなどほとんどないのかもしれないと思うときがある。この時代、この場所、この環境、そういう自分が置かれている「今」という状況の中で、周囲に要請されたことに対して「やる」か「やらない」か、自分で決められるのはそのくらいなのかもしれないと。
そして、その延長線上に「今」があるのだとしたら、要請されること自体、今ここにいること自体、「使命」なのかもしれなくて、それは一個人の話だけでなく、地球規模の話でも同じような気がするのだ。

使命とは、本当に何だろう。
「やる」「やらない」の選択だとして、それは「なだれ込む」「なだれ込まない」と置き換えることもでき、さらには今日のK松さんのブログにある「縁尋(えんじん)の機妙(きみょう)」ということにもつながるのだとしたら。
今、要請されていることに対し、私がもし「やらない」ばかりを選択したとしたら、今ある使命も、なだれ込みの先の出会いも、縁尋(えんじん)の機妙(きみょう)も、きっとなくなってしまうのかもしれない。
「やるしかないだよ」ということのよくわかった、でも思考過程は全くつじつまが合ってない気のする、今日の辛気くさいブログでした。