大峰の河童

法螺貝を習得中 

明治の地図が示す平城宮跡

2010年03月30日 | 日記
大正3年近鉄奈良線が平城宮跡を横切る前の地図(明治18年測図)を参考に、佐紀古墳群と宮跡を歩きました。 

歩いた、ハイキング道は大小の古墳の間を抜ける様に整備がされています。石塚山古墳と陵山古墳の間を抜ける道は前方後円墳の構造が身近に感じます。 瓢箪山古墳は公園に成っていて墳墓に登ることが出来ます。

今年、開かれる平城京遷都1300年のメイン会場の広々とした宮跡には大極殿や朱雀門等が再建整備されています。 しかし、文化財保護法による「特別史跡」に指定されるまでの保存運動を聴くにつけ、なぜ史跡のど真ん中を近鉄が横切って走っているかが判明。

宮跡の保存運動は明治の終わりから大正にかけて棚田嘉十郎氏、溝辺文四郎氏等の少数の人たちが命がけで行った。 保存が全国的に広がる中、怪しげな宗教団体の介入を許し、批判を浴びて割腹自決された棚田氏の話を溝辺氏の子孫宅「平城庵」で資料をもとに勉強する事が出来た。

明治の地図では平城宮跡が水田になっている。大正十一年の「史蹟平城京」指定から昭和27年「特別史蹟」になっても本格的な保存処置が執られず、遺跡破壊の鉄道や道路建設が行われた。 今日に成り、初めて遺構や大量の出土品により平城宮跡は「地下の正倉院」と呼ばれ本格的な保存が緒に就いた。

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