時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

完成しないジグソーパズル

2007年02月11日 | 雑記帳の欄外

 
    この「変なブログ」も、いつの間にか2年になる。ブログ世界の主流とは遠く離れた片隅で、きわめて個人的なメモ作りのようなことをしてきた。いわば「デジタル雑記帳」である。忘却という闇に深く埋もれてしまった記憶の切れ端をつなぎあわせるような試みである。とはいっても、なにか明確な意図や見通しらしいものを持って始めたことではない。一寸したはずみで軽率に始めたにすぎない。2,3ヶ月でやめることになるかもしれないと思っていたので、これまで続くとは思ってもいなかった。一日の暮らしの中で、ふと思い浮かんだことを、暇な時間が生まれた折に書き込んでいるだけである。他の仕事に時間をとられている時には、ブログの存在などすっかり忘れてしまっている。
 
  それでも、始めた時にはまったく予想しなかったようなことも起きている。もつれた糸が少しずつ解けてくるように、ひとつのことからいろいろなことが浮かび上がってくる。記憶の不思議に改めて驚く。すっかり忘れてしまっていた小さな事柄が、なにかのきっかけで浮かび上がってくる。死んでしまったと思っていた記憶細胞が、どこかで生き残っていたことを素直に喜ぶ。

     ここまで書いて、他の仕事があって中断していたところ、ブログを読んでくださった友人K氏から、ある医師から聞かれた話として、大略次のようなことを記したメールをいただいた。:
「どんなコンピューターでも容量は有限だが、脳というコンピューターだけはその容量は無限。学習を積み重ねることで、神経回路のネットワークを拡大強化し、連想性を高め、個性のあるコンピューターに育て上げることが出来る。記憶は、そのものが時間と共に失われることはない。ただ記憶を取り出しにくくなるに過ぎないのである。年をとっても脳の神経細胞には常に余裕があるが、その活性化は本人次第。」
  
  あまりにタイミングがよくて、私の思考経路が即時にK氏に伝わっていたような思いがした。これも不思議な気がしている。最後の一行には「耳も、頭も痛い」のだが。

  17世紀という400年近くも経過した世界が、一枚の絵画作品を介在してきわめて近い存在に感じられるようになってくる。自分がその時代に身を置いていたら、なにをしていたのだろうかと考える。人々はなにを支えに、どんなことを考えて日々を過ごしていたのだろうか。ロレーヌの人々はどんな顔をしていたのだろか。今も自然のままに残る深い森のつながり、その闇の中になにを見ていたのだろうか。

  このブログを訪れてくださった方は、現代と17世紀をどうしてごちゃまぜに取り上げるのかと思われるかもしれない。しかし、私にはあまり違和感がない。外国軍の侵入で暴行、殺戮が繰り返され、一時は焦土と化したロレーヌの状況は、今のイラクとどこが違うのだろうか。人々を恐怖と狂信に追い込んだペストなどの悪疫の流行は、鳥インフルエンザと重なってくる。人類は進歩しているなどとは到底思えない。

  フランスや神聖ローマ帝国など、大国の覇権の狭間で生きてきたロレーヌ公国の人々の生き様が迫ってくる。17世紀、ほとんど先が見えない不安な世の中で、人々は唯一確かなものに見えた利得を追い求め、争い、そして神にすがっていた。先を見通すについて、人々が頼りにしていたのは、町中その他で交わされる噂話や風の便りに伝わってくる他の世界の出来事であった。神は日常の中に見えていた。ラ・トゥールの世界である。そして、現代は「神が見えない時代」となった。

  紙の上ではなかなか実現できない時間や空間を超えての試行錯誤や疑似体験をインターネットの世界は、少しばかり可能にしてくれる。とはいっても、失われた記憶が、元のままに戻ってくるわけではない。「完成することがないジグソーパズル」をしているような感じもする。もしかすると、これが今日までなんとか続いている原因なのかもしれない。

  
  


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