時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

異なる立場を理解する努力

2015年01月15日 | グローバル化の断面

 


ピケティ教授の大著邦訳刊行をめぐって
 昨年の夏のブログで、世界的に大きな反響を呼ぶことになったフランス人経済学者トマ・ピケティ教授の『21世紀の資本』について少しばかり記したことがあった。当時は日本ではほとんど誰も名前も聞いたことがないというほど、知られていなかった。しかし、その後、海外、特にアメリカでの評判が伝わり、当初は今年2015年に予定されていた日本語版の出版が昨年末繰り上げられるに及んで、本書の評判は単に一部の経済学者の範囲にとどまらず、広く一般のビジネスマンなどの間にも知られるようになった。


 他方で、あの大部の本を一体どれだけの人が本当に読むのだろうかという思いもする。しかし、世界が抱えるいまや危機的ともいえる重要課題を少しでも多くの人が、自分や次の世代のこととして実感し、深く考えることは大変望ましいことだ。

 幸い、難解でタイトルは知っていても実際には読んだことがない人が多いK.マルクスの『資本論』と比較すると、驚くほど読みやすい。
表題が、『21世紀の資本』なので、マルクス経済学者かと思いかねないが、そうではない。筆者のピケティ教授は、専門化が過ぎたアメリカの経済学に違和感を覚えて、自ら書き下ろした近代経済学の正統な流れを受け継ぐ大作である。

 著者ピケティ教授は本書で平易な叙述のために1年近くを費やしたと言っているが、その努力は全体の構成、問題の整理、見やすいグラフ、例示などに十二分に反映されている。世の中の多くの経済書がこうあってほしいと思う。とはいっても、その含意を正しく理解するには、相応の経済学の知識と思考力が欠かせない。


真摯な議論を
 日本や世界経済の現状や今後については、きわもの的な出版物も多数刊行されているが、本書はピケティ教授が10年近い年月をかけて構想し、分析を行い、刊行にいたっただけに、今後の経済社会を論じるに際して、ひとつの準拠基準を構築してくれた意味がある。今後、日本を含む世界経済の行方を論じるに際して、本書の分析と政策的含意を外して議論することは出来ないほどの重みがある。邦訳が刊行される以前に、欧米諸国では議論が一通り終わってしまった感があるが、周回遅れの日本でもしっかりとした議論が展開することを期待したい。

予断を許さない世界情勢
 欧米で本書が話題となっていた頃、日本はワールドカップに熱狂していて、ほとんど本書の提示している意義については、話題にすらなっていなかった。管理人はその点を含め(今日の記事とかなり重複するがお許しいただくとして)来たるべき時代の危うさについて少し記したことがある。


 ワールドカップに耳目を奪われている間に、世界は急激に変化していた。ウクライナ問題、イスラム国の出現とその急速な拡大、テロリズムと人種差別の増大、戦火の絶えない紛争地域、さらに一触即発ともいえる緊迫した地域の増加などである。とりわけ顕著なことは、多くの紛争の底辺に、宗教的対立があることを指摘できる。このブログのひとつの柱としている17世紀を特徴づけていた宗教戦争に似た点が多分にある。

戦争状態に入ったフランス
 今回フランスで発生したテロリズムについても、イスラム原理主義から派生したものだが、フランスのバルス首相が13日、国民議会(下院)で述べたように、「フランスはテロリズムとの戦争状態に入った」というまでの危機的事態が生まれた。バルス首相は「テロやイスラム過激主義との戦争であり、イスラム教やイスラム教徒への戦争ではない」と区分する発言も行っている。さらに、「フランスは友愛の精神があり、寛容な国だ。だれをも受け入れる」と強調し、「イスラム教徒の保護も喫緊の課題」と述べた。

 フランス議会では、自然に国歌ラ・マルセイエーズが歌われる雰囲気が生まれた。この「表現の自由」を厳として守り、愛国心を維持、高揚するフランス国民の心情は、フランスの誇るべきものではあるが、フランスに住むイスラム教徒やユダヤ人にとっては、日常生活においてさまざまな軋轢や恐怖として迫ってくる。


 世の中に存在する人種や性別による「差別」には、「明白な差別」(overt discrimination)もあるが、目に見えない「隠れた差別」(covert discrimination)もある。法律などの制度で減少や改善が期待できるのは、人の目に明らかに差別と見えるものに限られる。それはほとんど誰が考えても明らかに不当と思える「明白な差別」の部類に入る。他方、隠れた差別はしばしば陰湿で、脅迫的な形態をとる。差別であることの立証もしがたいことが多い。それが嫌ならフランスから出て行けというのが、「国民戦線」など保守派の考えなのだろう。しかし、戦火に追われる厳しい世界で彼らに安住の地はない。フランスの寛容さの本質が問われることになる。

 今回のテロ発生以前には、その政治手腕が問われていたオランド大統領だが、この事件の勃発で国民共々新たな事態への対応に追われる日が続く。しかし、ほどなくさらに厳しい日々が戻ってくることは必至だ。
 

宗教戦争の時代へ?
 万一、日本で同様な事態が発生したら、国民はいかなる反応を示すだろうか。この世の中、一色では塗りきれない。世界には自分たちとは違った考えや宗教を持つ人たちがおり、可能なかぎりその違いを話し合い、お互いの立場を認め合うことがないかぎり、紛争や殺戮は絶えることがない。すでに、時代は17世紀にみられた宗教戦争のような側面すら見せている。

 当時はその範囲はせいぜいヨーロッパにとどまっていたが、いまや事態は世界規模となっている。世界に生まれた時代の狂気を速やかに終息させねばならない。世界には宗教に救いを求める以外、生きるすべがない人々が多数存在する。

 イスラム教を含む世界宗教会議のような場を設定することも必要ではないかとも思う。空爆やミサイル攻撃で、この狂気な事態を消し止めることは不可能なのとは、当事者自身が認めている。近世初期、偶像破壊の時代に生きた人たちの日々の記録を読みながら、時代の宗教が持つ光と影に思い惑う。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東方の3博士がいない時代? | トップ | L.S. ラウリーとハロルド・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

グローバル化の断面」カテゴリの最新記事