時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(9)

2007年03月20日 | ロレーヌ探訪


Photo Y.Kuwahara  

    ナンシーは踏み込んでみると、予想以上に濃淡・陰翳のある町であった。旧市街と新市街の全域にわたってさまざまな見所が散りばめられている。楽しんで見ていると、いくら時間があっても足りなくなる。大部分の観光客のお目当ては、エミール・ガレなど、アール・ヌーヴォーの作品をたずねることにあるようだが、それ以外にも魅力的な場所が多い。その中でかねて期待していた場所のひとつが、「ロレーヌ歴史博物館」Musee Historique Lorrain である。ここも日本人観光客はあまり見かけない。  

  スタニスラス広場を横切り、美しい並木道を通ってゆく。この並木道は樹齢を重ねた巨木が多く、素晴らしい景観を作っている。市民がさまざまに散策を楽しんでいる。子供たちや犬が芝生を駆け回っている。  歴史博物館はかつてのロレーヌ公の宮殿 Palais Ducalの一部である。

  壮大なゴシックの大聖堂などがひと目をひくメッスなどと比較して、ナンシーには15世紀以前の建物で目立つものは少ない。今に残る町づくりは、16世紀以降、ロレーヌ公の宮廷社会の繁栄に伴って進められてきたといえるだろう。  

  さらに、17世紀に入ると、ナンシーとその宮廷世界は、当時のヨーロッパでも最高レヴェルの文化的内容を誇るまでになった。いうまでもなく、ロレーヌにおける芸術活動の中心であった。カロ、ベランジェ、デルエ、ラトゥールなど、きら星のごとき芸術家をロレーヌは輩出した。その多くは、イタリア、パリなどを活動の本拠としたが、彼らのロレーヌ文化興隆への貢献の大きさは計り知れない。ラ・トゥールのように、ロレーヌで生涯のほとんどを過ごした画家が少ないが、彼らにとってはロレーヌの重みはきわめて大きかったはずである。  

  しかし、こうした芸術活動と政治的苦境・破壊とのコントラストも激しかった。ロレーヌ公国は、絶えずその主権を神聖ローマ帝国、フランス王国など、周辺の列強大国によって脅かされてきた。1618年から48年にかけては30年戦争の戦場となり、1635年から37年にかけては、ヨーロッパをおそったペストの流行に苦しみ、人口も減少した。1633年には、フランスがナンシーを占拠するにいたった。フランスは、1697年にはリスウイックの協定でそれを決定的なものとした。  

  こうした中で、ナンシーが再び光彩を取り戻すのは、18世紀に入ってのことであった。ロレーヌ公国最後の王であったスタニスラス・レスジンスキーの統治下である。公の娘がルイ15世の妃となり、1766年に公が没するとともにフランス王国に統合されていくまでの時代である。



  ロレーヌ公宮殿の原型となったのは、16世紀初めにアントワーヌ公の統治下に造営された建物である。当時の栄華の姿はさまざまに記録されている。その後1792年、宮殿は略奪、破壊の対象となったが、1852年にかなりの程度修復された。とりわけ、宮殿北側部分は大幅に修復された。

 
Jacques Callot. The Gardens of Ducal Palace in Nancy, c.1625, etching

  ファサードは華麗なゴシックとイタリアン・ルネッサンス・スタイルを併せたものとなっている。騎馬姿のアントワーヌ公のレリーフが修復され、ニッチェに収められた。1階には、3つのバルコニーが華麗な欄干とともに彫刻の美しい梁材で支えられている。1937年にロレーヌ歴史博物館として活用することが決まるまでは、さまざまなことがあったようだ。しかし、今はところを得て内容も素晴らしい博物館となっている。この建物、近くで見ても美しいが、少し離れて見る尖塔も素晴らしい。

         

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