大倉草紙

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【東京・千代田区】 遠藤家旧店舗・住宅主屋

2010年06月10日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月31日(月)




(千代田区外神田2-16・宮本公園内)

「千代田区指定有形文化財(建造物)
   平成二十年四月一日指定
 遠藤家旧店舗・住宅主屋 一棟
 遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家(屋号『井政』)の店舗兼住宅として昭和二年(一九二七)に鎌倉河岸(現内神田一丁目)に建てられました。その後、昭和四十八年(一九七三)に都心の開発に伴う建替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。
 この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木問屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから、貴重な建築物といえます。文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。
また、一階六畳の茶の間は、茶室として改修されています。
 平成二十一年四月 千代田区教育委員会」(案内板より)

【東京・千代田区】 神田明神

2010年06月09日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月31日(月)


天平2年(730)創建といわれる。
創建当初は将門塚(東京都千代田区大手町)の近くに鎮座していたが、慶長8年(1603)、江戸に幕府が開かれ、江戸城を拡張する際に、江戸城の表鬼門にあたる現在地へ遷された。
以後、江戸総鎮守として崇敬される。
江戸三大祭のひとつである「神田祭」は有名である。


随神門


御神殿


だいこく様尊像


えびす様尊像


石獅子(千代田区指定有形民俗文化財)
武州下野の名工石切・藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が、生涯でわずか3つしか造らなかったもののうちの1つと伝えられる。


銭形平次碑
銭形平次は架空の人物だが、神田明神下の長屋に居を構えているという設定で描かれているらしい。
「寛永通寶」を模した台座の上に碑は建っている。


国学発祥の地
荷田春満は、この地において初めて国学の教場を開いたのだそうだ。


水野年方顕彰碑(千代田区指定有形文化財・歴史資料)
日本画家・浮世絵師・水野年方(1866‐1908)は、神田明神の氏子内の江戸・神田紺屋町の左官職の家の生まれ。
この顕彰碑は、大正15年(1926)に、弟子の鏑木清方や池田輝方らが発起人となって建立した。


小唄塚・小唄作詞塚


神田明神の御朱印

【東京・千代田区】 天野屋

2010年06月08日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月31日(月)


神田明神の鳥居脇にある「あま酒茶屋」の天野屋。
弘化3年(1846)創業の老舗だ。

この建物は千代田区指定有形文化財。
地下6メートルに創業時より使われ続けている糀室があるのだそうだ。

「天野屋の糀室(こうじむろ)は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。
 天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期に増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に『床場(とこば)』(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。
 現存する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造施設の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても希少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。
 なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。」(案内板より)


『糀室之図』(案内板より)


糀室内部(床場)(案内板より)


地下室(むろ)で戦火を逃れた昭和13年につくられた信楽焼の狸


店先には、都電停留所の標識が飾られている。
かつては、天野屋の前の旧中山道を都電が走っていたそうだ。

【東京都・文京区】 湯島聖堂

2010年06月07日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月31日(月)

湯島聖堂は、元禄3年(1690)、5代綱吉によって建てられた孔子廟。
上野忍ヶ岡の林羅山の邸内に設けられたものを移したのだという。
寛政9年(1797)、11代家斉の時代に規模を拡大して「昌平坂学問所」ができた。
関東大震災で、殆どの建物が焼失、現在の建物は、昭和10年(1935)に再建したもの。


入徳門
宝永元年(1704)建立。
関東大震災で焼失を免れていて、聖堂内、唯一の木造建造物である。


杏壇門


杏壇門の両脇には、絵馬が奉納されている。


大成殿
「大成」とは孔子廟の正殿の名称で、大成殿内の中央の厨子には、孔子像が祀られているそうだ。


楷樹
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木。


孔子銅像


仰高門


正門から通りに出ると、目の前にニコライ堂が見える。


ゆるい坂をのぼる。
右手には、湯島聖堂の塀。


左手には、聖橋。

【東京・千代田区】 太田姫神社元宮

2010年06月06日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月31日(月)


お茶の水の聖橋。
この橋の袂に大きな椋の木が立っている。


かつてこのあたりに、太田姫稲荷神社(現住所:東京都千代田区神田駿河台1-2)が鎮座していた。
今では御神木のみが残っている。


御神木の椋の木

「太田姫神社
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり、伊達家と徳川家が神田山を開削した時江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された 昭和六年(一九三一)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る
尚鐡道(『甲武線』中央線の前身)は堀の中にあり開通時天皇家との間に堀幅を減じない、中で商業を営まない、環境を守る との約束がある(明治期鐡道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫」(案内板より)

【東京・中央区】 水天宮 

2010年06月05日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
5月15日(土)


安産祈願や子授けで有名な東京水天宮は、久留米にある久留米水天宮の分社。
文政元年(1818)、9代久留米藩主有馬頼徳が三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊したのがはじまり。
庶民の信仰を集め、「情けありまの水天宮」と言われる。
その後、明治4年(1871)に中屋敷のあった青山へ、翌明治5年(1872)に下屋敷のあった日本橋蠣殻町に遷り現在に至る。


水天宮の御朱印

【神奈川】 荒井屋 (万國橋店)

2010年06月04日 21時00分00秒 | 
5月3日(月)

「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』より)

どういうわけだか、夫は最近『安愚楽鍋』の話ばかりする。
そこで、横浜へ行ったら牛鍋を食べよう、ということになった。


荒井屋は明治28年に創業のお店。
こちらは新しくできた万國橋店。


のれんの向こうは、杉の格子で囲まれた通路がある。


通路の突き当たりのステンドグラス




やわらかくてとても美味しいお肉。
ほどよい脂の入り具合で、しつこくなくていい。

たるとこダッシュ!

2010年06月03日 21時00分00秒 | 雑記
テレビをつければ、民主党代表選のニュースでもちきりだ。
ニュースを見ていて思い出した。
ウチにうちわがあるはずだ。



この党を強く支持したことはないし、選挙区も違ったのだけれど、なぜか引越しの荷物に入っていた。
祇園祭や天神祭の時に配っていたうちわも出てきた。
こんな風だから、引越しが大変になるはずだ。

さて、このうちわだが、指を入れる穴が開いていて、「日本の未来がここから見える!」と書いてある(モチロン ノゾイタトコロデ ミエルワケデハ ナイノダケレド)。

そして、「たるとこダッシュ!」の文字が印象的だ。


【神奈川】 神奈川県庁本庁舎一般公開

2010年06月02日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月3日(月)


5月3日と4日は、神奈川県庁本庁舎が一般に公開されていた。
この看板を見て、行ってみることにした。


神奈川県庁


県庁の前は、日本大通り


宝相華の模様があしらわれている装飾灯


大会議場


第三応接室


第三応接室のシャンデリアにも宝相華の模様が施されている。


屋上
横浜三塔のうち、神奈川県庁(キング)と横浜税関(クイーン)が見える。


横浜税関(クイーン)


横浜三塔のひとつ、横浜市開港記念会館(ジャック)

屋上からの風景



【神奈川】 横浜開国記念館

2010年06月01日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月3日(月)

日米和親条約が締結された場所に、横浜開港資料館は建っている。
建物は、1972年まで英国領事館として使われていた。


横浜開国資料館の中庭にある玉楠の木。

「中庭の玉楠の木は、江戸時代からこの地にあり、日米和親条約は、安政元年(1854)この木の近くに設けられた応援所で結ばれました。大正12年(1923)の関東大震災により、木の幹は焼失しましたが、生き残った根から芽が出て、いまや中庭いっぱいに枝を広げる大木となりました。横浜の歴史の生き証人ともいえる玉楠の木は、昭和63年(1988)横浜市地域史跡に指定されました。(以下略)」(案内板より)


ハイネ『ペリー提督横浜上陸』
この絵の右手にある大木が玉楠の木だと言われている。

館内には、幕末から昭和初期にかけての文書、写真、浮世絵などの資料が展示されている。
幕末期の横浜の風景を写したF.ベアトの写真が印象に残っている。