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【東京】 新創記念特別展 第5部 国宝燕子花図屏風 琳派コレクション一挙公開 (根津美術館)

2010年05月19日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月4日(火)


カキツバタを観に行く。


尾形光琳『燕子花図屏風』(国宝)・右隻


左隻
使われている色は濃紺と緑。
背景は金箔。
描かれているのは、燕子花だけ。
ただそれだけなのだけれど、絶妙なバランス。


「伊年」印『四季草花図屏風』・左隻


『桜下蹴鞠図屏風』(重要美術品)・右隻


鈴木其一『夏秋渓流図屏風』・右隻


左隻


庭のカキツバタも満開。




カキツバタだけでなく、藤も見ごろを迎えていた。

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ⑦(杉並木~芦ノ湖遊覧船)

2010年05月18日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【杉並木】

(13:47)
「江戸と京都を結ぶ『東海道五十三次』は、江戸時代の元和四年(一六一九)頃に、それまでの湯坂道を廃し、湯本、畑宿、箱根を廻る街道に改められました。この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。
 第二次世界大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では、国指定史跡として保護され、芦ノ湖畔周辺の四地区に、約四二〇本の杉が残されています。
 残された杉には、人々の愛護の心が込められています。
 杉並木を大切にしてください。
  文化庁 
  神奈川県教育委員会
  箱根町教育委員会」(案内板より)


(13:48)
杉並木にある戦没者慰霊碑。


【箱根関所】

(13:59)
「箱根関所(国指定史跡 箱根関跡)
 箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために。全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。
 この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
 一般的に関所では、『入り鉄砲に出女』を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの『出女』に対する厳しい取調べを行っていました。
 江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
 箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、『箱根関跡』として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江戸文庫(静岡県伊豆の国市)から慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳(そうしゅうはこねおせきしょごしゅうふくできがたrちょう)』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)貼る、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました。 平成19年(2007)箱根町教育委員会」(案内板より)


(14:07)
遠見番所付近からの眺めは素晴らしい。


【芦ノ湖遊覧船】

芦ノ湖遊覧船を楽しむ。


「箱根関所跡港」を出て、約30分で同じ港に戻ってくるコース。


箱根神社の鳥居も見える。

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ⑥(権現坂~葭原久保の一里塚)

2010年05月17日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【権現坂】

(13:32)
「小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです。」(案内板より)


【バーニーとケンペルの碑】

(13:35)
「ドイツの博物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節の一員として元禄四年(1691)と翌五年に箱根を越え、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。C.M.バーニーは、この地に別荘をもっていた英国の貿易商です。大正十一年にケンペルの著『日本誌』の序文を引用『自然を大切にするように』と碑を建てました。(以下略)
 昭和六十一年十一月
 箱根町長 勝俣茂
 ケンペル祭実行委員会長 信濃一男」(碑文より)


【天下の険の碑】

(13:38)


【興福院】

(13:38)
箱根七福神のうち、布袋尊が祀られている。


【箱根神社大鳥居】

(13:41)


【身替わり地蔵】

(13:42)
「宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。幸いにも、かたわらにあった地蔵が身替わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことです。」(案内板より)


(13:45)
芦ノ湖がよく見える。


【葭原久保の一里塚】

(13:45)
「江戸幕府は、慶長九年(一六〇四)大久保長安に命じ、江戸―京都間に一里ごとに旅人の目印として、街道の西側に盛土をしました。そして、ここではその上に檀(まゆみ)を植えました。この塚は、日本橋より二十四番目にあたります。
(一里=約三,九五二米)
 昭和五十七年八月一日  箱根町教育委員会」(案内板より)

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ⑤(橿木坂~二子山)

2010年05月16日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【橿木坂(かしのきざか)】

(12:00)
「『新編相模国風土記稿』に『峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得』とあります。『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
『橿の木の
 さかをこゆれば、
 くるしくて、
 どんぐりほどの
 涙こぼる』と書かれています」(案内板より)

「どんぐりほどの涙」は出なかったが、かなり険しい。


【猿滑坂】

(12:20)
「『新編相模国風土記稿』には、『殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。』と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが当時の坂でした。」(案内板より)


【追込坂】

(12:27)
「『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、ツッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。」(案内板より)


【親鸞上人御舊蹟の碑】

(12:28)
「親鸞聖人と笈ノ平
 東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、『師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい』と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。」(案内板より)


【旧街道休憩所】

(12:31)
現在も休憩所として利用されている。
奥には資料館もある。


【甘酒茶屋】

(12:32)
「この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中ここで馬子にいいがかりをつけられ大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと忠臣蔵『甘酒茶屋』のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。
しかし、この話は残っている証文から神崎与五郎ではなく同じ浪士の一人大源吾でその場所は三島宿だったといわれています。又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。
江戸時代にはこの付近に茶屋があり急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。
   神奈川県」(案内板より)


甘酒と冷たい抹茶とところてんを注文。
甘酒はとても飲みやすく、美味しい。
ところてんには山葵が付いてくる。
辛子や黒蜜でいただいたことはあるが、山葵は初めて。
上にかかった海苔の風味も良い。
夫はこの食べ方が気に入ったようだ。
今年の夏、我が家の冷蔵庫はところてん常備になりそうだ。


【二子山】

(13:14)
甘酒茶屋を出て、長い石畳を行く。


(13:22)
このあたりからは、二子山がよく見える。
「二子山について
 前方にみえるコブのような山は二子山と呼ばれ向かって左が上二子(一,〇九〇メートル)右が下二子(一,〇六四メートル)です。
 この二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
 現在は保護のため入山を禁止しております。  神奈川県」(案内板より)


(13:25)
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と刻まれた碑も建っている。

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ④(畑宿本陣茗荷屋跡~七曲り)

2010年05月15日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【畑宿本陣茗荷屋跡】

(11:23)
「本陣跡
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約七十年前大正元年全村火災の折、焼失しましたが庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。本庭園は、ご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他に無かったようです。
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。この本陣をめぐり一般に余り知られてはいない事柄があります。安政四年十一月二十六日米国初代総領事伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウンゼントが江戸入りの途中、ここに休息鑑賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたと云う。
ハリスは『私はアメリカ合衆国の外交官である』と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすこぶる良好になったといいます。」(案内板より)

「旧茗荷屋庭園
 畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭で、当時街道の旅人たちの評判になりました。ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。」(案内板より)


明治天皇は、この地で3度小休をとられた。
その記念の碑も建っている。


【畑宿の庚申塔】

(11:29)
「庚申(干支のひとつ)の夜、青面金剛(病魔、病鬼を払い除く神)を祭り寝ないで徹夜する習俗がありました。その夜、眠ると三尸(体の中にいる三匹の虫)がその人の罪を天帝に告げ命を縮めるといわれます。
 平安時代に中国より伝わり江戸時代に盛んになりました。この庚申信仰に基づいて作られた石塔に庚申の日に酒や供物などを供えお参りをしました。
 庚申塔は全国各地に有り、箱根にも二十五基点在していますが畑宿の石塔は万治元年(一六五八)の銘があり箱根で最も古く、笠付角柱という形は神奈川県下で最も古いものです。」(案内板より)


【守源寺】

(11:30)
「守源寺は、寛文元年(一六六一)に乗善院日蓮上人によって建立された日蓮宗平賀本工寺末の寺です。この寺は、たびたびの災害で本堂を失い、昭和五年豆相大地震の後、ようやく再建され現在にいたっています。」(案内板より)


【箱根旧街道・畑宿一里塚】

(11:32)
「江戸時代、徳川幕府は旅人の目印として、街道の一里(約4㎞)ごとに『一里塚』をつくりました。石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から二十三里目に当たり、東海道中唯一その形態を留めるものです。
 山の斜面にあるこの塚は、周囲を切土・盛土と石貼で平坦面をつくり、直径が三十尺(9m)の円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹したものであることが発掘調査から分かりました。
 保存整備では、塚の構造を復元し、標識樹として畑宿から見て右側の塚には樅を、左側には欅を植えました。
  箱根町教育委員会」(案内板より)


【七曲り】

(11:49)
畑宿を通り過ぎて県道に出る。
「七曲り」と呼ばれるくねくね曲がった急な坂。
写真の標識は決して大げさではない。


(11:50)
スゴイ急カーブ。
この車道ではなく脇道を登っていくのだが、これまた難所のようなので、昼食をとってから出発。

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ③(鎮雲寺~大沢坂)

2010年05月14日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【鎮雲寺】
(10:40)

「鎮雲寺は、江戸初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺です。この寺には、『箱根霊験記』で有名な勝五郎と初花の墓があります。」(案内板より)


霊泉の滝


初花堂


飯沼勝五郎・初花の墓


【須雲川自然探勝歩道】
(10:44)

畑宿まで1,000メートル
奥湯本まで4,000メートル


(10:48)
「須雲川自然探勝歩道について
 この歩道は、須雲川のせせらぎを聞き、野鳥の声を聞きながら歴史を研究する芦ノ湖の南岸元箱根~奥湯本を結ぶ自然探勝歩道です。
 この付近の石畳は、江戸時代のものを明治、大正時代に元の須雲川小学校の通学路として一部補修したものです。
 前後の新しい石畳は、今回県が整備した歩道です。
   神奈川県自然環境保全センター」(案内板より)


(10:54)
この辺りは、東京電力の所有地らしい。
近くには、東京電力畑宿発電所がある。


(10:54)
須雲川に架かる木の橋を渡る。


橋はこんな感じ。


(10:55)
素晴らしい風景。


【割石坂】

(11:01)
「曽我五郎が、冨士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。」(案内板より)


(11:01)
江戸時代の石畳


【大沢坂】

(11:15)
大沢川


(11:17)
大沢坂
「大沢川を渡ったところです。幕末の下田奉行小笠原長保の『甲申旅日記』に、『大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし』と書かれています。当時の石畳の道が、一番よく残っている坂で、苔むした石畳は、往時をしのばせてくれます。」(案内板より)


(11:17)
苔むした石

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ②(正眼寺~天聖院)

2010年05月13日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【正眼寺】

(09:45)
「この寺は曽我兄弟の伝説を伝える古刹です。この寺の創建は明らかではありませんが、鎌倉時代、箱根地方に広がった地蔵信仰の中から生まれた寺であることは確かなようです。寺には地蔵信仰にゆかりのある寺宝がいくつか残されています。」(案内板より)


本堂


地蔵像


【仲睦まじい道祖神】
(09:51)

「江戸時代この辺りは『湯本茶屋村』といい、その村境の道祖神です。
 男女の神が頬を寄せ手を取り合い、その睦まじさを示すことによって悪霊が村に入ってこないよう念じ立てたものです。」(案内板より)


【旧箱根街道一里塚跡の碑】
(09:53)

「江戸幕府が慶長九年(一六〇四年)大久保長安に命じ江戸―京都間に一里ごとに旅人の目印として街道の両側に盛土をし、その上に通常榎をうえたのである。
この塚は日本橋より三十二番目にある。
一里(六十間=一町・三十六町=一里・約三.一五二米) 
   箱根町教育委員会」(案内板より)

またここは、象嵌細工の技法にミシンを応用することを考え、木象嵌技法の普及につとめた白川洗石の生家跡でもある。


【箱根ベーカリー】
(10:02)

歩いていると、箱根ベーカリーを発見。
美味しいという話を聞いていたので、いくつか買い求める。
さて、箱根旧街道だが、どうやら道を間違えてしまったようで、お店の方に尋ね、数メートル戻る。


【馬の飲み水桶】
(10:04)

「江戸時代この辺りは『馬立場』といって馬子が一休みしたところです。
 この桶には山から引いた水が満々とたたえられ街道を往来する馬の飲み水になっていました。  湯本茶屋自治会」(案内板より)


【箱根旧街道入口】(国指定史跡)
(10:05)

「江戸幕府は、延宝八年(一六八〇)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。
 この先から約二五五メートルは、その面影を残しており、国の史跡に指定されている。
 この道は、県道に通じ、元箱根方面への近道となる。
  昭和五十年三月二十五日  箱根町教育委員会」(案内板より)


猿沢石畳


猿沢に架かる猿橋を渡る。


【葛原坂】
(10:25)

坂を登って振り返る。
「『新編相模国風土記稿』には、『海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり』としか書かれていません。地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。」(案内板より)


【天聖院】
(10:28)

箱根大天狗山神社という宗教の別院。
信者以外は中に入ることができないらしい。
建物の周りには、狐の像がたくさん置かれている。


緑がきれいだ。

【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ①(箱根湯本駅~早雲寺)

2010年05月12日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】
【箱根湯本駅】

(09:01)
箱根湯本駅を出発。


【あじさい橋】

(09:10)
箱根湯本駅前にある「あじさい橋」を渡る。


あじさい橋の下を流れる早川。


【箱根旧街道案内図】

(09:11)
橋を渡って突き当たると、「箱根旧街道案内図」がある。
ここから先は右手に折れて早雲公園方面へ。
「江戸幕府は元和四年(1618年)に旧来の湯坂道を廃止して小田原 三島両宿の間、箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き、関所を新に設けて湯本の三枚橋から須雲川に沿い、畑宿から急坂を二子山南ろくに登り元箱根に至る古い山路をひろげて街道をつくった。この道は、江戸時代を通じて世に箱根の八里ごえといわれ、東海道中屈指の難路であり、その有様は詩歌・物語等で多く歌われている。」(案内板より)


【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】

(09:13)
「明治21年(1888)10月、国府津~湯本間に開通した小田原馬車鉄道の落合橋跡です。
 馬車鉄道は、湯本山崎の台地が越え難いため、小田原の風祭から早川左岸の堤防沿いに走り、湯本山崎で前田橋を渡って、早川の右岸に出、ここ落合橋で再び早川を渡りました。当時の終点湯本駅は、この先、約200mの早川の川べりにありました。
 この橋は、明治33年(1900)、馬車鉄道から電気鉄道に代わっても使われましたが、明治43年8月の大洪水で、下流の前田橋も共に流失し、以後、鉄道は現在とほぼ同じ山側を走るようになりました。
 碑の前の道は当時の軌道敷です。 箱根町」(案内板より)


【早雲公園(早雲寺林)】

(09:19)
山の中の急な道を登っていくと、早雲公園がある。
早雲公園は、早雲寺の裏山に位置する。
ここには、町指定天然記念物の「ヒメハルゼミ」も棲息しているという。
珍しいセミで、神奈川県ではこの付近にしかいないのだそうだ。
新潟県の能生、茨城県の片庭、千葉県の八幡山の三か所のヒメハルゼミは、国指定の天然記念物。
千葉県に「ひめはるの里」というのがあると聞いたことがあるが、ヒメハルゼミの学名である‘Euterpnosia chibensis’の‘chibensis’は、「千葉に棲む」という意味なのだそうだ。


【早雲寺】

(09:24)
早雲寺山門
「早雲寺は、大永元年(一五二一)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くことのできない寺です。」(案内板より)


本堂
本尊・釈迦三尊仏(室町時代)
現本堂は寛政年間に建立。
昭和30年代の改修まで、茅葺き寄棟造。


鐘楼


開山堂


二代将軍秀忠公侍医
曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
寛永3年9月19日没
享年50歳


北條五代の墓
「天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。
 七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され(狭山北條氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。
 早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。
 こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。小田原北條氏滅亡から八十二年後のことである。

北條早雲(1432-1519)
俗名、伊勢新九郎長氏。戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。八十八歳。

北條氏綱(1486-1541)
父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年五十六歳。

北條氏康(1515-1571)
扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。

北條氏政(1538-1590)
夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。

北條氏直(1562-1591)
夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成、上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し敗れる。家康の助命で高野山に流さる。享年三十歳。」(案内板より)


宗祇法師之墓
「連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501)二月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文禄二年七月三十日箱根湯本で客死した(享年八十二歳)。
 弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根山を越え富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長『宗祇終焉記』)。早雲寺の宗祇の墓は、終焉の地に建てられた供養塔である。
 江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄十二年(1699)宗祇墓前で『石塔を撫でてはやすむ一葉かな』の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同十四年宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。
 稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び正徳四年(1714)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪出家して宗空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保十六年(1731)再び早雲寺を訪れ境内に石霜庵なる草庵を結んで宗祇の墓守として晩年を送った。同十八年四月に十三日没(享年七十歳)」(案内板より)


江戸中期の俳諧師
稲津祇空之墓


早雲寺の御朱印