5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】
【箱根湯本駅】
(09:01)
箱根湯本駅を出発。
【あじさい橋】
(09:10)
箱根湯本駅前にある「あじさい橋」を渡る。
あじさい橋の下を流れる早川。
【箱根旧街道案内図】
(09:11)
橋を渡って突き当たると、「箱根旧街道案内図」がある。
ここから先は右手に折れて早雲公園方面へ。
「江戸幕府は元和四年(1618年)に旧来の湯坂道を廃止して小田原 三島両宿の間、箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き、関所を新に設けて湯本の三枚橋から須雲川に沿い、畑宿から急坂を二子山南ろくに登り元箱根に至る古い山路をひろげて街道をつくった。この道は、江戸時代を通じて世に箱根の八里ごえといわれ、東海道中屈指の難路であり、その有様は詩歌・物語等で多く歌われている。」(案内板より)
【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】
(09:13)
「明治21年(1888)10月、国府津~湯本間に開通した小田原馬車鉄道の落合橋跡です。
馬車鉄道は、湯本山崎の台地が越え難いため、小田原の風祭から早川左岸の堤防沿いに走り、湯本山崎で前田橋を渡って、早川の右岸に出、ここ落合橋で再び早川を渡りました。当時の終点湯本駅は、この先、約200mの早川の川べりにありました。
この橋は、明治33年(1900)、馬車鉄道から電気鉄道に代わっても使われましたが、明治43年8月の大洪水で、下流の前田橋も共に流失し、以後、鉄道は現在とほぼ同じ山側を走るようになりました。
碑の前の道は当時の軌道敷です。 箱根町」(案内板より)
【早雲公園(早雲寺林)】
(09:19)
山の中の急な道を登っていくと、早雲公園がある。
早雲公園は、早雲寺の裏山に位置する。
ここには、町指定天然記念物の「ヒメハルゼミ」も棲息しているという。
珍しいセミで、神奈川県ではこの付近にしかいないのだそうだ。
新潟県の能生、茨城県の片庭、千葉県の八幡山の三か所のヒメハルゼミは、国指定の天然記念物。
千葉県に「ひめはるの里」というのがあると聞いたことがあるが、ヒメハルゼミの学名である‘Euterpnosia chibensis’の‘chibensis’は、「千葉に棲む」という意味なのだそうだ。
【早雲寺】
(09:24)
早雲寺山門
「早雲寺は、大永元年(一五二一)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くことのできない寺です。」(案内板より)
本堂
本尊・釈迦三尊仏(室町時代)
現本堂は寛政年間に建立。
昭和30年代の改修まで、茅葺き寄棟造。
鐘楼
開山堂
二代将軍秀忠公侍医
曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
寛永3年9月19日没
享年50歳
北條五代の墓
「天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。
七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され(狭山北條氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。
早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。
こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。小田原北條氏滅亡から八十二年後のことである。
北條早雲(1432-1519)
俗名、伊勢新九郎長氏。戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。八十八歳。
北條氏綱(1486-1541)
父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年五十六歳。
北條氏康(1515-1571)
扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。
北條氏政(1538-1590)
夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。
北條氏直(1562-1591)
夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成、上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し敗れる。家康の助命で高野山に流さる。享年三十歳。」(案内板より)
宗祇法師之墓
「連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501)二月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文禄二年七月三十日箱根湯本で客死した(享年八十二歳)。
弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根山を越え富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長『宗祇終焉記』)。早雲寺の宗祇の墓は、終焉の地に建てられた供養塔である。
江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄十二年(1699)宗祇墓前で『石塔を撫でてはやすむ一葉かな』の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同十四年宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。
稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び正徳四年(1714)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪出家して宗空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保十六年(1731)再び早雲寺を訪れ境内に石霜庵なる草庵を結んで宗祇の墓守として晩年を送った。同十八年四月に十三日没(享年七十歳)」(案内板より)
江戸中期の俳諧師
稲津祇空之墓
早雲寺の御朱印