5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】
【橿木坂(かしのきざか)】
(12:00)
「『新編相模国風土記稿』に『峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得』とあります。『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
『橿の木の
さかをこゆれば、
くるしくて、
どんぐりほどの
涙こぼる』と書かれています」(案内板より)
「どんぐりほどの涙」は出なかったが、かなり険しい。
【猿滑坂】
(12:20)
「『新編相模国風土記稿』には、『殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。』と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが当時の坂でした。」(案内板より)
【追込坂】
(12:27)
「『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、ツッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。」(案内板より)
【親鸞上人御舊蹟の碑】
(12:28)
「親鸞聖人と笈ノ平
東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、『師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい』と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。」(案内板より)
【旧街道休憩所】
(12:31)
現在も休憩所として利用されている。
奥には資料館もある。
【甘酒茶屋】
(12:32)
「この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中ここで馬子にいいがかりをつけられ大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと忠臣蔵『甘酒茶屋』のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。
しかし、この話は残っている証文から神崎与五郎ではなく同じ浪士の一人大源吾でその場所は三島宿だったといわれています。又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。
江戸時代にはこの付近に茶屋があり急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。
神奈川県」(案内板より)
甘酒と冷たい抹茶とところてんを注文。
甘酒はとても飲みやすく、美味しい。
ところてんには山葵が付いてくる。
辛子や黒蜜でいただいたことはあるが、山葵は初めて。
上にかかった海苔の風味も良い。
夫はこの食べ方が気に入ったようだ。
今年の夏、我が家の冷蔵庫はところてん常備になりそうだ。
【二子山】
(13:14)
甘酒茶屋を出て、長い石畳を行く。
(13:22)
このあたりからは、二子山がよく見える。
「二子山について
前方にみえるコブのような山は二子山と呼ばれ向かって左が上二子(一,〇九〇メートル)右が下二子(一,〇六四メートル)です。
この二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
現在は保護のため入山を禁止しております。 神奈川県」(案内板より)
(13:25)
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と刻まれた碑も建っている。
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】
【橿木坂(かしのきざか)】
(12:00)
「『新編相模国風土記稿』に『峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得』とあります。『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
『橿の木の
さかをこゆれば、
くるしくて、
どんぐりほどの
涙こぼる』と書かれています」(案内板より)
「どんぐりほどの涙」は出なかったが、かなり険しい。
【猿滑坂】
(12:20)
「『新編相模国風土記稿』には、『殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。』と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが当時の坂でした。」(案内板より)
【追込坂】
(12:27)
「『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、ツッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。」(案内板より)
【親鸞上人御舊蹟の碑】
(12:28)
「親鸞聖人と笈ノ平
東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、『師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい』と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。」(案内板より)
【旧街道休憩所】
(12:31)
現在も休憩所として利用されている。
奥には資料館もある。
【甘酒茶屋】
(12:32)
「この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中ここで馬子にいいがかりをつけられ大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと忠臣蔵『甘酒茶屋』のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。
しかし、この話は残っている証文から神崎与五郎ではなく同じ浪士の一人大源吾でその場所は三島宿だったといわれています。又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。
江戸時代にはこの付近に茶屋があり急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。
神奈川県」(案内板より)
甘酒と冷たい抹茶とところてんを注文。
甘酒はとても飲みやすく、美味しい。
ところてんには山葵が付いてくる。
辛子や黒蜜でいただいたことはあるが、山葵は初めて。
上にかかった海苔の風味も良い。
夫はこの食べ方が気に入ったようだ。
今年の夏、我が家の冷蔵庫はところてん常備になりそうだ。
【二子山】
(13:14)
甘酒茶屋を出て、長い石畳を行く。
(13:22)
このあたりからは、二子山がよく見える。
「二子山について
前方にみえるコブのような山は二子山と呼ばれ向かって左が上二子(一,〇九〇メートル)右が下二子(一,〇六四メートル)です。
この二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
現在は保護のため入山を禁止しております。 神奈川県」(案内板より)
(13:25)
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と刻まれた碑も建っている。