大倉草紙

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【神奈川】 箱根旧街道(東坂) ④(畑宿本陣茗荷屋跡~七曲り)

2010年05月15日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月2日(日)
当日の行程:【箱根湯本駅】 → 【あじさい橋】 → 【箱根旧街道案内図】 → 【小田原馬車鉄道・電気鉄道落合橋跡】 → 【早雲公園(早雲寺林)】 → 【早雲寺】 → 【正眼寺】 → 【仲睦まじい道祖神】 → 【旧箱根街道一里塚跡の碑】 → 【箱根ベーカリー】 → 【馬の飲み水桶】 → 【箱根旧街道入口】 → 【葛原坂】 → 【天聖院】 → 【鎮雲寺】 → 【須雲川自然探勝歩道】 → 【割石坂】 → 【大沢坂】 → 【畑宿本陣茗荷屋跡】 → 【畑宿の庚申塔】 → 【守源寺】 → 【箱根旧街道・畑宿一里塚】 → 【七曲り】 → 【橿木坂】 → 【猿滑坂】 → 【追込坂】 → 【親鸞上人御舊蹟の碑】 → 【旧街道休憩所】 → 【甘酒茶屋】 → 【二子山】 → 【権現坂】 → 【バーニーとケンペルの碑】 → 【天下の険の碑】 → 【興福院】 → 【箱根神社大鳥居】 → 【身替わり地蔵】 → 【葭原久保の一里塚】 → 【杉並木】 → 【箱根関所】 → 【芦ノ湖遊覧船】

【畑宿本陣茗荷屋跡】

(11:23)
「本陣跡
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約七十年前大正元年全村火災の折、焼失しましたが庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。本庭園は、ご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他に無かったようです。
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。この本陣をめぐり一般に余り知られてはいない事柄があります。安政四年十一月二十六日米国初代総領事伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウンゼントが江戸入りの途中、ここに休息鑑賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたと云う。
ハリスは『私はアメリカ合衆国の外交官である』と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすこぶる良好になったといいます。」(案内板より)

「旧茗荷屋庭園
 畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭で、当時街道の旅人たちの評判になりました。ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。」(案内板より)


明治天皇は、この地で3度小休をとられた。
その記念の碑も建っている。


【畑宿の庚申塔】

(11:29)
「庚申(干支のひとつ)の夜、青面金剛(病魔、病鬼を払い除く神)を祭り寝ないで徹夜する習俗がありました。その夜、眠ると三尸(体の中にいる三匹の虫)がその人の罪を天帝に告げ命を縮めるといわれます。
 平安時代に中国より伝わり江戸時代に盛んになりました。この庚申信仰に基づいて作られた石塔に庚申の日に酒や供物などを供えお参りをしました。
 庚申塔は全国各地に有り、箱根にも二十五基点在していますが畑宿の石塔は万治元年(一六五八)の銘があり箱根で最も古く、笠付角柱という形は神奈川県下で最も古いものです。」(案内板より)


【守源寺】

(11:30)
「守源寺は、寛文元年(一六六一)に乗善院日蓮上人によって建立された日蓮宗平賀本工寺末の寺です。この寺は、たびたびの災害で本堂を失い、昭和五年豆相大地震の後、ようやく再建され現在にいたっています。」(案内板より)


【箱根旧街道・畑宿一里塚】

(11:32)
「江戸時代、徳川幕府は旅人の目印として、街道の一里(約4㎞)ごとに『一里塚』をつくりました。石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から二十三里目に当たり、東海道中唯一その形態を留めるものです。
 山の斜面にあるこの塚は、周囲を切土・盛土と石貼で平坦面をつくり、直径が三十尺(9m)の円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹したものであることが発掘調査から分かりました。
 保存整備では、塚の構造を復元し、標識樹として畑宿から見て右側の塚には樅を、左側には欅を植えました。
  箱根町教育委員会」(案内板より)


【七曲り】

(11:49)
畑宿を通り過ぎて県道に出る。
「七曲り」と呼ばれるくねくね曲がった急な坂。
写真の標識は決して大げさではない。


(11:50)
スゴイ急カーブ。
この車道ではなく脇道を登っていくのだが、これまた難所のようなので、昼食をとってから出発。