大倉草紙

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【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その4

2011年03月17日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その3の続き


(12:26)
だんだん近くなってきた。


(12:28)
富士重工株式会社の前を通り、しばらく行くと、「不動前」交差点に至る。


(12:34)
「不動前」交差点の不動尊
「江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
 不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。」(案内板より)


(12:35)
不動堂の脇に、「右奥州・日光街道、左裁判所、正面東京に至る」と刻まれた道標がある。
これは、昭和3年(1928)に建てられたもの。


(12:40)
「不動前」交差点を左に進み、すぐ右手に蒲生君平勅旌碑が建っている。
「明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして『君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように』との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に『この地が蒲生君平の里である』という碑を建てました。
 蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに『寛政の三奇人』といわれた人で、明治5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
 歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して『山陵志』を著し修復の必要性を説きました。
 また、朝廷の官職についてまとめた『職官志』や国防についてまとめた『不恤緯』などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。」(案内板より)


(12:40)
蒲生君平勅旌碑が建っている公園に隣接している居酒屋。
「君ちゃん」は「きみちゃん」ではなく、君平の「くんちゃん」と読むのか?


(12:48)
その先左手奥に、大きなケヤキが見える。
これが新町のケヤキで、樹齢約800年。
江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っていて、旅人の目印になっていたのだそうだ。

つづく

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