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日本史総合図録(増補版)、山川出版社、2005年、68ページより
傍観軍(吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家・長曽我部盛親)の兵力 約30,000
■南宮山■(419.23m)
【安国寺恵瓊陣跡】
安国寺恵瓊陣跡は、南宮大社の裏手、南宮山ハイキングコースの入口辺りにある。
このハイキングコースに従って山頂まで行くと、毛利秀元の陣跡にたどり着く。
「安国寺恵瓊陣跡
安芸の守護武田氏の遺児といわれています。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
関ケ原合戦では石田三成らと共謀して毛利輝元を西軍総大将に引き込むことに成功しました。合戦の当日は南宮山のふもとに陣を構えましたが、吉川広家の裏切りで動くことができず敗戦後逃亡。京都に潜んでいるところを捕まり六条河原で斬首されました。 垂井町教育委員会」
【毛利秀元陣跡】
「毛利秀元陣跡
中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。
関ケ原合戦では西軍に参戦した輝元の名代で南宮山に陣を構えましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦できませんでした。その際、進退に窮した秀元が、麾下に兵糧を使う真似をさせたはなしは『宰相殿からの弁当』として知られています。その後、大坂城に戻った秀元は、籠城して徹底抗戦することを主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。 垂井町教育委員会」
南宮山山頂からの眺め
南宮山ハイキングコースは、登りと下りが別になっている。
帰り途、夫が眠たいと言い出した。
すると、眠神の案内板が建っていて、その偶然に驚いた。
「眠神の由来
ここには明治維新の神仏分離まで、薬師堂がありあらゆる病気がなおるという霊験の厚い薬師仏がまつられていました。
その仏さまと相並んで眠神は「ねる子は育つ」ということから幼児健育の守護神として厚く尊敬されてきました。
御神木が椿であり付近一帯の椿林は、健康長寿の御神徳を表徴しています。 垂井町」
■栗原山■
【長曽我部盛親陣跡】
「長曽我部盛親陣跡
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、関ケ原合戦の際に西軍に属し、ここ栗原山麓に六千人の兵とともに陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。途中、牧田川金谷にて、松ノ木城主徳永寿昌の軍六百人、今尾城主市橋長勝の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。
帰国後は、領地を没収され浪人となり、大坂夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、捕らえられて斬首されました。 垂井町教育委員会」
山を登っていくと、栗原九十九坊跡がある。
「栗原九十九坊跡
栗原山の中腹及び山麓一帯に昔「九十九坊」と称する百余坊の寺院があったと伝えられる。『奈良朝七五七~七六四年淳仁天皇天平宝字の頃に既に多芸七坊の中の一ケ寺不破郡栗原山に天台山正覚院末久保寺双寺として九十九坊ありき』と天文文書にある。鎌倉初期には百以上の僧坊が建ち並び相当隆盛であったと思われる。
建武二年(一三三五)足利、新田両氏の戦いで兵火にかかり焼失したという。 垂井町教育委員会」
更に登っていくと、「連理のサカキ」がある。
連理のサカキの傍らには、「竹中半兵衛重治公閉居地推定記念植樹」の案内板があった。
「岐阜県天然記念物
栗原連理のサカキ
昭和五十年十二月十日指定
このサカキは、推定樹齢約四百年の古木で、幹が根元で二つに分かれており、一方の幹から出た枝が他方の幹にゆ着して、連理の状態になっている部分が数多く見られる。このことから、古来『縁結びの榊』といい伝えられている。
樹高 約十一メートル
目通り幹周囲 三・四メートル
枝張り 東西 約十四メートル
枝張り 南北 約八メートル
平成十九年一月 垂井町教育委員会」
反応軍
脇坂安冶・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の兵力 約5,000
小早川秀秋の兵力 約15,000
【脇坂安冶陣跡】
「脇坂安冶陣跡
安冶は関ケ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賤ケ岳七本槍の一人として名をあげた武将でした。
東軍に通じていた安冶にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に、先頭をきって躍り込んでいったのです。 関ケ原町」
■松尾山■(293m)
【小早川秀秋陣跡】
「小早川秀秋陣跡
秀秋は西軍として、一万五千の兵を率いてここ松尾山に出陣してきました。
朝から傍観を続けた秀秋は、家康に催促鉄砲を打ち込まれ、遂に意を決して友軍の大谷隊を攻め滅ぼしました。
東西両軍の懇願に、秀秋は複雑な事情のなかで悩み抜いた挙句の果て、豊臣家に反旗をひるがえしてしまい、東軍を勝利に導いたのです。 関ケ原町」
松尾山山頂からの眺め
山頂の休息所には、「チョット一言」ノートが置いてある。
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日本史総合図録(増補版)、山川出版社、2005年、68ページより
傍観軍(吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家・長曽我部盛親)の兵力 約30,000
■南宮山■(419.23m)
【安国寺恵瓊陣跡】
安国寺恵瓊陣跡は、南宮大社の裏手、南宮山ハイキングコースの入口辺りにある。
このハイキングコースに従って山頂まで行くと、毛利秀元の陣跡にたどり着く。
「安国寺恵瓊陣跡
安芸の守護武田氏の遺児といわれています。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
関ケ原合戦では石田三成らと共謀して毛利輝元を西軍総大将に引き込むことに成功しました。合戦の当日は南宮山のふもとに陣を構えましたが、吉川広家の裏切りで動くことができず敗戦後逃亡。京都に潜んでいるところを捕まり六条河原で斬首されました。 垂井町教育委員会」
【毛利秀元陣跡】
「毛利秀元陣跡
中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。
関ケ原合戦では西軍に参戦した輝元の名代で南宮山に陣を構えましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦できませんでした。その際、進退に窮した秀元が、麾下に兵糧を使う真似をさせたはなしは『宰相殿からの弁当』として知られています。その後、大坂城に戻った秀元は、籠城して徹底抗戦することを主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。 垂井町教育委員会」
南宮山山頂からの眺め
南宮山ハイキングコースは、登りと下りが別になっている。
帰り途、夫が眠たいと言い出した。
すると、眠神の案内板が建っていて、その偶然に驚いた。
「眠神の由来
ここには明治維新の神仏分離まで、薬師堂がありあらゆる病気がなおるという霊験の厚い薬師仏がまつられていました。
その仏さまと相並んで眠神は「ねる子は育つ」ということから幼児健育の守護神として厚く尊敬されてきました。
御神木が椿であり付近一帯の椿林は、健康長寿の御神徳を表徴しています。 垂井町」
■栗原山■
【長曽我部盛親陣跡】
「長曽我部盛親陣跡
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、関ケ原合戦の際に西軍に属し、ここ栗原山麓に六千人の兵とともに陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。途中、牧田川金谷にて、松ノ木城主徳永寿昌の軍六百人、今尾城主市橋長勝の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。
帰国後は、領地を没収され浪人となり、大坂夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、捕らえられて斬首されました。 垂井町教育委員会」
山を登っていくと、栗原九十九坊跡がある。
「栗原九十九坊跡
栗原山の中腹及び山麓一帯に昔「九十九坊」と称する百余坊の寺院があったと伝えられる。『奈良朝七五七~七六四年淳仁天皇天平宝字の頃に既に多芸七坊の中の一ケ寺不破郡栗原山に天台山正覚院末久保寺双寺として九十九坊ありき』と天文文書にある。鎌倉初期には百以上の僧坊が建ち並び相当隆盛であったと思われる。
建武二年(一三三五)足利、新田両氏の戦いで兵火にかかり焼失したという。 垂井町教育委員会」
更に登っていくと、「連理のサカキ」がある。
連理のサカキの傍らには、「竹中半兵衛重治公閉居地推定記念植樹」の案内板があった。
「岐阜県天然記念物
栗原連理のサカキ
昭和五十年十二月十日指定
このサカキは、推定樹齢約四百年の古木で、幹が根元で二つに分かれており、一方の幹から出た枝が他方の幹にゆ着して、連理の状態になっている部分が数多く見られる。このことから、古来『縁結びの榊』といい伝えられている。
樹高 約十一メートル
目通り幹周囲 三・四メートル
枝張り 東西 約十四メートル
枝張り 南北 約八メートル
平成十九年一月 垂井町教育委員会」
反応軍
脇坂安冶・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の兵力 約5,000
小早川秀秋の兵力 約15,000
【脇坂安冶陣跡】
「脇坂安冶陣跡
安冶は関ケ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賤ケ岳七本槍の一人として名をあげた武将でした。
東軍に通じていた安冶にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に、先頭をきって躍り込んでいったのです。 関ケ原町」
■松尾山■(293m)
【小早川秀秋陣跡】
「小早川秀秋陣跡
秀秋は西軍として、一万五千の兵を率いてここ松尾山に出陣してきました。
朝から傍観を続けた秀秋は、家康に催促鉄砲を打ち込まれ、遂に意を決して友軍の大谷隊を攻め滅ぼしました。
東西両軍の懇願に、秀秋は複雑な事情のなかで悩み抜いた挙句の果て、豊臣家に反旗をひるがえしてしまい、東軍を勝利に導いたのです。 関ケ原町」
松尾山山頂からの眺め
山頂の休息所には、「チョット一言」ノートが置いてある。