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大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【滋賀】 近江神宮

2009年01月27日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


近江神宮は、紀元2600年の慶節にあたる昭和15年(1940)に創建された。
天智称制6年(667)に都を近江大津に遷した天智天皇(天命開別大神)が祭神である。
鳥居に向かって右手には、社号が建つ。
揮毫は近衛文麿の筆による。


手水舎は、滋賀・江州の比良石(ひらいし)でできている。


楼門


外拝殿


内拝殿


内拝殿の周りの廻廊


境内には、「旧大津地方裁判所車寄」が移築保存されている。
近江神宮の祭神・天智天皇が近江令を制定したことで、法律の神様とも称えられている由縁によるという。


漏刻(水時計)
天智天皇が近江大津宮に初めて漏刻台を設けたことは、日本書紀にも記されているという。
6月10日の「時の記念日」は、天智天皇が漏刻を設けた4月25日(太陰暦)を太陽暦に換算して定められたそうだ。
近江神宮の境内には、様ざまな時計が置かれている。
また、境内にある近江神宮時計博物館では、垂揺球儀(すいようきゅうぎ)、和時計、香時計(こうどけい)などの珍しい時計が常時展示されている。


日時計


この「精密日時計」は、五分刻という世界最高の精度を誇るものなのだそうだ。


古代火時計
約4000年前の中国で、おもに夜間の時間を計るのに用いられていたという。
龍の背に等間隔に吊り下げられた銅球の下に線香が置かれ、線香の火が銅球の糸を焼き切って球が落下し、下に設けられた銅鑼が鳴るという仕組みなのだそうだ。


近江神宮の御朱印

【滋賀】 弘文天皇長等山前陵・新羅善神堂・フェノロサの墓

2009年01月22日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月16日(土)
当日の行程:(JR・堅田駅)…(江若交通バス・堅田駅~佐川美術館) → 【冨嶽三十六景と富嶽百景 北斎 富士を描く(佐川美術館)】 → (江若交通バス・佐川美術館~堅田駅)…(JR・堅田駅~大津京駅) → 【石山寺と湖南の仏像 ―近江と南都を結ぶ仏の道―(大津市歴史博物館)】【弘文天皇長等山前陵】 → 【新羅善神堂】 → 【フェノロサの墓】 → (京阪・皇子山駅~出町柳) → 【五山送り火】

【弘文天皇長等山前陵】




弘文天皇というよりも、大友皇子というほうがピンとくる。
天智天皇の第一皇子、壬申の乱で敗れたあの皇子の御陵だ。
場所は、大津市役所の裏手にあたる。
大友皇子が歴代天皇に数えられるようになったのは、明治3年(1870)のこと。


【新羅善神堂】


新羅善神堂(国宝)は、弘文天皇長等山前陵のすぐ横に建っている。
写真では屋根しか分らないが、建物は三間四方の流れ造りで屋根は桧皮葺だという。
足利尊氏によって再興されたと伝えられる。

祀られているのは新羅明神。
園城寺開祖・智証大師の守護神である。
秘仏の本尊新羅明神坐像(国宝)は、「三井寺展」(於・大阪市立美術館、2008年11月1日~12月14日)で公開されていた。
垂れ目の、愛嬌あるお顔立ちをした神様だ。


【フェノロサの墓】


フェノロサの墓は、法明院にある。
法明院は、三井寺唯一の律院。
享保八年(1723)、義瑞律師性慶によって開かれた。


木が鬱蒼と繁る石段の参道をのぼると、法明院の門が見えてくる。
暗い感じがするのは、雨が降っているからか。


遺言により、フェノロサここに葬られたという。
フェノロサの墓の隣には、医師で日本美術の収集家でもあったビゲローの墓もある。

【滋賀】 露国皇太子遭難之地

2008年09月18日 18時06分16秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


   
            露国皇太子遭難之地の石碑

大津市京町2丁目の小さな辻、徳永洋品店の角に、この跡碑は建っている。
「此附近露国皇太子遭難之地」とある。
なかなか見つけられず、県庁あたりから京町にかけて、行ったり来たりを繰り返した。
通りすがりの地元の方に、一度だけ尋ねてみたが、大津市の博物館で負傷したロシアの皇太子の血がついたハンカチを展示していたのは知っているが、石碑の場所は知らないという。
やっとのことで、見つけた。


   
      露国皇太子遭難地の碑について説明したプレート

石碑の左側のプレートには、次のように書かれている。
「明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵(さんぞう)巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。 大津まちなか元気回復委員会」

このときの大審院長であった児島惟謙が亡くなってから、今年は100年目にあたる。
創立の際に児島惟謙が賛助した関西大学(当時は関西法律学校)では、4月から「特別展『児島惟謙歿後百年展』」が開かれているらしい。


          
            大津事件が起こった通り

孫引きとなってしまうが、「大津事件」(尾佐竹猛著・三谷太一郎校注、岩波文庫)の52頁に、事件が起こったときのこの通りについて(明治二十四年五月十五日『読売新聞』第五千号付録に拠る)記してあるので、それを参考にする。

露国皇太子一行が、滋賀県庁を出て京都へ帰る途中、京町区下小唐崎町通を進んでいるときに事件は起こったという。
県庁は、写真の通りの奥のほうにあるので、皇太子一行は、この通りを奥のほうから手前のほうへと進んできたということになる。
写真の左手に立番していた津田三蔵は、通り過ぎる皇太子の頭部をサーベルで切りつけた。
皇太子は、切りつけられた場所から5~6歩戻り、写真の右手にあった呉服商・永井長助宅で応急手当を受けたそうである。

この永井宅であるが、現在、この場所にはない。
事件のあと、永井宅を訪れ、記念になる物品を欲しがる者や、残っている血痕を見学したがる者が増えて、店の商品は品切れとなるほどであったという。
それだけではなく、あちこちから土地家屋の買収の話がもちあがる。
結局は、滋賀県庁のものとなったようだが、通りを歩いた限りでは、個人宅や商店はあっても、県が所有しているような土地建物は見当たらなかった。

永井長助さんご一家は、どこへ移り住んだのだろうか。


          

後日、大津市歴史博物館を訪れた際に、企画展『大津事件』の解説図録の改訂版を手に入れることができた。
この企画展は、平成15年(2003)2月27日~3月30日に開かれていたようだ。
貴重な史料が満載だ。


          
                  義仲寺

お寺はもう閉まっている時間だったが、せっかく近くまで来たのだからと、義仲寺に行ってみる。
ここは、木曽義仲と松尾芭蕉のお墓があるお寺。
木曽義仲のお墓(首塚)は、法観寺(八坂の塔)にもある。

【滋賀】 近江大津宮錦織遺跡 

2008年09月09日 20時41分50秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】



   
              大津京シンボル緑地

大津京シンボル緑地は、大津市錦織(にしこおり)2丁目、JR湖西線大津京駅または京阪電鉄近江神宮前駅の西方にある。

667年、天智天皇によって、飛鳥から近江への遷都が行われる。
671年、天智天皇が死去すると、皇位継承をめぐり、大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が起こり、この乱に勝利した大海人皇子は再び飛鳥に遷都したことから、この地に都が置かれたのは、わずか5年間だった。
大津宮の所在は、昭和49年(1974)、錦織地区での発掘調査で大津宮の一部の遺構が発見され、明らかになった。
その後、内裏正殿、内裏南門、回廊、壁などの遺構が確認されている。

大津京シンボル緑地は、大津宮の遺跡の北端に位置する。
平成15年(2003)、大津市が古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念して整備されたのだそうだ。

大津京シンボル緑地内には、3つの歌碑が建っている。

          
「秋の田のかりほのいほの苫を荒みわが衣手は露に濡れつゝ 天智天皇」

          
「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂」

          
「さゞ波や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな 平忠度」


近江大津宮錦織遺跡は大津市錦織1丁目~2丁目にかけて点在している。
遺跡の脇を通るのは、上下一車線ずつの決して広くはない道路だが、かつては、大津宮の南北中軸線に相当する重要な交通路だったようだ。

          
             志賀皇宮遺跡の石碑


   
            近江大津宮錦織遺跡第1地点

近江大津宮錦織遺跡第1地点は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたる。
ここからは、回廊の柱の一部と、塀の一部が見つかっている。


   
            近江大津宮錦織遺跡第2地点

近江大津宮錦織遺跡第2地点は、天智天皇が政を執った内裏正殿のあった場所だとされる。
発掘調査で、建物の東南部分だと思われる10の柱跡が見つかっている。
第1地点と第2地点は、80~90メートル離れているが、その間に大津宮の遺構は発見されていない。
その空間は、儀式を行うための場所であったのだと考えられている。


「大津宮」か、それとも「大津京」か、その呼びかたをめぐり、論争が起こっているらしい。
今年の3月、JR湖西線「西大津駅」が「大津京駅」に改称されるにあたり沸き起こったこの論争を、各紙が取り上げている。

「宮」は、天皇が生活し、政を執る施設のこと。
それに対して「京」は、「宮」のまわりに貴族・役人・庶民たちの住居・市場・寺院などが配置された都市のこと。
つまり、「宮」である天智天皇の宮殿の跡は見つかっていても、それを取り囲む都市(=「京」)が発見されていないのに「大津京」と呼ぶのはおかしいというのだ。

遺跡の名称は「大津宮」だけれども、上にあげた「大津京シンボル緑地」(大津市)は「大津京」、そして、大津市歴史博物館も「大津京」を用いている。
どうやら、大津市は「大津京」にしたいらしい。
大津市のホームページでも、一貫して「大津京」という名称を用いている。
大津市民の気持ちもわからないでもないが、紛らわしい。

この付近のもうひとつの駅、京阪電鉄「近江神宮前駅」は、これに比べて、明快で、自然に受け止められて、よい。
近江神宮は、天智天皇を御祭神とする勅祭社。
大津宮跡に鎮座している。
京阪電鉄といえば、今秋に京都市内の3駅の駅名を変更すると、車内広告で知った。
「丸太町」が「神宮丸太町」に、「四条」が「祇園四条」に、「五条」が「清水五条」に、それぞれ変わるそうだ。
京阪贔屓なわけでもないが、こちらの駅名変更は、なるほど、これなら観光客にもわかりやすい、と思う。

「大津京」とは別の意味で紛らわしい駅名といえば、浦和駅。
「浦和駅」「東浦和駅」「西浦和駅」「南浦和駅」「北浦和駅」「武蔵浦和駅」「中浦和駅」、あ、それと「浦和美園駅」もある。

【滋賀】 園城寺(三井寺)

2008年09月05日 17時56分49秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


天智天皇の崩御後、大友皇子(天智天皇の子、弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟、天武天皇)の皇位継承争い、いわゆる壬申の乱が勃発する。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子である大友与多王は、父親の霊を弔うために「田園城邑」を投じてお寺を創建した。
そして、天武天皇から「園城」という勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのが園城寺の始まりとされている。


   
              仁王門(重要文化財)

宝徳4年(1452)、甲賀郡石部町の常楽寺に建てられたのち、秀吉によって伏見城へ移され、更に慶長6年(1601)に、家康の寄進により園城寺へ移築されたもの。


   
              釈迦堂(重要文化財)

          
               釈迦堂の御朱印

室町初期の建立とされる。
本尊は、清涼寺式釈迦如来像。
「園城寺境内古図」には、現在、釈迦堂が建っている位置に食堂が描かれていることから、当初は食堂として移築されたものともいわれる。


   
                金堂(国宝)

「国宝園城寺金堂保存修理工事」のため、金堂の周りはシートで覆われていて、金堂の中へ入ることはできても、外側から建物を見ることはできなかった。
現在の金堂は、慶長4年(1599)豊臣秀吉の北政所によって再建されたもの。
本尊・弥勒菩薩像は秘仏。
これは、天智天皇が信仰していた霊像だといわれる。

          
               金堂の御朱印


   
      三井の晩鐘                 堂前灯籠

鐘楼(重要文化財)は、慶長7年(1602)に再建されたもの。
梵鐘は近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」で知られている。
また、「日本の音風景百選」にも認定されているそうだ。
平等院神護寺の梵鐘と共に日本三銘鐘にも数えられる。
さて、その音は……1撞き300円で聞くことができる。
ところで、近江八景って? と思って調べてみると、「石山の秋月」「勢多(瀬田)の夕照」「粟津の晴嵐」「矢(八)橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」らしい。

金堂前には灯籠が建っている。
大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、その罪障消滅のため、自らの薬指を切り、この灯籠の台座下に納めたと伝えられる。


   
           閼伽井屋(重要文化財)の彫刻

   
                三井の霊泉

金堂の西側に閼伽井屋が建っている。
慶長5年(1600)の建立。
工事中の金堂の足場とシートの陰になっているせいか、暗く、よく見えなかった。
建物の正面上部に施された龍の彫刻は、左甚五郎作。

閼伽井屋の中には、天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたとされる霊泉が湧いている。
このことから「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになったのが「三井寺」という名の由来だという。


   
弁慶の引き摺り鐘(重要文化財)         弁慶の汁鍋

霊鐘堂には、弁慶の引き摺り鐘と弁慶の汁鍋が納められている。

弁慶の引き摺り鐘は、奈良時代の梵鐘で、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より授けられたものと伝わる。
また、延暦寺との争いで、弁慶がこの鐘を比叡山へ引き摺り上げて撞いたところ、 関西弁で「帰りたい」を意味する「イノー・イノー」と響いたので、弁慶は怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったという。
鐘には、弁慶が投げ捨てたときについたといわれる傷痕や破目が残っている。

弁慶の汁鍋は、弁慶の引き摺り鐘の隣に置かれている。
弁慶をはじめ、僧兵たちが汁を作って飲んだと伝えられる鍋。
かなり大きい。


   
             一切経蔵(重要文化財)

          
                 八角輪蔵

一切経蔵は、慶長7年(1602)に毛利輝元により、国清寺(山口市)から移築されたもの。
一切経蔵の中には、八角輪蔵があり、ここに高麗版一切経が納められている。


一切経蔵の南側に、三重塔が見える。
大師堂、潅頂堂(かんじょうどう)、三重塔などがあるここ唐院は、開祖・智証大師円珍和尚の廟所であり、園城寺で最も神聖な場所とされる。

          
              三重塔(重要文化財)

もとは比蘇寺(奈良県)にあった東塔を、秀吉が伏見城へ移築し、その後、慶長6年(1601)に家康によって寄進されたもの。
室町初期に建立されたものとされる。


   
              潅頂堂(重要文化財)

寺流の密教を伝承する道場で、大師堂の拝殿としての役割を備えている。


   
                  村雲橋

唐院の四脚門を出て石段を下ると、村雲橋がある。
この橋には、次のような伝説があるそうだ。
開祖・智証大師円珍和尚がこの橋を渡っているとき、長安の青竜寺が焼けていると感知したので、閼伽水を撒くと、橋の下から村雲が湧き起こり、長安のほうへ飛び去った。
翌年、青竜寺から、鎮火のお礼の使者が来たという。


   
                  微妙寺

          
               微妙寺の御朱印

村雲橋から南へ行くと、微妙寺がある。
微妙寺は、園城寺五別所のひとつ。
園城寺五別所は、延暦寺が比叡山内の堂塔のほかに五別所として寺院を置いたことに対抗して設けられた。
「常在寺」「水観寺」「尾蔵寺」「微妙寺」「近松寺」の5つである。
現存するのは近松寺のみ。
ここ微妙寺と後述する水観寺は園城寺内にお堂を移築したため、寺名が残っている。
微妙寺の本尊は十一面観音(重要文化財)、この像は、廃絶した尾蔵寺の本尊だったともいわれる。
湖国十一面観音霊場の第一番札所。


          
             毘沙門堂(重要文化財)

毘沙門堂は、極彩色を施した唐様式の建造物。
元和2年(1616)の建立。
園城寺五別所のひとつである尾蔵寺にあったものを、明治42年(1909)に園城寺に移築したもの。
現地に置かれたのは、昭和31年(1956)だという。


毘沙門堂の前の石段を登ると、観音堂がある。
西国三十三所観音霊場の第十四番札所。
広場のような境内に、観音堂、観月舞台等が建っている。

   
                  観音堂

観音堂は、貞享3年(1686)に焼失し、元禄2年(1689)に再建された。
本尊・如意輪観音像(重要文化財)は秘仏で、33年ごとに開扉される。

   
                  観月舞台

観月舞台の傍らには、謡曲『三井寺』を解説する札が立っていた。
行方知らずになった我が子を探す女が、霊夢を得て三井寺へ来る。
中秋の名月の夜、鐘楼に登り、鐘を撞きながら功徳をうたい、子を求めて心乱れる母親を、寺僧と月見に来ていた我が子に見出され、共に故郷に帰ることが出来たという物語である。
ここ観音堂は、園城寺の境内のなかでも高台に位置している。
眺めが良く、空も近い。
観月舞台から観る月は、美しいのだろうな。

   
              観音堂の前の景色

この写真を撮ったあと、すぐに雨が降ってきた。
お天気が悪いのが残念だが、観音堂の前からの景色はすばらしい。
琵琶湖が見える。

   
    観音堂のてぬぐい             観音堂の御朱印     

    

   
                  水観寺

          
               水観寺の御朱印

観音堂から石段を下っていくと、水観寺がある。
園城寺の五別所のひとつ。
本尊は薬師如来像。
西国薬師霊場の第四十八番札所となっている。


   
                護法善神堂

          
             護法善神堂の柘榴の木

護法善神堂では、鬼子母神を祀っている。
お堂の前には、柘榴の木が植えられていた。

【滋賀】 安土城跡・見寺

2008年09月04日 08時36分51秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


   
             安土城の入口にある石碑

県道大津能登川長浜線に面して、安土城跡の石碑がある。


          
                大手道の石段

受付を過ぎると、石段が続く。
杖をお借りして登る。


   
石段を登りはじめてすぐ右手には、伝前田利家邸跡がある。


   
伝前田利家邸跡の向い側(石段の左側)には、伝羽柴秀吉邸跡がある。
上下二段に分かれた構造で、こちらは下段の楼門が建っていたとされる場所。


   
              伝羽柴秀吉邸主殿跡


   
      石段の途中              大手道跡の石仏

大手道の石段の途中で振り返ったところ。
先は、まだまだ長い。
訪れる人はあまりいないのではないかと思っていたが、思いのほか多くの人とすれ違ったので驚いた。
「上の景色は素晴らしいよー」と励まされ、石段を登るが、結構きつい。

城普請に使う石材は、おもに近郊の山から採取されたものだったようだが、中には、石仏や墓石も含まれていたという。
築城の際に大手道の石段に使われていた石仏が、そのままの状態で見ることができるようになっている。


   
          伝織田信澄邸跡と伝森蘭丸邸跡


   
                  黒金門跡

黒金門は、安土城中枢部への主要な入口のひとつ。
大きな石が用いられている。


   
                  仏足石

この仏足石は、大手道の石仏同様、築城時に石材として集められたもの。
昭和初期に、登山道を整備する際に発見された。


   
                  天主跡

東西、南北それぞれ約28メートル、礎石の間隔は1.2メートル。
これは天主の地階の部分にあたり、その上に五層七階、約33メートルの天主が聳えていたという。
その天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)に焼失してしまう。
その後に発掘調査が行われたのは、昭和15年(1940)になってから。


   
               天主跡からの風景 

天主跡からの風景はすばらしい。
登ってきた達成感もあって、とても気分が良い。


   
                織田信長公本廟

天主跡から少し下ったところ、伝二の丸跡に織田信長公本廟がある。
天正11年(1583)、羽柴秀吉が信長の遺品を埋葬して本廟としたらしい。


   
              織田信雄公四代供養塔


   
                見寺本堂跡

見寺は、織田信長が安土城内に建てた本格的な寺院。
安土城の天守付近が炎上した際には類焼を免れたが、江戸時代の末期に焼失。
その後、伝徳川家康邸跡に仮本堂が建っている。


          
              三重塔(重要文化財)

享徳3年(1454年)建立。
甲賀郡のお寺から移築されたもの。


   
              二王門(重要文化財)

門の棟木に元亀2年(1571年)に建立したという墨書銘があるが、天正4年(1576)年に信長が築城に着手し、それに併せて見寺を建てるにあたり、甲賀郡のお寺から移築されたものだといわれる。
門の両脇に祀られている金剛力士立像(重要文化財)は、応仁元年(1467)の作。


          
               見寺の御朱印

見寺の御朱印は、大手道の受付でいただく。

【滋賀】 彦根城

2008年09月03日 08時02分26秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


          
           「本日のひこにゃん」の看板

   
             ひこにゃんの特別住民票

このところ、豪雨のニュースをよく耳にする。
昨日(9月3日)も、滋賀県内は激しい雨が降ったようだ。
テレビをつけていると、「記録的短時間大雨情報」の速報が何度も入ってきた。

彦根城を訪れた日も、雨が降っていた。
けれど、空模様とは関係なく、彦根城は賑わっていた。
ひこにゃん効果であろうか。
先日発売された「ひこにゃん切手」は、即日完売だったという。
えらい人気だ。
彦根城は、どこへ行ってもひこにゃんだらけ。
ちょっと鬱陶しいほどである。
かわいいんだけれど。
ひこにゃんの1日の労働時間は1時間半。
動いているひこにゃんに出会うことはなかった。


   
天守閣(国宝)と親善都市水戸の梅      天守閣の中(天井)

太鼓門櫓方面から見た天守閣。
天守閣の前には、親善都市水戸の梅が植えてある。
敦賀市の仲介によって、彦根市と水戸市は親善都市提携を結んだという。
昭和43年というから、桜田門外の変から108年後のことだ。

彦根城の天守閣は、建築当時の姿を留めている。
天井梁には、曲がった木がそのまま用いられていて、とても美しい。


   
              天秤櫓(重要文化財)

   
              天秤櫓(案内板より)

天秤櫓は、上から見ると「コ」の字型をしていて、両隅に2階建ての櫓が設けられている。
上のほうの写真では天秤櫓の左側しか写っていないが、全体像は案内板の写真のようになっている。
この形から天秤櫓と呼ばれるようになったそうだ。
天秤櫓が築かれたのは彦根城築城から数年後のこと、長浜城の大手門からの移築であるという。
その後、幾度か修理が重ねられてきたのだが、中でも嘉永7年(1854)の修理は大規模で、石垣まで積み替えられたそうである。
向かって右側の石垣が築城当初からの「牛蒡積み」で、左手に石垣が寛永年間に積み替えられた「落し積み」になっている。


   
                 彦根城内堀

黒門から出て、楽々園の手前で振り返った風景。
石垣が美しい。


   
               楽々園の御書院

   
               楽々園の地震の間

黒門から出て内堀を越えると、楽々園がある。
楽々園は、江戸時代には「槻御殿(けやきごてん)」と呼ばれた彦根藩の下屋敷。
延宝5年(1677)、4代藩主井伊直興によって造営が始まり、2年後に完成した。
文化12年(1815)井伊直弼もこの屋敷で生まれた。

楽々園には、地震の間もある。
その名の通り、地震のときに逃げ込むための部屋である。
日常はお茶座敷として使われていたようだが、耐震設計が施されているそうだ。


   
                 玄宮園

          
               玄宮園と彦根城

玄宮園は、楽々園の東側に隣接している。
井伊家旧下屋敷の大名庭園。
中国唐時代の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて命名された。
作庭は、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)あるいは近江八景を模しているという。
下の写真にあるように、彦根城天守閣を借景としている。


玄宮園を出て、彦根城博物館へ向かうまでの間に目にしたものをいくつか。

          
               井伊直弼大老像


   
               井伊文子の歌碑

「一身に背負いまして立ちましし大老ありてこそ開港はなりぬ」
歌人・井伊文子さんは、16代当主で元彦根市長の井伊直愛さんの妻。
琉球国王であった尚泰の曾孫でもある。


   
               花の生涯記念碑

舟橋聖一の小説『花の生涯』では、井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いている。
この小説は、映画や演劇にもなった。
NHKのドラマで取り上げられると、『花の生涯』ブームが起こり、この碑は、それを記念して昭和39年に建てられたそうだ。
そんなブームがあったとは。
『花の生涯』が大河ドラマの第1作目なのだと知って、なんだかすごいことのような気がしてきた。


   
                  二季咲桜

冬(11月から1月)と春(4月から5月)の年に2回開花する桜。
昭和47年4月に、水戸市から寄贈されたものとのこと。
では、水戸には何があるのだろうと気になった。
水戸市には、彦根市から贈られたコブハクチョウがいるらしい。
そうか、確執はもう残っていないのか、と安堵するのは早い。
今年の春に、桜田門外ならず、「千波湖の変」が起こっていたのだから。
千波湖は水戸にある湖。
そこにいる白鳥と黒鳥が、羽をむしられ、首の骨を折られ、なんと14羽も殺されていたそうだ。
千波湖に生息する白鳥は、彦根市と親善関係を結んだ際に贈られた白鳥が繁殖したものだという。
なんともひどく、悲しい話だ。


   
               馬屋(重要文化財)

   
                 馬屋内部

馬屋は、表門を出て、内堀の外側に建っている。
建物はL字形をしていて、21頭の馬を収容することができたという。


   
                彦根城博物館

   
                井伊の赤備え

彦根城に隣接した彦根城博物館では、さまざまな大名道具や、復元された表御殿を見ることができる。
持ち帰りできる展示解説シートが置かれてあり、分かりやすい。
また、江戸時代から残る能舞台も設置されていて、ここでは能や狂言の上演もされているそうだ。


   
               家老脇家屋敷跡

二の丸には、家老脇家屋敷跡がある。
屋敷跡の前には、小さな石碑が立っていて、次のような碑文が彫られていた。
「脇家は代々井伊家の家老にして
 後裔に脇光三あり
 明治三十六年四月十日蒙古にて死去行年二十五才」

帰る頃には、雨足も弱まった。

【滋賀】 大津絵美術館・圓満院門跡

2008年08月25日 22時31分18秒 | 旅 - 滋賀県
本日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


先日、大倉集古館で、「紙で語る Paper Materials」を観た。
大津絵が数点、展示されていた。
決して巧くはないのだけれど、素朴な味わいがあり、風刺の効いた大津絵は、観ていて楽しい。
大津に「大津絵美術館」があるというので、行ってみることにした。


   
              圓満院門跡・勅使門

大津絵美術館は、圓満院門跡にある。


          
                芭蕉の句碑

境内には、大津絵を詠んだ芭蕉の句碑がある。
  「大津絵の筆のはじめは何佛」


   

このチケットで、圓満院門跡の宸殿と庭園、大津絵美術館を回ることができる。
順路に従い、宸殿と庭園から。


   
              宸殿(重要文化財)


    

宸殿の襖絵は、狩野探幽の筆によるもの。
ただし、観ることができるのは、複製。
オリジナルは、京都国立博物館が所蔵している。


   

宸殿では、投扇興を楽しむことができる。
所要時間30~60分(制限時間なし)で、800円。
圓満院門跡では、このほかにも、座禅や僧・尼僧体験もできるらしい。


   
                  玉座

   
                  庭園

   
            宸殿の廊下から見える本堂  



宸殿をぐるっと回り、回廊でつながった大津美術館の建物へ。
大津絵美術館の1階には、鳥羽絵も飾られている。
鳥羽絵は、江戸中期に大坂で流行した滑稽画。

   
              鳥羽絵『放屁合戦』

この作品には、驚いた。
人気があるのか、有名なのか、『放屁合戦』の複製が売店にも置かれていた。


2階は大津絵コーナーになっている。
大津絵は、江戸初期に、大津の宿場で、縁起物としての神仏画を旅人に売ったのがそのはじまり。
パンフレットで挙げられている大津絵の特徴は以下の4点。
 ・名も無き画工たちが書き始めた
 ・多くの絵柄は風刺、教訓の意味を持つ
 ・他の絵画にはない独自の筆致を持つ
 ・多くの色を用いない


          
          
               大津絵『猫と鼠』

これと同様のものが、大倉集古館の「紙で語る Paper Materials」でも展示されていた。
鼠は、自分の体ほどもある大きな盃でお酒を飲んでいる。
猫は、唐辛子をつまんで、鼠にお酒を勧める。
お酒に酔った鼠を捕らえようという魂胆だ。
この大津絵には、お酒に呑まれて我を忘れることを戒める意味があるそうだ。


          
            大津絵『猫と鼠の酒盛り』

こちらは、大津市の歩道の脇に置かれた大津絵のプレート。
先ほどの大津絵とは違って、鼠が猫にお酒を勧めている。
プレートの下にある解説には、次のように書いてあった。
『鼠が差出す肴の唐辛子、猫の肴は当然鼠で、「聖人の教えを聞かず終に身を滅ぼす人のしわざなりけり」とある』


          
             圓満院門跡の御朱印


今日の歩数:21,809歩

【滋賀】 長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)

2008年06月22日 23時53分35秒 | 旅 - 滋賀県
本日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】

朝から雨。
小降りになるのを期待して、長浜へ向かった。


  
長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)    長浜城本丸跡の碑

かつて、秀吉が築いた長浜城は、1615年に廃城となった。
現在、その地に建っているのは、1983年に復元されたもので、「長浜市長浜城歴史博物館」となっている。


  
       太閤井戸               豊臣秀吉公像

          
             長浜城天守閣跡の碑

   
               おかねさんの碑

琵琶湖のほとりに出ると、太閤井戸があった。
この井戸は、かつては長浜城内にあったそうだ。
秀吉築城時の長浜城は、現在復元されているものと比べ、湖面に張り出す形で建っていたらしい。

長浜城天守閣跡の近くには、豊臣秀吉公像が、そして、少し離れて、おかねさんの碑がある。
おかねさんの碑には、次のようにある。

『長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。 平成16年3月吉日』


   
               北西側(竹生島)

歴史博物館は5階建。
1階は受付、2階と3階は展示室、4階は機械室と呈茶室、5階はパノラマ展望台になっている。

天候が悪かったが、北西には、竹生島が見えた。
長浜城築城の際には、竹生島から材木が運ばれたという。


   
              北側(賤ヶ岳合戦場)

北側には、賤ヶ岳合戦場をかすかに望むことができた。
北側を写した写真の左側に映っている三角形の山が「山本山」、その右側にあるなだらかな山が「賤ヶ岳」である。


   
                  東側

東側は、残念ながら、よく見えなかった。
東側を写した写真の、中央より右側にあるマンションの向こうあたりが「伊吹山」である。
その少し右手が、石田光成の出生地、さらに右にいくと、「関ヶ原の古戦場」がある。
マンションのすぐ左手は、小堀遠州の出生地にあたる。
「姉川合戦場」や「鉄砲の里」の国友町は、もっと左側だ。

先日は二条城で、そして昨日は清涼寺で、小堀遠州が造ったとされる庭を見たが、長浜が遠州のゆかりの地であることは知らなかった。
展示室には「小堀遠州像」(複製)もあり、その飄々とした風貌が意外だった。


   
                 石垣根石

石垣根石は、長浜城歴史博物館の敷地内、長浜城(模擬)の東側にある。


          
             長浜城御馬屋跡の碑

歴史博物館から長浜駅に向かう途中、 長浜城御馬屋跡の碑を見つけた。
今では、そこに、マンションが建っている。


続きは後日。

今日の歩数:21,293歩

【滋賀】 比叡山延暦寺・日吉大社

2008年04月12日 23時40分56秒 | 旅 - 滋賀県
本日の行程:(京阪電車・出町柳駅) → (叡山電車・八瀬比叡山口駅) → (徒歩) → (叡山ケーブル・ケーブル八瀬駅~ケーブル比叡駅) → (叡山ロープウェイ・ロープウェイ比叡駅~比叡山頂駅) → (比叡山内シャトルバス・比叡山山頂~東塔) → 【比叡山延暦寺東塔】 → (比叡山内シャトルバス・東塔~横川) → 【比叡山延暦寺横川】 → (比叡山内シャトルバス・横川~西塔) → 【比叡山延暦寺西塔】 → (徒歩) → (坂本ケーブル・延暦寺駅~坂本駅) → 【日吉大社】


【延暦寺】(世界遺産)

今でこそ、ケーブルカーやロープウェイ、シャトルバスが走っているが、そうでなかった頃は、参拝するのもさぞかし大変なことだったろう。
さすがにもう要らないだろうと思いつつも、薄手のコートを持ってきたのは正解だった。
それくらい、山の上だった。

比叡山延暦寺は、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三つの地域から成る。
まずは、見逃したくなかった東塔から見て回る。


       
               東塔の鐘楼

「大講堂」(重要文化財)には、大日如来坐像や祖師像が安置されている。
大講堂のすぐ近くには鐘楼があり、一撞き50円と書いてあった。
並んで鐘を撞く。

「根本中堂」(国宝)は、延暦寺の総本堂。
かなり大きなお堂である。
延暦寺創始以来1200年間守り継がれた「不滅の法灯」を見ても、歴史の重みを感じることができる。
荘厳な雰囲気で満ちていた。

「根本中堂」の前の急な階段をのぼり、「文殊楼」へ。
「文殊楼」の中にも、段差の大きな階段があり、中をお参りすることができる。


シャトルバスに乗って、横川へ移動する。
参拝客の多い東塔地区に比べて清閑としていて、霊峰の雰囲気で満ち満ちている。

「横川中堂」の鮮やかな朱色が目をひく。
気温は低く、お堂へのぼって行く道端には、まだ雪が残っていた。


     
           根本如法塔

「横川中堂」の北西に、「根本如法塔」が建っている。
塔へ至るまでの石段、木立の中に見え隠れする朱色の塔が美しい。


     
                    恵心堂

「恵心堂」は、恵心僧都の旧跡といわれる。
横川中堂から東の奥へと進むと、突き当たりに鐘楼がある。
そこを右に折れると、恵心堂だ。
ひっそりとしていて、落ち葉の感触が足にやさしい。

鐘楼を左に、恵心堂とは逆の方向へ進めば、「元三大師堂」である。
おみくじ発祥の地とのこと。
けれど、どこでどうおみくじを引けばよいのか分からない。
社務所で尋ねればよいのだろうが、そうまでしておみくじを引こうとは思わなかった。
後で知ったのだが、「元三大師堂」でのおみくじは、自分で引くのではないそうだ。
どういった件をおみくじによって占いたいのかを僧侶に伝えると、僧侶がおみくじを引き、それを読み解いて助言をしてくれるということだ。

「元三大師堂」から更に奥へ、10分ほど下ったであろうか、そこに「定光院」がある。
日蓮上人が修行の地だという。
境内には日蓮上人の大きな銅像が建っている。


再びシャトルバスに乗って、次は西塔へ。

「常行堂」と「法華堂」を渡り廊下でつないだ通称「にない堂」(重要文化財)。
その呼び名の由来は、弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだという伝説にあるという。

「にない堂」の渡り廊下の下をくぐると、「釈迦堂」が見える。
「釈迦堂」は、信長の延暦寺焼き討ちの後、秀吉が園城寺から移築したもので、現存する延暦寺の建造物のなかで、最も歴史のあるものとされる。


西塔から東塔へは歩いて移動。
坂本ケーブルを使って、坂本方面へ。

坂本ケーブルは、全長2,025mで、これは日本一の長さだという。
片道約11分で運行している。
途中、景観の良い場所では、運転手さんのアナウンスが入る。
遠く、琵琶湖も見えた。
琵琶湖は、ミシガンという船でクルーズを楽しめるそうだ。
大きな湖だからといって、「ミシガン」にすることもなかろうに……と、残念な気持ちになる。

 
【日吉大社】

坂本ケーブル・坂本駅から、歩いて日吉大社へ。
きょうから「山王祭」が始まる坂本の町は、夕刻からの午の神事に向けて、どことなく騒々しい。


     

「日吉大社」の近くは、今が桜の盛り。

「日吉大社」は、全国に3,800余りある日吉神社、日枝神社、山王神社の総本社。
境内には東本宮本殿(国宝)西本宮本殿(国宝)を中心に、多くの摂社・末社が鎮座している。

日吉大社の神使は猿なのそうだ。
本当に猿がいたのには驚いた。
愛くるしい顔をした猿だ。
神の使いなのに、檻に入れちゃってもいいのかなあ。
それとも……これは檻ではなくて祠なのかも。