大倉草紙

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【滋賀】 水口岡山城跡

2009年08月02日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


「水口岡山城跡  桃山時代
 水口市街北側に、椀を伏せたような姿を見せる大岡山(古城山 標高二八二メートル)に築かれた豊臣期城郭の跡。
 天正十三年(一五八五)、羽柴(豊臣)秀吉が、甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるため、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。
 天正十八年中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄四年(一五九五)には長束正家と、五奉行の一員が城主にあてられていることは注目される。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に際し、正家が西軍に同調したため、帰城後池田長吉らに攻められ落城した。
 江戸時代、寛永十一年(一六三四)の新しい水口城(将軍家御茶屋御殿)の築城に際し、石材を転用したと伝えられるが、これを裏付けるように、遺構は判然としないところが多く、石垣もわずかに残るのみである。
 曲輪は山頂および中腹に配置されており、これを区画する堀切や竪堀の跡が認められる。山頂部に連続して配置される曲輪には一部に石垣が残り、その下部が長大な帯曲輪が存在する。
 城のあった当時は、山頂部に高石垣を巡らし、瓦葺の諸建物が連立して周囲を威圧したと思われる。
 なお、建物に葺かれた瓦の意匠には、安土城の瓦を起源とする、織田・豊臣系瓦の特色が見える。
 わずか十五年の歴史ではあったが、山麓市街地はこの城下町として整備されたと考えられ、水口が近世以降甲賀郡の中心的地位を獲得したことに大きな影響を与えた。  水口町教育委員会」(案内板より)


水口岡山城が築かれていた大岡山


山頂までの道は、歩きやすいように整備されている。
犬の散歩をしている人の姿もちらほら。


こんなトイレがあったり、


「石垣見学コース」があったり、


「展望広場」があったりする。


山頂近くの石垣


阿迦之宮
「水口岡山城跡と阿迦之宮
 眼下に野洲川を見下ろし、鈴鹿の山並みを眺望する大岡山は、低山ながらその特徴的な山容で、多くの人々に親しまれてきた。古くは行基が開いたとされる大岡寺も、その山内に大伽藍を構えていたとされる。
 天正十三年(一五八五)、天下統一半ばにあった羽柴秀吉は、近江東南部一帯を見渡すことのできるこの山に、天守閣を備えた山城を築かせた。城は関ケ原の合戦により、わずか三代十五年で落城したが、この間、水口は城下町として道などが整備され、その後の発展の基礎が築かれた。
 江戸時代に、この山は『古城山(しろやま)』と呼ばれるようになり、水口藩の御林山となった。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀った。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和四十一年に再建されたものである。
 その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、あわせて、悲運の城主長束正家(三代城主)の霊を祀るようになった。現在も、毎年四月十七日に、この祠前で、法要と柴燈護摩が厳修されており本町観光シーズンの幕開けを告げる行事として、多くの参詣でにぎわう。
   水口町 水口町観光協会」(案内板より)


山頂からの風景 

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