大倉草紙

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【滋賀】 小谷城跡

2009年02月28日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月28日(木)
当日の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍②西軍③傍観軍・反応軍④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】【伊吹山ドライブウェイ】【国友鉄砲の里史料館】【姉川古戦場跡】【小谷城跡】


「国指定史跡 小谷城址
小谷城は戦国乱世の大永四年(一五二四)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(一五七三)までの五十年間 浅井氏が根城としたところであり六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
 また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう 小谷城は北国街道中山道北国脇往還の交通の要衝にあり湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都に通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。城は典型的な山城であり 下より尾根上に出丸 金吾丸 番所 御茶屋 御馬屋 馬洗池 桜馬場 黒金御門 大広間 本丸 中ノ丸 刀洗池 京極丸 小丸と続き海抜三九五メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷 御局屋敷 大野木屋敷を始め、削平地 竪掘等遺構は全山を埋めている 更に主峰大嶽 六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後 木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町 寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟のみが、昔の悲劇を物語っている。
 昭和五一年十月  湖北町教育委員会」


雨が降っているが、せっかく来たのだから無理のない程度に見ておきたいと思い、登城口へ進む。
が、ここからは登ることができない。
クマの出没を知らせる案内板が立っていた。
雨足も強くなってきたので、車で登れるところまで行ってみることにした。


望笙峠からは、琵琶湖に浮かぶ竹生島が見える。


ここを登っていくと、金吾丸がある。
ここまでは、車道が通っている。
一番上の写真、「小谷城跡案内図」の現在地にあたる。
大永五年(一五二五)、六角定頼に小谷城を襲撃された際、浅井亮政は越前の朝倉崇滴に救援を要請し、この金吾丸を陣所としたのだという。


こちらは、本丸跡方面。
ここから桜馬場まで0.3キロメートル、約8分、
本丸跡まで0.4キロメートル、約10分、
三王丸まで0.8キロメートル、約20分。
行きたい気持ちを押さえてUターンする。

クマが出没しても困るし、それに備えた音の出るものを持ってきていないし、雨足も強くなってきたし。
小谷城に来るのは予定になかったのだから、仕方がない。
雰囲気だけを味わって、帰途に着く。

帰りの高速では、前の車が見えないほどの豪雨。
無理をしなくてよかった、と思う。

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