奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

徳山道 0528

2020-06-03 17:56:18 | 奥揖斐の歴史など
徳山道(広瀬又:坂内広瀬から徳山戸入への道)
2020年5月28日(木)No110

 コロナ騒ぎで揖斐や池田の図書館が休館していたが、26日、揖斐川図書館が新館オープン、坂内村史(通誌編・民俗編)、美濃の山(第1巻)を借りてきた
 先月のブログ、0425五蛇池山で「広瀬又は、広瀬から戸入の交通路、文献探して後日説明します」と書きましたが、坂内村史のその記述がありました

 通誌編のP113に「徳山道ハ広瀬区北端ヨリ起コリ徳山村戸入ニ通行スル道路ニシテ・・・然レドモ道路嶮ニシテ通行希ナリ」、また「・・・さらに五蛇池山山頂を目指す路程だが、「点の記」に逸早く次のように書いている。[順路]戸入区ヨリ廣瀬区ニ至ル道路を行キ峠に出テ 左方ノ峰ニ沿ヒテ進メバ 本点に達ス 戸入区ヨリ二里半」。点と記の調査チームは、戸入に泊まり五蛇池山に登ったのですね
 そう、徳山には旅館たくさんあり、戸入だけでも藤丸屋、品川屋、増山屋(写真家の増山たづ子さん経営)があった。なんでそんなに旅館があるのかと調べたら、薬屋雑貨の行商の人をはじめ、芸人・鉱山・林業関係者・紡績工場の斡旋人・その他獣物の皮買い・漆かきなどの人が利用、なるほどと納得したものでした
 ちなみに藤丸屋旅館の宿泊人は、徳山村内からは別にして、川上より79名、広瀬より29名、横山より59名、根尾谷より88名(徳山村史P719図11より)、P723に(戸入・藤丸屋)(昭和13年6月~25年10月)

☆ 余談
・細見美濃国絵図(天保5年:西暦1834年)に、①鳥東山※、②武図棒立、③蘇茂岐山、④姥溺山とある
 「美濃徳山の地名」で②は「烏帽子山 」、③は蕎麦粒山と知っていたが、①は、美濃の山(第1巻)で「高丸」別称「鳥ヶ東山」とあった。谷の名(鳥ヶ東谷)からきたのだろう
④は? 坂内村史通誌編に、丁子山( 湧谷山の南東)、新撰美濃誌で姥溺山は「オボラ山」と読むそう ※トリガヒガシヤマと読む(民俗編P559)、③はソボギ

・徳山村史の本文(P7)や付図に西谷川のことを戸入川と書いてある。村の人は戸入川と呼んであったと初めて知った


☆ 最後に
・広瀬又を調べるのに徳山村史を開いた。広瀬又の記載はなかったが、P768の江州への道で、「昔は門入から入谷・高倉(コウクラ)峠を越えて越前南条郡との往来・・」とある。入谷から高倉峠へどうやって行ったかが地図を見てもわからない、知っている人教えてください

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