奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

この一冊 1008

2019-10-08 19:42:44 | 山登り
この一冊 復刻版 “北の山の栄光と悲劇” 滝本 幸夫 柏艪舎
 2019年10月8日(火)

 先月、北海道のペテガリ岳という山に登った。そう “遥かなるペテガリ” と言われた山、登ろうとした理由の一つにこの “遥かなる” という言葉が好きだったから。その語源を探していたら、この冊子に出会った
 さてこの本で、ペテガリに初めて登ったとされる慶応義塾大学山岳部の足跡、昭和7年7月30日に出発して登頂は8月10日となっている。片道12日かかっている(第一章P18)
 9月に私が登った行程(詳しくはこのブログ、ペテガリ岳 0906~09参照)は、神威山荘手前に車を止め、ペテガリ山荘まで約4時間、泊って翌日ペテガリ往復12時間後、また山荘に泊まって神威山荘へ戻る2泊3日。 健脚ならペテガリ岳手前鞍部にテン泊すれば神威山荘駐車場から1泊2日で行けるだろう。慶大が12日かかったということは今と違って林道等がほとんどなかった
 冬に登ろうとした北大山岳部、昭和15年1月に8人雪崩で亡くなっている(第一章P29)。その他遭難死多数(第二章P72ほか)、“遥かなる”を探していたら、北海道の登山開拓時の遭難など悲しい歴史がこの本にはたくさん綴られていた

参考にその内容(目次)を載せます
 第一章 日高開拓・ああペテガリの道遠く
 第二章 怨念の川・日高、札内川鎮魂歌
 第三章 羆との闘い悲し、八の沢に紫煙と消えて
 第四章 岳人の心の山、利尻開拓の火は燃えて
 第五章 中央高地・そこには人間のドラマが・・・
 第六章 吹雪の大雪山に結ぶ心のザイル ~ 第十章 ~ 終章

 コイカクシュサツナイ岳からヤオロマップ岳~ペテガリ方面(右に1839峰)北大は昭和16年3月、厳冬のコイカク~ペテガリを往復15時間で歩いている(第一章P37)


 ペテガリ岳から1839峰方面

 この本読んでビックリしたこと、感動した言葉など、

1(北大の学生)八ノ沢手前にベースキャンプを設けた(中略)。すべては順調に進み、(札内川)八ノ沢を遡ったカムイエクウチカウシ登山も、キャンプ地を出てから四時間のアルバイトでその頂上を極めた(第二章P63)。ヤマップのタイムは5時間20分、学生の足は速い
2 昭和45年福岡大学の3人が羆に襲われた記事の中に、「この7月、日高に入っていたパーティは51パーティ、276名と書いてある(第三章 P90)。当時日高は沢山の人が山に入っていたのだ
3 昭和37年2月早稲田大学が利尻岳南陵で使った固定ロープ739m(第四章P122)、運ぶにしても半端な重量ではない
4 春夏秋冬を問わず、間近にながめやる大雪の高き大地は、常に瑞々しい響きをもって、十勝の岳人に呼びかけるのである。なんでこの稜線を放置してよいものか(第五章P136)
5 天候さえ完璧なら、少々の難コースであっても、強靭な体力をもってして、乗り切ってしまうことができる。想像し得ない条件と戦うから、山登りは難しいのだ
6 フランスパン60個に、「でかい乾パン」を100枚(中略)、直行のリュックなどは15貫(56.25㎏)にもなっていた(第十章 原野の人・・・P265)。「食うために登るようなもんだな」だって
7 カムイ岳~楽古岳、悠々と100キロメートルの稜線を歩き(中略)下山、24日間、単独で荷上げもなしに全山縦走した(終章 日高全山縦走と・・・P300)※6.7は10/10日追加

 よかったら、この本読みませんか、プランの立て方、死に直面した学生らの手記、死ぬときに学生が発した言葉、ヤバいと思ったら引き返す勇気、先人たちの山への想い、読むと、得るものが必ずあるはずです

 表紙の写真は、エサオマントッタベツ岳から厳冬のカムイエクウチカウシ山を望む。本は、揖斐川図書館経由で各務原市中央図書館から借りました(岐阜県立図書館にはありませんでした)
コメント (2)
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