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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 391-394

2020年04月23日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



391
例えば、愛や絆の
抽象の
言葉の橋を渡る時 うっ



392
〈あ〉から〈い〉への道が霞んで
言葉の道
よろよろと進んでいく



393
〈き〉〈ず〉〈な〉の道は泥濘(ぬかる)んで
避けようもなく
〈づ〉の変調にずれてゆく



394
でこぼこの絆の道を
カッコつけ
滑らかに滑る先導獣 

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 387-390

2020年04月22日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



387
〈あ〉〈う〉ばかりが不明の道
ではなく
無数の不明の訳語のダンス跡の



388
サスティナブルカーニバル
チェンジャブル
ブルブルのアメリカンブルース



389
肌合いのなじんだ言葉から
飛び立って
概念の海で波乗りしてるね きみ



390
それもいいけどさ きみだって
お家帰って
お風呂に入り鼻歌うたいもするよね

『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑤

2020年04月22日 | 坂口恭平を読む
 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑤


 5.場面の転換から


 この作品の各場面の内ではシュールレアリズム風で話の筋がうまくたどれないような描写もあるが、一般的に物語に存在する、構成の問題、すなわち場面の転換を繰り広げながら形成される話の筋はどうなっているだろうか。「物語」の場面の転換を大まかにたどってみる。


・C地区の「崩壊」と「瓦礫」と「建設現場」の話 初め~
・タダスによるとC地区内に医務局があり、混乱した人間たちはそこに運ばれるという話 P33
・町の話 P56ーP64
・C地区内にあるF域の話 P67
・「わたし」の定期検診の話 P71-P82
・「設計部」の話 P84~
・医務局を出た者のリハビリ施設「サイト」の話 P96~
・「崩壊現場」へ、「崩壊現場」での話 P103~
・A地区の話 P136~
・設計部はA地区とB地区の間にあった。 P148~
 「わたし」の仕事は水平を測る仕事に変わっていた。 P158
・「労働者たちが夢の中で勝手にこしらえた」(P165)「ディオランド」という街の話 P163-P166
 ※この「ディオランド」と言う言葉や話は、「わたし」≒「作者」に固執されたイメージのように以後も何度か登場する。
・B地区内に地下駐車場があり、その一角に名前を収集している「登録課」がある話 P167
・「わたし」が医務局に戻る話 P172
・「ラミュー」の話 P177-P180
・設計部にある「手順部」と「管理部」という二つの部署の話 P187-P190
・「ラタン色」と老婆の話 P194~
・「書店のような店」の話 P197~
・ムジクという地域のふしぎな植物や水の話 P199~
・夢か現かの話 P202~
・マウとビンの話 P206~
・A地区とB地区を結ぶ地下通路の話 P212~
 ( 以下、略。 作品全体のページは、P4-P311まで)


 このようにこの作品の構成を見るために、作品全体ではないが場面の転換をたどってきた。作者が、前作についてだったか自分の内に生起するイメージを自分は書き留めているだけだというような言葉に出会った記憶があるが、この作品の読み進むイメージから来る、ランダムな構成かなという予想と違って、割りと一般の物語の場面の転換、構成になっているように見える。「わたし」≒「作者」を圧倒する〈鬱的世界〉の渦中で、「わたし」≒「作者」は意識的か無意識的かそれぞれの度合は不明だとしても、場面を設定しそれらを連結していくという表現世界での構成への意志を当然ながら働かせているということになる。この意志は、〈鬱的世界〉がもたらす多重化する「わたし」を統合しようとする欲求と対応しているのかもしれない。

 また、語り手(「わたし」)や風物が安定的でなく揺らいでいて、抽象画をつなぎ合わせていくような場面の転換になっているように思われる。これは〈鬱的世界〉の圧倒性が「わたし」≒「作者」にもたらす揺らぎや屈折であろうか。

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 384-386

2020年04月21日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



384
(う ううう)と言葉になれなくても
もうそれは
言葉の住人言葉の流れの中に



385
(お おおお)と言ったら
シームレスに
相手が接続してくれる 言葉川



386
(あ あああ)と言われても
確かに
よくわからないでもわかることがある

『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ④

2020年04月20日 | 坂口恭平を読む
 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ④


 4.物語の渦中で、「わたし」の多重性


 わたしが、この作品中のの「わたし」の多重性に気づいたのは、以下に引用するA.では、「わたし」は、医務局で「定期検診」を受けたのに、C.では、「わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。」という言葉に出会った時だ。あれ、なんかおかしいぞと思った。もうひとつ挙げてみる。「わたしは崩壊そのものととなって、こちらに向かってくるガルを眺めていた。感情も何もないのだから、記憶できるわけがない。わたしは崩壊そのものとなって当然のように崩れ落ちていった。」(P123)とあるのに、後の方では、「定期検診後、時間は停止しているように感じられる。わたしはまったく別の思考回路で地面の上を歩いていた。わたしはまだ崩壊していない。崩壊は別のところで起きていた。」(P174)とあって、矛盾した表現に見える。しかし、よく読みたどってみると、B.に引用しているように、その間に「もう一人のわたし」についてすでに描写されていた。

 「わたし」の多重性に関わる文章を抜き出してみる。


A.

 「わたし」は、医務局で「定期検診」を受ける。(P75-P82)

ワエイは一体どこを設計していたのだろうか。詳しいことは何もわからないままだった。医務局へ行けば戻れるかもしれない。しかし、あれ以来医務局からは一切連絡はなかった。連絡を取るための方法も知らない。(P197)

 わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。(P223)


B.

 子どもたちは目が見えないのかもしれない。地中の動物のように目が退化しているのだろうか。しかし、目はぱっちり開いていた。明らかに何かを見ていた。焦点が合っているのは、わたしではなく、もう一人のわたしだった。今起きていることは、わたしの内側ではなく、外側で起きていた。いや、内側と外側がねじれていた。F域にいるからか。確かめようにも子どもたちとはまったく何も話せない。
 わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。ここではわたしが「場所」になっていた。F域とは関係なかった。
 わたしは彼らにとっての「言葉」にもなっていた。彼らが何を話しているのか聞こえないのも、それはわたしが言葉だからだ。言葉には聞くという機能はない。わたしは淡々と書いている。手が勝手に動いていた。わたしに見えている風景ではなかった。(P118-P119)

わたしは今、この場所にいることが奇跡のように感じていた。わたしはここで起きている現象に見とれていた。しかし、何も見えていなかった。見えていないのに見とれていた。つまり、わかっていたことだが、わたしが見ているのではなかった。
 前方に一台のガルが止まっていた。アームを動かしながら瓦礫を積み込んでいる。そのガルの荷台の上に男が立っているのが見えた。目をこらすと、その男はもう一人のわたしだった。男はわたしの頭の中にいたわけではなかった。わたしから発生しているわけでもなかった。自分の足で立って遠くを見ていた。(P122)

 森の奥に広場があった。わたしは腹が減っていたので、迷うことなく中に入っていった。地下に設計部があった。・・・中略・・・働けと言われたら、そのまま受け入れるだけだった。いつだってわたしはには決定権がなかった。わたしが働いていたのかすらわからなくなるときだってあった。それは設計部にきても変わらなかった。なぜわたしは設計をやる羽目になったのか、振り返るよりもずっと昔に、これが決まっていたってことなのかもしれない。これはわたしとは別の体で起きていた。ところが別の世界ってわけじゃない。世界はいつだって一つだった。要はわたしが、一つじゃなかったということなんだろう。(P150-P151)


C.

 今では誰もそんなことを想像できないだろう。ここは町なんかじゃなかった。ここはただの雑草が生えた草原だった。ただの砂漠だったかもしれない。わたしの記憶がおかしくなっているのだろう。労働者たちは誰も気が狂ったりしていない。暴動一つ起こらない。わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。何か体の調子でも悪いのか?(P187)


 前々回、この作品は、昔風にいえば「私小説」的な作品で、「わたし」≒「作者」と見なせると考えた。「わたし」の他に「もう一人のわたし」の存在が「わたし」によって認められるということは、「わたし」の多重性ということであり、「わたし」≒「作者」から言えば、「わたし」の多重性≒「作者」の多重性ということになる。

 この物語世界では、「わたし」は主要な登場人物であるとともに、「わたし」=「語り手」だから、「わたし」が多重化しているということは、「語り手」も多重化している可能性もあり得る。B.で「わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。」と「わたし」はその可能性を考え、語っている。しかし、これは「わたし」の疑念であり、「わたし」の不安の表現と見るほかないと思う。

 なぜならば、「わたし」の多重化に対応して「語り手」も多重化していると考えると、物語世界で、「わたし①」=「語り手①」、「わたし②」=「語り手②」・・・となって、作品世界を統合する主体が不在になってしまう。したがって、あくまでもう一人のわたしを感知する多重化した意識を持つ「わたし」が、物語世界の主体になっていると考えるべきだと思う。そうしてそうした状況は、「わたし」の見聞きしたり、感じたりするもので物語世界を統合する「わたし」≒「作者」の揺れ動く不安定な状況を象徴していることになる。もちろん、そうした事態は〈鬱的世界〉がもたらしているものである。

 作中では、「わたし」がメモを取っているというか文章を書いていることになっている。その「わたし」の書くことに触れている部分がある。


確かにわたしが書いている。しかし、わたしは複数に分裂していた。別の言語で考えているのではないか。そんな気もした。書いている内容を完全に把握している自分もいた。体の力を抜くと、誰かが乗っ取ったように自動的に手が動き始めた。手は何かを書いている。これはわたしではない者によるメモだ。医務局に提出できるような代物ではなかった。しかし本来、提出すべきはこういった類のメモではないのか。わたしではない者が侵入している証拠になっているはずだ。わたしの体は侵入経路がわかる生きる資料になっていた。(P174)


 作中の「わたし」≒「作者」と見なすわたしの考えからは、これは作中の「わたし」の有り様であるとともに作者の有り様でもあると思われる。多重化している状況が語られている。

 わたしは、〈鬱的世界〉の外側から〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」の振る舞い、すなわち、表現されたイメージ流の世界を見ていることになる。ということは、わたしの言葉はそのイメージ流の内側での「わたし」≒「作者」の苦や快などの実感からは遠いということになるのかもしれない。物語作品を読むことも、一般化すれば、語られたり書かれたりする表現された世界を介しての他者理解の範疇に当たる。この場合でも、表現された世界の内側に入り込むことは難しい。くり返し読んだりていねいに読みたどったりして、表現された世界のイメージ群が収束していくところの作者のモチーフに近づこうとする。この場合、同時代的な感受やイメージの有り様の一般性が前提とされている。しかし、この作品の場合には、その前提が稀薄である。つまり、作品世界の「わたし」≒「作者」が浸かっている〈鬱的世界〉の感受やイメージの有り様の特異さが、この作品の理解を難しくしているように感じられる。

  しかし、一方で、その世界は、わたしたち読者には豊饒のイメージ世界とも映る面がある。後で取り上げるが、この作品には古代の神話的な記述と同じではないかと思える個所もある。〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」にとっては、それらの動的なイメージの飛び交う世界は〈苦〉をも伴うのかもしれないが、ある種のイメージについては変奏されながらもくり返し目にしてきた見慣れた感じや親和感もあるのかもしれない。
 

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 377-380

2020年04月19日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



377
ひとつの道には色色と
いくつもの
見えないスペクトルの小道がある



378
新緑と日差しの道
を歩む
例えば赤色の帯域へ入る



379
同じ道で出会った人
青色の
帯域から浮上した匂いする



380
日差しを浴びた新緑
人により
ヘビーメタルな音響も立てる

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 374-376

2020年04月18日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



374
123と数量の森へ
入っていくと
いちにいさんと口ずさんだ記憶遠のく うん?



375
数量や確度の網が
振り分ける
ひとつひとつの生(なま)の運命 あ



376
抽象の火の見櫓(やぐら)から
見渡せば
煙に巻かれる人がかすむ う

『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ③

2020年04月16日 | 坂口恭平を読む
 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ③


 3. 物語の渦中で、「医務局」とは何か


 物語世界が、現在の世界を呼吸する作者によって構築された幻想の世界である以上、そこには現在の世界にある風物が作者の意識的あるいは無意識的な選択により写像されてくる。そして、その選択には街の風景の描写のように割と自然な場合もあれば、物語世界に欠かせないものとして選択される場合もある。次の「医務局」は、後者の例のように見える。本文中から、「医務局」に関わる表現を拾い出してみる。


3.「医務局」に関わる言葉から

A.
 タダスの話によると医務局という場所があり、混乱した人間たちはそこに運ばれるという。モリと呼ばれていた医務局は、いま働いている現場、C地区の中にある。C地区は広大で、医務局だけでも三つあるという。
 (『建設現場』P33 みすず書房 2018年10月)


B.
 「今日は定期検診だ」
 しばらくするとロンがまた口を開いた。定期検診など受けたことがなかった。体調の悪い者は、自己申告すればいつでも医務局で診てもらうことができた。わたしは健康体そのもので、自分が普段思い巡らせているこのよくわからない頭の動き以外は風邪一つ引かなかった。★定期検診という存在自体知らなかった。ロンに聞くと、それは誰もが受けるわけではなく、定期的に無作為に一人の人間が選ばれ、その人間を診察し、他の労働者たちの体調を予測するためにデータを取るという。それで今回はわたしが選ばれたというのだ。★
 「どうやって選ばれるの?」とわたしは聞き直した。
 (『同上』P71-P72)


C.
 医務局での女による面接・質問の場面 (『同上』P76-P81)

 女はそこで質問を終えた。一切、わたしに触れることもなく、血液検査などもなかった。問診というよりも、ただの質問だった。★わたしに関することを異常に詳しく知っていた。わたししか経験していないはずのことを、なぜ女が知っているのか。もちろん労働者の行動は人工衛星で管理されている。しかし、女はわたしが見た夢のことも知っているような気がした。ただそんな気がしただけだが、そういうかすかな気づきですら女は感じ取っているように見えた。人工衛星で管理しているといっても、わたしの思考回路まで知ることはできないだろう。それなのに、女はわたしのことをすべて知っているような気がした。しかも、頭の中まで感じ取っていた。★
 (『同上』P80)


D.
ウンノは「おれ、建設現場から離れて医務局にいた」と言った。
 「ぼくも定期検診の途中なんだけど」とわたしが言うと、ウンノは何かわかっているのか、笑顔で「冗談は寄せよ」と言った。
 「ここはサイトって呼ばれてて、医務局を出てきたやつら、つまり入院中だった労働者がリハビリを行うところなんだよ。本格的に建設現場へ戻るまでの間、しばらく集団生活をするんだ」
 ウンノは説明しながら、わたしを二階建ての白い建物の前に連れて行った。
 (『同上』P97)


E.
 医務局内の椅子に三十人くらいの労働者が座っていた。実際に働いた経験のある者は一人もいなかった。しかし、手は汚れ、作業服も破れていた。中には女もいた。女はどうしてここにきたのかわからないようで、ひとりごとをつぶやいていた。
 ★医師たちは労働者たちの疑問に答えることなく、黙々と診察をはじめた。★目を開き、小さなライトを当てると、瞳孔の動きを確認した。瞳孔をカメラで撮影したあと、大きく壁に映し出した。いくつかの測定を同時に行っていた。
 労働者たちは働く必要がないと気づくまでにしばらく時間がかかったが、それがわかるとみな笑顔になった。食事は好きなときにとることができた。医務局に十年以上滞在している者もいるという。中にはここで結ばれた者たちもいた。
 家族をつくった労働者たちには仕事が与えられた。仕事の内容は、いくつかの薬を飲みながら、家族と生活を続けていくというものだった。はじめは彼らも戸惑っていたが、そのうちにどうでもよくなったのか、家族ですらないものも、家族の一員だと言い張ったりしだした。しかし、医師たちは彼らの言う通りに従った。
 医務局では患者たちにすべての決定権があった。彼らの意見は法律よりも強かった。「動物国をつくりたい」と子どもが言った翌日には建設がはじまった。しばらくすると彼らは医務局の敷地すべてを、彼らが見た夢の世界と同じものにつくりかえてしまった。●完成までには長い歳月がかかっていたが、実際は一瞬の出来事だった。●医者は労働者たちの一瞬の思いや記憶、創造性に注目していた。
 (『同上』P141-P142)


F.
 「なぜ医務局に戻ってきたの?」
 「報告のためです。わたしは感じたことを、さらに進めました。地理的調査と同時に、そこで暮らす人々の頭の中で起きていることも記録に残しました。それは思考回路とは幾分異なるものでした。彼らは手足を動かすのと同じように頭の中で見つけた風景のことを写真に写したり、そのための機械をつくりだしたりしています。その行為のもとになるもの、●その力そのものの研究を行うために、わたしは毎日、歩き続けました。しかし、一歩も外に出ていないような気もしています。足は一切汚れてません。●むしろ、体はだるく、外の空気を吸った実感がまるでないのです。」
 「あなたの名前は?」
 ★「サルト。名前は自ら思い出しました。しかし、以前にもサルトと名乗る人間がいたことがわかっています。B地区内にある登録課で判明しました。・・・中略・・・わたしはサルトという名前が、ある動物から発生したのではないかと考えています。しかもこのことが現在、A地区の工事が遅れている原因と関連がありそうなのです。★しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」
 (『同上』P172-P173)


G.
 わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。


今では医務局にいたせいか分からないが、勝手に自分の意見ではないことまで頭に浮かぶようになってしまった。それで困っていると、また次の薬、それを止めるためにまた次の新しく開発された薬が投与された。わたしは薬物中毒になっていた。それでもまだ逃げることができた。ほとんどの人間は逃げる気なんかなくなってしまって、うめき声なんかひとつも聞こえず、聞こえてくるのは恍惚とした声ばかりだった。
 わたしの頭は少しばかりおかしくなっていたからか、いつも別の景色が見えていた。それはこの近辺の景色だった。昔の姿なのか、これからの姿なのか、わからないところもたくさんあった。それでも見えていたことは確かだった。
 (『同上』P222-P225)



 この作品に出てくる医務局関連の部分を抜き出してみた。そのA~Gの部分の中で、★・・・★で囲った部分は、わたしたちが病院に対して持つ一般的なイメージと違う部分であり、作品世界の「わたし」≒「作者」の疑念や被害感からの表出ではないかと思える部分である。Fの★・・・★で囲った部分の後には、「しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」という言葉が付け加えられている。これは、「わたし」(サルト)の相手に投げかけられた内省の言葉であると同時に、「わたし」≒「作者」の作品世界に対する内省の言葉でもあるような気がする。いわば、★・・・★で囲った部分の自己の了解に対する留保の言葉になっていると思う。

 次に、A~Gの部分の中で、●・・・●で囲った部分は、物語や話の現実性としては矛盾する表現の部分である。たとえば、普通では「完成までには長い歳月がかかっていた」=「実際は一瞬の出来事だった」は成り立たない。しかし、作品世界の「わたし」≒「作者」にとっては、二つのイメージの等号あるいは接続は認められている。作品世界の「わたし」≒「作者」には、そのようなイメージ流として体験されたということを意味している。

 Bによると、「定期検診」は、「わたし」含めて受け身的なものと見なされている。毎月1回通院しているわたしの場合もそうだが、通院は受け身的なものとして感じている。病院(医務局)とはわたしたちにとってできれば行きたくないようなところだと思う。したがって、「定期検診」が「わたし」に受け身的なものと見なされていることはわたしたち誰にも当てはまることだから別に問題ではない。問題は、その受け身性からCの描写にあるように、「わたし」が人工衛星で管理されているとか頭の中まで感じ取られているというような、追跡されているとか察知されているとかの被害感の存在である。ここが、普通の病院体験とは異質な描写になっている。

 作者がうつ病で病院にかかっていることについては、昔ツイッターで見かけたことがある。また、Gの記述にあるように、処方される薬が薬物中毒をもたらすこともあるとツイートにも出会ったことがある。この作品世界での「医務局」は、普通の病院のイメージとは違っているように見えるが、「医務局」のリアリティーの根っこにはうつ病の作者の通院の体験があるのではないかと思う。その時の体験が作品世界に写像され織り込まれているように見える。