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『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ②

2020年04月05日 | 坂口恭平を読む
 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ②


 2.物語の渦中で、「崩壊」と「瓦礫」や「建設」とは何か


 坂口恭平の『建設現場』は、出てからすぐに買って2,3回数ページ読んで、これはすいすい引き込まれるような普通の物語作品とはちがうなという感じがして、ずっと寝かせていた。やっと読み進むことになった。

 語り手でもある登場人物は、とりあえず「わたし」であり、その「わたし」は、「わたしはずっと忘れていたことを思い出した。わたしの名前はサルトだ。」(P48)とあるから、「サルト」という名前ということになる。ここで、とりあえずと書いたのは、「わたし」が自分の名前を忘れていたということもふしぎなことであるが、のちにこの「わたし」は多重化したものとわかるからである。今回はそのことには触れない。


 『建設現場』という物語世界は、次のように始まる。もちろん、作者にとっても読者にとっても書き出されてはじめて物語世界は浮上し、可視化される。しかし、作者の内では、物語世界の徴候はそれ以前にも存在し、書き留められた物語世界の終了の後にも、その徴候はいくらか変貌しつつ存在し続ける。


 もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔をした。崩壊は至るところで進んでいて、わたしは一人で気づいて、どうにか崩落するものに布なんかをかけようと探してみたが何もない。隣にいる者に声をかけてみたが、男は一切しゃべらず、それ以外にもまだたくさんの人間たちがいた。
 現場ではいろんなものが崩壊していたが、それもこの建設の一つの仕事なのかもしれない。わたしは想像するしかなかった。しかし、昨日も寝ていない。もう数日寝ていない。正確に言うと、寝ていないことはなかった。宿舎はなく、眠る時間になるとその辺に散乱している毛布にくるまった。拳を枕がわりにして、それぞれ寝ていた。わたしも彼らの寝姿を見ながら、寝てもいいのだと知り、寝るようになった。
 ところが寝ていても、夢の中ではまったく同じ場所があらわれ、わたしは同じように働いていた。隣の男は違う顔だった。向こうにいる男たちの顔は確かめることができない。夢ですらそんな調子だった。わたしはずっと働いていて、休むことができなかった。寝ているときでも汗をかいていたが、冷や汗ではなかった。それはちゃんと労働したときの汗で、それなのに体は疲れを知らず、声が聞こえてくるとすぐに起きあがった。
 崩壊はまだ続いていた。建てても建てても定期的に揺れ、崩れ落ちていく。そのたびに日誌に被害の状況を逐一記録しなくてはならなかった。しかし、こんなことをやっても無意味だと多くの人が思っているのか、報告する側もされる側もどちらも上の空で、誰も何も聞いていないようにみえた。
 (『建設現場』の出だし P4-P5 みすず書房 2018年10月)



 引用部のはじめに、「体」も「わたし」もともに「崩壊」を感じてはいるが、「体」と「わたし」の二重化というか分離した感覚が表現されている。ここでの描写の流れを少し追ってみる。

→ わたしは想像するしかなかった。 → しかし、昨日も寝ていない。 → もう数日寝ていない。 → 正確に言うと、寝ていないことはなかった。 → 宿舎はなく、眠る時間になるとその辺に散乱している毛布にくるまった。 → 拳を枕がわりにして、それぞれ寝ていた。 → わたしも彼らの寝姿を見ながら、寝てもいいのだと知り、寝るようになった。

 前々回、この作品は、虚構という物語性の稀薄な、作者である「わたし」の切実な「心象スケッチ」と見なすべきだと思う、と書いた。昔風の言い方をすれば「私小説」的な作品だということになる。そうして、前回は、ふいと訪れてくる避けられない〈鬱的な世界〉とその時間の制圧に抗うように書いているように見える。そうして、そうした状況で〈書く〉こと自体が作者にとって、鎮静剤や「自己慰安」のようになっているのではないか、と書いた。それを受けて引用文の流れを見ると、「しかし」→「もう」→「正確に言うと」という文頭の言葉の推移は、物語世界の舞台に立った「わたし」の内面 ―それは作者の内面と対応しているように見える― を内省している言葉の表情に見える。その後の部分の「わたしはずっと働いていて、休むことができなかった。寝ているときでも汗をかいていたが、冷や汗ではなかった。それはちゃんと労働したときの汗で、それなのに体は疲れを知らず、声が聞こえてくるとすぐに起きあがった。」も、「わたし」≒「作者」の内省的、実感的なところから来る言葉のように感じられる。

 では、「わたし」≒「作者」にとって「崩壊」と「瓦礫」や「建設」とは何だろうか。物語世界からいくつか拾い出してみる。


1.「崩壊」に関わる言葉から


 崩壊ですらわたしには自然な現象に思えた。しかし瓦礫を見るかぎり、この崩壊は決して天変地異ではなかった。明らかに何者かによって意図的に行われている。崩壊はいつも別のところで起き、同じところで連続して起きることはなかった。怠惰な管理部はそのことすら理解していなかった。労働者を崩壊とはまったく関係のない場所へ派遣しつづけた。労働者たちは必死に作業を行ったが、どれも無意味だった。
 そもそもここで行われているあらゆる労働が無意味だった。だからわたしはやめた。すると突然、言葉を話せなくなり、頭の中で像を結べなくなってしまった。体は健康そのものなのに感覚を統合する力がなくなり、混乱状態に陥った。
 (『同上』 P154)



 崩壊、崩壊って言いながら、実はまだ何も起きていない。この目で見たことはなかった。アナウンスでは「今日何人が負傷、何人が死んだ」と報道されていたが、書類も誰かが適当に書いたとしか思えなかった。現場に貼り出されているものなど誰も見ていなかった。最近では人間の気配さえなくなっていた。こんなに労働者が集まって毎日働いているっていうのに不気味だった。そろそろここでの仕事も終わりにしたかった。
 (『同上』 P156-P157)


 「われわれは崩壊が起きるように建設している。崩壊は完成に向かっているという合図なんだ。崩壊しているようで、実のところは構築されている。アリの巣みたいにな」
 よくわからない?そりゃそうだ。おれ(引用者註.「ルキ」)にもさっぱりわからん。崩壊のことなら、もっと話がわかるやつがいる。ディオランドへ行く途中にある酒場にバルトレンという道化師がいただろ?あいつは何十年もこの辺で暮らしてる。いつもぼうっとしているように見えるが、実はずっと研究しているんだ。バルトレンは崩壊のことを調べるというよりも、あいつは気配を感じ取って、数値に置き換えたりしているらしい。
 (『同上』 P168)


2.「瓦礫」と「建設」に関わる言葉から


 わたしが作っているのは時計だ。この時計台だってわたしが作った。すべてこのへんに転がっている瓦礫を使って作った。長い時間をかけて少しずつ作った。この空間はもともとあるものじゃない。計画されたものでもない。わたしはまだ若かった。若くて何もわからなかった。もともとは労働者としてここで働いていた。ところがすぐ仕事をやめてしまった。理由もなく。ある日、突然やめた。やめても家に戻ることはできない。一歩踏み入れたらもう戻ることはできなくなっていた。家も何もなくなっていた。
 新しくやり方を見つけるしかなかった。もちろん簡単じゃなかった。食べることすらままならない状態で、わたしはまずこのへんの地理に詳しくなる必要があった。
 ・・・中略・・・
 これはわたしが作った言葉だ。言葉ですら一からつくりだす必要があった。この時計台は、わたしの言葉で作られている。★実際は焼け野原となんら変わらなかった。★ここにはもともと森があり、川が流れていた。地層を見たわけじゃない。★わたしはただ語っているだけで実際に見たことはない。★
 一度だけこんなことがあった。わたしは夜、瓦礫を探すためにあてもなく歩いていた。歩けば歩いただけ地図が広がっていくので、わたしは毎日、書き足していった。ところが地図は雲みたいに書いた瞬間から変形した。わたしはそんな場所で生きている。この状況を受け入れるだけで数年が経った。毎日、自分のいる場所が変わった。目を覚ますと知らない場所にいた。そのうち眠ることすらできなくなった。それでもついうとうとしてしまう。次の瞬間にはもう変わっていた。
 はじめは変化に気づけなかった。当たり前だ。立ち止まっているのに移動するなんてことを経験したことがないんだから。★わたしはずっと一本道を歩いていると思っていた。間違わないように紙に地図を描いた。地図を見ながら慎重に歩いていた。ところがあるときまったく同じ風景をみた。★それでわたしは一周したと思った。★そんなわけがなかった。一周するどころか、わたしはただ道に迷っていた。★
 (『同上』 P153-P155)


 すべて瓦礫だったとしても、何かをつくりあげることはできる。つくることをやめたらすべておしまいだ。いつまでも諦めないでやること。そうやって石を積み上げ続けているやつがいるのを知っているか?F域の中にいるって話だ。おれ(引用者註.この前の話「56」の「おれ」=「ルキ」だと思われる)は見たことがない。おれはな、自分の中から湧き上がってきているものを、ただずっと集めているだけだ。本当にただ集めているだけで、選別もなにもしない。瓦礫はそれが何かの欠片だろうが一つの惑星みたいに見えた。崩壊したあとの瓦礫は元の形を想像することすらできない。おれがやっているのは瓦礫をただ見続けること。
 (『同上』 P169)



 例えば、相手が何を話しているのかよくわからないとして、その相手の話を録音したり文章化したりして、その全体をたどっても話がよくわからないとする。ここでは、物語の全体ではなくごく一部を取り出しているが、そうした方法で作品世界に近づくほかない。引用の描写の世界は、通常の言葉の選択や連結、展開とは違っていて、意味がたどりにくい。小さい子が息せき切ってやって来てある出来事を報告する時のように話の要領を得ないと思われるかもしれない。一般化すれば、言葉が定常状態か励起状態かに拘わらず、そのような他者の言葉の理解の問題ともなり得る。ただ、物語世界の言葉が息せき切ってやって来た子どもの話のように言葉が励起状態にあるようなものだから、読者は見慣れない感じで不明感にとらわれるだろう。

 「崩壊」は何者かによる作為的ものと捉えられている。そうして、「崩壊」の正体もいつどこで起こるかもわからないから、「わたし」は強迫的に迫ってくる世界の「崩壊」にたいして受動的な存在となるほかない。そのような「わたし」は、世界の崩壊感の中、世界の方から押し寄せるイメージ流とでも言うべきもの ―実際は、「わたし」が生みだしているイメージ流のはずだが― に対して、普通の内省や気づきも現れている。(2.の★・・・★の部分)。いつどこで世界の「崩壊」が起こるかわからない、不明感と受動感の中、「わたし」≒「作者」が、病に押し流されてしまうことなく、抗いながら必死で自らを立て直そうとするのが「瓦礫」を用いた「建設」ではなかろうか。

 どこからかふいに訪れてくるように思われる〈鬱的世界〉によって励起・制御されたイメージ群が、「わたし」≒「作者」に次々に訪れてはひとつのイメージ流を成していく。〈鬱的世界〉の有り様がわたしにはわからないから、おそらくとしか言えないが、〈鬱的世界〉の繰り出すイメージ群に「わたし」≒「作者」が何度も反復して出会っている親しいイメージもあるのかもしれない。そこは読者にはよくわからない。ただ、イメージを感じ生みだしているのはあくまで「わたし」≒「作者」だとしても、「わたし」≒「作者」には〈鬱的世界〉が強迫的な気配で「崩壊」のイメージを強いてくるように感じられている。そこで「崩壊」などの正体がはっきりしないことが、「わたし」≒「作者」の受動性や〈鬱的世界〉の強迫性と対応しているように見える。

 引用の個所では、「わたし」は「崩壊」による「瓦礫」で「時計(台)」を作っている。その行為は、世界の崩壊感の中で「わたし」の生きのびようとするとする意志の表現と見ることができる。「すべて瓦礫だったとしても、何かをつくりあげることはできる。つくることをやめたらすべておしまいだ。いつまでも諦めないでやること。」という「おれ」=「ルキ」の言葉は、「わたし」≒「作者」のものでもあるはずである。そのことは、作者に戻せば「書く」ことを続けることに当たっている。しかし、その書くことも徒労感に襲われることがある。


 わたしは息をするように書き続けた。わたしがこれから何をしようとしているのかは知らないままだった。それどころか、わたしは自分のことを間違っていると思った。こんなことをしても無駄だと感じていた。「無駄なことはなにもない」と言っていた者がいたが、わたしは無駄だと思いつつ書いた。わたしには書く理由がなかった。わたしは積極的に書いているわけではない。書くこと自体は息をすることに近かった。息を止めることは苦しかった。
 わたしは目も耳も鼻もないと感じていた。体自体がなかったのかもしれない。わたしは知覚することができなかった。感覚を探す気力もなかった。食欲もなかった。わたしはすべてが嫌になっていた。それなのに、書くことを止めようともしなかった。書くことで、どうにかしようとした。しかし、それはいつも徒労に終わった。
 (『同上』 P139)



 それでも、書くことが身体活動の息をすることと同じようなものと「わたし」≒「作者」に感じられているから、〈鬱的世界〉のもたらす徒労感に抗して書いて行かざるを得ない。


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 330-333

2020年04月05日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



330
ゴミ収集ということ
がなかった
長い長い時代があった



331
同じく使われた言葉たちも
静かに
道端に横たわっていた



332
今やコミュニケーション!
消費消費消費
都市の街路を駆け巡る言葉の消費



333
夢のプラスチックも言葉たちも
消費の後は
もはや道端には眠れない