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「ネトウヨ」考 (2)

2018年03月25日 | 批評

「ネトウヨ」考 (2)



 もう一度、おさらいするようにたどり直してみる。まず、「ネトウヨ」を前回拡張して「ネット保守」以外にも適用してみた。この拡張版の「ネトウヨ」は、ネット社会やSNSがもたらした負性ということは確かなことである。つまり、従来なら自分の内心でぶつぶつつぶやくかあるいは知り合いに話すかしかなかったような、人の内面や社会の片隅にしか存在し得なかったようなものが、ネット社会やSNSによって仮想空間に引き出されてしまった。ということは、従来の親しい知り合いや小社会で話す場合なら何らかの抑制や倫理が発動するはずのものが、バーチャル空間の匿名性も加わったため自分の内心にある毒を含むような言葉をつぶやく歯止めの解除キーが容易に解除されるようになり、ネット社会やSNSによって連結された仮想空間に放出されてしまう可能性を持ってしまった。しかし、ネット空間でも生活世界での普通の対人関係のように、何らかの抑制や倫理を発動している人々もあれば、虚偽やねつ造や罵詈雑言を放ち、毒ある言葉に憑かれている人々もいる。しかし、可能性としては、対象に対する仮想的な近距離感と匿名性の下に、従来であれば個々の内心に閉じ込めていたようなことを、誰もがやすやすと放出できる可能性を手にしたことになる。

 こうした事態は、拡張版の「ネトウヨ」、すなわち、わたしたちすべてに関して到来している新しい事態である。ほんとうは、「ネトウヨ」=「ネット保守」に限定して、別の新たな概念を当てた方がいいと思うが、ここでは「ネトウヨ」的な状況が「ネトウヨ」に限定されるものではなく、わたしたちすべてがそのような可能性を持っているということで、ここでは拡張版「ネトウヨ」として論じることにする。

 わたしはケイタイやスマホを持たないのでその使用の内面をよく知らないのだけれど、人々がケイタイやスマホの利用に慣れ親しんで、マナー含めたその利用の仕方のある形をそれぞれが築き上げてきたように、ネット社会やSNSによって仮想空間(仮想社会)に結びつけられたわたしたちは、その仮想社会での仮想的な生活行動をしていく中でのある倫理のようなものをそれぞれが築き上げていかなくてはならないだろうと思う。つまり、わたしたちはネットという仮想空間に仮想的に参入しているわけであるが、その本体は生身の人間であるのだという自覚過程をたどらなくてはならない。今はまだ、残念ながらその過渡期、途上にある。そして、従来からの生活世界での人間関係における配慮や倫理などの持ち込みが一般的なのだろうと思う。しかし、その一般的な感覚は、それを無視する「ネトウヨ」的なものの氾濫にある戸惑いを感じているように思う。わたしたちは、従来からの一般的な配慮や倫理の感覚から「ネトウヨ」的なものの氾濫を潜り抜けて、現在という新たな事態に即応する、より新たになった形の配慮や倫理の形成を促されているのだろうと思われる。


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