大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

亡き長男 努力、気遣い光った「後継者」

2014-01-04 13:03:52 | 原子力関係
2014年1月4日

 東京電力福島第一原発事故が起きる前、日光猿軍団の間中敏雄校長(65)は一度だけ、軍団を辞めてしまおうかと思ったことがある。二十歳だった長男和彦さんを亡くした時だ。
 和彦さんは中学卒業後、調教師として働く道を希望。両親から「高校は出なさい」と説得され進学したが、三日で退学を決意する。「一日を一年だと思って過ごした。調教師になりたいんだ」
 校長は根負けしたが、こうも言い添えた。「分かった。それなら、今後は親子だってことを忘れないとな」
 掃除などの下働きを経て、あてがわれたのは、かつて野生だった良太と、日本モンキーセンター生まれのぜん太(いずれも雄)。校長が仕込んでいた良太は物覚えが早かったが、ぜん太は「全然芸ができないぜん太」と言われる劣等生。校長が和彦さんに与えた試練でもあった。
 「ぜん太、悔しくないのか。もういっぺん頑張るぞ」。和彦さんは大きな体を苦労して折り曲げながら、ほおをリンゴのように赤くし、深夜まで調教に励んだ。自宅を新築した時も「おれは修業中だから」と入居せず、軍団の敷地内で猿と寝起きし続けた。
 「○○さん、今日は雨が降るから傘を持っていきなよ」「荷物が二つもあるのかい。重い方を貸して」。夫妻の記憶に残る和彦さんは、いつも誰かを気遣っていた。
 ゆくゆくは校長を目指していた和彦さん。調教師になって五年ほどが過ぎた一九九五年十一月の深夜、友人を乗せて愛車を運転中、交差点で横道から来た車と接触。愛車は大破し、和彦さんだけが帰らぬ人となった。
 霊きゅう車が最後の別れに軍団の敷地を一周すると、相方だった良太が制止を振り切って車に飛び付き、離れようとしなかった。
 間中夫妻は当面の間、仕事も手に付かないほど憔悴(しょうすい)した。息子と同時に、未来の軍団を担う存在を失ったからだ。あれから十八年。校長は和彦さんの死を境に、自身の変化を肌で感じている。
 当初の芸風は、笑いをとるのが最優先だった。しかし和彦さんの死後は、親や教師に伝えたい思いを芸に盛り込むようになった。
 「おまえ、最近頑張ってるな。お父さんとお母さんがほめてたぞ」「おまえは問題児だと言われているけど、そういうところがみんなを楽しい気持ちにさせてくれてるんだよ」-。お猿の学校で校長は、わが子に語りかけるように訴える。
 公演中、落ち着きのないわが子に「ほら、お猿さんはちゃんと座っているでしょう」とたしなめる親の姿も見られるようになった。「勉強になりました」と話して帰る教師の客もいる。
 この芸も、和彦がくれたものの一つなのかもしれないな。校長は、そう思うようにしている。

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