詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2017-03-22 09:37:45 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

2017-03-21 10:51:40 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(「イリプスⅡ」、2017年02月10日発行)

 八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」は、「解説」はいらない。論理が完結している。「米軍は対中国戦争の詳細を念入りに吟味し/その結果は第三次世界大戦勃発 両(ふた)つ国民殆ど死滅との認識に至り」、それを避けるために「地域限定戦争」を研究している、と国際情勢を分析する。

中国対その周辺の国々 例えば
中国対韓国 中国対日本 中国対台湾
中国対フィリピン 中国対……
その作戦は言わずと知れた米軍得意のオフショアー・バランシング(沖合作戦)
ある敵への直接攻撃はせずに その敵を発見し
その勢力に武器 弾薬 謀略 資金を大量に肩入れし
敵と敵を沖合において闘わせ 自軍は戦場から遠く離れた穏やかな海岸で
いながらにして利益と安全を手に入れるという実に狡(うま)い作戦

 中東での戦争もすべてこれである。これがいま日本で行われようとしている。日本はそれに加担している。

徹底的に自発的対米従属国家サクラ咲く美しい日本国
アメリカという騎士に乗られてよく走る馬
鞭打たれれば打たれるほど勢いつけてよく走る馬 しかしその狡さは親分勝(まさ)り
己(おの)れは決して損しないその原則をたちまちコピー 日本式 沖合作戦をひねり出す
それは簡単 それこそ
与那国島 石垣島 宮古島 沖縄島 奄美島 旧琉球域
今はその名も南西諸島 日本ではあるが
日本ではない場所  ここを沖合と苦もなく即決
(こんなことろは戦争以外に使う価値ない)
(住民たちが死のうが生きようが そんなことは知ったことか) そしてそれを
うやうやしく米軍にたてまつる
七十年経ってもまるであの天皇のメッセージそっくりそのまま
(その腹中はどんなに他人を犠牲にしても自分だけは生き残る)

戦場は決まった
あの海域や島々でいかに激しい戦闘があっても この日本
美しい山桜咲く そのサクラの一片(ひとひら)も散らないよ 戦場から遠く離れた
なだらかな入江重なる沿岸地域 日本へは決して被害は及ばない
及ばないように戦場をひたすらあの島々へ局限する
局限するには狡智極まる奸計必要
まずこの狭い戦場にのみ中国をひっぱりだすには尖閣列島が最もいいカモ

 そこが日本であるにもかかわらず、政府は「日本」とみなしていない。「沖合」とみなしている。「沖合」を「戦場」にすることで、日本の軍需産業(アメリカの軍需産業)が儲かるようにしようとしている。
 いったん戦争がはじまれば、戦場は「局限」されないかもしれない、というのは「妄想」だ。戦場を「日本本土」や「中国本土」にまで拡大すれば収拾がつかなくなる。核兵器が「日本本土/中国本土」でつかわれてしまったら、勝敗も無意味になる。だから、戦争がはじまったとしても、中国も「日本本土」までは攻撃して来ない。戦場を「沖合」に限定し続けるだろう。
 こういう「見方」は、ある意味では「楽観的」と言われるかもしれない。しかし「楽観的」というよりは「現実的」であると私は思う。
 「楽観的」というのは、八重が言うように「抑止力と称して各離島離島にミサイル配備」をするということの方だろう。なぜなら、

それは実は敵攻撃を真正面からひき受けようと誘導集中するための巨大標的

 だからである。「抑止力とはまっ赤ないつわり」である。

 この「論理」は正しいと私は思う。
 で。
 「詩」は「論理」ではないのだが。
 ここから、少し「詩」の方に視点を動かしていく。この作品の、「どこに詩があるか」(詩はどこにあるか)。

いながらにして利益と安全を手に入れるという実に狡い作戦

それは実は敵攻撃を真正面からひき受けようと誘導集中するための巨大標的

 引用した部分の二行に「実」ということばが出てくる。「実に」「実は」。ここに、私は「詩」を感じた。「実に」「実は」はなくても「論理」は成立する。「意味」はかわらない。でも八重は、その「論理」「意味」を超える部分を書きたいのである。
 「実」は「実感」の「実」でもある。
 ここに書かれていることは、「論理」に見えるかもしれない。安倍政権への批判を「論理的」に展開しているように見えるかもしれない。たしかにそれは「論理」なのだが、「論理」であるまえに「実感」なのである。
 ここに目へを向けないといけない。
 中国が攻撃してくれば、八重の住んでいる「西南諸島」は「戦場」になる。「戦争」は規模が大きすぎて実態がわかりにくいが、「戦場」は具体的だ。「戦争」は国家と国家の戦いだが、「戦場」は国家の統治が効かない無法地帯。国家が「安全保障」しない場が「戦場」だ。「戦争」が全体としてどうなっているかはわからなくても、暮らしの場が「戦場」になれば、そこには「実感」しかない。「局限」しかない。「大局」などないのである。この「局限」が「実感」というものだろう。
 こんなふうに考えてみるのもいいかもしれない。
 尖閣諸島の周辺で漁をしているひとたち。この人たちにとって尖閣諸島が日本の領土であるか、中国の領土であるかよりも、安全に漁ができるかどうかの方が問題である。安全であると「実感」できるかどうか、が問題である。
 尖閣諸島を「国有化」し、そこに基地をつくるよりも、どこの国のものでもない状態にしておいたまま(領土問題は棚上げにしておいたまま)の方が中国から攻撃対象にされない分だけ、安全なのである。
 こういうあり方は、ある意味では「ずるい」生き方かもしれない。しかし、現実(ここにも実がある)とは、そういうものではないだろうか。
 中国は、尖閣諸島は中国の領土であると主張している。それは日本の主張と違う。しかし中国が実効支配しているわけでもない。それならば「宙づり」のままにしておけばいい。「宙ぶらりん」はいやだけれど、戦争するのはもっといや。「論理」の「正しさ」をつらぬくよりも、「あいまい」の平和がいい。そういう「実感」というものがあるはずだ。
 尖閣から遠いひとが、「実感」ではなく「論理」を振りかざす。「論理」は「実感」から遠いところで勝手に動くものなのだ。

 「実に」「実は」「実感」の「実」は「み」とも読む。「み」は「身」に通じる。「肉体」に通じる。「頭」ででっちあげる「論理」は暴走する。「肉体」は「頭」がでっちあげた「論理」のとおりには動けない。「肉体」がどう動けるか、「肉体」でできることは何なのか。そこに「実」がある。

ここは人間の住む島だ
家族がいる 子供がいる 老人がいる 仔犬がじゃれる 鳥が鳴く
団欒がある 生活がある 労働がある
ここはやさしい平和(うるま)の島だ

 ここに書かれていることは「論理」ではない。「実感」である。八重が「肉体」で確かめたことである。

八重洋一郎詩集 (現代詩人文庫)
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坂多瑩子「へいすけ」、颯木あやこ「深海の奏楽者」

2017-03-20 11:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「へいすけ」、颯木あやこ「深海の奏楽者」(「狼」30、2017年03月発行)

 坂多瑩子「へいすけ」を読みながら、「へいすけ」って誰?と思う。男? それとも猫? あるいは猫は「あたし」?

へいすけは
真っ白なハンカチで手をふきながら歩いている
へいすけは看板を見上げて腕時計を見た
それから
あたしの方に向かって歩いてきた

 これは男の描写に見える。小説なら、そうなる。
 これが、こうつづく。

へいすけとあたしが知り合ったのはそれからだ
へいすけは三人兄弟の三男で
子ネコをふくろに入れていて
会うたびに連れてきた

 あ、まだ知り合いじゃなかった? 男を見ていた。それから男と知り合いになった。まあ、あることだね。男の家族構成を知り、男の性格もわかってくる。子ネコを袋に入れて連れてくるというのは変わった男である。

子ネコはきれいなメス猫になり
へいすけのジャンパーのなかにいた
くるくる巻いたマフラーのなかにいた

 猫の描写なのだろうが。「あたし」の描写にも見える。子ネコのかわりに「きれいなメス猫」になってへいすけにべったりくっついている。あるいは「あたし」はあの猫のように男の体にべったりと身を寄せていたいと思っているのかもしれない。猫は「あたし」の願望。願望は「あたし」そのもの。

あたしはあたしで
このままというわけにはいかないぜ
へいすけの喜びそうなことならなんでもやった
ザラザラした舌でなめてあげた
爪をかくして揉み揉みしてあげた
ネズミをプレゼントしたことだってある

 「あたし」は最初から猫で人間(坂多)ではなかった。捨て猫の「あたし」を拾ってくれた。それから、いつでも、どこへでも連れて行ってくれた、ということか。あるいは、そういう猫好きの男を坂多は「描写」しているのかもしれない。

へいすけは遠い町の学校に行ってしまった

ヘイスケ
ゲンキデスカ
アタシハマフラーニクルマッテマッテイマス

 これは猫の気持ち?
 あるいは猫に託した坂多の気持ち?
 強引に「ストーリー(意味)」を結びつければ、まあ、なんとでも結びつけられるなあ。「意味」というのは、結局、あとだしじゃんけんみたいなもの。「結果(?)」など、どうでもなる。
 そんな「ストーリー」はわきにおいておいて、「へいすけ」って誰なのさ。男ではあるようだけれど、坂多の恋人? それとも息子? 猫は本物の捨て猫? それとも坂多の「比喩」? わからないぞ。
 で、わからないぞ、と不平を言いながら。
 「わからない」ということが「わかっている」。そのとき「わかっている」というのは不思議なもので、猫は猫かなあ、あるいは坂多かなあ、猫が「あたし」と言っているのかなあ、それとも坂多が猫になりたいなあと思っているのかなあ、私の「解釈」が揺れているということが「わかっている」。坂多の書いていることは「わからない」が、私自身が考えていること、感じていることが「わかる」。
 この変な擦れ違い、「誤読」の始まりが、きっと詩。詩のすべて。
 これを強引に、論理的に、意味にして、坂多の書いていることはこれだ、とテストの解答のようにしてしまうと、おもしろくない。
 ことば(詩、文学)は、作者の考えていること(思想)を正しく理解するためにあるのではない。自分が(読者が)、どう読むか、読みながら自分自身のことばをどう動かすか、そのとき何を感じるか、考えられるかということを知るためにある。
 坂多は、「解答」が出せないようなぐちゃぐちゃした問題(おばさん問題と呼ぶことにしよう)を出して読者を困らせることが得意だ。こういう詩には、「わかった」か「わからない」か「わからないぞ」と言って筆者に仕返ししよう。私の「解答(感想/批評?)、わかるかなあ」と逆に言ってしまおう。



 颯木あやこ「深海の奏楽者」も、同じような感じで私は読む。「ひかりを拒んだ少年の/しろい手を握りしめ/深海魚の書斎へ」入っていくと……。

書棚には
『音楽のたのしみ』という書物のとなりに
『音楽のよろこび』という一冊もあって
深海魚には
目のないものもあるけれど
耳はあるのだ
あるいは 耳も持たず
音楽だけ 心に巡らせている?

 「深海魚」には目がない、という「常識」から連想がはじまっている。それは「ひかりを拒んだ少年(目の見えない少年)」の「比喩」かもしれない。深海魚には目はないが、少年はどうか。「耳」がある。では、深海魚にも耳はあるか。そんなことを考えていると、「音楽」をバネにしてことばが「心」へと動いていく。耳で聞くだけでは不十分。こころで聞いてこそ、音楽は美しくなる。いいかえると、音楽を聴いてこころが美しくなる。「心」で聞く音楽が、そのとき突然わき上がる。
 さて。
 このとき、颯木は颯木なのか、あるいは深海魚になっているのか。また、そのとき「少年」はどうしているのか。颯木は、こころで音楽を聴く少年そのものになっている。書かれていることのすべてが颯木の「肉体」のなかに統合されている。この統合を整理し、ストーリー(意味)にすることは、できないことではない。けれど、そういうものを整理しても意味はない。整理し始め、ストーリー(意味)にしてしまうと、あ、いま少年は深海魚になっている、いや颯木は少年になっている、深海魚になっていると「わかった」瞬間の喜びが消えてしまう。
 「正解」は「わからない」が、何かに近づいたということが「わかる」。私(読者)自身のなかで、ことばがそれまでのことばとは違う感じで動き始めているということが「わかる」。この「驚き」を、そのまま「詩」である、と思うことにしよう。




ジャム 煮えよ
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港の人
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ケン・ローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」(★★★★★)

2017-03-19 21:22:05 | 映画
監督 ケン・ローチ 出演 デイブ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

 イギリスというと社会保障の充実した国という印象だが、社会保障を実際に「手にする」というのはなかなかたいへんだ。
 心臓病のために仕事ができなくなったダニエル・ブレイク(デイブ・ジョーンズ)と判定人(?)の、冒頭のやりとりが傑作である。手を帽子がかぶれるまで上げられるか。大便を洩らしたことがあるかないか、というような質問に答えていく。その質問で体の機能を確認し、仕事ができるかどうか判断するらしいのだが、医師が心臓に負担がかかるから仕事はだめ、と言ったことは無視される。考慮されても、いくつかある項目の一つにすぎない。従って、認定に必要な「点数」に達しない。非常に理不尽な判定である。
 で、このやりとり、さすがシェークスピアの国だけあって、理不尽なのだけれど楽しい。思わず笑ってしまう。単に怒るのではなく、ことばとして「おもしろく」怒る。余裕だなあ。笑いすぎて、何といったのか思い出せない、笑ってしまったということしか思い出せないのだけれど。
 このデイブ・ジョーンズとシングル・マザーのケイト(ヘイリー・スクワイアーズ)が出会い、助け合うという姿が描かれるのだが、一か所、はっと驚いたことがある。
 イギリスの個人主義というのは、ことばの国だけあって、その人が語らない限り、知っていても知らないことにするという「流儀」で成り立っている。ケイトは二人の子供をもっているが、その父親がだれなのか。ケイトと母親の関係は、ほんとうに仲がいいのか。あるいはデイブ・ジョーンズの妻はどういう人間だったのか。これは、すべて「当人」のことばで語られる。ことばで把握されなおされる。ことばになって、はじめて「真実」になる。
 こういうことば至上主義のような個人主義が、最後のデイブ・ジョーンズの「遺言」(社会に対するメッセージ)という形で表現される。デイブ・ジョーンズの「ことば」をヘイリー・スクワイアーズが「声」で語りなおす。そうすることで「ことば」が引き継がれていき、引き継ぎによって「真実」が残るという映画全体の構図ともなっているのだが……。
 一か所だけ、このイギリスの「個人主義」が破られている。
 ヘイリー・スクワイアーズは娘が学校でいじめられていると聞かされる。(これも、娘が自分のことば語る、というのがイギリスならでは。語らない限り、いじめは存在しないのだ。)そのいじめの原因となった靴を買うためにヘイリー・スクワイアーズは体を売る仕事を始める。デイブ・ジョーンズは、そのことを偶然知ってしまう。知ってしまったあと、なんとか彼女を助けたいと思い、彼女の仕事場へ行く。もちろんセックスをするためではないのだが。
 こういう展開はアメリカ映画なら当然だし、フランス映画でもありうる。しかしイギリス映画では珍しいと思う。少なくとも私はイギリス人らしくない行動だと思った。ヘイリー・スクワイアーズが売春をしていることは、彼女の「秘密」である。語られていない秘密、プライバシーは、他人が踏み込んではならないというのがイギリスのルールである。ほかのイギリス映画なら、デイブ・ジョーンズが封筒とメモからヘイリー・スクワイアーズが売春をしているとわかっても、直接売春宿へ押しかけるということはしないはずである。なぜ、デイブ・ジョーンズは、それを破ったのか。ケン・ローチは、なぜ、デイブ・ジョーンをそういう行動をする人間として描いたのか。
 答えは簡単である。売春が人間の尊厳を否定するからである。この答えは単純であるからこそ、見落としてしまう。デイブ・ジョーンズが問題にしているのは(あるいはケン・ローチ監督が問題にしているのは)、人間の尊厳ということである。人間の尊厳を否定するものだからこそ、プライバシーに踏み込んでしまう(個人主義のルールを破ってしまう)とわかっていても、行動してしまうのだ。自分で自分の尊厳を否定することはしてはいけない、とデイブ・ジョーンズは伝えに行く。
 ここに私はケン・ローチの「真剣」を見た。「正直」を見た。社会保障は「人間の尊厳」を守るために存在するはずなのに、それが機能していない。そのことに対する怒りをイギリスの個人主義と非常に強く関連づけて、しっかりと告発している。
 私はイギリス人ではないし、イギリス人の友人もいない。シェークスピアと、その他の小説、映画でしかイギリスを知らないが、このシーンはほんとうにびっくりした。イギリス人なら、もっとびっくりしたのではないかと思う。
 このびっくりシーン(エピソード)のほかに、美しいシーン(見どころのシーン)がいくつもある。
 私が好きなのは、金に困ったデイブ・ジョーンズが家具を売るシーン。大工道具と魚のモービルは売らない。大工道具は彼のアイデンティーだからというのはすぐにわかる。しかしモービルは最初はなぜなのかわからない。やがて彼が妻のことを語る。海のことを語る。そのときになって(そのことばによって)、あ、あれは妻のためにつくったモービルだと観客にわかる。痴呆症の妻を介護したときのことを語る、その記憶のなかで、そのことばのなかで、モービルの魚がゆっくりと動く。そういうシーンはないのだが、妻のことを語ることばを聞きながら、私のなかで魚が生きているように動く。その魚の動きを見てこころを落ち着かせる妻になった気持ちになる。
 何もかもうまく行かず(ヘイリー・スクワイアーズに人間の尊厳だけは捨てるな、ということも伝わらず)、落ち込んでしまったデイブ・ジョーンズの家にヘイリー・スクワイアーズの娘がやってくる。そして、「前に私たちを助けてくれたでしょ」と言い、続けて「今度は私たちに助けさせて」と言う。ここは、涙なしでは見られない。「助けてくれ」と言うのは、ひとは困ったときだれでも言うかもしれない。けれど「助けさせてくれ」というのは、うーん、さすがシェークスピアの国。英語で何というのかわからないが、とてもいいなあ。助けられることは「尊厳の否定」にはならない。ひとは助け合って尊厳をまもるのだというメッセージが強烈に伝わってくる。このせりふを少女に言わせたのも、とてもいい。少女に何ができるか、それは問題ではない。少女が、弱者が「助けさせて」と言うところが、強烈なのである。
 前後するが、この少女が、学校でいじめにあったことをヘイリー・スクワイアーズに語るシーンもいいなあ。「助けて」とちゃんと言えるのだ。「助けて」ときちんと言えることは強いことなのだとわかる。ストーリーを動かすためのエピソードと見えたものが、強烈な真実となって噴出してくる。こういう映画は好きだなあ。
                      (KBCシネマ2、2017年03月19日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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平林敏彦「叛旗はきょうも」

2017-03-19 15:00:06 | 詩(雑誌・同人誌)
平林敏彦「叛旗はきょうも」(「交野が原」82、2017年04月01日発行)

 平林敏彦「叛旗はきょうも」は風景にたんたんと自己を重ねていく。

おお あれに見えるは浚渫船か
世界はけだし激動のさなかにあるが
あの船は日がな一日
水の底にたまっている土砂や老廃物を
さらっては掻き出し またさらいながら
ただ一度の生涯を終えるのだ
おれっち人間もしばしば赤恥をさらし
また逆に居直ったりして
ずたずたな一生を送り
あとは野末の石の下ということになるが
それだけではいかにも釈然としない

 「浚渫船」が自己か、浚渫船に掻き出される「老廃物」が自己か。両方である。ここに「かなしみ」があるのだが、こういう書き方は「理解」できるけれど、「納得」まではしない。何か既視感がある。私は最近、「抒情詩」というものが嫌いになったのかもしれない。
 ところが。

あらためて夜霧に浮かぶ浚渫船を見遣れば
言いようもない孤影の物悲しさと
そのくせどこか骨っぽい
サムライくずれの矜恃にも似たおもむきが
そこはかとなく漂っているではないか

 ここで、あっ、ここはいいなあ、と思ってしまうのだ。「夜霧」とか「孤影」とか「物悲しい」とか、その反対(?)の「骨っぽい」とか「サムライくずれの矜恃」とか、それこそ「抒情詩」の「常套句」としか言えないことばが並んでいる。「言いようのない」という手抜きの(?)ことばもある。簡単に言いなおすと「俗っぽい」。「そこはかとなく漂っている」というのは、その一行だけ読めば傍線で消してしまいたいくらいである。でも、いいなあ、と思うのである。
 なぜだろう。
 「あらためて」という一語がそこにあるものを清めている。
 ただ見えるものを見つめて、見えるものに自己を重ねたのではない。見えるものを見えるものとしてとらえ、「あらためて」自己を重ね合わせている。その自己がすでにだれもが書いていることであっても、「あらためて」書くことによって平林になっている。「あらためて」発見した自己。それは「新しい」自己である。「新奇」なものではない。見慣れたものかもしれない。しかし、そこに「正直」がある。
 この「正直」を「然り」ということばで受け継いで、詩は、こう閉じられる。

然り 嵐もあれば風も吹く
男の旅路は険しいが
叛旗はきょうも河口の空に鳴っている

 ここも既視感があるといえば既視感がある。しかし、「然り」の一語、「正直」をしっかり肯定することばが既視感を貫いて何かを伝える。美しさを伝える。
 「正直」の発見と、その「肯定」。それが美しい。


平林敏彦詩集 (現代詩文庫)
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白島真『死水晶』

2017-03-18 10:33:38 | 詩集
白島真『死水晶』(七月堂、2017年03月07日発行)

 白島真『死水晶』には1970年代に書かれた作品から最近書かれた作品までが収録されている。2016年に書かれた「雪豹」。

机の上の青白い囲みのなかに
閉じ込められた雪豹をみる
書きかけた詩篇のなかで
原野に放たれ
都市の肉を引き裂くおまえを見たかった

 「書きかけた詩篇のなかで」という一行が白島を特徴づけている。「詩篇」は「ことば」と言い換えることができる。実際の雪豹ではなくて「ことば」の雪豹。そう指摘するだけでは不十分かもしれない。重要なのは末尾の「なかで」の「なか」である。「ことば」のなかで完結する世界、というのが白島の詩の特徴である。
 「ことば」でみる世界、「ことば」がつくりだす構築物。
 「剽窃」のなかに、こんな一行がある。

猫を抱きしめる主体は私だが、猫は私に抱きしめられたとは思っていない。

 「私」と「猫」が円環をつくる。円環をつくることで「世界」を円環のなかに限定する。「ことばの世界」は、このとき「暗喩」になる。「暗喩」であることによって現実と拮抗する。
 これは「わたし」と「もうひとつのわたし」の関係である。どちらが「現実」で、どちらが「暗喩」か。これは問いかけてもあまり意味がない。その関係自体が「円環」なのだから。「世界」をそういう風に見る、というのが白島の存在のあり方なのだから。
 「死水晶」は、そういう「わたし」のあり方を描いている。

遠くで
わたしを手招くものがある
そのとき 窓ガラスの向こうで
ひとりの死者は ゆっくりと起き上がる

無関心をよそおう横顔の
青褪めたなつかしさ
風が鳴っている
廃屋にひび割れた鏡がとり残されている

影のように覗き込む者がいる
死水晶のきらめき に憑りつかれた
もうひとつのわたしのかげ

わたしが捨てた影のため
涙はその落ちる位置をしらない
盃はいつも 毒のように呑みほされている

 一連目の「死者」は「使者」でもある。「わたし」と「もうひとつのわたし」という関係そのものが「使者」。どちらかが「使者」なのではなく「円環運動」が「使者」なのである。
 「窓ガラス」と「ひび割れた鏡」は、「わたし」と「もうひとつのわたし」と同じように互いの「暗喩」であり、(「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」には「ガラスの鋭い破片があれば/鏡はいらない」という行がある)、「使者」であり、その運動は「死水晶」へと結晶していく。
 「円環運動」による「完結」は、「入浴」では、こんな形で書かれる。

眼の重量が定まらない
つま先から風呂に入る
昼間の俺の影たちが
無数の死者と混浴している
俺が欲しもしないときに

浴槽からながめると
入口が出口になる

 「入口」「出口」は「固定化」できない。瞬間的にかわる。どちらでもある。どちらでもあらなければならない。
 しかし、こんなふうに「円環運動」の「なか」で、「世界」と交錯することはできるだろうか。どう交錯するつもりだろうか。むずかしい問題なのだが……。
  「長編詩 肉体の創世記」はランボーの「酔どれ舟」のような作品だが、そのなかにこんな行がある。

五日目に
生まれたばかりの鳥が
意味の彼方へと
羽搏いていった
その地平が僕の心象風景 <死>である
と気づいたとき
近しい死への
ふかい距離を垣間見た
ぼくという主語は消され
仮構の小舟は廃船と化した

鳥の飛跡をさらに追うため
ことばで新たな舟をつくった

 「ことばで新たな舟をつくった」は「捏造」ということである。思えば「暗喩」も捏造かもしれない。
 「死水晶」のような短い詩のなかで完結するよりも、「捏造」で増殖していく長い詩の方が、世界と交錯する可能性を増やすかもしれない。あるいは逆により完結の密度を増すことになるかもしれない。どうなるかわからないが、「捏造」の「持続」の方が、おもしろいような気がする。「持続」が70年代の「抒情」を「叙事」に変えるかもしれない。




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米田憲三「長崎さるく」

2017-03-17 10:28:17 | オフィーリア2016
米田憲三「長崎さるく」(「原型富山」173 、2017年03月12日発行)

 米田憲三の短歌は現実を描いてもどこか虚構性というか、演劇性があって、そこに私は「青春」を感じるのだが。
 「長崎さるく」は、旅そのものが一種の非日常なので、虚構・演劇性が薄れる。そこにもうひとりの米田がいる。

聞き慣れぬ「さるく」の語意を訊ぬれば気儘な散歩かと老師は応う

 さっと読んでしまう歌だが、その「さっと読める」リズムが気持ちがいい。「聞き慣れぬ」から「訊ぬれば」までが、とくに自然だ。また「語意」の濁音の強さが「訊ぬれば」の「ば」の濁音と呼応して自然に「ひと呼吸」できるところが、下の七七を呼び出すようでおもしろい。「対話」がそのまま「呼吸」として残っている。

ジャガタラ文の真贋問わず読みており時が紡ぎし物語として

 「真贋」と「物語」が向き合う。「物語」には「真」と「贋」が同居している。米田の「青春」はこの同居を好む。
 こんな具合に。

土佐訛り強き龍馬が叫ぶ声木霊して西海へ消えゆきたり

 そこに龍馬がいるわけではない。だから、その声を聞くというのは嘘(贋)。しかし、それを思うということは「真」。想像力の「真」が、そのあとの「劇」(物語)を動かしていく。
 このとき浮かび上がる「青春」が、私は好き。

白秋らが大江御堂のパアテルさん尋ね辿りし山坂これか

 この歌は、「聞き慣れぬ」と同じような自然なリズムをもっているが、倒置法の形に演劇性が残る。語順のうねりの持続。息の長さ。若い息である。
 短歌は一気に読みくだすということと関係があるのかもしれないが、このうねる息があると、肉体そのものが刺戟されるから楽しい。

 「短歌年鑑」(角川)自選作品集のなかでは、

テスト終えし少年ひとり投げつづく釣り糸怯まず弛まずに伸ぶ

反転して抗う獲物を押さえ込む少年の耳いちずに火照る

 が印象に残る。釣りをする少年を見かけた、という「描写」なのだが、単に目で見ているのではなく、米田が「少年」になって「物語」をしている。「テスト終えし」という状況説明は演劇性が強いが、「怯まず弛まずに伸ぶ」には少年の肉体がある。肉体がそのまま精神になっている。そこに「青春」がある。
 「少年の耳いちずに火照る」も客観描写ではなく、少年の肉体になっての「実感」である。


ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書)
米田 憲三
角川書店
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千人のオフィーリア(メモ35)

2017-03-16 07:38:30 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ35)

そして戻ってきた
誰かを愛していたはずだけれど、誰を愛していたのか忘れてしまった
愛したこころだけを持って戻ってきた
敗北して、疲れて、頭の中をことばでいっぱいにして。

ちょっと待って、プレイバック、プレイバックと
山口百恵は歌った、
ちょっと待って

愛したこころって、誰のこころ?
私のこころ?
愛したひとのこころ?
誰が何を言っているのか、自分の声も聞こえないくらいに
ことばが騒がしい。

覚えておいてほしい
話の核心はそれ、
それがオフィーリアの問題なのです。
愛した私のこころか、愛した人のこころか
それが問題だ
いや、そんなふうに動き回ることばが。

戻ってきた、
ベッドは焼けるように熱い、
ドアのノブは凍るように冷たい、
オフィーリアを見たら聞いてほしい。
ここで何をしているのか、と。
死ぬたびに生き返り、
果てしなさに少しずつ狂っていくのです。


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鈴木正樹『壊れる感じ』

2017-03-15 16:03:48 | 詩集
鈴木正樹『壊れる感じ』(思潮社、2017年02月25日発行)

 鈴木正樹『壊れる感じ』の感想を書くのはむずかしい。たとえば「糸」という作品。

天空へ
押し流されているのは
凧ではない

自らの 指を裂きながら
糸を 繰り出す
自らの 重みにたわみながら
糸は 伸びる

何をはらんで 凧は昇るのか?
指が
繋ぎ留める 痛み

 二連目に繰り返される「自らの」ということば。そこに差し挟まれる「裂く」という動詞。自ら傷ついていくもの。そして、その傷を「重み」「痛み」と言い換えることばの動き。ここに「抒情」がある。
 これは、しかし「見慣れた抒情」である。
 でも、「文学」をきちんと踏まえているということもできる。
 で、私は迷ってしまう。どっちに重心を置いて読めばいいのかなあ、と。その迷いが「むずかしい」ということ。

 鈴木のことばは、こういう「見慣れた抒情」になる前の、「見慣れた光景」の方が妙になまなましくて、おもしろいと思う。「本ではなくて」という詩。

会話の途切れた 一瞬
君の
かすかに戸惑うしぐさを
見るのが 好き



コップの 紅
挿絵の少女が 似ていたので
買ってしまった本

 「自ら」が生まれてくる前、というか、「自ら」にたどりつくまえの「見慣れた光景」。こっちのほうが「抒情」に整えられる前のなまなましさがある。
 「抒情」というのは「感情」のようであって、実は「理性(頭)」なのだなあ、と思ってしまう。

君は
テーブルに置いたまま
手に 取るでもなく 読むでもなく
ただ
ページを繰っている

「似ていない!」と 言うが
「似ているよ」

 「自己」と「世界」が完全に「統一」されていない。「自らの世界」になっていない。「他人」がいる。その「他人」(あるいは「もの」)がノイズのように、「透明」に整えられるのを拒んでいる。
 こういう風景の方が、なんといえばいいのか、「現実」というか「現代の詩」っぽく感じる。古い思い出の風景かもしれないが、不思議に「強さ」がある。
 そうか、「現代」は「頭」で整理されることを拒んでいる、「頭」の整理と戦っている時代なのか、と、鈴木の詩とは直接つながらないことを、鈴木の詩から感じてしまう。
 こういう印象も、鈴木の詩の感想を書きにくくしている。

 「洗う」「夕暮れに」という詩は「自ら」の強引さがない、静かな「抒情詩」である。これが鈴木のめざしている詩かどうかはよくわからないが、先に書いたふたつのことが折り合っている感じがする。「洗う」を引用する。

飛び出したまま
の 妻から
「帰る」
と 電話

台所がくさい
モーターが壊れ
濾過できない 水槽
金魚の死体 や 脂

気づいてはいたが
後でやろう 後でやろうと
数カ月が 過ぎていた

真夜中
庭に 水槽を持ち出し
洗う

モーターを買ってこようと 思う
水を もう一度
満たせてみよう と 思う

 「思う」という「動詞」の「主語」は鈴木。言い換えると「自ら」。「自ら思う」の「自ら」が省略されている。無意識になっている。その分「頭」が働いていない。「頭」で世界を統一しよう(透明にしよう、抒情にしよう)という意識が薄いので、なんだか、世界が温かい。
 「夕暮れに」の最終連にも「思う」という動詞が「思い出す」という形で動いている。

原色の トマトや キュウリの前で
もう 若くはない妻との日々が
何年目になるのか 思い出そうとしていた

 「思う」とき、きっと「頭」はわきに退いて「こころ」が動くのだろう。この動くは、あるいは「立ち止まる」であり、「動かない」に通じるかもしれないなあ。
 その「動かないこころ」のなかに入っていって、「あ、こういう時間があるなあ」と感じるということが詩を味わうということかもしれない。
 


壊れる感じ
クリエーター情報なし
思潮社
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千人のオフィーリア(メモ34)

2017-03-14 10:40:57 | オフィーリア2016
私は春の雨に恋するのが好き
イエロー、シアン、マゼンダ、ブラックの傘が
あたらしい花のように音を立てて開く

私は春の雨に恋するのが好き
ガラスを斜めに叩いて向かいの本屋を隠してしまうと
コーヒーのかおりがあたたかくなる

私は春の雨に恋するのが好き
通りすぎると空は青いシャツに着替えて
私の目を透きとおった目で満たす

私は春の雨に恋するのが好き
交差点でクラクションが世界の変化を予言する
小鳥たちの噂話をかき消して

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白井知子「春のくるぶし」、山本楡美子「途上にて」

2017-03-14 10:02:18 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「春のくるぶし」(「幻竜」2017年03月20日発行)

 白井知子「春のくるぶし」は旅の報告。「名まえは忘れてしまった 遥かな村」の一軒の家に招き入れられ、いっしょに食事をする。

--サラダをまわしてちょうだい
まだ咳はやまない
あれこれ重病の巣になってしまったらしい
--ぼくがとってあげますよ
青年がサラダを小皿にのせる
彼の首すじといったら
そこだけ初夏

 春なのに、光があたって、そこだけ「初夏」に見える。「いま」と「これから」が同居している。老女と青年も同居している。

故郷での最もうるわしい儀式
血脈の微熱のこもった皿の並ぶ食卓を みんなで囲むこと
わたしは この食堂の匂いに 専有されていた
いつのことだったかしら
赤カブのスープ じゃがいものパンケーキ
茹でた黒豆 ライ麦パン
エニシダがそえられた魚の燻製
乾いたスモモ

 この同居を、白井は「儀式」と呼んでいる。「儀式」だから「いつのこと」かは特定しなくていい。「遥かな村」と同じように、思い出すとき、「いま」「ここ」としてあらわれてくる。そういう「同居」のあり方。
 「みんな」とは人のことでもあるが、料理そのものをも指している。
 食べるひとと、食べられるものが「同居」する。
 これが後半で、こう言いなおされる。

そうなのだわ
<あちらの世><ここの世><かなたの世>の境界の在りかは
私を潜って
尽きることのない空

 <あちらの世><ここの世><かなたの世>も同居するのである。この「同居」を、白井はもっと簡単な(?)、なじみのあることばでつかみ取っている。

地続きのアルメニアとトルコの間のブドウ畑が
限りなく殖えていくような土地
畑にはいった人たちが
一緒になって 朗らかに
ブドウを摘みとっている朝みたいなもの

 「一緒になって」。この「一緒になる」は単に「ひと」を指しているのではない。「土地(畑)」も「ブドウ」も「一緒になる」。
 不思議なことなのだが。
 「朝みたいなもの」は、最初に引用した「そこだけ初夏」という感じに似ている。「そこだけ朝」と言いたくなるようなあざやかな印象で迫ってくる。「そこだけ」という「限定」が限定を超えて「永遠」になる感じ。
 「そこだけ初夏」ということばで感じたのも、この「限定」を突き破って「永遠」になる力であると、ここまで読んで、あらためて思う。



 山本楡美子「途上にて」にも白井の作品と通じるものを感じた。「イエロー/シアン/マゼンダ/ブラック」とインクの色から書き出されて、

ロンバルディア州マゼンダで生まれた
百六十歳くらい
イタリア統一の戦地
小さな町なのだろう
私の地図には載っていない
けれども
サマンサ マゼンダ
こんな名前のひとがいるような気がして-
けさ モミジが燃え
赤いパラフィン紙のように陽に映えた

 色が土地の名前に、さらにひとのなまえにかわり、モミジといったいになる。「ひとつ」になる。「ひとつ」だけれど、それぞれ別の存在。その「同居」。「いっしょに」いてその「いっしょ」が世界を新しくする。

漂う雌型
白井 知子
思潮社
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夏目美知子「歩く、歩く秋」、斎藤健一「並列」

2017-03-13 10:51:41 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「歩く、歩く秋」、斎藤健一「並列」(「乾河」2017年02月01日発行)

 夏目美知子「歩く、歩く秋」は金木犀のことを書いているのだが。

風吹く通りを歩く。脚は勝手に家に向かって動く。家へは
このまま真っ直ぐだが、道は左右あちこちで分かれている。

 ここがおもしろかった。「真っ直ぐ」はほんとうに直線かどうかわからない。家に帰るときは、何度角を曲がっても曲がったことを意識しないだろう。「勝手に」というは意識しないで、ということだろう。「真っ直ぐ」という意識しかないだろうと思う。
 言い換えると、「寄り道しないで、真っ直ぐ帰るんだよ」というときの「真っ直ぐ」が「意識の真っ直ぐ」である。
 その曲がりながらの「真っ直ぐ」に「左右に」道が分かれていく。この「左右あちこちで分かれている」も、しかし、ふつうは気にならないだろう。この気にならないことを思わず気にしてしまうところ(意識してしまうところ)に「正直」が出ていて、それが突然、次のように変わっていく。
 「寄り道しないで、真っ直ぐ帰るんだよ」とは違った(違ってしまう)真っ直ぐがあるとこに気づくのである。

晩年の父が、散髪に出掛けて、電話をして来たことがある。
「店が見つからない」慌てて迎えに行き、憔悴した父を連
れて帰る。あの時、父の中で街の地図が動いたのだろう。

 認知症が突然出てきた父、と言ってしまえばそうなのだろうが。それを「父の中で街の地図が動いた」というときの「動き」と、最初に引用した「脚は勝手に家に向かって動く」の「動く」という「動詞」の重なりが、何か刺戟的だ。
 そうなのかという思いと、そんなはずはないという思いがぶつかり、私はここで「誤読」したくなるのだ。
 父は「真っ直ぐ」に行ったはずなのである。足は勝手に理髪店へ、真っ直ぐに動いたはずなのである。通い慣れた理髪店だから、家に帰るように足は勝手に、つまりに「真っ直ぐ」に動く。どこの角を曲がるか、そういうことを意識しない。
 でも迷ってしまった。道を失ってしまった。「真っ直ぐ」が「真っ直ぐ」ではなくなってしまった。
 それを夏目は、いったん「街の地図が動いた」と書く。これはとても「理性的」は世界のとらえ方で、そういわれればそうなのだ、と納得してしまうが、どうも「道に迷ったとき」の私の「肉体」の感じとは違う。だから、これはおかしいのではないだろうか、と異議を唱えたくなるのである。
 「地図が動いた」のではなく「街が動いた」のではないのか。
 実際、このあとの夏目の描写を読むと「街が動く」という感じがしてくる。

枝分かれした道を行く。風が背中を押してくる。迷い込む
と解っていて、更に歩く。両側にも前方にも家があって、
間に果物屋や喫茶店、新聞の配達所や古い赤いポスト、歯
医者が挟まっている。

 ここが、とてもおもしろい。家があらわれてくる。果物屋があらわれ、喫茶店があらわれる。それはまるで街の底から植物が生える感じで、増殖してくる感じ。「歯医者が挟まっている」の「挟まっている」はむりやりそこに生えてきた感じ、あるいは動いてきて割り込んだ感じがする。
 足は勝手に動く。無意識に「真っ直ぐ」に動く。無意識だから、間違えるはずがない。
 間違えるのは街の方なのだ。街の方が、動かなくていいのに勝手に動いている。こんな不条理は許されていいはずがない。
 道に迷ったときの感じ、とくに認知症のひとが道に迷うというのは、こういうことなんだろうなあ。無意識が無意識でなくなる。「真っ直ぐ」が途切れる。そうすると、その目覚めた意識(途切れ目に噴出してくる意識)にあわせるように、街が動いてしまう。不意に目覚めた意識に街の方がすりよってきて、辻褄を合わせようとして、さらに整合性がとれなくなる。
 おっ、すごい、と思うのだが。

          地図は私を乗せて広がる。過ぎた日
があり、未来がある。向こうに、父が行こうとした散髪屋
が見える。角に交番。空き地もある。開墾や憧憬や苛立ち
がこびりついていて、私は引き返すことが出来ない。最後
は港に出る筈だ。左右の赤と白の灯台。歩く間、言葉は現
れては消え、消えては現れる。

 「地図」が出てきて、それが「過去」(過ぎた日)と重なる。「地図」というのは「整えられた過去(意識)」だとわかる。夏目の書きたかったことは「時間」なのだとわかるのだが。
 私は、夏目の「街」のなかで勝手に迷ってしまって、勝手に見てしまった街の方が好きなのである。あそこは魅力的だったなあ、と「誤読」したいのである。
 「真っ直ぐ」と「真っ直ぐの途切れ目」がなまなましくて、おもしろい。「真っ直ぐ」を手放さずに動いていくと、詩はもっとおもしろくなると思う。それは夏目の書きたいものとは違うかもしれないけれど。



 斎藤健一「並列」でも私は「誤読」する。

臆病な訪問。第九歩。口ごもる如く階段。夏空の中の明
るく。好奇に富んだあどけない頬。出会いがしらに突き
当たる。年わかい女の知らない。テーブルやパンの陶器。
奉公人は赤ん坊の手当をはじめる。ドアー光線。気むず
かしいのである。編んだ髪はゆたかな金色。いくらか沈
む。

 「臆病な訪問」の「主語」は誰か。だれが訪問したのか。訪問してきたのか。「好奇に富んだあどけない頬」ということばから、幼い少女(あるいは赤ん坊)が訪問してきた、と読んでみる。幼い少女(赤ん坊)だから、ひとりできたわけではないだろう。「年わかい女」は母親かもしれない。幼い少女(赤ん坊)は「テーブルやパンの陶器」に好奇心を向けている。「脈絡」を読者にまかせて、斎藤は描写を、あえて切断した形で「並列」している。
 その切断へ「気むずかしいのである」ということばが割り込む。「誰」が「気むずかしい」のだろう。幼い少女(赤ん坊)か。そうかもしれない。
 そうかもしれないと思いながら、私は、ここから「脱線」し、「誤読」する。幼い少女の「気むずかしさ」に「並列」するかたちで、斎藤自身が動いている。斎藤が気むずかしいというのではない。気むずかしさを受け止めて、それをそのまま守っている。守られて、「ゆたかな金色」の「ゆたかな」ということばが生まれてくる。
 感情の「叙述」が隠れている。並列された描写に感情の叙述が隠れながら並列している。それがとぎれとぎれを、強い力で「真っ直ぐ」にしている。

 二つの作品をつないだことにはならないかもしれないが。
 二つの作品を読みながら、何が「真っ直ぐ」につながっているか。「真っ直ぐ」がある瞬間に切断されたとき、そこに何が噴出してきて「真っ直ぐ」を整えるのか、ということを考えてみたいという気持ちになった。
 他人には「曲がって(迷って)」歩いているように見えても、ひとは「真っ直ぐ」にしか歩けない。「真っ直ぐ」なのに「曲がっている」と言われてしまう。その「無意識」(自己)と「意識」(他人)の関係を、どう言いなおすことができるか。まだ、わからない。だから、これは「感想」以前の「メモ」ということになるのだけれど。

私のオリオントラ
クリエーター情報なし
詩遊社
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千人のオフィーリア(メモ33)

2017-03-12 20:35:31 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ33)

街をぬけると街がある
鏡をのぞくと鏡がある

時間の中に時間があり
不思議のなかに不思議が生まれる

私のなかに私がいる
間違わないようにと言って、

あなたは薔薇の匂いをくれた

秘密のなかに秘密が隠れ
喜びのなかに喜びがある
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ジェフ・ニコルズ監督「ラビング 愛という名前のふたり」(★★★★)

2017-03-12 19:42:43 | 映画
ジェフ・ニコルズ監督「ラビング 愛という名前のふたり」(★★★★)

監督 ジェフ・ニコルズ 出演 ジョエル・エドガートン、ルース・ネッガ、マートン・ソーカス

 とても静かな映画である。異人種間の結婚の自由を勝ち取るまでの「法廷闘争」と思ってみていたら、法廷闘争はいつまでたっても出て来ない。これは一種の「肩すかし」だが、愛というのは法廷で勝ち取るものではないのだから、これはこれでいいのだろう。
 印象的なシーンはいくつかあるが、一番印象に残るのはジョエル・エドガートンとルース・ネッガがテレビを見ているシーン。ライフの記者がいるのだが、テレビを見ながら笑っているうちにジョエル・エドガートンがルース・ネッガにもたれかかり、やがて膝枕を借りるように身を倒す。とてもリラックスしている。愛とはリラックスできることなのである。
 ジョエル・エドガートンが弁護士に判事に言いたいことがあるかと問われ、「妻を愛している」と答えるシーンもいい。「法律」とか「権利」とは関係がない。愛する、愛さないは二人の問題であって、他人には関係がない。あんたたちは、どうせ他人。わかりはしないだろう、という感じで言い放つ。これはそのまま、二人の問題なのに、なぜ他人があれこれ「法律」で規制する必要があるのか、という批判となっている。
 妻のルース・ネッガが、闘争に身をのりだしていくのに対して、ジョエル・エドガートンの方は身を引くようにして動く。そのときの思いのすべてが、このシーンにこめられている。
 勝訴を電話で知らされてから、それをルース・ネッガがジョエル・エドガートンに告げようとするシーンもすばらしい。喜びをしっかりとかみしめている。ことばにしなくても、その充実感だけでジョエル・エドガートンにすべてが伝わる。ジョエル・エドガートンも喜びの声を上げるわけではない。
 やっと、当然のことが当然のことになった。それは当然のことだから、特に喜ぶことでもないということなのかもしれないが、この「静かさ」が、とても重い。当然のことが当然になるまでには時間がかかる。その時間を、ゆっくりと確かめている感じだ。
 ジョエル・エドガートはいつものように車の手入れをしている。そのまわりでは子供たちが遊び回っている。緑が広がる大地。何の危険もない。何をするのも自分次第。その自由がある。

 この映画の見どころは、もうひとつある。緑の美しさ。アメリカ映画の緑は、私はどうも好きになれない。なにか濁っている。ところがこの映画ではとても美しい。「フィールド・オブ・ドリーム」のような、わざと色をつけたような緑ではなく、とても自然だ。二人のくらしている町の緑が、畑が、とても美しい。途中に挟まれるワシントンDCの緑が貧弱(街灯のまわりの芝生?とか、町中の木とか)で、いつものアメリカ映画と同じ水分の足りない緑であるのと対照的である。
 ルース・ネッガがしきりに故郷の緑を恋しがり、子供たちを自然のなかで育てたいというのだが、その理由がとてもよくわかる。自然は当然と重なり合っている。
 さらに注目したのが、ジョエル・エドガートの「仕事ぶり」。左官仕事なのだが、いつも「水準器」をもっている。「水平」と「まっすぐ」を「水準器」で確かめている。そうか。仕事が「人間性」をつくるのか。そういうことを納得させる。趣味(?)で車の整備をしているのもおもしろい。いまあるものをどうやって改良していくか、どうすればよりよいものになるか、そういうことを「手仕事」としてやっている。そういう「仕事」の延長に「結婚の自由」がある。
 ふたりにとって、それは「自然」なことであり、「当然」なことだった。だから、この映画は、それを「劇的」に描くことを避けた、とも言える。
 最初に戻って。ライフのカメラマンが取材にくる。取材されている。しかし、そんなことは自分の関心外。テレビをいっしょに見て、笑って、体を寄せ合う。それは自然で当然なこと。自然と当然が、そこにはっきりと切り取られているから印象的なのだった。
 判事に訴えたいことも、自然で当然のことだけ。他人が自分たちをどう思うかは関係がない。愛しているから結婚する、一緒にいる。自然で当然のことをしているだけ、ということだろう。そこに、強さがある。
                      (KBCシネマ1、2017年03月12日)


 
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ゴーイング・サウス & 心みだれて ツインパック [DVD]
クリエーター情報なし
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
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又吉直樹「劇場」

2017-03-11 10:30:48 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「劇場」(「新潮」2017年04月号)

 又吉直樹「劇場」はストーリーと描写と哲学が交錯する。「小説」の王道である。
 私は「見かけ」のストーリーには関心がない。目次に「上京して演劇を志す永田と恋人の沙希。未来が見えないまま、嘘のない心で結ばれた二人」が、「見かけのストーリー」である。「枠組み」である。
 「見かけのストーリー」とは別に、「真のストーリー」がある。「他人」が突然登場して、世界を活気づかせる瞬間がある。それが「描写」となって全体を引き締める。たとえば、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた時、その静けさはとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。(68ページ)

アパートの中は妙に冷えていたのに、外気に触れると着ているものが膨らむ感触があった。(88ページ)

 その描写の特徴は、表面的な叙述から始まり、ことばの力を借りて反転するように深まるところにある。「静かさ」が「音」として「神経を逆なでする(うるさい)」にかわる。「冷えている」ものは「小さい」あるいは「固まる」という印象がある。たとえば、氷。それが「膨らむ」にかわる。
 ここに、ことばでしかできない運動がある。そして、その運動の「奥」に又吉の「過去(時間)」というものが噴出してきている。表面から内面へと視線を動かし続けてきた意識のあり方が見える。「劇場」というタイトルに合わせて言えば、役者で言うところの「存在感」が「手触り」として浮かび上がる。

感傷を抱えて公園に立ちよっても見下ろされるような視線を感じると、そればかりが気になって、自分がなにに悩んでいるのかわからなくなることがあった。(46ページ)

 というものもある。何かを「感じる」。あるいは「気づく」。その「感じ/気づき」にとらわれて、そこに入って行ってしまう。最初に引用した部分は、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた「のを感じた/のに気づいた」時、その静けさ「ばかりが気になって」、それははとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。

 ということである。何かを感じて(気づいて)、自分がそれまでとは違う状態に「なる」。「逆なでするようになった」「わからなくなることがあった」のなかにひっそりと動いている「なる」という動詞が、ほんとうの「ストーリー」である。「着ているものが膨らむ」には「なる」という「動詞」はないが、そのあとの「感触」ということばを手がかりにすれば「膨らんだ感じになった」という形で「なる」が隠れているといえるだろう。
 「なる」というのは、ひとが変化すること。二人が出会い、二人が変わる。それは好きになる、嫌いになる、待た好きになる、けれどどうしようもなくて別れるというような変化でなく、「内部」の変化、認識の変化を意味する。こういう描写が又吉のことばの動きを支える底力である。
 もうひとつの魅力は「哲学」。「哲学」ということばは、実際に17ページに出てくるだけれど……。また、「演劇論」や「小説論」という形でも書かれているのだが、私が「哲学」と強く感じるのは、正面切った「論」ではない部分。

 頭の中で構成され熟成され審査を受けて、結局空気に触れることのない言葉と、生まれた瞬間空気に触れる言葉がある(16ページ)

 この考察を借りて言えば、「生まれた瞬間空気に触れる言葉」、言い換えると「他人」にぶつかることばの方に「論になる前の哲学」(純粋な哲学)を感じる。

「正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(32ページ)

「主張と感情と反応が混ざって同時に出てまうねん」(33ページ)

 沙希の「人物描写」なのだが、外側からの描写ではなく、内部での変化を書こうとしている。それまでの沙希が新しい沙希に「なる」瞬間、その内部で何が起きたかを書いている。「内面」描写である。
 「描写」がそのまま「哲学」に昇華していく。

「創作ってもっと自分に近いもんちゃうんか」(85ページ)

 ということばがあるが、「自分に近い」とは「自分の内部に忠実」という意味だろう。沙希の「人物描写」が「外形」ではなく「内部の変化」としてとらえられているということは、沙希が主人公永田の「内部」になっているということでもある。沙希を自分に近づけてことばにしている。それはほとんど永田自身でもあるということになる。
 ここに「恋」が濃密に書かれている。

幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。(26ページ)

この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。( 100ページ)

 と又吉は「小説作法(小説論)」も語っている。膨大な「演劇論」も展開されている。「小説」はそういうものをすべてのみこんで動いていく。そういう「王道」の小説を又吉は書いている。それは何か、「欠点」が全部噴出して、それが輝かしいものに変わるような力業である。そういうことを指摘するひとはきっと多いだろうと思う。それはそれでおもしろいが、一回書いたら、二度目は自己模倣になる。正面切った「哲学」というか「論」は、どうしても「ひとつ」になってしまう。その「ひとつ」からはみ出し、「ひとつ」になることを拒絶している「描写」の方に、魅力を感じる。「論」を組み込むにはもっと長さと登場人物が必要だろうと思う。「論」がぶつかりあわないと、「論」が「描写」にならない。そういう意味では「大長編小説」(1000枚以上)のものを読んでみたいという欲望をそそられる。

新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社
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