詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます。

2016-07-24 23:32:07 | 詩集『改行』草稿/推敲



しばらく休みます。
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崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」(韓成禮訳)ほか

2016-07-23 10:04:48 | 詩(雑誌・同人誌)
崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」(韓成禮訳)ほか(「孔雀船」88、2016年07月15日発行)

 崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」は、前半がおもしろかった。

夕暮れまでボール遊びをしていた子供たちが
みんな家に帰り、空き地が自分だけの
空き地になったとき
捨てられたボールをくわえて
一匹の犬がぶらつきながら
出て来て遊んでいる

最初はきょろきょろしてようだったが
今や振り返りもせず一人で
空き地の主人のようにボール遊びをしている
生前にボール遊びをしたことのあった子供のように
闇の濃くなっていく空き地で犬が
汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び

 「汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる」が強い。
 子供たちが遊びまわる。土ぼこりが立つ。それが、子供たちの汗に濡れる。汗に濡れた肌に土ぼこりがからみつくというのが「現実」なのかもしれないが、あまりに子供たちが元気で素早いので、ほこりは子供の肌にくっついている暇がない。宙に舞いつづけ、子供たちが消えて空気の乱れがなくなると、ゆっくり地上に落ちてきて、かたまる。その固まった土ぼこりを掘り起こしている。いや、まるで地上に落ちて固まった土ぼこりを掘り起こすようにして、元気に犬が遊んでいる。そのとき、土埃はやっぱり、肌(犬)にはからさみつかない。あまりに犬が元気なので。
 違うかもしれない。私の想像は間違っているのかもしれないが、何か、間違いを誘う「強さ」がある。そこに書かれていることが、「正確に」これこれであるとは言えないのだけれど、「正確に」言えないからこそ、そこで起きていることが見える。
 二連目二行目の「一人」ということばもおかしい。韓国語でどう書いているかわからないが「一匹」ではなく「一人」というところが、楽しい。「犬」と「子供」が融合して、そのどちらにも見える。遊んでいる犬は子供そのものであり、遊んでいた子供は犬そのものである。
 一連目の最後の行の「出て来て遊んでいる」の「出て来て(出て来る)」という動詞も不思議だなあ。「あらわれた」ということなのだろうけれど、「出て来る」は「空気」を破って、「空気」の向う側から「出て来る(あらわれる)」感じ。「次元」が変わってしまったという感じがする。
 それが二連目二行目で「振り返りもせず」遊んでいるというもの、すごい。「出て来た」どこかを振り返られない。「いま/ここ」でありったけの力で遊んでいる。その「ありったけの力」が「いま/ここ」にあるものを、ぜんぶいっしょくたにしてしまう。区別のつかないものにしてしまう感じがする。
 また、一連目の「空き地が自分だけの/空き地になったとき」の「自分」というのは「犬」を指しているのかもしれないが、もしかすると「空き地」を指しているかもしれない。「空き地が空き地自身になる」(だれにもじゃまされず、空き地でいる)ということかもしれない。「自分自身」に「なる」ことが、同時に「自分ではない誰か(犬/子供)」への変化/変身を誘い、すべてが融合しているように感じられる。
 そういう光景を見ている、というよりも、犬になってその光景のなかで「遊んでいる」。犬が見ているものをこそ、見ているような気持ちにさせられる。
 ことばが適度に(?)、いまと過去を行き来する、往復するからかなあ。
 二連目の最後の、

汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び

 この「再び」は「再び遊んでいる」と読むのかもしれないが、三連目の一行目、

昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない

 ということばへ、一行空きを跳び越えてつながるのかもしれない。「再び呼んでくれない」ということなのかもしれない。
 この切断と接続の、はっきりしない部分が、とても刺戟的だ。

昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない
空き地でペちゃんこになった革のボールと戯れている犬は
遊びを止めることができない 空き地を守って立つ
背の高い木々だけが夢中で遊んでいるその犬を
見ている 思いのままにボールが転がらなくて虚空の
暗い影を眺める眼差しがオオカミのように光るとき

 「虚空」が出てくるあたりから、「既成の文学」になっていくようで、少し読む気をそがれるのだけれど。
 でも、ここで「オオカミ」が出てくるのは、犬が出て来たところ(前にいたところ)が「過去」とつながる世界だからだということを暗示しているようでおもしろい。子供と犬が区別がなくなり、犬とオオカミの区別がなくなる。その区別のない世界で「一心に遊ぶ」という動詞が「いま」を押し広げ、輝かせている。そのなかに、すべてがのみ込まれていくという感じが好きだなあ。



 一瀉千里「乗船」は、岡から船を見ている詩。

羽のついた 白い帽子を被った人がいる
その帽子から のぞいた髪は
レッド だった
よく見るとそれは 孔雀の羽 だった
この人が 船長のようだ

 「レッド だった」の「レッド」がはつらつとしている。ことばにリズムを与えている。レッ「ド」、「だ」った、「だ」った、よう「だ」の濁音、撥音、拗音のリズムが楽しい。「赤かった」では、このリズムは出ない。
 ことばが「意味」ではなくリズムで動いているところが、おもしろかった。

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詩集「改行」へ向けての、推敲(7)

2016-07-23 08:55:20 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(7)

(51)足首

ことばは、足首になりたかった。

ぬるみはじめた池に佇む青さぎの、水につつまれた足首。
片足で立っている、その足を交代させるとき、
水の輪が足首のまわりにひろがる。
春の光をおしのけて、輪の起伏の奥に黒い色が照る。

まだ誰も書いたことのない足首、
泥をかきたてて泳ぐ亀も、藻に腹をくすぐらせている小魚も、
青さぎをみはっている白さぎさえも気づいていない。
ことばは、その足首になりたかった。











(52)さびしい、

さびしい、ということばのなかから
そいつが逃げ出した。
昼の公園で、桜の満開の下で、
悲しい、ということばのなかからだったか、かもしれない。
男が歌いながら踊っていた。
その歌のなかからだったか
かもしれない。

深夜、犬と歩いていると、犬が
みつけてくれた。
そいつは、
公園の入り口の車止めのところにいた。
街灯に照らされて、
四角い車止めの石の
四角い黒い影になっていた。
黒いのだけれど、
透明で、
そのなかに散らばった小石がみえた。
黒いのだけれど、
不思議に光っていて、
生えている草の尖った葉先が見えた。

さびしい、ということばのなかには
帰りたくない、と言った。
そいつは、











(53)「まだ可能かもしれない

「まだ可能かもしれない」という考えが間違っている。「そう自分自身に言い聞かせることをできるだけ先のばしにした」ということばがあった。
「だれのことばなのかわからなかったが、いま、私がしているのはそのとおりのことである」ということばが列に並んでいた。
「どうすることもできない苦しみがまといついてくるが、そう感じるとき苦痛ということばは甘い怠惰のようでもあった」ということばが、どこからともなくあらわれた。










(54)感情のように、

コップのなかに飲み残しの水がある。
そのくらい色になり悲しみは完結する。
ことばは安易な一行できょうを終わろうとしたが、
テーブルの下で犬は動こうとしない。

誰からの検閲を受けることもない感情のように。










(55)遅くなってしまったが、

遅くなってしまったが、
遅れていくのも悪くはない。
枝垂れ梅の枝をつたって雨が落ちる。
地面に散らばった花びらをたたく。
花びらは木のにおいに打たれながら最後の眠りを眠りにゆく。
ことばにしたいのに、ことばにならない。











(56)窓のそばに立って、

窓のそばに立って、
ことばは木が芽吹く前の匂いをかいでいた。
光の細い輪郭が直立し、影が斜めにのび、本棚にぶつかり折れた。

詩を書くことは、
そのことばの姿勢を真似することだ。

本棚にびっしりつめこまれた活字から離れ、
近づくことを許さない。

苦悩しているという小説家がいる。
沈んでいるのだといった音楽家がいる。
一度、なげやりなスケッチに閉じ込めた画家がいた。
だが、それは全部間違っている。

詩を書くことは、
遅れてしまったことばになること。
やってこないことばになること。











(57)片隅に椅子があるが、

片隅に椅子があるが腰かけてはいけない。
それは本のなかで疲れたことばが休みにくる椅子。

だれかがページを開き指でことばをなぞったとき指の下からこぼれる
ことばが

背もたれに肩をあずけ、
窓から早春の空をわたる音楽を聴く。

ゆっくり深呼吸して
違う本の中へ帰っていく。

だれも見たものはいないが、
語り継がれている椅子が片隅にある。










(58)まるであれみたいだ、

水たまりの縁がまた凍りはじめている
狭く暗い空は水の中心から逃げようとしても押し返される

まるであれみたいだ--と言おうとして
ことばは比喩のリストをめくるが
モレスキンのノートは空白。

空っぽ。向こう側が見える鳥かご。
どこからやってきたのか悲しみが一羽、とまっている。

まるで、あれみたいだ。










(59)あれではない

何が原因か書く気にはなれないが
あれではない。
あれはほんとうのことを隠すための口実だ。

自分をごますことにのめりこんでしまって、
過剰にことばと声をつかってしまって、
ふいに静かになる。

その静かさをあつめて、
さびしい、
が突然あらわれてくる。










(60)ふたりの間に、

ふたりの間に、
「また」「あるいは」が
行き交った。
具体的なことばは
けっして届くことなく、
落ちていった。
何もわからないまま、
「そうだね」
声は疲れていた。











(61)どうしても、

「どうしても」ということばが、夢のようにしつこくあらわれてきた。「破る」ということばを遠くから引き寄せて「夢のなかで本のページを破らなければならないのに、それができない」ということばに組み立てたあと「どうしても」手に力が入らない、という。
泣きそうだった。
いいわけをしているのだった。

見たのだった。「浴室」ということばといっしょ「剃刀」ということばがさびたまま濡れていた。それは、「朱泥の剥げた」鏡の裏側へつづく長い廊下へつながり、そのなかを歩いていく男は角をまがらないまま、私のなかで消えた。それは夢の本のページを何度破っても、あたらしく印刷されて増えてくる。

それから突然電話が鳴って、何を「破った」ためのなか、電話の音は夢のなかへは戻らないのだった。

























(62)破棄された詩のための注釈(21) 

「その角」はケヤキ通りにある花屋を過ぎたところにある。左に曲がると、夏は海から風が吹いてくる。花屋では季節が顔を出し過ぎる。詩人は「ドラッグストア」と書いて時間の色を消すことを好んだ。こうした「好み」のなかに、注釈は入りたがる。(彼は男色だという説がある。)

「その角」を曲がって「物語」は海の方へ駆けて行ってしまう。これではセンチメンタルすぎる。左手の公園の坂を上り、いぬふぐりの淡い桃色を見つめた視線が遊歩道に落ちて、散らばったままだったと書き直された。しかし、「淡い桃色」が気に入らなくて、その二連目は傍線で消された。したがって、印刷された本のなかには存在しない。

三連目は突然、事実がそのまま書かれる。「その角」を曲がって、駐車場の横を通り、路地をひとつ渡り、古い市場へ歩いていく。「季節を売る店」と呼ばれる何軒かが、手書きの値札をならべている。店番はラジオのなつかしい歌に低い声を重ね合わせる。

そこで物語は消える。四連目は書かれない。しかし聞いた声は耳から消えない。「物語」を破壊し、知っている短いことばは、改行を要求する。








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岩佐なを「灰」

2016-07-22 10:07:57 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「灰」(「孔雀船」88、2016年07月15日発行)

 岩佐なを「灰」は、よくわからない。

心を通わせることの
できるものがひとつあれば
おちつく夜もある
眠りに繋ぐくすりではなく
挿花でも便座でも宙に浮く
ほこりめいたわだかまりや
たけなわのきおくでも

 この「夜」は「眠りに繋ぐ」ということばがあるから、寝る前の夜のことだ。こういうときって、寝てしまったら「夜」なのか。
 たぶん、眠ってしまったら、そこから「夜」は消えてしまうだろうなあ。

枯れた草
草の灰
静かでありたい蒲団に入ってからは
ひとりひとり想って
関わった仔細をなぞってみる

 この「なぞる」は「記憶をなぞる」という意味なのだが、違うものを「なぞる」という感じが強い。「仔細」が、とくにそう思わせる。「仔細をなぞる」とき、「肉体」が動く。「目(肉眼)」で「なぞる」にしろ、それは「接触」を含む。
 「触覚」というのは「触れる」ということ。「触れる」と、相手も反応する。

もう会えない人
まだ会えそうで会えない人
忘れかけている人からは
すでに忘れられている
たとえ大切だったとしても
想いだされないことはつらくない
と逝った飼い犬も枯れた庭木も告げてくる

 「告げてくる」が、不思議なのである。
 「肉体」が動いていたのが、いつのまにか「肉体」が消えて、「記憶/精神/心」に「告げてくる」。
 で、これが一行目の「心を通わせる」ということなのだ。
 何か、「心(精神)」というものと「肉体」というものが、途中で混ざり合い、よくわからなくなる。
 というようなことは、ほんとうは書いても書かなくてもよくて……。
 私がびっくりしたのは、三連目。

子供時分裸足でおりた庭の土
春のぬくもりは空気(上半身
地面は冷ややかだった(下半身

 このあとも詩はつづくのだけれど、詩は「ストーリー」ではないから、そこへは踏み込まずに、この三行、いや「春のぬくもりは空気(上半身/地面は冷ややかだった(下半身」にとどまって、感想を書く。
 「上半身」「下半身」の「意味」は、わかる。
 庭におりたら、空気は温かいのに地面は冷たい。あたたかいと感じるのは「上半身」、冷たい(冷ややか)と感じるのは「下半身」。
 でも、ほんとう?
 あたたかいと感じるのが「上半身」かどうか、私にはわからない。というよりも、「冷たい」と感じるのは「足の裏」。それが「下半身」と呼べるかどうか、わからない。「足の裏」というのは「局部」である。
 私は「足の裏」を「下半身」とは呼ばない。
 岩佐は「局部」を「半分(半身)」までは「拡大」できるのである。
 「四捨五入」ということばがあるが、なんといえばいいのか、岩佐には人間を「四捨五入」してながめている雰囲気があるなあ、と急に思ったのである。
 ただし、その「四捨五入」は独特である。
 ふつう「四捨五入」というのは、だいたいの見当でわりきってしまうことだが、岩佐は「割り切ってしまう」ところを、その「両端」で表現するのではなく、「真ん中」へ押し寄せるようにして表現する。
 土の冷たさを感じる「足裏」を「足裏」として「端っこ」でつかみ取るのではなく、それを「半分(下半身)」まで拡大する。「足裏」が冷たいことを、「頭が冷たい」という嘘になるから、からだの半分までは「冷たい」にしてしまう。
 こういう「越境寸前まで拡大した肉体」で、何かに触れる。何かを「なぞる」のだ。きっと。「肉体」というのは繋がっていて、「半分」に切り離したりできないから(切り離せば死んでしまうから)、この「半分/半身」という考え方は「頭」の操作といえるのだが。
 どうも、「このあたり」で岩佐の、詩は動いている。ことばは動いている。
 「越境寸前の半分」

 「越境」というのは「越境」しなくても、それを意識しただけで、すでに「越境」しているかもしれない。
 ふつうは「越境」は危ないので、「境」には近づかず、引き返す。「端っこ」で整理する。「四捨五入」して、「半分」を遠ざける。
 そういうこととは、違うんだなあ、と「ぼんやり」と感じた。

 あ、何を書いているかわからないね。
 「論理」になりきれない。
 こういうときは、「論理」にしてしまわずに、このままほうっておこう。

 ただ、ちょっと何を書いてきたのか振り返って読み直したとき、気になることがあった。私は最初に、寝てしまったら「夜」なのかなあ、という漠然とした疑問を書いたのだが、この「疑問」は、最後に書いた「半分」を先取りしていたものかもしれない。
 眠る前、寝ようとしている夜。そして眠る。そのとき「眠り」は「夜」を「二分する」。「眠る前の夜」と「寝たあとの夜」。それは「頭」ではな「二分」できるが、「肉体」にはその「二分」がよくわからない。「二分」の「境」は消えてしまう。「越境」ではなく、「境」が消えて、その結果「夜」も消える。
 はずなのだが。
 うーん、よくわからない。
 岩佐のことばは、その「越境」(境を消す)寸前のところまで動いていって、動くことで「境/夜」を残したままなのだ。
 「論理」になる(四捨五入する/何かを整理してしまう)前で、とどまっている。

 この変な感じ……いまでは、慣れてしまって、この感じが「好き」と言えるけれど、昔岩佐の詩が気持ち悪くて大嫌いだった時代があって、それはこの「変な感じ」にとまどっていたんだろうなあ。
 いまも、とまどうのだけれど。
 「半分」と「半分」がつくりだす「越境」についてことばを動かしていくと、岩佐の詩がもっと肉体に迫ってくるかもしれないと思った。
 今回は「下半身/上半身」ということばに、その「手がかり」を見た、というだけのことなのだけれど。
 しかし、まあ、次に詩を読んだとき、また違うことを考えるかもしれないけれど。
海町
岩佐 なを
思潮社
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「自民党憲法改正草案を読む」 のファイル、冊子

2016-07-21 10:42:31 | 自民党憲法改正草案を読む
ブログで書いた「自民党憲法改正草案を読む」をワード文章にまとめました。

「憲法改正論議」が始まる前に、いろんなひとの、いろんな意見を聞きたいと思ってまとめました。
「法律用語」なし、私が日常生活でつかっていることばで読んでみて、ここがおかしい、と思うことを書いています。

まとめて読んでみたい方、必要な方は、メールでお知らせください。ファイルをお送りします。(オアシス文章、縦書き40字×40行で59枚の長さです。)

冊子ご希望の方もメール(yachisyuso@gmail.com)でお知らせください。
冊子の場合、キンコーズでの製本代540円、郵送費(郵パック料金360円)と諸経費100円(印刷用紙+インク代+α)の1000円がかかります。
なお、冊子の場合は、お届けまでに時間がかかります。

なお、ブログから直接プリントアウト、あるいはコピーの配布はご自由に。


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詩集「改行」へ向けての、推敲(6)

2016-07-21 09:40:14 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(6)

(41)破棄されたの詩のための注釈(31)

テーブルの片隅に集められたのは「ぬれている」ということばと「水面の青」。「水面は正午の光で青くぬれている」ということばと、「ボートからはみだした影が水面で黒く輝く」ということばが、砕けながら入り乱れた。四月の正午、風は南から吹いた。

水に触れる手は、何を考えて模倣するのか。砕けるものを集める「感覚」ということばは「私は私を見て(あなたはあなたを見ないで)」という中途半端なことばを半ば所有し、半ば放棄している。想像力は、網膜のなかで完成することを拒否する。

そこで改行。

新しいことばの上に雨が降り、「ぬれている」ということばは水面から「青」をはがしていく。灰色の粗い粒子が現像しそこねた写真のように。「ボートの横」では、水に映った杭の色という問題が残される。











(42)甘いものが、

甘いものが、流れ出ていると指摘されて
ことばは鏡のなかの顔がやつれていたことを思い出した。
きのう、階段を下りる男のいやらしさを足の動きに託して書こうとして、
何度やってやってもうまくゆかず、

ネクタイをゆるめ、シャツのボタンを外す描写にかえ、
安直な疲労という手すりに寄り掛かってしまった。
そのあとだね、何度やってもうまくゆかず、
大事な部分をながめていると、いやな感じのものが毛穴から流れた。

甘いものが流れ出る日々がさらにつづき、
ことばの手も足も目も耳もやせほそり、
感覚の「て、に、を、は」は破壊寸前で陰毛のように震える。

助詞を酷使して論理ばかり捏造し、
うんざりして甘いものを舐めてみるが未消化のまま流れ出てしまい
最後の一行が書けない。












(43)ドアのノブに手をかけとき、

ドアのノブに手をかけたとき、
ことばの血管のなかに入り組んだ街の通りができるのを感じた。
血管のなかで欲望がざわめいた。
ドアの影にドアが、そのドアの影にまた別のドアが隠れている。
さらにその奥の壁の色をしたドアのノブに手をかけのだが、
ことばはドアを開けることができなかった。

血管のなかにできた通りの複数のドアから細い光がもれているが、
それはことばを盗み見るために這い出してきた何かなのだ。

ことばは、さらに奥のドアのノブに手をかけた。
それはことばの内部の固く閉ざした部分に通じるドアであって、
それを閉ざしたままでは嘘をつくことになる。
ことばの血管のなかにできた通りに嘘をつくことになる、
と血管のなかの本能が声を上げた。

片手で耳をふさいで、(片方の耳は開かれたまま、
長い間閉じていたドアのノブに手をかけたとき、
血管を走り回る目にはドアの向こうが見えた。
部屋の中には顔が浮かんでいて、ことばが入ってくるのをみつめている。
まわりは暗く--黒い空気をかき分けるようにして
ことばが顔に近づいていくより先に
闇を射抜いて目の強い光が近づいてくる。しかし、

その目に殺されてしまう、打ち砕かれてしまう、
という具合にどうしてならなかったのだろう。
                     何かを聞こうとした耳を、
背後でドアが閉まる音がふさいだ。
ことばは、わけのわからないまま、
両方の手でドアの内耳の形をした鍵穴を隠すのだった。
そこからことばが漏れているような気がして。










(44)ことばは椅子を、

ことばは椅子を書きたくなった。
書いてしまうと椅子は椅子ではなくなってしまう。
ことばを重ねると意味になり、
意味は象徴になる。

鉈で叩き割った木を組み合わせた椅子は質実という意味になり、
小屋の隅に置かれて孤独を象徴する。
やわらかな座面にのこる窪みは、
支えるものをなくしてかえって疲労する。










(45)うすっぺらな、

耳のまえで、
その螺旋階段の入り口で、
ことばは
喜んで階段をまわりながら降りて行った、

軽い足跡をみつけた。
そのあとをたどることは盗作だろうか、
ことばは、
どきどきして振り返った。

(だれか、気づけよ
だが、
予想どおりだれも気づかないという裏切りがあり、

うすっぺらな、
恥ずかしさは
耳のてすりのようになまあたたかい。










(46)ことばは首を傾けて

ことばは首を傾けて鳥になってみる
梢の先端に何かが降りてくる
日の光が葉の縁を銀色にかえようとしている
一瞬、めまいのような暗さが鳥をゆさぶった

そうではなかった、
鳥になったことばの細い足先をくすぐるものがある
幹のなかをとおり枝のなかを駆け上り
木をつきやぶろうとしている

なぜこんなことに気がついたのか
ことばは考えてみるが、鳥になってしまっているので
ちゅぴちゅろり、ぐっくるぼっ、ちょるりるる 

ことばは首をかしげて鳥からことばにかえろうとするが
声は晴れ渡った空に消えて
雲が透明になっている。











(47)ひとつずつ、

ひとつずつ、
ことばは川の向こうのビルでひとつずつ灯が灯るのを見て、
ひとつずつということばになってみる。
ひとつずつ、
川の上にもひとつずつ明かりが灯る。
橋の下で暗くなった水が流れてきて、
逆さまに落ちてくるビルの窓を間違えることなく、その場所で
ひとつずつ、











(48)ことばは老いてしまった、

ことばは老いてしまった、
つまらない反撃に力を使い果たしてしまった。
闘っているときは昔の力がよみがえった
気がしたが、何を言ったかおぼえていなかった。

ことばは老いてしまった、
闘うことだけで生まれてくる野蛮は消えた。
快感のない手で花に触れた、
かつて良心の制止を聞かずに毟り取った花に。

ことばは老いてしまった、
思い出せないものを思い出している間に、
わきを夜明けの風が吹き抜けてゆき、

花びらのあった場所には絶対的な休止符。
ことばは老いてしまった、
そんなものに音楽を聴いてしまうとは。












(49)うわさ

ほら、あのことばだ
異名をつかって
淫靡な詩を書いているやつもいるが
あれほどいやらしくはない

知る必要のないことを
けっして知ろうとはしない
まっすぐな姿勢のまま
行間にわりこみ

「美には限界がある」
うすい鉛筆で書き込んだきり
出てこない

まるで手稿の推敲のよう
見られていることを知っていて
余白にさえなろうとしない












(50)改行について

ことばは後ろにならぶように、
列を作るように命令されたが
さて?
いまのは、脳だったのかしら

ことばは、
いつからならんでいるのですか?
前のことばに聞いてみたが
ふりむいてもくれない

嫌われているらしい
うしろにならぶことばは
離れた場所でうろうろしている
もやもやの感情みたい

改行します、
ことばは列を離れて叫んでみた
ことばがわっと押し寄せてきた
ちくしょう、
古い行がわめいた




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新井啓子「なつのわな」

2016-07-21 08:49:03 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「なつのわな」(「something 」23、2016年06月30日発行)

 新井啓子「なつのわな」はことば遊び。

なつのわな は つなのわな
わなのつな は なわのつな
つなのなわ は なつのなわ
なわのなつ は わなのなつ

なつのわな は ななつのわ

なつのわな の わはいくつ

 後半の「なつのわな は ななつのわ」がいいね。「の」の位置がずれて、「ななつ」という思いがけないことば、しかも知っていることばがあらわれる。
 そのあと「なつのわな の わはいくつ」といままでとはまったく違っていることばがくるのだけれど「ななつ」と「いくつ」が結びついて、違和感がない。
 思わず「ななつ」と答えたくなる。
遡上
新井 啓子
思潮社
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詩集「改行」へ向けての、推敲(5)

2016-07-20 18:24:29 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(5)

(31)彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
彼は、音をたてずに歩き、階段のところにいる猫の、やわらかい毛をなでる。
彼の手は、私が、手を見つめていることを知っていた。
しかし、私の目のなかで、彼の手と猫の毛が入れ替わるのを知らなかった。
「手が手の奥の闇を探るとき、毛は手の奥の恐れを楽しんだ。」

私は、彼の言うことを聞かなかった。私とは、語られてしまった彼のことであり、
「手」と「毛」のようにシンメトリーだったと書き換えると、
「物語」ということばが廊下を走っていく。
ピアノの黒鍵のひとつをたたきつづけたときの音になって。
空は夕暮れ独特の青い色をしていた。
空のなかにある銀色がすべて消えてしまったときにできる青に。

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。












(32)ピアニッシモ

 私は遅れて入っていったのだが、「ピアニッシモ」というのは、すぐに「比喩」だとわかった。抑えた欲望という意味と、知れ渡った秘密という意味に分かれて、集まってきたひとを区別した。白い皿と果物の色を跳び越えるようにことばが行き交ったが、思っていることは語られることはなかった。意味深な目配せや、唇の端に浮かぶゆがみを、誰かが不注意に「感情」と言い換えてしまったために、突然、沈黙が広がった。
 「いまのお考えについて、どう思われます?」
 他人と同じ意見を言わないひとが問いかけてきた。私は、何度も何度も頭の中で繰り返してきたことばを言うならいまだと思ったが、夢のなかで叫ぶときのように、声がのどはりつきかすれしまった。
 「あのピアニッシモのタッチには、感情というよりは、スタイルが感じられますね。独特の衝動に負けて動いてしまうという雰囲気をだそうとしているそれを、私はむしろ意思と呼んでみたい気がします」と言いたかったのだが。











(33)椅子を持ってきてほしい、

「椅子を持ってきてほしい」と言ったのは、隣に座ってほしかったからだが理解されなかった。「隣」ということばの「近さ」の意味が反感を生んでしまったのだ。しかし、作者はそれを知らない。

思い出せるだろうか。「秋には葡萄を買った」と言った理由を。いつも通りすぎるだけの店で、古くさい紙に一房つつんでもらった。やわらかい皺が葡萄の匂いにそまった。あのときわかった。「私は、もう匂いを食べるだけで十分満足だ。」それは最後に聞いたその人の声だった。

窓から見える空には、羽の生えた雲が。

それは、ほんとうにあったことなのか。思い出したいと思っている嘘なのか。どの月日にも、そのひとはいないのに、だれも座っていない椅子を見るたびに「椅子を持ってきてほしい」ということばがやってくる。












(34)探していた

 「探していた」ということばが、「引き出しのなか」にあった。封筒からはみ出た便箋のように。折り畳まれているので何が書かれているのかわからないが、日記では「探すふりをして時間稼ぎをしていたのかもしれない」と記されている。

 「知らない」ということばが、男のように帰って来たとき、「写真」の一枚が「鏡」に映っていた。鏡の木枠と、写真立てのフレームはたしかに「似ている」。この「似ている」は動詞だが、比喩として読むべきであるという注釈は書かれなかった。

 「追いかけてはいけない」ということばがあったが、否定形のあまい誘いにのってはいけない。

 「探していた」ということばは「蝶番」ということばを開けて、錆びた金属の粉を光のなかに散らす。床に足跡が「暗い水のように」ということばになって、存在していた。あるいは「鏡のなかに」。動かないので鏡ではなく「写真だと思った」と、ことばは主張する。











(35)顔のなかに、

「顔のなかに別の顔の記憶があった」。そのことばが、開いた扉の隙間のように目を引きつけた。「何かが動いている」という文を消して、「電話がかかってきたとき、その顔が動いた」という短い情景が挿入された後、顔は「小さな部屋」という比喩になった。暗がりに錆びた非常階段があるアパートに三年間住んでいた、という「注釈」がつけられていた。

「再びあの眼が」ということばは、あとから書かれることになる「違う理由によって」おしのけられ、「壁にかかった四角い鏡」のなかにしまい込まれた。それは鏡のなかに半分入り込み、「ノートに書かれる」ことを欲したのだが、このとき「ノート」は比喩ではない。

「たいていのことは、そのように進んだ」
「たいていのことは、そのように済んだ」
「小説」「日記」に平行して書かれたこのことばは、どちら側から見たのだろうか。










(36)破棄された詩のための注釈(22) 

「明滅」ということばが、ことば自身のなかで感じるのは、明るさだろうか、暗さだろうか。坂を上ったところにある街灯は、晴れた週末に明滅する。桜は、明滅のリズムで花びらを開き、散ってゆく。

「明滅」は、吸う息を止めたときの女の輪郭の揺れに似ていたい。しずかに膨らむ胸の内側に少しくらい翳りが、吐く前の息の形であらわれるように。(「明滅」ということばをつかうまえに、作家は「日記」にそう書いている。)

しかし、その作品が書かれる前に、「明滅」は、ある詩人の「桜のはなやぎと女の暗さの対比」を批判するためにつかわれてしまった。しかし、街灯のつくる花びらの影に支えられる桜のはなやぎは、夕暮れ、女の肉体から悲しみがほのかな光のようににじむのに似ているというのは、あまりにもくどくどしい。

「明滅」ということばは、なぜ「明」が先で「滅」があとかと問われ、ことばのつながり方によって意識はつくり出されるものと知った。ことばが感情を生み出していく、というのは人間的な哲学であり、それも詩といっしょに破棄された四月の雨の日。











(37)坂と注釈 

坂の堅牢について、
その庭の楠は、となりの空き地に建てられた家からの苦情という「越境」によって、年月の断面図として半分に切られた。坂はそれを見ていたが、坂の表情である傾きは少しも変わらなかった。堅牢なものである。

坂の緩慢さについて、
のぼるとき、土踏まずはアスファルトの傾斜にゆっくりと近づくのだが、女には坂が土踏まずを押し広げながら、坂であることを主張しているように感じられる。その力は緩慢であるがゆえに、あなどれない。

坂の愉悦について、
疲れを吐き出しながらのぼる男に坂はささやく。のぼりつめる寸前に向こう側の街を見て男が勃起するのを知っている--と。それが私(坂)の愉悦である、と。

坂の絶望について、
「傾くことをやめることができない」ということばは読みかけの本で散らばり、うねっていたが、これでは「意味」になってしまうので、(以下判読不能)。










(38)「たとえば」のための注釈

「たとえば」について語ったのは鳥の顔をした男であった。「ことばにはそれぞれ性質というものがあって、私の『たとえば』は冒険好きで気まぐれだ。」つまり、「机の上の鉛筆の角度を語っていたかと思えば、たとえば次の瞬間には犬が見上げる角度になり、たとえばリードを強引に引っぱり川原へ下りてゆく。それから、たとえば土の中から目覚めたばかりの蛙をつかまえて私を驚かす。」

私の「たとえば」は鳥の顔をした男の定義から逃走しようとしたが、男は上空から蛙をつかまえる角度で急降下すると「きみの『たとえば』は非常に臆病で、いま私が語っている『たとえば』の寓話は、ことばの性質ではなくて、ことばのスピード、文体のことだろうと判断する。つまり、問題をすりかえ、鉛筆で架空の紙にメモをする。架空の紙を選ぶのは、記録として残ってはこまるからだ。どうしてそんなレトリックの中に隠れようとするのか。」

「たとえば、比喩動かすと感情は衰弱する。感情が論理にととのえられるからだ」という哲学はもう古い。「たとえば」ということばは、恐怖を切断し暴走させるときにつかうと効果的である。これは、鳥の顔をした男を拒絶した女が書き残した「例文」である。













(39)注釈のための注釈

「コップの灰色」ということばが、「絵」を呼び出し、「過去」へ入っていく。「過去」とは人間の内部のことである、という比喩をとおるので、絵の中のコップの内部に入った水がつくりだす屈折は青くなる。一方、テーブルの上に投影されたコップの内側の輪郭と、コップの左側の白い光は塗り残した紙の色である。

この注釈は詩のために書かれたものではない。塗り残しについて聞かれたセザンヌが「ふさわしい色がルーブルで見つかったら、それを剽窃してつかう」と答えた、という「注」をつけたくて、書かれたものである。したがって捏造である。(これは青いインクで余白に追記された文章である。)













(40)破棄されたの詩のための注釈

「反映」ということばがのなかにハナミズキの並木があり、そこで失われたものがある。あのときの「視線」が残っていて、やわらかな花びらから「反射」してくる。その感じを「反映している」という動詞で言い換えようとしたのだ、その日のことばは。

「非在」や「空虚」を退けながら、並木の坂が終焉するところを見ていると「失われた(過去形)」が「失われる(現在形)」になって、坂を下ってくる。こんな奇妙な「愛する」という方法(沈黙)を見つける必要があったとは……。

ハナミズキの花には、白とピンクがある。
 
「空」という文字を傍線で消すと、青い空気が青いまま降ってきて、やってきたひとの(去って行ったひとの)影になる午後。そのさびしい色のハナミズキが揺れて、私のこころの「反映」ということばにもどる。






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佐々木安美「豆でも肉片でも」

2016-07-20 09:50:48 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「豆でも肉片でも」(「生き事」(2016年夏発行)

 佐々木安美「豆でも肉片でも」の各連は、連絡があるのかないのか、はっきりとはわからない。しかし、ならべて書かれたことばを読むと、そこにどうしても「連絡(意味)」を読み取ってしまう。こういうとき、「読み取る意味(読み取られる意味)」というのは、たぶん、作者の書こうとしていることというよりも、読者が自分のなかで思い出すことがらである。

昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。血小板の減少は癌性
DICと診断され、治療法はほぼないと言われる。その中で針の穴
を通すような微妙な調整を加えた抗がん剤を使う提案があったが、
妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。

意味の折れた無数の枝

 妻ががん。治療法はなくて、治療はせずに、残された日々を家で過ごす(家族と過ごす)ということを選ぶ。このときの「主語」は何か。「昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。」という部分では、「主語」は書き手(私/佐々木)だが、「妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。」では「主語」は「妻」に変わっている。ただし、そういう「妻」を受け入れると読むと、「主語」は「私/佐々木」のままである。ここには「妻/私(佐々木)/娘」という三人の人間が出てくるが、もうひとつ「がん」という異質な「登場人物(?)」もいる。そして、それが三人を、三人にし、また「ひとり」にする。「家族」というものにする。区別は、あって、ない。
 こういうことは、がんをかかえた人間がいる家庭では、よくあることである。そして、そのとき思うのは書かれている家族(佐々木の家族)ではなく、自分の家族のことであり、そのときの自分の思ったこと、感じたことである。自分のおぼえていることを重ね合わせて、そこに書かれていることが「わかる」と感じる。
 で、一行空けて書かれた、一行。

意味の折れた無数の枝

 これは、だれが感じたことか。考えたことか。「妻」も「娘」も感じているかもしれないけれど、「私/佐々木」が感じたことなのだろう。瞬間的に共有されたイメージのようなものである。
 それは書かれている「三人」を超えて、読者にも「共有」される。
 私の父は胃がんで死んだ。父ががんで死ぬとわかったとき、私は「折れた木の枝」を見たわけではないが、この一行を読むと、見たかもしれないという気がしてくる。そして、あの折れたものは木の枝ではなく「意味」なのだと思う。思うというより、「思い出す」。そこには、父が死ぬとわかってから見た「木の枝」があるのではなく、それよりも前に見た「木の枝」があるのだと思うが、それがよみがえってきて「意味の折れた無数の枝」になる。
 だから、私が見ているのは、あくまで「私の見た木の枝」なのだが、その「木の枝」をとおして、佐々木と「感情」を「共有」していると感じてしまう。

 こういう感情の「共有」は、不思議な部分でも起きる。

オオキナツバサヲヒロゲタトリガ
タマシイノヌケタニクヲミノガサズニツカマエル
ソレカラユックリトマイアガリ
ソラヲハコバレテイクヒンシノモノ
ダラリトフツタニオレマガリ
モウモドルナ
モウモドッテクルナ

 これはカラスか何かが蛇でもくわえて飛んで行く様子だろうか。(私はカタカナ難読症で、正確にカタカナを読めないのだが。だから引用も間違えているかもしれないが。転写しながら、何を書いているかわからないのだが。)
 何だかよくわからないのだが、最後の「モウモドルナ/モウモドッテクルナ」を「もう戻るな/もう戻ってくるな」と読み、強い衝撃を受けた。
 蛇をくわえたカラスが不気味なものだから、死を感じさせるから「もう戻るな/もう戻ってくるな」と叫んだのか。それは「カラス」に言っているのか、カラスにくわえられた「蛇」に向かって言っているのか。
 そのとき、こんな言い方をしていいのかどうかよくわからないのだが……。
 佐々木は妻を「蛇」と見たのか。あるいは「カラス」とみたのか。がんで、治療法がない妻。死が運命づけられている妻。それは、瀕死の蛇のように見えるかもしれない。しかし、私は、「蛇」をくわえている「トリ(カラス)」が妻のように思えて仕方がない。
 「蛇」は「がん」。それをくわえて飛んでいく「トリ(カラス)」が妻。生きて、死そのものと闘っている。死を食べている。そんなふうに思える。
 しかし、もし「カラス」が「妻」であるなら「戻ってくるな」は矛盾する。
 いや、矛盾しないかもしれない。「蛇」をくわえて飛んでくる「カラス」に向かって「戻ってくるな」と叫ぶとき、それは同時に「蛇」に向かっても叫ぶことなのだ。対象は一瞬にして入れ替わるのだ。「カラス」に向かって言ったことは、ほんとうは「蛇」に対して言ったことなのだ。瀕死の「蛇」にむかって、「もう戻ってくるな」とと命令している。「カラス」と「蛇」は「一体」なのである。
 この不思議な「結合」(混同/矛盾)のなかに、何か強い願いのようなもの、祈りのようなものを感じる。
 あの「カラス」が「蛇(がん)」をくわえたまま空を飛び、どこかへ行ってしまえば、ここに「妻/娘/私」が残される。「カラス」はあくまで「比喩」、「蛇(がん)」も比喩。つまり「意味」。「意味」が三人から奪いさられ、「意味」に病んでいない健康な三人が「いま/ここ」に残される。

 そんなことは、書いていないか……。

 わからない。
 ただ、そう読みたい気持ちになる。「意味の折れた無数の枝」という一行で、「感情」を「共有」した。「共有」したということは、もう自分のものでもあるということ。だから、それから先は「自分の感情」として、かってに動かしていく。
 「不気味な物/いやなもの」をことばにしてほうり出す、自分から出してしまうことによって、佐々木自身が「健康」を取り戻している、「妻」も健康な肉体を取り戻している、そういう瞬間だと思って読むのである。


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詩集「改行」へ向けての、推敲(4)

2016-07-19 10:23:12 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(4)

(21)隣のことば

夜遅く帰ってきた
隣のことばが無言でものを食っている
箸を動かしたあとしつこいくらいに噛む
顎と舌を動かす唾液をまぜる
食うことを強制されたようにむりやり

と描写することばと
描写されることばのあいだ

お茶をすすり終わると
歯も磨かずに奥の部屋へずって行き布団にもぐり寝る
だらしないぬくもりがみだれることば










(22)本のなかを、

本のなかを走っている鉄道を八時間かけてたどりついた朝、
ことばはホテルのベッドに横たわっている。それから
降りはじめた雨になって窓の外側を流れてみる。
葉を落とした梢が揺れ、影が細く乱れる。
それを別なことばで言い直すのはむずかしい。
本のなかのことばは、音楽会に行くべきかどうか迷っている。
まったく希望をもっていない。
胃の手術を二度した父のように。

枕元のスタンドは黄色い光。
広げたノートの上にことばが小さな影をつくっている。
書こうとして書けないことの、あるいは鉛筆の、












(23)今ごろだったな、

今ごろだったな、きみが帰って行ったのは。

私の街では、今ごろの時間、交差点の半分はビルの影になる。
こどもの手を引いたきみが斜めの青い影から光のなかへ歩きだす。
きみの手を握ったこどもの手の甲が日差しのなかで
思い出のようにやわらかく光った。
思い出になってしまった。











(24)バスに乗っていると、

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえてくる。

ガスをつけると
レンジに青い花が咲く。

あの部屋で、
私はバスに乗って聞いた音楽を思い出す。

本棚に本が二列に並んでいる。
コーヒーが匂う。

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえる。












(25)私がことばを見たのは、

私がことばを見たのは街の皮膚が奇妙な仕方で剥がされたときだった。
コロシアムに降っていた雨が去ってしまうと
真昼の光がアスファルトに広がり、
完璧すぎるシンメトリーの鏡となった。

私がことばを見たのは何かについての嘘のなかだった。
(廃墟の墟は嘘に似ている)
めまいのなかで時間が石の形にもどる。
視線は失ったものを無関心に変換しながら四方に飛び散る。

私がことばを見たのは裏切りたいという期待を思い出したときと
裏切られる愉悦が甦ったときだった。
さかさまの虚像の鏡像はまっすぐな実像であり、
反重力の視線で対極の空を見下ろす。

私がことばを見たのは、ことばが私を見なかったときだ。












(26)あるいは、そうではない

あるいは、そうではないという仮定があって、その仮定はそうではないと主張した瞬間にはまだ反論のための具体的な事実をつかんでいない。何かを探しあてるための時間稼ぎのために、そうではないというのだが、

あるいはそうではないという仮定には実体はなくて、「あるいは」という接続詞にこそ、それまでのことばとは違うものになりたいという論理の欲望、深層の動機のようなものがあるのかもしれないし、

あるいはそうではないという仮定と、あるいはそうかもしれないと肯定して始める対話は正反対のようであっても、どこかへ行こうとする動きの共通項がある。いずれも、結論にたどり着けず、虚無が広がるという共通項も。

あるいはそうではないという仮定を立てることはいつでも可能なので、ことばは、どこまで今のことばを動かしていけばいいのかわからない。このことばは結論を用意する仮定ではないのかもしれないとことばは疑うのだった。











(27)部屋に入っていくと、

部屋に入っていくと、
押したり、つついたり、たたいたり、ことばをいじめていたことばたちが散らばって、
いじめられていたことばさえ、逃げていくことばのなかに隠れ
何もなかったように整列しはじめた。

(私とは絶対に接続しないと申し合わせているようだった)

見渡すと、ことばたちはひとつひとつ沈黙を机の上にならべていた。
新学期の教室のように磨かれた窓から光が差してきて、
足元にころがった「て、に、を、は」に影をつくった。
「の」も「しかし」も「そして」も「あるいは」も、
酷使されつづけくたびれはてた「も」も、

机の上にはノートと鉛筆と消しゴムがあったが、
どんな「物語」もなかった。
こんな辻褄があわないことがあっていいのか--ことば声を出そうとするが
のどは放課後の廊下のように遠ざかっていく。











(28)詩ではなく、

ことばはほかのことばと同じように休んでいた。
川のない街ではことばは歩道橋に集まってきて休む。
ビルの窓が四角い明かりを放出しビルの壁は夜よりも暗くなるが
まだ働いていることばの顔がここからは見える。

鳩をつがいにするために二羽を暗くて狭い箱の中に閉じ込める
最初はけんかをしているが一晩たつと落ち着く
ことばも狭い部屋に閉じ込められて強制的に見知らぬことばと交接させられる。
みんなの見ている前で頭の天辺を毟られて、写真までとられて。

ことばはその色っぽい敗北とかなしい勝利を何度経験したことか。
忘れてはならない屈辱があったはずだが
忘れてはならないということ以外は忘れてしまった。
ほかのことばのなかで意味になってしまったのだろう。

ことばはほかのことばと同じように意味に感染してしまった。
意味にかわってしまわないことばなど存在しない--と言われているが。
だからこうやってあてもなくほかのことばと同じように休むのだ。
もう少しすれば星の出る前の空の色のようにため息をつける。











(29)十一月の雨/雨女異聞

十一月の雨がなだらかな下り坂の電柱の脇でうずくまっていた。
鎖骨を折ってうめいていた。
鎖骨というのは肩のことろにある骨で、
痩せたひとだと鎖骨がつくるくぼみに雨をためることができる。
私は一瞬、その雨を背の高い女だと勘違いして声をかけた。
雨女は勘違いのなかで、
振り向いた顔をさらに反対に動かして、水色のパイプを視線で指し、事実になった。
法面をコンクリートのブロックがおおっていて、
そのブロックで塞き止められた水を逃がすパイプがある。
パイプから落ちてきた水が雨の鎖骨のくぼみにたまって、
雨はバランスをくずして倒れたのだという。

水がそんなに危険なものだとは一度も聞いたことがない。
だいたい排水パイプから落ちてくる水も同じ雨である。
同じものから生まれたものが、同じものを襲うということはあるのか。
詰問するつもりはなかったが、雨女は息を詰めたたまま
痛くて痛くてたまらないということばになりたがった。











(30)迷う/異聞

 「迷う」ということばは、その坂道にやってきた。作者が見つからないので、花屋の前でぶらぶらしている時間に道をたずねた。時間となりでは、好奇心が無関係な方向を向いきながら、耳をとがらせていた。それは「迷う」がおぼえている風景に似ていた。記憶のなかで、「顔色をうかがった」「女におぼれる」という路地があらわれてくる。店の奥では囁きが口の形になって小さく動いた。どれも経験した「感情」のように思えた。「迷う」は、そのことを悟られないようにゆっくりと、ていねいにお礼を言って、角を曲がった。
 坂を上り詰めると、日が暮れた。近くのビルの窓は離ればなれに孤立していたが、遠くの明かりが密集してしだいに濃くなるのがわかった。窓にガラスをはめるように、内と外を分け、わかる人にだけはわかるわかるような「動詞」として書き直してほしいという思いがあふれ、「迷う」は悲しくなった。


















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冨岡悦子『ベルリン詩篇』

2016-07-19 09:49:56 | 詩集
冨岡悦子『ベルリン詩篇』(思潮社、2016年06月25日発行)

 冨岡悦子『ベルリン詩篇』を読みはじめてすぐに、そのことばに余分なもの、あまいものがないことに気づかされる。そこに書かれていることばが、そのことばでしかない、という印象である。その「強さ」が冨岡の詩の特徴(長所)なのだと思う。

スチール・グレイの空を
一羽の鳥がよこぎる
肩甲骨をこわばらせて
コンクリート製立方体の
群れのなかへ
体を入れる                         (「体を入れる」)

 「一羽の鳥」は「一羽」であり「鳥」である。「鳩」や「むくどり」「すずめ」ではない。何かが、「一羽の鳥」を固有名詞にすることを拒んでいる。「コンクリート製立方体の/群れ」にも名前があるのだが、簡単に「名前/名称」になることを拒んでいる。あらかじめ存在する「名称/名前」を取り払って、冨岡は「体」ひとつで「世界」へ入っていこうとしている。そういう「決意」のようなものを感じる。こういう部分は、とても好き。
 そのあと、途中を省くが、

想起せよ
そして 記憶せよ
こころに刻み込め

 という強いことばがある。「想起(する)/記憶(する)/こころに刻み込む」は、ことばが違うが「同じこと」を言っている。それは分離できない。だから三行がまとまってそこに存在するのだが、この「補足/注釈」を排除した強いことばの結びつきが冨岡のことばの力である、と「わかる」。
 「わかる」と書いて、しかし、私はとまどう。
 私は、こういうことばが苦手だ。「わかる」と書いたが、わかったふりをしているだけで、おちつかない。

 こういうことを書くと、かつて田中庸介に叱られたことを思い出す。あるノーベル賞作家(だったかな?)の翻訳者の詩集に感想を書いたとき、私は田中から、私の読み方は「反知性主義だ、そういう読み方は古い」というようなことを言われたのである。
 簡単に言い直すと、そこに書かれていること/ものには「事実」があり、その「事実」を踏まえて、テキストを読まないといけない。テキストを読むときは、そのことばが動いているときの「事実」を知らないと、間違った感想になる、ということ。
 私は、そこに書かれていることばだけが「事実」だと思うので、さて、どうしたものかなあ……。
 
脱線したが、この詩の省略した部分に、

ヨーロッパの
抹殺された
ユダヤ人のための
記念碑を

 という行がある。これは先に出てきた「コンクリート製の/群れ」を言い直したもの。
 これを読むと、あるいはこういう書き方を読むと、冨岡は、まず「コンクリート製」という「もの」に直に触れて、それからそれを「事実」によってとらえなおす人間なのだとわかる。
 こういう「ことば」の動きは、私は好きなのだが、その動きがあまりにも簡潔すぎて、あるいは鍛えられすぎていて、落ち着かなくなる。
 ことばが理性を通ってから出てくる、という印象が強すぎる。
 だれのことばも理性を通らないとことばにならないかもしれないが、理性のあり方が強い。

想起せよ
そして 記憶せよ
こころに刻み込め

 この三行。まず「想起(する)」という動詞で始まるのだけれど、「肉体」のどの部分をつかって「想起する」のか、ということが「わからない」。「想起せよ」と言っていることは「わかる」が、それは「意味」が「わかる」ことであって、「肉体」の「動き」に共感して「わかる」というのとは違う。
 私は「こころ」というものがあるとは信じていないので(つまり、それが「肉体」のどこを指しているのかわからないので)、こんなことを言うと「矛盾/でたらめ」になってしまうかもしれないが、「こころに刻み込め」の「刻み込む」には、何かを刻み込んだときの「肉体」の「記憶」がよみがえるから、納得できるものがある。手を使って(小刀とか、彫刻刀もつかって)、ある形を何かに刻み込む。それは傷をつけること。その傷は、いつまでも残る。消すためには、さらにそれをけずることが必要になるが、こんどはそのけずったあとが残る。それは力仕事であり、そういうことをした記憶は「手」や「目」に残る。そのとき「こころ」とは「手」や「目」のことである。
 というふうに、私は、なんでもかんでも「肉体」にしないことには、納得できない人間なので、冨岡の詩を読んで最初に感じる「わかる」に対して、自分自身で警戒してしまう。

 あ、なかなか感想が進んでいかないが……。

 理性を通ってから出てくることば、理性のあり方が強いことば、ということについて思っていることを書くと。
 たとえば「名を蹴ってください」という作品。

風が疼いている
アレクサンダー広場から
カール・マルクス大通りを
地下鉄四駅分を
鞄を斜めにかけて
歩いている

 「地下鉄四駅分を/鞄を斜めにかけて/歩いている」には具体的な「肉体」があってとてもよくわかるのだが、その前の「アレクサンダー広場から/カール・マルクス大通りを」には「地名」があるだけで、私には「広場」「大通り」が見えてこない。その土地を知らないからだといえばそれままでだが……。(「それを知ってから感想を書きなさい」というのが田中庸介の指摘だと思うが。)
 しかし知らない街、架空の街でも(物語の街でも)、その「場所」を「肉体」で感じることがある。ことばに「肉体」があって、それが「広場」や「大通り」を「呼吸している」感じが伝わってくることがある。
 「地下鉄四駅分を/鞄を斜めにかけて/歩いている」から、それをつかみとらなければならないのかもしれないが、そこに書かれている「肉体」よりも「理性/知性」の方が強くて、鋭い感じがして、私は、どうしても田中庸介に叱られたことを思い出してしまうなあ。
 冨岡が書こうとしていることに反しているかもしれないが(私が完全に読み違えているのだろうけれど……。)

我を忘れるための道を
風が疼いている
かつての名をスターリン通り
連帯のため
繁栄発展のため
未来世代のために
人間を通路にする名
我を忘れさせる名
名を蹴ってください
名を蹴って
擂鉢の斜面の底に
落としてください

 を読むと、冨岡が蹴ればいいじゃないか、蹴り落とせばいいじゃないか、蹴飛ばしながら歩けばいいじゃないか、と思ってしまう。
 そのことばを発するとき、冨岡の「肉体」、その「足」は何をしているのだろうか、と不思議な気がする(理性のことばには、時々、こういう、無知な人間にはわからない行が出てくる。)。
 こういう奇妙な部分をはさみながらことばは動いていく。そして最後に、

歩道の綻びを破って
トネリコの木が伸び盛ります
最上階の窓より
もっと高く
生い茂る枝が
槍のように尖っています
トネリコの裸木は
疼く風に
さらされて
冬芽を黒く
凝固させています

 この十一行は好きだなあ。「トネリコ」という具体的な木が「伸び盛り」、さらに「最上階の窓より/もっと高く」と具体的に書かれるとき、それは「木」でありながら「街」を含む。「情景」になる。「冬芽を黒く/凝固させています」は木の描写でありながら、「木」を超えて「街」の「情景」にもなるし、なによりも冨岡の「肉体」そのものになる。トネリコを書くことで、冨岡はトネリコになっている。
 その感じが好きだなあ。

 「カフカを着る人」も最後がとて好き。

言葉に敬意をささげた人は
闘いの方法を
全身で示していた
言葉は所有できません
言葉が在ることに敬意をはらうだけです
空席になった椅子に
私は近づくことができない

 「抽象的/理念的」なのだが、最後の「私は近づくことができない」によって、それが「肉体」そのものになっている。近づきたいのに近づけない、そのときの「肉体」の記憶がよみがえる。「肉体」がそのときの哀しみを思い出す。

 私の感想よりは、「理性派」のひとの批評の方が、冨岡の詩を読むときの参考になるだろうなあ、きっと。

ベルリン詩篇
冨岡 悦子
思潮社
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田島安江「野菜の声」

2016-07-18 12:05:03 | 現代詩講座
田島安江「野菜の声」(現代詩講座、2016年07月14日)

野菜の声   田島安江

気がふさぐ日は
夜半にありったけの野菜を刻む
野菜の切り口から漂ってくるさまざまな匂い
日向の匂い
雨の匂い
虫たちの亡骸が放つ匂い
家畜たちの排せつ物の匂い
蟻たちが放つ蟻酸の匂い
それら雑多な匂いが台所に充満する
すべての野菜を刻み終わるとほっとして
みじかい眠りに就く

朝起きたわたしはパニックになる
たくさんのボウルと鍋に
ぎっしり詰め込まれた野菜は萎れ
もうわずかに
腐敗がはじまっている
野菜は刻まれたときからすぐに腐敗が始まる
そんなことさえ忘れていたのだ
慌てて鍋に湯を沸かし
野菜をくぐらせる
かならず50度
すると
野菜がシャキッとたちあがる
萎れた野菜のどこにそんなちからが残っているのだろう

野菜たちが声を発しはじめる
野菜たちの声が台所に満ちる
わたしは目を閉じ
そっと野菜たちの声を聴く
聴きながら
野菜の心について考える
野菜に心なんかあるものか
そんな声を聴き流しつつ
わたしは朝の台所でシャキッとなった野菜を食べる
わたしのなかで野菜が生き始めたから
わたしはやっと
今日も生きられる

 田島安江「野菜の声」にも、魅力的な一行がある。一行というよりも「一語」かもしれない。タイトルにもなっているが、三連目の「野菜たちが声を発しはじめる」がおもしろい。特に、「声」が詩を凝縮させている。

 受講者は、この作品をどう読むだろう。

<受講者1>匂いがいっぱい。
      「日向の匂い/雨の匂い」はわかるが「虫たち……」は思い出せない。
      野菜に吸収されている匂いから「異界」は入っている。
      現実と異界の接点を感じる。
      「野菜は刻まれたときからすぐに腐敗が始まる」はほんとうだろうか。
      「虫たちの亡骸が放つ匂い」の「匂い」の方が「腐敗」なのでは。
田   島 一般的に「腐敗」というかどうかわからないが。
      「50度」が正しいのか「60度」が正しいのかも、諸説あるが。
<受講者2>野菜のいろいろいな様子が見えてくる。
      「虫たち……」の三行が想像できない。
      野菜を刻むということが「いきる」につながっていく。
      「生きる」というのは大事なこと。それをきちんと書いている。
      そこに骨格のしっかりしたものを感じる。
<受講者1>最後の三行がわからない。
      野菜が死んで(食べられて)、人間が生きるのでないか。
<受講者3>身近なことを書きながら身近じゃない。
      野菜を刻み、匂いを感じたことがない。
      作者はエスパーというのか、感覚が鋭い。超能力があるのでは。
      三連目の「野菜の心」の二行が生きていて、強い。
      心が異界と「シンクロ」している。
<受講者4>こんなふうに考えたことがない。
      一連目がいい。三連目は理屈っぽい。
      身近な題材から、こんなことまで書けるのがすばらしい。

 一連目の「虫たちの亡骸が放つ匂い」から始まる三行は、たしかに、あまりはっきりとは意識しない匂いかもしれない。しかし、そういうひとがあまり語らないものを、ことばの力でひとつひとつ明確にしていくのが文学の仕事だと思う。(ときには感じていないこともことばで暴走させて書いてみる。ことばの動きたいままに動かしてみる。ことばにすることによって生まれてくる感覚、感情というものがある。さらには「認識」さえ、ことばが誘導して生み出すということもある。)
 不明確なものを、明確なことばにすることを、はやりのことばは「分節」というと思うが、ここでは野菜と向き合ったときに始まる世界を「分節」していると言える。
 そうやって始まる世界は、日常とは違っている。だから、それを「異界」ととらえることもできるが、新しく「分節」された世界、田島のことばによって生み出された新しい世界と思えばいいのではないだろうか。
 どんなことも、書かれたことばにしたがって、「世界」になっていく。ことばが「世界」を生み出していく。野菜を刻むというのは「台所の日常」かもしれないが、そのときどんな「匂い」が動いているかを中心に見ていくと、それだけで世界が違って見えてくる。

 で。
 私が詩を読んで最初に感じた部分に戻るのだが……。
 受講者は「匂い」の強さにひっぱられて「聴覚」が少し置いてきぼりになっていると、私には感じられた。
 そこで、いつものように「意地悪な質問」。

<質  問>「野菜たちが声を発しはじめる」の「声」を、ほかのことばで言い直す。
      「声」とはなんだろう。詩のなかで、ほかのことばで語られていないか。
<受講者1>「腐敗」「匂い」かなあ。
<受講者2>シャキシャキ、「シャキッと立ち上がるのシャキッ」かなあ。
<受講者3>「腐敗」を含む「匂い」。
<受講者1>自分の声、野菜と自分が対話している声。

 私の印象は、<受講者2>の感じ方に近い。
 二連目の最終行「萎れた野菜のどこにそんなちからが残っているのだろう」の「力」が「声」に通じる。

田   島 野菜が畑で聞いた声を書いた。聞いた声を、台所で発している。

 そういう「解説」があったのだけれど、それはそれとして。
 私は作者の思いを無視して読むのが好きなので、つまり「誤読」を楽しみたいので、私の感じたことを書きつづけると……。

 野菜たちが、野菜のなかに残っている力を発しはじめる。(力を発揮しはじめる)

 というふうに読んだ。
 野菜のなかに残っている力とは、刻まれて、萎れていたのに、それが50度の湯のなかでシャキッと立ち上がる、その立ち上がる力、シャキッとする力のことである。
 そのシャキッと立ち上がる力を食べることで、田島自身の「肉体」のなかにシャキッと立ち上がる力が生まれる。野菜を食べながら、野菜の一体化する。
 この「シャキッと立ち上がる力」を、田島は「心」と読んでいるのだと思う。
 野菜に「心」はない。しかし、「シャキッと立ち上がる力(意思)」を「心」と読んでみてもいいのではないだろうか。
 この「シャキッと立ち上がる意思(力)」というのは、野菜が自分だけでつかみとったものではない。そこには「日向の匂い/雨の匂い/虫たちの亡骸が放つ匂い/家畜たちの排せつ物の匂い/蟻たちが放つ蟻酸の匂い」も含まれている。生きているものたちの、さまざまな「力」が反映している。
 そんなふうに感じた。
 野菜を食べるということは、生きている(生きていた)ものたちの「いのちの力」を食べること、そこから「力」をもらって生きること--と書いてしまうと、すこし理屈っぽくなりすぎるが。

 少し振り返るようにして、「逆向き」に見ていくと。
 「野菜の声」の「声」は不思議な表現。私は野菜の「声」を聞いたことがない。だれも「野菜が声を出している」とは言わない。そのだれも言わなかったものを田島は書いている。
 だれも言わない、流通言語にはなっていない、つまり独特のことば(詩)であるから、それはどこかで必ず言い直されている、と私は考える。ひとはだれでも言いたいことを何度も言い直すものである。
 で、その言い直しはどこにあるか。
 私は、それを「ちから」という抽象的なことばに感じた。「ちから」の前には「シャキッとたちあがる」という「動詞」がある。「ちから=たちあがる」という結びつきがある。この結びつきは、自分自身の「肉体」で確かめる(思い出す)ことができる。「たちあがる」には「ちから」がいる。「ちから」を入れるとき、「声」も出る。「よいしょっ」とか、なんでもない、ほとんど無意味なものだけれど。
 そして、その「ちから」は「意思」と読み直すと、その「意思」が「心」に通じる。

 詩のなかに、ぐいと私をひっぱることば(一行)がある。それに出合ったとき、そのことばを詩のなかのほかのことばと結びつけてみる。どんなふうに言い直されているか、読み直してみる。その読み直しは「誤読」ということでもなるのだが、「誤読する/読み直す」とことばが自分のものとして動きはじめる。
 こういう瞬間が好きで、私は詩を読んでいる。
詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

2016-07-17 22:44:25 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

(11)あの部屋の、

本のなかの男に電話をかけたことがある。
呼び出し音がつづくばかりだった。
本のなかの、あの部屋は空っぽで足跡の形で床がところどころ光っている。
光っていなところは乾いたほこりだ。
たったひとつ残されている所有物、電話の音は
「テーブルや使い慣れた食器があったときよりも大きく鳴り響いた」

電話を切ると耳のなかが暗くなる。
本のなかの、あの部屋は夏になる前の光の頼もしさに満ちているのに。











(12)私は黙って聞いている、

私は黙って聞いている、あなたの沈黙を。
本のページをめくり、行をたどる指がとまる。
前のページにもどり首を少し傾ける。
ほほがかすかに色づいてふくらみ、
瞳の明るい色が反射する。
あなたの体のなかの、息を吸い息を吐く音楽。
私がそれを聞いたことをあなたは知らない。
私は黙っている。











(13)消えた

テーブルが消えた
部屋は、一辺の長さが正確になった

あざみの野を越えて
真っ直ぐなひかりが窓から入ってきて
鏡のあった場所のやわらかさにとまどった

舞い上がろうとするほこりの粒粒
ひとの形になろうとするのか

夕方になれば、
星がふたつみっつ散らばって消える











(14)背徳と倦怠

背徳と倦怠がよりそって
ひらがなに満ちた感情をくすぶらせている小説を読んでいたら
ことばが逃げ出した
足裏のしろいくぼみを強調する形で親指が内側にまげられ
無感覚になるかかとと脱力するふくらはぎのあいだ
女の足首のカーブを描写していたことばが

いったい足首のどこに懸想していたのか
どんな意味を内部に隠していたのか今となってはわからない
取り残されたことばたちは
逃亡の夢を嫉妬のように育てはじめる

それにしても逃走したことばの残した断面の、なんと乱反射することよ
磨き上げられた鏡か、神話の中に咲く花のよう。
あやしくつややかな それが怠惰だと
逃げ出したことば以外のことばは気づいていなかった










(15)忘れてしまった

隠し通すためにさらに話さなければならないと思ってドアを開けたのだが、
隠さなければならないという気持ちだけが残っていて、
ほかはすべて忘れてしまった。
女が椅子とテーブルを動かして鏡に映らないようにしているのが見えた。
そんなことはもちろん言ってはいけない。

何かに気がついてしまったということを悟られることと、
気がつくということが伝染してしまう。
ので、後ろ手で閉めたドアの隙間から私は私を逃がす。
のだが、逃げていく私は逃げる寸前に私の背中を見る癖があり、
そのときの目を私は鏡のなかに見る。
そういうことはしばしば起きたので、
鏡のなかでは何もかもがわかってしまっているかもしれない。

わかったからといって得になるものじゃない、と
のどの奥でかすれた声が動いている、
頸動脈をとおって耳の内部をくすぐっている、

私がことばを逃がしてしまって、
私がことばにつかまるのだ。










(16)思い出すだろうか、

自転車が逆方向を向いているのは、
ふたりが別れるからだろうか、
いまここへきて出会ったのだろうか。
ことばはどちらにも加担できる。

しかし、
そこがスズカケの葉が落ちている急な坂道であっても、
と書くのは抒情的すぎる。

二人の横をだれかが本をかかえて通りすぎる。
その人は誰か。
ひとりが顔をそむけると、
突然過去がやってくる。

本をかかえた人が振り向いてみつめのは、
どちらを確かめるためだったのだろう。
ことばはいつか思い出すだろうか。
あるいは、忘れてしまったと嘘をつくだろうか。










(17)破棄された注釈

「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはあとからやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。

「鍵を壊された引き出し」を傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということばは書かれなかったが存在した。

「タンスの内側の鏡」は「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったが、推敲しあぐね、丸められた紙といっしょに捨てられることを欲した。











(18)彼、

彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねて動かす。
二本の線は、はみ出していく輪郭と隠れる影になる。
頬骨顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
耳は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめる唇のように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。











(19)詩のことば

女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。

詩のことばも、そんなふうだったらいい。

読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが











(20)二度目の手紙

手紙を書き直すとき、あの部屋を思い出した。あの部屋の、シェードのかかったスタンド。その下にたまっている黄色い色。バニラアイスクリームの縁がやわらかくなるときの感じに似ていた。それは目がもっていた記憶か、手がもっていた記憶か。

三度目の手紙を書き直すとき、黒い男があらわれた。影のように半透明。「夢のなかで牛乳をこぼした、ということばを傍線で消して、夢のなかで沈黙をこぼした、と書き換えなさい」。もうひとりの私だろうか。伝言が消えるとき、哀しみという耳鳴りになった。

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山田由紀乃「窓の外は夜」

2016-07-17 14:05:01 | 現代詩講座
山田由紀乃「窓の外は夜」(現代詩講座、2016年07月14日)

 詩にひかれるとき、全体にひかれるというよりもある一行にひかれ、それだけでその作品が好きになるというものがある。山田由紀乃「窓の外は夜」は、私とにっては、そういう作品だ。

窓の外は夜     山田由紀乃

花屋の店先から溢ふれながら
濡れた舗道を照らしている
ゆりの白ミモザの黄色カーネーションのピンク

鬱蒼とした街路樹をつたい
小雨をよけて歩いた
夕暮れの街角
パーマ屋の二階の画廊はもうそこ

狭い部屋に大きなテーブルがあったり
段差があったり 集まった人が静かに
没後二十年武満徹についての講演を聞いている

肩を寄せ合って座る空間に
陰影深くひっそりとその人が居る

ギターリストによる演奏があった
ビートルズのヘイ・ジュウド武満徹編曲だ

狭い部屋は熱気が立ちこめ
窓を開けて外気を入れた
窓の外は夜 小雨を飛ばして車が走る
ヘイ・ジュウドは佳境にある

ふいに音が近づきわたしを抱きしめた
濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか
長いこと忘れていた抱擁 ひとを愛すること
赤ん坊を抱いた子どもを抱いた友を抱いた
恋人を抱いた母を抱いた

そしてわたしも抱きしめられた
窓の外の夜の音もこの部屋に流れている

 私が好きになった行は七連目の「濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか」。特に「音は息を吐いたのか止めたのか」がとてもすばらしい。音が何かに驚いている瞬間が描かれている。音が自分の音に驚いたのか。音楽を聴いているひとの「呼吸」に驚いたのか。どちらなのかわからないが、音と音楽を聴くものが「一体」になっている。その感じがとてもいい。あ、そうか。音も音楽を聴いているひとの「呼吸」を、感情の動きを聞いているのか。聞きながら変化しているか。そして、その行の強さが、その後のことばの展開を切り開く。(先の行を別のことばで言い直す。)そのときのゆるぎなさが、とてもいい。

 この作品を受講者は、どう読んだだろうか。

<受講者1>「ヘイ・ジュード」なのにジャズが流れている。
      いま/ここにいながら、心がいろんなところに行く感じ。
      音に強いひと、敏感なひとだと感じた。
      「音は息を吐いたのか止めたのか」がいい。
      こんなふうに感じたことがない。
      音への感じが新鮮。
<受講者2>後半がいい。音が聞こえてくる。音楽を聴いている感じになる。
      ただ、前半と分裂している感じがする。
<受講者3>音楽が聞こえてくる。静かだ。
      音楽が山田さんを抱きしめる。いいなあ。
      小さな部屋全体が音楽の空気に満ちている。
      最初の二連があって、夜がある。
      「小雨をよけて歩いた」がとてもいい。
      情景を描くことで、後半への期待感が生まれる。期待感がある。
      説明のようだけれど、「情景」になっている。
<受講者4>幸福感があって、きれい。
      七連目の「抱擁」「抱く」がいい。特に「母を抱いた」がいい。
<受講者3>いいよねえ。
<受講者4>最終連がいい。
      特に最終行「窓の外の夜の音もこの部屋に流れている」が音楽。
      気になったのが「パーマ屋」ということば。
      いま、こういうかなあ。
<受講者3>パーマ屋を書くことで、時間を超える感じ。

 全員が後半に感動している。
 前半は、私も、ひとりの受講者が言ったように、気に食わないのだが、別の受講者が言った「情景」という指摘はすばらしいと思う。
 夜を歩いていく。小さなコンサートに向かう。そのときの「期待感」が、いつもの街をちがったふうに見せる。気持ちが、いつもと違った街を見つけ出す。何気なく素通りしてしまう花屋の花も、一本一本があざやかに見えてくる。それが「肉体」にはねかえってきて「小雨をよけて歩いた」という動きになる。
 あ、美しい。
 他人と一緒に詩を読むと、見落としていたものが見えてくるからうれしくなる。
 ただ、私は「鬱蒼とした」という表現が気になった。「鬱蒼とした」ということばに頼って、街路樹を見ていない。書かれている「意味」はわかるが、何が書かれているのか「具体的なこと」がわからない。
 一連目の「ゆり」の一行と比較すると、その違いがわかる。「ゆり」の行では「具体的な花の色」がわかる。見える。でも、その「意味」はわからない。いや、「意味」は書かれていないが、書かれていないがゆえに「わかる」。美しい、華やか、いきいき……いろいろな感じが花の色の描写から「わかる」。もし、ここに「華麗な色彩のハーモニー」と書いてあれば「意味」はもっと簡単に「わかる」けれど、なんだか「意味」を押しつけられたような感じで、きっと引いてしまう。「意味」を書かないことによって、「わかる」が深まる。読者が、「わかる」という方向へ加担していく。「わかりたい」とのめりこんで行くのだと思う。「鬱蒼とした」では「鬱蒼とした」以外の意味が動かない。のめりこめない。
 同じことは六連目の「ヘイ・ジュウドは佳境にある」の「佳境」についても言える。「意味」が簡単に特定されてしまっている。そこでは作者のことばではなく、「流通言語」が動いている。「説明」が動いている。
 私が感動した「音は息を吐いたのか止めたのか」は、「わかる」けれど、「説明」はできない。私は音楽と聴衆の呼吸が一体になると言ってしまったが、それは私の「誤読/思い入れ/作者の感じていることへの加担」であって、正しいかどうかわからない。「鬱蒼」や「佳境」のように、辞書で引いて、それで「わかる」ということがらではない。
 この「わからない呼吸」のようなものが、そのあとで「抱擁/抱いた/抱きしめられた」と言い直されているのも、とても美しい。「音は息を吐いたのか止めたのか」と書くことで、「説明」にならない何か、だれも語らなかった「真実」が、強く動きはじめる。
 「抱擁/抱いた/抱きしめられた」そのとき、ひとは「息を吐くのか止めるのか」。たとえば、母を抱いたとき、母は息を吐いたのか、止めたのか。山田自身は息を吐いたのか、止めたのか。どちらも一瞬。深い深い、一瞬だ。そのとき、ひとは、音楽を聴くのかもしれない。音が聞こえるのかもしれない。それは、やはり簡単にはことばにできない「音」だろう。
 そういう「音/音楽」が「ヘイ・ジュード」「ギター」「武満徹」を超えて静かに聞こえてくる。
 最終連/行も、とても気持ちがいい。
 楽器が奏でる音、ひとがつくったメロディーだけが音楽なのではない。街にあふれる「ノイズ」もまた音楽である。それはひとがつくった「音楽」を抱きしめるのか、あるいはひとが「音楽」をつくり「ノイズ」を抱きしめるのか。どう語っても同じところにたどりつくかもしれない。すべては「抱擁」する。「抱擁」のなかに、世界が「生まれる」。
 詩を書くとは、何かを「生み出す」ことなのだ。詩からは何かが「生まれる」。 

(次回は8月3日水曜日、18時から、福岡市中央区薬院、リードカフェ、地下鉄「南薬院」そば)    

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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詩集「改行」へ向けての、推敲(2)

2016-07-16 23:22:28 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(2)

(6)そんなはずはない、

くちびる--ということばに出会ったとき、くちびるは指でなぞられていた。窓の外には雨の音がしていた。くちびるの端から中央へ、ガラスをつたう雨のように、指はくちびるを離れまいとしていた。机の上には読みかけの本があった。コーヒーカップがあった。雨に濡れた窓のまだらな光と影がページに落ちていた。そのページをめくるように、指の腹がくちびるを押しながら動くと、声にならない息がもれた。体温に染まった湿り気が、ことばに見られているのを意識しながら、指に絡みついた。指も、見られていると気づいたのか、少しもどろうとする。くちびるの奥からは舌先があらわれて指紋に触れる。
 本のページが、はやく、と指を誘う。
 そんなはずはない。
 指はくちびるの上をすべる。あふれてくる唾液。
 そんなはずがない。
 コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ことばは目をそらす。窓の桟にたまった雨がカーテンを重くしている。まだ五時だ。











(7)窓の下を通りながら、

窓の下を通りながら思い出す部屋にはガラスの花瓶があった。
テーブルの上に半透明な灰色の影があった。
影は明るくなる光とや沈んでいく陰影との諧調をつくるので
私たちはそれを鉛筆でスケッチして過ごした。
(私はやわらかな鉛筆で、あなたは硬い鉛筆で、
あるときは器に水が注がれ
曲面にとおい編み籠の模様が規則正しく映っている、
と言ったのはあなただったか私だったか、
私のなかのあなただったか、あなたのなかの私の知らない誰かだったか。











(8)あの

あのときのあの場所と、あのときのあの場所。
いっしょに書いてしまおう。
あの花をあそこに咲かせ、あのテーブルはなくして。
あの部屋はテーブルを取り除くと
一辺の長さが正確になる。
あの板張りの床に伸びたあの影のかわりに
コップのふちにきらめいたあの光に
あのことを語らせる。
あれは不似合いだし、象徴や比喩にはならないが、
だからこそ事実が濃密になる。
あの手紙の引用の順序もかえてしまおう。
三日前のあの気持ちと二年前のあの気持ちはまじり、
あの私にたどりつける。











(9)ことばは夏の公園を、

ことばは夏の公園を持ち去ってしまった。
きみにあてた手紙のなかでは小さな砂場が白く焼けていた、あの公園を。
図書館の本を盗むような手早さで。
残された場所に沈黙が降った。

ことばはたばこを吸ってみた(と書いてみた。
肺のなかに広がってくる不定形の熱い感触は孤独が泣いているようだ(と書くために。
遠い本棚にある虚構という文字にはすべて傍線が引いてある、
と消しゴムで書き直すために。

ことばは隣の部屋でなっている電話の音をどう描写すべきか考えた。
きみはけたたましさと静寂が戦うのを受話器越しに見ている。
この三連目は詩集に組み込まれるとき消される(消さなければならない、
そう分かっていたけれど。




(9-2)こことばはたばこを、

ことばはたばこを吸ってみた(と書いてみた。
肺のなかに広がってくる不定形の熱い感触は孤独が泣いているようだ(と書くために。
遠い本棚にある虚構という文字にはすべて傍線が引いてある、
と消しゴムで書き直すために。











(10)屈辱を投げつけてやりたいと、

屈辱を投げつけてやりたい、
何時間かかってもいい、
屈辱におとしいれてやりたいと、

棒で打ちのめされる犬を見ているもう一匹の犬。
逃げるところを失ない金網に尻を押しつけて
すべての時間をついやしている。

男は夢中になる。
夢中になる必要がある。
この知らない感情のために。


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