詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ビスコンティ監督「山猫」(★★★★)

2017-01-17 09:11:52 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ

 4K版「山猫」を見た。劇場の上映装置は万全とはいえないようだが、シチリアの光の透明さが随所に輝いていた。冒頭の祈りのシーン。カーテンが風に揺れて輝く。風がカーテンに触れて輝きを増す。反射し、揺れる光が暗い室内を軽やかに舞う。自然の絶対的な美しさ、変わらない輝きのなかで、これから人間の興亡が始まる。

 4K版の魅力は人間描写でも強烈だ。アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレの魅力は「下品さ」にある、と私は思っている。表情に暗いエッジがある、黒い輪郭があると言えばいいのだろうか。内部があふれてきて、強い輪郭に変わるとも言える。
 クラウディア・カルディナーレが初めてバート・ランカスターの邸宅を訪問し、食事するシーンが印象的だ。アラン・ドロンが尼僧院を襲撃したときのことを語る。クラウディア・カルディナーレが唇をかみ、指で歯をなぞりながら身を傾けて聞く。最後の「オチ」(軽口)を聞いて、クラウディア・カルディナーレが大声で笑いだす。そこが食事の場であることを忘れている。貴族の家であることを忘れている。「文化」を知らない庶民の、生の肉体の本能が炸裂する。だれにも止められない。
 このシーンは何度見ても、ぞくぞくする。クラウディア・カルディナーレが下品に笑いだすのがわかっているのに、その瞬間が待ちきれない。笑い声に、大口に、あ、下品だなあと思いながら、強い力を感じる。こんなふうに下品に笑ってみたいと思う。
 下品さを誘い出すアラン・ドロンの表情もいい。片目を黒い眼帯で覆っている。血や傷は「美形」を生々しくする。傷つくことで、それが「生身」であることがわかる。「生身」が「美形」の内側からあふれてくる。
 「生身」と「生身」がぶつかり、貴族の文化の場/「人工の美」を壊してしまう。(食事が「文化」であるのは、食事のために貴族が服装を変えるところにもあらわれている。食事は「日常」のつづきではないのだ。)文化を壊されたバート・ランカスターが、クラウディア・カルディナーレの笑い声を不愉快に思い、席を立つ。これは、いわば貴族文化の敗北なのだが、クラウディア・カルディナーレは、自分が何をしたか、気づいていないのがとてもいい。
 このシーンは、ストーリー(意味)の上でも、とても重要だ。まだ貴族のままでいるバート・ランカスター、彼は没落していくのをただじっと耐えている。「形式」を保っている。アラン・ドロンは貴族の息子だが、親は財産を使い果たし、完全に没落している。クラウディア・カルディナーレは「成り金」の娘である。「身分」はないが、金は有り余るほどある。美貌もある。アラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレの出会いは、落ちぶれてしまった貴族が「成り金」を利用して身を立て直すのか、「成り金」の庶民が落ちぶれた貴族を利用して「名」を手に入れるのか(さらにのしあがるのか)という「せめぎ合い」でもある。「時代」の変わり目が、ここに噴出してきている。
 もうひとつの見どころは、延々とつづくダンスパーティーである。ここでもクラウディア・カルディナーレがすばらしい。バート・ランカスターとのワルツのシーンは、絶対的貴族と絶対的庶民の「対決」の場なのだが、一歩も引けをとらない。リードされながら踊るのだが、ほんとうにバート・ランカスターがリードしているのかどうかわからない。完全に一体になっている。その魅力に、居合わせた客は踊るのを忘れ、みとれてしまう。「庶民」はこれから美しくなっていく。「貴族」はその成長を支える(文化的にリードする)ことが、その生きる道と言っているのかもしれない。(ビスコンティのしていることは、不完全な美を完璧に仕上げるということかもしれない。「生々しい美」が「燦然と輝く輝く美」になるための「形式」を与える、ということかもしれない。)
 4K版は、このダンスシーン以外でも、驚くほど強烈である。控えの間で休憩している若い女性たちを批評して、バート・ランカスターが「いとこ同士の結婚は駄目だ。あの娘たちはまるで猿だ。シャンデリアにぶら下がって騒ぎそうだ」と批評する。着飾っているが、妙に下品である。クラウディア・カルディナーレは「成り上がり」特有の下品だが、貴族の娘たちは「成り下がり」つつあるもの、落ちぶれていくものの汚れにまみれている。汚れを取り払う力がない。ふたつの下品さを比較すると、「成り上がり」の方に生命力があり、それが美しさを生んでいることがわかる。(順序は逆になったが、このあとに、先に書いたワルツのシーンがくる。だから、よけいに美しい。)
 パーティーが終わった後の、寒々とした空気も4K版は強烈に描いている。フィルムとは違った映像のエッジのようなものが、そう感じさせるのだろう。

 随所に出てくるバート・ランカスターの名文句、台詞の強さも美しい。バート・ランカスター自身の「姿勢の美しさ」も際立っている。役どころは五十歳くらい、昔のことばで言えば「壮年」という感じなのだろうが、鍛えた肉体、強靱な印象がある。入浴シーンがあり、そこで裸も披露しているが、贅肉がなく、実際にがっしりしている。このとき何歳だったか知らないが、四十歳でもとおりそうである。その肉体が台詞の力にもなっている。
 ビスコンティは役者の選び方がうまい。
                  (中洲大洋スクリーン4、2017年01月17日)

 *

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海東セラ「たてまし」

2017-01-16 11:22:59 | 詩(雑誌・同人誌)
海東セラ「たてまし」(「ピエ」17、2017年01月15日発行)

 海東セラ「たてまし」はとてもおもしろい。

家は思想の宿りであって、たてましのたびにかたちをう
しなってゆくばあい、すでに流浪にあるとみてとれます。
たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして
も、一見して合理的な思考回路によって三角の屋根から
矩形に台形にすがたをかえ、分裂しては融合し、その頃
には住み手を離れ、アンバランスな両翼で飛びたったり、
すれすれに着地したりの軽業もはじめます。

 「主語」がわからない。「家は」と書き出されるが、これは「主語」ではなくテーマ。家というものは、ということ。次の「思想の宿り」の「宿り」は「名詞」だけれど、「宿る」という「動詞」派生のことば。そうすると、ここから「思想は家に宿る」という具合にことばを読み替えることができる。「家は思想の宿りである」は「思想は家に宿る」を言い換えたものととらえることができる。もちろん、これは「事実」というよりも、ある人の「観点」である。「見方」である。それこそ「思想」である。そうであるなら、「主語」は「ひと」である。つまり「詩人=海東」がほんとうの「主語」であり、「詩人」が「観点/思想」をことばにして動かしている。ことばを動かすとき「対象」として「家」を選んでいる、と言いなおすことができる。「みてとれます」という「動詞」の「主語」は書かれていないが、そこに「詩人=海東」が隠されている。
 「たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして」の「惜しむ」「いだく」「なでる」「さする」の「主語」も「詩人=海東」ということになるのだが、では、そのあとの「三角の屋根から矩形に台形にすがたをかえ」はどうか。「主語」は一転して書き出しの「家」にもどる。もちろん限定的に「屋根は」と言うこともできるが、そのあとにつづくことばを「統合する主語」は「家」と考える方が、ことばの経済学にあっている。ここでは「テーマ」が「主語」となって、「詩人=海東」をのみこんでいくのである。
 たてましによって、家が家をのみこんでいく。もとの家がわからないくらいに増殖していく、という関係が、ここから始まる。
 もちろん、この「家」をもう一度「テーマ」に戻すために、「軽業もはじめます」を「軽業をはじめるのが/みてとれます」という「動詞」を補うことができる。「みてとれます」という「動詞」を補えば、すべては「詩人=海東」が見た世界ということになる。「家」をそういう風に見る「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものととらえることができる。
 でも、そんなふうにすると、あまりおもしろくなくなる。
 「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものというようなことは、言わなくてもいいことだし(思想をことばにしていない文学というのはないのだから)、そう断定してしまうと「テーマとしての主語」「語り手としての主語」が相対的に固定化されてしまい、ことばの「流動性」が「図式化」されてしまう。
 書かれているのは「家」であり、書いているのは「詩人=海東」であると固定化するのではなく、書かれているのは「詩人=海東」でもあり、書いているのは「家」でもあるという具合に、「テーマ」と「主語」を入れ換えながら、ことばのなかに迷い込むことが大切なのだ。

住人のなかには、空想の渡り廊下をあるいて鍵のかから
ない自室にこもる者も出てきます。不在のときでも出入
り自由ですが領域は保たれ、なにしろ空中の渡り廊下を
経てゆくいわゆる「はなれ」であるために、卵形の窓か
ら家の断面が書き割りのようにみえて、家族と家族、部
屋と部屋とのつながりが、そのときどきの波形となって
おとずれるのです。

 書き手はというか、家の住人という「主語」は「家族」の数だけ増殖し、それに合わせて「部屋」も増殖する。「たてまし」される。そこでも「ひと」と「部屋」は「テーマ/主語」のどちらにもなりうる。
 こういうとき、それでは「キーワード」は何になるのか。

家族と家族、部屋と部屋とのつながり

 「つながり」という「名詞」が出てくる。これを「つなぐ」という「動詞」にすると、だれが何をつなぐ、という「主-従」の関係が生まれる。ここが詩全体の「キー」である。「主-従」というのは「主語-述語」という関係にも似ている。でも、「つながり」という「名詞」のままにしておくと、そこに「主-従」はない。どちらが主であってもいい。「動詞」は「ある」というニュートラルな「状態」にかわる。「つながり」という「名詞」が「キーワード」だ。
 そして、その「ある状態=つながり」から、

そのときどきの波形となっておとずれるのです

 「波形」は「固定化できない/流動的」ということだろう。
 私がおもしろいと感じるのはここに「おとずれる」という「動詞」が登場すること。
 相互入れ替え可能な流動的な「状態」から「あるひとつの形」が「つながり」として「おとずれる」。
 うーん。
 私は、こういうとき「生み出される/生まれる」ということばをつかってしまうが、そうか海東には「おとずれる」という形で動くのか。
 「おとずれる」というと、私はどうしても「外部」から「おとずれる」と考えてしまう。「生み出す/生まれる」は「内部」から。でも海東は、家の「内部」から「おとずれる」。あるいは家の「内部」が「おとずれる」。「おとずれる」という「動詞」の動きが、私がつかっている「おとずれる」とは違った動きをする。
 「おとずれる」は誰もがつかうことばだが、海東のことばのつかい方は「独自」である。海東語、と考えた方がいい。

 「おとずれる」は「名詞」として言いなおすなら「訪問」というよりも、「インスピレーション」のようなものかもしれない。インスピレーションは外からやってくるのか、内からやってくるのか、わからない。ただ、それは選ばれたもののところに「おとずれる」ものだろう。そう考えると、海東は「たてまし」ということばに選ばれた詩人ということになるのだろう。
 実際、最初から最後まで「設計図」に従って書かれたことばというよりも、何かに突き動かされて、全体がわからないまま(細部もわからないまま)、ことばがことばを呼び寄せながら動き、広がっていく感じがする。
 「詩」の幸福が、ここにある。
 「産みの苦しみ」とは無縁な「祝福された受胎」のような輝きがある。

 「おとずれる」は、詩の書き出しにあった「宿り/宿る」かもしれない、と私は突然思う。何かが「外部」から「おとずれる」。「内部」に入ってきて、「内部」に「宿る」。あるいは「内部」に「宿っていたもの」が「外部」を「おとずれる」。「外部」を「おとずれる」ために、生まれる。そこから育っていくもの/生み出されるものは、「外部」が「主語(主役)」か「内部」が「主語(主役)」か区別しても始まらない。そんなものは相対化し、断定してみても、新しく誕生したものの「内部」にのみこまれていくだけである。
 「内部/外部」も、単なる「便宜」。無意味になっていく。
 「たてまし」は「たてます」という「動詞」になるが、その「たてます」という「動詞」だけがいきいきとした「主語(主役)」になるのだ。

 書いていることが(書こうとしていたことが)、だんだんずれてしまって、何を書いているかあいまいになってきたが、「テーマ/語り手」「主語/主役」の流動化のなかで、何かが「おとずれる→宿る」が「宿る→生まれる」に、「生まれたもの」がさらに何かを「おとずれ→宿り」という変化を繰り返すところが、とてもおもしろい。停滞を知らない。ただ「たてまし」され続ける感じが楽しい。

キャットウォーク―海東セラ詩集
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七月堂
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オタール・イオセリアーニ監督「皆さま、ごきげんよう」(★★★)

2017-01-15 18:53:00 | 映画
監督 オタール・イオセリアーニ 出演 リュフュ、アミラン・アミラナシビリ、マチアス・ユング、エンリコ・ゲッジ、ピエール・エテックス

 ジョージア人(グルジア人)からみたフランス人と言えばいいのだろうか。
 日本人の私から見るとフランス人はわがまま。個人主義。このわがまま個人主義がジョージア人には、どう見えるか。うまく説明できるかどうかわからないが、フランス映画とは少し違う「わがまま/個人主義」が見える。
 最初にフランス革命の時の「ギロチン」が出てくる。貴族が群衆の目の前で首をはねられる。みんな見物に来ている。編み物をしながら、野次も飛ばす。窓から覗き見している人もいる。怖いから目を覆い(?)、それでも見たいと顔を出す。あるいは耳を塞ぐ。ギロチンが終わると、「その首ちょうだい」と少女がエプロンを広げる。簡単に、首を渡してしまう。
 あ、なるほどなあ。
 フランス人は、ほんとうは皆、「見たがり」なのである。他人のことを知りたい。「個人主義」の国だから、他人には干渉しない。干渉されたくない(邪魔されたくない)から干渉しない、を貫こうとするけれど、他人には興味津々。そのくせ、いったん「こと」が終わると、もう関係ない。
 これを、なんと警察署長(?)がやっている。「覗き見」を。ひとりでこっそりではなく、部下をつかって。「他人の監視」ととらえれば、まさに警察。管理社会ということになるのだが、「組織」というよりは、「覗き」そのものが「分断」されている。「個人主義の覗き/わがままな覗き」と言えばいいのかなあ。
 「覗き」だから「全体」はわからない。「全体」は「覗いている人」の妄想のなかにある。それが、そのまま「つきあい」になる。
 「他人」の「全体」のことは知らない。しかし「一部」は知っている。その「一部」をかってに「全体」に拡大し、その拡大した「他人像」と自分をかかわらせていく。これをフランス人は「友情」と呼ぶ。また覗かれた方は覗かれた方で、どうせ覗かれたのは「一部」であって「全体」ではないのだから、どう思われようが気にしない、という感じで「つきあう」。「わがまま」を押し通す形で「一部」を「他人」に押しつけ、それを「友情」と呼ぶ。
 おもしろいのが、若い男がバイオリニストを見かけ、一目惚れする。どうしたらいいんだろう。そんなことを、見ず知らずの主人公(アパートの管理人と、骸骨集めが趣味の老人二人)に相談する。すると二人は「ベートーベンは嫌いだ」「第九はだめだ」と言え、というようなアドバイスをする。「わがまま」を押しつけられたら、それに対して「わがまま」で答える。「自分の意見」しか、言わない。「自分の意見」をどれだけもっているか、が「個人の評価」になる。(若い男が老人に恋の手ほどきを訪ねるのは、老人の方が「個人の歴史」が長い、「個人のわがまま」を多く抱えている、と評価されるからである。)
 この映画を象徴するのは、いま書いた「覗き見」と、もうひとつ、「ひったくり」である。映画の本篇(?)の冒頭に、ひったくりが趣味の姉妹が出てくる。戦利品を自分のものにするというよりも、次々に他人に渡して、遊んでいる。渡された人は、それをまた別の人に渡すという形で遊びに参加する。このとき「ひったくられたもの」が「一部(覗き見された生活)」。それを無関係なひとが共有する。もし、それが自分のほしいものならそのまま「所有」するだろうが、(そこから「親友」を探し出すだろうが)、そうでなければ、また「他人」に手渡す。それがパリという街。「一部」が無数に繋がっていく、と言えばいいのか。
 傑作なのは、このアトランダムの形を象徴する警察署長のエピソード。「こと」が起きるたびに警官が出てくる。警官に対して、市民が「ちょっと待て、いまからきみの上司に話をする」。つまり、警察署長に直談判する、という。アトランダムの「つなぎめ」に自分をわりこませ、誰もが主役になろうとする。電話を受ける署長は自分に関心のないことは知らん顔。(ひったくられた帽子はパトカーを動員して奪い返しに来るのに。)下水まみれで野原(?)に放り出されるが、だれも探しには来ない。
 こういう感じでつづく映画なので、「ストーリー」はない。
 あ、こういう人がいる。こういう「シーン」を見かけたことがある。そういうことが、ただアトランダムに繋がっていく。これが、なんともユーモラスな形で繋がっていく。フランスってばかな国(フランス人って、かわいい)と監督が思っているのかも。
 最初、リードでつながれて散歩している犬が、あとの二回はノーリードで、犬たちだけで横断歩道を渡っていくシーンなんか、いいと思うなあ。犬なのに、フランス人みたいに、みんなひとりひとり(一匹一匹)、歩き方が違う。途中に、ナイフを研ぐ音を聞いて、牛が逃げ出すシーンがあるが、牛の歩き方も、とっても変。あれはジョージア人の見た牛? それともフランスの牛はみんなあんな? というような、どうでもいいことを思ってしまう。
 そういうところも、まあ、私は好きだなあ。
                     (KBCシネマ2、2017年01月15日)



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池井昌樹「泉下」、粕谷栄市「晩年」

2017-01-14 11:02:11 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「泉下」、粕谷栄市「晩年」(「森羅」2、2017年01月09日発行)

 池井昌樹の詩ばかり紹介してもしようがないとは思うのだが、風邪で体調も悪いので、なじみのあるものに近づいてしまう。
 「泉下」は短い作品。

ふるいいえにはえんがわがあり
えんのしたにはあかりがともり
あかりのなかにはかげがあり
かげのどこかにぼくもいて
なんのよりあいなのかしら
なんのおまつりなのかしら
よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり
ふるいいえにはいつからか
かげをなくしたぼくひとり
とほうにくれていつまでも
こうしていきてゆくほかは

 とても読みやすい。一行に一つずつの「事実」があらわれ、それを踏まえて次の一行が動くからだ。
 なかほどの二行、

よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり

 これが、この詩の「中心」。
 それまでは、「えんがわがあり」「あかりがともり」「ぼくもいて」という「事実」が描かれる。
 しかし、この二行は、「事実」であるにしても「事情」が違う。
 「よみがえらないひとたちがおり」というのは、その人たちはそこにはいない、ということ。
 「よみがえらないひとときがあり」というのは、そのときがそこにはない、ということ。
 「よみがえらないひと」「よみがえらないとき」は詩を書いている池井の「肉体の内部」に「いる/ある」。言いなおすと池井はそのひとたちを思い出している、そのときを思い出しているということ。
 しかし、思い出しているということばをつかってしまうと、「ふるいいえにはえんがわがあり」というのも「思い出」である。実際に池井がその家にいて家を描写しているわけではない。
 思い出の中に思い出がある。思い出すという行為の中に、また思い出すということがまぎれ込む。「こと」が二重になって動いていく。
 だから

あかりのなかにはかげがあり
かげのどこかにぼくもいて

 と「かげ」とともにいたはずの「ぼく」は、

かげをなくしたぼくひとり

 という具合にも変わる。
 「あかり/かげ」「よみがえる/よみがえらない」「いる/いない」は相対化/固定化ができない。常に流動して、その瞬間瞬間に、何かを生み出す。何かがあらわれる。
 この不思議を、池井は、リズム(音楽)にしている。



 粕谷栄市「晩年」は、池井の「泉下」に奇妙に似ている。

 若し、私が、八十歳を幾つか越した老人だったら、私
は、ある大きな港町に住んでいる。路地裏の古い一軒家
で、独り暮らしをしている。
 若い頃から倹約して貯めた金が少しはあるから、まあ、
どうにか生きてはいられる。何もできないし、すること
もないから、相変わらず、貧しい食事をして、つましい
日々をやり過ごしている。

 一段落一段落進むごとに、少しずつ「事実」が付け加えられていく。一気に何かがかわるという展開の仕方をしない。振り返り振り返り、ことばが前に進んで行く。
 そして、「何もできないし、することもない」ので「相変わらず」放心したようにして生きている。
 いや、放心するために生きているといった方がいいかもしれない。
 最後の三段落は、こうである。

 全ては、私が耄碌して、本当のことがわからなくなっ
ているということなのだ。この私が、実は、八十幾つか
の老人なのかもしれない。思えば、悲しい事実である。
 いや、そうとばかりはいえない。むしろ、その逆だ。
私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。
 今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
る。深夜、満天の星の下の港町では、家々のどの窓にも、
花のように、優しい灯がともっている。

 「えんがわのしたのあかり」「窓の優しい灯」と表現は違うが同じように思い出している。池井は「目を瞑れば」とは書かないが。
 そういう「表面的」というか「意味(ストーリー)的」なことよりも、私は、少し別なことを指摘したい。

 今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
る。

 この文章の「それが見える」の「それ」。
 この「それ」のつかい方が、池井と粕谷に共通している。このために、「似ている」という印象が強くなる。
 「目を瞑ると」と同じように、「それ」ということばも池井の作品にはない。
 しかし、池井もまた「それ」を見たのだ。最初は「それ」という形でしか言えないもの。指し示すことしかできない何か。「それ」を見ているうちに、少しずつ「それ」が何か見えてくる。
 「ふるいいえ」があり「えんがわ」があり、「えんがわのした(えんのした)」には「あかり」という具合である。
 詩の前に、まず「それ」がある。「それ」に導かれて、ことばが動いていく。「それ」は確かに存在するのだが、同時に「不確か」なものでもある。つまり「流通言語」でぱっと指し示すことのできるものではない。だから、振り返り振り返り、少しずつ「それ」が見えるようにしていく。
 その関係は、しかし、逆なものとしても見ることができる。「それ」を池井や粕谷が見つけるのではなく、「それ」が池井や粕谷を見つけ導いているというふうにも感じられる。「それ」が池井や粕谷を見つけるからこそ、「天与」ということになる。
 「それ」と「詩」と「詩人(池井/粕谷)」の関係は、互いに「指し示す」という感じで絡まりながらあらわれたり、消えたりする。最初に「それ」があらわれ、「詩」になるとき、「それ」という「指し示し」は消えるのだが、そのとき「池井/粕谷」も消えて、「詩」だけが残る。「詩=池井/粕谷」という形であらわれる。全てが「天与」のものになる。


池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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つまずいてみる。(奇妙なことばには、こだわってみる。)

2017-01-13 11:26:01 | 自民党憲法改正草案を読む
つまずいてみる。(奇妙なことばには、こだわってみる。)
               自民党憲法改正草案を読む/番外67(情報の読み方)

 2017年01月12日毎日新聞(西部版・14版)1面「退位後「上皇」使わず/政府方針「前天皇」を検討」という見出しと記事についての感想を書いたところ、フェイスブックで本田孝義さんから、全く逆の報道があると教えられた。

http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS11H2W _R10C17A1MM8000/ ((2017/1/12 付日本経済新聞 朝刊)

天皇退位後「上皇」に政府検討 秋篠宮さま、皇太子待遇

 政府は、天皇陛下が退位された場合、その後の呼称を「上皇(太上天皇)」とする方向で検討に入った。皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針で、公務など活動のあり方が焦点となる。皇太子さまの即位後、皇位継承順位1位となる秋篠宮さまは「皇太子」の待遇とすることも検討。皇室予算の見直しも含め、20日召集の通常国会に提出する退位関連法案に盛り込む見通しだ。

 秋篠宮を皇太子待遇にするという記事は読売新聞01月01日の朝刊(西部版・14版)に載っていた。その感想はすでに書いた。
 日経新聞の記事で注目したのは、生前退位させられた後の天皇の身分に関する次の部分、

皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針

 ここが非常に気になった。
 いったん退位した後なのに、「皇位継承権を付与しない」とわざわざ付け加えるのはなぜなのか。
 天皇がもし自ら「生前退位」をするのなら、「皇位を皇太子に譲る」ということ。そういう人間が「皇位継承権を求める、天皇に復帰する」ことを望むだろうか。

 安倍は、何を恐れ、そういう文言を書き加えるのか。天皇が「生前退位」させられた後、「上皇」という身分になるかどうかはあいまいだけれど、安倍が天皇を退位させた後も、天皇の影響力を恐れている(発言を封じたい)という気持ちだけは、強烈につたわってくる。

 たとえば天皇が退位し、皇太子が天皇になる。その新天皇が急死したら、秋篠宮が天皇になる。秋篠宮が急死ししたとしても悠仁と皇位継承者がいる。高齢の天皇が返り咲く必要性は想定しなくてもいいはず。
 そう想像するとき、私の「妄想」は暴走し始める。

皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針

 これは、今の天皇だけを想定しての「方針」ではないのではないか。
 むしろ、皇太子が天皇になって、その新天皇をまた「生前退位」させる。そのときに、退位した新天皇/新上皇(いまの皇太子) に皇位継承権がないと決めておきたいのだと思う。
 「一代限りの特例法」と言いながら「秋篠宮を皇太子待遇に」と決めたときから、それは「一代」の話ではなくなっている。
 皇室内で争いが起きるとしたら、いまの天皇と皇太子の間ではなく、皇太子と秋篠宮。兄弟の争い。誰が「天皇」になるか。継承順位だけを考えれば、皇太子。しかし、皇太子に男子のこどもがいないことを考慮するなら、秋篠宮-悠仁という「皇位継承順位」がスムーズ(?)になる。そういう「権力争い」のなかへ安倍は入っていき、「天皇制」を自在にあやつる。
 日経の奇妙な文章から、私は、安倍がそこまで考えているのか「妄想」した。
 争いが起きれば、安倍に好都合。
 二人を棚に上げて、悠仁を摂政に据え、やりたい放題ということになる。
 「上皇」に皇位継承権はないと決めておけば「争いの種」はなくなるが、なくなればなくなったで、安倍の思いのまま。両にらみで「進路」を描いている。

 籾井NHKが「天皇、生前退位の意向」をスクープしたとき、私は、このニュースのキーワードが「摂政」であると直感した。それも皇太子を「摂政」に、というのではなく、悠仁を「摂政」に、という感じがした。
 キーワード(キー人物)は、そういう意味では悠仁の親である秋篠宮である。
 「生前退位」の意向報道の後、すぐに出てきたのが秋篠宮の「天皇定年制発言」である。また「生前退位意向」のスクープは、秋篠宮の信頼が篤い橋口という記者経由らしいとも言われている。
 さらに、小泉内閣時代、「皇位継承権」を巡り、「女性天皇」も話題になったが、これに断固反対したのが安倍である。そのとき安倍は「女性天皇を認めてしまうと、秋篠宮-悠仁という男子直系の伝統が崩れ、取りかえしがつかなくなる」というような論理で反対している。
 あのときから、天皇の皇位継承のキーワード(キー人物)は秋篠宮と悠仁なのである。そこに焦点を当てながら、安倍の行動をとらえ直さないといけないのではないか。一連のニュースを見直さないといけないのではないか。

 ニュース(ことば)とはおもしろいものである。
 私は昨年の7月3日、衆院選の投票日の一週間前の日曜日までは、どちらかというと政治に無関心という部類に属していた。しかし、あの日曜日に「異変」をはっきりと感じ、それから急いで自民党の憲法改正案の問題点をブログに書いたりした。たいへんな情報操作が行われていると感じたのである。
 情報操作の第一弾が籾井NHKをつかっての「報道しない作戦」である。(すでに第何弾目だったかもしれないが、私が気づいたものとしては第一弾)。報道しないことが巨大政党(既成政党)に有利に働く。だから報道しない。実際、その後の朝日新聞の分析でそれが証明された。若者は自民党しか知らない。政策を吟味して自民党を支持しているのではなく、自民党の存在しかしらないから自民党に投票する。よく知らない党に投票するより、少しでも知っている方が安心である。この作戦を誰が思いついたか知らないが、「宣伝」を逆手に取った画期的な作戦である。
 マスコミもそれに加担しているのだが、マスコミの中にも良心的な記者がいて、ときどき思いもかけないニュースを「ちらり」と報道の中に滑り込ませる。
 たとえば安倍の大失敗に終わった日露首脳会談。それに先立つ外相会談。読売新聞は2面の1段見出しの記事で、ラブロフが「日露経済協力(共同行動)」は5月に安倍から提案したものだと暴露した、と知らせていた。これは、経済協力はロシアが求めているものではない。安倍が提案したのだから、提案は守ってもらわないといけない。ロシアが提案したのではないから、その見返りに北方四島を返還するというようなことはありえない、と事前通告しているのである。外交の「内幕」など、協定が成立するまでは秘密にするのが鉄則だろうに、それを破っているのは、経済協力の約束を守れと恫喝しているに等しい。
 このニュースについて、私は岸田外相の大失態という形で感想を書いた。ラブロフとの会談で、何か失言をし、そのためにラブロフの暴露になったのだ。「日本が金を出すんだから、歯舞、色丹くらい返還すべきである」というような露骨な発言をしたのではないか、と私は「妄想」している。安倍は金を出すのが大好きな人間みたいだが、ひとは金だけで動くわけではない。
 あの1段見出しの記事で、私は日露首脳会談が安倍の大失敗になることも、その後の1月総選挙もありえないと「妄想」した。そして、その「妄想」通りになった。
 どんなニュースでも、どこかで誰かが、こっそりと「目立たない」ことばで真実のありどころを示唆している。私はそれを探して「妄想」するのが大好きである。
 きのう書いた毎日新聞の記事で言えば「有識者会議のメンバー(出席者)」ではなく「有識者会議関係者」、日経の記事で言えば「皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針」。私は、そのことばにつまずき、考え始める。
 繰り返しておくと、8月8日の天皇のビデオ放送。そのなかで天皇は「思われます」「考えられます」というような「湾曲表現」をつかっている。テレビで聞いたとき、私は何を言っているかすぐには理解できなかった。それくらい「異様」に響いた。文字で読んでも「異様」な感じは消えない。そこには何か「悲鳴」のようなものが隠されていると私は感じている。高齢になった、天皇は政治に関する権能を持っていないというのも、短いビデオのなかで2回も言っている。これも、私の印象では言っているというよりも、「言わされている」と聞こえる。
 ニュースの大きな「ストーリー」の背後に、見えないもう一つのニュースがある。「つまずきの石」がある。そこに私はつまずき、「痛い痛い」と「妄想の叫び」を上げる。


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天皇の退位後の呼称

2017-01-12 16:52:17 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の退位後の呼称
              自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日毎日新聞(西部版・14版)1面に面白い記事がある。朝日新聞にも類似の記事があるが、朝日の記事は「結論」に至っていない。で、毎日の見出しと記事。

退位後「上皇」使わず/政府方針「前天皇」を検討

 政府は天皇陛下が退位した後の呼称について、歴史的に使われてきた「太上天皇」と略称の「上皇」は使用しない方針を固めた。上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。代わりに天皇より上位とみなされにくい「前天皇」や「元天皇」とすることを検討している。

 思わず私は笑い出した。「上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。」というが、天皇は「権威」を目指して「退位意向」を表明したのか。なぜ、そんな心配をするのか。
 こんな懸念が出てくるのは、今回の「生前退位」が安倍の仕組んだものであることを証明している。安倍が天皇を「退位」させたい、口封じをしたいと狙っている。「上皇」という「天皇」よりも上位の位を与えてしまうと口封じができなくなる、そう懸念しているのだ。
 また、今回の「生前退位」が「一代限り」の「特例法」で進められるのなら、今後「上皇」が誕生するはずがない。無意味な「懸念」ということになる。
 「上皇」が存在してまずいのは、次の場合だ。
 天皇が「生前退位」させられ、皇太子が「新天皇」になる。その「新天皇」が気に食わなくて、さらに「生前退位」を迫る。秋篠宮が「新・新天皇」になる。そのとき「新天皇」をどうするか、という問題が起きる。「上皇」にすると、それこそ「上皇」が2代つづき、「歴史」になる。そして、皇太子と秋篠宮の「いさかい(?)」を招くことにもなる。そういう時だろう。
ということは。
安倍は今の天皇の「生前退位」だけでなく、皇太子の天皇即位→生前退位、そのあと秋篠宮の天皇即位を想定しているということにならないか。(私は、このあとさらに悠仁の「摂政」まで想定していると「妄想」しているのだが。)
「生前退位」の意向の表明が、ほんとうに天皇の「自発的」表明であったのなら、天皇が「上皇」になったからといって、その地位を利用して政治に関与するはずがない。そんなことをすれば天皇が嘘をつくことになる。ビデオで「天皇には政治に関与する権能がない」といったのは、「上皇」になることで「憲法」を超え、政治に関与するためだ、ということになる。それでは「象徴天皇の務め」と相いれないだろう。
 安倍は、天皇を「生前退位」させるだけでは、まだ不安なのだ。なんとしても口封じを「完璧」にしたいのだ。

毎日新聞には、次のくだりもある。

有識者会議では「院政期の上皇は権力を持つために退位したので、現行憲法下の象徴天皇と結びつけるのは飛躍がある」として、懸念は不要との意見もあった。
しかし、上皇は歴史的な称号で権威を与えかねず、新天皇に即位する皇太子さまとの「国民統合の象徴の分裂」が起こる懸念がある。「二重権威になっていさかいが起こるイメージがある」(有識者会議関係者)こともあり、使用を見送る判断に傾いた。

これを読むと、「有識者会議」の意見から採用されるのは、「政府(安倍)」の都合のいい意見だけということがわかる。
後段のコメントの「有識者会議関係者」が曲者である。毎日新聞は「有識者会議のメンバー」とは書かずに「関係者」と書いている。「関係者」なら当然、安倍側の人間も含まれるだろう。安倍が天皇の口封じに必死になっていることが、ここからも感じられる。
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「有識者会議」の嘘のつき方

2017-01-12 09:56:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「有識者会議」の嘘のつき方
               自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日読売新聞(西部版・14版)2面に次の見出し。

退位 特例法が軸/有識者会議 論点整理 23日公表

 具体的には、どういうことか。

 論点整理では、退位を実現する法整備として、①特例法制定②皇室典範の付則に根拠規定を置いた上で特例法を制定③皇室典範改正による恒久制度化--の3案を盛り込んだ上で、恒久制度化は難しいとの方向性を示す見通しだ。

 いままで報道されてきたことを考えると②が「結論」になるのだろう。しかし、皇室典範に「付則」を付け加えるのは皇室典範の改正には当たらないのか。「付則」だから「本文(?)」の改正ではないというのは、ごまかしの論理である。「付則」を増やし続ければ、どうなるのだ。
 自民党憲法改正草案には「緊急事態」条項がある。いまの憲法にはない項目である。これを「付則」としていまの憲法に付け加えれば、それは憲法改正ではないのか。「付則」を付け加えただけ、とは言えないだろう。
 もしかすると②は憲法改正の「手法」を探るための予備訓練かもしれない。
 公明党も「憲法改正ではなく加憲」という、奇妙な論理を展開しているが、同じ「嘘のつき方」である。
 「付則に根拠規定を置く」というやり方をいったん認めれば、次から次へと「付則に根拠規定を置いた特例法」が生まれる。
 すでに「戦争法案」というものが「付則」という形はとっていないが、「付則」と同じようにして「憲法」に付け加えられた。憲法の「戦争放棄」を無視して、つまり「憲法違反」の法律が誕生している。「憲法違反」の法律など無効であるはずなのに、「法律」として存在している。
 同じことが次々に起こる。
 「憲法改正」がむりなら、憲法に「付則」をつける。「付則」に「根拠規定」を置いた上で「緊急事態特例法」を制定する。
 絶対に、そうなる。

 2面の記事だけではわかりにくい。4面に御厨座長代理の会見要旨が載っている。そこに、こういうことばがある。

「(特例法か皇室典範の改正かなど)法形式論よりも現在の天皇陛下に限って判断するのか、すべての天皇を対象とする制度をつくるのかということが議論の主眼ではないのか」「特例法による(退位実現の)場合、国会でその都度国民の意思を反映し、状況に応じた慎重な審議ができるので、(典範改正による退位の制度化よりも)リスクは少ない」との意見も出た。

 「一代限りの特例法」は「みせかけ」。「一代限り」を装って「恒久的な制度」をつくろうとしていることは明らかである。しかも、その「恒久的制度」は「その都度」変更可能なもの、つまりその都度「一代限り」を繰り返すのである。「一代限り」が可能のな「特例法」をもくろんでいる。
 誰が天皇か、その天皇がどのような考えを持っているかを見極め、その都度「一代限りの特例法」を定め、対処する。言い換えると、安倍の都合にあわせて、そのときどきの天皇の在位期間を決めるということである。
 まず手始めに、今の天皇を追い出す(口封じをする)というのが、安倍のもくろみである。一度これが成功すると、次は簡単である。「理由」などどんなふうにもつけられる。皇太子の一家には雅子の「健康問題」がある。それを理由に退位を迫り、秋篠宮を天皇にする。しかし、それでは皇太子と秋篠宮の関係がぎくしゃくしそうなので、いっきに悠仁を天皇にする。あるいは「摂政」にし、安倍が「後見人」にして思いのままに「天皇制度」を利用する。
 天皇の問題だけではなく、天皇と権力の問題を関係づけて「恒久法」にする必要があるのだ。権力が天皇制度を利用できないようにする制度が必要なのだが、天皇の「意思」ばかりが問題にされ、権力の「意思」が問題にされないのは、非常におかしいだろう。大問題だろう。

 「状況に応じた慎重な審議」とは「美しいことば」だが、裏を返せば「状況に応じた天皇を在位させる(都合が悪ければ、その都度退位させる)」ということである。
 いまの状況を見ればわかるが、「国会でその都度国民の意思を反映し」ということ自体おこなわれるはずがない。天皇の生前退位意向が籾井NHKによってスクープされてから約半年。国会で天皇の生前退位問題が審議されているか。安倍は「有識者会議」を設置し、審議はそこに閉じ込められている。有識者会議には安倍にとって不都合な人間、たとえば野党の推薦する「有識者」を含んでいないだろう。安倍の「意図」にそった審議しかされていない。「国民の意思」など反映されないのである。

 「19年元日に新元号」。「国民生活への影響に配慮」というきのうのニュースも、非常にふざけた発想である。カレンダーの「年号」が「国民生活」にどう影響しているのか、実態調査をした上で言っているわけではない。単なる口実だ。
 すでに書いたが、いったん「元日に新元号」というシステムが作られると、次の天皇が退位する/即位するのも「元日」に制限される。「元日に新元号」は「元日に新天皇」という形にすり替えられ、「退位」強制の名目ができてしまう。
 カレンダーが大事なら、天皇即位の人「新元号」を切り離せばいいだけのことである。年の途中で天皇が交代したときは、12月31日までを前の天皇の「元号」、1月1日から「新元号」にすればいい。それでは今までの「歴史」との整合性がとれなくなるというかもしれないが、歴史の整合性と国民生活は無関係。国民の暮らしは、せいぜい「元号」が三回変わればおしまい。私は歴史に疎いせいかもしれないが、「明治」以前、どんな「元号」がつづいてきたか、天皇が誰だったかなんて知らない。暮らしのなかで考えたこともない。

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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)

2017-01-12 08:42:09 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 風邪で一日中寝たり起きたりしている。遠藤周作の『沈黙』がマーチン・スコセッシ監督で映画化される。それを見る「予習」として和辻哲郎『鎖国』を読み始めた。体力が落ちているときは、一度読んだ本をぼんやり読むのが楽な感じでいい。とはいうものの、目がかすんで字が読みづらい。しかし、夢中になってしまう。
 私は歴史という「科目」が大嫌いだったが、あれは教科書や先生が悪いのだとつくづく思う。和辻の『鎖国』みたいな「教科書」があれば、きっと夢中になっていたと思う。
 前篇は「世界的視圏の成立過程」、後篇は「世界的視圏における近世初頭の日本」。後篇と『沈黙』が重なる。再読したのは前篇。後篇までは一日では読めなかった。ローマ帝国とゲルマン民族の大移動からはじまり、ポルトガルが喜望峰周りでインド洋に進出、スペインがアメリカ大陸を発見し、太平洋横断し東南アジアにたどりつくまでが書かれている。
 「歴史」に詳しい人には既成の事実が書かれているだけなのかもしれないが、そうか、ひとの欲望はこんなふうに動き、時代が変わっていったのかということが、人間そのものの動きとしてわかる。
 そこに、こんなおもしろい文章がある。マガリャンス(マゼラン)の世界一周についての部分。スペインから大西洋を渡り、さらに太平洋を横断し、喜望峰を周り大西洋に出る。アフリカ西海岸のサン・チャゴ島に上陸する。

この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。

 私たちが「日付変更線」とともに「あたりまえ」と感じていることが、「驚愕の事実」として目の前にあらわれてくる。「大陸」の発見は「目」に見える。しかし「日付変更線」は目に見えない。それを「事実」としてつかみ取るには時間がかかるのだが(やっと後になってわかった、と和辻は簡単に書いているが)、これはなんともすごい。「肉体」でつかみとったことが、それまでの「世界」のあり方に変更を強いる。「日付」が違うということを、「日付」があう、という形にするためには、大洋をわたるという大冒険と同じように、知性も大冒険をしなくてはならない。知識を根底からつくりかえなければならない。書かれていないが、ビガフェッタは「日付変更線」を発見した。これはアメリカ大陸の発見と同じように衝撃的である。「ある」とは誰も考えなかったものが「ある」とわかったのである。しかも「見えないもの」が、「ある」。
 ビガフェッタの「日誌」は、

マガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることになった。かくして最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を総合した仕事といってよい。

 この和辻の文章の「統合した仕事」、「統合する」という「動詞」のつかい方に、私はとても感動する。そうか、いろいろな「要素」(事実)は「統合する」ことで「真実」になる。どのようなことも「統合する」ちからで「世界」としてあらわれてくる。「事実」を「統合する」ことで「日付変更線」が姿をあらわす。「統合」しないかぎり、それはあらわれない。
 和辻の書いていることも、すでに知られている「歴史的事実」を「統合した」ものである。和辻が発見したことなどない。でも、その「統合」の仕方がいきいきしている。「人間」そのものを浮かび上がらせている。まるで、そこに描かれている人間になって動いているように、私は興奮してしまう。そして、感動する。

 私は和辻の文章がとても好きだ。どうして好きなのか、それをあらわすことばをなかなか見つけられなかったが、「統合する」という動詞に出会って、あ、これだったのだなあ、と気がついた。
 「世界」にあるものを、正しく「統合する」。それが哲学。

( 203ページに、「アフリカ南方の海峡を通って大西洋に出る未知である。」という文章がある。これは「アメリカ南方の」、あるいは「南アメリカ南方の」の誤植だろう。いま、全集は「第何刷」なのか知らないが、訂正されていることを期待したい。)


和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
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岩波書店
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「国民生活に配慮」という大嘘

2017-01-11 11:13:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「国民生活に配慮」という大嘘
               自民党憲法改正草案を読む/番外64(情報の読み方)

 2017年01月11日読売新聞(西部版・14版)1面に次の見出し。

19年元日 新天皇即位/元号 半年前までに/政府検討 国民生活に配慮

 きのう2017年01月10日の毎日新聞夕刊の後追い記事。新しい「事実」は「元号を半年前までに決める」ということ。あとは、言い直しである。
 毎日新聞は「国民生活 影響避け」と表現していたものを、読売新聞は「国民生活に配慮」と言いなおしている。毎日新聞は具体例は書いていなかった。読売新聞は書いている。具体例を読み、私は笑いだしてしまった。それから怒りで我慢ができなくなった。
 こう書いてある。

 政府は陛下の退位日を定める政令決定にあわせ、新元号を発表する方向で検討している。2018年前半までには発表したい考え。カレンダーなどの印刷業者や、元号を使った官民のシステム改修などへの対応期間を確保するためだ。

 「カレンダーなどの印刷業者や、元号を使った官民のシステム改修などへの対応期間を確保するためだ。」が「国民生活への配慮」にあたる。同じことを2面で「新元号 円滑以降図る/事前公表 システム改修時間確保」という見出しで書き直している。
 私は何でも具体的に考える人間なので、カレンダーから考えてみる。平成は1月の途中で元号が変わったけれど、「カレンダー」に不都合が起きただろうか。昭和のカレンダーをつかっていたら困ることがあったのだろうか。4月29日の「天皇誕生日」の名称が変わり、12月23日が新しい「天皇誕生日」になっただけで、昭和のカレンダーをつかっていてもなにも不都合はない。カレンダーというのは「年号」を確かめるためのものではなく、「日付」と「曜日」を確かめるときにつかうもの。私の家では「絵」がらが気に入ってオルセー美術館のカレンダーをつかっている。フランス製である。でも、ぜんぜん困らない。「日付」「曜日」は世界共通。「元号」とは関係がない。
 それに途中で「元号」がかわったときは「元年」なので「何年だっけ?」と思い悩むこともない。新元号のカレンダーでないと困る人がいるなら、よほど「頭」の硬い人である。
 「手帖」や「日付入りの日記帳」を買い換えなくてはいけなくて困ったという人が何人いるだろう。
 こんなことは「配慮」してもらわなくても、国民は「自前」の生き方で乗り切る。こんなことを「配慮」と考えるのは、国民をばかにしている証拠である。それをそのまま伝える新聞もおかしい。日常生活が国民の生活から乖離している。きょう天皇が急死し、きょう年号が「平成」から別のものに変わっても、だれもカレンダーをどうしようと悩んだりしないだろう。
 もうひとつの「官民のシステム改修」の問題。私は「システム改修」など知らないから、感じていることを書くだけだが、「年号」の変更というのはそんなに手間取るものか。市役所で届け出をする。届け出用紙に「平成」と書いてあれば「新元号」に書き換えればすむ。新元号に変わったことは誰もが知っているので、「偽造」のしようがない。市民にとっては困ることは何もない。市役所側も用紙の印刷が間に合わないので、とりあえず「修整」で済ませられるだろう。もし、どうしても「正式な印刷されたもの」でないと困るとしても、そんなものは「半年」もかかるわけがない。どこに印刷を依頼しているか知らないが、印刷所にはひな型(ファイル)があるから「平成」を「新元号」にかえるだけ。その日のうちに処理できるだろう。
 コンピュータ処理に「平成」をつかっているところも、単に「新元号」に変えればいいだけではないか。「平成」から「新元号」をまたいで「期間」を計算するときに手間取るとしても、そんな処理が、「手間取る」といえるほど殺到するだろうか。順次処理すれば大丈夫だろう。
 「昭和」から「平成」に切り替わったときは、コンピュータはそれほど普及していなかったと思うが、移行期に何かトラブルがあり、それが尾を引いたという「事実」でもあるのだろうか。
 説明が、あまりにもばかばかしい。

 問題にしなければならないのは、「国民生活に配慮」という「美しいことば」を口実に、「天皇の生前退位」の「結論」が出ていない段階で、「生前退位」を既定事実にしてしまっている政府の態度である。「有識者会議」の「提言」すら出ていないのに、もう「退位/譲位/新天皇即位」の日が決まっている。
 これは「有識者会議」を「天皇の生前退位」を推し進めるための「アリバイ」につかっているという証拠である。安倍は、籾井NHKをつかって「天皇、生前退位の意向」をスクープさせたときから「19年元日に新元号」を想定していたのである。

 「19年」めぐっては、こういう記事がある。(読売新聞1面)。

(有識者会議で、)「平成30年は一つのメルクマール(指標)」との意見が出ていた。陛下も8月8日、国民に向けたビデオメッセージで「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後に平成30年を迎えます」と、18年が一つの節目になるとの考えを示唆されていた。

 「ビデオメッセージ」には確かに天皇の思いが反映されているだろう。しかし天皇は「無検閲」でそれを発表したのではない。事前に官邸と文言のすり合わせをしていた。その痕跡は、何度も書くが「思われます」「考えられます」というような「婉曲表現」としてくっきりと残っている。「2年後に平成30年を迎えます」が天皇の言いたかったことか、安倍が何としても言わせたかったことか、わからない。一連の動きが安倍によって仕組まれたものであるなら、天皇が「平成30年」を口にしているからといって、それが「生前退位」の期限の「根拠」にはならないだろう。

 前後するが、読売新聞の1面の記事の「前文」に、こう書いてある。

平成30年(2018年)の区切りで天皇陛下の会意を実現するとともに、国民生活への影響を最小限に抑えるため、新元号は元日から始め、事前に公表することが望ましいと判断した。政府は一代限りの退位を可能にする特例法案を20日召集の通常国会に提案する方針で、陛下の即位日は政令で定める法案に明記する。

 最後の一文「陛下の即位日は政令で定める法案に明記する」を読みながら、私は、自民党憲法改正草案の「緊急事態」条項を思い出した。
 そこにこんな一文がある。

緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる

 「政令」で何でも思いのままに国民を拘束する(国民の自由を奪う)というのが「緊急事態条項」だが、それに類似したことがすでに始まっている。「天皇の生前退位」は「緊急事態」ではないかもしれないが、一連の「法律(政令)」を巡る動きはとてもうさんくさい。
 すでに書いたが皇太子が天皇になったあと、秋篠宮を「皇太子待遇」にするということなど「天皇の生前退位特例法(一代限定)」の範疇を超えている。天皇の身分だけの問題ではない。それを「関連法案」という形でごまかしている。憲法、皇室典範そのものを見直さずに、「特例法」「関連法」を積み重ねることで「既成事実」をつくってしまうという作戦のようだ。
 元号がいつかわるかなど、国民の日常生活には直接影響して来ない。そんなものを「国民生活」と結びつけて説明し、「19年元日に新元号」を「事実」にしてしまう。そこから逆に天皇に「生前退位」を迫る--そういう「構図」ができつつある。この「構図」に加担してはいけない。「そうだね、元日に元号かかわると便利だね」などと納得してはならない。元号を元日に変えないとどんな不便があるのか、そのことを問わないといけない。
(風邪で寝ていないといけないのだが、書かずにはいられない。)

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一代限りの特別法は大嘘

2017-01-10 23:11:11 | 自民党憲法改正草案を読む
一代限りの特別法は大嘘
               自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 2017年01月10日毎日新聞夕刊(西部版・4版)は1面に、次の見出し。

19年元日に新元号/国民生活 影響避け/退位関連法案 今春以降提出

 産経新聞の特報の後追い記事らしい。(産経新聞を私は読んでいない。)記事はこう書かれている。

 政府は2019(平成31)年1月1日に皇太子さまが天皇に即位し、同日から新元号とする検討に入った。国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましいと判断した。天皇陛下が昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明した際に「平成30年」に言及したことや、即位に伴う儀式などの準備に要する期間も考慮した。政府は退位に関する関連法案を今春以降、国会に提出する。

 「国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましいと判断した」というのは「もっともらしい」ことばだが、非常にうさんくさい。
 これを「前例」にすると、政府がこれまで言っていた天皇の生前退位は「一代限りの特例法」というあり方があいまいになる。むしろ、私が何度も書いたように天皇の「生前退位」の制度化、摂政の設置をもくろむ安倍の意図が露骨に出てきたと見るべきだろう。
 なぜ、私はそう考えるか。
 「国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましい」というのなら、次の「元号の変わる日」も「元日」が望ましいということになる。いったん「元号」の変わる日を「元日」と決めてしまえば、それを踏襲する方が「国民生活への影響」が少ないということになる。
 「平成31年」の「次の次の元号」が天皇が死んでから決めるというのでは、いまのような、「何日から新元号」なのかわからない状態にもどってしまう。これはいったん「1月1日」が元号の始まりという制度になじんだものにとっては、とても不便だろう。
 それを「口実」に安倍は、次も、さらにその次も「元号の変わり目は1月1日」を前提にして、天皇の退位をせまるということが起きるはずである。

 「国民生活への影響を避けるため」というのは、聞こえはいいが、これは安倍の「天皇を自在に退位させる」という口実になるだけである。だいたい、いつを元号の変わり目にするか決めるということは「一代限り」の問題ではなく、すでに「二代」にわたっている。ここに、安倍の大嘘があるのだが、これをもう少し別の視点から補足する。
 「国民生活への影響を避けるため」に似た表現は、8月の天皇の「おことば」のなかにもある。私は8月の「おことば」を天皇の自発的な発言とは受け止めていない。安倍と籾井NHKによって「生前退位の意向」のスクープが仕組まれ、さらに「発言」を強要されたものだと受け止めている。その「証拠」と言えるのが、次の部分である。今回の「国民生活への影響を避けるため」に類似した表現は、こうつかわれている。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 「国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ」と「国民生活への影響を避けるため」には共通する部分がある。
 そして、何よりも重要なのは、このとき、天皇は「懸念します」ではなく「懸念されます」と「婉曲」に表現していることである。
 何度も書くが、8月の「おことば」には不自然な「婉曲表現」がほかにも、「思われます」「考えられます」がある。天皇がなぜ「婉曲表現」をつかっているのか。それは、その部分に語られていることが天皇の思いではなく、安倍の思いだからだろう。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。

 特に、「摂政」についての部分に注目したい。「天皇の行為を代行する摂政を置くこと」を「考え」たのは安倍である。それに対して天皇は摂政では駄目だと反論した。そういう経緯はすでに新聞などで報道されている。安倍は摂政の設置を考えたが、天皇は考えなかったという「交渉経過」がそこには隠されている。

 「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ」というのは昭和天皇が死んだときの前後のことを語っているようだが、ほんとうに影響したかどうか、私は怪しんでいる。
 昭和天皇が死んだ日のことを思い出してみるといい。テレビが昭和天皇のニュースばかりになったので、国民の多くはビデオ屋へ走った。どのビデオ屋も在庫がなくなるくらいにビデオが貸し出された。みんな退屈し、ビデオを見ることで時間をつぶしたのである。いちばん大きな「影響」は、そういうものだった。ビデオ屋がいちばんもうかった。

 天皇に、こんなことを言わせるのは、安倍が「経済」だけを国のあり方だと考えているからだ。
 自民党憲法改正草案の前文に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 安倍は「国民生活への影響」ではなく「経済活動への影響」を考え、それですべてを押し切ろうとしている。金さえもうかれば、それでいい。自民党に企業が献金してくれればそれだけでいいとしか考えていない。

 安倍はいったい何を考えているのか。「妄想」ついでに、さらに私の「妄想」をもっと書いておこう。
 「元号」を「1月1日で変える」という方針で、今後の天皇の「交代」を進める。皇太子には男子のこども(次期皇太子)がいないという問題がある。雅子の健康状態や、愛子の問題もある。秋篠宮には男子のこどもがいる。皇位継承権を持っている。皇太子を「天皇」にしたあと、秋篠宮を「皇太子待遇」にする。(これはすでに報道されている。)皇太子の「天皇在位期間」はすでに決まっているのだろう。秋篠宮の「天皇在位期間」、悠仁の「摂政在位期間」というのも決まっている。そういう「日程」を想定しての動きが、もう始まっていると見るべきだろう。そして、その「日程表」の「口実」に「国民生活への影響」が利用されている。

 ちょっと振り返ってみればいい。昭和から平成に元号がかわって、そのことで大変な苦労をしたという国民がいるだろうか。年齢の数え方がわからなくなったとか、免許証の切替日を間違えたとか、パソコンのデータが消えたとか。
 1月1日で元号が変われば、なんとなく「わかりやすい」感じがするだけで、そんなものは国民生活とは実質的に関係がない。
 「国民生活への配慮」のよう「美しいことば」には嘘が隠されている。見逃してはならない。

 もうひとつ。(風邪で体調が悪いので書きそびれていたが。きょうも書かずに寝るつもりでいたのだが。)
 2017年01月09日西日本新聞朝刊(14版)に、次の見出し。

皇室典範不足に根拠規定/退位特別法で政府検討 

 記事は、こうなっている。

 天皇陛下の退位を実現する一代限定の特別法を巡り、政府が同法の根拠規定を皇室典範の不足に置く案を検討していることが分かった。特別法の退位に関する効力は現在の陛下に限られるが、その後も残る規定を典範に設ければ、次以降の天皇の退位に含みを持たせられるとして、有識者会議が注目。政府も憲法違反の疑念を回避する方策として議論の俎上に載せている。

 特別法を皇室典範の付則に置くくらいなら、皇室典範そのものを改定すべきだろうが、そうしない。そこにも問題があるが、

次以降の天皇の退位に含みを持たせられるとして、

 という一文が強烈である。すごい。「次以降の天皇の退位」のことを安倍は考えているということを、「証明」している。
 「新元号の設定日」と「皇室典範付則」の記事を結びつければ、安倍の狙いは、天皇の「在位」を自在に操作すること、安倍に不都合な天皇は退位させ、摂政を置き、政治をあやつることだとわかる。「摂政」は今の皇太子の年齢よりも、ぐんと若い悠仁の方があやつりやすいだろう。「摂政」の父になる秋篠宮にも「恩」を得る形になるだろう。「悠仁天皇」の生みの親として権力を奮うのである。



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しばらく休みます(代筆)

2017-01-10 13:04:16 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。
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ラース・クラウメ監督「アイヒマンを追え!」(★★★★)

2017-01-09 10:54:42 | 映画
監督 ラース・クラウメ 出演 ブルクハルト・クラウスナー、ロナルト・ツェアフェルト、セバスチャン・ブロムベルグ

 アルゼンチン・ブエノスアイレスに逃亡していたアイヒマンはモサドによって拘束されたが、その影にはドイツの検事がいた。バウアー検事こそがアイヒマンを見つけ出し、拘束の貢献者だった、という映画なのだが。
 主眼はアイヒマンの追跡にない。アイヒマン追跡はむしろ脇役である。
 描かれているのは戦後のドイツの中枢にいかに多くのナチスの残党がいたかということ。彼らはアイヒマンの拘束をどんなに恐れていたか。アイヒマンがつかまれば、芋づる式に逮捕されてしまう。だから検事の邪魔をする。
 冒頭、検事が風呂場でおぼれかけるシーンがある。事故か、自殺未遂か、自殺を装った殺人未遂か。明らかにされないが、捜査員が睡眠薬の瓶から薬を大量にポケットに滑り込ませる。「自殺未遂」に見せかけるための工作である。精神的に不安定な検事にアイヒマン追跡をまかせておいていいのか。風潮をつくりだすことで、検事を追放しようとしている。
 さらに検事がコペンハーゲン(だったかな?)で逮捕されたときの逮捕状のコピーも登場する。検事はゲイで、禁止されている行為をした。何かあれば、それを利用して検事を追い出そうというのである。
 アイヒマン拘束を妨げているのは、捜査機関(検察)内部の、ナチスの残党である。自分の悪を知られたくない。自分が逮捕されるのは免れたい。いまのままの地位に、あるいはさらに上の地位をめざしたい。欲望が「正義」をさまたげている。
 この「構図」はとてもおもしろい。
 ここに、もうひとつ、エピソードが絡んでくる。バウアー検事を補佐する若手の検事。彼もゲイだった。ゲイであることを隠しているが、妻が妊娠したと知らされ、安心して(?)男に会いに行く。そのとき検察の上司から、男と会っていたときの写真を突きつけられる。「公表されたくなかったら、我々に協力しろ」という。バウアー検事はアイヒマンをモサドから引き渡してもらい、ドイツで裁判にかけるつもりだった。そうならないようにしろ、妨害しろ。
 若手検事は、圧力に屈してしまう。誰にでも秘密がある。知られたくないことがある。ナチスの残党はナチスの残党であることを知られたくない。ゲイの検事はゲイであることを知られたくない。秘密は「知られたくない」という形で迫ってくるとき、「弱み」になる。
 「秘密」ではなく「弱み」。
 もし、それが「弱み」ならば、それを乗り越えることもできるかもしれない。いや、克服しないければならない問題かもしれない。「弱み」を克服しない限り、ひとは前へ進めない。
 最後の方にさらりと描かれているが、若手検事はバウアー検事がアイヒマンの裁判を逃してしまって落ち込む姿を見て、自分の「弱さ」を心底実感する。警察に出向く。ゲイ行為をした、と告白するためである。逮捕されるためである。
 その後、彼がどうなったかは映画では描かれていない。彼の秘密(弱み)が、暴かれるべきだった「真実」の全体像を隠してしまったということが暗示されるだけである。
 映画は、アイヒマンの追跡そのものを描いているのではない。アイヒマンを追跡するドイツ人の「正直」がどんなものであったかを描いている。若手検事のエピソードは小さなものだが、とても重要だ。ひとは自分自身の「弱み」を越えていかない限り「正直」にはなれない。「真実」にはたどりつけない。
 ナチスの中枢にいた人間のなかには、知らず知らずにナチスに組み込まれた人もいるだろう。バウアー検事も一度反ナチから離れてしまったことがあるということが語られている。「事実」をどう見つめ、どう克服するか。バウアー検事の場合、アイヒマンを追うことで自分の「弱み(悪)」を克服しようとした。「正義」だけが、自分自身の「悪(弱み」を正してくれる。
 そういうことを映画は語りかける。

 人間は誰でも「絶対的正義」よりも自分自身の保身を考える。「正義」は他人にまかせておけるけれど、「保身」は他人にはまかせられない。遠くの「正義」よりも自分の身近にあるものの方が大切。
 しかし、この「凡庸な願い」こそが「悪の温床」なのかもしれない。
 ドイツ人は、その「悪の温床」をひとりずつ克服して、いまのドイツを築いたのだろう。そういうことを教えてくれる映画である。
 派手なアクションも、はらはらどきどきのサスペンスもない。その分、見終わったあと、ずしりと重みがのしかかってくる。
                      (KBCシネマ2、2017年01月08日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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龍秀美『父音』

2017-01-08 11:19:49 | 詩集
龍秀美『父音』(土曜美術紗出版販売、2016年12月15日発行)

 龍秀美の父は台湾の人である。この詩集には「きょうはんしゃ(共犯者)」という形で登場してくる。台湾生まれの父と生きることで「聞こえる声」がある。その「声」に耳を済ましている。「声」は基本的に「ひとり」のものだが、ことばは「ひとり」のものではなく共有されて動いている。共有は「無意識」のときもある。「無意識」が「声」をつきやぶると、同じことばが違うことばに聞こえることもある。「違い」は、しかし、なかなか説明するのがむずかしい。ふいに見える何か、「あっ、見えた」と感じる何か。
 「一九八一年刊『民衆日韓辞典』」が「とっかかり」としてはおもしろいかもしれない。職場の大掃除をしていて偶然見つけた辞書。おもしろい例が載っている。

<きんたま>=文例1:~火鉢
なるほど 日本のどの辞書でも
文例の1にこれは載っていないだろう

ぱっと開いたページに
<し>=文例1:ふぐは食いたし、命は惜しし……

 『民衆日韓辞典』というのだから民衆の「口語」から、ことばがどうつかわれているかを「例文」としてつかみとるというものなのだろう。頭で整理する前の、なまなましい「肉体」を感じる。
 特に「きんたま火鉢」がおもしろい。「体(肉体)」が芯から冷えたとききんたまをあたためると体があたたまる。「実感」が動いている。「ふぐは食いたし、命は惜しし」も「肉体」の欲望が直接的でいい。「肉体の正直」が強くあらわれた辞典だ。
 龍の感想を省略して、ことばと文例だけを引用してみる。

<おんな>=文例1:~になる 文例2:~のくさったような
文例3:~ネコ 文例4:~をこしらえる 文例5:~を囲う
<色>=文例1:あの芸者は社長の色だ
<だんな>=文例1:~お安くしておきます

 日本人の周りにいる韓国人が必要に迫られて覚えたことばである。日本人に対する韓国人の姿勢が見え、また韓国人に対する日本人の姿勢が見える。
 同じようなものが台湾にもあったかもしれない。一九八一年ではなく、もっと昔に作られていたかもしれない。

<語る>=文例1:~に落ちる
<治下>=文例1:他国の~に苦しんだ時代

 笑って読みとばそうとすると、その奥から「苦しみ」が聞こえてくる。どんなことばにも「苦しみ」の共有がある。「苦しみ」が「声」になろうとして、動き回っている。
 「民衆」とは違う場所では違うことばが動いていただろう。けれど「民衆」の「肉体」のなかで動いているのは、こういうことばなのである。その奥底の「力」とどう自分を結びつけていくか、連帯するかというのはむずかしい問題である。むずかしいけれど、龍は、むずかしいところを結びつけ、ことばを生み出そうとしている。その姿勢がつたわってくる。例文は龍のことばではないから龍の詩ではないという見方もできるかもしれないが、いろいろなことばから例文を選択するとき、そこに龍がいる。龍の「肉体」がそこにある。だから、引用であっても、それは龍の詩なのである。

 龍は「民衆の声」を聞き取り、それを「ことば」として引き継ぎ、残そうとしている。「跨いだ原爆--ある証言」は長崎で被爆者の遺体を運んだ男の証言である。多くの人に読んでもらいたい作品だが、それは詩集にまかせて、別な作品について書こう。
「母が言う--芭蕉とバナナ」。龍の父と母が登場する。夫婦でやってきた商売をたたみ、植物園に行ってきた。花が少なくて母にはつまらないのだが、父はおもしろかったという。サボテンや葉っぱを「生まれて初めて植物を見たみたいに」見つめる。商売をやめて「初めて周りの物を/落ち着いて見ることができた」とでもいうかのように。その様子を見ながら、母は思う。

じゃあ これまで見えていたのは
いったい何だったの
わたしと一緒に見てきたはずのものは--

 「違う風景」。「違い」は「ことば」にならないと、なかなかわからない。『民衆日韓辞典』のようなもの、『家族日台辞典』のようなものは、意識されたことがない。
 それが思いがけない形で、このときに母の「肉体」を貫く。

あのね
丈の高い南方芭蕉の木と
それよりちょっと低いバナナの木があって
私には区別がつかないんだけれど
「こっちの木の方にバナナが生るんだ」
って説明するの
わたしゃ驚いたのなんのって
あの人と六十年つきあってるけど
台湾のこと説明してくれたの初めてよ

 「私には区別がつかない」が強い。「私には区別がつかないけれど、父には区別がつく」。「違い」が見える。違いを「バナナ」と「芭蕉」という「ことば」にできる。父は(夫は)母に(妻に)、芭蕉とバナナの区別をしながら生きてきた思い出を語る。「肉体」が覚えていることを語る。その「肉体」は、きっと母が「区別がつかない」多くのことを見分けてきたはずである。「違い」を「肉体」のなかの「辞典」にしまいこんでいるはずである。面と向かっては話さない。けれど、動いていたことばがあるはずである。

のっぽの芭蕉の木がぼんやり突っ立っていて
それより少し小ぶりのバナナの木が
のほほんとあっちを向いている--
この二つの違いを
あの人は六十年目に初めてわたしに話してくれたの

ほんの少しの違いなんだけどね
どうってことないことだけどね

 最後の二行は、むずかしい。
 「ほんの少しの違い」「どうってことのないこと(違い)」と思いたい。そう思う人がいる。一方で、そう思えないひともいる。「ほんの少しの違い」と思ってみても、実際に気がついてみると、そこからどんどん「違い」が目につくようになることがある。
 「ことば」はいつでも解きほぐされ、もう一度生まれ変わって動き出したい願っている。そのとき、「遠く」で聞こえるどの「声」といっしょに自分の「声」を動かすか。自分の「声」を重ねるか。言い換えると、だれと「共犯者」になるか。
 龍は、父の「声」の方に、龍自身のことばの可能性をかけようとしている。「共犯者」になるとは、そういうことだと思いながら読んだ。
詩集 TAIWAN
クリエーター情報なし
詩学社
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宮城ま咲『よるのはんせいかい』

2017-01-07 09:31:50 | 詩集
宮城ま咲『よるのはんせいかい』(土曜美術紗出版販売、2016年11月22日発行)

 宮城ま咲『よるのはんせいかい』は父親の思い出を書いている。父親の思い出というよりも、死んだ父の思い出といえばいいのか、父の死とどう向き合ったかという思い出といえばいいのか。
 「雪は確かに好きだけれど」。

父が死んだ夜
めったにないほどの大雪
電線にまで雪が積もった朝
きっと今日は
校庭の使用時間を割り振って
たくさんのクラスの子たちが雪合戦
だけど私はお休み
今日はひとりであそぶ
ひとりきりで
かまくら作って
雪だるま作って
しずかな小さな庭を
行ったり来たりするんだ

 「今日はひとりであそぶ」を「ひとりきりで」と言いなおす。その「ひとり」の繰り返しに、宮城がひたすら自分の「枠」を守っている姿が見える。
 「こどもの役」では、これはこう語り直されている。

つもっている雪で
夢中になって遊んだ
一月の薄暗い昼
かまくらを作った
体が
まだそばにあるうちに
おとうさんと
雪遊びしているつもりで

周りのみんなは
私がこどもだから
人の死が理解できなくて
めそめそしてないんだと
思ったかも

「これは良くない!
 明るくしなきゃ、
 元気づけなきゃ…」
むじゃきに家の中歩き回って
台所のお菓子を食べたっけ

 「こどもの役(役割)」を考えて、それにあうように自分の行動を整えている。「こどもの役」という「枠」のなかで自分を動かしている。
 そういう「枠」のなかで行動するという悲しみからやっと解放されて、いま、こうやってあのときはこうだったなあと悲しんでいる。その悲しむことができるようになった切なさがことばを支えている。
 「夏休み」は「ぼく」を語り手にして、ラジオ体操に遅れたときのことを書いている。

めざまし時計は
かけていましたが
ねむいならやすんでいいよと
おかあさんにいわれました
たいそうカードには
うちの印かんをおしました

 ここには、母が宮城に対してどう向き合ったかがしずかに書かれている。家の中に悲しみが疲労のようにつもっている感じがする。家をむしばんでいるとさえいえるかもしれない。

ことしは
夏休みの宿題がはかどりません
しんがっきがこわいので
タンスのかげにすわって
タオルでぎゅうぎゅうと
くちをふさいでいたら
おかあさんがきたので
やめました
そのひの夜も
タンスのまえにふとんを
ふたつしいてねました
みっつしいていた時には
へやいっぱいでした
みっつしいていた頃は
ろくじはんから
ラジオたいそうしていました
夏休みの宿題を全部提出していました

 「ふたつ」と「みっつ」。一つ少ないだけで「いっぱい」が「いっぱい」でなくなる。「タオルでぎゅうぎゅうと/くちをふさいでいたら」にはどきりとする怖さがあるが、「ぎゅうぎゅう」は「いっぱい」につうじる。タオルを口「いっぱい」にふさいでいたら、ということだろう。何かで「いっぱい」にしたい。自分の肉体を「いっぱい」にしたいという感じなのだろう。

 こういう言い方が適切かどうかわからないが、いろいろな詩を書くことで、悲しみがすこしずつ蘇ってきて、宮城の「肉体」のなかに「いっぱい」になって、その充実感がいまの宮城を支えている、という感じがする。
 悲しむということは大切なことだ。
 悲しみを押し殺してしまうと、「からっぽ」が増えてくる。「からっぽ」を乗り越えて「いっぱい」を生き始めているということが、じわりとつたわってくる詩集。

よるのはんせいかい
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)

2017-01-06 19:34:23 | 自民党憲法改正草案を読む
添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)
               自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』は刺激的な一冊である。「象徴天皇制」についての指摘が鋭い。「反知性主義クーデターに抗する存在について」という文章の次のくだり。

天皇の今回の「おことば」が画期的なのは、「象徴天皇制」というものの思想的な核心について、歴史上はじめて、「象徴」たる天皇その人がみずから言葉にして語ったものだからである。                            (50ページ)

 天皇が自分のことばで象徴天皇制について「はじめて」語った。これは「事実」である。しかし「事実」であるからこそ、私は見落としていた。「思想的意義」を考えたことがなかった。ほかのことに気を取られていた。もう一度、読み直してみようと思った。
 このことを踏まえて、添田は「日本国憲法と<象徴存在>」「象徴と民心」という文書を展開している。
 その「日本国憲法と<象徴存在>」なかで、先の部分は、こう言いなおされている。

 あの時、テレビ画面のなかに見えていたのは誰だったのだろうか。それは、憲法上の規定によって基本的人権もプライベートも奪われた<象徴>という没主体が、みずから<声>を発しそれを音声装置を使って増幅させることで、遂にみずからを<象徴存在>の位相にまで押し上げるのに成功した、天皇という制度的地位にある実体なき者の前代未聞の姿だったのである。                          (73ページ)

 この考えの基本には

<象徴>はシンボルであって、それ自体けっして実体ではない    (75ページ)

 という「思想」がある。「思想の言葉」(75ページ)で、添田は「象徴天皇制」をとらえなおし、天皇のことばを読み解いているということになると思う。
 ここから沖縄戦終結の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日、さらにサイパン、パラオの激戦地の慰霊に触れて、こう書く。

実体をもたない<象徴>としての卓越したその存在様式が、敵も味方も含めてすべての戦没者を普遍的に慰霊するという、これまで誰にもなし得なかった象徴行為を可能にした。
                                 (76ページ)

 とてもよくわかる。
 こういうことを通して、添田は、

「象徴天皇の務め」が、天皇の数ある「象徴的行為」のなかでも、他の者には、たとえ血の繋がった親族であっても、それを代行することができない極めて特別な「務め」であると、再認識しないわけにはいかないのだ。                    (54ページ)

 と書く。「象徴天皇」と天皇の強い「一体性」を再認識したということだろう。

 それは、よくわかるのだが(頭でわかったつもりになるのだが)、書かれていることが美しすぎないか、と思ってしまう。私は「観念の世界では霊(魂)とは紛れもない実体」(59ページ)のようには考えることができないからかもしれない。
 私は「観念の世界では」というのは、ことばを動かすための「方便(方法論)」だと思っているし、「魂/霊」というものを見たことがないので「実体」ととらえることができないからかもしれない。私は「思想の言葉」(観念のことば)が苦手である。添田の書いていることの1割も把握できていないかもしれない。
 天皇は、私にとっては「実体をもたない<象徴>」ではない。「肉体」をもった「人間」。「存在」が「象徴」なのではなく、「行動」が何かを「象徴する」。沖縄、広島、長崎、激戦地へ行って「頭を下げる(深く祈る)」という行為(動詞)が、そのまま多くの人の「祈る」という動詞を一身に集め、統合する(象徴する)と考えている。「祈り」を「統合/象徴」するのではなく「祈る」というのはこういう風に頭を下げて、思いを巡らすこと、自分はこれから平和に生きていくと誓うことなのだと「肉体の動き」としてひとに示すことだと思っている。
 「世界」にあるのは「肉体」と「行為(動詞)」。「象徴する」という「行為」はあっても「象徴」という「名詞(存在)」は考えにくい。

 籾井NHKのスクープ、さらには宮内庁幹部の「報復人事」についても、私は添田とは違った考えを持っている。こういうことは添田の本に対する感想ではなくて、他の形で書いた方がいいのかもしれないが……。
 籾井NHKのスクープについて、45ページにこう書いてある。

「天皇の生前退位」にまつわる一連の問題に、国民の注意を惹きつけると共に、この問題を考えるきっかけまで提供するという、絶大な効果がこのニュースの発表にあったことは間違いない。その結果、もっとも損をするのは誰なのか。

 添田は「損をするのは誰なのか」という視点から見ている。そして「安倍政権が損をする」と結論づけている。皇室典範の改正などに取り組まないといけない。憲法改正の日程が狂う、という。
 逆に「得をするのはだれか」という視点から見るとどうなるのだろう。天皇や宮内庁の得になるのか。憲法改正を遅れさせることができれば天皇の「得になる」のか。
 ひとは、こうすれば他人に「損を与えることができる」ということだけでは行動しない。「損をさせる」は一時的なことである。「得をする」ことをもくろんで行動すると思う。私は「得をするのは誰か」という点から今回を動きを見ている。
 安倍に、どんな「得」があったか。
(1)天皇には国事に関する権能を有しないと天皇に言わせることができた。
(2)ビデオの発言は「個人的なもの」であると言わせることができた。
(3)高齢である、そのために「務め」が果たせないかもしれない、と言わせることができた。
 8月8日の天皇発言には、とても変な表現がある。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 「思われます」「考えられます」「懸念されます」。直接表現ではなく、婉曲表現である。天皇なのに「思います」「考えます」「懸念します」と直接言っていない。「誰か」が「思う」「考える」「懸念する」。そのことを配慮しているように聞こえる。そう「思う」「考える」「懸念する」ひとがいるので、そのテーマに関して「思われます」「考えられます」「懸念されます」と言っていると私は感じる。
 天皇はいつでも「思います」「考えます」というようなことばを使っている。「思い起こされます」という表現は、他の「ことば」のなかに何回か見かけるが、それは「思い起こした対象」を尊重(尊敬)しての表現である。大変感動を与えてくれたので、そのことが自然と「思い起こされる」というつかい方だ。
 添田は、籾井NHKのスクープから8月8日の放送までの「手際」の良さについて、こう書いている。

7月13日のNHKニュースが8月8日の「おことば」公表を実現させるための前哨戦だった可能性を示唆するものだ。つまり、天皇ご自身によるお気持ちの表明こそが、これら一連の動きの当面の山場、つまりプロジェクト目標だったことが窺える。 (48ページ)

 添田は、安倍に「損をさせる」ためのプロジェクトと考えているのだが、私は「天皇のことば」を引き出すための計画と考えている。天皇が自分から言うのではなく、天皇に言わせるのだ。「国事に関する権能を有しない」(何か言うと憲法違反になる。言っていることは「個人的なたわごと」と天皇自身に言わせる)「高齢で務めが果たせない」。
 それが国民につたわれば、この問題提起がどういう形におさまるにしろ、天皇を退位させることができる。「退位したい」と天皇が言っていると国民が感じれば、天皇の思いに沿うのがいいのでは、と国民は思う。天皇は退位するしかない。
 添田は、こう書いている。

天皇は自身の「生前退位」のことに直接触れてはいない。むしろ、天皇は象徴としての務めを「全身全霊」で全うしなければならないこと。また、そのためには、摂政では駄目なのだと言っているのである。ここには、明らかに<8・8ビデオメッセージ>が孕む真実の意図の、マスコミによる隠蔽操作=すり替えが働いているのだ。それは、つまり、天皇は現在もこれからも<象徴>として存在しなくてはならないという陛下ご自身の強い意思の表明だったものを、高齢に伴う健康不安から自分がまだ元気なうちに譲位することを図りたいという皇位継承問題に、まんまとすり替えたのである。   (24-25ページ)

 私は「すり替え」ではなく、安倍は最初から、そうするために籾井NHKを使って「仕組んだ」と見ている。最初から仕組まれているからこそ、マスコミがやすやすとその方向性にのみこまれた。
 もし「天皇が時の政権に対して真っ向から闘いを挑む」(24ページ)というものだったら、すくなくともスクープした籾井NHKは違った報道の仕方ができたはずである。するはずである。
 添田はまたスクープに「橋口和人・宮内庁キャップ、社会部副部長」の存在が大きく関与していると報じられたと書いている(43ページ)。そこに、その橋口が

秋篠宮をはじめ皇室の信頼が篤いとされる

 という注目すべき一文がある。
 私は、このニュースを知らなかったが、この情報で、天皇を退かせ、摂政を設置することで天皇制度を自在にあやつることを狙っている安倍がリークしたのだということが「予感」ではなく「確信」にかわった。
 秋篠宮には悠仁という「男子」の子どもがいる。安倍は天皇を退位させたあと、いろいろ「難癖」をつけて(皇太子が天皇になると、つぎの皇太子が不在になるとか)、皇太子や秋篠宮を飛び越えて悠仁を摂政に据えることをもくろんでいる。私は籾井NHKのスクープのときから、そう「予感」していた。
 秋篠宮はたしか天皇の「定年制」について語ったことがあると思う。そのころから安倍は皇太子ではなく秋篠宮に接近していたのだろう。秋篠宮を利用することを考えていたのだろう。
 「生前退位」を巡る特例法に関しては、先日読売新聞が、秋篠宮を「皇太子待遇」にするという関連法も一括上程されるとの予測を書いていたが、これも「摂政・悠仁」へ直結する動きである。

 「宮内庁報復人事」についても、私は添田とはまったく違った見方をしている。添田は籾井NHKのスクープについて、風岡宮内庁長官が関与していると読んでいる。風岡がリークし、天皇のメッセージ発表という動きたために安倍の憲法改正論議が遅れた。だから報復として風岡を更迭し、西村内閣危機管理官を送り込んだ。

一部報道によると「お気持ち表明に関し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」(政府関係者)とか、「陛下が思い止まるように動くべきだった」(同)との声がある。
                                 (78ページ)
 
 この報道は、私も読んだが、それこそ「すり替え」にしか見えない。「天皇の象徴としての務め」に関するメッセージを「生前退位の意思表明」と「すり替えた」のと同じように、安倍主導のスクープなのに、宮内庁のリークというストーリーに「すり替え」、「報復人事」という「一般受けしやすい事実」で隠蔽したのである。
 今後、風岡が「あのスクープは私がリークしたのではない。安倍が仕組んだものだ」と言ったとしても、それは「報復人事」を受けた人間の「捏造」と見なされるだろう。「見苦しい抵抗」と批判されるだろう。
 安倍は、それくらいのことはやってのけるだろう。

 ついでに書いておけば。
 新しいNHK会長の交代。参院選では「選挙報道をしない作戦」で安倍に大勝をもたらし、「天皇、生前退位意向」のスクープでも安倍の天皇降ろし作戦に貢献した籾井が会長をつづけられなかったのはなぜか。
 「用済み」と見なされたということだろう。
 これ以上籾井をつかえば、「選挙報道をしない作戦」「天皇生前退位スクープ」がNHKをつかった情報操作であることが明確になってしまう。籾井は軽率な発言が多い。ここで切り捨て、次はもっと隠蔽工作のうまいやつをつかわないと、と考えたのだろう。
 新会長になる上田はNHK経営委員会の委員。NHK経営委員会とは「執行部を監督する」機関らしい。つまり、籾井を「監督する」ということも仕事に含まれていたはずだ。そこから会長が選ばれたということは、籾井の痕跡隠しをはじめるということだろう。さらに籾井以上の「貢献」が見込めると判断されたからNHK会長に選ばれたのだろう。
 NHKが、今後、「生前退位」をめぐってどう動くか、それに注目しないといけない。国会論議をどれだけ報道するか、報道のとき誰の発言を強調し、誰の発言をカットするか。そういうことを注目しないといけない。(私は目が悪くてテレビを見ることがないので、直接はNHKの動きを見つめるということはできないのだが……。)
天皇陛下〈8・8ビデオメッセージ〉の真実
添田馨
不知火書房
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