詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉木一平『灰と家』

2016-12-07 16:17:19 | 詩集
杉木一平『灰と家』(いぬのせなか叢書1)(いぬのせなか座、2016年11月23日発行)

 杉木一平『灰と家』は縦組みと横組み、あるいは俳句(?)と散文が組み合わさったりしている。対になっているというよりも「呼応」という感じがする。「和音」をつくっている。
 たとえば10ページ(縦組み)と11ページ(横組み)の作品。

水際をつなぐ、球のみずうみ
あじさいの花を着る鹿は、一滴の
輪になって、首すじに浮かぶ月の光を考える             (10ページ)

油粘土に木べらで彫られた読めない字、ある日、友だちがそれを残していなくなる。粘土は手に持っただけで指紋がつくほどやわらかく、なんて書かれてあるのか会って聞ける日はもうぜったいに来ない気がした。                 (11ページ)

 「鹿」は「友だち」と入れ替わることで、互いの「旋律」が浮き立つ。実際には入れ替わらないのだが、「鹿」は10ページに固定されない。「友だち」は11ページに固定されない。
 この「入れ替わる」という「可能性」が、それぞれのページのなかのことばでも起きる。
 「水際」は「みずうみ」の「一滴」の「(水)球」であり、その「一滴」のなかに「月」があるとき、「月」そのものが「水際」「みずうみ」「一滴」「球」を生み出している。「鹿」は「あじさいの花」を「着る」のか、「あじさいの花」が「鹿」を「着る」のか。「動詞」も固定化できない。
 学校文法では「あじさいの花を着る鹿」というとき「鹿」が「主語」だが、倒置法で書かれることで「主語」は微妙になる。ことばを「頭」で整理する前は、ことばの順序に従い、「着る」が「主語」であり「述語」が「鹿」なのだ。「着る」という「動詞」が主体になって動いていく。そのとき「あじさいの花」が「鹿」を「着る」ということが起きてもかまわない。
 「油粘土に木べらで彫られた読めない字」にはふたつの「動詞」がある。「彫られた/彫る」「読めない/読む」。「字」が「読めない」ならば「字」ではない。「彫られた」ものは「字」ではない。しかし、「彫る」「読む」という「動詞」が「字」を生み出してしまう。「字」は「名詞」としてあらかじめ存在しているのではなく、「生まれてくる」存在である。
 ほんとうは「生まれてくる」という動きだけがある。
 油粘土に木べらが何かを「彫る」と、「彫られた」ものが「字」になって生まれてくる。しかし、「字」としては「読めない」ので「字」そのものではなく、「生まれる」ということだけが「存在する」。そこから逆に「字」を生み出す「粘土」「木べら」という存在が生み出される。「字」の不在によって。
 「粘土」「木べら」「字」は互いの中へ帰りながら、生まれ続けるしかない。
 何かが生まれてくる「場」、生まれてきた「存在」は、入れ替わる。「存在」が何かを生み出す「場」になり、存在になる前の「場」が存在していることを主張する。

部屋が、わたしの住んでいた部屋から、わたしが住んでいたことを思いだす部屋になろうとしていた。                           (11ページ)

 「存在(名詞)」は固定化した形で最初から存在するのではない。つねに生み出される。既存のものとみえるものも、固定化される存在ではなく、新しい何かを生み出すものにかわる。同じ「部屋」ということばで呼ばれたとしても、最初に存在した「部屋」と生み出された「部屋」は違った存在である。
 違ったものが「同じことば(名詞)」で呼ばれるならば、違った名前(名詞)で呼ばれるものが「同じ」であってもかまわない。このとき「同じ」は固定化された「もの」ではなく、「生み出す」という動詞が生きる「場」そのものである。
 形を持たない「場」が「形(存在/名詞)」を生み出すという運動があり、その運動を「詩」と呼べばいいのかもしれない。

 あるいは、この果てしない運動を「断念」と呼ぶこともできるかもしれない。「固定化の断念」である。あるがままを受け入れる。自分の都合(頭)にあわせて、固定化しない。

立って見てもしゃがんで見ても、海岸線は線のまま
うしろの山から見ると
波打つ山の線、含まれる森の境がふるえて
鳴き声が
今度は目があきらめて、気配だけで海が
山は山、森は森のかたちを踏み越えて
たった今
わたしの住んでいた家を横切っていく               ( 108ページ)

 「あきらめる」という「動詞」がある。海(海岸線)とは何か、どこにあるか。山(森)とは何か、どこにあるか。その「境」は何か、どこにあるか。どこにもない。断定するのをあきらめ、海を見るとき海が生まれ、山を見るとき山が生まれる。「形」は流動する。確かなのは「生まれる」という運動だけである。
 生み出すものと、生み出されたもの、生み出されたものが生み出すものにかわり、何かを生み出す。その運動の「呼応」が「和音」のように聞こえる。

小屋のなかで湯気を立てているアイロンと 茶色いしみのいっぱいついたアイロン台
                              (ページ番号なし)

歩きつかれた景色のとなりで、呼ばれたように頭をあげた
雨粒がその黒目に映る、たくさんの目を映したあとで
消える
そのときは、じぶんの弾ける音で目をさます             (94ページ)

水のかよっていた頃を、いまも練習する木々は           ( 112ページ)

輪郭がこわれないように、たてかけた雨が清書する       ( 113ページ)

餅突きや雪の積もらぬ木のまわり           (餅搗きか?)(48ページ)

山本や鮭とばを急に食べる人だね                  (49ページ)

海一滴を浮かべて牛の眠りかな                   (51ページ)

とおくの椅子のごと軋まんや春楡は                 (56ページ)

 これらの行や俳句(?)も刺激的で、ここからまた別のことばも動かせるかもしれないと感じた。本文の文字が目の悪い私には苦痛で、書き切れなかった。
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なぜ今、真珠湾慰霊?

2016-12-06 12:15:17 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ今、真珠湾慰霊?
               自民党憲法改正草案を読む/番外50(情報の読み方)

 安倍が真珠湾慰霊をすることになった。同時にオバマと「最後の首脳会談」もすることになった、と2016年12月06日の読売新聞(西部版・14版)は伝えている。3面に「裏話」が載っている。「裏話」というのは、こんな具合にすべてが決まってから出てくるのが常識。先日の「日露外相会談」で出てきた「安倍の方から、5月に経済協力(経済投資)の話が出た」というようなことは、極めて異例。途中で「裏話」が出てしまうと、交渉過程そのものが批判対象になる。いわゆる「静かな雰囲気」というものがなくなり、交渉に影響が出る。
 で、話を戻して……。
 この「真珠湾慰霊」の「裏話」が傑作である。読売新聞は「昨年から検討「広島訪問」が転機」という見出しで全体の流れをあらわしているが、とてもそんなふうには読めない。「昨年から検討」というのは、いつでも言える。「一昨年から」とでも「首相就任当時から」とでも。「証拠」がない。
 オバマが「広島訪問」をした。それがきっかけ、という部分を記事はどう書いているか。

真珠湾訪問に関して、首相は積極的ではないとみられてきた。今年5月のオバマ大統領による広島訪問の際は、米国務省が首相の真珠湾訪問を水面下で働きかけたが、日本側は断っていた。(略)
 潮目が変わったのは、オバマ氏が広島訪問に踏み切ったからだ。オバマ氏が米国内の慎重論を押し切って決断したことに対し、「首相は意気を感じ、真珠湾訪問の機が熟したと判断した」(政府関係者)という。

 変ではないだろうか。
(1)今年5月のオバマ大統領による広島訪問の際は、米国務省が首相の真珠湾訪問を水面下で働きかけたが、日本側は断っていた。
(2)オバマ氏が米国内の慎重論を押し切って決断したことに対し、「首相は意気を感じ、真珠湾訪問の機が熟したと判断した」
 この間の「時間」は? というよりも、「時系列」はどうなっている?
 オバマは広島訪問を決断した(意思)→広島を訪問した(行動)。人間の行動は「決断」が先行し、それを「実行」する。
 オバマが広島訪問をしたときは、安倍は安倍がオバマを広島に呼んだという具合に「宣伝」していたと思うが、そのこととも「矛盾」する。
 安倍がオバマに広島訪問を働きかけ、オバマが米国内の批判を押し切って広島訪問を決断し、実行したというのが、これまで語られている「時系列」。
 そうであるなら、オバマが広島訪問を決断した時点で、安倍はオバマに共感するのではないのか。ふつうの人間なら、そうする。共感し、「それでは(お返しに)私(安倍)は真珠湾を訪問する」と応じると思う。
 「機」は、そのとき「熟している」。半年もたてば「熟す」から「腐る」にかわる。
 書かれていることは「政府関係者」による「作り話」なのではないか、と私は疑ってしまう。
 「水面下」の交渉では、日本側(安倍側)は真珠湾訪問を断っている。オバマが広島訪問をしたあとも、即座には動いていない。5月から半年もたって、やっと動いている。こんな奇妙な、ある意味では失礼な「返礼」はないだろう。
 ほんとうの「裏話」は違うのでは、と思う。
 次のくだりがおもしろい。

 首相は11月20日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれたペルーの首都リマでオバマ米大統領に会い、真珠湾訪問の意向を直接伝えた。オバマ氏は「2国間関係にとって意義深い(略)」と応じた。首相にとって、オバマ氏の返答は「我が意を得たり」とでも言うべきものだった。

 安倍はペルーに行く前にトランプと会っている。アメリカに行きながらオバマとは会わずに、まだトランプと会った。これに対してオバマ側が「大統領に非礼である」と激怒した、とニュースでは言っている。安倍のトランプ訪問後、他の国の首脳がトランプに会うことができなくなった、とも。まだ大統領ではない人間を大統領よりも優先するとは何事か、ということだ。
 安倍はペルーで必死になってオバマのご機嫌とりをしたということだろう。
 しかし不思議だ。「我が意を得たり」(安倍がほんとうに言ったのかな?)というのなら、なぜ、即座に、少なくとも日本に帰って来てすぐに発表しないのか。訪問をするなら、12月7日(日本時間8日)の式典に合わせればいいのに、なぜずらすのか。オバマのハワイ休暇と日程を合わせるためと言うかもしれないが、日程が「正確」に特定できなくても、オバマもハワイ休暇にあわせて「年末に」くらいは発表できそうである。
 日程については、読売新聞はこう書いている。

 米国内では、現地時間の12月7日に行われる真珠湾攻撃から75年の追悼式典に安倍首相の出席を求める声が出ていた。しかし、米政府は、大統領も8月の原爆忌に出席したわけではなく、伊勢志摩サミットで訪日したのにあわせて広島訪問を実現したことから、別の方法を模索していた。

 私は違和感を覚える。オバマは確かに8月に広島慰霊をしたわけではない。しかし、それは「前倒し」。日本に5月に行く予定があったから、それに合わせて日程を調整した。わざわざ8月を避けて5月にしたわけではない。
 こういうことはふつうの人もするのではないだろうか。墓参り。お盆、お彼岸に行けない。でも先に帰省する機会があるので、それに合わせて「前倒し」。もちろん「あとで」というのもあるが、それは「事前」にあとでいくということがわかっているから。調整してまで「遅らせる」ということはしないだろう。法事などの日程も、たいていは「前倒し」。よほどのことがないかぎりは「後回し」にしない。急な場合でも「葬儀」にいけないから「通夜」にゆく。これも「前倒し」の感覚。わざわざ「あとまわし」にしない。
 「別な方法を模索した」のはアメリカ側ではないのではないか。したとしても、日本が「別の方法」を依頼したからではないのか。

 私は「妄想魔」だから、どんどん違うことを考える。
 直近の政治テーマは「日露首脳会談」である。「事前会談(根回し、調整対作業)」であるはずの「外相会談」は日露の対立を鮮明にした。ロシアは歯舞、択捉の返還には絶対に応じないということが明らかになった。「経済協力(共同経済化活動)」は安倍が持ちかけ、その見返りに北方領土の返還、平和条約締結を持ちかけたという「時系列」だけが見えてきた。日露首脳会談の「成果」は何もあげられないだろう。
 安倍は、焦っている。外交で何かの「得点」を稼ごうとしている。アピールしようとしている。そのためにオバマと真珠湾慰問を「利用」しようとしている。

 少し振り返ると。
 安倍・トランプ会談で「成果」があったか。トランプはTPPに反対している。ペルーの会議では、他国の首脳は、安倍がトランプを説得したかもしれないと期待しただろう。けれど、トランプはAPEC会議の直後に、改めて「TPPに反対」と語った。
 安倍・トランプによる「日米関係」というのは、単なる「顔見知り」で終わっている。これを何とかしなくてはならない。
 読売新聞の記事のつづき。

 米側は、首相のハワイ訪問を、オバマ政権下で確立された強固な日米同盟を世界に示す機会としても生かしたい考えだ。5日の声明では、「首脳会談は、安全保障や経済、グローバルな課題における緊密な協力を含む、日米同盟を強化するこの4年間の共通の努力を両首脳が振り返る機会になるだろう」と述べた。

 これでは、オバマの「花道」を飾るだけ。(アメリカ側、オバマ側の狙いはここにある。安倍はその機会を提供してくれるのだから、それこそ「我が意を得たり」だろうなあ。)安倍がオバマとどんな関係にあったとしても、それはトランプに引き継がれるかどうかわからない。安倍は引き継ぎたいと願っているかもしれないが、トランプは新しくやり始めたいと思っているだろう。そのために大統領になったのである。
 アメリカ側の「声明」は、安倍に泣きつかれて、最後だから聞いてやるかという感じがするなあ。4年間を「振り返る」だけなのだから。トランプが大統領に就任したら自分の首はどうなるのかなあ、とそっちの方を心配している米側の政府関係者が多いのではないだろうか。安倍・トランプのことなんか気にしていないだろう。




*

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監督 ルカ・グァダニーノ「胸騒ぎのシチリア」(★★)

2016-12-06 10:31:07 | 映画
監督 ルカ・グァダニーノ 出演 ティルダ・スウィントン、ダコタ・ジョンソン、レイフ・ファインズ、マティアス・スーナールツ

 特におもしろいわけではないが、見どころがふたつ。
 ひとつはティルダ・スウィントンの演技。声帯を痛めたロック歌手。台詞がほとんど内。「肉体」で演技する。「ことば」を聞くよりも説得力がある。「意味」ではなく「感情」の説得力。目の色の変化が激しい。視線の届いている距離(焦点がどこにあたっているか)、何を見ているかによって、輝き方が違う。
 レイフ・ファインズがティルダ・スウィントンを訪ねてくる。そのレイフを目当てに女が集まってくる。飲みながら歓談しているとき、女がレイフにじゃれつく。気に食わない。きっとにらみ、素足でテーブルの上のコップを落とす。足の動きでも怒りをあらわしているが、それ以上に目つきが厳しい。相手を突っぱねる。
 マティアス・スーナールツに抱かれているときは、自分自身を見ている。自分の官能を見ている。視線は外へ出ていかない。
 マティアスがダコタ・ジョンソンとセックスしたのではないかと疑うときは、マティアスの内部に視線が入っていく。脇腹の傷を見ながら、傷の「過去」を探る。足でコップを落としたときとは違う鋭さがある。鋭い何かがマティアスを傷つけるだけではなく、ティルダ自身をも傷つける。そういうことを自覚した、苦しい視線。
 さらにおもしろいのが、マティアスがレイフを殺したとわかったあと。何もかもわかっていて、犯行を難民に押しつける。犯人は特定されないが、マティスは容疑者ではなくなる。その過程での、「嘘」を捏造する、「嘘」を発見するまでの、非常に緊張感に満ちた目。
 そして、追いかけてきたパトカー(警官)が「嘘」に気付いたからではなく、ティルダのサインが欲しかったとわかったあとの、安堵の目。
 ティルダの顔には贅肉がない。余裕がない。目の変化が顔全体に拡がり、顔そのものを別人にしてしまう。この七変化を見るのは、なんともいえない興奮である。特にレイフが殺されたあと、誰が犯人かわかり、わかった上で「嘘」をつく。その過程の動きにぐいぐい引きつけられる。
 何も語らない。「ことば」がない。「ことば」にしなかったことを「目」(顔)が語りつづける。サスペンスが凝縮する。
 こういう演技はイングリット・バーグマンのような美人ではないとできないと私は思っていた。美人が苦悩する顔というのはとてもセクシーである。かわいそう。でも、同時に、もっと苦しめ、もっと苦しめ。苦しむ顔が見たい、という欲情をそそる。
 ティルダ・スウィントンは私の基準ではブス。ぎすぎすしていて、ひきつけられない。それなのに、いやあ、みとれてしまった。
 もうひとつは、レイフ・ファインズの演技。ティルダ・スウィントンとは対照的にノーテンキ。体の中にあるものが、体のすみずみにまで広がって、さらにその外へまで広がっていく。女にモテル秘訣だね。それが一番よく出ているのが、ローリング・ストーンズ(だったかな?)の曲に合わせてダンスするシーン。ドラムの音が気に入らずに、ドラムのかわりにゴミバケツをつかっている、というような「裏話」をしながら、音楽そのもののなかに入っていく。音楽がレイフの体から弾き出てくる。上手いダンスではないと思うが、あ、こんなふうに踊ってみたいと誘われる。肉体が刺戟される。
 ティルダ・スウィントンの目の変化は見たくない。見たくないけれど、見ると目が離せなくなる。映画ではなく「現実」なら「恐怖」である。
 レイフ・ファインズのダンスは見たい。映画ではなく「現実」なら、ダンスを見る余裕などなく、私のからだがかってに踊りだすだろう。レイフ・ファインズのダンスのように、でたらめに、この音がうれしいといいながら。
                      (KBCシネマ2、2016年11月27日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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やっぱりね

2016-12-05 19:11:05 | 自民党憲法改正草案を読む
やっぱりね
自民党憲法改正草案を読む/番外48

 2016年12月05日毎日新聞夕刊(西部版・4版)一面。「「1回で解決できず」/日露首脳会談で安倍首相」という見出し。

 安倍晋三首相は5日の政府・与党連絡会議で、北方領土問題を含むロシアとの平和条約締結交渉について「1回の会談で解決できるような問題ではないが、着実に一歩一歩前進させていきたい」と述べた。首相は、15日に来日するロシアのプーチン大統領との首脳会談に触れ、「静かな雰囲気の中で胸襟を開いて率直に議論する。元島民の方の気持ちを胸に刻み、信頼関係のもとに前進させたい」と述べた。
 これに先立って首相は、官邸を訪れた岸田文雄外相と会い、プーチン氏から首相への親書を受け取った。(略)

 とある。「親書」の内容には触れていない。
 12月15日、安倍の故郷・山口県で「日露首脳会談」をやる意味は、もうなくなった。単なる顔合わせ。アピールするものが何もなくなった。

 そういう問題は問題として。
 「静かな雰囲気の中で胸襟を開いて」ということばに「やっぱり」と私は思う。12月05日の読売新聞の社説の末尾、「プーチン氏の来日は、静かな雰囲気の中で迎えたい」とことばが重なる。
 このとき「静かな雰囲気」とはどういうことか。
 露骨に言えば、「安倍を批判するな」である。安倍批判が渦巻く中で首脳会談が行われれば、ロシアの有利になる。「日本の主張は、安倍の主張で一枚岩になっている」という印象を与えないといけない、ということだろう。
 で、そういうことを言う時に、報道のことばと安倍のことばが重なってしまうのはどういうものだろう。
 「報道規制」の一種と感じるのは私だけだろうか。
 天皇の「生前退位」は各新聞社が「退位」ということばで足並みをそろえた。
 安倍を批判しないことを「静かな雰囲気」という、とてもあいまいな、「いい感じ」のことばで押し付けようとしていないか。

 私は、こういう「主張」を強く感じさせない表現がとても危険だと感じる。多くの場合、見過ごされるからだ。なにげないことばにこそ気を付けよう。
 (私が「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」で書いたのは、そういうこと。「緊急事態法案」は目に見える変更。目に見えにくい変更が、あらゆるところに張り巡らされている。見えにくいから、気が付いたらがんじがらめになっている、ということになる。「静かな雰囲気」に対して「反対」と声を荒げる人は少ない。私は大声でいう。「静かさ」は民主主義を否定する。)
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布村浩一「少し運のわるい日」

2016-12-05 10:30:48 | 詩(雑誌・同人誌)
布村浩一「少し運のわるい日」(「詩的現代」19、2016年12月発行)

 布村浩一「少し運のわるい日」はとてもおもしろい。

「写真家ソール・ライター 急がない人生でみつけた13のこと」
という映画を観に行ったが
映画館の前の席に
すわった二人づれの
おばあさんのほうからながれてくる強烈な香水の匂いで
大きな画面に映っている
写真家ソール・ライターの重いみじかいコトバをしっかり受けとめられない
今日は少し運のわるい日
いい映画かもしれないと思いつつ
でも充分に受けとめることができない

この事態を受けとめ 受けいれようとするが
映画の上映がはじまってから入ってきた二人づれを
うらめしくおもう気持ちはなかなかきえない

 映画を見に行った。映画は「いい映画かもしれないと思いつつ」以外には語られない。「受けとめられない」「できない」「きえない」という「否定」を含むことばがつづく。映画に集中できない。布村自身の「気持ち/思い」に重点がずれていってしまう。それが「否定」の繰り返しで強調される。「ずれていく」ということが。
 不思議な「ずれ」は、じっくりと準備されていることに、おもしろさの理由があるのだと思った。
 一行目から「受けとめられない」までがひとつの文章。句点「。」は書かれていないが、書き加えるとしたら「受けとめられない。」長い。長さの中に「うねり」がある。「行ったが」(二行目)「匂いで」(五行目)と、「動詞」が完結せずにつづく。そのあと「画面に映っている/写真家」という「行渡り」。「映っている」は「連体形」。「写真家」を修飾する。「持続」(接続)が、「ずれ」をつくる。「持続/接続」しなければ「ずれ」は生まれない。
 「思いつつ/できない」の「つつ」も「持続」だね。
 「受けとめ 受けいれようとするが」「きえない」。
 妙なものと「つながってしまった」なあ、という感じ。「つながってしまった」気持ちを布村は反復する。

今日は少し運のわるい日
席を移動しようとふりかえったが
横の方にもうしろの方にも
人がいて
移動するほど空いている感じがしない
何で映画がはじまってから映画館にはいってきたりするんだろう
おれなら次の上映を待つがなと思うのだが
映画館は
映画を観たい人が
集まる場所ではあるが
どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所になった

 書き出しは一連目の完全な繰り返し。二行目は「席を移動しようとふりかえったが」と一連目の「行ったが」と同じ「が」で終わり、次の行へとつづいていく。五行目に「感じがない」と「否定」を含むことばが出てくるところが、ますます繰り返しの印象を強める。
 「起承転結」の「承」である。
 そのあとが絶妙。

何で映画がはじまってから映画館にはいってきたりするんだろう
おれなら次の上映を待つがなと思うのだが

 「おれなら次の上映まで入らない」という「否定」を飲み込んでいる。「待つ」と「思う」いう「否定」を含まない動詞で、「反復」を切断する。連が分かれていないが、ここは「転」にあたる。
 「肯定」を半分ひきずりながら「ある」「きている」という動詞が出てくる。ただし「ある」は「が」という逆接を準備し、「きている」は「のか」という疑問を準備する。そして「わからない」という「否定」をとおって「なった」という「結論」(結)に集約する。
 リズムがとてもおもしろい。繰り返すことで「ぐち」が「思想」にかわる。いや「ぐち」も「思想」なのだけれど、「ぐち」を「論理的に補強することば」にかわる。
 「思想」というのはなんでもないことを「論理」っぽく言いなおしたもの、「感情」を排除した「意味」をつくりだす運動のことかなあ。
 「いらいらするなあ」「いやだなあ」というだけのことなのに、その「感情」を振り払って、乾いた「論理」にする。あっ、と驚き、わはっはっはっ、と笑いだしてしまう。「論理」なんだけれど、「無意味」。
 「無意味」は「絶対的存在」と言い換えてもいい。
 それ以外に言いようがない、ということ。

どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所

 映画館のこの定義は、この詩の、この瞬間にしか成立しない。だから「絶対的な無意味」。そしてそれが「絶対的無意味」だから「永遠」でもある。侵しようがない「意味」になる。
 そのまわりに「事実/意味」はいろいろあるのだが、全部、拒絶してしまっている。
 純粋・無垢になっている。

 このあとの「余韻」がまたすばらしい。声を上げて笑ってしまったのだが、笑ったあとで、何かがじわりと押し寄せてくる。

今日は少し運のわるい日
ソール・ライターはゆっくりと歩く
ソール・ライターは街なかをゆっくり歩いて
人をゆっくりと写す
色の美しい写真
色の美しい
よい写真を撮っていた

 映画館の中で、布村は「ゆっくり」と「写す」。映画館で出会った人を。同時に人と出会った布村自身を。たぶんソール・ライターも「他人」を写しながら「自分」を写したんだろうなあ。ゆっくりと。「絶対」が生まれてくる瞬間を。

どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所

 これは布村が写し取った「色の美しい」映画館。布村にしかとらえられない美しいことば。
 ことし読んだ詩のなかで(まだ一月あるけれど)一番気持ちがいい作品。傑作。
大きな窓
布村 浩一
詩学社
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私がロシア人なら

2016-12-05 08:00:17 | 自民党憲法改正草案を読む
私がロシア人なら
               自民党憲法改正草案を読む/番外48(情報の読み方)

 昨日書いた「日露外相会談」の「こぼれ話」のつづき。
 2016年12月05日読売新聞(西部版・14版)の社説。最後の部分。

 先月下旬には、ロシア軍が国後島と択捉島に地対艦ミサイルを配備したことが明らかになった。
 岸田氏がラブロフ氏に、「我が国の立場と相いれない」と抗議したのは当然である。
 プーチン氏の来日は、静かな雰囲気の中で迎えたい。

 「静かな」というのはロシア軍の地対艦ミサイル配備というような物騒な状況ではなく、という具合に読むべきなのかもしれないが、私は気になってしようがない。
 民主主義というのは「さわがしい」ものである。「静かな」というのは「独裁」政治のときに生じる。ひとが沈黙する。それが「静か」である。
 最近、「静かな」は天皇の生前退位をめぐる議論で頻発している。憲法にかかわる問題なのに、議論は「独裁」のもとでおこなわれている。安倍が指名した「有識者会議」が「専門家」の意見をヒアリングするという形で「論点」を整理している。この「静かな」に、民進党の野田などは率先して賛同している。
 
 脱線した。
 「日露外相会談」にもどる。

 ロシアのラブロフ外商は日の日露外相会談後の記者会見で、「今年行われた会談で、日本の首相は共同経済活動に関して何ができるか考えてみると提案した。ロシア大統領は同意し、しかるべき検討が始まった」と述べた。(2016年12月04日読売新聞西部版14版・ 2面)

 なぜ、ラブロフは、こんな「裏話」を公表したのだろうか。「共同経済活動」の提案と北方四島の返還(引き渡し)がリンクされた交渉というのは、ロシア人から見ると、どう見えるだろうか。
 「金に困っているのかい? 金は出してやろう。いっしょに経済活動をしよう。だから北方四島を返せ」というのは、金を出すから「領土」を売れ、と聞こえないか。さらに、もし日本企業が進出してくるなら、ロシア人は労働者として搾取されるだけなのではないか。そう感じないだろうか。
 
 場面を「尖閣諸島」に移して考えてみよう。(島の大きさが同じではないので、「たとえ」にすぎないが……)
 中国が「尖閣諸島の開発(経済活動)に金を出す。だから尖閣諸島を中国に返せ」と主張したとしたら、日本はどう反応するだろうか。「領土」を金で売ったりはしない、と反発するのではないだろうか。
 中国との間では、「領土問題」はたなあげになっていた魚釣島をめぐって、石原慎太郎が「買い上げる(都の所有地にする)」と言って、その後「国有化」した経緯がある。何億円かを政府が「所有者」に支払った。中国から見れば(中国に金が払われたわけではないが)、「金で領土を売る(領土問題を解決する)」に見えたのではないか。「金の動き」で、かってに「日本の領土」という「事実」を「日本国内」につくりだした、と受けとめられたのではないのか。
 中国が南シナ海で強硬な主張をするようになったことと関連していないか。

 「金を出したから、おれのもの」という主張を、安倍は北方領土でも展開するに違いない、とロシアが思ったとしても不思議ではない。ロシア政府はどう思うか知らないが、ロシア国民の中には、きっとそう思う人があらわれるだろう。(日本人の私でさえ、そう思う。)
 「金」で「領土」を売り買いするというのは、あまりにも相手国に対して無礼である。相手が「買ってくれ」と言っているのではない。「売らない」と言っているのに「これだけ金を出せばどうだ」と金で脅しているように見えるだろう。
 そんな無礼なことをされたら、「領土」を守るために軍備を増強する(増強せよ)という論理が生まれてくるのはあたりまえではないだろうか。

 そういうことさえ、自民党の人間は考えないのか。議論しないのか。「静か」が生み出した弊害ではないだろうか。
 「金さえ出せば(金さえもうかれば/大企業さえもうかれば)なんでもうまくいく」ということを信じるのは、金もうけがうまくいっている人間だけであると思う。グローバル企業のあり方が、あらゆるところで批判されているのに、それをまったく無視して「首脳会談」の下準備を進めた。
 外相会談の詳細は知らないが、きっと岸田がラブロフを怒らせたのだ。「首脳会談」はほんとうにおこなわれるのだろうか。突然、中止になるのではないのか、とさえ私は思う。会談前に「舞台裏」を公表するなんて、変でしょ?
 こういう異変に目をつぶり、「静かな雰囲気で」と主張するのは、どうにも納得がゆかない。







*

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桜塚ひさ『生きてゆく』

2016-12-04 12:37:38 | 詩集
桜塚ひさ『生きてゆく』(むらさき堂、2016年07月20日発行)

 桜塚ひさ『生きてゆく』の「あとがき」に「ひとり出版社を創り、ひとりで本を創る」とある。印刷と製本は印刷会社にまかせたようだが、ほかはひとりでやっている、ということだろう。
 私も詩集は同じ方法で出しているので親近感を覚えた。(私の場合、出版社をつくるところまではいっていなくて、昔同人誌を出していたときの「象形文字編集室」というのをそのままつづけているのだが。)

 「河骨」という作品。

山かげの 人知らぬ池に
河骨の花がぽつんと咲いている

白骨から生えるという
黄色い小さなこの花は
ふらつく私の足元灯だ

 「足元灯」ということばに目がとまった。言われれば思い出すが、自分からことばにすることはない。特に「自然」を描いているときに、「足元灯」を思い出すということは、私にはない。そのために、「ほう」と思った。桜塚の「肉体」が見えたと感じた。身近にあるものと正確に向き合っている。その姿勢が「足元灯」という「比喩」を呼び寄せている。
 「山かげ」「人知らぬ」「ぽつん」は少し古くさい感じがするかもしれない。「文学」になってしまっている「常套句」。「文学」を読んでいる人なんだなあ。それが「足元灯」で不思議なおちついた印象として結晶する。
 「夕焼け空」の書き出しも印象に残る。

夕焼け空を
電線がわたる
ゆるい弧を空にくっきりと描いて
幾筋もわたってゆく
どこまでも どこまでもわたってゆく
寂しい人と淋しい人をつないで

 「わたる」という「動詞」が強い。「わたる」は自動詞。電線は人間や動物ではないから自分では動かない。だから「わたる」は「比喩」。「比喩」にはいつでも「自分」が投影される。「自分の記憶/自分の思い」、それから「自分の肉体」。「肉体」は「動き」が重なるという形で投影される。
 電線が空を「わたる」とき、桜塚が空を「わたる」。「わたる」は「わたってゆく」と言いなおされる。さらに「つなぐ」と言いなおされる。「つなぐ」ために「わたって/ゆく」。
 「わたってゆく」ひとは「寂しい人」、「ゆく」先で待っている人は「淋しい人」。「寂しい」と「淋しい」が「つながる」とき、「さびしい」は消えるだろう。
 動詞がとても自然だ。「肉体」とていねいにつきあっている桜塚の姿がここからもうかがえる。
 「朝のキッチン」も美しい。

朝陽がカチリと白い磁器のふちにあたる
昨日のように始まった今日
白いカップに紅茶を注ぐ
おはよう 今日

朝陽にあいさつをして
お茶に映るわが目を覗き込む
おはよう 私
いつもの 変わらない 近しい間柄
変わらないことの 優しさ安らかさ

おはよう 今日
おはよう 今日の私
日常はいいもの
今日はいい日

 一連目「おはよう 今日」の「今日」がいい。「今日」が「ひと」のように、そこにいる。その「ひと(比喩)」に対して「おはよう」と呼びかけている。
 あらゆる「存在」を「ひと」としてとらえている。
 「夕焼け空」の「電線」も「ひと」だから「わたる」という「自動詞」を述語とする。
 「河骨」の「足元灯」もやはり「ひと」である。単なる照明ではない。「ひと」となって「ふらつく私」を「支える」、あるいは「導く」。
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日露外相会談の大失態

2016-12-04 11:11:21 | 自民党憲法改正草案を読む
日露外相会談の大失態
               自民党憲法改正草案を読む/番外47(情報の読み方)

 日露首脳会談が迫ってきた。事前の「日露外相会談」が行われた。それを報じるニュースの中で、おもしろいものを見つけた。
 2016年12月04日読売新聞(西部版・14版)の2面に「共同経済活動/首相から提案/5月の首脳会談」という1段見出しの記事がある。

 安倍首相が5月にロシア南部ソチでプーチン大統領と会談した際、北方領土での「共同経済活動」を提案していたことがわかった。複数の日本政府関係者が明らかにした。これまでは、11月のペルーでの日露首脳会談でプーチン氏側が提案したとされていた。
 これに関連し、ロシアのラブロフ外商は日の日露外相会談後の記者会見で、「今年行われた会談で、日本の首相は共同経済活動に関して何ができるか考えてみると提案した。ロシア大統領は同意し、しかるべき検討が始まった」と述べた。

 うーん。私は、うなった。
 この記事は記述の順序(時系列)が逆では? ラブロフが「裏話」を明かした。いままで聞いていることと違う。大急ぎで「政府関係者」に裏を取ったら、5月の会談内容がわかったということでは。
 日本の政府関係者が「5月の会談」のことをばらし、そのことについて記者会見で日本の記者が質問し、ラブロフが答えたということではないと思う。(記者会見の現場にいたのではないから、想像だけれど。)
 時系列を変えて書いているのだとしたら、読売新聞の書き方には問題がある。事実の衝撃を弱めることになる。

 さらにもっと重要な問題もある。ここからが私の書きたい一番のポイント。
 ラブロフはなぜそんなことを言ったのか。
 日露首脳会談では北方領土の問題が話題になるはずだが、ロシアの方としては「北方領土の返還(引き渡し)」など知らない。そんなことは「話題」にしたことはない、と言いたいのだろう。日本では「経済協力(経済投資)」の見返りに「二島返還」が語られているが、その「経済協力」というのも日本から言い出したことであって、ロシアが求めたものではない。だから「経済投資の見返りに二島返還」という「論理」はおかしい。「経済投資」は「経済投資」としてのみ話すべきことがらである。それを明らかにするために言ったのである。
 読売新聞は「領土問題なお温度差」という見出しをつけているが「温度差」どころの話ではない。「領土問題」については日本とロシアでは原則が違うと改めて言っている。首脳会談で北方領土の帰属が日本が望むようには解決するはずがない、とあらかじめ予告している。
 共同記者会見であるから、ロシアにも発信される。ロシアの記者もきっと同席している。ラブロフはロシア(国民)に向けて、自分はちゃんと仕事をした、と言っている。「四島のみなさん、島を日本に引き渡すことなどしません。安心してください」とアピールしている。
 岸田は一生懸命取り繕っているが、「外相会談」の事前調整も大失敗ということだ。

 さらに、こんなことも考えてみた。
 なぜ、こんな外交問題の「大失態」が「ひっそり」と書かれるのか。「大失態」を「手柄」にかえる方策を安倍が考えているということだろう。金のばらまきにすぎない「経済投資」を「経済協力」と呼び換え、その「協力」を主導し、「平和条約締結」を進めたのは安倍であるということを「強調」したいのだ。安倍が提案したことにロシアが賛同し、その結果「平和条約」が締結された。主導者は安倍であるとういことを強調するために、政府関係者はラブロフの発言を利用しようとしている。
 つまり「北方領土」の問題がまったく前進しなかったときの「緩衝材」にしようとしている。すべてがプーチンの言うがままになっているのではなく、「経済協力」は日本が主導しているのだと言い換えるために、とりつくろう準備をしている。
 でも、そんな上手い具合にいくかな? 国民はみんなだまされるかな?

 読売新聞は「露、経済協力を優先」という見出しをつけているが、「優先」どころか、「経済協力」を言ったのは安倍なのだから、ちゃんと守らないとロシアの信用を失うよ、北方領土の問題など誰も配慮しなくなるよ、とラブロフは脅しているのである。
 私が岸田なら、そう感じるなあ。
 右往左往している「政府関係者」の姿がかいま見える。






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「慎重」ということば

2016-12-04 02:05:32 | 自民党憲法改正草案を読む
「慎重」ということば
               自民党憲法改正草案を読む/番外46(情報の読み方)

 天皇の生前退位をめぐる有識者会議の専門家ヒアリングが2016年11月30日に「ひととおり」終わった。専門家の意見の集計が新聞社によって違う。(いずれも2016年12月01日、西部版・14版)。

朝日新聞 賛成8人 反対7人 慎重1人
毎日新聞 賛成8人 反対6人 慎重2人
読売新聞 容認9人 慎重7人

 安倍に一番近いと思われている(世間的に)読売新聞は「賛成」という表現を使っていない。「反対・慎重」を「慎重」とひとくくりの見出しにしている。
 この「表現」とヒアリングに応じた専門家の「意見」をもとに、私は「有識者会議」が提言する「内容」を予測してみる。

 「特別法」で「摂政設置」の条件に「天皇の高齢化」を付け加え、いまの天皇を「天皇」という地位のままにしておき、実質的な「行為」を「摂政」に譲る。

 簡略化して言うと、そういう内容になると思う。
 専門家の中では、私が注目したのは、桜井よしこである。桜井よしこは、ヒアリング前は「条件付き退位」を認めていた。なぜ、退位に賛同できない立場になったのか、と有識者から質問されて、こう答えている。(11月25日読売新聞西部版・14版、有識者会議議事録参照)

お年を召した目下天皇皇后両陛下への配慮は大事だが国家のあり方とは分けて考えなければならない。国家の基盤は軽々に変えてはならない。摂政制度を活用することで、(陛下の)負担はうんと減ると思う。

 ここに「摂政制度の活用」という表現も出てくる。
 なぜ、注目するかというと、「内容」もそうだが、「意見を変えた」ということが大事である。「専門家」というのは自分の考えを変えない。「有識者会議のメンバー」に「専門家」がいないのも、専門家では意見の対立が起きたとき、まとまらなくなるおそれがあるからだ。
 「有識者会議」が提言をまとめるとき、専門家の意見を「羅列」しただけでは具体的な提言にならない。なんとかして「統一」しないといけない。「統一」するためには、「意見」を変更しなければならない。
 この「変更」の「手本」を桜井よしこが示したのだ。
 桜井がつかっている「軽々」ということばにも私は注目した。「軽々」の反対は「慎重」である。(桜井の意見の「要約」には、「国民の圧倒的多数が(陛下の退位の)希望をかなえさしてあげたいと考えていることも事実だが、慎重にも慎重でありたい」と書かれている。)「国家の基盤は軽々に変えてはならない」とは、

国家の基盤を変えるときは「慎重」でなければならない。

 ということである。
 「交渉」とは「ことばの調整」のことである。どのような「意味」を含めるか。「解釈」の可能性をどこまで「広げる」か。あるいは「許す」か。

 新聞各紙の表現にもどる。
 朝日新聞、毎日新聞は「反対」と「慎重」を明確に区別している。読売新聞は「慎重」ということばでまとめてしまっている。「反対」は「軽々には賛成しない」「賛成することには慎重である」と言い換えられている。
 「慎重」ということばなら、「容認」に対しても応用できる。天皇の生前退位には「賛成」であるけれど、さまざまなことを考慮しなければならない。「賛成」であるにしても、全面的に退位を認めてしまうのではなく、「慎重」に認める「範囲」を検討しなければならない、という具合に。
 「慎重」ということばに「判断」の基準を置くと、どっちつかずというか、「両義的」なことろに結論を持っていくしかない。
 八月八日の天皇のことばは「摂政はだめだ」(天皇の務めは「象徴」であり、天皇が天皇である限り「象徴」の務めは天皇についてまわる)というものだった。けれど「有識者会議」は最初から「摂政」をテーマに組み込んで会合を始めている。
 「摂政」と「退位」をどう組み合わせるかを「慎重」に調整しようとしている。

 退位に反対の意見を述べている専門家は、もちろん「特別法」にも反対しているのだが、そこにも「慎重」ということばを付け加えることはできる。「摂政」を設置したあとの、天皇の「つとめ」をどうするか。それを「慎重」に定める。(摂政の権能を「慎重」に定める、と言いなおすこともできるが。)
 「慎重」ということばは、「容認(賛成)」「反対」を結びつける「接着剤」のようなものである。

 この便利な「慎重」は、これからどんどん出てくるだろう。一番の危険は、「慎重」は同時に「あいまい」に通じることだ。「両義的」と先に書いたが、「両義的」とはどちらともとれるということ。
 「権力」は、それを「自在に」解釈できる。「摂政」の「権能」は自在にあやつれる。
 自民党の憲法改正草案を思い出そう。第6条の第4項目

天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 現行憲法には存在しない「進言」ということばがつかわれている。「進言」は当然「摂政」にも適用される。「摂政」は内閣の「進言」によって動かされる。
 安倍の狙いが、ますます露骨に見えてきたように思う。桜井よしこは安倍の代弁者のようである。




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黒沢清監督「ダゲレオタイプの女」(★)

2016-12-03 15:57:01 | 映画
監督 黒沢清 出演 タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリビエ・グルメ

 私は「幻想ミステリー」味の映画が苦手。現実と幻想の「境目」の部分が、見た瞬間にわかってしまう。評判の高い「シックスセンス」のような映画でも、ブルース・ウィリスが事故のあとの大学の建物(外観)の映像が映った瞬間、建物というより背後の空の「色合い」に違和感を感じ、あ、ここから映画は「性質」が違うのだとわかり、真剣に見ることができなくなる。
 黒沢清は前作「クリーピー 偽りの隣人」では、被害少女への聴取(?)のシーンで「舞台仕掛け」の「照明」と「演技」で「二つ目の解釈」を忍び込ませた。
 今回は、写真のモデルの少女(写真家の娘)が登場するシーンが「境目」。
 主人公が「ダゲレオタイプ」の写真を見る。生きているみたいだと感じる。写真を撮るための「固定金具」を見る。違和感を感じる。そのあと映像が横にスライドして行って少女がポーズを取っている。この「映像のつながり方」(つなげ方)が「作為」に満ちていて、ここから映画が違ってくるぞ、とわかってしまう。
 主人公の青年が「現実」と「幻想」を行き来するということがわかる。言い換えると、これからあとは青年の現実であると同時に青年の幻想なのだとわかる。「現実」と「幻想」だから、どうしたって「幻想」が最後には消える。つまりストーリーのオチがこの瞬間にわかる。
 映画はもちろん「ストーリー」ではないからストーリーがいくらわかっていても、おもいしろいものはおもしろいのだが、この映画には魅力に欠ける。
 出だしの写真家の住んでいる家のシーンから「伏線」が見えすぎる。主人公が訪ねていくと「入り口」の門の向こうに、もうひとつ「扉(入り口)」が見える。入れ子細工になっている。
 家の中では、扉が「意味ありげ」に半開きになり、「扉」のむこうにもう一つの世界があることを暗示する。「境目」は開いたり閉じたりして、「往復可能」な状態にある。
 さらに「鏡」が多用される。「現実と鏡」は、「現実と幻想」の関係に似ている。人は「鏡」を見て「現実の自分」を確かめる。同じように、人は「幻想」をみて「現実の自分の姿」を知る。「幻想」は「怪奇現象」ではなく、あくまでも「幻想を見るひとの現実/事実」である。
 見え透いた「構造」を隠そうとして、音楽が多用される。ありきたりの「ミステリータッチ」の音である。興ざめしてしまう。
 むりやりおもしろい部分を探せば、「ダゲレオタイプ」という古い写真撮影方法を映画の主題に取り込みながら、他方でパリの再開発という「現代」とビジネスを組み合わせていることだろうか。しかし、これは「古さ」を際立たせるための「背景」にしかなっていない。「現在」が「過去」に侵入してきて、「境目」がいっそうわからなくなる、という具合に展開していかない。黒沢の狙いは、たぶん「過去」のミステリアスな写真撮影手法(対象を固定化する)ということと再開発の「解体/対象の流動化」という関係で「境界」を活性化するということなのだろうけれど、こんなふうに「ことば」にできるというとは、それが映画になっていないということ。「説明」になってしまうものなど、おもしろくはない。
 写真と死者、現実と幻想という映画には、マノエル・デ・オリベイラ監督「アンジェリカの微笑み」がある。死人、あるいは写真の中の「生きているような女」に恋するという映画からあまり時間が経っていないことが、私の感想に影響しているかもしれない。
 予告編をネットで見たときは、これまでの黒沢の映画とは色調が違うように感じた。フランス(パリ)の色に期待した。しかし、映画館の上映システムが影響しているかもしれないが、湿気の多い「日本の空気」を感じてしまった。「幽霊」の周辺が、妙にモンスーンの雰囲気。家の中も、植物ハウスの緑も。冒頭の電車とビルをつくるときのクレーンの組み合わせの「距離感」も。日本人の見たパリであるにしても、こんなに日本的であるならフランスで撮る必要があったのか。フランス資本で日本で撮ればいいのに。
                      (KBCシネマ1、2016年12月03日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
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カジノ法案衆院委員可決の背景

2016-12-03 08:52:16 | 自民党憲法改正草案を読む
カジノ法案衆院委員可決の背景
               自民党憲法改正草案を読む/番外45(情報の読み方)

 カジノ法案が2016年12月02日案衆院委で可決された。ギャンブル依存症、マネーロンダリング、暴力団の関与などの問題が指摘されている中、たった六時間の審議しかしていない。
 なぜ、こんなに急いだのか。
 読売新聞(西部版・14版)の三面に分析が載っている。11月初旬段階では法案成立はむりという見方が強かったのだが……。

 状況が一変したのは11月下旬。会期延長が避けられない情勢となり、カジノ解禁法案を審議する時間的な余裕が生まれた。同21日には、次期米大統領のトランプ氏がTPPからの離脱意思を表明。安倍内閣の「成長戦略の柱」に不透明感が漂う中、IRへの期待感が膨らんだことも、政府・自民党の背中を押したようだ。

 「時間的余裕」がたった「 6時間」というのは笑い話にもならないが。
 私が注目するのは「21日」という日付。「トランプ」という人物。「成長戦略」ということば。
 安倍は「国の姿」を「経済成長(金儲け)」としか考えていない。これは自民党憲法改正草案の「前文」にはっきり書かれている。

 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」とは「金儲け」のことである。カジノも「金儲け」の方法である。だれが「金儲け」をするか。カジノの主催者。ギャンブルが成り立つのは、客が支払う金が支払われる金よりも少ないからである。胴元が差額を儲ける。「外国人」が日本でギャンブルをしてくれることを期待しているようだが、浅ましい。
 直前に「TPP」のことが書かれているが、活発な貿易を「経済活動」と呼ぶならまだ納得できるが、ギャンブルを「経済活動」に含めてしまうのは、いかがわしい。胴元が金を儲け、胴元からの「トリクルダウン」を安倍が受け取る、ということしか考えていない。
 でも、この「経済戦略」は「方便」。一種の「詐欺」の口実だと思う。
 ほんとうに注目したのは「21日」と「トランプ」。
 というか、そこに「プーチン」の名前がない。
 国会のあとに控えている重要日程に「日露首脳会談」がある。主役はプーチン。ロシアの大統領。その名前がない。トランプが大統領に就任するのは一月。その前に、プーチンとの問題がある。プーチンを気にかける方が重要なはずである。
 日露会談は、北方領土問題の解決(前進/進展?)と経済協力がテーマ。安倍は四島ではなく二島の返還と引き換えに経済協力をする(ロシア側に投資する)という「取引」を考えていたようだ。しかし、どうもロシアは二島さえも返還しないという見方が強くなっている。報道され始めている。つまり、日露会談は「失敗」に終わるだろうという予測が聞かれるようになった。
 これでは一月にもくろんでいる衆院選で国民に訴える「目玉」がない。
 「TPP反対」と言っていたはずが、参院選後は「一度もTPP反対といったことがない」と嘘をつき、いまトランプが「TPP反対」と言っている。「TPP」は衆院選の「目玉」にはできない。
 なんとか、国民にわかりやすい「成長戦略」を見つけ出す必要があるのだ。
 カジノで外国人が日本にやってくる。観光客が増え、地方経済も潤う。しかし、カジノの候補地は、北海道、東京、横浜、大阪、長崎。どこもカジノがなくても観光客がやってくるところではないのか。
 ばかばかしい。 
 カジノ誘致で日露会談の「予測間違い」を隠蔽しようとするのは、「目くらまし作戦」としては幼稚すぎる。あまりにも国民をばかにしている。

 日露首脳会談は12月15日。山口県長門市で開かれる。そこで、どんな「共同宣言」が出されるか。どんな「条約」が結ばれるか。「成果」を安倍はどんなことばで語るか。カジノ法案成立でごまかせるか。あるいは、日露会談でカジノ法案を隠してしまうのが狙いなのか。北方四島よりも、カジノの胴元から安倍に入ってくる献金を大切にしたいのか。
 カジノ法案と日露会談の「関係」にこそ、目を向けたい。書かれていないことの方が重要なこともある。
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千人のオフィーリア(メモ23)

2016-12-02 23:38:42 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ23)

話そうとするとそばにいないオフィーリア。
新聞にはいちばん現実的な嘘のつき方が書いてある。
「えっ、たとえばどんな?
「調べてみたら? 東京発。パリ発。外電はでまかせ。
真実なんてないわ。好みがあるだけよ。

慰謝料と不倫。どちらが主張として正しいか知ってる?
慰謝料はお金。愛や肉欲よりも確かだわ。相手が誰でも自分は変わらない。
いてほしくないときにいて、
いてほしいときにいないオフィーリア。
「いるときにいてほしいくなり、
いないときにいなくてよかったことをすれば?

姉が賛成し妹が反対したオフィーリアみたい。
姉が反対し妹が賛成してくれると思っていた。
どうしていいかわからなくないオフィーリア。
パスポートをそっと開いて、
名前と顔を確かめるオフィーリア。
私は誰なのかしら。
パスポートの写真は嫌い。左のほほが緊張している。
自分の部屋にある鏡よりも姉の部屋にある鏡が好き。
「だって、きれいに映るのよ。

聞いてほしいのに聞いてくれないオフィーリア。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。

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酒見直子「夕日かけごはん」、坂多瑩子「声をかけると」

2016-12-02 12:12:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 酒見直子「夕日かけごはん」、坂多瑩子「声をかけると」(「詩素」1、2016年11月20日発行)

 酒見直子「夕日かけごはん」は「卵かけごはん」を連想させる。実際にそういう詩である。「卵かけごはん」は朝食べる。「夕日かけごはん」は夜(夕方)食べる。

会社から帰ってきてひとり
アパートの三階のベランダに
よっこいしょと腰をおろし
空を見上げながら
ごはんを食べている
(今日)は
いっせいちだいのフィナーレに向けて
盛大な夕焼けを披露している
おかずはないので
茶碗に山盛りの白いごはんを
黙々と食べていたら
新鮮で弾力のある
だいだい色の
夕日が
ごはんに落ちてきた

夕日は地平線に落ちる
のではなく
へその緒をなくした寂しい心に
落ちるから
きっと
ごはんは
寂しかったのだ

夕日のかかった
ごはんを
両口箸でぐるぐる混ぜて
茶碗に口をつけ
かきこんで かきこんで食べている

 「かきこんで かきこんで食べている」という行を読むと、真似をしたくなる。「夕日かけごはん」を食べてみたくなる。食べている酒見ではなく、食べている私を想像してしまう。「肉体」がかってに私をはなれ、酒見の肉体になっている。
 ことばには、こういう「力」がある。
 体験をしたことがないのに、書かれていることを自分が体験していることのように感じてしまう。もう一度同じ体験をしたいという気持ちにかられる。そ
 実際に私が体験していることではないのに、どうして、こんなに強く「肉体」に働きかけてくるのか。

新鮮で弾力のある
だいだい色の
夕日が
ごはんに落ちてきた

 一連目の、この四行が強いのだ。「夕日」を「卵」にかえると、そのまま「卵かけごはん」になる。「卵かけごはん」を食べたときの肉体、気持ちが揺さぶられる。卵かけごはんには新鮮な卵が大事。「弾力がある」「だいだい色」というのは「新鮮」を言い換えたことばとわかる。この「わかる」が酒見の体験と私の体験の「区別」を消してしまう。「新鮮な卵」が「弾力がある」「だいだい色」と言いなおされるとき、卵かけごはんの卵をどんなものかなあと見ていた私の体験が蘇り、「肉体」が覚えている「新鮮な卵」が「肉体」のなかから生まれてくる。
 「新鮮な卵」にであったときの「過去」がいっせいに「いま」に噴出してくる。その「混乱」のなかで、酒見と私がいっしょになり、「卵」と「夕日」といっしょになる。「ひとつ」に融合する。
 違うものが「ひとつ」になる。
 この「ひとつ」になる感覚が、二連目は少し変化する。
 「夕日」ということばには「寂しい」ということばが似合う。そういうイメージが「流通」している。それが突然二連目で出てくる。
 「夕日」が「へその緒をなくした寂しい心に/落ちる」というとき、酒見は「へその緒をなくした寂しい心」になっている。寂しいから夕日を見ている。寂しくなかったら夕日など見ないで、どこかで遊んでいるだろう。この「寂しい」を酒見は、自分の肉体ではなく「ごはん」の方に引き渡してしまう。「私は寂しかった」とは言わずに「ごはんは/寂しかったのだ」と言う。
 「私は寂しい」と言えないくらいに「寂しい」のである。酒見は深く深く酒見自身へ帰っていく。
 そのあとで、再び「夕日かけごはん」にもどる。「肉体」の動き、外からわかる動きにもどる。「寂しい」を「新鮮(弾力/だいだい色)」のエネルギーでかきまぜて、何かに変わろうとしている。「寂しい」と「元気」をかきまぜて、消化して、生きている。矛盾が、いきいきと動いて、「いま/ここ」が描かれているのに、そこに「未来」が書かれているような感じ。その「希望」のようなものに突き動かされる。

 一連目を「盛大な夕焼けを披露している」という行のあとで、ふたつにわける。二連目は三連目、三連目は四連目になる。そして「起承転結」という詩の形式が浮かび上がってくる。
 一連目、二連目は「現実の風景」。一連目(起)で「全体の大きな情景」を把握し、二連目(承)で情景を「手元」に引き寄せる。
 三連目(転)で、それを一気に心象風景(こころの動き)に言いなおす。「寂しい(こころ)」「へその緒(肉体)」と「肉体の内部/心の内部」へ引き返し、同時にそれを「肉体の外/心の外」へと噴出させる。
 四連目で、すべてを統合する。
 ことば全体の動きにゆるぎがない。「かきこんで かきこんで食べている」という行へ「真っ直ぐ」に進んでいる。この「真っ直ぐ」がいいんだなあ、と思う。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。私のベランダには夕日が射してこないので「夕日かけごはん」を食べることができない。想像でしか食べることができないので、ついつい余分なことばを書いてしまった。「夕日かけごはんが食べなくなった」とだけ書いておしまいにした方がよかった。
 この感想も、読まなかったことにしてください。



 坂多瑩子「声をかけると」の感想も書きにくい。

何かの拍子に
(ひさしぶり
声をかけると
待ってましたとばかり

あたしの好きだった家が
カラスと夕焼けをつれて
時にはさかさまのままつれて
やってくる

おおきな図体して
いつもどこにかくれているか知らないが
あたしの真ん前に玄関があるので
はいろうとすると

なんだか変で
家のまわりをぐるっとまわってみても
なんだか変で

 「変」といってしまえば、それでたぶんおしまいなのだが。「変」が「結論」のようなものなのだが。
 私は、この詩の「キーワード」は「変」というよりも「なんだか変」の「なんだか」だと感じた。「なんだか」は「何だか」。その「何」は詩の始まりの「何かの拍子」の「何」に通じる。この「何」を「場所」と結びつけると、三連目の「どこに」にもなる。
 「何」とか「どこ」とか、あいまいに指し示すしかできないこと。ことばで特定できないけれど、「肉体」でなんとなく指し示すことのできるもの。「肉体」がかってにつかみとってしまっているが、「ことば」が追いついていないといえばいいのだろうか。
 この感じを別なことばで言えば、二連目の「好き」。
 「好き」というのは最初に「好きになる」というかってな「肉体(感情、と呼ぶかも知れないけれど)」な動きがあって、あとから「理由」が「ことば」としてやってくる。「理由」はたいてい付け足し。
 「ナスターシャ・キンスキーが好き」。なぜ? 「美人だから」。どこが? 「目がいい」。造作が全体的に大きすぎないか? 「でも、バランスがいい。形もいいがバランスがいい」。なんて、やっていたら「ああ、うるさい、やかましい」という感じ。「好き」で、すべては言い尽くされている。
 「何」はことばにしなくてもいいのだ。
 そのことばにしなくてもいいもの、ことばにすることがないものが、ふっと動く。理由はわからないけれど、動いた瞬間、つられて他のことばにする必要のなかったものが「待ってました」という感じでざわめく。
 「家」と「あたし」では「家」の方が大きい。でも、その「家」はいつも「あたし」の内部(どこか)に隠れている。それが、ふっと「肉体」のなかから蘇ってくる。「大」と「小」が逆転しながら動いている。
 これを「意識」とか「記憶」とかということばで説明すると、「心理学」になるかも。でも、私はそんなことはしない。
 坂多は「何(なん)」ということばをつかっているので、対抗するように(?)、「それ」ということばをつかおう。「あ、それわかる」。「これ」でもいい。「あ、これ、わかる。この詩の書いていること説明できないけれど、わかる」。
 「頭」ではつかみとれないけれど、「肉体」がかってに「好き」と決めてしまう。

 酒見の詩のときもそうだった。あれこれうるさく書いてしまったけれど、「肉体」がかってに「これが好き」とつかみとる。そのあとで「これ」は何だったのかとことばにしてみる。ことばにすればするほど、「これ」から遠くなる。
 「肉体」が「これ」が好きと言ったときの「これ」という「身振り」の「指示」が一番適切(正しい)というときがある。
 私は、「肉体」が「これが好き」と言ったときの「これ」を「肉体」に引き戻しながら、「肉体」の奥を目覚めさせながら言いなおしたいと思っているのだけれど、とてもむずかしい。いつも余分なことしか書けない。


空へ落ちる―酒見直子詩集
酒見直子
洪水企画
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なぜ違う?

2016-12-01 16:03:29 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ違う?
自民党憲法改正草案を読む/番外44の追加(情報の読み方)

天皇の生前退位をめぐる専門家の意見の集計が新聞社によって違う。
いずれも西部版・14版を参照。

朝日新聞 賛成8人 反対7人 慎重1人
毎日新聞 賛成8人 反対6人 慎重2人
読売新聞 容認9人 慎重7人

読売新聞は「賛成」という表現を使っていない。「反対・慎重」を「慎重」とひとくくりの見出しにしている。

ひとの意見は、こんな具合に「捉え方次第」。
だからこそ、自分のことばでとらえ直さないといけない。
全紙を比較する時間がないけれど。
記事は慎重に読まないと、情報を読み落としそう。

前の書き込みで問題にした「生前退位」か「退位」かは、毎日新聞が「足並み」をそろえてきた。「生前退位」という表現は消えた。
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殿岡秀秋『胎内電車』

2016-12-01 11:51:51 | 詩集
殿岡秀秋『胎内電車』(秀文社出版、2016年11月25日発行)

 殿岡秀秋『胎内電車』を読む。「秋の日のぬくもり」はとても美しい。感想を書けるかどうかわからない。書く必要がないかもしれない。引用する。

あるけるけれど
おぶってちょうだいと
おかあさんに
おねがいしたの

いいわよといって
おかあさんは
おぶい紐をだして
せおってくれた

秋の日よりも
あたたかい
おおきなせなかに
ほおをつけた

これでおぶってもらうのを
おわりにしよう
おねがいをきいてくれて
ありがとう

つらいときがあると
おもいだす
おかあさん
あの秋の日のぬくもり

 四連目が美しい。ほんとうはもっとおぶっていてもらいたい。でも、それではおかあさんに負担をかける。重いだろうなあ。おかあさんを気づかっている。甘えたいけれど、もう甘えてはだめ。こころのなかで決める。そして、これもまた「声」には出さずに、こころのなかで「ありがとう」と言っている。
 五連目の「おかあさん」は「おかあさんを/おもいだす」という意味なのだけれど、なんだか、「おかあさん」と呼びかけている「声」そのものに聞こえる。
 「おぶい紐」は「六歳のこころ」という作品にも出てくる。

おぶい紐で背中にしょわれた
赤ん坊のころまで
時計の針をもどす

 「秋の日のぬくもり」は、六歳のころの殿岡なのかなあ。ふつう、六歳の子供を背負うために「おんぶ紐(おぶい紐)」を持ち歩く母親はいないと思うが、殿岡は甘えん坊で、いつもおぶってもらっていたのかもしれない。甘えん坊であることを母は許していた。甘えさせることが、自分にできる最後のこと、と思っていたのかもしれない。殿岡は、そんな母の気持ちがわかったのかもしれない。ふと、自分がしなければならないことに気がついたのかもしれない。六歳なりに。
 というようなことは、はっきりと書いてあるわけではない。私がかってに想像したこと。「誤読/捏造」したこと。

 「ありがとう」ということばは、なかなか言えない。あのとき言えなかった「ありがとう」が、それ以外には言えない「響き」で書かれている。



記憶の樹―殿岡秀秋詩集
殿岡 秀秋
ふらんす堂
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