詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダルデンヌ兄弟監督「午後8時の訪問者」(★★★★★)

2017-04-24 12:05:53 | 映画
監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 アデル・エネル、オリビエ・ボノー、ジェレミー・レニエ、オリビエ・グルメ、ファブリツィオ・ロンジョーネ

 私は謎解き(犯人探し)の映画は嫌いである。「答え」がすぐわかるので、退屈してしまう。しかし、この映画は違った。ぐいぐい引き込まれていく。何が起きているのか、さっぱりわからないのである。
 さっぱりわからない、と書きながら、まあ、矛盾したことを書くのだが、とてもよくわかるのである。ストーリーはわからないが、いま、そこで起きていることがわかる。
 主人公は医者で、研修医をかかえながら診察している。患者も気になるが、研修医も気になる。待合室で少年が発作を起こす。てきぱきと仕事をしないといけないのだが、研修医は少年の症状に反応して動けない。医師として失格である。それやこれやで、主人公は研修医に対して過剰に反応する。
 そのとき、「事件」が起きる。
 主人公は研修医に対して「患者に過剰反応する」と批判するのだが、彼女もまた研修医に対して過剰反応しているのである。(後半で「力関係を示したかった」という具合に、自分自身の態度を反省しているが。)
 こういうことは、だれにでも起きることである。何かに過剰に反応して、集中力が分散する。ほんとうにしなければならないことが何か、正確な判断ができずに、状況から逸脱していく。
 主人公の女医が「事件」の犯人探しにのめりこむのも「過剰反応」と言えるかもしれない。彼女の「無関心」がなければ「事件」は防げたかもしれない。しかし、それは単なる「仮説」だ。「無関心」は「犯罪」ではない。警察も、診療時間が終わっているのだから、患者がベルを鳴らしても出なかったことをとがめることはできないと言っている。
 しかし、一方で「無関心」こそが、この映画が描こうとしている問題点であるとも言える。「無関心」であるがゆえに、「逸脱」がはじまると。あ、こういう抽象的なことを書き始めると、おかしくなるなあ……。

 映画に戻って。
 「事件」のカギはいくつもある。少年は、父親がフェラチオされているのを見てしまう。「事件」で死んだのは、父親にフェラチオをしていた少女である。どう反応していいのかわからない。「過剰反応」のひとつが、発作である。
 女医は、少年を診察しながら、少女の写真を見せる。そして、脈の変化を見て取る。「過剰反応」に気づき、そこからさらに「事件」にのめりこむことになる。
 少年の両親は両親で、発作の息子を女医が「過剰に苦しめている」と感じる。かかわるな、と要求してくる。その反応も、どこか「過剰」なものを含んでいる。それは、あとでわかることだが……。
 女医は少女の足跡(?)を追い求めて、あやしげなネットカフェに足を運んだりする。そこは、それまで女医にとっては「無関心」の領域だった。「無関心」の領域にも、人がいる。しかも、それは女医の属する世界が「無関心」に遠ざけている何かでもある。存在していることは知っている。しかし知らなかったことにしている何か。知らないことにはできない何か。
 難民の問題である。
 そこには少女の姉(あとで、わかる)がいて、少女の写真を見て、やはり「過剰反応」をしめす。「無関心」を装うという「過剰反応」である。ふつうの姉のように反応してしまえば、その反応は自分自身の問題に跳ね返ってきてしまう。だから「無関心(無関係)」を装ってしまう。
 「無関心」を強要するものがある。
 少女の姉の「無関心(無関係)」とは違う形の「無関心の強要」もある。女医の「過剰反応」に対して、ドラッグの売人(?)らしい男たちが、「ネットカフェに来るな、関心を持つな」と脅迫したりする。

 うーん、この「関心」と「無関心」、そして「過剰反応」。これを日本にあてはめるとどうなるかなあ。日本の「難民問題」にあてはめると、どうなるかなあ。
 もし、日本に、難民が押し寄せてきて、そのひとたちが暮らしに苦労しながら、「無関心」の世界にとじこもっていたと仮定して。あるいは、「無関心の世界」であることをいいことに、そこで「過剰な行為」のはけ口として利用するようなことがあったとして。
 つまり、父親が難民の少女を性処理の道具として利用し、それをその息子が見てしまう。そしてその少女が何かの原因で事故にまきこまれる、ということがあったとき、その周辺の人物はどう動くだろうか。
 女医だったら、どうするだろう。少年だったら、どうするだろう。父親だったら、どうするだろう。
 「無関心」は「無関心」をいっそう拡大させるのではないだろうか。

 そう思うと、映画の主人公の女医の「過剰反応」は、なんとも美しい。美しいという言い方は妙だが、そこには「善意」というものがある。
 自分にできることは何なのか。それを追い求めて、「過剰反応」する。
 医師になることをやめる、という研修医には、彼が働いている山中まで行って、あきらめないでほしいと言ったりする。ひとに深くかかわる。そうすると、そこから人が少しずつ動き始める。
 能力のある医師なのだが、「診療所」を必要とする人がいるとわかれば、高給が保障されている病院での勤務よりも「診療所」を選ぶ。ひととより密接に、深くかかわる方を選ぶ。そのひととの関わりを選ぶという生き方に「善意」を感じる。
 「善意」というものなどなくても生きていける世界がいいのかもしれないが、「善意」を必要とするひとがいる。
 こういうことを「過剰」にならずに、つまり押しつけにならずに、淡々と描いている。「過剰反応」の「過剰」を抑えきったアデル・エネルの演技がすばらしい。
                      (KBCシネマ2、2017年04月19日)


 *

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高橋睦郎「雪しく封印」

2017-04-23 10:06:07 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋睦郎「雪しく封印」(「現代詩手帖」2017年04月号)

 先日高橋睦郎の朗読について書いた。聞いたときの衝撃が強すぎて(想像と違いすぎていて)、ほんとうに書きたいこととは違ったことを書いたかもしれない。書こうとしていたこととは関係のないことを書いたかもしれない。しかし、それはそれで、何らかの、私には理解できない「理由」というものがあるのかもしれない。

 私はそれまで高橋の朗読を聞いたことはない。自分で高橋の詩を声に出して読んだこともないのだが、音についてはいろいろ思うことがある。そのことを書く。
 「雪しく封印」は大伴家持のことを書いている。「ohtomo no yakamochi 」と別のタイトルがつけられている。その書き出し。

言ふなかれ わたくしが二度死なしめられた とは
一度目は享年六十八を一期に延暦四年八月 奥州多賀城にて
中納言従三位春宮大夫兼陸奥按察使持節征東将軍として

 本文にはルビがある。漢字は「正字」をつかっている。私のワープロでは再現できないので省略した。
 このことばを読むとき、私には、ことばはどんなふうに感じられるか。
 ことばが紙面から私に向かってやってくる、という感じではない。読んでも読んでも、ことばはやってこない。ことばは、「いま/ここ」から「いま/ここではないところ」へ帰っていってしまう。「音」にたとえると、音が聞こえてくるのではない。音が消えていく。聞こえなくなって行く。
 私が高橋の詩に感じるのは、いつもそういうことだ。
 ことばは遠くへ、そのことばが本来あるべきところへ帰っていく。それでは何が伝わってくるのか、何が残っているのかというと、紙の上に「ことばの構造」が残っている。消せない感じで、刻み込まれている。「ことば(意味)」としては何ももわからないのだけれど、ことに「ことば」があった、ということが非常に強く伝わってくる。
 たとえて言えば、「木簡」の「漢字」を読んでいるようなものだ。なんとなく「漢字」とわかる。「知っている」文字があるから、これは「漢字」だな、と思う。ここには何かが書かれていたんだなと思う。でも、それが何を書いてあるかわからない。読むことができない。
 あるいは「外国語」の本を開いた感じ。たしかにそこに「ことば」は書かれている。けれど、その「ことば」は「意味」となって、私には向かってこない。「ことば」は、その「ことば」が属していたところへ帰っていくという感じ。
 「万葉時代の漢字」でも「外国語」でもないので、高橋の詩を読んで、何一つわからないということはない。けれど「意味」が正確にわかるかと言えばわからない。ただ、そこに書かれている「ことば」は、私に向かってくるよりも、その「ことば」が属していた世界へ帰る方が「正しい」動き方をすると感じる。「いま/ここ」で動くよりも、その「ことば」が生まれた世界へ向かうときの方が、強く、正しいという印象がある。
 「いま/ここ」に詩として書かれ、実際に「ことば」があるのに、その「ことば」ではなく、「ことば」が本来の場所へ帰って行ったという「痕」が残っている。
 これを、私は「死の印象」のように感じる。
 死体を見る。たとえば、父や、母の、あるいは兄弟の死体を見る。「肉体」は、そこにある。けれど、それは動かない。動きは、すべて「いま/ここ」ではなく、「いま/ここ」をつくった「過去」へ帰っていってしまい、これから先は動くことができなくなったものだけが残っている。それを見る感じに非常によく似ている。
 この肉体(死体)は、私にはもう働きかけてくることはないのだ。この肉体(死体)と一緒に何かをするということは、もう、けっして起こらないのだ。
 この印象を高橋のことばに重ねて言うと、高橋がここで書いている「ことば」と私がいっしょに何かを考えるということはない。高橋がここに書いている「ことば」をつかって、私が「いま/ここ」を切り開き、未来をつくりはじめるという感じはない。ここに書かれている「ことば」は私から遠くなる。絶対、手の届かない「過去」へ帰っていく。私は、いわば、そういう「ことば」があったということを「死体」を見るように見るのである。読むのである。
 見えるのは「死」、聞こえるのは「死」。

 ここから、一気に、「論理」は飛躍してしまうのだが。

 私が高橋のことばから感じるのは「死の音楽」である。「絶対的な無の音楽」である。それは、聞こえない。聞こえないことによって存在する「音楽」。
 そういうものが、ありうるのかどうかわからないが、ことばではともかく、そういうふうに語ることができる矛盾した何か。
 この「絶対的矛盾」のようなものは、私は、「国語」を超えると思っている。
 高橋の詩を、高橋が外国で読むとき、聴衆に伝わるのは、その「死の音楽」だと私は勝手に想像していた。
 「ことば」がある。「ことば」が「声」として発せられる。それは現象的には聴衆に向かって発せられるのだが、「ことば(音)」は聴衆のことなど気にしていない。「ことば」は「ことば」が本来属している世界へ真っ直ぐに帰っていく。そのまっすぐに帰っていくときの「まっすぐさ」が「いま/ここ」に残される。
 そして、その「まっすぐさ」が、何か非常に刺戟的なのだ。
 「いま/ここ」で何か言おうとすると、「おまえのことばは、それでいいのか」と問いかけてくるとでもいえばいいのだろうか。「おまえのことばは、帰り道をもっているか」「おまえのことばは、きちんと道を歩いてきたか」と問いかけられているといえばいいのかもしれない。
 「いま/ここ」で語られた「意味(内容)」ではなく、「ことばのあり方」そのものを糾弾してくるとでも言いなおせばいいのだろうか。
 「おまえのことばは、構造(文法/道)を持っているのか」と問われていると言えばいいのだろうか。

 私はいいかげんな人間だから、こういう「ことば」の前ではとまどってしまうしかない。父の死体、母の死体、兄の死体。何度か、見たことがある。しかし、それをどう取り扱っていいのか、私は知らない。わからない。わからないから、専門家にまかせてしまう。葬儀屋とか、医師とか。他人の指示にしたがって、まあ、いわれるままに動いているのが私なのだというしかない。父の死体や母の死体と、これから一緒に生きていくわけではないのだから、そんなことを問いかけられても困るのだ。「死の処理」のことなど、考えられない。いま、どうやって生きるかということもわからないのだから。--まあ、そうだからこそ、そういう「問いかけ」が厳しく聞こえるのだろうけれど。
 父や母が死んで、どこかへ行ってしまった、と私には感じられない。生まれたところ、生きてきた道を引き返して行った、という感じ。私は、では、ちゃんと生きてきた道を引き返せるのかと問われても、やっぱりわからない。困ってしまう。

 私の書いていることは、抽象的だろうか。あるいは、具体的だろうか。自分でもよくわからない。
 でも、なんとなく、高橋の書いていることばの「強烈な死の匂い(死の音楽)」は、「神」と向き合うことの多いヨーロッパの人には強く響くだろうなあ、とは思う。(ヨーロッパの宗教を知っているわけではないが。)
 高橋の詩の朗読がヨーロッパでは好評だろうなあ、と想像したとき、私はなんとなく、いま書いたようなことを考えていたのだった。

 あ、詩の感想から離れてしまったか。
 詩を読みながら、高橋の「ことば」は「古典」へ帰っていくと感じる。「旧かな遣い」が端的に高橋の「ことばの肉体」を特徴づけている。「ことば」がどんなふうに動いてきて、「いま/ここ」にあるのか。それを「ことばの肉体の動き」のなかでととのえなおしている。「ことばの肉体」の本来の動きを引き継いでいる。
 「意味(内容)」ではなく、そこに書かれているのは、そういう「動かし方」なのである。「意識」ではなく「無意識」になってしまった「肉体」である。
詩人が読む古典ギリシア――和訓欧心
クリエーター情報なし
みすず書房
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高橋睦郎の朗読

2017-04-20 08:56:07 | 詩集
高橋睦郎の朗読

 私は音読(朗読)はしない。また朗読を聞くということもない。けれど、「音(音楽)」を想像するということは、ある。
 04月18日に楊克『楊克詩選』についての座談会(?)があり、たまたまそこで高橋睦郎の朗読を聞いた。その朗読は、私にとっては、想像を絶するものだった。びっくりして椅子から落ちそうになった。

 実際に朗読する前に、ことばと音楽という話題が出た。中国の音は豊かだ、というようなことが語られた。それに対して日本語の響きは音楽性にとぼしいというような意見も出た。私は瞬間的に高橋の詩の音楽はそうではないと思った。我慢できなくなって、「高橋さんは、いまの意見についてどう思いますか? 反論があるんじゃないですか?」と問いかけた。そのとき高橋は「カタローニャ(スペイン)で集いがあり、詩の朗読をしたことがある。翌日、新聞を見ると一面に高橋の詩(朗読)はすばらしかった、という批評が載った。ことばを超えて伝わるものがある」というようなことを語った。それが何か、高橋は具体的には説明しなかったけれど、私は、高橋の音楽はことばを超えて伝わるだろうと思っていたので、納得した。
 で、朗読。
 たしか、「逆光のなかのカポック」を朗読した。一篇だけの朗読であり、私はその場にいたのに、そのタイトルをはっきり思い出せないのは、それだけ衝撃が大きかったということなのだが。
 高橋は、とてもていねいに朗読した。ことばに強弱があり、スピードにも変化があり、「間」も微妙に動いた。しっかりと準備された「芝居」のような感じ、アナウンサーか訳者が「ことばを演じている」という感じ。そこに、鍛えられた「肉声」、ことばを「肉体」で制御しながら、同時に理想の形にととのえていく力を感じた。簡単に言いなおすと、いわゆる「完璧な朗読」というものを聞いた。
 これが、なぜ、私にとって非常な驚きだったかというと。
 私が高橋の詩を読んで(黙読して)聞き取る「音楽」とはまったく違うものだったからだ。私は高橋の詩を読んで感じるのは、「無音の音楽」「詩の音楽」なのだ。絶対的な韻律。肉体を拒絶する韻律。いや、肉体を超越する「意識(精神)の自立した音楽」というものである。「声を超える音楽」と言いなおすことができる。
 「声」を超えるがゆえに、「声」だけが聞こえる。「意味」が聞こえない。「意味」を超えて、ことばがそこにある。そのことばは、高橋を超越して、死に触れている。こういう音楽というのは「国語」を超えると思った。聞く人の母国語が何であれ、拒むことのできない力があると思った。
 これは世界に通じる。
 そう想像していたからこそ、高橋に「母国語(国語)」を超える音楽があるのではないか、そういうことを高橋は体験しているのではないかと思い、高橋に意見を求めたのだった。

 「絶対的な音楽」(肉体を超える音楽)は、しかし、どうやって「声」になるのか。
 これは、高橋に質問したときは、私はまだ考えていなかった。まさか「完璧な朗読」という形で「声」になるとは思わなかった。私の知らない形になってあらわれると思っていた。一瞬、裏切られたような気持ちになった。
 で、これから書くのは、高橋の朗読を聞いたあとで考え始めたことだ。一瞬裏切られた感じ、しかし、すぐにぐいと惹きつけられた。何が起きたのか。
 直感的に言ってしまうと、「絶対的な音楽」(肉体を超える音楽)は「所作」になる。切り詰められた動き。そういうことを突然感じた。あるいは、聞きながら思い出したといえばいいのか。
 「所作」。能の、役者の動き。
 死ととなりあった肉体、あるいは死をくぐりぬけて、再びうごきはじめる最小限の肉体の復活。死んでいるのに、生きている。生き返っている。

 いわゆる「完璧な朗読」と、私は先に書いたが、正しく書き直せば、私が聞いたのは「いわゆる完璧な朗読」を超える音楽。「いわゆる完璧な朗読(アナウンサー、役者の朗読)」と最初に思ったのは、そういうものを聞いたのが初めてだったので、とまどい、知っている身近なものと結びつけてしまったのである。
 能をはじめて観たとき、その動きが動きが限定された不自然なダンス、躍動することを拒絶された肉体の動きという感じで迫ってくるのと似ている。もっと動けるはずなのに、なぜ、少ししか動かないのか、と感じるのに似ている。
 でも、違うのである。
 死は、激しいいのちの存在でもある。いのちは、なまなましい死の噴出でもある。矛盾したものが、「肉体」の内部で拮抗しあい、肉体に最小限の動きを生み出す。それが「所作」なのだ。「いま」、目の前で「肉体」が動いている。しかし、その「肉体」は「いま」をだけ生きているのではなく、生と死の往復という測りきれない時間を(永遠を)動いている。あるいは、測りきれない永遠を生み出しながら動いている。何か、言ったあとに、すぐそのことばを逆に言いなおさないと言ったことにはならないようなことを目の前にあらわしてしまうものが「所作」なのだと思う。

 さらに付け加えると「所作」といいながら、「肉体」といいながら、私が感じるのは「精神の所作」ということでもある。
 「逆光のなかのカポック」に

うす闇が次第に接近してきて 万物が零落すれば
精神の風景のなかで
黒いシルエットが 全てを意味することになる

 という行がある。「万物が零落する」とは完全な死の世界だろう。しかし、そこにも「精神」は生きている。「精神」とはことばである。
 「精神の所作」(ことばの所作)が、とても美しい。それが高橋の朗読である。この美しさは怖いに通じる。怖いは「死」に通じる。それが高橋の朗読だった。

 高橋の朗読は、最初「いわゆる完璧な朗読」という形で、私の想像していたものを裏切り、次にその私の安易な想像を破壊しながら、私の想像していなかった「所作」というものを教えてくれた。想像していたものが破壊され、その奥から新しい何かがあらわれてきた。そういう驚きが、強く強く迫ってきた。
 練習もしないで(たぶん)、いきなり朗読をはじめて、こういう印象を引き起こすというのはどういうことだろう。まるで、高橋自身が書いた詩のようではないか。
 たぶん、どこかで「詩の肉体」がつながっているのだろう。高橋は「詩の肉体」とすばやく結びつくことができる「肉体」を持っている。そして、その「肉体」は、別なことばで言えば「死の肉体」、つまり「生の肉体を超越した肉体」と接触する能力ということかもしれない。私は「死」と高橋を結びつけたい欲望にとらわれているのかもしれない。

 衝撃が強すぎて、私のことばが動かない。
 矛盾したことを書いているかもしれないが、矛盾するしかないこともあると思うので、ことばが動いたままを残しておく。
 また、いつか考えてみたい。高橋自身の作品の朗読を聞けば、また違ったことを考え始めるかもしれない。
在りし、在らまほしかりし三島由紀夫
高橋 睦郎
平凡社
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楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)

2017-04-19 23:16:21 | 詩集
楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)(思潮社、2017年04月30日発行)

 楊克『楊克詩選』はシンプルな「算数」でできている。つかう数字は1と2。数式はみっつ。
①1+1=1。
 答えの「1」は「一対」と「対」を補うとわかりやすい。対は「対句」の対。
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。
 答えの「1」は完全。「1=半分+半分」と言い換えることができる。
③1+1=2。
 答えの「2」は「無限(無数)」をあらわす。中国人にとって「2」は無限のはじまり。
 これを作品を引用しながら私が感じたことを書いてみる。


 
 数式とは順序が逆になるが、まず、
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。
 巻頭の「地球--リンゴの半分」が、この数式を基本にしている。

私が西海岸の夜明けに目を覚ませば
東の方ではちょうど君が夜へ入ってゆくところ
地球は一個のリンゴであり

 西半球と東半球。地球を東西で半分にわける。「1=(1/2)+(1/2)」。半分が合体して完全な「1」になる。
 ここには「夜明け」と「夜へ入る」という対句構造もあるのだが、とりあえず②のことを書く。
 この西半球、東半球は、「私」と「君」を代弁する。それぞれ一人の人間なのだが、それは「完成形」ではない。完成形になるには「私」と「君」が一緒にならないといけない。「(1/2)+(1/2)=1」という考え方は、プラトンの恋愛論にも出てくる。もともと「一人」だったものが半分にされた。だから、分断された半分を探し出すことで、完全な「一人」になることができる。これは、まあ、恋愛の歌である。
 このあと、詩は、こうつづいている。

アルファベットのO 神がバットを振って
ジャストミートしたボール 宇宙をころころ絶えず転がっている
私はアメリカ的なこの喩えがとても気に入っている
だが私は祖先の太極思想に心酔しているのだ 物事の天地は
ちょうど互いに尻尾をくわえて頭と尻尾がつながる陰陽魚のようなものだ
この概念は地球であるおまえによってとりわけ明晰になるのだ

 「天と地」「尻尾と頭」「陰と陽」。「対」になるものが結合することで「完全」になる。「1」になる。
 「概念」ということばが出てくるが、「対」が概念を明晰にするというのは、①1+1=1のことなのだが、しばらく脇に置いておいて……。
 詩の最後が、また、非常におもしろい。

おまえの便りは
鯨のように太平洋を横切り
リンゴともう一つのリンゴが
手の平に 東半球と西半球は
そんなに近い 隣の女の子のようなものだ

 「リンゴともう一つのリンゴ」というとき、それは「私と君」とおなじように、実は「二つ(二人)」。それなのに、「東半球」「西半球」と「半分」にした上で、出会わせ、一個の完全な地球にしている。
 この世界観は「厦門の白鷺洲」で繰り返されている。

都市の半分はすでに眠りについたが 半分はまだ起きている
ここにやって来た私と妻は 半分ともう一方の半分

 ここに楊克の「算数」のおもしろさがあるのだが、もう少し、数字の「秘密」を語りたい。
 この詩には「二」が頻繁に出てくる。

目にくっきり映るのは二本松
浅い池には二羽の野鴨
二株の青々と育った野菜のように

 これは「対」になることで「完全」になるという中国の思想をあらわしていると思う。だから、「二本松」「二羽の野鴨」「二株の野菜」は、「二」という数字を持っているがほんとうは「1」なのである。日本人なら、こういうとき数字を出さずに「松」「野鴨」「野菜」と書くだろう。楊克がここでつかっている「2」は無意識の「2」なのだ。

①1+1=1。(一対)
 中国の古典的な漢詩は「起承転結」から成り立っている。そして「起承」は一種の「対句」になっている。「対句」になることによって、世界の何かが見えてくる。
 「駅」の一行目。

駅は大都市が古いものを吐いて新しいものを受け取るための胃だ

 「古い」と「新しい」、「吐く」と「受け取る」が対を構成しながら「胃」という形で結晶する。「胃」は「駅」の比喩なのだが、その比喩のなかに「対句」がある。「口」といわずに「胃」というのは、「大都市」は人を消化するからだろう。
 「対句」になることによって、単独では存在しなかった新しい「概念(ものの見方)」が生まれる。そして、その新しいものの見方が「胃」という比喩を強烈にする。
 「概念」を「論理(性)」と呼び変えることもできると思う。「対句」によって、それまで見えなかった「論理」が見えてくる。新しい運動が見えてくる。
 「ゲーテ旧居」の次の二行。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 旧居を破壊する暴力、暴力によってでは破壊されない詩歌のことば。「対句」になることで「概念/論理」が強靱になる。
 この作用のことを、楊克は「濾過」ということばで語っている。

たいていは文字が幾つかのものを濾過されているのだ (「音のない夜」)

 対句だけに限ることではないが、ことばがぶつかり合いながら動くとき、それは「濾過」作用を引き起こす。「1」では見えなかったものが「1+1」のなかで、「2」のなかに存在する「1」を浮かび上がらせる。そうやって「強化された1」が詩なのだ。
 でも、「1+1=2」では「算数」があわない、ということになるかもしれない。消えてしまった「残りの1」はどこに?
 「論理」ではないものになっていると私は思う。
 私の独断でいえば、「残りの1」は「音楽」になっている。「意味」ではなく、「ことばの響き」になっている。「意味(論理)」の強化だけではなく、それがそのまま「口にして楽しい/耳に聞いてなじみやすい」という「音」の強化でもあるとき、詩が完成するのだと思う。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 ここでは、「消し去る」という「音」のかなしさ。「詩歌(しいか)」というゆったりした響きの美しさ。
 原文では「旧居」と「消去」という感じで「韻」を踏んでいるのかもしれない。
 それはそれでいいのだが。
 私は「日本語」で読んでいるので、この「消し去る」という音の響きの「音楽」にひかれる。(中国人は「消去」のままでも「音楽」を感じるかもしれないが。)
 「電話」のなかの「対句」は説明しようとすると、とても複雑だが、「私」と「君」の共通のものが、二人の中の非共通を消し、共通するものを浮かび上がらせる。この、消しつつあらわすという矛盾した動きのなかに、論理と音楽がある。
 そして、この「対句」というのは、「自他の対立」(弁証法)とは違うのである。否定を通して止揚するというのではなく、「自他」のなかにある共通のものが結びつくのである。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 ここでは「強さ」というものが「論理」として結合している。「爆撃」という暴力の「強さ」、「詩歌(ことば)」の「強さ」。「詩歌(ことば)」は「強い」とは直接的に書いていないが、対になることで見えてくる。
 これを「発見」と呼ぶこともできると思う。

 いま、私は、「(1/2)+(1/2)=1」と「1+1=1」を便宜上分けて書いたけれど、これはいつも単純にどちらかに分類できるものでもない。
 「電話」のなかの次の行。

<自我>と<他者>が互いを潤し合い
告白とそれを受け止める耳とは一つになり

 これは「私」と「君」のことだから「(1/2)+(1/2)=1」かというと、そうではなく、それぞれ「1」のまま「一つ」になっている。
 完全に「分類」できない何かを含むのが詩なのだ。
 完全に「分類」できないけれど、どうしても何か通じる「基本」があると感じさせるものが詩であると言えるかもしれない。

③1+1=2(無限)。
 こんなことばが頻繁に出てくる。

彼女は玉ねぎを一皮一皮むき  (「ゲーテ旧居」)

天を向く石榴の木を一本一本見つめると  (「石榴のなかに我が祖国が見えた」)

パッチワークのような墓石の一つ一つからは   (「清明」)

 これはどこまでもつづく足し算である。「1+1」しか書いていないのだが、どこまでもつづく。「無限」である。
 ここから逆に言うと、中国人は(楊克は)、「2」以上の数を知らないのだ。つまり「2」は数字の「完全な形」であり、世界の「完全な形」を象徴しているのだと言える。別なことばで言うと「2」以上は無意味。「2」と「1」だけに意味がある。
 「2」をあらわすことばには幾つかある。「白雲の上」には

双子の兄弟のように

 という比喩が出てくる。「双」が「2」。これを「別の飛行機」とも呼んでいるから「双」は「別」という意味を含んでいるだろう。
 詩集を読みとばしてしまったので、そういうことばがあったかどうか思い出せないが、もうひとつ「両」というのも「2」をあらわすと思う。これは「別の」というよりも「一緒の」という意味になると思う。
 「一緒」にいること(あること)によって完璧になると考えると、
①1+1=1。(一対)
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。(完全)
 というのは、はっきり区別できるものではなく、相互に行き来するものであることになる。
 ①②をあわせて、「1=2」あるいは「2=1」が、中国人の世界観、楊克の世界観という気がする。
 あ、脱線した。
 ③1+1=2(無限)の世界を端的にあらわしたのが「人民」という作品だと思う。ここには「一つ一つ」というようなことばは出て来ないのだが、「一つ一つ」のかわりに「一人一人」に「呼称」が与えられている。

賃金を要求する出稼ぎ労働者たち。
手掘りの大平炭坑から伸び出ている
損傷を被った一四八人分の掌。
売血でエイズに感染した李愛葉。
黄土の高い傾斜地で羊を放牧する与太者。
指に唾をつけて金を数えるお喋り女。
理髪師、合法ではない性サービス者。
都市管理当局とゲリラ戦を展開する露天商。
サウナを必要とする
小経営者。

 「一人一人」にはそれぞれ個別の「動詞」が結びついている。体言止めのため「動詞」は見えにくいが、人の数だけ「動詞」がある。一行目は「出稼ぎ労働者たちは賃金を要求する」と言いなおすことができる。そう言いなおせば、「動詞」の数だけ人がいることがわかる。「一人一人」はこうやって、「無限」になっていく。そういう「無限」が「人民」である、と楊克は言う。
 で。
 この「一人一人」というのは、これまで見てきた中国人の思想(楊克の思想)から見ると、不完全である。大問題である。「両」という形にならないと「完全」ではない。
 だから、楊克は「一人一人」と手を結ぶために、こう言う。

長安街から広州大通りまで
私はこの冬まだ<人民>に出くわしたことがない。
卑小な話をする無数の身体を目にしただけだ。
毎日バスに乗り
互いに暖を取っている。
それを使用する人間は
それがまるで汚れた小銭であるかのように
眉に皺よせて、彼らを手渡すのだ、社会へと。

 「1+1=2」を私は「無限」と呼んだが、楊克は「無数」と呼んでいる。「無数」は「無限」でもあるけれど、まだ「数ではない(1ではない)」ということでもある。「数ではない(1未満)」を「1(数)」にするためには、それと向き合い「両」という形を、対をつくらなければらない。
 最後の方の「それ」とは何か。「無数の身体」である。身体というのは「動詞」の主語である。詩の前半で「一人一人」に「動詞」が違っていたことをみた。「それ」は「動詞」のことでもある。「動詞」によって、つまり何をするかによって、ひとは特徴づけられる。
 そのさまざまな「動詞」をどうやって「両」の形にしていくか。
 「動詞/身体」と対をつくるのは何か。
 楊克は、「ことば」であると言うだろう。「詩」であると言うだろう。
 私は、そんなふうに読みたい気持ちでいる。詩で人民と連帯する、という決意として読みたい。

 *

 私は目が悪くて、長くパソコンに向かっていられないのだが、もう少しだけ気づいたことを書いておく。
 この詩集は「数字」を基本にして読むと、おもしろいことがある。「2」については書いたが、その「2」と同時によく出てくるのが「4」「8」である。「四方」あるいは「四方八方」という感じ。2の倍数である。
 一方、奇数は少ない。「ラッキーセブン」ということばとともに日本人か好む「7」がない。(私は「4」が好きなのだけれど。)
 出てきても「曹植がゆっくり七歩往来して」という故事として出てくるだけである。「七歩の内に詩を作れ、そうでなければ、法によって処罰する」というなかなか厳しい「7」である。不吉な数字なのかもしれない。「誰某」には

男六人女一人が死んだのを観た

 と「七」は「6+1」という形で言いなおされている。具体的に書いたとも言えるが、楊克(中国人の)の「七嫌い」を象徴しているかもしれない。
 日本人は、どちらかというと「奇数好み」であると私は感じる。「段違いの棚」などアンバランスなものにこころが動かされる。シンメトリー(対称)は苦手だ。日本庭園なども、アンバランスのバランスであって、西洋の庭園のように対称にはつくらない。アンバランスの方を自然に感じるのだと思う。
 これに対して、中国人は偶数好みである、と私はこの詩集を読みながら感じたのだった。しっかりとバランスをとっているもの、整っているものが「文化」なのだと考えるのが中国人かもしれない。

 この偶数好み、あるいは「対好み」という観点から詩を読むとき。
 私はふとゲーテを思い出したのである。楊克はゲーテに似ている。ゲーテはドイツ語の詩人。ドイツ語は「枠構造」というか、「構文」の意識が非常に強い(と、知ったかぶりをして書く)。中国語にドイツ語のような構文があるかどうかしらないが、「対句」の思考が無意識の「構文」をつくっていると思う。「1」ではなく「2」が完全である。「2」こそが「1」であるという意識。
 この強い意識で、ひとのこころの無意識の部分で動いていることばをととのえる。そして、動かす。「休むことなく、憩うことなく」というのがゲーテの特徴だが、それにとても似ていると思う。「ゲーテ旧居」が一階、二階、三階と具体的な数字をリズムにして、駆け抜けていく自然な感じもゲーテに似ていると思う。
 また李白も思い出した。音の美しさ。中国語を知らないのに、こういうことを書くのは無責任だが、李白は日本語で読んでも音が美しいと感じる。スピードと軽さがここちよい。これはゲーテも同じ。



 原典を読まないでの感想なのだが。

その二千三百年の高みから
一滴また一滴と      (「端午の「離騒」」)

 この「高い」は私の感じでは「深さ」「深い」。遠い歴史、過去の歴史。つまり「歴史の深部」。

夕焼け雲は
水深くしみ入り 水よりも高い (「サファリパークで野獣主義に目覚める」)

 水の奥底にある、深いという感じ。
 「高い」と「深い」は逆の方向なのに、詩の中で強く結びつく。こういう矛盾した「意味」の同居も、「対句」を動かすときの「枠構造」かもしれない。

 さらに。「海路」のなかに出てくる、「路」と「道」の違いにも興味を持った。「海路」について書きながら、突然、

道は感覚の外にある 夢さえも足を踏み入れられない場所だ

 これは「路」は感覚と接しているということだろうか。それに対して「道」は感覚を超越している。「道」は「論理」(生き方、思想)をあらわしているのか。孔子は「道」をどうつかっていたか。そんなことも、少し考えた。李白を初めとする中国の詩人だけではなく、「論語」とも楊克は通じているかもしれない。簡潔な美しさがある。
 また「路」と「道」の明確な区別があるなら、ここから感覚の美と論理の美の融合という問題を考えてみる必要もあると思う。中国語を知らないのに「音楽」を持ち出すのは問題があると思うのだけれど、音楽を重視した孔子の伝統を、ふと、思うのである。


楊克詩選
楊 克
思潮社
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しばらく休みます(代筆)

2017-04-11 09:24:23 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます(代筆)
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ガース・デイビス監督「ライオン」(★★★)

2017-04-10 10:39:26 | 映画
監督 ガース・デイビス 出演 サニー・パワール、デブ・パテル、ニコール・キッドマン

 インドで迷子になった5歳の少年が、25年後にグーグル・アースで故郷を探し出したという実話。
 少年が登場するシーンがどれもすばらしい。
 迷い込んだ回送列車に乗って大都会にたどりつく。故郷から離れてしまった。ことばがわからない。人の表情を見て状況を判断する。不安と真剣が入り交じる。親切にしてくれるひとがいい人とは限らない。少年はどうやって「判断」したのだろうか。映画では具体的な説明はないのだが、フラッシュバックとして挿入される母の顔が手がかりかもしれない。母の顔に似ているか、似ていないか。形ではなく、表情の動き。目を見て、直感的に判断するのだろう。貧しいけれど、しっかりと注がれる視線。それが母親というもの。
 この少年は、もう一度、故郷を離れる。オーストラリアに養子にもらわれていく。保護してくれる「両親」はいるが、「迷子」であることにかわりはない。もうひとり、同じ孤児院から養子がくる。手がかかるこどもである。両親が手こずっている。それを見る。苦しむ母親の顔。愛情が、届かない。そのことを嘆くニコール・キッドマン。
 故郷をグーグル・アースで探し出すという「奇跡のストーリー」の背後に、この二つの母親の顔が重要な働きをしていると思う。故郷は生まれ育った場所というよりも、「母親の顔」なのだ。母親はこどもを優しく見つめ、喜び、また不安に苦しむ。
 青年になった主人公が、「いま、自分は幸せに暮らしているが、母と兄は私を探しているかもしれない」と言う。彼には、その「顔」が見える。そして、その苦しむ顔が見えるのは、実はニコール・キッドマンの苦悩する顔を見るからだ。
 主人公が覚えている母親の顔は、愛情にあふれ、喜びにあふれ、苦悩を隠している。けれどニコール・キッドマンは喜びと同時に苦悩の顔を見せる。二人目の養子が来てからは、苦悩の方が多い。苦悩の顔を知ることで、主人公は母親の苦悩を想像する。苦悩が、わかる。これが、この映画の一番のハイライトだと思う。そして、これがハイライトだとわかるのは、少年時代の迷子の少年の登場するシーンがとてもいいからだ。
 迷子の少年のことを気にかけない大都会のおとなたち。親切にするのは、少年を売り飛ばすため。ひとさらいが横行している。駅の係員(?)さえ、それを止めようとはしない。ひとにもまれつづけてきたのだ。ただ母の顔だけがなつかしい。会えないのは悲しいけれど、思い出すと落ち着く。
 青年はやがてグーグル・アースで故郷を見つけ出す。駅の給水塔も目印なのだが、それよりも大きな目印が母親の働いていた岩山。石運びをしていた山。それはまた、母親の顔の思い出でもある。石運びを手伝うと心配そうに気づかう顔。持ってきた果物を一緒に食べるときの喜びに輝く顔。母親の顔を思い出し、岩山を思い出し、近くの駅を見つけ出す。
 それからさらにグーグル・アースを駆使して、育った家を見つけ出す。入り組んだ路地を走り続ける。どんなに入り組んでいても、その道は真っ直ぐ。少年にとっては、脇道はない。迷路はない。ひたすら走り続ける。何度曲がっても、少年にはまっすぐに走っているという思いしかない。まっすぐに、ただまっすぐに母の顔をめざして走っている。このシーンが、ほんとうにすばらしい。少年には家で待っている母の顔が見えるのだ。
 この映画で私が気に食わないのは、多用される俯瞰の風景。グーグル・アースで故郷を見つけるということと深く関係しているのだが、「現代の奇跡」の「立役者」にしすぎている。人間の内部はグーグル・アースでは見ることができない。母親の顔に突き動かされるというドラマを消してしまいそうで、それがとても残念だった。
                      (KBCシネマ1、2017年04月09日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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三角みづ紀「小豆島」ほか

2017-04-09 14:47:49 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みづ紀「小豆島」ほか(「別冊 詩の発見」2017年03月22日発行)

 三角みづ紀「小豆島」には「男性」がまじっていない。こう書くと「差別的」に聞こえるかもしれないけれど、私は「男性」がまじっている詩が嫌いだ。それが男性が書いたものであるにしろ。「男性」を「頭」と言い換えるといいのかもしれない。
 「小豆島」の最初の二連。

まだ夜の残る朝
寒気が肌へしみこむ
おおきく手足を伸ばした

青いままのオリーブの実に触れて
ここがどこだかわかっているのに
ここがどこだか知らないふりをして
充満している清潔さは
わたしだけのものじゃない

 三角の詩にも、きのう読んだ和田の作品と同じように「漢字熟語」がある。「寒気」「充満」「清潔」。でも、気にならない。日常語になっている。口語になっているからだと思う。
 さらに、

充満している清潔さは
わたしだけのものじゃない

 この、不思議な「自信」のようなものがいい。
 始まったばかりの朝の清潔さ。それが島中にあふれている。ひとりじめしたくてもできないくらいにあふれて、充満している。それを「わたしだけのものじゃない」というとき、逆に、三角自身がつかみとった確かさ、確かな清潔さが三角の「肉体」からあふれてくるような感じ。三角が確実に自分のものにした「清潔さ」があるから、他の部分が見える。三角がつかみとった「清潔さ」以外の部分、あふれ返っている清潔さを「他人」が持っていってもかまわないという自信のようなものが、ことばを強くしている。
 こういう「わがまま」って、若い女性の特権だなあ、と思う。うらやましい。こんなふうに言ってみたいと思う。思った瞬間、私はたぶん「若い女性」になっている。こう書いてしまうと「変態」と言われそうだけれど、私くらいの年齢になると「変態」と言われる方がうれしい。まだ「変態」になれるだけの力があったのか、と思うから。
 あ、脱線してしまったが。
 「わたしのものじゃない」ということばの中にある「自信」は次のように展開していく。

青いままのオリーブの実に触れて
ここがどこだか知らないふりをして
信じて この島は
いまこの瞬間
わたしのためにあった

 「わたしのものじゃない」と言いながら、思わず「わたしのためにあった」と言いなおしてしまう。これが、強い。途中にある「信じて」は読み方がむずかしいが、私は「わたしのためにあった」と「信じる」と読んだ。「信じる」は「自信」へとつながっていく。
 ここには「頭」に頼って動かしていることばがない。三角のことばの「出典」は「教養本」ではない。こういうことを指して、私は「男性」が含まれていないというのだけれど。
 「粟島」の、

今日もずいぶん歩いた
港から西浜
いりくんだ道
あらゆる軒先に名前があり
それらは案外いりくんでいない

道がいりくんでいても
わたしたちはいりくんでいなから
わかっているから
素直になれなくて

 の「いりくんでいる」「いりくんでいない」の向き合い方、「わかっている」というこころの動き、それが「素直」に結びついていくことばの動き方も気持ちがいい。「素直になれなくて」も、それが「素直」ということ。それが「見える」ということが、「素直」なのだ。
 ことばの動きのなかに、いわば「矛盾」みたいなものがあって、それが絡み合って「ことばの肉体」を強くしている。「頭」で補強(あるいは整理)しようとすると「矛盾」は「破綻」へとつながっていくのだが、「ねじれ」を「肉体」のなかへとりこんでしまうしなやかさがある。若さがある。
 この作品の最終連。

階下からゆみちゃんが
お風呂ができましたと教えてくれ
朝食のあとはえっちゃんが
犬を連れて通りかかる

 「素直」は、こんな形で実る。いいなあ。
 「志々島」の最終連も美しい。

いせやの船に乗る
島は次第に遠ざかるが
遠ざかるほど
大きくなった

 「物理(現象としての風景)」と「心理(心象としての風景)」を対比させているのだが、私が説明のために書いたような「頭の補強」がない。そういうものをふっとばして、「肉眼」で世界をとらえている。
 私は、こういうことばが好きだ。

よいひかり
三角 みづ紀
ナナロク社
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山田兼士「すみよっさん」、和田まさ子「語ることは」

2017-04-08 10:32:07 | 詩(雑誌・同人誌)
山田兼士「すみよっさん」、和田まさ子「語ることは」(「別冊 詩の発見」2017年03月22日発行)

 きのう読んだ山田兼士「すみよっさん」について、青木由弥子さんが「娘をお嫁さんに出す母親の視点かな~と思いながら、読みました。男性が女性視点で書く、ある種の惑乱の心地よさ。」と指摘してくれました。(フェイスブック)
 作者の山田が「青木さん、ありがとうございます。みごとな解説ですね。」と返信している。
 あ、そうだったのか、と私はびっくりした。二連目の「彼」は一連目とは関係なく、夫だったのか。「彼」というのは「恋人感覚」が残っているからかな?
 そのあとの「コメント」にもいろいろ教えられたのだけれど、教えられれば教えられるほど私は横道にそれてしまう。想像が広がる、と言うのかもしれないが。その結果、私が最終的にたどりついたのは、山田の夫婦関係には「手を引く/手をつなぐ」(手と手が直接ふれあう)ということがないのかなあ、という「好奇心」(覗き見趣味)。「その日から私たちの大社は/すみよっさんになった」は手と手ではなく、こころとこころが結び合っていることをあらわしているけれど、うーん、この手と手(肉体の結びつき)を超越した心境に的確に反応するというのは、女性の方が精神的な生き物だから? (などと、かなり差別的なことも、私は思ったりするのです。)

 そういうことと関係があるか、ないか。
 きょうは和田まさ子「語ることは」について書きたい気持ちになった。私が和田の詩をはじめて読んだのは「現代詩手帖」の投稿欄。「壺」のことを書いてあった。華道か茶道かわからないけれど、何かそういう「おけいこごと」の師匠が「壺」になっている。その「壺」と会話する、という感じの作品。そのあとの同僚が「金魚」に変身する詩もとてもおもしろかった。不思議な「人間関係」が見えるので、もっと「覗き見したい」という欲望にさそわれるのだ。「覗き見したい」という欲望は、あっ、これは「見たことがある」と感じさせるからかもしれない。奇想天外なのだけれど、リアルなのだ。
 でも、
 最近は、そういう作品をあまり読むことができなくなった。
 作風が変わってきた。
 作風が変わってきてからは、読む機会も減ったのだけれど。「語ることは」の一連目は、こうなっている。

床に積まれた本を引きあげると
からだから滴っている
海水のような逡巡を
ぴしぴしと振り切って
逃げるための準備

 「本」と「からだ」の関係がおもしろい。「本のからだ」と「わたし(和田)のからだ」が重なる。本はそのまま和田である、と思う。「滴る」は本の描写ではなく、和田の肉体の実感。とてもいいなあ、と思う。
 同時に、私が「覗き見したい」と思っていたころの和田は「逡巡」というようなことばはつかわなかったと思う。「人間関係」が「歪まずに(変形せずに)」、奇妙に「精神的」になっている。本が和田になる、和田が本になるというのは、人間が壺や金魚になるのとおなじく「変身」だけれど、「関係」を「精神」にとじこめて処理すると「逡巡」という抽象になるのだと思う。この抽象を詩と呼ぶひともいるのだけれど。
 二連目。

冬から春の始まりの五センチに糊しろをつける
その部分だけ現実は混濁する
沈黙したい
語ることは臓腑に重いことだから
人のことばにただ頷く

 「糊しろ」はおもしろいと思うけれど、「現実は混濁する」は、いやだなあと感じる。「逡巡」とおなじように、「頭」で整理したことばという感じがする。「臓腑」という「肉体」が出てきても、私はどうも実感できない。「臓腑」というのは見えないところにあるからかもしれない。腹が痛かったり、重かったりすると、たしかに「臓腑」はあるのだなあとは思うけれど、それを意識するのは確実に肉体の状態が悪いときなので、そういうときことばを動かす気持ちにならないからかもしれない。

この町の街路の余祿のようなベンチに
のせている
経験と失敗
生と死
怨恨と恩義
反意語になるもののいくつかは
痛みを伴う

 えっ、どんな痛み?
 私は、つまずく。
 そして、和田はだんだん荒川豊美のようになっていくのかもしれないなあ、と思う。
 新井豊美は『いすろまにあ』がとても楽しかった。おんなっぽかった。だんだん精神語(?)が増えてきて、おんなっぽさが消えて行った。その増加に正比例するように新井豊美の評価は高くなって行ったのだけれど、私は、とても不思議な気がした。
 私はだんだん「覗き見したい」(隠している部分を見てみたい)という欲望を失って行ったからだ。
 最終部分。

やさしいことばをかけられても
近くにいる者が心底
怖い

 ときどき聞くことばだけれど、「実感」できない。「覗き見」した感じがしない。
 山田の詩が「男性が女性視点で書く」という詩なら、この作品は「女性が男性視点で書く」になるのか。そのとき見えるものは何だろう。「男性が理想と思っている女性像」でないといいのだけれど。

わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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山田兼士「すみよっさん」

2017-04-07 10:35:55 | 詩(雑誌・同人誌)
山田兼士「すみよっさん」(「別冊 詩の発見」2017年03月22日発行)

 山田兼士「すみよっさん」を読みながら、これはどういうことだろう、と何度も首をかしげた。「住吉大社」に「何度も行った」ことを書いている。

住吉大社には何度も行った
七五三には父に手を引かれて
数年後には幼い弟の手を引いた
人混みのなか太鼓橋をこわごわ渡った

彼と初詣に行ったのは
結婚後間もない頃だった
不安と期待が入り混じるなか
われ知らず心から祈ったりした

男の子が生まれ女の子が生まれた
子育てのさなか住吉大社に何度も行った
人混みの中こわがる子供たちの手を引いた
朱塗りの太鼓橋をゆっくりそっと四人で渡った

 登場人物が何人かいる。「父」「弟」「男の子」「女の子」。二連目の「彼」は「弟」だろう。でも、そのあとの「結婚後」はだれの結婚後? 「われ(山田)」なのか、「弟」なのか。三連目の「男の子」「女の子」の親はだれ? 「われ(山田)」なのか、「弟」なのか。「四人」というのは「弟」と「弟のこども二人」と「われ(山田)」なのか、それとも「われ(山田)」と妻と、「われ(山田)」の「こども二人」か。

それから長い歳月が流れて
きのう花嫁姿の娘の手を引いて
太鼓橋を渡った こわがりもせず
橋のたもとで青年の笑顔がむかえる

 ここでも「娘」がだれの「娘」かわからない。ずーっと詩を読んでいく。

結婚式は国宝の第一本殿
披露宴は国の有形文化財の神館
どちらも普段は立ち入れない場所だ
樹齢千年以上という大楠が見守っていた

衣裳直し後の入場の時には彼が
娘の手を引いた その手は
青年の手に委ねられた
太鼓橋がふと見えた

娘のスピーチに驚きながら私は
泣きくずれそうな彼を支えた
その日から私たちの大社は
すみよっさんになった

 どうも「彼/弟」の「娘」が結婚式をしたらしい、と思うのだが。違うかもしれない。四連目の「娘の手を引いた」は「われ/私(山田)」であり、六連目では「彼/弟」かもしれない。「衣裳直しの時には」とことわっているのは、四連目のときとは違ってという意味かもしれない。「太鼓橋」が再び出てくるのは、四連目の「太鼓橋」で「娘」の手を引いた人間とは別である、ということを語っているのかもしれない。
 最終連の「彼/弟」の描写も、「彼/弟」の「娘」の感謝のスピーチに「彼/弟」が感動した受け取るのがふつうなのかもしれないが、「われ/私(山田)」への感謝のことばを聞きながら「彼/弟」が感動したとも受け取れる。他人の話に感動するということもある。
 なんだかよくわからないまま、繰り返される「手を引く」ということばが気になる。どうも「手を引く」という動詞が、この詩を「不透明」にしている。言い換えると、この「手を引く」がこの作品を詩にしている。
 「父に手を引かれた」「弟の手を引いた」。「手を引く」という動詞が引き継がれている。これをキーワードにして読むと、その「手を引く」という動詞が三連目で「彼/弟」へと引き継がれていると想像できる。「父」から「われ/私(山田)」へ、「われ/私(山田)」から「彼/弟」へ。そして「彼/弟」から「青年」へ。で、そこまでいって、「彼/弟」には「手を引く」ひとがいなくなった。手を引いて、誰かを誰かにわたすということがなくなった、と気づく。「手を引く」という動詞が、完全に「彼/弟」から消えてしまった。「娘のスピーチ」を聞きながら、そういうことを思ったんだろうなあ、と想像はするのだが。
 で、「彼/弟」が「手を引く」という動きを失ったとき、それが「われ/私(山田)」にまたかえってくる、というか。
 「われ/私(山田)」が「彼/弟」の「手を引く」という世界がもう一度復活するということなんだろうなあ。その「前触れ」が「泣き崩れそうになる彼を支えた」ということなんだろうなあ。「支える」は「手で支える」だろうから。
 そういうことの「象徴」が「住吉大社」を「すみよっさん」と呼ぶ、その呼び方となっている。他の相手に話すときは「住吉大社」と呼ぶ。けれど「「われ/私(山田)」と「彼/弟」のあいだでは「すみよっさん」と呼ぶ。それは「手を引く」の「手」のようなもの。「すみよっさん」と言うとき、「手」がつながるのだ。

 そんなふうに読みながら、何度も首をかしげるのは、私にはこうした「兄弟感覚」がないからだ。手を引かれた記憶も、手を引いた記憶もない。そういうことをしたかもしれないが、記憶するようなものではないと感じているのかもしれない。
 ふつうの兄弟というのは、こんなに「手を引く」ということをするのだろうか。「手をつなぐ」ということをするのだろうか。
 山田が何人兄弟なのかわからないが、山田はほかの兄弟、あるいは家族とは「手を引く/手をつなぐ」ということを日常的にしているのか。

 そんなことが、詩全体の「形」、最初はことばが少しずつ増えて、進むに連れて一行が長くなるのが、最後の二連では反対に行が進むに連れて短くなる。一種の「対称構造」になっていることとも関係して、みょうに「もやもや」とした感じが残ってしまう。「山田(われ/私)」は「父」になって「弟/彼」をこどものように「手を引いている」?
 これって、何?
 何が書いてある?

詩の翼 Les Ailes de Poésie
山田兼士
響文社
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大岡信「夏のおもひに」「地名論」

2017-04-06 14:39:11 | 詩集
大岡信「夏のおもひに」「地名論」(現代詩文庫24、大岡信詩集)(思潮社、1969年07月15日第一刷、1973年07月01日第七刷)

「現代詩文庫24、大岡信詩集」の巻頭の作品が「夏のおもひに」。大岡の代表作というわけではないだろうけれど、大岡がどうしても収録したかった作品なのだと思う。

このゆふべ海べの岩に身をもたれ。
ゆるく流れるしほの香にゆふべの諧調は海をすべり。
いそぎんちゃくのかよわい触手はひそかに流れ。
とほく東に愁ひに似てあまく光流れて。

このゆふべ小魚の群のゑがく水脈に。
かすかなひかりの小皺みだれるをみ。
いそぎんちゃくのかよわい触手はひそかに流れ。
海の香と胸とろかすひびきにほほけて。

とらはれの魚群をめぐるひとむれの鴎らに
西の陽のつめたさがくろく落ち。はなれてゆく
遊覧船のかたむきさへ 愁ひをさそひ。

このゆふべ海べの岩に身をもたれ。
こころの開かぬままに別れしゆゑ
ゆゑもなく慕はれるひとの面影を夏のおもひにゑがきながら。

「流れる」という動詞が出てくる。「流れる」は「すべる」「ゑがく」「みだれる」「めぐる」「はなれる」「かたむく」「さそう」「わかれる」という具合に変化してつながっているとも言える。「主語」は「水」であり、「香」であり、「光」である。不定形のもの。つかみとれないもの。それは「思い」というものに結晶している。「水」「香」「光」は「流れる」もの、「思い」の「象徴」であり、それは様々な動詞で繰り返されていることになる。
繰り返しは「流れる」を「流れる」ということばをつかわずに語る「肉体」である。「ことばの肉体」がここにある。
「音(声)」がこれに加わる。「ゆふべ」「海べ」「すべり」、「ゆふべ」「ゆるく」、「ゆるく」「いそぎんちゃく」「とほく」「あまく」、「ひがし」「うれひ」「ひかり」。繰り返し同じ音があらわれてくるとき、そこに「流れ」を感じる。あ、これは前に見たもの、聞いたものがふたたびあらわれてくんきたのだという感じを生み、「まえ」と「いま」のあいだをつなぐ。あるいは「いま」を「まえ」と「あと」へひろげる。
「うれひ」は「音」というよりも「文字」なのだが、この「ずれ」が、また「流れ」の感覚を刺戟する。ほんとうは違う。でも、どこかでつうじている。はなれたものが、偶然ちかづき、一緒になる。
その不思議のなかに大岡は詩を感じているのだと思う。
「とらはれの」「ひとむれの」。その「は」と「ひ」のなかにも、その遠い連絡を、遠いけれど強い連絡を感じる。歴史、時間をくぐりぬける「力」を感じる。
「くろく」「はなれていく」。「かたむきさへ」「さそひ」。「別れしゆゑ」「ゆゑもなく」。「おもかげ」「おもひ」。
「流れ」が生み出すみだれ、ざわめき。はなれてゆきながら、あつまってくる。それを「意味」で整えるのではなく、「流れる」という「動詞」そのものとしてつかみとろうとしている。
これは「地名論」につながる。「地名論」は現代詩文庫の最後の巻末にあって、全体を押さえているのだが、これがまた楽しい。
この作品を貫く「ことばの肉体」は「夏のおもひに」と完全に一致している。「流れる」という「動詞」が様々に変化し、音が響きあう。そのなかでイメージが交錯する。「意味」ではなく、「意味」を壊して「ことば」がいのちをもって動いていく。
私が大岡の作品のなかで一番好きなのが、この「地名論」。

水道管はうたえよ
お茶の水は流れて
鵠沼に溜まり
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
おお 見知らぬ土地を限りなく
数え上げることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか
燃え上がるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混じったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)
大岡 信
岩波書店
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マット・ロス監督「はじまりへの旅」(★)

2017-04-06 08:05:57 | 映画
監督 マット・ロス 出演 ビゴ・モーテンセン

 はじまった瞬間、ぞっとする映画がある。この作品が、それ。
 森が映し出されるのだが、その緑が人工的。アメリカ映画の緑の色に私はいつもついていけない。この映画のはじまりの緑はいつもの「汚い緑(水分のない緑)」ではないのだが、まるでペンキを塗ったような緑。「フィールド・オブ・ドリームス」よりもあくどい。「美しいでしょ」と強引に迫ってくるのだが、私には全然美しく見えない。アメリカの山岳地帯(森)へ行ったことがないこういう言い方をしてはいけないのかもしれないが、こんな緑、どこにもないだろう。光と影が動いていない。
 これでは、だめだ、と瞬間的に思う。そして、思った通りの映画。ある理想があって、それを「完璧」に描いて見せる。でも「完璧」に見えるものなんて、嘘に決まっている。この映画は、嘘に始まり、嘘に終わる。
 途中、森を捨てて、一家が「都会」へ行く。そのときあらわれる緑は、いつものアメリカ映画の「汚い緑」。こんな緑を見て、よく嫌な気分にならないものだと私は不思議でしょうがないのだが、多くのアメリカ人は平気なんだろうなあ。
 あ、脱線したかな?
 映画の見どころ(?)は、自然のなかで英才教育を受けた子供たちが、はじめて社会に触れてカルチャーショックを受けるところにあるのだが、これがねえ、ぜんぜんコメディーになっていない。笑えるのは笑えるのだが「愉快」なのではなく、「ばかばかしい」のである。映画の最初の緑と同じように、「完璧な笑い」をめざしているので、ぞっとする。「笑い」なんて気楽なものなのに、「完璧に説明」しようとしている。ほら、天才一家とふつうの人の「ギャップ」がおかしいでしょ、おかしいでしょ、と念を押すように「説明」される。そこには「笑いの論理」はあるけれど「笑いの肉体」がない。「肉体」が「笑い」に共感しない。
 くだらない例だけれど、たとえば警官がバナナの皮に滑って転んだとする。そうすると見ているひとは笑うね。警官に同情なんかせずに、むしろ、「ざまを見ろ」という感じで笑う。そういうところに、「笑い」の残酷な基本があると思うのだが、この映画はその「残酷な基本」を無視している。「高尚な哲学」で分析して見せる。
 いやらしい感じがする。
                  (t-joy 博多スクリーン6、2017年04月05日)
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「ピカソ、その芸術と素顔」

2017-04-05 09:59:19 | その他(音楽、小説etc)
「ピカソ、その芸術と素顔」(みぞえ画廊、福岡市中央区、2017年04月04日)
  
 「ピカソ、その芸術と素顔」はみぞえ画廊のリニューアルオープン記念で開かれてる。絵は「静物」と「男の顔」の2点。あとはロベルト・オテロの撮影したピカソの写真。
 絵は、私は「男の顔」が好き。ピカソの作品には、なんといってもスピードがある。見るスピードが、他の画家よりもはるかに速い。速く対象をとらえてしまう。だから速く描ける。その速さのなかに、「対象が好き」という感情があふれている。「対象が好き」という気持ちが強くあふれている。「好きだから、描いた。ほら、見て」という子供の感覚。
 と、抽象的なことを書いてもしようがないか。
 「男の顔」では帽子のまわりの塗り残し(キャンパスの白が残っている)が鮮やかで美しい。太い太陽の光の輪郭のよう。反射のように。この太い塗り残しと、髭の、色を塗ったあとを引っかいてキャンバスの白を引き出す感じが呼応している。髭のもじゃもじゃが細い光を反射している。(髭の中の白髪、と見ることもできる)レンブラントなら、その光を繊細に、ていねいに描くだろう。光の変化を描くだろう。けれどピカソは一気に、乱暴に、あっと言う間に描いている。そこに「いのち」がある。単に光の変化(反射)というよりも、「肉体」のなかからあふれてくるエネルギーの発する力がある。そう思うと、帽子のまわりの白い光も、単に太陽の光というよりも、この男が全身で発しているオーラのようなものかもしれない。
 顔の描き方というか、目、鼻、口の形が、またおもしろい。目は、どう見たって女の性器である。男が女の裸を見て(特に性器を見て)興奮している。だから、目が女の性器の形になる。目の周りの睫毛は、トイレの落書きの陰毛そのものである。瞳孔は、クリトリス。いいなあ。この、あからさまな欲望。もう、目はセックスをしてしまっている。鼻の穴も膨らみ、女の匂いをぞんぶんに吸い込んでしまっている。口からは舌が出てきそうだ。あらゆる穴という穴をなめつくしたように、唇は腫れている。
 「静物」は何を描いているのだろう。中央のノートは本のようでもあるし、楽譜のようでもある。楽譜と思ってしまうのは、全体に「音楽」があふれているからだ。左に燭台があり、右にはカクテルグラス? 何よりも美しいのはバックに描かれている夜空の星。ピカソの視線のスピードは星の光よりも速いから、星が放出する光を「形」としてとらえてしまう。ピカソは星が放出している光の、その放射する光線の一本一本が見えてしまうのだ。私は目が悪くて、いまは夜空を見てもほとんど星をとらえることができないが、あ、昔、こういう星を見たことがあるなあ、と思い出してしまう。「肉体」のなかにある、若くて健康な力を思い出させてくれる。
 写真を見ると、ピカソは「被写体」としても、とても魅力的であることがわかる。特に気に入ったのが、描いたばかりの絵を私人に見せているもの。男が女に襲いかかっている、スケベな絵。がき大将が優等生に「ほら」と見せている感じ。あるいは先生に「ほら」と突き出して、困らせている感じ。もっと真剣なのかもしれないけれど、私は、「無邪気」を感じる。「純粋」を感じる。
 アンティーブのピカソ美術館での写真もある。あ、ここへ行った、去年はアンティーブとバローリスへピカソを見に行ったのだということを思い出したりもする。画家(作家)の生きていた場所(作品の舞台)を知ることは、作品を理解するために必要なこととは決して思わないが、そういう場所へ行ってみると、「気持ち」がかってに動くというのがおもしろい。ここにピカソがいたんだ、と思うと、何かピカソに会っているような気持ちになる。「錯覚」なんだけれど、錯覚は楽しい。
 ピカソは着ているものもおしゃれだ。さすがに金があるだけあって、いいものを着ているということが写真からもわかる。セーターやシャツも、あ、これがほしいと思ったりする。そんななかにあって、白いブリーフにTシャツの写真もあったりする。思わず、じーっと見てしまう。変な趣味? 
 ジャクリーンと一緒の写真もある。ジャクリーンを見ながら、あ、見たことがある、と思う。「絵に似ている」と思う。そう思って当然なのだろうけれど、ピカソの人物はデフォルメされているから、この「似ている」は、ある意味で不思議。
 で、どこが似ているか、と考えたとき、やっぱり「スピード」ということばが思い当たる。ジャクリーンのなかで動いている感情が顔に出てくるまでのスピード。感情が顔を動かしている。その感情の放出を、「静物」の星の光の放射のように、くっきりと、目に見えるように描いているからなのだと思う。「輪郭(形)」が似ているのではない。「似顔絵」ではない。顔のなかで動いている感情の動き、その強さが、絵とそっくりなのだ。絵がジャクリーンに似ているというよりも、ジャクリーンが絵に似ていると言った方が正確かもしれないとさえ思う。写真よりも絵の方がジャクリーンにそっくり、と「実物」を知らないのに、そんな奇妙なことを思ったりする。
 2017年04月01日-04月16日の期間中、無料。ぜひ、どうぞ。客がいないので(?)、貸し切り状態でこころゆくまで見ることができます。

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葉山美玖『スパイラル』

2017-04-04 09:56:37 | 詩集
葉山美玖『スパイラル』(モノクローム・プロジェクト、2017年04月20日発行)

 葉山美玖『スパイラル』は前半と後半でことばの「調子」が異なる。前半はことばに「希望」のようなものをこめている。ことばが「現実」を別の次元へ連れて行ってくれることを願っているような詩だ。読者に、一緒に「異次元」(詩の世界)へ行こうと呼びかける作品。たとえば「終電」。

六本木のバーで偶然彼女に遭った
彼女は相変わらず化粧っ気のない顔に
燃えるような朱色のカーディガンをはおって
耳たぶにはしずく型の
アクアマリンのピアスが透けていた

 「六本木」すらが「現実」ではなく現実にスポットライトを当てる虚構。「耳たぶにはしずく型の/アクアマリンのピアスが透けていた」は、そういう虚構でしかとらえられない世界への入り口ということになる。
 詩は、こういうところからはじまるかもしれない。
 最初は、たいていの人が現実を違った角度から見せてくれることばを詩と思うものである。
 でも、私はこういう「異次元への誘い」というものは、あまり好きではない。

 後半は、逆である。「異次元」を「現実」に引き戻す。「異次元」といっても、まあ、「現実」なのだけれど、その「現実」をもっと自分のことばの方へ引き寄せる。そうすると「ことば」が葉山の「肉体」になる。おっ、もっと見たい。「覗き見したい」とそそられる。
 「あまえない」は、こうはじまる。

一万円札なんまいかつかって
あなたに謝りに行った
そしたらそこには
あなたの一万円札なんまいかで
着飾ったおんながいた

 「一万円」は、だれにでも共通する「一万円(貨幣)」なのだが、「一万円札なんまいか」とつながることで、葉山にしかわからない「現実」になる。わからないといっても、それは正確に何万円かわからないということであって、「なんまいか」ということばにこめた苦しみはわかる。思わず、わっと叫んで身をのりだしてしまう。「わからない」と「わかる」がいっしょになって、そこにある。「もの」が存在している。こういうものが「現実の肉体」だと思う。一万円札の「札」がとても強い。
 これを、どこまで、どうやって持続するかが、とてもむずかしい。「耳たぶにはしずく型の/アクアマリンのピアスが透けていた」のように、異次元のことばに頼るわけにはいかない。
 そこは異次元、だれにでも共通するけれど、だれにも共通しない葉山だけの世界、葉山の個人的体験だから、安心して、好奇心を発揮できる。覗き見したくなる。
 ところが、葉山のことばは、ここからこうつづいていく。

わたしはおとこのことをひっしに考える
おとこもわたしといることが希望だと言った
でもあなたは
うそをつくからいやだというひと
一緒にいると絶望するというおんなと
一晩過ごすためにタクシーに乗って行った

 ほんとうのことを書いているのだろうけれど、「一万円札なんまいか」のような「わからないけれど、わかる」ということばがない。むしろ「わかるけれど、わからない」という感じがしてしまう。そんなこと、私(読者、谷内)の知ったことではない。好奇心が褪めてしまう。葉山の「色」が消えて、一般的な男と女になってしまう。
 その直後の、

わたしはことばを信用しない
一万円札なんまいかを信用する

 ここも、「わからないけれど、わかる」。言い換えると、「知りたくなる」。「わかる」というのは、たぶん読者の方が作者の方へ近づいてくのである。「知りたいこと」だけを探して近づいていくとき、「わかった」と思ったことが勘違いであっても、まあ、「わかった」なのである。
 「作者を知る」のではなく、「自分を知る」。それが「わかる」。
 葉山は、こういう私のような「読者のわがまま」とは、まだつきあったことがないかもしれない。
 私のこの感想を読み、きっと「谷内は何もわかっていない」と思うだろう。
 でも、そういうものなのだ。ひとはだれでも他人のことなんか知りたくない。自分のことで忙しい。他人のことなんかわかりたくない。わかると、めんどうになる。
 でも、ひとはひとのことばを読む。私は他人のことばを読む。

あたしはしゅんとして新幹線に乗った
景色にはまるで意味がなかった

 「景色にはまるで意味がなかった」というのは葉山の体験だが、このことばによって「目覚めてくるもの」がある。それは葉山の体験ではなく、自分自身の体験である。あ、こういう世界を覚えている、と瞬間的に思う。私は私の覚えていること、覚えているけれどことばにすることを知らなかったものを求めて読む。
 「景色にはまるで意味がなかった」が強い。
 また「八月の雨」には、こういう行がある。

千円札をレジに出すと
かさついた掌に載ったお釣りは
青白い百円玉ひとつと
黄色くひかる十円玉むっつだった

 「かさついた掌」「青白い」「黄色くひかる」が「異次元への入り口」としての「虚構」と私が呼んだもの。それを書きたいのかもしれないけれど、そうすると「現実」が遠くなる。ここでは、読者が葉山に近づいていくのではなく、葉山が読者に近づいてくる。こういうとき「わかる」けれど、ひとは「わからない」と言うと思う。少なくとも、私は「わからない」と言う人間である。「異次元への入り口」を書くならもっと肉体を覗かせるものでないと弱いし、虚構に整理されてしまう。「論理」になる。

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バリー・ジェンキンス監督「ムーンライト」(★★★★★)

2017-04-03 10:25:33 | 映画
監督 バリー・ジェンキンス 出演 トレバンテ・ローズシャロン、アシュトン・サンダース、ジャハール・ジェローム、アンドレ・ホランド、マハーシャラ・アリ

 「ラビング」を見たとき、あまりに静かな映画で驚いたが、この「ムーンライト」もとても静かな映画だ。カーステレオから流れる音楽は大音響だが。
 この映画の驚きはいくつもあるが、何といっても驚いたのは、主人公を助けるドラッグの売人が最初の三分の一でさっと消えてしまうことだ。いじめられている主人公を見つけ、そっと助ける。話を聞き、話をし、それから水泳を教える。主人公の母親に説教もする。主人公をほんとうに大切にしている。それがぱっと消えてしまう。葬式の話がちょっと出るだけで、そのあとはストーリーには登場しない。ところが、とても印象に残る。忘れられない。何といえばいいのかわからないが、きちんとしている。ドラッグの売人なのだが、何かを信じている。それを守っている。守るは、持ち続けているといった方がいか。「ムーンライト」というタイトルそのものも、彼が「おばあちゃん」から聞いたことばだ。月の光を浴びると、黒人は「青い」。それを覚えている。
 うーん、でも、その意味は? 何の「暗喩」? 考え始めるといろいろ思うけれど、ここは何も考えてはいけない。ただ月の光を浴びて「青く」輝く人間を感じればいい。肌の黒さが「青」をさらに静かに、つややかにしている。そんな姿をただ思い浮かべればいいのだと思う。それを忘れずにいるということを思えばいいのだと思う。
 それにしても。
 私は思いついたまま感想を書くので、話が前後してしまうのだが、この売人が主人公に水泳を教えるシーンが美しい。最初、海は、生々しく少年に触れてくる。海の深さがわからない。いまにも少年をのみこんでしまいそうだ。少年はのみこまれる不安のなかにいる。ところが売人に導かれ、泳ぎを覚える。そして、少年が自分の力で広い海を泳ぎ始めると、泳げるという「自信」が海を静かにしてしまう。海は、もう少年をのみこむ海ではなくなっている少年といっしょに海も変わっていく。
 売人は少年に、生きるとはそういうことだと教えたのかもしれない。もっとも、こういうことはすぐにはわからない。私があとからくっつけた「意味」であって、実際に泳ぎを覚えるときはそんなことを考えないだろう。
 人間の肉体というのは不思議なもので、泳ぎのように一度覚えたものは忘れない。
 少年は、このとき泳ぎといっしょに、自分を支えてくれる誰かがいるということを「肉体」で覚えたかもしれない。自分が変わると世界が変わるという感覚を身につけたのかもしれない。自覚はしていないけれど。そして泳ぎのように、その覚えたことは忘れることができないものとして残る。あるとき、それが生きる力そのものになる。覚えていて、その覚えていることが「肉体」を自然に動かす。
 まあ、そんな面倒くさい「理屈」をこの映画は言っているわけではないけれど、売人のぱっと消えていく消え方と、その売人をいつでも思い出せるということが、泳ぎを覚えるということと同じような感じで、私のなかに残っている。
 ときどき、台詞にもはっとさせられる。
 少年が友人から「泣いたことはないのか」と聞かれ、「泣きすぎて、泣いた涙の一滴になってしまいそうだ」というようなことを言う。そばに海がある。海は少年の涙を集めたもののように思えてくる。この瞬間にも、ある売人がよみがえってくる。涙の海を泳いでいくことを教えてくれた、泳いでいけると教えてくれたような感じ。
 ラストシーンの、売人になった主人公が友人に出会い、「自分の体に触れたのはおまえだけだ。他は誰も触れていない」というのも印象的だ。「純愛」を語っているのだが、このときの「体」は「こころ」と言い換えられるものだと思う。「こころ」は「ほんとうのこころ」。「自分のほんとうのこころに触れたのはおまえだけだ」と主人公は言っている。そしていま「私はおまえのこころに触れたい」と声に出さずに胸のなかで大声で叫んでいる。
 でも。
 それが「ほんとうのこころ」ということなら、ある売人こそ、主人公のほんとうのこころに触れていた。また、水泳を教えるとき、その「肉体」にも触れていた。だから「自分の体に触れたのはおまえだけだ。他は誰も触れていない」ことを、「ほんとうのこころ」というような抽象的なところまで押し広げてはいけないのだけれど。「触れる」の意味も、「体」の意味も違うのだけれど。
 「純愛」にもどって、感想を締めくくった方がいいのだけれど。
 思わず、そういうふうに「意味」を押し広げたところに、またあの売人がふっとよみがえってくる。それも、ほんの少し、ちらりとだけよみがえってくる。この感じが、とても不思議。
 この映画は、あの売人がいなかったら成り立たない、というと間違いなるけれど。なんとなく、そういうことを言ってみたい気になる。出てきたけれど、役目がおわるとさっときえていく。「脇役」としか言いようのない人間なのだが、「脇役」というのはそういうものなのかもしれない。消えてしまったあと、忘れられて、忘れられているのだけれど、「水泳」のように「肉体」が覚えていて、思い出してしまう。その思い出したものが、「肉体」を生きる方向へ動かしてくれる。
 あんなふうにして、誰かの遠くで、ほんとうに遠い遠いところで、誰かを支えることができたら、どんなにすばらしいだろうと思う。もちろんそれは支えたくて支えているわけではないのだけれど。売人に月の光のことを話してくれたおばあちゃんのように、もうそれが誰なのかもわからない。ただ教えてくれたことを「肉体」がかってに覚えているだけなのだけれど。そういう「勝手に覚えられてしまう存在」といえばいいのかなあ。これは、美しいなあと思う。
 というようなことは、まあ、私があの売人から「勝手に覚えたこと」なんだけれどね。
                        (中洲大洋1、2017年04月02日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(2)

2017-04-02 20:57:18 | 詩集
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(2)(七月堂、2017年04月01日発行)

 藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』の「その友人」という詩の全行。

 十何年ぶりかで自宅にやって来た友人が、酒を飲みながら萩原朔太郎の「沼沢地方」
を朗読した。友人は聞いたこともないような訛りで、あるいは節でもつけているのか、
それを朗読した。するとぼくは、無性に泣けて涙が出てしまった。その抑揚は、その
友人や萩原朔太郎の出身地の言葉でもなさそうなのに。しかし、ぼくはどこの訛りか
も尋ねなかった。友人も何も言わなかった。友人はただ不思議そうに、泣いているぼ
くを見ていた。あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは
思い出した。それともあれは「ぬまざわ」という、彼が作った架空の土地の訛りだっ
たのか。それにしても、なぜぼくはあの時泣いたりしたのだ。友人は今、その「ぬま
ざわ」痴呆にいるのだろうか。そして友人がぼくを忘れてしまって悲しくなったのだ
ろうか。
 こいつとはこれで終わりだ。

 最後の一行は、「いま」の思いなのか。それとも友人が「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読んだときの思いなのか。
 私は、「いま」ではなく「あのとき」の思いと思って読んだ。
 萩原朔太郎の「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むなんて、許せない。それが悲しくて涙を流した。「こいつとはこれで終わりだ」と思った。それほど朔太郎に、あるいは詩にどっぷりとつかっている、ということだろう。「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むのは、どこかの「訛り」なのだ、と思うこともできるかもしれないが、やっぱり、そんなことはできない、と。
 で。
 「こいつとはこれで終わりだ」と思ったはずなのに、「いま」、

あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは思い出した。

 これが、なんともおもしろい。
 きのう読んだ詩のなかには、

 あなたにはもう二度と会うことはないだろう。しかし、それでいいのだ。私だって
もう二度とこの私ではないのだから。

 という行があった。もう会わない(これで終わりだ)はずが、思い出して、思い出のなかで出会ってしまう。それは、どういうことだろう。「これで終わりだ」と思った私ではなくなって、思い出してしまう私になってしまったということか。「これで終わりだ」と思った私のままではいられない。ひとは、日々、かわっていく。だから、こういうこともありうる?
 というふうに、「理屈」を重ねていくと、なんだかややこしくなるのだけれど。詩から遠ざかってしまうのだけれど。

 ここで思い出されているのは何だろう。
 友人が朔太郎の詩を「ぬまざわちほう」と読んだこと。それを聞いて私が泣いたこと。それだけではなく「こいつとはこれで終わりだ」と思ったことまで思い出してしまう。思い出すとき、その「思い出」は遠くにあるのではなく、藤井の「肉体」のなかにある。「いま」、「肉体」と切り離せないものとして、ある。
 それも含めて「私だってもう二度とこの私ではない」ということか。つまり、「あの時の私」は、こういうことを「思い出す私」ではなく、リアルタイムで「思う私」だった。微妙な「ずれ」がある。
 そうだとすると。
 何かを思うこと、そしてそれをことばにすることは、「いまの私」が「いまの私ではなくなる」ということである。「思っている」ままに書く(ことばにする)ことは、書いた瞬間(ことばにした瞬間)「思ったこと」になってしまう。「思ったこと」を「確認している私」が生まれてきてしまう。

 そういう「理屈」を藤井は書いているわけではないのだが。

 どうことばにすればいいのかわからないのだけれど、藤井の詩を読むと、「私だってもう二度とこの私ではない」という感じが、ことばといっしょに生まれている感じがする。「私ではなくなった私」がことばといっしょに生まれてきて、それが「生きている」感じがする。次々に「私だってもう二度とこの私ではない」のだから、それが「死んで行く」なら、「生まれてくる私」だけが生きていることになるが、どうもそうではなく、死なずにどんどん生きていく。「どんどん生きていく」というのは正しい日本語ではないのだが、「生まれ方」が生々しいので「どんどん」ということばで強調したくなる。
 そして、この「生々しさ」は「理屈」ではなく、「肉体」で「実感」する感じとしか言いようがない。

 詩集のなかに「生々しく死んでいった」という作品がある。「死んでいった」なら死んだ人(もの)忘れられるのだが、この世に存在しないのだから忘れられてしまっても何も問題はないのだが、「生々しく」という感覚は死なない。「生々しく」だけは、人が生きている限りいつでも「肉体」を揺さぶる。「生々しい」ものしか、人間は感じ取ることができないからだろう。その死なずに生き残る「生々しさ」、あるいは「生々しく」が強烈なのである。
 で。
 私は「生々しさ」と最初に書き、あとで藤井の「生々しく」ということばで、私の考えたことを修正しつつあるのだが。
 書いてきて気づくのだが、やはり藤井は作者だけあって、ことばを正しくつかっている。ほんとうは「生々しく」ということばで、私は感想を書き直さなければならないのだけれど、長い間パソコンに向かっていることができないので、書き直さずに「補則修正」する。
 「生々しさ」は「名詞」であるのに対し「生々しく」は「副詞」、「副詞」は「動詞」に結びつく。「動詞」のあり方を説明する。「動詞」というのは、変化をあらわす。「私だってもう二度とこの私ではない」というのは「状態」の説明、つまり「名詞」ではなく、「動詞」そのものなのだ。
 「動詞」を藤井は書いているのだ。人間は「動詞である」ということを、藤井は書いている。「生々しい」感じがするのは、人間を「名詞」ではなく「動詞」として描いている、とらえているからだ。

 きょうの感想は、走りすぎて乱暴かもしれない。
 でも、書き直すと違ったものになる。だから、書き直さない。走りながらでないと書けない感想もある。

破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂
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