詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2016-05-12 00:00:00 | 長田弘「最後の詩集」
しばらく休みます。
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ディーデリク・エビンゲ監督「孤独のススメ」(★★★)

2016-05-11 22:21:22 | 映画
監督 ディーデリク・エビンゲ 出演 トン・カス、ロネ・ファント・ホフ、ポーギー・フランセ

 情報量がとても少ない映画である。そして、その「少なさ」が効果的。全部、観客に想像させてしまう。
 主人公がひとりで料理を作り、ひとりで食べる。その直前に、壁の時計が映し出される。長針がちょうど12を指す。そうすると、男は手を組んで、祈り、「アーメン」と言ってから食べる。これだけで、男が、あらゆることを自分が決めた通りに生きているということがわかる。まあ、勝手な想像だけれど。これは、奇妙におかしい。きちょうめんさに、思わず笑ってしまう。劇場内に「くすくす」という笑いが広がる。
 一方、別の面も男はもっている。写真立てには若い女と子ども。きっと妻と息子だ。食べる前に、ちらりとその写真を見る。その「ちらり」の「間」がとても不思議。じっと思い出すというのとは、少し違う。二人がいないのは、二人とも死んだのかな? もしかすると、妻は死んだけれど、息子はどこかで生きているのかな? そういうことを感じさせる。それからテープでボーイソプラノの歌を聞く。写真を見るだけではなく、テープまで聞くのは、男が少年のことを思いつづけているということなんだろうなあ。「日課」なんだろうなあ。これも自分で決めた通りに行動しているという点では、きちょうめんなのだけれど、これはおかしくない。何か哀しいものを含んでいる。劇場内は、妙にしーんとしてしまう。何かわからないけれど、「くすくす」とは違った感情が劇場内に広がる。
 うーん、と私は、ここでうなってしまう。ひとりでDVDなんかで見ているときは気づかないかもしれないが、劇場の「他人の感覚」が動くのを感じて、ふと気がつくことがある。あ、ここで、みんな何かを感じている。
 そうか、ここから「物語」は始まるのか。「笑い」と「悲しみ」という対比を浮き彫りにしながら、「事件」が起きるのか。大暴れするアクションではなく、動きを抑えながら、その抑えた動きのなかにある感情の「対比」がこの監督のテーマなんだな、と思う。その「対比」を明確にするために、余分な情報は極力減らしているということか。

 主人公が、「きちょうめん」とはまったく逆の「少し頭が足りないホームレス」と出合うことで「物語」は動きはじめる。ここにも「対比」がある。「きちょうめん」と「だらしなさ」。
 それが「対比」されるたびに、劇場に「くすくす」が広がる。「着替えろ」と言われたホームレスが、用意された服ではなく、かってにクロゼットから妻の服を選んで着てしまう。そのとき「くすくす」。しかし、ホームレスが踊り、その踊りを見ている内にホームレスが妻にかわり、主人公がいっしょに踊り出す。そうすると「くすくす」は消え、一種の幸せが劇場に広がる。こころが温かくなる。しかし、主人公がはっと我に返り、椅子に座り込むと、とたんに「悲しみ」がやってくる。妻を忘れられない主人公の「悲しみ」が、間近に迫ってくる。
 ホームレスは主人公に「よろこび」をもってくるのか。「悲しみ」をもってくるの。よくわかないが、主人公はホームレスを突き放せなくなってしまう。どこか、こころをつかむものをもっている。
 ホームレスの「魅力」に気づくのは、子ども。スーパーでホームレスが「メエエ」と羊の真似をするのが気に入り、誕生パーティーの「余興」にやとわれる。自分を抑制して生きることを知らない子どもが、ホームレスの男に「自分に近いもの」を感じるのだろうか。「大人」にはない魅力を感じるということだろう。
 この「余興」に、主人公は例の「きまじめ」さで向き合う。ホームレスの男は、まじめなのかふまじめなのかわからないが、妙に子どもたちに受けてしまう。それで、二人の余興は「商売」にもなってしまうのだが。
 二人に対して、周囲は冷やかである。舞台はキリスト教の信仰が厚いオランダの田舎町。住民みんなが顔見知り。日曜日には、みんなが教会へゆく。サッカーをする少年たちも、チームをつくるほど人数はいなくて、ゴールポストの前でボールを蹴って遊ぶ程度。そういう町で、突然、男二人が一軒の家で暮らしはじめたので、関係をあやしむ。子どもたちがサッカーをしながら、女装したホームレスをからかう。ホームレスを家に連れて帰ろうとする主人公に「ホモ」と罵声が飛ぶ。罵声を飛ばした少年に主人公が殴り掛かるところが過激で(きちょうめんに自分を抑制している主人公に似つかわしくないので)、ちょっと驚くが、これはその後の伏線になっている。
 で、途中を省いて、その「伏線」を受けたラストシーン。
 主人公には歌がうまい自慢の息子がいた。その息子はゲイだった。主人公は息子がゲイであることが許せずに、家を追い出す。そのため妻とも対立する。息子は酒場で歌い手をやって生きている。その息子に主人公は会いにゆく。(何度か様子を見に行ったこと、常に息子がどこにいるかを気にかけていたことは、途中で描かれる。)ホームレスの妻がいっしょについていく。主人公ひとりでは、途中でぬけ出してしまう。だから、いっしょに来てほしいと頼んだようだ。ステージで歌を歌いながら、息子は父親を発見する。このときの歌の内容(歌詞)が、息子が父親に語りたかったことに重なる。歌で、息子は父親に自分のこころを語りかけている。父親は、その主張を最後まで聞いてくれた。自分を受け入れてくれた、とわかる。ここがクライマックス。
 人はひとりひとり違う。その違った人間がいっしょに「幸福」になるには、他者を受け入れることからはじめなければならない。ことばにしてしまうと、説教臭くなるが、こういうことをこの映画はとても自然な形で描いている。
 「頭の足りないホームレス」を主人公は受け入れた。帰る家がわからない。金を持っていない。そういうことに同情したのかもしれないが、ともかく家に受け入れ、いっしょに食べ、眠る場所も与えた。そこから、「笑い」といっしょに「幸せ」がじわじわと広がって、主人公を変えてしまう。
 描きようによっては、とてもドラマチックになる「物語」なのだけれど、これを「ドラマチック」にならないように、ならないように抑えた脚本と出演者の演技がとてもいい。オランダの田舎町の、特に、田舎を走るバスと風景がいいなあ。客はいつも主人公だけ。それでもバスは走っている。その社会の「底力」のようなものが感じられる。車をもたないひとのために、その人がひとりであってもバスを走らせる、そういう人を受け入れるという「底力」がある社会、と感じた。
                      (KBCシネマ2、2016年05月11日)





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マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」、水沢なお「モーニング」

2016-05-10 09:01:26 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」、水沢なお「モーニング」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」は「現代詩手帖賞」受賞。

面白いのは
遺伝子の「ち」の繋がり

 と書き出されている。ねぶたを見る。赤い色。「赤い張り子人形の行列」を見る。そのあと帰宅して、いま見てきたねぶたを思い出す。いや、夢のなかで思い出すのだが、「赤い張り子人形」は「座敷童子」になって出てくる。その子を、

私の腹の中にいる子どもが、母親である私と遊んでいる!

 と解説され、さらにその子を包んでいた「膜」が割れて、空高くへ飛んでいく。

彼自身も、彼を包んでいた丸形も透明だったから、顔貌は見えなかったが、
男の子だったのかということだけ気がついて、
手術の麻酔から目をさましてからは涙が止まらなかった。

夜眠るときに、私に話しかける声がある。
私の中の、「母親」の感情である。

 うーん、堕胎した女の思いが書いてあるのか。よくわからないが、「手術」「涙」といことばから、そう感じてしまう。「「母親の」感情」ということばが最後に出てくるが、そこに「意味」がありすぎて、ストーリーが逸脱していかない。ことばがストーリーを裏切らない。ひたすら忠実にストーリーを「意味」にまで高めようとして動いている。
 「論文」ではないのだから、これではつまらないと思う。
 でも、おもしろい部分もあった。
 「私の腹の中にいる子どもが、母親である私と遊んでいる!」という行の後の、一連。

悲鳴をあげて飛び起きた。
再び眠りについて、次に見たのは、
庭に生える松の木が私を見るなり我慢ならないというように立ち上がって、私の腹に宿る命の罪を責め立てる夢だった。

 「動詞」が変である。「松の木」が私を「見る」、ということは「学校文法」の日本語ではありえない。松に目はない。「松の木」が「立ち上がる」というのも、「学校文法」ではありえない。松は最初から立っている。だから、これは「動詞」を中心に見ていくと、「間違った日本語」である。でも、その「間違っている」ところが、あ、ここだけ、ほんとうの夢なんだと「わかる」。夢というのは、そういう具合に、ことばにすると「間違ってしまう」ものを含んでいる。夢を正確に言おうとすると夢が消えてしまうことを、私たちは体験的に知っている。「正しくない」ことばをつかわないと、夢は語れない。その体験と重なるから、あ、ここはほんとうの夢だと納得できる。
 さらにおもしろいのは、直接動詞の形では書かれていない

我慢ならないというように

 この「我慢ならない」ということば。「我慢できない」「我慢することができない」と書き直すと「我慢する/我慢できない」という「動詞」が見えてくるが、「我慢ならない」だけだと「動詞」というよりも「感情」といえばいいのだろうか、「肉体」のなかにある生(なま)の衝動のようなものが感じられる。「動詞」になる前の、抑制のきかない「エネルギー」そのものに触れる感じがする。
 うまく言えないが、「我慢する」という「動詞」は「我慢ならない」ものを「抑える」ということ。「我慢」をある形にととのえること。「我慢する」ことにによって「我慢」という名詞(状態)が生まれる。「我慢ならない」は「我慢」に「分節」されるまえの「未生の感情」といえばいいのかな? 
 「我慢ならない」は、「我慢」に「ならない」なのだ。「我慢」という客観的な「名詞」にはならない、「名づけることができない衝動」が「我慢ならない」ということばのなかで動いていると思う。「我慢ならない」は「我慢にならない」と読み替えてみる必要があると思う。
 そして、矛盾した言い方になるが、その「我慢にならない」の方が「我慢する」という「動詞」よりも強い「何か」であると感じる。「動詞」という「区分け」さえも揺さぶり、壊してしまうような「強さ」がそこにあると思う。この「強さ/強い」は「肉体の奥底に近い/本能に近い」と感じさせる「強い」である。
 「我慢する」(=我慢にする/我慢してしまう/我慢にしてしまう)と、強さが消える。「我慢することができない」でも、なんとなく「弱く」なる。「我慢する」という「径路」が強さを弱くする。
 「我慢ならない」ということばのなかには、「なる」が隠れている。この「なる」は「生まれる」ということだろう。「生まれてくる」ものには、それを制御する(理性で抑制する)ものとは断絶した力があり、それが動いている感じを引き起こすのだと思う。
 この「我慢ならない/我慢にならない」と、読点「、」でいったん区切られた後に動く「責め立てる」が強く結びついている。「責め立てる」のは「論理」にしたがって「責める」というのとは違うなあ。「我慢ならない」何か、ほんとうはそんなことはしなくてもいいのにしてしまうという暴走が「責め立てる」の「立てる」ということばのなかに動いている。
 こういうことばというのは、客観的に説明できることではなく(説明するものではなく)、たぶん、自分の「肉体」で反芻して「肉体」のなかに取り込んでつかみ取るしかないものだと思う。そういう感じを引き起こすというのか、そういう感じで「理性」を突き破って迫ってくることばが、マーサ・ナカムラの詩のなかに、ごく短い形で一瞬あらわれる。ここに、マーサ・ナカムラの「天才」があると思う。
 こういうことばは「ストーリー」にはなりにくい。「ストーリー」になる前に、ただ「肉体」を刺戟する。
 そして、何と言えばいいのだろう。こういうことばを読むと、私は、「松の木」になってしまう。「松の木」になって、「私」を責め立て、同時に「私」にもなって、「責め立てる松の木」をみつめる。「松の木」と「私」を区別しないまま、その二つの存在のなかで動いているものを感じる。あるものは「松の木」になり、他のものは「私」になるという「融合」しか「エネルギーの場」そのものを感じ、それに引き込まれる。まるでブラックホールだ。「学校文法」をのみ込んで、別な黒い光(見えない光を)出している力に、のみ込まれてしまう。

 で、こういうことばは「ストーリー」には、私はあわないと思う。今回の詩のように「堕胎手術/涙/母親の感情」という「意味」へ動いていく「ストーリー」がくっきり動くと、「不透明な/未分節なままのエネルギー」が、「意味」封じこめられてしまう感じがする。それはことばを冷たくさせてしまうように感じられる。
 今回の選評(文月悠光)を読むと、

薄暗い民家のなかを歩き回って、
襖を一枚一枚開けて、人を探している。
物音や食べ物のにおいはないものの、
濃密な人の気配を感じている。
堪えきれず、私はまた家中を回って、
白い襖を開いていく。
ふと、私が襖を開くたび、
遠い部屋の欄間が動くことに気がつく。
襖を閉じると、闇のなかで、欄間も後を追うように閉まった。

 という部分から、

家全体を母親の胎内にたとえると、襖はたぶん母親で、欄間はお腹にいる子どもでしょうか。

 という読解につながっていくのだが、この文月の読解では「整理」されすぎていて、私は「当事者(私/松の木)」になれない。
 ことばのなかで、「私/松の木」になって、そこに書かれていることを「肉体」で「体験」できない。「意味」は文月の書いているとおりなのだろうけれど、それは「頭」で「母/子ども」の関係を図式化/再整理してしまったものに感じられ、引き込まれない。「頭」は引き込まれるが、「肉体」は離れたところにいて、いわば「客観的」にそのことばの動きを見てしまう。
 男の私が、「母親」の感情、いや「母親」の「肉体」を追体験できるはずがないから、私の感じることはどっちにしろ「頭」で感じ取ったことにすぎないと言われてしまいそうだが……。
 うーん。
 「松の木」の部分、特に「我慢ならない」には「母親」に限定されないものがあって、そこを通って私は「母親」の「肉体」と重なるのだけれど。「松の木/私」が区別できないものとして動き、その区別のなさ(未分節)が、私を「男」という「分節」から解放してくれる。
 いま、ここにある私という「分節」を否定し、「未分節」へ引き込むのが詩であると私は思っている。



 水沢なお「モーニング」も「現代詩手帖賞」受賞。
 見知らぬ男から「ダイヤ」をもらう。その「ダイヤ」と対話する詩。「ダイヤ」と対話できるのは、「ダイヤ」が本物であると同時に「比喩」だからかもしれない。このとき「同時に」が重要なのだと思うけれど、マーサ・ナカムラの書いている「松の木」に対するように、私は「ダイヤ」に対して「親密」になれない。ダイヤを見たり触ったりしたことがないからかもしれない。

「ダイヤになって」
と御願いされたから、頷きました。

 「お願いされる/頷く」という「動詞」は「肉体」で納得できるが、「ダイヤになる」の「なる」は、どうも、納得できない。ダイヤに触れたことがないというのが、いちばんの原因かどうか、わからない。
 ダイヤを知らない私が書くと、ちょっと矛盾してしまうかもしれないが、ダイヤとの対話のなかに、ダイヤしか知らないことが書かれていないという印象も持った。水沢は「意味/ストーリー」を書こうとしている、文月は「ストーリー/意味」を読み取ろうとしているということは「理解」できるが、私は引き込まれなかった。

現代詩手帖 2016年 05 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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ジャ・ジャンクー監督「山河ノスタルジア」(★)

2016-05-09 07:51:21 | 映画
監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、チャン・イー、リャン・ジンドン

 人はときに自分自身の「感情」さえも裏切る。自分の「感情」を間違える。けれど、変わらないものがある。母が子を思う愛、子が母を思う愛。それは、故郷への愛と同じもの。
 ということが、テーマ。ちょっとめんどうくさいのは、母子の愛と、故郷への愛の描き方というか、それがテーマになる「根拠」に「資本主義」がからんでくるところ。でも、めんどうくさいとはいうものの、その関係がわかりやすすぎて全然おもしろくない。心の問題なのに、簡単に「図式」にできてしまう。

 先走りすぎたので、少しずつ、映画に沿って書いてみる。
 タイトルまでの三角関係が長い。それだけで一篇の映画にしてしまえばいいのにと私は思うが、ジャ・ジャンクーは「山河」にならない、と思うらしい。
 たしかに、最初に描かれる三角関係だけを描いていては、愛しい山河ではなく、山河を荒らしてしまう「資本主義」というか、資本主義によって荒らされる中国の自然になってしまう。しかし、それはそれでいいじゃないか。資本主義によって踏みにじられる山河、資本主義によって奪いさられる純粋な愛、その苦痛を描けば、その向こう側にかけがえのない山河、かけがえのない愛が見えてくるだろう。
 そこで完結させずに、それを母と子どもの、互いを求める愛というところまで描くのはなぜか。基本的なストーリーテーマは「母と子の愛」なのだが、ここに「裕福な中国人の亡命(中国からの脱出)」を重ね合わせると、違ったものが見えてくる。故郷、変わらぬ山河への愛を捨てられない中国人の悲しみが浮かび上がる。
 資本主義によって女を略奪し(?)、その後、その女と離婚し、子どもは自分のものにするという形でさらに女を傷つけた男。(捨てられた男は炭鉱で肺をやられ、死んでしまう。そういうところへ追いやるという形で、男は親友をも傷つけている。)その男はさらに資本主義の権化となって稼ぐだけ稼いで、オーストラリアに亡命(?)し、息子と二人で暮らしている。金にはまったく困らない。ありあまっている。「自由」のように見えるが、まったく自由はない。同じように金をかかえて中国を脱出してきた中国人(老人たち)と「コミュニティー」をつくり、そこで暮らしている。リトルチャイナの老人ホームのような雰囲気。
 中国人ばかりがあつまるのは、彼らが中国語しか話せないからという理由もあるが、それ以上に中国が恋しいからである。ふるさとの山河が忘れられないのである。彼らが荒らした山河であるにもかかわらず、それが恋しい。母に甘えるように、その自然に甘えたい。その気持ちが捨てられない。外国では、甘えられる自然がないのだ。
 ジャ・ジャンクー自身はどういう立場にあるのか私にはわからないが、ここには中国を脱出した(資本主義にのって成功した)中国人の、不思議な悲しみが描かれていると感じた。「清潔な未来都市」(2025年のオーストラリア)で、男が思い出すのはダイナマイトを爆発させた山河なのだ。氷が流れてくる河なのだ。ダイナマイトくらいではびくともしない山河なのだ。
 そういう「山河讃歌」と関係があるかもしれないが、この映画の風景は美しい。夕焼けや草原なども美しいが、炭鉱の荒れた山さえも、そこに「つかいこんだ」何かがある。人間が破壊し、荒らしているにもかかわらず、何か「人間」を誘い込むものが感じられる。
 だからこそ、思うのである。最初の三角関係だけを描けば、それで映画になるのに、と。でも、そうすると「罪の手触り」とかわりなくなる? だから、あえて違う展開をしてみた、ということなのかなあ。
                     (KBCシネマ1、2016年05月09日)



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長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]
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颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」、森本孝徳「盗汗をかかぬために」

2016-05-08 09:25:25 | 詩(雑誌・同人誌)
颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」、森本孝徳「盗汗をかかぬために」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」は日本詩人クラブ新人賞受賞第一作。

乳房とペニスのある
David
灯台から
花粉を撒いて

すべての春 唱和

錆びた観覧車は
さいごの回転を終える

おもいおもいの表情(かお)で
降りてくる人たち

観覧車が 雪のように溶けてゆく

私の内は がらんどう
底には
透けた花が 群生して

 これは前半。「動詞」の動きが不規則(?)である。
 「撒いて」「群生して」という中途半端な「動詞」の動きがある。「撒いて」、それからどうするのか。「群生して」、それからどうするのか。ことばのつながりがよくわからない。
 一方、「終える」「溶けてゆく」という完結した「動詞」がある。これは「主語」が「観覧車」。
 もうひとつ、「唱和(する)」、「降りてくる(人たち)」という「体言(名詞化した動詞)/連体形」の形もある。
 さて、どう読むべきなのか。
 私は「撒いて」と「群生して」が、ここに書かれている「主語/主役」と密接な関係にあると感じた。「花粉」「透けた花」と、その動詞には「花」ということばがついてまわっている。「花」が「主語(主役)」かもしれない。
 「観覧車」は「風景」かなあ。「唱和する/人たち」「降りてくる/人たち」も「背景」のように感じられる。完結している。閉じている。
 完結していない(?)「撒いて」「群生して」が、たぶん、この詩のことばを動かしている「主語/主役」と密接な関係があるのだと思う。

乳房とペニスのある
David

 乳房は女性の象徴/比喩。ペニスは男性の象徴/比喩。その両方がある、言い換えると両方をもつ「David」。Davidは男の名前に見えるが、名前とは関係なく男性/女性の両方の象徴をもっている。両性具有、と言っていいのかどうか、わからない。どちらにもなりうる存在だろうか。しかし、そのことばに「灯台」がつづくと、ちょっと様子が違ってくる。「灯台」は「ペニス」を言い換えたもののように感じられる。そう読むと、「花粉を撒く」は「精液を撒く」にかわる。「撒く」という「動詞」が精液を呼び出す。「蒔く」ということばにも変化する。「乳房」は男性をあらわすとはいいにくいが、ほかのことばは男性と強く結びついている。
 一方、「私」はどうか。「内は がらんどう」。これは妊娠していない状態の「子宮」かもしれない。そこには結実してない「花」(未受粉)の花が咲いている。「群生している」。そう読むと、後半に登場する「私」は女性に見えてくる。
 ここには「David」という男性と、「私」という女性がいる。その二人が出合っている、ということなのだろう。
 では、なぜ「David」に乳房があるのか。
 書き出しの、この「乳房」こそが、この詩のテーマかもしれない。
 「David」は男。けれど、「私」は「David」に男だけではなく、女も見ている。Davidのなかに「女」がいるからこそ、「私」は一種の「安心」を感じているということだろうか。「私=女」であることをDavidのなかの「女」が理解している。その「理解」の前で、私は女であることを、女に語るように気楽に語る。「がらんどう」と「透けた花」を語る。
 あるいは、女である私はDavidに出合った瞬間、Davidとして自分自身を見つめたということか。乳房(女)である私は、Davidのペニスによって、さらに女であることを自覚した。男になって、私の「女」を見つめた、ということか。
 Davidは「彼」であると同時に「私」でもある。出合うことで、どこかで「融合している」。
 「花粉を撒く」ことと「花が群生する(花が開いてる)」ことは、別々のあり方ではなく、「花粉を撒くから、花は開いている」であり、「花が開いているから、花粉を撒く」ということなのだろう。二つは、切り離せない。「動詞」は個別に完結しえない。関係を固定するのではなく、時系列(?)を入れ替えながら、そこにある「時間」そのものを読む必要があるのかもしれない。二つの「動詞」は、連続し、循環することで、「ひとつの動詞」になる。その「接続」と「循環」をあらわすために、「撒いて/群生して」という中途半端な形で、開かれて、そこに動いている。動いている途中の動詞なのだ。
 (この動いている途中、入れ替わり循環する動詞のあり方が「観覧車」という「比喩」になっているのかもしれないが、よくわからない。)
 で、この「接続/循環する動詞」のあり方というのが、最後の

春のつぎに また 冬がくる
そんな年に
私は信じた
ふたりを 同時に

 という形で象徴的に語られるだと思う。「ふたり」は「乳房をもったDavid」と「ペニスをもった私」。「同時に」存在するしかない「恋人」ということになるのかもしれない。
 途中に出てくる「少年」ということば、「Davidと彼とのあいだ」という表現を中心に考えれば「David」は「少年/青年」という「ふたり」なのかもしれないが、私は「恋」そのものが「ふたり」に「分節」されて動いていると思いながら読んだ。



 森本孝徳「盗汗をかかぬために」はH氏賞受賞第一作。
 私には読めない漢字がある。私のワープロでは表記できない漢字がある。アルファベットのルビがあり、ひらがなのルビもある。
 私はどんなことばでも「動詞」を基本にして、その「動詞」に自分の「肉体」を重ねれば、そこに書かれていることに近づいてけると考えている。きちんと近づけたかどうかはわからないが、「近づいた」と錯覚できると考えているのだが……。
 うーん。
 「動詞」と「動詞」をつなぐ「肉体」というものをまったく感じることができない。
 颯木の詩の場合、私の読み方は「誤読」なのだろうけれど、少なくとも「恋人」がいる、「セックス」によって、男と女が、瞬間的に入れ替わる形で互いを刺戟しているというように、勝手に思うことができた。
 しかし、森本の詩では、そういう勝手な思い込み、「誤読」ができない。
 「文学の肉体」というものを活用して「言語」に分け入っているのだろうけれど、私は「文学」というものが苦手。森本がなじんでいる「文学の肉体」に私は疎遠である。「ことば」だけが動く世界というのは、何のことかわからない。私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」が重なり、入れ替わる感じを味わいたい。そういうものを読むのが好きだ。
 眼で読まずに、耳で聞けば、また違った印象なのかもしれないが、眼で読むかぎり、音楽が聞こえてこない。特別な楽譜で書かれた、特別な音楽があるのかもしれないが、沈黙も、ノイズも私には聞こえない。
 お手上げ。

七番目の鉱石―seventh ore
颯木 あやこ
思潮社
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カニエ・ナハ「馬、山、沼」

2016-05-07 09:27:57 | 長田弘「最後の詩集」
カニエ・ナハ「馬、山、沼」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 カニエ・ナハ「馬、山、沼」は、中原中也賞、エルスール財団新人賞受賞第一作。「馬」を読む。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。
不安は少し残っていたが、
すでに忘却に取り組んで
何が代わりに、
空隙を
私たちは苦い経験をしたいと
志願して
一族のような悩みをかかえている
それを語り合い
信仰を固める
日について
漠然とした、
一人が話し始めると、
次第にうつろっていく
現実

 一読して、何が書いてあるのか、不安になる。ことばは何となく「わかる」。「知っている」とは断言できないが、どれも聞いたことのあることばである。けれど、私がふつうに話すときのようにはつかわれていない。
 学び始めたばかりの外国語のテキストを読んでいる感じ。ことばの、ひとつひとつは「知っている」(聞いたことがある、読んだことがある)。けれど、それが、どうつながっているのか「わからない」。知っているはずなのに、知らない世界にいるという不安に襲われる。
 こういう不安に引き込むのが、確かに詩ではあるのだろうけれど。

 「ことば」が「わからない」というのは、「主語/述語」の関係が「わからない」ということでもある。
 この作品には句点「。」がひとつ。ということは、これは「ひとつ」の文なのかもしれない。
 で、その最初の(最後の?)句点「。」があらわれるまでの部分。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。

 「主語」は何か。わからない。「述語」もわからない。「述語」は一般的に「動詞/用言」がになっている。そこで「動詞」を見ていく。「(夢を)見る」「表白する」「失われる/失う」。「夢を見て、それを表白して(語って)、何かが失われた/失った」と「述語」は語っている。「夢」と「失われた」何かが重複するかもしれない。いまは「失われた」ものが「夢」に見られたのである。その「夢」は「祖先」が見つづけた「夢」であり、それは「祖先」にとっては「現実」だったかもしれない。祖先は「現実」が「夢」にあらわれてきた。言い換えると「現実」に体験してきたことを「夢」で反復することができた。しかし、いま「書かれていない主語」は、それを「失われた夢」として見ている、「失われた夢」として語る。「書かれていない主語」にとっては、それは「現実から乖離して/現実を失った夢」なのだろう。
 そういうことが「動詞(述語)」と、そのまわりで動いていることばから推測できる。
 「失われた」と直接結びついているのは「人」である。「人は/失われた」。これは「人は/失った」ではなく、そこに書かれている「人」以外の「人」が、「話者(主役/主語)」から「失われた」。「主語」は「ひとを失った」ということになるかもしれない。
 このとき、「人」は別のことばで言い換えられていないか。
 「椅子の/痕跡としての/人は」とことばはつづいている。「人」は「椅子」を思い出させる。そこに「椅子の痕跡」がある。「椅子」は座るもの。「座る/腰を下ろす」という「動詞」が「椅子」のなかに隠れているかもしれない。
 「馬」というタイトルを考えると、「椅子」と呼ばれているのは「鞍」かもしれない。「椅子」は「鞍」の「比喩」。昔は、馬は「人」を「鞍」にのせて(椅子に座らせて)、走った。その「思い出」のようなものを、「偶然」夢に見た。「夢」のなかで「祖先」になっていた。しかし、そういう「夢/思い出」を表白してみると(語ってみると)、いまは、そうしたことがすべて「失われている」ということがわかる。
 これは「馬」が語っていることばなのだろう。「主語(主役)」は「馬」なのだろう。あるいは「馬」のことをよく知っている人が、「馬」と一体になって、「馬」のかわりに語っていることばなのだろう。
 で、後半というのか、倒置法で書かれた、ほんとうならば「前半」というのか……。あるいは倒置法の形で書かれた追加、言い直しなのだろう。最初の六行が、句点「。」以降で言い直されているのだろう。
 その後半で最初に目につくのが「語り合う」「話し始める」という「動詞」。これは最初に見た「表白する」と同じ「動き」だろう。何かを「ことばにして」語り合う、話し始める。
 何をことばにしたのか。
 「失われた」は「少しは残っていた」と言い直される。さらに「忘却に取り組む」と言い直される。「忘却に取り組む」とは「忘れようとする」ということだろう。「忘れようとする」のだが、そういう意識の動きとは逆に何かが「思い出されてしまう/忘れられない」。ただし、それは強い印象があるから忘れられないのではなく、一種の「習慣」のようなものだから消そうとしても消せないのかもしれない。
 そのいつまでも残る記憶、「夢」のような「不安」とは「椅子の/その痕跡」を言い直したものだろう。
 「人」を「座らせて」(人の椅子になって)、なおかつ走る、歩く。それは「苦役」(苦い経験)かもしれない。ただ歩き、走るのとは違うので、それなりの「苦しみ」があるかもしれない。しかし、それはまた「充実」した時間かもしれない。生きている感じが、そのときにあふれるかもしれない。「人」を乗せて歩く、走るという「仕事」を「志願する」。そういうことをもう一度してみたい。矛盾しているが、そういう感情はあるかもしれない。
 矛盾しているから「悩み」と、それは言い直されている。「一族」というのは「馬」という存在であるだろう。「カニエ」一族というような、人間の「親類関係」ではなく、「馬」を指しているように思える。
 「人を乗せる」というのは、一種の「苦役」かもしれないが、「苦役」をとおして何かが見える。「信仰」ということばが、「苦い経験」とかたく結びついている。人を乗せて生きていた時代の、人と馬の「信頼関係」のようなものか。
 そういうことを「話し始める」と、「うつろっていく/現実」がある。これを倒置法と理解した上で「現実が/うつろっていく」と読み直すことができるだろう。「一人」は「馬」を擬人化した表現だろう。
 先祖の経験した「苦い経験」(人を乗せて、歩く、走る、人のために働く)ということを語るなかで思い出す、人との信頼関係が、「夢」として見えてくる。かなえられない夢かもしれない。いまは、「人」を乗せていない。背中に「鞍」(椅子)もない。その「ない」は「空隙」である。「空隙」に「夢」は侵入してくる。

 そういう「馬」の「語り」として、私はこの作品を読んだが、まったく違ったことをカニエは書いているのかもしれない。
 私は馬は見たことがあるが、乗ったことはない。馬と一体になって何かをしたという経験がない。馬との一体感を、私の「肉体」はまったく知らない。だから、ここに書かれている「動詞」を「馬」の感覚(馬に乗ったときに感じる馬の肉体感じ)ではとらえきれない。
 だから、きっととんでもない勘違いをしているかもしれないのだが、そういうふうにしか読めない。

 いま、「現代詩」では、このカニエの作品のように「主語/述語」の関係が「学校文法」とは違った形で動く作品が多くなっているように私には感じられる。「主語/述語」の遠さ(それこそ「空隙」?)に、他の存在や運動が「比喩」のようにしてまぎれこんできて、世界を攪拌する。「主語」/述語」の「分節」を解体し、ずらしながら、見落としてきたもの「未分節」に分け入っていく、そこから新しい「動き/動詞」を生み出すということなのだが……。
 私がとても気になるのが。
 そのときの「題材」の「古さ」である。
 このカニエの作品で言えば、なぜ、馬? (他の作品も、「山」「沼」と、都会の日常にはない存在が「タイトル/テーマ?」に選ばれている。)
 「いま/ここ」に生きている「肉体」が感じられない。「過去」の「肉体」しか、感じられない。「肉体」の「未分節」に分け入っていくと、そこはどうしても「過去」ということなのかなあ。
 なんだか「頭っぽい」という感じが、ひっかかる。こんなふうに「分節」しなおせば「現代詩」になると「知って」書いている感じがしてしまう。

用意された食卓
カニエ・ナハ
青土社
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白井明大「後先をたたえつつ」

2016-05-06 10:39:55 | 詩(雑誌・同人誌)
白井明大「後先をたたえつつ」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 白井明大「後先をたたえつつ」は丸山豊賞受賞第一作。「二〇一六・二 いわきにて」という後注がついている。

砥石のそばに
寝かされた刃は
柄を持ったばかりの生まれる姿で
これから誰かの どこかの家へ 台所へ
受け渡されるのだろう菜切りの役目を負って

いまは
じっと窓辺の光を浴びている
白い梅の花が咲く庭には
渋柿の布が干され
染め色を深めていく
空から降る日を

磨かれた刃先にはね受けては
ここにいると
知らせることも 知られることも
まだもう少し後先をたたえつつ

 菜切り包丁が砥石でとがれている。その刃を、春の光、光景といっしょに書いてあるのか。そう思って読むのだが……。
 この詩の「動詞」のあり方が、奇妙である。

柄を持ったばかりの生まれる姿で

 の「生まれる」が奇妙である。刃にはまだ「柄」はついていないのか。これから柄をつけられて菜切り包丁になるのか。柄がつけられても「生まれる姿」だろうか。柄がつけられたら「生まれたばかりの姿」ということにならないか。
 私の最初の「つまずき」は、そこにあるのだが。
 そのあとも奇妙な印象はつづく。
 「菜切り包丁」になって(菜切り包丁として生まれて)、どこかの「台所」に収まる。そのことを「受け渡されるだろう」と書いている。まだ「事実」ではない。これから先のことなので「だろう」と推測しているのだが。
 「生まれる」には「推測」をしめすことばがない。「役目を負って」にも推測をしめすことばはない。なくても推測だとわかるからか。もちろんそうだが、ではなぜ、「受け渡されるだろう」にだけ、推測のことばをつけたのか。
 このちぐはぐな感じが、ここには何か「基本的な動詞」が欠如している。あるいは回避されているという印象をつくり出す。
 一連目の「学校文法」上の「主語」は「刃」になる。しかし、「だろう」という推測のことばは、「刃」以外に「主語」があることを想像させる。誰かが(白井が)、ここに書かれていることを「想像している」という「主語/述語」の関係が隠れている。
 「寝かされた刃」という表現に目を止めるならば、刃をとぐ人(といだ人)が「話者」かもしれない。刃をといだ人が隠れているとも読むことができる。
 でも、回避されている、と感じさせるのは、その「白井(話者)/想像する」という形の「動詞」でもない、「刃をといだ人/想像する」という形の「動詞」でもない、と、なんとなく感じる。
 私の直観の意見は、「動詞が隠されている」とだけ、異議を唱えている。

 二連目。

じっと窓辺の光を浴びている

 「浴びている」の「主語」は何か。「刃」である。「もの」が「主語」になって、擬人化されている。
 「渋柿の布が干され」の「主語」は「布」だが、「干され」という受け身の形は、そこにも「人」が隠れていることを示している。ただ、「人」は「主語」にはならず、「布が/染め色を深めていく」という具合に「主語/述語」という関係を取る。
 「もの」が「主語」であることは、一連目、二連目に共通している。
 「人/話者」ではなく「もの」を「主語」にしながら、何らかの「動詞」が隠されていると読む必要があるのだろう。
 そうして、そういうことと関係があるのだと思うが、

渋柿の布が干され
染め色を深めていく
空から降る日を

 この三行の展開が、とても不思議。
 「布が/色を深めていく」。そういう「事実」が書かれた後、「空から降る日を」とつづくと、一瞬、

渋柿の布が/空から降る日(の色)を/深めていく

 と感じてしまう。布の色の変化(深まる)が、空から降る日の変化と一体になって輝く。布の色が変化すれば、その背景の空の色も変化して見える。布のまわりの光そのものが変化して見える。空間、場その存在全体の状態が一気に変化する。
 「空から降る日」は「空から降る太陽(日)の色」を超えて、「きょうという一日」そのものかもしれない。
 「もの」が中心になって「もの」が変化している。
 そういうことが、ここに「ある動詞」を隠したまま書かれている、という印象を強める。

磨かれた刃先にはね受けては
ここにいると

 は、

磨かれた刃先に「空から降る日の光を」はね受けては
ここにいると

 ということだろう。「空から降る光」はただの光ではなく「渋柿の布の色の深まり」を受けて、新しく「生まれた」光を受けて、さらに跳ね返す、ということ。
 ここで、二連目に「浴びている」という形で出てきた「いる」という動詞が、ふたたび、登場している。ここでも「白井(話者)が/いる」のではなく「刃が/いる」と擬人化された形で動詞がつかわれているのだと思う。
 でも、そのあとは、どうか。

知らせることも 知られることも
まだもう少し後先をたたえつつ

 ここには、どんな動詞が?
 私は、

知らせることも 知られることも「なく」

 と思わず「ない」という「動詞」を補って読み、その瞬間に、はっとする。
 「ない」の反対の「ある」が思い浮かぶからである。
 「いる」という「動詞」がつかわれているために、そこに「擬人化」という感じが紛れ込む。「いる」は「ひとが/いる」という形でつかわれる。「ひとが/ある」とは普通は言わない。けれど、「擬人化」されていることば(動詞)を、もう一度詩を貫いている「もの」を主語にして言い直すと、どうなるか。

ある

 なのではないか。
 一連目には「いる」はないが、探すと「寝かされた」という「擬人化」は「寝かされている」という形で隠れている。「寝かされている」は「寝かされた/状態に/ある」ということ。
 二連目「光を浴びている」は「光を浴びた/状態に/ある」ということ。
 三連目「ここにいる」は「ここに/ある」であり、その「ある」は刃は「磨かれた/状態に/あり」、同時に「光を受けとめ/跳ね返す状態に/ある」ということ。
 「はね受け」を私は勝手に「受けとめ/跳ね返す」と勝手に書き直してしまったが、私の書いているような順序ではないのは、「受けとめ/跳ね返す」という「運動」が「同時」に起きているからである。そこでは「後先」区別がない。だから、その「後先」の区別がないことを強調するために、白井は「はね受け」と書いている。
 そういう「後先の区別のない/状態に/ある」。
 端折って書いてしまったが、三連目の「はね受け」は最終行の「後先」ということばで言い直されている。「ある」という状態が、言い直されている。
 「ある」は「後先」を超越した、つまり「時間」を超越した「状態」のことであり、白井が書いているのは、その「ある」としか言いようのない「永遠」の形なのである。「永遠」だからこそ、「たたえる」のだろう。
 白井は「状態」を「ある」という動詞をつかわずに描いている。
 「ある」ということばをつかってしまえば、私が書いた感想のように「散文」になってしまう。「散文」を拒否して、「詩」でありつづけるために、「ある」という動詞を回避したまま、ことばが動いている。

生きようと生きるほうへ
白井明大
思潮社
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川口晴美「閃輝暗点」

2016-05-05 14:25:51 | 長田弘「最後の詩集」
川口晴美「閃輝暗点」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 「現代詩手帖」2016年05月号に、いろいろな賞の「受賞第一作」が発表されている。川口晴美「閃輝暗点」もその一篇。高見順受賞。

いちにちのことを終えて
それはもちろんいちにちでは終わらないから日付は変わっていて
それでも終わらなかったことはため息といっしょに部屋の隅に押しやって
テレビをつける
深夜アニメを見るために
じぶんを少しだけ許すみたいに
フラットでにぎやかな人工の色を浴びて光に包まれると
それはあたたかくもなく冷たくもなく
ようやくわたしはここにいなくなることができる

 「わたしはいなくなる」。たぶん、そういう感覚を書きたいのだろう。「いなくなる」といっても「現実」に「いなくなる」わけではない。むしろ、意識としてに「わたしをいなくなさせる(わたしを消す)」ということがしたいのだろう。
 「わたしを消す」という欲望。それは「他者に共有されたわたし」を消したいという欲望であり、「他者に共有されないわたし」として生まれ変わりたいという欲望かもしれない。「欲望」ということばは「できる」という形であらわされている。「できる」は「したい」の先にある。
 「いなくなる」に関心がいってしまうのは、たぶん、

いちにちのことを終えて

 その書き出しに「終えて」ということばがあるからである。「終える/終わる」は「切断」である。他者との関係(共有された何か)を「終える/終わらせる」。
 しかし、その「終える/終わる」は、簡単にはできない。
 「終わらない」。
 「終わらない」はさらに「終わらなかったこと」と言い直されている。「いちにちのこと」の「こと」が「おわらなかったこと」の「こと」のなかに繰り返されていて、それが「終わらない」をひきずる。
 「他者に共有されたわたし」は「消えない」。「他者との関係」は「切断されない」。「切断できないまま」それを、意識のうえで「部屋の隅に押しやる」。
 そのうえで、

テレビをつける
深夜アニメを見るために

 ここが川口の特徴なのだろう。「テレビ/深夜アニメ」は「他者に共有されたわたし」から「他者」を切り離すための「方法」なのである。「テレビ/深夜アニメ」は私にとっては「他者」である。「他人」がつくり出したものである。私はテレビもアニメも見ないから、こういう言い方は正確ではないのだが、ところが川口は「他者」とは感じていない。むしろ、「わたし自身」と感じているようでもある。
 「人工の色」の「人工」ということばにこだわれば、そこに「他者(人)」の存在があるのだけれど、その「他者」は「人間の自然な肉体」を持っていない。「自然」ではなく「人工」であることで、「人間」を超越する。「人間」を「切断」する。「人間」を「自由にする」。
 「人工」ということばをつかっているが、その「人工」には「人」は関係していない。「人工のこと」と言い直して、その「こと」と「わたし」が一体になる。そのとき「他者に共有されたわたし」は「いなくなる」という感じなのだろう。
 川口の作品には、しばしば「他者」が作りだした「フィクション」が引用されるが、そのとき川口が引用しているのは「他者」を「除外」した「フィクション(こと)」だけであり、その「こと」のなかへ川口は入っていき、川口自身をも「フィクション」にしてしまう。「フィクション」として生まれ変わる。
 いや、それでは「ドン・キホーテ」になってしまうか。
 引用すると長くなるので引用しないが、川口は「フィクション/人工」のなかで、今度は「人」を真剣に「切断」する。切り離す。

負けていくわたしや誰かは
他の誰かのために消費される物語じゃないからたぶん夜はまたあける)

 こういう二行が後半に出てくる。「誰かのために消費される物語」というものを川口は拒否しようとしている。
 書き出しの「いちにちのこと」というのは「誰かのために(わたしが)消費される物語」と言い直されていることがわかる。「誰かの物語」のために「わたしが消費された」。その「消費されるわたし」を「いちにちの終り」に「終わらせたい」。「誰かのために消費されないわたし」に生まれ変わりたい。

 うーん。

 「意味」としては、「頭」ではわかったような感じになるのだが、私は、こういう感覚にはついていけない。
 「人工」を通して「人(他者)」との関係を見つめなおすというところが川口の「現代性」なのかもしれないけれど、私は、なじめない。「テレビ/深夜アニメ」も「暮らし」なのかもしれないけれど、本物の人間と向き合って、他者と自分との関係をどう組み立てなおすかということを書いてもらいたいというか、そういうものを読みたい気持ちがある。「人工のこと」は「やっぱり結末はかわらなくて/わたしは許されずにここにいる」という「敗北/抒情」に逃げ込む(昇華する?)のでは、「新装オープン抒情詩」を読まされた気持ちになる。
 書き出しの三行を延々とつづけてほしい、延々とつづけながら少しずつ変わっていく川口の「肉体」を読みたいなあ、と思う。


Tiger is here.
川口 晴美
思潮社
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江代充「藤枝教会」

2016-05-04 10:31:30 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「藤枝教会」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 江代充をもう一篇読んでみる。「三つのクレメンス 改稿のあと」から「藤枝教会」。

クリスマスの夜(よる)
このせまい敷地内へ
羊の門を通って迎えにきていた母と
聖劇のうえで
移動する太陽の役がらをなし終え
休みなく老いたように
屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが
その日初めて出会い
そのちぐはぐな会話によって
そこからともに門へ向かった場所に
わたしはきている
いつの間にか日の暮れた
あのクリスマスの夜とおなじく

 江代の文体は「粘着力」に特徴がある。
 二行目の「このせまい敷地内へ」の「この」、さらに後半の「その日初めて出会い/そのちぐはぐな会話によって/そこからともに門へ向かった場所に」の三行の、「その」「その」「そこ」という指示詞は、意識を「いま/ここ」ではなく、すでに知っている「こと」へと意識を引き戻す。その「引き戻し」に「粘着力」があるのだが、こういう「指示詞」の粘着力は、多くのひとが使いこなしている。それとは別の部分について書いてみたい。
 江代の「動詞」のつかい方に、私は「粘着力」を感じる。

羊の門を通って迎えにきていた母と

わたしはきている

 行が離れた場所で「きていた(過去)」と「きている(現在)」が重なる。「くる」という動詞が重なる。
 前者は「きていた母」という具合に、動詞は「連体形」。「連体形」+「名詞」なので、意識は「名詞」に集中するのだが、そこには「動詞」の動きもある。「羊の門を通って迎えにきていた母」は「母は羊の門を通って迎えにきていた」でもある。そして、そこには「通る」「迎える」という動詞も同時に動いている。「わたし」は「母」という存在(名詞)を見ている(認識している)だけではなく、「母」の行動(動詞/動き)を見ている。
 そのときに「見た(認識した)」母の「動詞」そのものを、「きているわたし」が「きている」という「動詞」で反復するときに、反復するのである。この瞬間に、江代の「粘着力」は強くなる。
 「動詞」が単純にひとつの「行動/動き」をあらわすのではなく、動くことによって、他の動きを「いま/ここ」にひっぱり出す。「動詞」の背後で、別の「動詞」が動き、そのことによって「時間」が「つながる」。この「つながり」が「粘着力」である。
 さらに、ここには、

羊の門を通って迎えにきていた母と

そこからともに門へ向かった場所に

 という「門」を中心にした「通って(きた)」、「向かった(向かっていく)」という逆向きの運動が、衝突することなく、融合する。それが「粘着力」をさらに感じさせる。「動詞」は動きが反対であっても、かたく結びつき、融合するのである。
 このことは、別の行の対比でもわかる。

移動する太陽の役がらをなし終え

屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが

 ここには「なし終え」「歩きはじめた」と「終える」「はじめる」の対比があり、それは「句点」によって切断されることなく「連続」する。この「連続」を「肉体内部の融合」ととらえてみることもできると思う。
 この「連続」のなかに、

休みなく老いたように

 の「休みなく」という「連続」を強調することばが差し挟まれる。「肉体感覚」として、「老いた」という「経過」を含みながら、ことばが「連続」する。

休みなく老いたように

その日初めて出会い

 ここでは、「老いた」と「初めて」が対比される。この「対比」は「終える」「はじめる」の対比と重複しながら動いている。何かを「なし終える」には時間がかかる。それは「老いる/老人(年齢の対比で言えば、ここに書かれている「母」も、当時の「わたし」からは年を経た人である)」につながる。また「はじめる」のは「初めて」のことであり、それも重なり合う。
 こういう「重なり合い」が、最終行、

あのクリスマスの夜とおなじく

 の「おなじく」となって結晶する。
 「おなじく」は、きのう読んだ「初めてのかなしみ」に

地の土の荒さや
小石のつぶつぶとおなじく

 という形でもつかわれていた。江代の詩には書かせない「ことば」なのだろう。
 この「おなじく」は「おなじ」ではない、ということが、私には、またおもしろく感じられる。「おなじく」は「副詞」。「おなじく」のあとに「動詞」があるはずである。
 「あのクリスマスの夜とおなじく」、「わたし」はどうしたのか。

あのクリスマスの夜とおなじく
わたしはきている

 のである。
 だから、この詩を読んだ瞬間、こんなふうに前の行に戻ってしまうなら、最後の二行はなくてもいいのではないか、と私は感じた。いまでも、そう感じている。最後の二行はない方が、いわゆる「余韻」があると私は感じる。しかし、これはあくまで私の「感じ」であって、江代は最後の二行を書かずにはいられない。「おなじく」ということばで、世界を反復し、「粘着力」をより強くせずにはいられない。
 それが江代なのだ。
 反復することで、動詞に「枠」を与える。「枠」のなかの「時間」を濃密にする。閉ざすことによって、「粘着力」を強くする。

 反復による「枠」づくり、これは反復による「内部」づくり、と言い換えることもできるかもしれない。「動詞」ではなく、「名詞」から、その点について何か書けるだろうか。

このせまい敷地内へ

 何気なく書かれている「内」ということば。文字。「門」も「内部/外部」をわける象徴として書かれているのだと思う。

屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが

 ここには「屋内」と「外」という形で「内」が意識されている。

聖劇のうえで

 この「うえで」は「なかで」と言い換えることができる。「うえで」は「なかで/うちで」でもある。「屋内」は単なる建物の「内部」を指しているだけではなく、「劇」の「内部」と重なり合う。

移動する太陽の役がらをなし終え

 の「役がら」ということば、特に「がら」が、おもしろいと思う。
 きのう読んだ「初めてのかなしみ」には、

わたしにも明るみにだされている事がら

 と「事がら」ということばが出てきた。
 どちらの場合も「役」「事」で「意味」は通じる。しかし、江代は「役がら」「事がら」と「がら」をひらがなにしながら書いている。
 何かしら、「動詞」をむりやり「名詞化」しているように感じる。「動詞」を隠そうとしているようにも感じられる。
 「事がら」を「動詞化」するのは難しいが、「役がら」なら「演じる」と「動詞化」できるかもしれない。「役」ということばをつかって「動詞化」するなら「役をになう」とも言い換えることができるかもしれない。
 この「動詞」をかくしたことば(名詞)は、「動詞」を「内部に閉じ込めていることば」と言い直すと、また別な視点から「粘着力」を探ることができるかもしれない。
 そういう「予感」がする。
 「名詞」の内部に隠れている「動詞」を探してみたいが、私は、あまり江代の詩を読んでいないので、いまはまだ書けないが。

現代詩手帖 2016年 05 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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見えない坂を

2016-05-04 00:14:25 | 
見えない坂を



見えない坂を駆け降りてきた自転車がカーブミラーの曲面をかすめる
シャツの裾を後ろからひっぱり影が同じスピードで曲がる
ブレーキの掛け方を知らない少年から生まれるものがある



四階の窓から顔を出さずに下の道を見ている
走る自転車を追いかけて道はバス通りへのびる
水栽培の花の水が濁るので光がやわらかくなる
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江代充「初めてのかなしみ」

2016-05-03 10:54:13 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「初めてのかなしみ」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 江代充「初めてのかなしみ」は「三つのクレメンス 改稿のあと」の内の一篇。
 江代の詩を読むと、私はいつも、「主語」と「述語」の関係にとまどってしまう。「主語」が作品のなかで動いていく。たとえば「わたし」と書かれていたものが、いつのまにか「わたし」ではなくなっていく。「主語」が変わっていくのに、変わっていかない何かがある、という印象がある。それに、つまずくというか、奇妙なひっかかり、抵抗感、存在感を感じてしまう。

地(ち)と土(つち)の荒さや
小石のつぶつぶとおなじく
わたしにも明るみに出されている事がらが
いくつかある

 詩の書き出し(三行目)に「わたし」ということばが出てくる。これは「主語」か。「わたし」ということばは「主語」を連想させるが、しかし、ここでは「主語」ではない。「主語」は「事がら」であり、「述語」は「ある」。
 「事がら」が「ある」。
 では、その「事がら」とは何か。「わたしにも明るみに出されている」という奇妙な(?)修飾節がついている。「わたし」は「いくつもの事がら」で構成されている。「事がら」というのは、よくわからないが、たとえば「誰かとけんかして怒っている」「花が枯れているのをみてさびしいと感じた」「財布を忘れてきてしまったので、昼飯を食べることができない。困ったなあ」というような「感情/意識の動き」のことかもしれないが、そういうものが、自然に「私のおもて(表情やふるまい)」に出ている。出てしまう、ということかもしれない。あるいは、「熱があって体がだるい」という体調のようなものかもしれない。それも、隠そうとしても、ふっと「おもて」に出てしまう、明るみに出てしまうものである。「明るみに」というのは、「感情/意識」というものが「肉体」の「内部/暗く閉ざされたところ」で動いているという意識があるためだろう。「出されている/出る」という「動詞」が、そんなことを考えさせる。
 そして、そう読むと、「明るみに出されている事がら」が「(わたしにも)ある」という「意味」が「わかった」ような気がする。気がするが……。この「わかった」は、かなり変である。私は、いま書いたことを、いま書いた順序で「わかった」わけではないし、「わかった」と書いたことよりも、もっと気がかりなことがある。
 「事がら」が「ある」と書かれる前に、別なことばが二行ある。

地(ち)と土(つち)の荒さや
小石のつぶつぶ

 これは、何でもないようだけれど、実は、とても変。私の感覚では。
 「地(面)」や「土」というものを、私はあまり意識しない。「道」とか「公園」とか「畑」のような、自分の「暮らし」と結びついたことばでとらえてしまう。「道」を見て、それがアスファルトではないと気づいて、それから「地(面)」の様子、「土」の様子に目がいく。「地(面)/土」の「荒さ」に気がつく。よく見ると「小石」がある。「つぶつぶ」である、という感じ。それと

おなじく

 わたしにも(よく見ると)地(面)や土の荒さのような、(ざらざら)ぶつぶつのようなものが、つまり「いまのわたし」の「事がら(事情?)」が、明るみに(おもてに)出ている、ということになるのだろう。
 で、私は、いま「おなじく」だけを強調するように、独立させて書いてみたのだが。
 これって、「おなじく」ということばで言い表すことだろうか。
 うーん。
 よくわからない。わからないのだが……。

 「地(面)/土」の、よく見ると見えてくる(明るみに出されてくる)、「荒さ/小石のつぶつぶ」、それが「見えた」という動きがあって、その「動き」に沿うような形で、「わたしにも明るみに出されている事がら」が「明るみだされている」、つまり「ある」という形に変化していく。
 「おなじく」というのは「土の荒さ/小石のつぶつぶ」と「おなじ何か(たとえば、荒れた感情)」という具合につづくのではなく、「同じく/明るみに出されている」とつながっているのではないのか。
 そうすると、「主語」は「わたし」ではない。また「地(面)/土」でもない。「明るみに出されている」という「動詞」が「主語」なのではないだろうか。「明るみに出される」という「動き」が、ことばを「一貫している」のではないか、という気がする。「明るみに出されている/明るみに出る」という「動詞」では「主語」になりにくい(?)ので、「名詞」である「事がら」ということばをしたがえているのではないだろうか。

 「主語=明るみに出されている」は、どのように言い換えられ、詩のなかを動いていく。

その日それまでは不確かだった道が
後日墓地となった畑へ向けて真っ直ぐにながれていたり

 この二行でも、「学校文法」では「主語」は「道」であり、「述語」は「真っ直ぐにながれ(る)/(のびる/つづく)」かもしれないのだが。
 私は「主語」を「明るみに出されている」という「動き」だと読む。つまり、「明るみに出されている/明るみにだす」という「主語」は、「土」「道」と見えず「不確かだった」が「畑へ向けて真っ直ぐにながれ(る)」と言い換えられていると読み直す。「不確か」だったものが「明確になる」。真っ直ぐに見えてくる。
 こういうことが「おなじ」ものとして書かれている。
 「地(面)」「土」だったものが「道」として「明るみに出てくる/明るみにだされる」ということでもある。

べつの道の向こうでは
よろめき苦しむわが子をめぐる 一婦人の願いから
その場の発話にみられない
よろこびの事がらを聞き取ろうとして

 「みられない」は「明るみに出されていない/明るみに出ていない」と「おなじ」意味になるだろう。「聞き取ろうとして(する)」というのは「明るみに出そうとする」ということになる。
 どんなもの/ことにも「おもて」に見えるものと、見えないもの、明るみに出ているものと、明るみに出ていないものがある。「明るみに出ていない」ものは「不確か」である。「事がら」にはなっていない。「苦しむわが子」において「明るみに出されている」ものは「苦しむ」という「動詞」であるが、その「わが子」は「よろこび」を内部に抱えているかもしれない。苦しみながらも、なんらかの「よろこび」に通じるものがどこかに動いているかもしれない。それを「聞き取ろう」とする。「明るみに出そうとする」動きかある。
 「明るみに出されている」は自発的である。「聞き取ろうとする」は、働きかけをふくんでいる。ここには「学校文法」で言えば「主語」の交代があるのだが、「明るみに出される/明るみに出る」という「動き」、見えなかったもの(隠れていたもの)が動いておもてに出てくるという「動き/動詞」そのものが「主語」ととらえると「主語」は一貫していることになる。
 この「動詞/動き」をとおって、読者(私)は、「地/土」になったり「わたし」になったり、さらに「道」になったり、「一婦人」になったり、「(一婦人の)わが子」になったりする。それらの「形式的な主語(名詞)」は、その瞬間瞬間にあらわれてくるもの、「明るみに出されている」という「動詞」のあり方を確かめるための(語るための)方便である。

もとから貧しい仲間をまじえたいく羽かの小鳥たちが
そちらへ長く伸び切っている
葉のある枝の上からともにかなしみ
鳴いていたりする

 この部分の「学校文法」の「主語/述語」は「小鳥たちが/鳴いて(いる)」。
 「明るみに出されている/明るみに出す」を「主語」として読むと、「仲間をまじえた」の「まじえる」は「隠す」とも「明るみにだされた」とも読むことができる。両方の意味になって「明るみに出す/隠す」を突き動かしていることがわかる。「動詞」だから、それはいつでも「反対の動き」を含んでいる。「作用/反作用」がある。「そちらへ長く伸び切る」は、「そちらへ向かう」であり、「向かう」は「明るみに出す/出る」の「出す/出る」に通じる。小鳥の「鳴く」は「発話する/ことばに出す」に通じる。
 こういう「動詞」のすべてを肉体で追いかけると、そのとき「初めてのかなしみ」というタイトルそのものが「主語」となってあらわれてくる。
 
 二行目に書かれている「おなじく」を追いかけると、そういう「動き」が見える。「初めてのかなしみ」が、突然、「主語」となって、私のなかに居座る。いちばん重要な位置を占める。
 途中にでてきた「学校文法」の「主語/述語」の「主語」、「地/土」「わたし」「道」「一婦人」「小鳥」は、「動詞」のなかに吸収され、瞬間的にあらわれてくるだけの存在になる。
 「学校文法」の「主語/述語」を中心にことばを追いかけるのではなく、「修飾節」や「比喩」なのかで動いている「動詞」にも目を配って、作品全体を貫いている「動詞」を探し出し、そこからことばを読み直すことが必要なのだと思う。
 全体の「意味」(結論)よりも前に、私たちは、そこで「動いている」ことばそのものに反応して、「意味」(結論)を「予測する」。その「予測する」という動きに直接働きかけてくる「ことば」が、たぶん、詩のキーワードなのだ。

 この「おなじく」「明るみに出されている」の「明るみに出されている」に、もう一度注目しなおしたい。「明るみ」ということば。そこには不思議な願いのようなもの、いのりのようなものがある。
 「動詞」は「作用/反作用」。「出す」の反作用は「隠す」。そして「明るみ」の対極には「暗さ」がある。
 「かなしみ」というのは、普通に考えると「暗い」もの、否定すべきもの、乗り越えるべきもの。けれど、江代はこれを「明るみ」ということばといっしょに動かしている。
 「よろめき苦しむわが子」から「よろこび」を「聞き取ろうとする」。「かなしみ」は「苦しみ」に通じるが、「明るみ」ということばによって、「苦しみ」は「暗さ」から解放されている。解放をねがって、「明るみ」ということばが動いていると言い直すことができるかもしれない。





江代充詩集 (現代詩文庫)
江代充
思潮社
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石垣の出自の中にいる私について

2016-05-02 10:58:26 | 
石垣の出自の中にいる私について

石だった日、
水は音をたてずに割れた。
石だった日、
胡桃が落ちた。音をたてた。
石だった日、
真上に太陽があった。

石だった日、
ひとがやってきた。
石だった日、
太い縄が巻かれた。
石だった日、
丸太があてがわれた。

石だった日、
上へひきあげられ、
石だった日、
横へひっぱられた。
石だった日、
水の音がしみこんだ。

石だった日、
縄と丸太から自由になった。
石だった日、
知らない石がぶつかってきた。
石だった日、
知らない石がのっかってきた。

石でなくなった日、
犬が吠えた。
石でなくなった日、
鳥の影が冷たかった。
石でなくなった日、
痛くはなかった。

石でなくなった日、
風が吹いた。
通りすぎてから
ごつごつを思い出している。
石だった日を
かわりに思い出すように。

石だった日、
子どもがやってきた。
やわらかな手を残していった。
石ではなくなった日、
残っている手を見つけたこども。
目をまるくした。

沢をのぼっていくと、
足がすべるところがある。
手が
大きなものにたよって
石だった日がよみがえる。
あの日。

石だった日、
胡桃が落ちてきた。
石だった日、
水といっしょに音楽になった。
石だった日、
真上に太陽があった。










*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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アンドリュー・ヘイ監督「さざなみ」(★★★★)

2016-05-02 10:26:35 | 映画
監督 アンドリュー・ヘイ 出演 シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ

 イギリスの映画だなあ、と思う。ことばとプライバシーの関係が、イギリスそのもの。他の国の映画では、こんな感じのことばとプライバシーは存在しないなあ、と思う。イギリスでは「事実」はことばになって、初めて「事実」として認められる。ことばになる前は、「事実」は存在しない。
 映画のはじまりは夫にスイスから手紙が届く。手紙には昔の恋人の遺体が氷河から見つかった、ということ。夫が昔恋人とアルプスへ行った。そこで恋人が遭難した。遺体は深い亀裂の底にのみ込まれ、見つからなかった。それは「事実」。けれど、その「事実」は妻との会話のなかで語られてこなかった。つまり、それは夫のプライバシーであり、夫婦にとって、特に妻にとっては「事実」ではなかった。
 恋人がどんな女性か、恋人とどんな関係にあったのかは、すべて夫のプライバシー。そして、それは語られないことによって、一度も「事実」にならなかった。それが、遺体が見つかって、「近親者」ということばで突然、妻の前にあらわれてくる。
 「近親者」(字幕では、確か、そうなっていたと思う)というのは、変なことばだ。「恋人」とは違う。夫は「昔は、昔は若い男女が同じホテルに泊まるのは難しかった。夫婦を装った」という具合に説明している。「恋人」が「事実」なのではなく、「近親者=疑似夫婦」が「事実」なのである。男女が親しい、ということが「事実」なのではなく、「夫婦」ということばで二人の関係を呼ぶ(言語化する)というのが「事実」なのである。「ことば」こそが「事実」なのである。
 少しずつ、妻は夫から「ことば=事実」を知らされる。プライバシーだったものが、明るみに出され、「事実」になる。しかし、「ことば」にされないこともある。プライバシーのまま、隠されつづける「事実」がある。
 夫は妻に隠れて、屋根裏部屋で恋人の写真を見ていた。映写機でスクリーンに映して、恋人を見ていた。スクリーンで見る、というのは写真を直に見るのとかなり状況が違う。まわりが暗い。その映像に集中できる、ということだけではない。スクリーンの映像は小さな写真とは違う。ネガはそれよりさらに小さいのだが、スクリーンではそれが拡大される。もしかすると、それは等身大である。夫は写真を見ていたのではない。恋人そのものを見ていたのだ。けれど、夫はその「事実」、いつも「実物大の恋人を見ていた」ということは語らない。だから、それは「事実」ではない。
 妻は、その「事実」を知るのだけれど、「ことば」として語られたものではないから、その「事実」を追及できない。そのことをテーマにして夫と語り合うことができない。ここに、何とも言えない「深い亀裂」のようなものが入る。
 で、この「ことば」と「事実」、「ことばされないこと」と「プライバシー」の問題は、最後の結婚45年パーティーで、さらに妻を傷つける。
 夫がスピーチする。45年間を「ことば」にする。「人生の最高の選択は、きみを(妻を)選んだことだ。いろいろあった。けれど、しあわせだった。愛している。アイ・ラブ・ユー」というようなことを感動的に語る。聞いている友人たちも感動するが、夫自身が、自己陶酔して(?)泣いてしまうくらいである。
 妻は、しかし、感動できない。友人たちの手前、うれしそうな顔をしてみせるが、夫が語ったのは、単なることばであって、「事実」ではないと知っているからである。他の人たちは夫の「ことば」を「事実」として受けとめ、感動している。けれど妻は、その「ことば」が「事実」の全部ではないということを知っている。知っているけれど、それを「ことば」にして、誰かに訴えるわけではない。
 「ことば」にされていない夫のプライバシーがある。そして、そのとき、妻にも「ことば」にしていないプライバシーがある。夫のプライバシーは、あまく、せつない。「いま」、何か哀しいこと、苦しいことがあれば、その「秘密」は彼を受けとめてくる。しかし、妻のプライバシーは、逆なのだ。「いま」に噴出してきて、「いま」をかき回す。かき乱す。哀しく、いらいらさせる。
 ラストシーン。結婚式の思い出の「煙が目にしみる」(プラターズ)にあわせて、二人で踊る。まわりに友人たちのダンスの輪も広がる。曲が終わる。夫は、妻の手をとって高々と掲げる。その手を、妻はふりほどく。そして、呆然と突っ立っている。夫のように無邪気になれないし、夫の無邪気さに腹が立つのである。
 うーん。
 こういう「ことばと事実/ことばとプライバシー(秘密)」の関係を生きるひとはつらいだろうなあ。夫の「プライバシー」を知ったあと、妻が「いいたいことはいっぱいある。けれど、言わない」というシーンがある。そこでは、夫が「旅行代理店」でスイス旅行のことを何度が尋ねていることが語られるが、それを語ることができるのは旅行代理店の係員がスイス旅行のことを「ことば」で語っているからである。誰のことばであれ、それは「語られた事実」だから、妻はそれを話題として持ち出すことができる。しかし、恋人の写真は「語られていない」。だから「事実」として取り上げることはできない。
 「写真」のことは、また、別の形で妻を苦しめる。家には写真がない。けれど、友達がスナップ写真を撮っていて、そのなかには昔飼っていた犬や、いま飼っている犬の子犬時代の姿もある。写真も、公表(?)されれば「事実」である。それについて語ることができる。けれど、隠されている写真は、その存在を知っていても「事実」ではない。「事実」であると知っているのに、「事実」ということができない。
 「ことば」も「写真」も、そのひとの「所有物」であり、「所有物」であるということは、その「所有権/プライバシー」を侵害してはならないということでもあるのだ。この厳密すぎる「個人主義」を私は「イギリス厳格個人主義」と呼ぶことで、「アメリカイージー個人主義」や、「フランスわがまま個人主義」と区別しているのだが。
 いや、ほんと。イギリス人になるというのは、大変なんだ、と思う。
 で、この大変なイギリス人を、「ことば」とは別なもの、表情(これは肉体のことばなのだけれど……)で膨らませてみせる、深めてみせる、というのが「映画」なのだけれど。シャーロット・ランプリングとトム・コートネイは、おもしろいねえ。シャーロット・ランプリングはひたすら「いま」を生きて苦しむ。トム・コートネイは「いま」から逃避し、「過去」にひたって、まるで少年のようにはしゃいでいる。そのはしゃぎが、「いま」のなかにときどき噴出してくる。(最後のスピーチとダンスで炸裂している。)この対比が、非常にいきいきしている。
 劇場の扉の前で列をつくって待っていると、映画を見終わった観客(夫婦、そしてその仲間たち)が「男って、あんなもんよね」(女)「思い当たることがあって、見ながらどきどきした」(男)とうような会話をしながら出てくる。そういう「会話」を思わず引き出すくらいに、二人の演技がなまなましい。観客の会話は、そのリアルな演技の「証拠/証明」でもある。(こういう反応に出合えるから、映画は映画館で見るに限るのだ。)
 イギリス特有の弱い光、弱々しいみどりの色も、静かで、二人の演技ととてもあっていた。
                      (KBCシネマ1、2016年05月01日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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手塚敦史『1981』

2016-05-01 14:23:33 | 詩集
手塚敦史『1981』(ふらんす堂、2016年04月23日発行)

 手塚敦史『1981』の詩を私はどう語れるだろうか。どこから語りはじめればいいだろうか。

声からみどりは
しだいに大きくなりはじめ、窓は開け放たれ、
ぼんやりと眺めるひとみの中へと
なつの香りは、漂いだす           (「わたしは本を読む/なつの光」)

 美しい情景だ。「声」「ひとみ」「香り」。情景がそのまま「肉体」のひろがりとなっている。

子ども達
河原で水切りをする
発音記号の
最初の音を口にする瞬間の、ざらついた
粒子は
撥ね、                            (「枝を折る」)

 「水切り」のとびとびのリズム、切断と接続の感じが、「発音記号の/最初の音を口にする瞬間」と重なり、「ざらついた/粒子は/撥ね、」とも重なる。声を出すとき、「肉体」のなかで動いている「抵抗」のようなものが、ざらっとした感じで光っている。連続しているが、切断を含んでいる「動き」が、そのまま「肉体」を刺戟する。
 でも、こういう部分は、少し「抒情的」すぎるかもしれない。手塚の特徴と言ってしまうと、大事な部分にふれないまま、という感じがしてしまう。
 「主語」と「述語」がきちんとしている。大雑把に省略を含めていうと「みどりは/大きくなる」「窓は/開け放たれる」「なつの香りは/漂いだす」。「子ども達(は)/河原で水切りをする」「発音記号の粒子は/撥ねる」。その「ととのい方」が、どういえばいいのだろう。かなり古い。だから、古い人間である私は、そういう部分を安心して読んでしまうし、そこに「なつかしさ」のようなものを感じ、「抒情」と呼んでみたりするのである。
 でも、ここには手塚の、あるいは「最近の詩」の「共通する特徴」、いわば「現代詩性」というものは、ない、かもしれない。

本来花の時間というものはなく、ひのひかりに
かける、くしゃみ
のみ込み、辺りから消える
その、あらわれ方を食みださせる
はたらきがある
はたらきだけが、−−                       (「小路」)

 この部分では「主語」と「述語」がうまく結びつかない。「花の時間は/ない」は「主語/述語」として読むことができるが、そのあとがよくわからない。「かける」の主語は? 「くしゃみ」は「名詞」なのか。「くしゃみをする」という動詞がほんらいの形として動いているのだが、それを「名詞」として切り取っているのか。「のみ込む」「消える」「あらわれる」の「主語」は何なのか、さっぱりわからない。「食みださせる」ということばは「使役」と読めば、誰が、誰に、何を「食みださせる」のかということが、やっぱわからい。
 「主語」をかくしたまま「はたらきがある」と「主語/述語」の「主語」を「はたらき(動詞)」という「主題(テーマ)」にしてしまう。
 うーん。
 私は、ことばを理解するとき(ことばが人と人のあいだを行き来するとき)、動詞が重要だと考えている。「動詞」がわかれば、人間は理解し合えると思っているので、「はたらき(動詞)」に手塚が注目しているこの部分は、とても興味深いのだが、「動詞」というのは「主体」が必要。「主語」がないと「肉体」が動いていかない。こういうことばの運動に出合うと、「頭」が「肉体」を捏造していると感じてしまう。「主体(主語)」なしに「動詞」だけが存在するというのは、まるで「算数(数学)」の「+、−、×、÷」の「記号」を見ている気持ちになってしまう。「+、−、×、÷」にも、もちろん「肉体」はあって、それを「肉体」と感じるのは、何と言えばいいのか、「算数としての答え」を求めるという欲望があるときに、「+、−、×、÷」が「算数としての肉体」になると思うのだが、私は書き手(手塚)ではないので、突然、「動詞」だけを動かされても、その「動詞」は「記号」になってしまう。「肉体」へと変わってくれない。
 ここに「いまはやりの現代詩性」があるのだけれど、(あると思って読んでいるのだけれど)、私の「古い肉体」は、ついていかない。動かない。動けない。
 唯一、私の「肉体」が動く(ついていく)部分を上げるなら、

その、あらわれ方を食みださせる

 この行の「その」である。「その」そのものは「動詞」ではない。「指示詞」である。しかし、その「指示詞」というものは、「指示する」という「動詞」を含んでいる。先行する「何か(対象)」を指し示すという「動詞」を含んでいる。
 それだけが、私には「わかる」。
 「何か」を指し示し、それを「はたらき」と呼ぶ。「世界」に存在するのは、「動詞(はたらき)」だけである、という具合に整理してみると、まあ、手塚の「主張」は「わかる」。いや、「わかる」という形で「誤読」できる。
 「その」というこことばで、先行するものを引き継ぎ、そこから飛躍して、ことばを純粋に記号として動かす。記号の自由さが「関係」を「動詞化」している。「動詞」として生み出している。そういう「切断と接続」があるのだと、勝手に思うことができる。
 でも、そう思うのは、一瞬のことで、この「記号化された動詞」というのは、私にはどうにも「気持ちが悪い」。「肉体」そのものが「抽象化」してしまう感じがして、とてもつらい。

 「肉体」と「抽象」という問題を、ぜんぜん違う角度から考え直してみる。「肉体」で追いかけてみる、ということが必要なのかもしれない。
 でも、私は古い人間なので、そういうことができない。

 どう読み直せばいいのか、わからないが、わからないまま、一篇を通して読んでみる。「ひかりは、カスタネット」。何行かずつ引用するが、詩は「一連」。全行がつづいている。

思いだす人々がいる
それは埃が積もっており、使うのに一瞬
ためらいがある

 書き出しの「主語/述語」は「人々が/いる」ととることができるが、実際は「私は」「(ある)人々を思い出す」ということだと思う。「私は/思い出す/(ある人々を)」が「主語/述語(動詞)」である。けれど「主語(私)」を消して「人々」にしてしまう。そして、その「主語」ではなかった「対象」を「主語」としてしまうことを、さらに次の行の「それ」という「指示詞」で決定づける。何かを「指示する」ひとが「どこか(背後?)」にいるということを感じさせながら、ことばを動かしていく。
 「ためらいが/ある」という「主語/述語」は「ためらい」を「動詞」に還元すると、そこに「ひと」があらわれてくる。その「あらわれてくるひと」は、「私(「それ」ということばをつかったひと/何かを指示するひと/指示者)」である。「思い出」というのは「古い」。古い思い出の品は、往々にして「埃が積もっている」。「埃の積もったものを、使うとき、私は一瞬、ためらう」と言い直すと、そこに「私」の「肉体」がくっきりと出てくるのだが、手塚は「私」を隠し、「肉体」を隠し、「動詞」を抽象化して、「ためらいが/ある」という。「動詞」の「抽象化」は「動詞」の「名詞化」でもある。「動詞派生の名詞」にすると「動詞」が「抽象化」する。
 「私の肉体」を消してしまって、「もの/存在」に「動詞」をまかせる。

物と似て、どこか時間の彼方の
生暖かい風を運んでくる

 「物」「時間」という「抽象」があらわれてくる「必然」のようなものが、先の「動詞」の「抽象化」にある。「動詞の抽象化」が「物」「時間」という抽象的なことばを引き込んだのだ言えるが、その「抽象」をそのまま加速させるのではなく「生暖かい」という「皮膚感覚(肉体)」でかきまぜ、「抽象」なのだけれど、ここには「抽象化」という動きを動かしている「肉体」があるのだと、ひそかに語っている。
 こういう「未整理」というのか、「ずるい」方法が、一種の「現代性」だなあ。「ずるい」と感じるのは、私が古い人間で、いまのひとたちは「ずるい」とは感じないのだと思うけれど……。

静電気は眠り、気配は失せ、合図は伝わらず
痺れを切らし

 「静電気」は「物」「時間」と響きあっている。「気配」は「合図」と言い直されることで、やはり「物/時間」と向き合う。「痺れを切らし」は「指示者の肉体」と響きあっている。

いたるところに窓の音寄せ
思いだす人々は、しろい毛玉を被る

 「窓に音寄せ」というのは、わからない。「生暖かい風」が窓を揺らし、音を立てるくらいの情景かもしれない。そうであるなら、わざわざ「普通の日本語」を解体し、別の言語運動にしたてているということになるが、「わざわざ(わざと)」というのは西脇以来の「現代詩」の特徴なので、目新しくはない。
 「しろい毛玉を被る」は二行目の「埃が積もっており」を「比喩」をつかっていいなおしたものだろう。

粉とみわけがつかない

 「粉」は「しろい毛玉」であり「埃」である。このあたりは、「比喩」ごっこという感じで、私は「描写」がうるさいと感じてしまう。

境界面への
いりぐちでぐち

 これは「物/時間」の言い直し。言い換えると「比喩」ごっこのつづき。

端には、蜘蛛の巣や虫の死骸の
薄さや軽さを含み

 これは「比喩」ごっこから「現実」へもどった感じ。「埃/しろい毛玉/粉」と「
蜘蛛の巣や虫の死骸」のこと。それは「薄くて軽い」。「薄くて軽い」は「埃」でもある。

射すもののあらわな、はざまへと、
葬られてゆく

 「射すもの」とはタイトルにあった「ひかり」かもしれない。「ひかり」が「埃」の積もった何かの上に射している。
 それが「はざまへと、/葬られていく」というのは、また、何を言っているのかわからないが……。

それは
塵を払えば舞い−− 指には、付着した

 ここまで読むと「それ」と呼ばれているのはタイトルの「カスタネット」と思えてくる。「埃の積もったカスタネット」を見つけた。それに「触れ」(それを鳴らしてみる)、そうすると「指には、埃が(蜘蛛の巣や虫の死骸も)付着する」と、突然「肉体」がもどってくる。
 そして、書き出しの一行は、

(私には)思い出す人々がいる(私は、ある人々を思い出す)

ではなく

(それを/カスタネットを)思い出す人々がいる
それは(忘れられた/つかわれなくなった/思い出のカスタネットは)埃が積もっており、使うのに一瞬
ためらいがある

 だったと、「わかる」。「私」という「主語」ではなく、「カスタネット」という「主題」を省略した「叙事詩」だったと「わかる」。
 ここで、もう一度、詩を読み直すことになるのだが……。
 わざわざ「主語」を「もの」にして「肉体(指示者、というのか観察者というのか)」を隠し、「叙事詩」に仕立て上げなくてもいいのでは、とも思う。「私という主語」を明確にした「抒情詩」の方が、手塚の場合は、もっとすっきりとことばが動くかもしれないなあ、と思ってしまう。最初に引用したいくつかの断片は、私にはどうみても「抒情詩」としか思えない。
 「叙事詩」に徹するならば「それ/その」というような「指示詞」のは、すこし不徹底であると感じる。「それ/その」と書くことで、そこに「指示するひと」を登場させると「叙事」が「主観」に汚れて、不透明になると思う。
 私は古い古い人間なので、もっと違った読み方があるのだと思うけれども。
1981
手塚 敦史
ふらんす堂
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野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(2)

2016-04-30 08:46:38 | 詩集
野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(2)(水声社、2016年04月15日発行)

 04月28日の野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』の感想で「共犯」について書いた。30ページまで読んで、この詩集のなかで「共犯」ということばが出てくるのは一回だけだろうと書いたのだが、32ページにも出てきた。
 あ、びっくり。

私と彼とは、これもすべて述べたように、いわば物語ることの共犯性を軸に際限もなく渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、

 でもこれは先に引用した9ページそのままだね。
 「際限もなく」繰り返すのが、この詩集だ。「際限のなさ」はモーツァルトみたいだ。モーツァルトの喜びのように際限がない。だから、楽しいときに読むと楽しいが(それこそ、脳がよろこびそうだが)、つらいときに読むと耐えられないだろうなあ、と思う。
 
 際限のない繰り返しは「半球全誌」という作品に特徴的にあらわれている。この詩は(この章は?)、「1(左半球前部)」「2(左半球後部)」という具合につづいていくのだが、そのなかで音が少しずつずれていく部分がある。

模様の同じ皿と皿がならんでいるんだよ、(1)

模様の似た皿と皿がなやんでいるんだよ、(2)

模様の地味な皿と皿がにらんでいるんだよ、(3)

模様の燃え上がった皿と皿がはらんでいるんだよ、(4)

模様の立ち騒ぐ皿と皿がなごんでいるんだよ、(5)

模様に模様を重ねた皿と皿がさらんでいるんだよ、(6)

 「皿と皿」も次々にずれていくのだけれど、それは「名詞」。ちょっと、わきにおいておく。
 動詞が「ならぶ」「なやむ」「にらむ」「はらむ」「なごむ」と変わる。ここまでは、あ、同じことをやっているなあ、とほとんど惰性で読んでしまう。一字一字、「意味」を考えたり「イメージ」を追いかけたりしない。「速読術」みたいに、ぱっぱっぱっとページをめくってしまう。
 で、「さらんでいるんだよ、」。
 えっ、「さらむ」なんて、「動詞」ある?
 私は辞書を引かないので、そんなことばがあるかどうか知らないが、私は、「さらむ」ということばをつかわない。「さらむ」でいいのかどうかも、わからない。
 わからないのだけれど、「1」から「5」まで、しつこく同じことを繰り返しているのだから、「6」の部分もその繰り返しであり、なんらかの「動詞」が動いているのだと考えてしまう。
 「繰り返し」のなかに「論理」を見出し、勝手に納得してしまう。
 これがねえ、
 「論理」の罠である。
 「論理」なんていうものは、嘘っぱち。「論理」ではないことも「繰り返す」と、そこに「論理」のようなものが見えてきてしまう。「論理」は、一種の惰性なのである。「論理」は「脳」が考えるようだが、「脳」などというのは人間の「肉体」のなかでいちばんずぼらな器官なのだと思う。すぐ手抜きをする。同じことを繰り返して、それでごまかしてしまう。
 変な言い方だが、(そして変な「比喩」だが、野村の詩を読んでいると、どうしても次のような「比喩」を考えたくなる)、セックスなんていうものは、もし「脳」がなければ、きっと大変なことになる。「脳」が「気持ちいい」と勝手に「ことば」を繰り返して、欲望をごまかしているところがあると思う。ほんとうはもっと気持ちがいいこと、信じられないことがあるのかもしれないけれど、テキトウに「気持ちがいい」で終わらせてしまうところがある。「脳」はテキトウに「よろこんで」、それでおしまいにしてしまうのだ。「真実」なんて、追求しない。それが証拠に、ひとは他人のセックスを知りたがる。読みたがる。自分で工夫するのが面倒くさいから、他人から「方法」を借用してしまう。「盗作」のように。ずるいでしょ? 自分の欲望、自分の官能なのに、自分では追求しないなんて、「脳」が「ずぼらがいいよ」とそそのかすからだ。

 あ、脱線したかな?

 「論理」は嘘っぱち。なんでも繰り返せば「論理」になる。そして、その「でたらめ論理」が「でたらめ」であればあるほど、「うーん、これが詩なんだ」と「よろこぶ脳」も出てくる。
 横書きの詩の「代数学」シリーズがそれ。


の4乗に
女の影の3乗をかけ
さらに女の2乗で割ると
女の影の5乗
に等しい
あるいは
身を細めては漕ぐこの世の果て
墓めく水よ
水めく墓よ

 前半の変な数学。ここでの「野村の論理」は「掛け算、割り算」というよりも「等しい」ということばに集約される。何かが何かに「等しい」。「等しい」に、人間は「論理」の「正しさ」を求めてしまう。そういう「癖」を野村は利用している。
 「等しい」ものなんて、ほんとうはないかもしれない。けれど「脳」はずぼら。個別性を識別するのはめんどう。配慮するのはめんどう。だから「テキトウなところで「等しい」にしてしまう。
 それに「あるいは」という「追加」で装飾してしまう。
 こんなことろに「真実」はない。そして「真実はない」という「真実」がある。
 「論理」とは、こういう同義反復のような「ごまかし」でできている。
 「脳」はめんどうくさがりやだから、その「ごまかし」を「論理」と呼んで、さらに「ごまかす」。「うーん、難しい論理だ、よくわからない。けれど、よくわからないから、きっと正しいんだ」と思ったり、あえて難しいことばをつかって「このことばの意味がわからないなら、私の論理がわかるはずがない。ゆえに、私の論理をわからないひとは間違っている」と威圧的になったりする。
 「論理」というのは、他人との関係をどう説明するかの「ゲーム」のひとつにすぎない。「ゲーム」だから、それが楽しければ、それでいい。「脳」がよろこぶなら、それでいい。
 という具合に、気楽に野村の詩集を読むといいのだと思う。
 私は目が悪いし、超論理的な人間なので(つまり、とてもめんどうくさがり屋やなので)、そんなふうに考えている。わからないことは、わからないままで、ぜんぜんかまわない。詩、なのだから。

 この詩集には、もうひとつ(もうふたつ?)、変な詩がある。縦書き、横書きともに「正午」というタイトル。サブタイトルもついているのだが、面倒なので省略。
 縦書きの方を引用する。

きみって
字と絵と

部ら 背 老ブデ  手

裏 ヤンぬ 無事へ
あん 子織る オフ    ろんで 腫れ

炉へ 手
盛ると
劣化ん 雲ぶる  ぬ 切って 葉らんルート
寿 ぼわっ

 何これ?
 わからない。わからないけれど、私は、ところどころに「フランス語」を感じた。「裏 ヤンぬ」とか「あん 子織る」「ぬ 切って 葉」「寿 ぼわっ」とか。「文字」ではなく「音」がフランス語っぽく聞こえる。「じゅすゅいじゃぽん、たこえあしゅはぽん、いかえあしゅじゅぽん(私は日本人です。蛸は足が八本、烏賊は足が十本です)」みたいな「日本語依存フランス語」ではなく、ここに書かれているのは逆の「フランス語依存の日本語」なのかな。
 「意味の論理」ではなく「音の論理」が動いていて、私のいいかげんな耳は(黙読なのに)、「フランス語だ」と判断して「ずぼら」を決め込むのである。フランス語を漢字とひらがなにして遊んでいると思って、それから先へとは進まないことにするのである。「おにば」と言われたら節分でもないのに「福は内」と日本語で言い返し、おしまい。

よろこべ午後も脳だ
野村 喜和夫
水声社
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