詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

六代目中村芝翫襲名披露

2017-06-25 21:32:33 | その他(音楽、小説etc)
六代目中村芝翫襲名披露(博多座、2017年06月25日)

 芝居は「一声二姿三顔」と言われる。それを実感する歌舞伎だった。私は三階席(いわゆる天井桟敷)で見たので「顔」なんかは見えないこともあって、よけいにそれを感じたのかもしれないが。
 私が見たのは昼の部。演目は「車引」「藤娘」「毛谷村」「河内山」。

 私が歌舞伎を見るのは四度目くらいで、役者のことも知らないし、ストーリーも何も知らないで見るのだから、とんでもない誤解をしているかもしれないが。
 「河内山」(六代目中村芝翫が河内山宗俊を演じる)の最初の場面で、質屋で中村芝翫が木刀を質草に「五十両貸せ」とか、「ひじきと油揚ばかり食べているやつらは……」という台詞を言うところで、あ、この芝居は「台詞回し」が主役の芝居だと気づく。かっこいい見得や荒々しい動き、あるいは踊りや曲の美しさではなく、台詞を聞かせる芝居だとわかる。「声」が主役の芝居である。
 ところが、主役の中村芝翫の「声=台詞回し」がぜんぜんおもしろくない。引きつけられない。「ことば」で「交渉」を乗り切る、というのは「意味」としては何となくわかるが、「丁々発止」という感じがしない。覚えている台詞を言っているだけ、ストーリーを説明しているだけ、という感じなのだ。
 質屋の場面が終わると、そのあと思わずうつらうつらしてしまった。
 中村芝翫が「山吹のお茶」を要求する場面、最後の「ばかめ」と叫んで花道を引き上げる場面はちょっと目が覚めたが、あとは、うーん、眠い。眠りそうだ。あ、眠ってしまった、という感じだった。
 昼の部の一番の見せ物がこれだから、たまらない。
 「車引」では、橋之助、福之助、歌之助の「声」が、あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、若くてつまらなかった。声が「肉体」になっていない。「意味」を伝えるだけに終わっている。ただし動きは軽さとスピードがあって、若い肉体というのはいいなあと感じた。
 「藤娘」は菊之助が舞った。女形は上半身、特に手の動きが重要だと思っていた。指先の動きが感情をあらわしていて、あ、なるほどなあと思いながら見ていたのだが、途中から「腰高」が気になり始めた。「姿」が気に食わない。腰、膝、足の裏(?)という、上半身を支える部分が、どうも「弱い」。荒事というのは、たぶん下半身の力で動いているのだと思うが、女形の基本も下半身にあるのかもしれない。上半身と下半身が分離している感じで、だんだん落ち着かなくなる。見ている私の感覚が。歌舞伎というのは肉体の美しさ、動きの美しさのなかに「感情」を味わうものだと思うが、見ていて「味わう」という「喜び」が少しずつ消えているのを感じてしまったか。
 「毛谷村」は、六助を菊五郎が演じた。うまいわけでも、熱をこめて演じているわけでもないと思うが、きょう見た芝居のなかでは、いちばん「楽な気持ち」になれた。年をとったとはいえ、やっぱり「顔」に花がある。天井桟敷からでも、それがわかる。しかし、なんといっても「声」がいちばんよく聴こえた。
 
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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豊原清明「自主製作映画シナリオ『サボテン』」

2017-06-25 00:18:22 | 
豊原清明「自主製作映画シナリオ『サボテン』」(「白黒目」72、奥付なし、2017年06月発行)

 高柳誠の詩について書いたとき「論理」、あるいは「構造」というものを考えた。豊原のシナリオには、高柳のことばを動かしている「論理」とか「構造」というものがない。いきなり「現実」があるだけである。

〇 サボテンの針に指を突き刺す。

〇 タイトル「サボテン」

〇 四十の掌
  牧師からの誕生祝い。
男「作業所に復讐を果たしたい」
  筋トレしている、男。
  腹筋をしながら、言う。
  腕立て五十回、スクワット、五十回、腹筋五十回、
  膝上げ百回。

 「四十の掌」とは「四十男の掌」だろう。「牧師からの誕生祝い」が何を指すかは明確ではないが、「サボテン」だろう。サボテンの針に指を突き刺す四十男。刺したあとの男の掌のアップ。それから「筋トレ」をしている男の姿が映し出されるのだが、このときの「映像」は「顔」を持たない。腹筋を鍛えているときの腹筋、腕立てをしている腕、スクワットをしている下半身、膝上げをしている膝という「肉体」のアップがあるだけだ。「肉体」は「断片」だが、「断片」としての「肉体」は存在しない。どこかでつながっている。つながることで「ひとつ」になっている。その「つながり(連続)」を豊原は書かない。
 「つながり」とは「関係」であり、「構造」である。
 豊原はなぜ「構造」を書かないのか。
 「構造」は書く必要がない。書かなくても「人間(肉体)」は「同じ構造」をもっている。誰もが、それがどんなものか「わかっている」。だから省略する。「無意識」を「無意識」のままにしておくことができる。これが豊原のことばの強さである。
 多くの人は、たいてい、どこかで「キーワード」を書いてしまう。書かずにいられなくなる。キーワードを書かないと「論理」が「説明」できないからである。「ことば」はどこかで「論理」をめざしてしまうものである。そして「論理」をめざすとき、どこかで「論理」を補強することばを「補う」。普通は無意識に動かしているのだが、「他人」を意識し、「他人」にわかってもらおうとすると、どうしても「ことば」を補わなくてはならなくなる。そういう瞬間がある。その瞬間に、無意識だったキーワードが動く。
 高柳は「入れ子」と書くだけで十分なのに「構造」と書き加えてしまう。「構造」をこそ書きたいのだと、つい説明してしまう。その説明の中に、私は、高柳の「思想」を感じるのだが……。
 豊原の場合は、そういう「無意識」をまったく書かない。そういうものを書かずに、いきなり「現在に噴出してくる過去」を書く。「肉体」を突然、書いてしまう。どんな「肉体」も「過去」をもっている。その「過去」はたいてい「肉体」を見れば感じ取ることのできるものである。
 このシナリオでは筋トレをしている四十男の「腹」とか「腕」とか「足(ひざ)」がアップされるのだが、その「形」を見ただけで、人は四十男の「過去」を知ってしまう。ビールばっかり飲んでいる腹だ、とか、力仕事をしてこなかった腕だとか、あるいはマラソンランナーの足だとか。いや、これは短距離ランナーの足だとか。この無意識に感じてしまう「肉体」の印象を「存在感」などと呼んだりすることもある。豊原は、その「存在感」をいきなり書くのである。
 「現実」を書くのである。
 「現実」とは「いま」のことだけれど、それは「いま」の中に「過去」が噴出してくるときだけ「いま」になる。「過去」が噴出して来ないときは、「肉体」には見えない。「肉体」とは、そういう「論理」というか「構造」をもっている。そして、こんなことは「説明」しなくても、誰もがわかっている。だから、豊原は、こういうとこは書かない。
 「復讐を果たしたい」ということばが突然放り出される。それから筋トレをする四十男の肉体が映し出される。そのあとに、

〇 男のイジメ
声「俺を虐めた、あの男。」

〇 氷水を眺めている、男、一気に飲む。

 こうつながると、「男のイジメ」は「過去」として「いま」に噴出してくる。イジメをうけたから復讐したいのだ。復讐するために、肉体を強化しているのだ。声がそれを「説明」している。ただし、それは私が「誤読」した結果、そうなるだけであって、ほんとうは「違う」かもしれない。「イジメを受けた-復讐したい」という「論理」、そのために「肉体」を改造するというのは私が勝手につくった「論理」、私の「誤読」であるかもしれない。同じように多くの人が「誤読」するだろう。勝手に「論理」をつくり、「意味(ことばと肉体の関係、構造)」を読み取るだろう。
 言い換えると、豊原は、誰もが「誤読」するように「現実」を書くということである。誰もが「自分自身の過去」をそこに結びつけ、自分自身の肉体が覚えている「過去」を見つけ出すのである。まるで「肉体」の一部がアップされているだけなのに、その「肉体」がどこかでつながって四十男になっていると信じるのと同じである。
 それは勝手な「思い込み(誤読)」かもしれないが、たぶん、だれも「誤読」とは意識しない。
 「氷水を眺めている、男、一気に飲む」というト書きには、「間合い」が書かれていない。「間合い」は役者によって違うだろう。その「違い」を、私たちは(私は)、自分の「覚えている間合い」で感じ取り、そこに「自分の肉体/自分の過去」を見てしまう。
 勝手に、そこに書かれている「四十男」と「一体」になってしまう。
 「感じる」とか「わかる」というのは、そういう「誤読」のことである。
 豊原のことばは「誤読」を引き出すことばである。

 「論理」は「誤読」を拒絶するが、豊原のことばは「論理」を拒絶していて、「誤読」を誘うと言いなおせばいいのかもしれない。
 高柳の詩を読んだあとでは、この「誤読」を誘うことばは、とても美しく、強く感じられる。
 こういう感想の書き方は高柳の詩にとって非礼な書き方になるかもしれないけれど、きょうはそんなことを感じた。

夜の人工の木
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高柳誠『放浪彗星通信』

2017-06-24 09:03:02 | 詩集
高柳誠『放浪彗星通信』(書肆山田、2017年05月30日発行)

 高柳誠『放浪彗星通信』の巻頭に、フェルナンド・ペアソのことば(澤田直訳)が引いてある。

宇宙とはそれ自身の夢のことである。

 この詩集には「彗星」ということばがつかわれているように「宇宙」が書かれている。だから引用したのかもしれないが、詩集を読みながら、ペアソの「宇宙」を「詩」と読み替えると、高柳の詩のことを語っているように感じられる。高柳が自分の詩に対してつけた「註釈」のように感じられる。さらに「詩」を「詩集」に、「詩集」を「書物」と言い換えるともっと「夢」に近づくかもしれない。「書物」を「ことば」と言い換えてもいいだろう。
 「宇宙」は「存在」、「夢」は「非存在」。あるいは「存在の反映」。それはともに「ことば」で語られる。それは語り始めた瞬間から「ことば」になって、入れ替わろうとする。いつのまにか「ことば」が「主語」になって、「ことばとはそれ自身宇宙の夢である」、あるいは「ことばとはそれ自身の夢の宇宙である」と変化していっても、だれも「間違い」に気がつかない。「ことば」が動く限り、それは「真実」になってしまう。「ことば」は「存在そのもの」でもないし、「非存在そのもの」でもない。動き始めると延々とつづいてしまう。何かと同一になりながら、常に何かとは別個になりつづける。「同一であり、同一ではない」という「論理」を展開すれば、どこまでもつづく。「ことば」とは世界をどう見るかという「論理」を反映していて、「論理」というのは自己増殖するものだからである。

 で。
 端折る。端折らないと、ほんとうにどこまでも増殖していくからである。

 「書物」という作品が後半に出てくる。

この地には、一冊の書物が存在する。

 書き出しである。重要なのは「一冊」の「一」である。「宇宙」と「夢」は、ことばとしては別個の存在である。それは、「宇宙とはそれ自身の夢のことである。」と言う形で「一」として「定義」された。そのとき書かれなかった「一」が、ここで書かれている。この「一」は、二つを一つといっているわけだから、「矛盾」と言い換えることもできる。
 ただし、このときの「二つは一つ」というのは「対立」ではない。
 「一」であるけれど「一」ではない。「多」である、という形の「矛盾」である。一即多、多即一、という形の「ことばの見かけ」の矛盾であり、「一」とは「一即多、多即一」という「対」のことなのである。言い換えると「対」という概念をもってくると、それは「矛盾」ではなく、別の「論理」になる。
 「論理」とは「脳」が「脳」自身の都合に合わせてつくりだす「夢」であり「宇宙」であり、「ことば」そのものである。
 あ、また、余分なことを書いたか。
 端折る。

書物は入れ子構造になっていて、どのページを開いてもそこから小
型の書物が出てくる。これにもいたるところに紙が貼りつけてあっ
て、宇宙の細目につていのすべてが書かれている。こうなると、も
はや、書物はそのまま一つの宇宙だといってもよいだろう。

 「一即多、多即一」というのは「入れ子構造」とは違うと私は感じているが、それは「脇」においておいて、私が注目するのは「構造」ということばである。「構造」が高柳のキーワードであると私は思う。(私は「対」という「ことば」を利用したが、高柳は「構造」という「ことば」を利用する。)
 高柳の世界のすべては「構造」という「一つ」のことばのなかへ結晶していく。宇宙と夢、夢と宇宙は、「宇宙の夢」「夢の宇宙」という形で「一つ」の「構造」になる。相互に浸透し、入れ替わる。高柳は「入れ替わる」とは言わずに、いくつもの「層」に重なりあうと言うだろう。その重なりが「入れ子」なのだが……。

 あ、またまた余分なことを書いてしまう。
 もう一度、端折る。「書物」にもどり、「構造」について言いなおしてみる。
 「書物は入れ子構造になっていて」は「書物は入れ子になっていて」と書いても「意味」は通じる。「入れ子」というものがすでに「構造」だからである。でも、高柳は「構造」と書いてしまうのである。「入れ子」だけでは「構造」が「意識」されない。「意識」されないまま「肉体」のどこかにもぐりこんでしまう。
 逆に言うと、「意識化する」ということが高柳のことばの運動なのである。「構造を意識化する」。存在がどういう「構造」でなりたっているか、それを「ことば」にする。そのとき、そこに高柳の「詩」が姿をあらわす。「詩」という「宇宙」になる。
 前に戻って言いなおすと、「一即多、多即一」というのは、私の感覚では「構造」ではない。「構造」として「意識化」できない「かたまり」である。「構造」が見えてこない、構造がことばにできないのが「一即多、多即一」。矛盾してしまうことばが「一即多、多即一」なのである。
 でも、高柳は「構造」を解明する。この運動を「明晰」と言ってもいいし、「うるさい」と言ってもいい。
 「入れ子構造」という作品もある。

今や、ついにわれわれを取り巻く世界の構造が、いや、宇宙そのも
のの構造が見えてきた。この宇宙は、すべて入れ子構造でできてい
る。

 この作品について書くべきだったのかもしれないが……。
 この作品では、高柳は「すべて」に「入れ子構造」を発見しているというよりも、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめている感じである。「すべて」に「入れ子構造」を発見することと、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは、結果的に「同じ」になるかもしれないけれど、ほんとうは違う。
 「すべて」に「入れ子構造」を発見することは、そのつどの「発見」であるが、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは「発見」ではなく、わかっていることの積み重ね、既成の運動の拡張である。
 すでに「わかっている」だけに、「構造」は補強し合っていっそう強固になる。強固になる「構造」が高柳の詩であり、その最終到達地点は「構造」というよりも「強固」というものかもしれない。「構造」を明確にする「強固なことば」、その「強固さ」に高柳の独立性がある。「構造」はどこにでもある。「構造」は独立性を競いようがない。しかし「強固性」はそれぞれ異なる。高柳は、ことばの強固を生きるのである。

 「生命体H」という作品が何篇かある。人間を描いている。そのとき「人間」をどの「構造」でとらえつづけるかによって、作品の世界が違ってくる。ある「構造」で、ある「局面」を描きつづける。横道にそれない。「構造」そのものも「運動」であるかのように、「構造」を持続し、そうすることで「構造」がさらに強固になる。
 それがおもしろいといえば、おもしろい。窮屈といえば、窮屈。
 「詩集成1、2」と、高柳の作品をたくさん読みすぎたために、なんとなく「窮屈」の方が大きく感じた。「強固」でなくてもいいのではないのか。「構造」が破綻していくとき(崩れていくとき)に見える、それまでの「強固」の「残像」のようなものを描いてもおもしろいのではないか、と夢想するのである。
 違う日に読めば違った感想になるかもしれないが。

放浪彗星通信
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自民党の「たたき台」を読む(3)

2017-06-23 19:13:11 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(3)
               自民党憲法改正草案を読む/番外93(情報の読み方)

 21日明らかになった自民党の憲法改正案の「たたき台」(西日本新聞2017年06月22日朝刊)についてもう一点、書いておこう。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「解釈してはならない」という「禁止」は憲法の他の条文と整合性がとれない。
 「解釈する」というのは「頭」の仕事である。「理性」とか「精神」という具合に言い換えても言い。「内面」の問題、「思想」の問題である。
 「国(権力)」が「自衛隊」を設ける。そのとき、「自衛隊は戦力であるから、自衛隊を設けることは憲法に反する。憲法に反するから設けてはいけない」と、たとえば私が主張する。
 「自衛隊は憲法に反する」「憲法第9条は自衛隊を認めていない」と「解釈する」。それを「禁止している」。
 何を(どのことばを)どう「解釈する」かは、個人によって違う。その「違い」を自民党の「たたき台」は禁止している。それまで「主語」であった「日本国民」をおしのけて、「日本国民」に命令している。
 これをいったん許せば、あらゆる「解釈する」ということが禁止される。
 「アベノミクスは失敗した」と「解釈する」ことは許されず、「アベノミクスは道半ばである」と「解釈する」ことだけが許される。「安倍昭恵には公費で秘書がついている。活動に公費がつかわれている。だから公人である」と「解釈する」ことは許されず、「安倍昭恵は私人である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止ということになる。「そもそもは基本的という意味である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止される。
 これはすでにおこなわれている。いまのところ「閣議決定」は「反論」を禁止してはいない。「解釈してはならない」とは言っていない。「閣議決定」は「こう解釈する」ということを宣言しているだけだが、これは即座に「解釈してはならない」ということにかわる。

 何を、どう「解釈する」か。これは「頭」(精神/理性/思想)の問題であるから、「頭」を鍛える「教育」とも深く関係してくる。
 今回の「たたき台」では「教育の無償化」は問題としては取り上げられていない。もっぱら「憲法9条」と「自衛隊」が問題にされているが、「教育」についても注意しなければならない。
 「無償化」を前面に押し出しながら「思想の自由(どう解釈するかの自由)」が制限される恐れがある。「ある解釈」が「禁止される」ということが起こりうる。
 たとえば「教育勅語は、親や兄弟をたいせつにすること、道徳の基本を解いたものである」という「解釈」は許すが、「第二次大戦を遂行するときの思想的基盤になった」という「解釈」は許さない、という具合だ。
 政権を批判する、政権のやっていることを批判的に「解釈する」ということも禁じられるだろう。政権のやっていることは「正しい」。それ以外は「間違っている」という「解釈」だけが存在する世界になる。
 つまり「独裁」になる。
 「解釈してはならない」ということばは、「独裁政権」を推し進める。

 すでに「解釈の限定」(こういう解釈はしてはいけない)は安倍によって先取り実施されている。(たとえば「そもそも」の「意味の閣議決定)。それは「笑い話」のように受け入れられ、存在してしまっている。閣議決定の取り消しはおこなわれていない。
 そういう「小さい穴」が「大きな落とし穴」になっていく。

 現行の憲法は第十九条で、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定している。「解釈してはならない」はこの十九条に違反する。日本国民が、あらゆることに対して、それぞれの「解釈をもつこと(解釈をすること)」は憲法で保障されている。「国(権力)」それを「侵してはならない」と禁止されている。
 この禁止を、自民党の「たたき台」は破っている。
 「たたき台」だから、今後かわるのかもしれないが、こういう「たたき台」を出してくるところに、安倍自民党の「本音」が隠れている。日本国民が、それぞれの立場でそれぞれの「解釈をする」(考えを持つ、思想を持つ)ということを禁止したいのだ。
 究極の「独裁」をめざしている。
 安倍が総理大臣のまま「自衛隊」の「指揮監督権」の「最高責任者」になったとき、その「自衛隊」が武器を向けるのは外国からの侵入者である前に、国内の安倍批判をする人に対してであろう。中国で起きた「天安門事件」が必ず起きる。戦争法審議のときは「自衛隊」が出動しなかったから「天安門事件(国会議事堂前事件)」にならなかったが、憲法に「自衛隊」が組み込まれれば、安倍は絶対に「自衛隊」を出動させるだろう。「自衛隊は国の安全を守るためのもの、国の安全が脅かされるときは出動しなければならない」という理由で。そしてこのとき「国の安全」とは「政権の安全」なのである。「国=政権=安倍」という「解釈」以外は、当然、そのとき禁止されている。「国民に主権がある」という「解釈」も禁止されている。
 「解釈してはならない」ということばを見落としてはならない。



#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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自民党の「たたき台」を読む(2)

2017-06-23 09:07:59 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外92(情報の読み方)

 前回書き漏らしたことを追加する。(私は目が悪くて40分以上パソコンに向かうと、文字が書きづらくなる。一回あたり40分をめどに書いているので、どうしても書きそびれることがある。)
 前回は、自民党の憲法改正の「たたき台」では「主語」が「日本国民(私)」から「内閣総理大臣」にすりかわっていることを指摘した。現行憲法では「主語(主役)」は「日本国民」で一貫している。自民党の「たたき台」は、これを「内閣総理大臣」にすりかえている。しかも途中に「主語(内閣総理大臣)」を隠した文章をはさみ、読んだ人が無意識に(?)頭のすみで「内閣総理大臣」を思い浮かべるのを待って、「主語」を「内閣総理大臣」にかえるという「詐欺行為」のようなことをしている。
 今回書くのは「文民統制」のこと。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 この「たたき台」の「2」の方を中心に書く。
 「自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。」だけを読むと、「自衛隊」は「国会の承認」のもとに動く、「国会(国民の代表が議論して決めた結論)」に従って動くように読むこともできる。
 しかし、この部分は「補則」である。その前に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し」とある。「内閣総理大臣が指揮監督をする。内閣総理大臣の指揮監督が最高のものである」と書いている。
 これは順序が逆でなければ「文民統制」にならない。
 「国会(国民の代表)」が「自衛隊の行動」を「指揮監督するための法律」をつくる。その「法律」に従って「自衛隊」は行動する、という形にならないといけない。「内閣総理大臣」が「指揮監督をする」にしても、それは「国会」で決めた「法律」に従って「指揮監督をする」のである。つまり「内閣総理大臣」は「法律(国会で決めたこと)」を実践するだけである。「国会」の「下請け」でなければならない。
 自民党の「たたき台」は、これを逆転させている。「独裁」を許している。「独裁」を保障している。
 西日本新聞(2017年06月22日)はこの部分に関して、

自衛隊法にも首相が自衛隊の指揮監督件を有するとした同様の規定がある。

 と自民党の「たたき台」を「肯定的」に書いているが、この「評価」は「憲法」と「自衛隊法」の位置づけを間違えている。「自衛隊法」があって「憲法」があるのではない。「憲法」があって、その下に「自衛隊法」がある。「自衛隊法」は「憲法」を逸脱してはならない。(どのような法律も憲法を逸脱してはならない。)
 憲法では「国会(立法府)」が最高機関である。法律をつくる。その法律に従って「内閣(行政府)」が行政を行う。裁判所(司法)は、その「行政」に「憲法違反がないかどうか」をチェックする。あるいはいくつもの法律が憲法に違反しないか、法律同士、齟齬をきたさないかチェックする。(もちろん「行政」だけでなく、「国民」が法律違反を犯さないかもチェックするけれど。)
 これは現在の「国会」と「内閣」「自衛隊」の関係をみればわかることである。
 「自衛隊」が「海外」へ出兵する。(「自衛隊を派遣する」と安倍は言っている。)そのとき安倍(内閣総理大臣)が命令したから出兵するのではない。その前に「国会」で「自衛隊が出兵するための根拠となる法律」が制定される。その法律に従って「自衛隊が出兵する」。「国会」の審議が安倍独裁のままにおこなわれているため、「国会」は何もしていないように見えるが、それでも「手続き」はきちんと踏まえられている。「国会」が「法律」を決め、その「法律」にもとづいて「自衛隊の出兵」が命令されている。「自衛隊」の行動に対する指揮、監督がおこなわれている。
 自民党の「たたき台」は、こうした今のあり方を否定するものである。

 言い換えると。
 自民党の「たたき台」は「自衛隊」を憲法に書き加えるということを通して、いまの憲法そのものを否定している。「国民主権」を否定し、「内閣総理大臣の独裁」を後押しするものである。
 「たたき台」は「憲法違反」である。

 ことばというのは、どういう順序で書くか、ということが重要である。最初に書かれていることが優先し、そのあとに書かれていることは「補則」である。ことばは完全なものではない。一度では全てを言い表せない。だから人は「追加」「追加」(補則、補則)という形でことばを補う。
 そのとき「補則」があるからそれでいいというものではない。
 実際に何かあったときは、書かれている順序で、行動は制限される。最初に書いてあることがいちばん重要なのだ。
 だから憲法は

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

 と最初に「主語」を「日本国民」と定義し、それから「国会」という具合にことばをすすめている。

 マスコミの仕事は、「権力」の代弁ではない。「権力」が隠していることをチェックすることである。
 「自衛隊法も首相の指揮監督権を有する」という規定があるなどと、簡単に自民党に騙されるのはなさけない。「憲法」と「自衛隊法」の関係(どちらが優先するか)を無視して、「自衛隊法」に認められているから「憲法」もそれに従うというのでは「憲法」の意味がない。
 「自衛隊法」は「憲法」の下にあって、「自衛隊」のなかで完結するものである。「自衛隊法」で認められていることが、他の分野にまで適用されるわけではない。いったん「国会」で法律がきまったら、その法律にもとづいて「内閣総理大臣が指揮監督をする権利を有する」ということを、「内閣総理大臣が指揮監督権を有する」という部分だけを取り出してきて、「同様の規定がある」と言うのは安倍の「口車」に乗ったものである。安倍の改憲「手口」の片棒を担ぐものである。

(「自民党の「たたき台」を読む」という文章もお読みください。今回の文章は、そのつづきです。)

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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自民党の「たたき台」を読む

2017-06-23 00:56:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む
               自民党憲法改正草案を読む/番外91(情報の読み方)

 西日本新聞2017年06月22日朝刊に自民党憲法改正推進本部がまとめた「たたき台」が掲載されている。
 それによると、現行の

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

に、「9条の2」を新設するというのも。その「9条2」は以下の通り。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「新設項目」のどこに問題があるか。私は「主語」と「動詞」にこだわって考えてみる。
 まず現行憲法では「主語」が「日本国民」である。
 第1項目では、「日本国民」は「国際平和を希求する」(動詞)、「日本国民」は「戦争と」「武力行使は」「放棄する」(動詞)と明確に語っている。
 第2項目で「戦力は、これを保持しない」と書いている。「戦力は」というのはテーマである。これを「日本国民」は「保持しない」(動詞)。さらに、「国の交戦権(テーマ)」については、「日本国民」は「これを認めない」。「日本国民」が「国」に対して「認めない」と言っている。言い換えると「日本国民」は「国」に「戦争をさせない」と言っている。
 主語は一貫して「日本国民」である。「日本国民」は「戦争を放棄する」、言い変えると「日本国民」は「国(政府)」に「戦争をさせない」と言っている。「国」に対して「禁止事項」を申し渡している。
 そしてこのときの「日本国民」というのは「抽象的」な存在ではない。「概念」や「ひとの集まり」ではない。それは、私たちひとりひとりである。言い換えると「私」である。「日本国民は」と書かれている部分はすべて「私は」と読み替えることができるし、そうしなければならない。憲法は「国」のありかたの基本であると同時に、ひとりひとり、つまり「私」の生き方の指針なのだ。
 「私」は「平和を希求する」、「私」は「戦争を放棄する」、「私」は「国の交戦権を認めない」。「国」よりも「私」の方が偉いのだ。「私」は国の言うことなど聞かなくてもいい。しかし「国」は「私」の言うことを聞け、というのが「憲法」の理念である。「主権」は「国民」、つまり「個人」にある。

 自民党の「たたき台」では、この「主語」が「日本国民」ではなくなる。
 9条の2。「前条の規定は」……「解釈してはならない」。というのは、現行憲法の「文体」にあわせて考えると、「前条の規定(テーマ)は」、「これを」「国は(権力は)」「……と解釈してはならない」なるべきである。しかし、そういう「意味」ではない。自民党の「たたき台」は、「戦争を放棄する」と主張している「日本国民」に、つまり「国に戦争をさせない」と国に禁止事項を言い渡している「日本国民」に対して「解釈してはならない」と逆に禁止事項を設けているのだ。
 そして、この条文には「だれ」が「主語」なのか書いていない。「だれが」日本国民に対して「解釈してはならない」と禁止を命じてているのか、書かれていない。これが大問題である。自民党の「たたき台」の「罠」である。書かないことで「ごまかしている」。
 その前に「自衛隊を設ける」という「動詞(設ける)」が出てくる。「だれ」が「自衛隊を設ける」のか。「主語」は「日本国民」ではない。「私/個人」は「自衛隊を設ける」ということなどできない。「戦争を放棄している」「戦力の保持を否定している」「日本国民」が「自衛隊」を「設ける」というのは、完全に矛盾している。「戦争を放棄していない」誰かが「自衛隊」を「設ける」のである。
 「個人」ではなく、もっと大きな「組織」が「自衛隊を設ける」。そして、この「自衛隊を設けた」だれか(組織のリーダ)が、「日本国民/私/個人」に対して「解釈してはならない」と命令している。
 「だれ」が「日本国民/私/個人」に命令する「権利」を持っているのか。これを隠したまま、自民党の憲法改正案は動いている。「日本国民/私/個人」を否定している。さらに、その「自衛隊」というものが「日本国民」を集めることで成り立っているのだとすれば、それは「徴兵」ということになるだろう。「日本国民/私/個人」がおのずと集まってきて「自衛隊」を「組織する」のではない。「誰か」が「自衛隊」を「設ける」。「設ける」ために人を集める。「徴兵する」のだ。
 9条の2の2。ここに突然「内閣総理大臣」が出てくる。「日本国民」が「国」の「行動」を縛る(国に対して禁止事項を決める)のが憲法なのに、「日本国民」によって「権能」を制限されるはずの「国/内閣総理大臣」が突然「主語」になる。
 ここから引き返して「9条の2」を読むと、

前条の規定(テーマ)は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を「内閣総理大臣が/国が」設けることを「日本国民が」妨げるものと、「日本国民」は解釈してはならない「と、国は禁止事項を日本国民に申し渡す」。「戦争の放棄を国に対して要求する日本国民」は、「自衛隊が戦力であると主張したり、自衛隊を設けようとする内閣総理大臣の邪魔をしたりしてはいけない」と言っているのだ。

ということになる。
 「日本国民/私/個人」に異議申し立てを禁止して、そのうえで「内閣総理大臣」は「最高の指揮監督権を有する」という。「有する」という「動詞」は、そこでおこなわれることを「あいまい」にする。「抽象的」にする。「最高の指揮監督権を有する」は、「内閣総理大臣」は自分が思うままに、「自衛隊」を「指揮、監督する」である。だれにも文句は言わせない。絶対権力者として「指揮、監督する」のである。「権力/権利」を持っているだけではなく、「権力/権利」はいつでも「つかわれる」ものである。「権力/権利」を「内閣総理大臣」がつかうことを、自民党の「たたき台」の条文は保障している。
 これでは「憲法」ではない。これでは「内閣総理大臣」の「独裁」の「認可証」である。
 自民党は、単に「自衛隊」を憲法に「認知させる」(憲法の中に組み込む)ことを狙っているのではない。「内閣総理大臣」による「独裁」を保障しようとしている。「日本国民」の「権利」は無視されている。いや、剥奪しようとしている。
 「自衛隊」の全体的な権力で指揮、監督するのが「内閣総理大臣」なら、その「自衛隊」を「設ける」ために「日本国民」を「徴兵する」のも「内閣総理大臣」である。なぜなら、「自衛隊」を理想の形で指揮、監督するためには、それにふさわしい「人間」をあつめなけれはならない。「人間」がいないことには「自衛隊」は存在し得ない。「最高の指揮監督をする」には、まず「徴兵」からはじめないといけない。「自衛隊」を「設ける」ところからはじめないといけない。

自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 と付け加えても意味はない。「最高の指揮監督権」は「内閣総理大臣」にある。「国会の承認」など「お飾り」である。「国会」は自衛隊を「指揮監督する(動詞)もの」ではないのだから。

 私たちは「前文」から読み返さないといけない。「前文」と「本文」が整合性をもっているかどうか、そのことを調べてみないといけない。
 現行憲法は、こう書いている。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 「主語」はいつでも「日本国民」である。それは「われら」ということばで言い換えられているが、私たちはそれを「複数」ではなく、「私」と読み替え、「個人」としてそれを実践しなくてはならない。憲法は行動指針である。憲法は「国」のためのものではなく、「個人」のためのもの。「内閣総理大臣」のためのものではなく、「私」のものなのだ。
 「憲法」は「私のもの」である。だから私はそれを「内閣総理大臣(安倍)」などには渡したくない。

 憲法の「前文」というのは「理念」である。言い換えると「抽象的」なものを含んでいる。だから、その「抽象的」な部分を、「本文」で具体的に言いなおしている。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、」から始まる段落を言いなおしたものが「第2章戦争の放棄」であり「第9条」である。
 自民党の「たたき台」を付け加えてしまうと、憲法の「理念」が成り立たない。矛盾してしまう。

 今回の「たたき台」には含まれていないが、安倍が5月3日の読売新聞で「憲法改正」を宣言したときには含まれなかった「緊急事態条項」が自民党の改憲検討項目に入っている。安倍がこっそりと付け加えた。その「緊急事態要項(自民党憲法改正案)」では、「内閣総理大臣」の「権限」が強化されている。
 安倍がもくろんで憲法改正は、「内閣総理大臣」が全体権力者として君臨するためのもの、日本国民の自由を奪い、独裁政治をすすめるためのものである。独裁者になって戦争をしたい、というのが安倍の欲望である。


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金井裕美子「三月の、海」

2017-06-22 09:31:54 | 詩(雑誌・同人誌)
金井裕美子「三月の、海」(「季刊詩的現代」21、2017年06月発行)

 金井裕美子「三月の、海」はとても静かな詩である。

藤沢から
三両編成の電車に乗った
軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ
ここから見える景色が好きだ
あなたの指さした先には
三月の、海
雨がふっていて
銀鼠色にかすんでいるから
どこまでが海で
どこからが空なのか
すぐそこなのか遠いのか
わからない

 こういう風景は(あるいは、こういう風景を見る体験)は特にかわったことではないだろう。それが淡々と書かれている。「銀鼠色」が少し「詩」っぽいかなあ。詩の気取りがあるかなあ、という感じ。でも、うるさくない。読む先から「肉体」のなかに入ってくる。こういう風景を見たことがある、あれに似ている、と思い出すのである。
 しかし、この先が、少しつまずく。

じっとみていると
わからなくてもよくなって
あなたの海を
そっと内側に移した
こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも
かすんでいる
終の駅まで
ただ膝をならべてゆれて

 うーん。「あなたの海を/そっと内側に移した」。これがわかりにくい。わかりにくいと同時に、わかりにくいからこそ、これがいちばん言いたいことなんだろうなあ、と感じる。
 こういうことは、詩ではなく、現実にもある。
 誰かが、ほんとうのことを言う。それはそのひとだけのことばなので、それを「論理的」に言いなおして納得するのはむずかしい。でも、あ、これは言わずにはいられないのだ。その「言わずにおれない」という気持ちが「わかる」。いや「わかりたい」という気持ちが「わかる」を追い越して、そのことばへ近づいていく。
 「内側に移した」の「内側」が、特に、その印象が強い。「わからない」けれど「わかりたい」。「外側」は雨と海。「内側」は「電車の中」。単純に考えるとそうだけれど、「外側」を「内側」に「移す」ということは、できないなあ。「海を」「電車の内側に移す」というのは「現実」にはむり。その「むり」を書く気持ちにぐいと引きつけられる。
 もういちど、前のことばを読み返す。「あなたの海を」と書いているが、ここにはことばの省略がある。あなたの「指さした」海、である。そこでは重要なのは、書かれていない「指さした」である。「あなたが指さした」のである。「ほら、海だよ(この海が好きなんだよ)」と「指さした」。「指さした」ことを、金井は思い出しているのだ。「海」ということばで終わっているが、重要なのは「海」ではなく書かれていない「指さした/あなた」だ。
 その「思い出」を、いま「自分の内側に」移した、と読んでみる。あなたが「指さした」、そして「好きだと言った」ということを自分の「内側」で思い出してみる。確かめてみる。そういうことを「内側に移した」と言っているのではないだろうか。「そっと」というのは、自分一人で、だれにも語らずに、ということだろう。
 「指さした」ということばが省略されているのはなぜか。最初に引用した部分に「あなたの指さした先には」ということばがあるから省略したのだが、それだけではない。あなたが「指さした」ということが金井にはわかりきったことだったからだ。金井の「肉体」のなかにはっきりと記憶されている。ことばにしなくてもわかっている。だから省略してしまったのだ。あなたが「指さした」ということ、あなたの「肉体の記憶」が金井にははっきりと残っている。金井は「あなた」になって「指さす」という動きを確かめている。一人二役。「指さすあなた」「指さされたところを見つめる私」。それは、ことばにする必要がない。金井には「わかりきっている」。

 少し逆戻りしてみる。最初に引用した部分。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ

 ここにも省略がある。省略を補うと、こんな具合か。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
(走り抜ける)
やがて
ゆるい左カーブ
(走り抜ける)

 「通り抜ける」でもいい。そこには「時間の経過」がある。「走る」という動きの中に時間がある。時間がすぎる、と言い換えることもできる。
 「時間がすぎる」は「過去になる」ということでもある。そしてそのことは、「時間はすぎて過去になる」が、変わらないものもあるという感覚をも呼び覚ます。「風景」は変わらない。海は変わらない。「あなたの指さした海」は、いまも、そこにある。そして、そこに海があるなら「指さしたあなた」も「いま/ここ」にいるのだ。
 「あなたの指さした」は「いま」のことではなく「過去」だけれど、忘れた過去ではなく、いまもはっきりと思い出すことのできる過去。過去というよりも「いま」そのものの感じ。「いま/ここ」なのだ。
 過去か、いまか、わからない。
 わからないではなく、「わからなくてもよくなって」かもしれない。

 そう読み直すと、

こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも

 は「内側」「外側」ではなく、もっと違ったものに感じられる。「こちら」が「内側」、「あちら」が「外側」ではない。どうしても「こちら=此岸」「あちら=彼岸」と感じてしまう。「こちら」でいっしょに生きているとき、海を指さすその指を見ているとき、「あのよ」なんて思いもしない。また「こちら」にいるというのは「あちら」から帰ってくるということ。「思い出す」時、あなたは「こちら」にいて、「あちら」にはいない。「あちら」がある、「あちらにいることになる」ということなんか考えない。
 そしてまた、実際に「こちら」「あちら」にわかれてしまっても、思い出すそのとき「あちら」は「内側=こころ(肉体のなか)」そのものになる。「こちら」「あちら」の区別はなくなる。区別が「かすんでいる」。
 思い出をいつまでも抱いて、「終の駅」まで、と思っている。

 こんなことを、金井は、くどくどとは書いていない。金井にはわかりきっているから、ことばを省略して書いている。その省略が詩を強くしている。私の感想は、その詩の強さを弱めてしまうことになるかもしれないけれど、ついつい書いてしまう。
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フランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(★★★★)

2017-06-21 20:59:26 | 映画
監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール

 男二人に女一人。
 この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
 途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
 しかし、うーむ、と私は考える。
 この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
 これって、どういうこと?
 なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
 キーワードは「傲慢」だろうなあ。
 オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
 そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
 男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
 で。
 で、なのである。
 フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
 ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
 私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
 あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
 でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。

 あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。

 どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
       (「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)

 *

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「おしりを切る」

2017-06-21 08:57:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「おしりを切る」
               自民党憲法改正草案を読む/番外90(情報の読み方)

 「加計学園をめぐる文書」がとてもおもしろい。萩生田官房副長官「ご発言要旨」(2016年10月21日)だが、そこに私には耳慣れないことばがある。(引用は、2017年06月21日読売新聞朝刊(西部版・14版)は2面から。2017年06月20日の毎日新聞夕刊(西部版・4版)は文書の写真そのものを載せていた。)

総理は「平成30年(2018年)4月開学」とおしりを切っていた

 「おしりを切る」という表現がおもしろい。期限を切っていたくらいのことは言うが、私はそういう言い方をしないし、聞いたこともない。私はそれが「お尻を切る」とは、最初は読めなかった。「おしり」が「期限」と気づくまでに数秒かかった。
 で、ここがポイント。
 政治家や官僚のあいだでは期限を切る(締め切りを設ける)ことを「おしりを切る」と言うのかどうか。だれが、そういうつかい方をしているか。それを「他の文書」と比較すれば、発言者が誰かわかる。
 交渉の過程で「〇日までに」という「期限」は頻繁に登場するはずである。そのとき、それを「おしりを切る」という言い方で言うのは誰か。安倍はそう言うのか。安倍が「平成30年4月までに」と言ったのを、誰かが「おしりを切る」と言いなおしたのか。
 これをぜひ調べてもらいたい。

 この文書については、萩生田が、

文書は、文科省の一担当者が伝聞など不確かな情報を混在させて作った個人メモだと文科省から説明とおわびがあった。不正確なものが作成され、意図的に外部に流されたことに強い憤りを感じる。

 と語っている。
 「不正確」ということだが、「不正確」というのは、どこかに「正確」な部分もあるということだろう。全くの「捏造」なら「不正確」ではなく、「捏造されたもの」、それこそ「怪文書」と即座に否定されるだろう。
 でも、そういう表現を文科省も萩生田もしていない。
 全部ではないが、「一部」は萩生田独自のものである。聞いたことを書いたのだから、テープレコーダーのように正確ではないかもしれないが、「ほんとう」が含まれている。
 で、いちばんの「核心」は、やはり

おしりを切っていた

 である。
 こういうことばは「捏造」できない。「口癖」は、そのひとのものである。
 この「おしりを切る」は萩生田独自のものではないのか。
 他の人のつくった、他の件に関する「萩生田ご発言概要」に「おしりを切る」があれば、これは絶対に萩生田の発言をまとめたものだということになる。文科省に限らず、あらゆる省庁の文書を調べ「おしりを切る」をピックアップしてもらいたい。
 野党は、それを要求してほしい。マスコミも、それを独自の手段で調査してほしい。


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ルキノ・ビスコンティ監督「家族の肖像」(採点不能)

2017-06-20 11:00:47 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、シルバーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー

 06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
 「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
 どこが傑作か。
 映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
 もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
 あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
 そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
 よくわからない。
 けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
 あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
 いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
 バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
 うーん。
 途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
 これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
 これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
 部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
 後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
 他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
                      (KBCシネマ2、2017年06月18日)

 *

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安倍の手口(国会閉会記者会見)

2017-06-20 09:56:40 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(国会閉会記者会見)
               自民党憲法改正草案を読む/番外89(情報の読み方)

 2017年06月20日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面で安倍の記者会見を報道している。

首相「加計」対応を陳謝/国会閉会で会見 「国民不信招いた」

 その「陳謝」というのは、加計学園、森友学園問題を念頭に、

「国会は建設的議論という言葉からは大きくかけ離れた批判の応酬に終始した」と指摘。そのうえで「(野党の)印象操作のような議論に、つい強い口調で反応してしまう私の姿勢が、政策論争以外の話を盛り上げた。深く反省している」と述べた。

 ということらしい。
 加計学園、森友学園問題を質問することが「建設的議論」からどうしてかけ離れるのだろうか。安倍がふたつの学校に便宜を図っている。安倍の「意向」で政策がきまるなら、国政は安倍の思うがまま(独裁)になる。独裁を許していいのかどうかは国の基本である。そして、それは「政策論争以外の話」でもない。実際に多額の金が動いている。「国の予算(国民の税金)」が動いている。国民が損失を被っている。(被る恐れがある。)それが「政策以外の話」とどうして言えるのか。
 野党の質問は、安倍がしたことへの「疑惑」を追及しているのであって、単なる批判ではない。
 安倍は「批判の応酬」ということばをつかっている。「応酬」というのは一人でできるものではない。複数の人間(主張)が必要である。野党は安倍の「疑惑」を追及した。これに対して安倍は「野党は印象操作をやっている」と応酬した。安倍が野党の批判に対して批判のことばを返すのではなく、問題点をきちんと答えれば「批判の応酬」ではなく「建設的議論」になった。野党に責任があるのではなく、質問に答えず野党を一方的に批判したことに問題がある。

 しかし、ばかげている。安倍は

「何か指摘があれば、その都度、国会の開会、閉会にかかわらずわかりやすく説明していく」と理解を求めた。

 と読売新聞は書いている。
 もしそれがほんとうなら「記者会見」ではなく、国会議員の質問に答えるべきである。「記者会見」ではなく「国会議員会見」を開くべきである。
 国会議員は国民の代表である。マスコミの記者は企業の一員であって、彼らを国民が選んだわけではない。企業が企業の基準に合わせて選んだ人間に過ぎない。国民が選んだ人間の前で、きちんと対応すべきである。
 記者会見に出席し、質問を「許された」のが誰なのかわからない。読売新聞は記者の質問を掲載していない。だが、その会見場に誰もが入れるわけではない。誰もが質問できるわけではない。これは、予め記者が「選定」されているということだ。そしてその選定には、国民は一切かかわっていない。国会議員は、国民が選んだのに対して、「記者会見」に出席した(出席できた)記者は国民が選んだものではない。
 私は全部の「応答」を見たわけではない。聞いたわけではない。しかし、私が聞いた限りでは、記者は「なぜ、国会で謝罪しないのか。なぜ、国会で質問に答えないのか」とは問いかけていなかった。
 「共謀罪」の審議打ち切り、強行可決について、「なぜ、国会の会期を延長しなかったのか」「なぜ、加計学園問題について国民が疑惑をもっているのに、国会の場で問題が明確になるまで議論をしなかったのか」と問いかけていない。
 国民がいちばん知りたいのは、そこである。
 なぜ、疑問が噴出しているのに国会を閉会したのか。「国民不信を招いた」「深く反省している」というのなら、なぜ、いまから国会を開かないのか。臨時国会を開けばいいではないか。記者会見ではなく、国民の代表である国会議員の質問に答えればいいではないか。
 大勢の記者がいて、誰一人としてそのことを質問しない。
 民主主義が否定される現場にいて、民主主義が否定される瞬間を、多くの記者が「肯定」している。民主主義の破壊、独裁に加担している。
 都議選や憲法改正、内閣改造(人事)、日露交渉などについて質問した記者がいたが、まず質問すべきは「なぜ、国会審議を強行に中断したか」だろう。
 「自分はこんなに国政のことを考えている」と宣伝するための気取った質問ではなく、マスコミの記者なら、もっと泥臭いことを質問しろ。国会議員がしないような、もっと庶民感覚に根ざした質問、国会では質問できないことを聞くべきである。あ、そういう質問の仕方があるのか、と聞いている人がびっくりするような質問を考え出すべきである。そうやって金を設けるのが企業の論理というものだろう。権力に擦り寄って、安倍が言いたいことを言わせるための質問など、自民党と公明党の議員に任せておけば十分である。

 5月、安倍が憲法改正について読売新聞のインタビューに応じ、国会で「読売新聞を読め」と言った。私はそのときたまたま海外旅行中だったのだが、聞いた瞬間、「あっ、国会解散だ」と思った。首相が民主主義を否定した。国会は国民の代表が議論する場所である。そこで国会議員に対して質問に答えずに、「新聞を読め」と言った。国民の代表である国会議員が質問したら、首相はそれに答える義務がある。質問しているのは議員ひとりではないのだ。その背後に何万人もの国民がいるのだ。そのひとたち全てに対して「読売新聞を読め」と安倍は言ったのだ。
 だいたい「読売新聞を読め」というが、それはどこにあるのか。誰もが無料で読めるのか。読むための新聞は誰が提供するのか。視覚障害者のために、誰が読んで聞かせるのか。国民に買えというのなら、その予算はどうするのだ。首相が一企業の商品を国民に強制するのは、なぜなのか。「安倍インタビューに対する反論は赤旗に書いてある。これも政府の予算で買い上げて国民に配布してもらいたい」と共産党が言ったら、安倍はそのための予算を組むのか。読売新聞は読みたくない、という人にはどう対応するのか。思想として読むことを拒否しているひとに読むことを強制すれば、思想・信条の自由を保障した憲法に違反する。--いろんな論点から安倍の発言を批判し、問題点をあぶりだすことができるのに、野党はそれができなかった。
 「自分の声」に忠実に生きるなら、「ことば(批判)」はどこまでも多様性を持つ。多様性こそが民主主義なのに、多様性を表現する方法を野党も見失っている。

 「読売新聞を読め」に私はカーッと来たが、あのときは「直接的」にニュースを知ったわけではないので、まだ冷静だった。きのうはテレビで記者会見を聞き、ほんとうに頭に血が上った。仕事中だったのだが、仕事が手につかなかった。テレビに向かってものを投げつけたくなった。
 安倍にこびる記者を直接見て、ほんとうにぞっとした。

 私は思いついたままなんでも書くので、同時になんでも書き忘れてしまう。「共謀罪」について、これまで書き漏らしたことを書いておく。
 安倍は記者会見で、「テロ等準備罪法はテロ対策に不可欠で適正な運用に努める」(読売新聞の要約)と語っている。だが、この法律は日本の法律。いま、世界で起きているテロの実行犯は日本人ではない(と思う)。日本に支援組織があって、彼らを支えているわけではない(と思う)。この法律が東京五輪開催に不可欠と安倍は言ったのだが、東京五輪で想定しているテロとはどんなものなのだろうか。日本人が起こすテロ? 今起きているテロの首謀者は「イスラム過激派」と見られている。彼らの動きを規制するのに、日本の法律がどれだけ有効なのか。国際社会と連携して、というけれど、日本の法律を外国にまで適用することはできない。
 私はなんでも現実的に、つまり自分の知っている範囲で考えるので、安倍が言っていることは信じられない。日本の法律で外国のテロリストを取り締まることはできない。だとすると、外国人が東京五輪を狙ってテロを仕掛けてきたとしても、その「準備段階」を摘発できない。実際に犯人を拘束できるのは、東京五輪でテロが起きて、その犯人が日本にいるときにだけである。法律の狙いは、「イスラム過激派」には適用されない。
 言い換えると。
 この法律は外国人による東京五輪テロを封じるためではなく、日本人の行動を規制するためのものにすぎない。法律を成立させるための名目に東京五輪がつかわれたということは、日本人を規制するために東京五輪という名目が、これからどんどんつかわれるということである。
 「金のかかる東京五輪、反対」とデモをすれば(あるいは発言すれば)、それだけで東京五輪テロを間接的に支持したことになると見られ、逮捕される、ということが起きかねない。「谷内は、こんなことを言って東京五輪に反対していた」と密告される、ということも起きかねない。この文章を読んでいる人に対しても、だれそれは谷内の文章を読んでいた、と密告されるということである。
 どんな発言にも目を凝らし、テロに通じる可能性があるものはすべて摘発する。それが「テロ対策に不可欠で適正な運用である」と安倍なら言うだろう。「適正な運用」の「適正」を判断するのが誰なのか、それが問題になる。
 ほら。最近、女性がレイプされた。逮捕状まで出た。逮捕状を発行するのは裁判所である。しかし、その裁判所の判断を無視して、逮捕は執行されなかった。容疑者が安倍の友人だったから。これは、つまり「適正な運用」の判断を安倍がしたということ。裁判所は無視された。
 こういうことが「共謀罪」によって拡大するのだ。
 森友学園も「安倍晋三記念小学校」や幼稚園の運動会で「安倍晋三総理大臣ばんざい」と言っていたときは優遇され、関係を追及されると「しつこいひと」と切って捨てられる。それが「適正な運用」ということばで語られる。
 「適正な運用」というのは、安倍にとって「適正」ということであって、国民にとって「適正」ということではない。


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米イージス艦事故の続報の読み方

2017-06-19 10:09:01 | 自民党憲法改正草案を読む
米イージス艦事故の続報の読み方
               自民党憲法改正草案を読む/番外88(情報の読み方)

 2017年06月19日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面、社会面で米イージス艦事故の続報を掲載している。不明者は7人いたのだが、「数人」が船内から遺体で発見された。(1面)
 社会面の見出し。

米艦の右後方から衝突か/コンテナ船 直前、同方向に航行か

 これではコンテナ船に非がある印象だ。しかし、コンテナ船は出港してからずっと東へ向かって航行している。イージス艦は横須賀を出港し西へ向かっていた。同じ方向に進むには、イージス艦が方向を変えるしかない。イージス艦がコンテナ船の直前を横切ろうとしたのだろう。コンテナ船が右方向に見えるのに気がついて、左にかじを切った。右にかじを切ればコンテナ船の横腹に衝突する恐れがある。コンテナ船が壊れ、沈没しかねないと判断し、規則とは逆に左に回避しようとしたのだろう。
 こういうことは米軍がイージス艦の「航路」を公表すればすぐわかる。だが「軍事秘密」として公開しない。日本の領海での事故なのに、米軍は情報公開をしない。情報提供をしない。ここに一番の問題がある、ということはきのう書いた。
 きょう書くのは、別のこと。
 社会面の記事の次の部分に注目した。事故当時、多くの乗組員が就寝中で、逃げ遅れたと見られると報じたあと、アーコイン中将のことばを紹介している。

「乗組員の冷静な動きで、浸水の拡大や船が沈没する危険を免れることができた。プロフェッショナルな働きだ」と乗組員の対応をたたえた。

 私はぞっとした。
 事故は深夜。乗組員の多くが就寝しているはわかりきっている。イージス艦の構造はわからないが、衝突・浸水事故などを想定し、「防水扉(浸水防止システム)」があるはずである。乗組員の居住区からの脱出よりも「浸水防止(沈没防止)」を優先したのではないのか。
 第一報で「7人不明」と報じられたが、この段階で「誰が不明なのか」がわかっていたはずである。当然、彼らが「どこにいたのか」もわかっていたはずである。ひとり、ふたりなら、眠られずに甲板に出ていた、衝突の弾みで海に投げ出されたということもありうるだろうが、7人そろってということは考えられない。だいたい甲板にいたのならコンテナ船に気づく。衝突するまでぼんやりと甲板に立っているはずがない。
 なぜ7人の乗組員の命よりもイージス艦を沈没させないことを優先したのか。
 沈没してしまえば、その引き上げ、事故検証などに日本側がもっと関与してくる。そしてイージス艦の機密(?)も、その過程で漏れる恐れがある。それを避けたのだろう。
 本来なら「乗組員のプロフェッショナルな働きで、乗組員全員を救出できた。ひとりの死者も出さなかったのはよかった」と言うべきところなのだが、乗組員の救出を優先しなかったから、こういうコメントになったのだろう。死者が出た以上、イージス艦の沈没を防いだと乗組員をたたえる前に、死者を追悼することが大事だろう。(死者を追悼した、しかしそのことばを記者会見で語らなかった、あるいは語ったけれども読売の記者はそれを記事にしなかった、ということも考えられるけれど。)
 こういう事故の場合、 いったん防水防止扉がしまったとしても、内部に7人もいるとわかれば扉を開けて救出するということも考えられていいはずである。いのちを優先するのが、人間の生き方だと思う。
 けれど軍隊は違うのだ。これが米軍の「組織防衛」のあり方なのだ。軍隊というのは、非情なものなのである。軍隊が一番に守るのは「軍隊」という組織であり、人間ではない、ということを私たちは認識しないといけないと思う。
 もし「有事」が起きた場合、自衛隊は米軍の組織下に配属されるだろう。米軍の規律が自衛隊を律するだろう。そしてそのとき優先されるのは「米軍の組織」である。自衛隊員のいのちでも、日本の一般人のいのちでもないだろう。そういうことが想像される。

 もちろん私の書いているのは、「妄想」である。「事実」を確認して書いているわけではない。しかし、「情報」から読み取れるのは、そういうことである。


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金田久璋『鬼神村流伝』

2017-06-19 09:05:44 | 詩集
金田久璋『鬼神村流伝』(思潮社、2017年04月15日発行)

 金田久璋『鬼神村流伝』の「声」は非常に強い。誰にでも強く聴こえるかどうか、実はよくわからないのだが、私には強く聴こえる。ことばの背後に、ことばにととのえられるまえの「声」がひしめいているのを感じる。
 抽象的に書いてもしようがないので、私が「身近」に感じる「声」について書いてみよう。
 「魔除け」という作品は、誰かが死んだあとのことを書いている。夜伽というのか、遺体をまもって寝ずの番をする。「魔物」が遺体に入り込むといけないので「刃物」を遺体の身につけさせることになる。「元庄屋」は「銘のある脇差」を貸してくれたが「ねっからの水飲百姓」には落ち着かない。それを返して、「日頃愛用の稲刈り鎌」を遺体の胸の上に置く。そう書いたあとの二連目。

少し錆が噴き出した稲刈り鎌は
よく手に馴染んで
泥にまみれ 尚も
血と汗と唾が沁み込み
今にも組んだ手を解(ほど)いて
起き上がりそうにも見えた

 「稲刈り鎌」の描写が強い。実際に鎌をつかったことのある人の描写である。「泥にまみれ/血と汗と」が「沁み込み」は想像でも書けるかもしれない。しかし、そこに「唾」というひとことを付け加えられるのは鎌で稲を刈ったことがある人だけである。
 力を込めるために、ひとはときどき唾を手に吐きつける。唾は、きっと「気力」のようなものなのだ。
 私も水飲み百姓の子供なので、鎌で稲刈りをしたことがある。子供だったから、手に唾を吐いてまで懸命に仕事をしたことはないが、父や母が、あるいは兄たちが手に唾を吐いていたことをふと思い出したのである。ほかの野良仕事でも同じである。手に唾を吐いて、力を込める。それが釜の柄の部分にしみこんでいる。握ると「手」そのものの感触が伝わってくる。父のつかっていた鎌をつかむと父の手が、兄のつかっていた鎌をつかむと兄の手の感触がつたわってくる。「よく手に馴染んだ」とは、鎌が「手」そのものになるということでもある。「肉体」が伝わってくる。
 金田は、私が書いたようなことをくどくどとは付け加えていない。金田にとってはわかりきったことだから書かないのだろう。私は、わかるが、それは「わかりきったこと」ではない。かすかに覚えていることだ。そのかすかに覚えていることを金田のことばはまざまざと思い出させる。その「声」のなかに、「水飲み百姓」の「声」がしっかり根付いているからである。ひとりの「声」ではない。「水飲み百姓」の多くの「声」がことばを支えている。その「多くの声」が聴こえてくる。それが、私のかすかに覚えていることを、鷲掴みにして、ぐいと広げる。多くの「水飲み百姓」の肉体の動きとして見えてくる。
 鎌を持たされている遺体も「水飲み百姓」なのだろう。だから、その胸元に鎌を置かれたら、その遺体は生き返り、また鎌を握りそうに見えてくる。遺体を見ながら、生きている姿、生そのものが見えてくる。

 「半分(モワチエ)」の一連目は、こうである。

急に尿意を催し
峠下の廃屋のかげで ひと息つくたまゆら
湯気をあげる漏斗状の雪穴に
庇の氷柱(つらら)を突き刺す さしてもない戯れの
くぐもる空虚に想像力のかたちを与えただけ
そばに大根があれば大根 ニンジン
ゴボウなりを挿し込んだだけのたまさか
リビドーの無明の身震いに
吾が身の成り余れる処を以ちて
汝が身の成り合わざる処に刺し塞ぎつつ

 積もった雪のうえに小便をする。穴があく。その穴に氷柱を突っ込む。大根でもニンジンでもゴボウでもいい。これは性交を思い起こさせる。ここから金田はセックスを思い出す。穴に性器を突っ込む。こういう書き方は女性には不愉快かもしれないが、雪国で育った男なら、子供時代にそういう「妄想」をするものである。何人かがあつまれば、そういう遊びもする。金田のことばは、そういうところとつながっている。そして、そこに「強さ」がある。ひとりで身につけたことばではない。また「本」を読んで身につけたことばでもない。ひとと一緒に行動し、他人の「肉体」をも引き受けながら身につけたことばである。他人の「肉体」を引き受けるとは、自分も他人と同じ「肉体」であるということを受け入れることである。「肉体」はそれぞれ別々のものであるが、どれも「同じ」生き方をする。「生きる」過程で「同じ」になる。そういうことを引き受ける。そういうことを引き受けた人間の「強さ」がことばの「奥」にある。
 この詩には「リビドー」とか「無明」という「頭」で学ぶことばも出てくるが、金田の場合、「頭」のことばを「複数の肉体」でくぐり抜けて、そのうえで動かしている。言い換えると「頭」のことばをつかいながら、「頭」のなかでことばを動かしていくのではなく、それを「肉体」でたたき壊していく。「頭のことば」以前に引き戻していく。
 動き回るのは、あくまで「頭」とは無縁の、「肉体」の感覚そのものである。
 この詩、この一連に限定して言えば、穴へペニス(氷柱状のもの、大根、ニンジン、ゴボウのようなもの)を突っ込む、穴があれば突っ込むという動詞があり、そこにセックスする肉体が重なってくる、欲望が燃え上がる、という感覚である。誰ものがもっている「肉体」を、その「肉体」が動いた瞬間に引き戻し、そこから詩を動かしている。
 こういうことばは「強い」。


鬼神村流伝
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安倍の手口(天皇生前退位特例法成立後の動き)

2017-06-18 19:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(天皇生前退位特例法成立後の動き)
               自民党憲法改正草案を読む/番外88(情報の読み方)

 2017年06月18日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面・2面に御厨貴の寄稿が載っている。「上皇・天皇・皇嗣の新時代」というタイトルがついている。
 このなかで御厨は、こう書いている。

 この国は明治150年を迎えて、初めて「天皇御一家三代おそろい」の形での移り変わりを体験する。

 「天皇御一家三代」とは何か。いま、「天皇-皇太子-愛子」という「三代」がある。「天皇-秋篠宮-真子・佳子・悠仁」という「三代」がある。しかし天皇が生前退位したあとの「上皇(今の天皇)-天皇(皇太子)-皇嗣(秋篠宮)」というのは「三代」か? 私の数え方では「二代」である。これが「三代」になるためには、

上皇(今の天皇)-秋篠宮-悠仁

 にならないといけない。
 つまり、

天皇-天皇の子供(男子=皇太子)-皇太子の子供(男子=天皇の孫)

 でないと、男子直系の「三代」にはならない。
 「皇位継承」ということで「天皇-皇太子-秋篠宮」なら、すでに今の皇位継承順位とかわらないし、そのあとに悠仁を結びつけるなら「四代」にわたって「継承」は決まっている。わざわざ「三代」に引き戻して論理を展開する必要がない。
 安倍は口をつぐんでいるが、安倍の選んだ「有識者会議」で「座長代理」をつとめた御厨が、安倍の「意向」を口にしてしまっているところが、なんともおもしろい。
 安倍は天皇を生前退位させたあと、皇太子を天皇にするが、それは「仮の天皇」であることがここからもうかがえる。「新しい天皇(皇太子)」を早く退位させ、「秋篠宮-悠仁」を「天皇-皇太子」という形にする、そうすることで「三代」の天皇継承をスムーズにする(?)という狙いが「生前退位特例法」にあったことを、明確に語っている。
 「新しい天皇(皇太子)」を早く生前退位させるためには、「定年制」は絶対に設けてはならない条項だったのだ。

 興味深いことはいろいろ書いてある。

(1)陛下は、戦後憲法の定めによる“象徴”としての公的行為の創設者である。
(2)問題は陛下創設の“象徴”としてのお勤めの総量・総体にある。
(3)(宮内庁は、公的行為はこれ以上軽減は不可能、限界であるといっているが)次代の天皇にも同様の限界論が生じる恐れはある。
(4)(専門家のヒアリングでは)次代の天皇が自ら「象徴としてのお務め」を新たに創出していくプロセスで、選択の自由を行使してもよいとの方向性を示唆していた。

 私は、これを「象徴としての務め」はいまの天皇が勝手に自分ではじめたこと。それをそのまま次代の天皇が引き継ぐ必要はない、といっているのだと読む。
 選択してもよい、とは、減らしてもいいということである。減らせば「総量」が減るから「限界」ではなくなる。
 というのは、みせかけの論理。
 天皇が国民と直に接触する機会を減らし、天皇と国民の密接な関係をなくしたいのである。
 「天皇(皇室)」を「皇居」のなかに閉じこめ、発言を封じる。これが安倍の狙っている「独裁」の理想像なのである。
 現在の天皇は「護憲派」と見られている。皇太子も天皇の考え方に近いようにうかがえる。秋篠宮は少し距離がある。なんといっても、「皇太子」として教育されていない。意識がちがう。その子供の悠仁は「象徴」につていも、「憲法」についてもまだ明確な考えを持っていないだろう。天皇になるための教育も行われていないだろう。早く悠仁を「摂政」にして、天皇(秋篠宮)を蚊帳の外におき、安倍が「天皇」として権力を奮うということである。
 御厨は、その安倍の欲望(意向?)を忖度して、こういう文章を書いたのだろう。
 末尾に、御厨はこう書いている。

「上皇陛下」「天皇陛下」「皇嗣陛下」と三代おそろいで極めて多彩な彩りを持つ天皇制度が、まもなく開花する。

 私は、この部分をこう読む。

 「上皇陛下」「天皇陛下」「皇嗣陛下」と「陛下」が三人もいては、「統一」した見解、行動はむずかしい。三人がばらばらな考えを実行に移すようでは国民が混乱する。「多様性」は「混乱」のもとである。だから三人の行動(国民との接触行動)は極力少なくし、安倍の考えだけが国民に伝わるようにする。「独裁」がスムーズに行われるようにするために、三人の行動を制限する。
 「独裁」が天皇の生前退位によって加速する、と読む。
 こういうことをごまかすために「多彩な彩りを持つ天皇制度が、まもなく開花する。」というような「美しいことば」がしめくくりに選ばれている。

 安倍は直接語らない。安倍の「意向」を語ってくれる人を選び、その人間に語らせる。見返りは「優遇」である。御厨がどんな「優遇」をこれから受けるのか(すでに受けているのか)知らないが、私は、そんな具合に「妄想」する。


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米イージス艦衝突の報道からわかること

2017-06-18 09:42:25 | 自民党憲法改正草案を読む
米イージス艦衝突の報道からわかること
               自民党憲法改正草案を読む/番外87(情報の読み方)

 2017年06月17日、米イージス艦とフィリピン船籍のコンテナ船が伊豆沖で衝突した。7人が行方不明である。この報道には非常に奇妙なものがある。
 2017年06月18日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面にコンテナ船の航路を克明に「図入り」で描いている。「午前1時30分 ほぼ直角に右旋回。このころ、米イージス駆逐艦と衝突か」という註釈がついている。コンテナ船は衝突後現場に引き返し、再び目的地へ進んでいる。
 コンテナ船の「航路」がわかるなら、イージス艦の航路はもっと正確にわかるだろう。米軍がイージス艦がどう動いているか把握していないはずがない。どこにいるのか、どう動いているのか即座に把握できないようでは実際の「戦闘」のとき困るだろう。いまは「戦争」が起きていないから、どこにいるのか、どんな動きをしているのか把握していないというような、ばかげた「運用」はないだろう。
 で、ここからわかることは。
 米軍は何があっても米軍の情報を日本には提供しないということである。
 今回の場合、「7人不明」が米軍関係者だが、これが民間人だったらどうなるのか。日本人だったらどうなるのか。安倍は(日本の捜査機関は)、米軍に情報を要求し、徹底捜査ができるのか。
 よくわからないが(「日米地位協定」を読んだことがないのでわからないが)、米軍は日本に情報提供などしないだろう。米軍がかかわる事故については米軍が捜査(調査)するだろう。捜査の「支配権」は米軍にあるだろう。
 で。
 もし不明者がコンテナ船の乗組員だったら、日本人だったら、どうなるのか。どんな捜査が行われ、どう結論づけたのか、日本が検証できるのか。

 平和時でさえ、こうである。実際に戦争が起きて、その渦中で事故が起きたときは、もっと情報は公開されないだろう。イージス艦が横須賀基地を出港したということさえ公開されないかもしれない。
 「自衛隊」が米軍といっしょに戦うとき、その「指揮系統」がどうなるか、ということもここから考えてみる必要がある。
 安倍は有事の際に自衛隊が必要であるというが、有事の際、日本にいる米軍はどう行動するのか。米軍と自衛隊の行動を指揮するのは誰なのか。安倍は安倍自身を「最高責任者」と呼ぶことが大好きなようだが、有事の際も「最高責任者」なのか。日本にいる米軍を指揮できるのか。
 できないだろう。
 自衛隊は、米軍の指揮下に入って、米軍の「先鋒」とし戦うということになるに違いない。米軍の直轄になり、安倍ではない誰かの指揮を受けるしかない。
 それでも「自衛」隊と言えるのか。
 「有事を想定する」というとき、安倍は、北朝鮮など、外国が日本を攻撃してくるということだけを想定している。その攻撃に対して、どうやって「自衛隊」が行動するか、そのときの「指揮系統」はどうなるかを説明しない。「指揮系統」のわからない戦争など、何の役にも立たない。
 朝鮮半島にいる日本人がどう避難するか、さらには日本国内の日本人がどう避難するかということさえ「指揮系統」にからんでくる。すべて米軍の判断待ちになってしまう。
 日米は「対等」ではないのだ。「対等の関係」ではないのだ。

 そういうことが、今回の「情報公開」から「わかる」。

 船同士が正面衝突しそうになったとき、どうするか。「海上衝突予防法では、海上で船同士が衝突する危険性がある場合、相手が右側に見える船に衝突回避義務がある。正面衝突を避ける場合は、互いに右にかじを切る規定されている」と読売新聞は書いている。事故写真をみると、イージス艦の右舷が壊れている。イージス艦の右舷にコンテナ船がぶつかった形だ。右舷が壊れているということは、イージス艦の「右手」にコンテナ船が見えたということだろう。回避義務はイージス艦にある。
 また正面衝突の危険があったかどうかはわからないが、コンテナ船は右にかじを切っている。このことから想像すると、コンテナ船は衝突を回避しようとしていると想像できる。
 船のことはさっぱりわからないが、海上衝突予防法で最初に書いている「衝突の危険性」というのは「T字型の衝突」のことだろう。そのときはようするに、航路を横断する形の船に責任がある。正面衝突を避ける場合、右にかじを切るというのは、船が右側通行を原則とするということだろう。今回の場合なら、イージス艦は海岸より、コンテナ船は太平洋沖より。そうすれば正面衝突はしない。コンテナ船が西から東へ進んでいて、衝突を回避しようとして右にかじを切った。それがイージス艦の右舷にぶつかったということは、イージス艦が伊豆沖を西に向かって進んでいるのではなく、どこかの地点で左方向に(太平洋沖の方向に)向きを変えているということだろう。左折したということだろう。つまりコンテナ船の航路を横断する形になっているということだろう。そのためにぶつかった。
 こんなことは、イージス艦の「航路」が公表されればすぐわかることである。
 またイージス艦に非がなくて、コンテナ船に過失があるのだったら、これも即座に公表されることだろう。航路全体を公表しなくても、イージス艦は「右側通航」を守っていた、それに対して左側通行をしていたコンテナ船が急に右にかじを切ってきたというくらいは言えそうである。そうしないのは、慎重に捜査しているというよりも、どうやって米軍の過失をごまかすか検討しているということだろう。



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