詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫『中井久夫集1 働く患者』

2017-02-23 10:25:43 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫『中井久夫集1 働く患者』(みすず書房、2017年01月16日発行)

 私が中井久夫を初めて読んだのは『カヴァフィス詩集』だった。そのあと、リッツォスの詩を知った。それ以後、エッセイも読むようになったが、『カヴァフィス』以前については何も知らなかった。今度の著作集には、私の知らなかった時代の中井久夫がいる。知らなかった時代の中井久夫なのだけれど、ふと、あっ、知っていると感じるものがある。

 私にとって中井久夫は「他人の声」を生きることができる人である。「他人の声」を聞き取り、ただ再現するのではなく、その声を伝えるとき、中井自身がその声の持ち主になる。声の中に動いている「感情」を生きて、声を動かす。
 「ことば(意味)」を動かすというのではなく「感情」を動かす。
 そのとき、なんといえばいいのか、「感情」を支えるというか、「感情」が動きやすいように、「縁の下の力持ち」のような感じでよりそう。そのよりそい方が自然なので、「感情を生きている」という印象になるのかもしれない。
 中井がサリヴァンを翻訳するようになった経緯を書いた文章を読むと、これは私だけの印象ではなく、他の人の印象でもあるかもしれない。翻訳が単に「意味」を伝えるだけではなく、「ことば」そのものを伝える。「ことば」の強さを伝える。「感情」のなかにある「強弱」、あるいは「リズム」というものを中井は呼吸し、一種の「和音」という形で表に出すことができるのかもしれない。「和音」によって音が安定するというと変かもしれないが、「強さ」が生まれる。

 「統合失調症者における『焦燥』と『余裕』」という文章の中に「あせり」「ゆとり」さとり」ということばが出てくる。「あせり」は「焦燥」を言い換えたもの。「ゆとり」は「余裕」を言い換えたもの。では、「さとり」は? ここからは、中井のことばをていねいに追いかけるというよりも、私は、中井に誘われて自分で「誤読」をはじめる。
 「焦燥」「余裕」ということばだけを読んでいたときは聞こえなかった「音」が「肉体」のなかから「あせり」「ゆとり」ということばになって動き始める。それが「さとり」を揺さぶる。そうか、「さとり」とは「あせり」と「ゆとり」という「区別」を超えるものなのか、と直感する。「さとり」というものを私自身は体験したことがないが、「予感」として「さとり」がわかった気がする。
 中井は「統合失調症者」について書いているのだが、限定しなくてもいいと思う。私は、「あせり」も「ゆとり」も誰もが経験することと思って読み、「さとり」も誰もが経験できるものだと、はげまされたような気持ちになる。この「はげまされたような気持ち」というのは「誤読」だね。「誤読」とわかっているが、私は「誤読」のなかにとどまる。

 「思春期患者とその治療者」「ある教育の帰結」という文章も刺戟的だった。
 高度成長期の教育を「知を知る喜びを追求する教育ではなく、新しいやり方を迅速に身につけるものが勝ちという訓練であった」と批判し、同時に「それは、日本の失業者、とくに青年失業者が非常に少ないことに大きな貢献をしている」と指摘している。この指摘にはびっくりた。1978年、1979年に書かれた文章なのだが、そのまま「現在」を語っている。
 青年の失業を、親が雇っているのである。江戸時代は、青年は家の金を持ちだし遊び、刃傷ざたを引き起こした。そうやって親に苦労をかけた。いまは家の金を盗み出しはしないが、同じように親の金を浪費している。子が働き、給料を稼ぐということの代わりに、子供が大学に行き、勉学という「労働」に対して親が金を払っている。そのために「失業者」が少ない。「もし、戦前のように大半が小学校卒で就職したとすれば、不況のときには相当の失業者が発生したであろう。青年の九割が高校へ、過半数が大学へ進むということは、失業保険を払うどころか、家族の負担で膨大な潜在失業者のプールを維持していることになる」と指摘している。「このプールはかなり効果的な弾力性がある。不況のために、今、就職すればあまりよい展望がもてそうになければ、その代わりに一段階上の学校に進学して、次のチャンスに賭けるという選択に傾く。しかもその間は父兄負担である。失業手当の支払いを政府はする必要がない」とも。
 (中井が指摘したときから約40年たって、状況は少し変わってきている。「父兄負担」ではまかないきれず、学生は奨学金を借りる。卒業したあとは奨学金の返済に追われる。政府は「奨学金」を手当てする必要もない。これについては、批判が高まり、「完全給付型奨学金」というものをつくろうとしているようだが。)
 こういう指摘は、患者治療の「本筋」ではないのだが、そこに私は中井の「耳」を感じる。中井は「複数の声」を広い領域から聞き取り、その「複数の声」で具体的な患者の姿をとらえようとしている。「複数の声」のなかに、患者といっしょに生きている「声」があると予感している。それを探そうとしている。(私は医者ではないので、治療がどういう姿であるべきかといいうことは考えられないので、どうしても脱線し、「誤読」するのかもしれないが……。)

発達期は、現在の課題に対応しながら別の成長のための分をとっておかねばならない時期である。その分までも食い込むとは、それは成人になる資本(もとで)をつぶしていることになる。

 これは「ある教育の帰結」のなかの、ひとつの「結論」として書かれた部分。この「結論の意味」に共感すると同時に、私は「資本」を「もとで」と読ませているところに、はっとする。「あせり」「ゆとり」「さとり」に通じるものを感じる。「頭」で整理したことばではなく、「身振り」に近いもので納得していることばというものがある。繰り返し聞くことでなんとなく「わかっている」感じのことば。その「なんとなく」を踏み外さないことば。
 「身振りでわかっていることば」というのは、ちょっと説明がしにくいが、こういうことばは詩にとってはとても強いことばである。「ほんもの」である。頭でつくったものではない、という意味で「ほんもの」。
 ここで「飛躍」してしまえば。
 中井の詩の翻訳のことばに感じるのは、この「身振りのことば」である。頭で理解し、整理したことばではなく、そこにいる人、その詩を書いた詩人の「身振り」をそのまま言いなおしたようなことば。「身振り」が動くことば。
 著作集1のタイトルになっている「働く患者」のなかに、患者は「治療という大仕事」をしている、ということばがあるが、この言い回しが「身振りのことば」そのものである。患者のいのちの内側から動いていることばだ。

 文章のいたるところに、他人の声に耳を傾けることで豊かにした中井の「もとで」が感じられる。中井の「もとで」は「生きているひと」そのものの「もとで」、「いのちのもとで」。
 これを整理することは難しい。たぶん、整理してしまうと違ったものになる。だから、思いついたまま、書いておく。私は勝手な読者なので、「誤読」を誤読のままにしておく。





中井久夫集 1 働く患者――1964-1983(全11巻・第1回)
中井 久夫
みすず書房
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石川慶監督「愚行録」(★★★★+★) 

2017-02-22 20:21:34 | 映画
監督 石川慶 出演 妻夫木聡、満島ひかり

 私は推理小説が嫌い。映画も「犯人探し」は大嫌い。すぐに「犯人」がわかってしまう。
 この映画の場合に、妻夫木聡がバスのなかで老人に席を譲れ、と他の客にからまれ、席を譲る。足をひきずるような感じで歩き、バスのなかで倒れる。降りてからも足をひきずって歩く。しかし、バスが行ってしまうとふつうに歩きだす。これは「ユージュアルサスペクツ」でケビン・スペーシーがラストシーンで見せたのと同じ「芝居」。この冒頭で、映画のすべてがわかってしまう。
 でも★4個+★。
 「犯人探し」は一種の狂言回し。「事件」の周辺で動いている複数の人間がていねいに描かれる。「人間」が描かれる。これが、なかなかいい感じだ。最初に妻夫木聡が取材する相手。テーブルの上に置いた妻夫木の名刺の上に、ビールのジョッキーがどすん。常識知らずだ。それをちらりとみつめる妻夫木の視線。細部がしっかりしている。これが★4個の理由。
 で、完成度の高い「短編」が組み合わさって「長編」になるという雰囲気。「長編」を「短編」に分割することで、「短編」ごとに「主人公」の姿を浮かび上がらせる、ともいえる。これは新しい作り方かもしれない。これで、私は★を1個追加する。
 さらに。
 こういうとき、「短編」をつらぬく主人公というのは控えめでありつづけなければいけない。「受け」というか「脇」というか。これを妻夫木聡がとても巧みに演じている。もともと「透明感」の強い役者だが、「透明感」を生かしている。「短編」ごとの「主役」に自己主張させている。妻夫木と、その場の「主役」が喧嘩しない。
 満島ひかりも、「自己完結的」な感じがおもしろかったなあ。
 それにしても。
 いまの大学生はたいへんだねえ。有名私立大学はたいへんだねえ。「未来」というものを、こんなふうに「現実的」にとらえているのか、と驚いてしまった。あんなに複雑に考えていて、生きることが面倒にならないのかなあ。
 「現実的な行為」を「愚行」と呼んでいいのかどうかわからないが、うーん、面倒くさい映画だぞ、という印象がなぜか残ってしまう。
                       (中洲大洋1、2017年02月22日)


 
 *

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荒木時彦『アライグマ、その他』

2017-02-21 10:33:57 | 詩集
荒木時彦『アライグマ、その他』(私家版、2017年02月10日)

 荒木時彦『アライグマ、その他』は反復の中で「時間論」を展開する。方法論としてはベケットに似ている。

今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、いつものように挨拶をした。彼も私の顔を見て、軽く会釈した。しかし、その挨拶は何かしっくりとこないものだった。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。見たところ、彼は確かにいつもの彼だった。一昨日の彼は、一昨日の彼らしかった。昨日の彼は、昨日の彼らしかった。しかし、今日の彼は、今日の彼という感じがしなかったのだ。今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた。
仕事から帰っても、今朝、バス停で会った彼に対する違和感が気になっていた。何故、今日の彼には<四月十一日的性質>が欠落していたのか。あるいは、彼に欠けていた<四月十一日的性質>とは何だったのか。日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない。               (「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」)

今朝、バス停で彼と会った。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。私は彼に軽く会釈した。私は、その日の仕事の段取りを考えながらバスに乗った。
夜、家に帰ってビールを飲みながら、<四月十一日的性質>について考える。四月十一日は、朝、目覚めた時からはじまっていた。彼とバス停で会った時、私は彼について少し違和感を覚えた。彼には<四月十一日的性質>と呼ぶべきものが欠落していた。その違和感は、日が経つにつれ、私自身にもわからないくらい少しずつ大きくなっていった。私は、彼がその日に失った<四月十一日的性質>は、一つの兆候だったのではないかと思っている。たとえば、腕時計が止まったことも、今日、バスが遅れたことも。兆候とは常に何かの兆候だが、それが何なのか、私には分からない。
                     (「ショッピングモールに行った。」)

 「今日の彼は、今日の彼という感じがしなかった」から、「今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた」という「欠落」の発見への飛躍はとてもおもしろいと思う。しかし、「<四月十一日的性質>とは何だったのか」という問いから、「日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない」という結論(?)へ進むのは、抽象的すぎて興奮が冷めてしまう。「形式」という「抽象」が追加されたからかもしれない。この動きが、どうも私にはもの足りない。主語が「私」から「彼」へと転換するのも、「私」の感覚を半分放棄しているように思える。集中力が途切れたように感じられる。

 「抽象」の追加は、反復される部分では、「違和感」を経てさらに「兆候」ということばに動いていく。「抽象」が加速する。
 「抽象」は「抽象」へと動いていくと、「時間」そのものが「抽象」になる。「<四月十一日的性質>の欠落」という「抽象」のあとは、「事実」のみを積み重ねないとおもしろくない。すでにベケットは「<●●的性質>の欠落」ということばをつかわずに、「事実」のみを反復することで「欠落」という「時間の重力」を描いているから、それを反復してもしようがないということかもしれないが。

彼は四月十四日が日曜日であることを知っていた。昼過ぎに妻と一緒に近所の公園に散歩に行くと、彼は六歳になる子供とサッカーボールで遊んでいた。もし、彼が、四月十一日が木曜日であることを知らなければ、今日が日曜日であることを知り得ないのだ。もちろん、彼に<四月十一日的性質>が欠落していたことと、彼が、今日が日曜日であることを知っていることは関係がない。

 さて、クイズ。
 この「部分」は「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」だろうか。「ショッピングモールに行った。」だろう。
 答えは「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」である。それも、実は、私の興奮が冷めた一つの理由である。「私」から「彼」への移行についてはすでに書いたが、この部分で「主役」は完全に「彼」になってしまっている。「欠落していた」と感じたのは「私」であるのに、「私」の感覚は問題にされず、「彼」の問題になってしまう。
 もちろんこの部分から「私」と「彼」は同一人物であるという形で、ことば全体を反復する(比喩にしてしまう)ということもできるし、そうしたい欲望に誘われるのだが。どうも、つまずく。
 「日付という形式」が「曜日という形式」へと簡単に転換してしまうときの反復のありかたに私は覚めてしまう。ことばの対象を指し示す働きと、対象を意味に変えていく時の運動が軽すぎるように思える。「日付(形式)」と「曜日(形式)」の関係は「比喩」になりえていない。「四月十一日の欠落」のような「暗喩」の力がない。ことばに「論理」を要求する力がない。
 流行りのことばで言えば、「換喩」が動き出してしまう。「日付」と「曜日」を結びつけた瞬間に「暗喩」が消えてしまう。「換喩」は単なる言い換え。僧侶を「袈裟を着た男」というようなもの。飛躍がない。そのかわりに「僧侶=袈裟」という「共有された論理」がある。
 「比喩」は「独創」であり、そこから「論理」が捏造され、それを読む時読者は「暗喩」の「共犯者」になるが、「換喩」には「独創」は入り込めない。
 「袈裟」を来ているのが僧侶であるということが「共有」されることで、「袈裟を着た男」が「僧侶」になる。「認識の共有」が「換喩」を成り立たせている。
 別の「換喩」を例にしてみようか。たとえば「早稲田の学生」は「角帽をかぶった男」。角帽をかぶった早稲田の学生を見たことがない人、早稲田の学生帽が角帽であることを知らない人には「換喩」は通じない。どこかの大学生らしい、というところでとどまってしまう。
 そういう「共有された論理」へ入り込むことで、「抽象」を否定しようとしているのかもしれないが、どうだろうか。
 「四月十四日が日曜日」なら「四月十一日は木曜日」。この「論理」を成り立たせているのは何だろう。「共有されている論理」だが、それは「論理」というよりは「常識」であって、味気ない。荒木のつかっていることばを借りれば、「論理」というよりも「関係」というものかもしれない。
 荒木は「関係がない」と「ない」という否定を持ち出してくるのだが、どうも、この「ない」は「欠落」とは違う。「欠落」をむしろ否定してしまうように思える。

 とてもおもしろいことを書こうとしているだが、おもしろくなりきれていない、という不満の方が動いてしまう。たとえば広田修なら、「<四月十一日的性質>の欠落」から、どうやって論理を動かしていくだろうか、というようなこともちらりと考えてしまう。


sketches
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深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」

2017-02-20 10:21:54 | 詩(雑誌・同人誌)
深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」(「ぷらとりあむ」1、2017年01月21日発行)

 深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」は動物園でレッサーパンダをみたときの詩。同じところをまわり続けている。「僕たちはその様子を長い間眺めていたが/もしかしたら神経症なのかもしれないね、という結論に達した」と書いたあと、

硬い雨が透明な薄いカーテンとなって
僕たちと彼を一つの空間の中に閉ざした

 「一つ」ということばに引き込まれた。これは、すぐにこう言いなおされる。

ガラス一枚を隔てて
見られているのは僕たちなのか彼なのか
回っているのは彼なのか本当は僕たちなのか
そんなことを考えながら
僕たちはずいぶん長いあいだ彼の前に立っていた

 「一枚」ということば、「一つ」につながることばが出てくるが、これは「一つの空間」を否定する。「一枚のガラス」がレッサーパンダと僕たちを隔てる。しかし、そこに「否定」が入ることで、逆に直前の「一つ」が強くなる。
 そして「僕たち」と「彼(レッサーパンダ)」の区別がなくなる。「空間」ではなく「僕たち」と「彼」が「一つ」になる。
 この変化が、「隔てる」という「矛盾」を含んでいるために、とても「自然」になる。こういう書き方では「説明」したことにならないのだが、私はそこに「自然」を感じた。「論理」的には矛盾しているというが、矛盾を含むのだけれど、その矛盾を「解消する」のではなく、「飛び越す」。あるいは矛盾そのもののなかに「入っていく」と言えばいいのか。
 「一つ」ではないものが「一つ」になってしまう。
 そこから、「一つ」を離れ、人間に戻っていく。人間に戻っていく、というのは変な言い方かもしれないが。

指先が冷たく痛みはじめ
少しあたたまろうと
小さな食堂に入ってコーンポタージュを頼んだ
それは粉っぽくて、薄くて
そしてなによりあたたかかった

 「粉っぽくて、薄くて」はまずい。まずいのだけれど、逆に温かさが強調される。いや、温かさを発見し、そこに集中していく。この矛盾(いやなもの)の飛び越え方もおもしろい。「人間に戻る」と書いたけれど、ここはレッサーパンダが「人間になる」と読んだ方が楽しいかもしれない。

 で。
 その最後。

僕たちはコーンポタージュを飲みながら
神経症のレッサーパンダのことを思い出し
あの尻尾を首に巻いてみたらきっとあたたかいだろうね、という結論に達した

 「思い出し」で完全に「人間(僕たち)」に戻って「結論」を出す。「結論に達した」というのは、前にも出てきた。
 あ、深沢はいつも「結論」を求めてことばを動かしているのか、と私はこのときになって、やっと気づく。
 「結論に達した」が反復されることで、前半と後半が「二部構成」で重なり合う。「前半」の散文的な部分はまさに散文であり「事実」を外側から「客観的」に描いたもの。「後半」は「心情(心理)」風景を描いたもの、ということになるのか。
 「事実」(客観)から出発し、心情(主観)をくぐり、それを統合することで「結論」にする。その動きを「詩」と考えているのかもしれない。

 うーん。
 しかし「結論」は深沢ひとりが抱え込むことにして、詩では「結論」を書かない方がおもしろいかもしれないなあ。この詩の場合、最後の三行がない方が、寂しくて、レッサーパンダになった気持ちになれる。
 深沢は人間に戻ってきたいのかもしれないけれど、私はレッサーパンダのままコーンスープを飲んだ方が「あったかい」と思う。「神経症」からときはなたれて、ゆったりした気持ちになれる。私は、その「人間になったレッサーパンダ」になってみたいなあと思うのである。首巻きにはなりたくないなあ、とも。

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千人のオフィーリア(メモ29)

2017-02-20 09:28:03 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ29)

水は見ていた、水をみつめるオフィーリアを。
水は晴れ上がった空を映す水の色。

梢から雨の名残が落ちてくる。水面に小さな輪を描いては消えていく。
水は聞いていた、その音楽に耳をすませるオフィーリア。

高いところで知らない小鳥が鳴いた。
さえずりは鋭くちらばる光になった。

水は見ていた。
オフィーリアが水を踏むのを。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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溝口健二監督「山椒大夫」(★★★★)

2017-02-19 20:32:12 | 映画
監督 溝口健二 出演 田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎

 田中絹代は不思議な俳優だ。「楢山節考」もそうだが、この「山椒大夫」も一種の「物語」である。実際にありうることかもしれないが、架空の話。それなのに田中絹代が出てくると、それがリアリズムにかわる。「肉体」が物語をのみこんでしまう。ただしリアリズムといっても、「現実」の押し売りではない。「悲惨」の押し売りではない。なにか「ゆとり」がある。「形式」がある。「生きている」人間という「形式」が。
 「サンダカン八番娼館望郷」も、何か人間が「純粋」ないのちに昇華して、そこに生きているという美しさがあふれている。
 この映画のとき、田中絹代が何歳なのか知らない。まだ若いはずだ。実際、最後の「老婆」のシーンでは、張りつめた肌が「若く」て、顔に注目してしまうと「老婆」ではないのだが、「動き」が「老婆」である。「間合い」と言った方がいいかもしれない。「肉体」が動いて、それを「ことば」が追いかける。「肉体」の小さな動きのなかに「感情」がつまっていて、それが動くと、そのあとをおそるおそることばが追いかける。ことばはなくてもいい。ことばは、たぶん「追認」である。ことばによって、観客は「感情」を再確認するのだが、これはあくまで再確認。「押しつけ」ではない。「感情」の押し売りではない。だから美しい。
 田中絹代、花柳喜章の再会のあと、そんな再会の感動など知らない、という感じて老人が浜辺で仕事をしているシーンで映画は終わるのだが、このシーンが信じられないくらいに輝かしいのは、直前の田中絹代の演技があるからだなあ、と思う。
 この映画は、田中絹代以外にも見どころがある。ススキのシーンは、ロケなのかセットなのか、よくわからないが、ススキの輝きが美しい。(「警察日記」で三国連太郎がススキをかき分けて走るシーンのススキも美しいが。)花柳喜章が山を降りる寸前の、山から見た麓のシーン、そこへ駆け下りていくシーンも、とても美しい。
 国分寺や関白の館はセットなのか、実際にある寺や建物でロケしたのかわからないが不思議な美しさがある。リアルを超越している。他のシーンもそうだが、「形式」に到達している。ススキのシーンや、山を駆け下りる瞬間のシーンも、ひとつの「形式」である。整えられている。
 これが、この「物語」にぴったりあっている。虚構のなかでしか確認できない何か、そういうものを静かに浮かび上がらせている。
 溝口健二の代表作というわけではないと思うが、森鴎外が大好きなので、この映画を見てしまった。ほかにも溝口監督シリーズで上演していたのだが。
                        (中洲大洋、2017年02月18日)


 *

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倉橋健一「胎内遊泳」

2017-02-18 10:54:12 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「胎内遊泳」(「イリプスⅡ」21、2017年02月10日発行)

 倉橋健一「胎内遊泳」は、倉橋が「胎内」にいるときのことを書いたのだと思うのだが。

わけ知らずわたしのいちばん好みの灯明は
なんといっても明治の初期銀座にはじまった
青白いガス燈の放つあの色調に尽きるが
その原因もどうやら母親の胎内で見た暁暗からはじまっている

 「胎内で見た」と書いているから、倉橋は「胎内」にいる生まれる前の「胎児」なのだろう。ここまでは、まあ、そう思って読むのだが。

とんでもない生き物の胎内に物象などあるはずがないのだ
だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく
ちょうどおむつをつけたままの幼ごがおむつ遊び人形に夢中になるように
身妊る前から共犯関係をしいたのだった

 「論理的」に何かを書こうとしている。その「論理」のなかに、奇妙なものがあり、それが私を混乱させる。。
 「わたしのなかの幼い母親」というのは、「わたし」が思う(想像する)母親という意味(論理)なのだが、つまり「母親」は「想像の母親」なのだが、ここで私はつまずく。
 私は、「論理」とは逆に、あ、倉橋はこのとき「母親」になっている、と感じた。「母親」になって、「母親」から「胎児」を感じていると。
 「胎児」から「母親」を想像しているのではなく、「母親」から「胎児」を想像している、と。

 倉橋は男なのだから、「母親」は「肉体」で思い出すというよりも、想像力で描き出すものなのだが。

 「わたしのなかの」の「なか」が、どうも、私に「誤読」せよ、と呼びかけてくるである。「わたしのなか」は「わたしのあたま(論理)のなか」であり、また「わたしの想像のなか」ということなのだが、私はこれを「わたしの肉体のなか」と読んでしまう。「わたしの肉体がおぼえている」と感じてしまう。「胎児のわたし」は包まれているのだが、この未生の肉体に比べると「母親の肉体」の方が存在感が強くて、そのために「胎児を包んでいる肉体(母親)」の方が前面に出てくる。私は「頭」で考えられたものよりも、実際にそこにあるものの方を信じてしまう癖があるのだろう。この私の「感じ」は明らかに「誤読」なのだが、「わたしのなかの」の「なか」ということばが気になって、「誤読」に誘われるのだ。

 何かを想像するということは、その「対象」になってしまうこと。いれかわること。これを「共犯」と呼ぶと言いなおせるかもしれない。

 基本的には倉橋が「胎児」になり、そこから「母親」を想像するという構造なのだが、読んでいると「母親」が「胎内」の「胎児」を想像しているという具合に、逆転が起きている。倉橋は「母親」になって「胎児」の倉橋を想像している。それも「頭」ではなく、「肉体」で。
 「肉体で」というのは、「頭で」というのとは違って、「想像する」というよりも、「思い出す」とい感じ。覚えているものを「思い出す」。知らないものを「想像する」のではない。

そういえば母親の胎内には深い樹液もあった
広々とした樹冠(クローネ)に抱かれてひっそりと揺られながら
孤独(ひとり)をかこつために睡り
孤独をかこつ自由もこんなふうにあるのだと
とおいとおいところからの声で
未生以前にすでに聞かされていた気がする

 これは「胎児の倉橋」の「記憶」として書かれているのだが、私は「母親になった倉橋」が「想像」していると読んでしまう。「胎児」は「胎内」で「孤独」を生きている。「孤独」を学んでいる。この子は「孤独」が好きな子になるかもしれない、などと想像している。あるいは「孤独」になれ、と呼びかけているとも感じる。
 想像というよりも「予感」かなあ。「直感」かなあ。「予感」とか「直感」というのは「頭」で考え出すものではなく、「肉体」の反応だから、ここに書かれていることばが「男性の文体」であるにもかかわらず、女の声(女の肉体)として、迫ってくる。
 どうにもうまく説明できないのだが、この詩を読むと、「胎児」になったという感じではなく、「母親」になった感じがしてしまう。
 「母親」が「胎児」を感じている。「わたし」が「母親」になるためには「胎児」が必要なのだ。「胎児」によって「母親」にかわっていくのだ。「胎児」によって「母親」として生まれる。生まれ変われるのだ、と感じている女。
 初めて「母親」になる「女」になった感じて、読んでしまうのである。

だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく

 というの「男の論理」で「母親」を想像していることばなのだが、「女の初めての記憶」のようになまなましく響いてくる。
 変な詩だなあ、と思う。「変」というのは、何度でも読み返したい。もっと考えたいという意味なのだけれど。

化身
倉橋 健一
思潮社
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山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』

2017-02-17 09:56:33 | 詩集
山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』(Editions Hechima、2016年11月28日発行)

 山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』にも「意味」というか、「文学」が出てくる。ただしそれは伊藤浩子『未知への逸脱のために』とは全く異なる。「e fango e il mondo」の全行。

そして世界は泥である

夢のなかで泳いでいた
夢の空間を
夢の文法があり
夢の論理があった
そこでは、
レオポルディと三島由紀夫が
ひそかに笑い合っていた
ボルヘスとホイジンガが
高い塔を見上げていた
ジョブズとラカンはともに
座禅を組んでいた
春の雪が降り
薔薇色の虎がゆき
ありとあらゆるスイッチは消えた
どこから「そこ」へ入っていけばいいのか?
姉たちよ! と、シャールはとなえる
見知らぬ魚たちに祈りを捧げる
そして世界は泥である

 複数の「固有名詞」が出てくる。それは「芝居」で言えば「役者」である。「役者」が「肉体」という「過去」をもっているように、それぞれの「固有名詞」は「ことば」の「過去」をもっている。芝居を見るとき、ストーリーとは無関係に「役者自身の肉体の過去」を見る。「存在感」を見る。もっとも、その「見る」というのは大半が「誤解」である。ほんとうにその役者の「過去」を知っているわけではない。なんとなく感じてしまう「過去」である。「女たらし」とか「子煩悩」とか。サドだとか、マゾだとか。偏執狂だとか。それは自分の肉体の中の、かなえられない欲望の姿かもしれない。
 で。
 それが「ほんとう」かどうかは知らないが、私たちは好き勝手な「過去」を選んで、役者の「芝居」を膨らませる。役者自身も膨らませるのだけれど、観客の方でもかってに想像力を暴走させる。
 三島由紀夫が「春の雪」を書いた。ボルヘスは薔薇色かどうか知らないが「虎」を書いた。ジョブズは禅に惹かれていた。「固有名詞」の「事情」など気にしないで、そこから勝手に暴走する。それは「正しい」こともあれば「間違っている」こともある。そして、どちらかというと「間違っている」ことの方が多い。山下晴代は「間違い」の方を選ぶ。つまり、山下の「好み」を優先させる。そこが、いわゆる「頭脳派」と違う。「頭脳派」は「正しさ」にこだわってしまう。「固有名詞」を「正しく」理解するかもしれないが、自分自身に「嘘」をつく。自分自身を「間違える」。
 ひとはだれでも間違える。しかし、間違えるには間違えるだけの原因がある。その原因が「個性」であり、それがおもしろいのである。西脇に百人一首をテキトウに現代語訳した詩があったが、あの訳というか解釈は「でたらめ」である。しかし、それはわざとやっている「でたらめ」であり、その「でたらめ」のなかに、どうしても出てきてしまう西脇の「本質」があり、それがおもしろい。山下のやっていることは、それに近い。どうしても出てきてしまう「本質」が「本物」であるから、表面的な「間違い」はどうでもいい。表面的に「間違い」を犯さないことには語れない「本質」というものがある。

 詩集のタイトルになっている作品の第一連。

しなの町の文学座アトリエに行くと
まだ開演前で
年配の女優たちがアトリエ前の敷地で
たき火を囲んでいた
杉村センセイ! と
北村和夫も江守徹も
抱かせていただきます! と、尊敬しながら
看板女優を抱いた

 ここに書かれているのはゴシップである。「ほんとう」かどうかは、北村和夫、江守徹、杉村春子に聞いてみないとわからない。三人がそのとき「ほんとう」を語るかどうかわからない。ゴシップが「嘘」であっても、演劇ファンには「ほんとう」である。それが「ほんとう」であってほしいと、ファンは欲望する。ファンの「本能」がゴシップのなかで「事実」になる。人間の「欲望(本質)」をすくいあげて、「事実」として「結晶化」させるときの「ことば」。それは「間違い」であっても「真実」。「間違う」ことでしかつかみとれない「真実」。
 露骨に書けば、杉村春子がセックスしてみたい女であるかどうかは関係ない。セックスして、気に入られれば引き立ててもらえる。俳優として成功する道がひらけると思えば、北村和夫は杉村春子を抱くだろう。「抱かせていただきます!」といいながら。それは、こっけいである。惨めである。しかし、人間はそういうことをするかもしれない。そういうことを「してみたい」かもしれない。否定と肯定が、区別がつかない。その「混沌」から、どっちへ踏み出すか。どっちへ踏み出そうが、「混沌」をくぐりぬけることが何かを生み出す。
 そうやって「生み出されたもの」が詩である。あるいは、「生まれる瞬間」を描き出すのが詩である。
 この作品は、途中で小林秀雄の杉村春子批判のことばを挟んで(批評バネに)、「間違いだらけの真実」を批評に転換してみせる。(小林秀雄のことばを引用した方がわかりやすいのだが、省略)

そう、技巧だけで何かになれると
思われていた時代
シング! などといってみても
誰もアイルランドなどに
行ったことがなかった
杉村春子は
広島の出身だったか
演劇ハンドブックにある
日本標準アクセントではなく
東京下町のアクセント
を、正しいと思って
身につけていた
だからテレビドラマでも
「よその人」という時、
「よ」の上にアクセントを持ってきていた
 さういふ時代
 が日本にもあった、だが
 もう誰も、杉村春子など
 思い出しはしない

 「過去」の存在、「過去」を覚えている。けれど、「思い出さない」。その「思い出さない」ものを「思い出させる」。「過去」はどんなに間違っていても「過去」という真実になる。間違っているからこそ「真実」になると言えばいいか。
 この批評性の強さが、山下の力である。批評のあらわし方が山下の個性である。

 「頭脳派」は間違いをおかさないようにことばを整え続ける。「普遍」をめざしながら「自分」という「事実」を忘れてしまう。何も「思い出さない」こと、「覚えていること」を「否定」することで「普遍」を目指すという、奇妙な「間違い」をしつづけている。そういう視点から山下のことばを読むと、その強さが際立っていることがわかると思う。

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伊藤浩子『未知への逸脱のために』

2017-02-16 10:00:29 | 詩集
伊藤浩子『未知への逸脱のために』(思潮社、2016年10月30日発行)

 伊藤浩子『未知への逸脱のために』は「意味」が先走る。タイトルもそうだが、「未知」「逸脱」ということばにはすでに「意味」が存在し、しかもその「意味」は伊藤のなかで完結している。まるで「翻訳」を読んでいる気持ちになる。「意味」は「原典」(伊藤の頭のなか)に存在していて、その「解説」を「日本語(読者に理解できることば)」で聞かされてる感じ。伊藤の「肉体」が直接ことばをつかみとっている、「肉体」とことばがぶつかっているという感じがしない。

沈黙を纏ったひと
霊歌よりも深く奏でるひと
物語りにこまやかに自由を編むひと
その肩を抱いてもいい?
星座と 流された血と 記されなかった文字とで
黝い波の果てに訊ねている            (「日々の痕跡」《モード》10)

 「意味」は「過去」と言ってもいい。「沈黙」と「霊歌」、「霊歌」と「物語」をつなぐ「過去」、「星座」と「血」をつなぐ「過去」というものがある。ただし、それは伊藤の「肉体」というよりも伊藤の「頭」のなかに「意味」として存在している。
 「意味」が確立している、ととらえればいいのかもしれないが、確立してしまっている「意味」なら詩にする必要はないだろうと思う。「意味」以前のものを「ことば」そのものとして生み出していくのが詩だと私は思っている。
 「In The Room 」の部分。

日常がいくらかでも遠ざかっているうちに、からだの部位をなぞり、
影の吐息を映し出している、ほどけたのは、曇り硝子だったか、波
の記憶だったか、それとも。

 「ほどけたのは、曇り硝子だったか」ということばは、その直前の「影の吐息」と重なることで「肉体」にかわる。ほどけたのは「肉体(吐息)」だったか、「曇り硝子」だったか。断定をこばむことで、それが「ひとつ」に融合する。
 こういう部分はおもしろいと思うが、「からだの部位」の「部位」が「意味」でありすぎる。「なぞる」とき、「からだ」は「部位」なのか。「部位」としてとらえてしまう「頭脳」の強さが、私は嫌い。言い換えると、私はこういう「頭脳の強さ」というものを信用していない。
 「In The Room 」に通じることだが、「予兆、そしてエロチシズムという不安の」の書き出し。

海の見えるホテルのひとつめの部屋に浮かぶ岩は悲哀。
親殺しの無色の薔薇に由来する、夏だったかもしれない、嵐だった
かもしれない。あるいは裕福な庭園の外れなのかもしれなかったが。

 「岩」は「悲哀」の象徴か、「悲哀」の象徴が「岩」か。どっちでもいいが(どっちでもいいということはない、と「頭脳派」伊藤は言うだろうが)、この相互が断定が、とても「翻訳」っぽい。「肉体」ではなく「知識」が入り込んでいる。「翻訳」っぽく感じるのは、こういう断定が西欧の文体の特徴だからかもしれない。「もの」と「概念(感情というよりも、悲哀とは何か、という概念)」の結合。そこに詩を感じるためには、まず「概念の歴史」というものを持たなければならない。私は「概念の歴史」というものには興味がないので、どうしても「遠い世界」に思えてしまう。ついていけない。
 「エロチシズム」というのは「肉体」で感じるものだと思っているが、伊藤は「頭脳」で「理解」しているのだろうか。
 繰り返される「かもしれない」は「頭脳」の揺らぎである。「肉体」は揺らいでいない。「親殺し」も実際に親を殺すという「動詞」ではなく、「親殺し」という「名詞」になってしまっている。「名詞」だから、平然と「無色の薔薇」という比喩と結びつく。あ、「無色の薔薇」は「親殺し」の「象徴」として働いていると言うべきなのかな?
 「岩」の変遷を見ていくと、伊藤の「翻訳」好みがさらにわかりやすいかもしれない。
ふたつめの部屋の岩は愉悦。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。

 「悲哀」「愉悦」「未来」。この熟語を、私の「肉体」は繋ぐことができない。「悲哀(感情)」「愉悦(官能)」は、まだ「肉体」のなかに「ある」といえるかもしれない。「悲哀」「愉悦」は「肉体」であると言えるかもしれない。しかし「未来(存在しない時間)」を「肉体」であると呼ぶのは、私にはできない。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。
欠落を見落とした不機嫌な妖精がつくる、夜と昼とを無知と智慧と
で跋扈せよ。
そして断絶も境界も拒みながら光のように、

 私は「妖精」を見たことがないから、そんなものが何かを「つくる」とは思わない。むしろ「無知と智慧」というものが「妖精」をつくりだしているのと思う。「頭脳」がつくりだしているのだと思う。
 それはそれで、いいのかもしれないが。
 この詩の最終行。

あなたはますますかるくすばやく生まれ変わる。

 「妖精」は「かるく」「すばやく」ということばになって動いている。「生まれ変わる」とは「エクスタシー」、自分の外へ出て行ってしまう、自分でありながら自分ではなくなるということであり、それが「エロチシズム」の力と言うことになるのだが。
 うーん。
 「結論」だけ整えられてもなあ、と思う。

 「結論」をこわす、「意味」をこわすのが詩ではないだろうか。
 「頭脳派」の詩人の作品を読むたびに、私は苦しくなる。「頭脳派」のひとが悪いのではなく、私の頭が悪いだけなのだが、頭の悪い人間というのは自分は頭が悪いということを認めたくないので、頭のいい人に文句を言うのである。
 まあ、そう思ってください、はい。

未知への逸脱のために
伊藤 浩子
思潮社
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峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』

2017-02-15 16:57:05 | 詩集
峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』(七月堂、2017年02月01日発行)

 峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』は外国を旅行したときの詩を集めているのだろうか。

バスに揺られているあいだは
息が吸える気がした
遠ざかってゆく、のか
近づいて行くのか
もう誰にもわからなくなっていたから          (「パリ、16時55分着」)

 「わからない」こと、決定しないことによって、「肉体」が解放される。新しく生き始める。不安があるかもしれないが、それが逆に「生きている」を静かに刺戟する。「遠ざかってゆく、のか/近づいて行くのか」という反対のことが、そのまま「いのち」になってゆく。「息が吸える」のなかで生きている「肉体」が強い。

ゆく、も
帰る、も
いちどに見失い                          (「夜行」)

 というような行も見える。
 そういうことばのなかにあって、

動かない回転店木馬のそばで
雨がつづいていることに
ひとり 安心している                       (「滞在」)

 の「雨がつづいている」と「安心」の結びつきが、とても印象に残る。「時間」がたしかにそこに存在する。「時間」が「つづいている」ということのなかで、自分が「つづいている」を呼び覚ます。
 これは「冬祭り」という詩のなかで、美しく結晶する。

まだ暗い部屋で目をさます
ぱちぱちと 古い本が燃える匂い
雨か それとも
はぐれた鹿が枯れた枝を踏む音
みずうみか 森が近いのだろうか
方角やことばがわからないぶんだけ
旅の空はくもってしまうのだから
カーテンはいくら開いても
何も見ないためにここまで来たと
信じてもいいほどの霧

あれは雨でも けものでもなく
見る、という時間が
この霧に許されて
少しずつ燃え落ちてゆく合図だとしたら

昨日 車窓を流れていた駅の名や
数年前に離れていったひとの頬
そうした目に焼きついたもののすべてが
いつかすれ違った冬祭りの少女たちのように
白い息だけを
どこまでもまとって
閉ざされた冬を抜け
みずうみをまわり
森の緑へと放たれてゆく

 「見る」は「見た」という「過去」となり、これから新しく「見る」という「未来」を生み出していく。「時間」そのものを再生させる。
 「古い本」あるいは「枯れ木」を「燃やす(燃える)」から始まり、「森の緑」へと動いていく自然な強さ。それを峯澤は読者を誘い込む静かさで書いている。

 後半の「桃」「校庭」は日本でのことを書いていると思うが、この二篇も美しい。桃を買って帰る、そのことが

そのことが
帰り道を明るくした
やっと迷わなくなった道で
顔をあげてもいい明るさだった

 この「発見」が特に美しい。「発見」は、この場合、最初からそこにあったものをみつけるというよりも、峯澤が「生み出した」もの。「発明」といったほうがいい「明るさ」である。


ひかりの途上で
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七月堂
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中川智正「炎天下」ほか

2017-02-14 10:06:58 | 詩(雑誌・同人誌)
中川智正「炎天下」ほか(「ジャム・セッション」10、2016年12月28日発行)


 中川智正「炎天下」を読む。俳句である。

冬北斗 わが頭上にも傾(かたぶ)ける

息よりも熱き風吸い初打席

 「冬北斗」は冬、「息よりも」は夏だろうか。季節は違うのだが、「孤独」を感じさせる。しかも、「周囲」が見える孤独である。自分と他者(他の存在)のあいだが完全に透明になったような「孤独」。

秋彼岸看守へ頼む針へ糸

 「看守」につまずいた。囚人?
 中川智正、という名前には見覚えがある。オウム真理教の幹部ではなかったか。同じ号のエッセイ「私をとりまく世界について」を読むと、たしかに、あの中川である。
 あ、俳句を書いているのか。
 「秋彼岸」は孤独と同時に、ひとへの「信頼」のようなものが感じられ、そうか、中川はオウム真理教にいたころとは違った人間になっているのだな、とも思う。
 もっとも、オウム真理教にいたころの中川についても、いまの中川についても私は知らないのだけれど。
 この句には、美しいものがある。看守になって、中川に針に糸を通してくれと頼まれ、針に糸を通してやりたいような気持ちになる。逆もいいかもしれない。刑務所に入って、物を繕う。うまく針に糸がとおらない。頼める相手は看守だけ。それで「すみません。針に糸をとおしてください」と頼む。ひとに自分の「無力」(おおげさかもしれないが)をさらけだし、ひとに頼る。この「頼る」気持ちが生まれ、それを実際に行動し、ことばにする。そこに不思議な美しさを感じる。ひとに「頼る」というのは、いいことだと思う。
 勝手な想像だが、オウム真理教の幹部だったころ、中川はひとに頼るということはしなかっただろうなあ。ひとに頼ることができる人間は、ひとを殺すことを考えたりしない。ひとに頼らない人間だけが、他人を殺すのだと思う。

大西日 千二百秒母と会い

 中川が、あの死刑囚の中川だと思うと「千二百秒」が強く響いてくる。「二十分」は短すぎる。「千二百」という大きな数字に頼っている。「二十分」と「千二百秒」は物理的には(数学的には)同じ時間だが、「千二百秒」の方が心理的に長い。いや、逆に早く過ぎていく感じがして「短い」かもしれない。そのときそのときで、「二十分」になったり「千二百秒」になったり、短くなったり長くなったり、どっちかわからなくなるけれど、きょうは「千二百秒」ということばに頼りたい、という感じ。ここにも「弱いもの」の「強さ」がある。
 「弱いものの強さ」を中川は発見していると思う。
 「冬北斗」にも「息よりも」にも、「弱いものの強さ」に通じるものを感じる。「弱さ」の自覚と言えばいいかもしれない。「弱い」と自覚するとき、世界は今までとは違った「充実」をみせる。「共存」というものが、ふっと、意識をつらぬく。
 「弱い」と「強い」が「求心/遠心」として動く。瞬間的に「世界」があたらしく生まれる感じ。
 「母に会う」ではなく「母に会い」と「終止形」でないところも「悲しさ」を呼ぶ。余韻が漂う。

祖母にだけ長く供えて熟柿(じゅくし)かな

 「長く」のなかにこころが動いている。

絞縄(こうじょう)の絵図を写せば蝉しばし

 「しばし」は「短い」。「祖母に」の「長く」と対比すると不思議な気がする。「長く」も「しばし(短い)」も、断定できない。相対化できない。「長い」は「短い」であり、「短い」は「長い」である。
 こういう不思議さを凝縮できるのは「俳句」の特徴かもしれない。

百合の香や見えぬ目をあけウインクし

 これは、おもしろい。百合が目の前にあるのではないだろう。香りがする。目をつぶって百合を思い描く。この目をつぶって百合を想像することを「見えぬ目」と言っている。目をつぶっているときは見えて、目を開ければ見えない。
 百合と中川が「一体」になっている。「一体」のなかで「ウインク」する。中川が? 百合が? 相対化し、断定しては、世界は動かない。ふたつを行き来し、行き来することで「ひとつ」になる。

脳が見る鶏頭(けいとう)もまた脳を見て

 「百合の」の句に通じるものがある。「論理」が強すぎるかもしれない。この「論理」の強さが、どこかで中川をオウム真理教と共振させることになったのかもしれない。

* 

 「ジャム・セッション」は先日紹介した江里昭彦が出している同人誌。江里は山口県に住んでいるのだが「琉球新報」を講読している。沖縄で書かれていることばを直接読んでいる。
 江里と中川がどのようにして出会い、どうやって一緒に同人誌を出すことになったのかわからないが、江里の、ことばに向き合うときの真摯さが中川のこころを揺さぶったのかもしれない。
 人間のなかでことばはどう動き、そのとき「世界」はどう見えるのか。ことばがかわるとき、「世界」はどうかわるのか。どういうことばをつかうべきなのか、を江里は問い続けているのだろう。
 その江里の「胸騒ぎするほどのさびしさ」から三句。

旅先の夜具のくぼみの万愚節

苦力(クーリー)あり髪のはえぎわまで湿疹

見えぬあり見えるあり盆地の凧の糸

 こういうものに気づいたとき、たしかに「さびしさ」は胸騒ぎになる。
 中川のことばに出会い、「胸騒ぎするほどのさびしさ」を江里は感じたのか。

 江里はまた、松下カロの『白鳥句集」から三十句を紹介している。ことばを添えずに、ただ並べている。私も江里にならって、その三十句のなかから少し「紹介」してみる。

白鳥のほんたうの色問はれけり

ひるあひる白鳥あひる白鳥あ

作法通りに白鳥は喉を突き

白鳥は新刊本の匂ひする


絞首刑は残虐な刑罰ではないのか? — 新聞と法医学が語る真実
中川智正弁護団,ヴァルテル・ラブル
現代人文社
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田中紀子「生い立ち」

2017-02-13 09:51:46 | 詩(雑誌・同人誌)
田中紀子「生い立ち」(「豹樹」27、2017年02月01日発行)

 きのう映画「たかが世界の終わり」を見た。そのあとで、田中紀子「生い立ち」を読んだ。

ナナカマドの樹は
そこで芽吹いたときから
葉をつけ
花をつけ
実をつけ
風のかたちに
撓みながら
伸びていった

どこからか
吹かれきた
一枚の枯葉
ナナカマドとあなたの隙間に
漂い落ち
差し出したあなたの手元からするりと
舞いあがる
あなたは
あとを追うことができると
わかった

 淡々とした描写。とても自然に読むことができる。そして、情景をくっきりと「見た」と思った瞬間、「あなたは/あとを追うことができると/わかった」。この三行で私はとまどう。あるいは感動すると言ってもいい。
 「わかった」の「主語」はだれだろう。「あなた」か。それとも情景を見ていた「わたし(田中)」か。さらには、「あなた」が「わかった」ということを「わたし」が「わかった」のか。
 きっと「あなた」と「落葉」を追いかけて去っていってしまう。
 そのことを、「あなた」がわかり、また「わたし」がわかる。「わかった」。
 「あなた」は去っていかなければならない。「できる」は単なる「可能性」ではない。一種の「決定」である。
 それが、「わかった」のである。

 こういうことはよくある。
 「できる」というのは「予感」に似ているが、「予感」はかならず実現しなければならない。実現してしまう。
 「ことば」ではなく「肉体」が直感でつかみとる。
 「手元からするりと/舞いあがる」の「手元」が「肉体」。「するり」は「肉体」が感じ取った絶対的な何かである。

 「たかが世界の終わり」のラストシーン、ギャスパー・ウリエルとマリオン・コティヤールが別れる瞬間の、まなざしの交流(わかりあうこと)を、思い出すのである。



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グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)

2017-02-12 22:46:37 | 映画
監督 グザビエ・ドラン 出演 ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥー、マリオン・コティヤール、バンサン・カッセル、タリー・バイ

 これは、つらいなあ。
 これがカナダ人? カナダに住むフランス語を話す人々、なのか。(私が感じているフランス人とはかなり「人格」が違う。)
 登場人物は5人。主人公以外はしゃべりまくる。ただし、話すことばの「質」は非常に違う。妹、兄、兄の妻、母親。マリオン・コティヤールが兄の妻。彼女だけが「肉親」ではない。そのために「距離」のとり方が違う。「距離」があるために、主人公をいちばん理解しているような感じがする。
 最後のシーン、何か言おうとするが、主人公のギャスパー・ウリエルの唇に指を当てて「しーっ」と身振りで沈黙を指示され、口をつぐむ。彼女だけが、「口をつぐむ」ということを知っている。
 他の家族は口をつぐめない。言わずにはいられない。だから、逆に、うまくしゃべれないという形で会話がぶつかり合う。
 こういう会話、自分の家族とできる?
 私は、できないなあ。したことがないなあ。そのために、なんだかどぎまぎしてしまう。

 まあ、それは置いておいて。

 4人は、なぜ、あんなに感情をむき出しにするのだろう。
 主人公はゲイ。自分が死ぬことをわかっている。それを家族に告げに来た。しかし、言い出せないまま帰っていく、というストーリーなのだが。
 家族は、そしてマリオン・コティヤールは彼の死期が近いということを知っているのだろうか。私は、映画を見ている観客よりも、強く、深く、そのことを知っているように感じてしまった。
 ギャスパー・ウリエルが死ぬとわかっている。12年ぶりに帰ってくる。なぜなんだ。もしかしたら、死ぬのではないか。死ぬ前に別れに来たのではないか。その「予感」のようなものが、ぐいとのしかかってくる。
 それをどう受け入れていいかわからない。
 ギャスパー・ウリエルが何か言おうとすると、それを抑え込んでしまう。言わせたくない。聞きたくないのである。愛しているから、憎んでしまう。
 ギャスパー・ウリエル以上に苦しんでいる。そのために、ことばをうまく発することができない。
 これが、アップの連続でつづく。表情の演技で延々とつづく。
 だんだん、「私は死ぬんだ」というギャスパー・ウリエルの「告白」は聞きたくない、という気持ちになってくる。言わないと、この映画は終わらない。けれど、聞きたくないという気持ちになる。
 それは、だれの気持ち?
 母の気持ち? 兄の気持ち? 妹の気持ち? それとも兄の妻、マリオン・コティヤールの気持ち? 区別がつかなくなる。
 だれに感情移入して気持ちをととのえればいいのか、わからない。
 こういう映画は、私ははじめてである。
 だれに感情移入していいのかわからないのに、そこにあふれる感情にぐいぐいと胸を締めつけられる。

 しかし、マリオン・コティヤールはうまいなあ。肉親ではない、部外者なのに、肉親のなかにまきこまれて、引き裂かれる。引き裂かれながら、その家族をつなぎとめようとする。彼女しか、それができない。だから、そうしなければならないのだが、できない。これを前半は、ひたすらしゃべることで、最後は口をつぐむことで、表現する。

 最後は、「愛の破綻」(愛を失う)を描いているようにも見えるが、「愛の確認」のようにも受け取ることができる。いや、私は「愛の確認」と受け止めた。
 兄も、妹も、母も感情をぶつけて、「家族」がばらばらになる。けれど、それはギャスパー・ウリエルが死ぬことで「家族」が「欠ける」ということに対する「不安」がそうさせるのである。
 マリオン・コティヤールは、「みんな、あなたを愛しているのよ」と言いたい。そのことばを、ギャスパー・ウリエルは「わかっている。言わないでもいいよ」と身振りでさえぎる。そこに、哀しい「和解」がある。彼が死んで「遺体」となって帰って来たとき、家族は悲しみのなかで「ひとつ」になる。(ギャスパー・ウリエルの「遺体」の帰郷は、ラストシーンの小鳥の死骸で暗示される。)「憎しみ」が消える。そうするしかない「家族」という愛。愛の確かめ方。

 こんな苦しみに耐えて生きているのがカナダ人? フランス語を話すカナダ人? (英語を話すカナダ人は違うかもしれない。)
 グザビエ・ドランを、もう一度見直してみないといけないのかもしれない。私は多くのものを見落としていたかもしれない。
 (KBCシネマ1、2017年02月12日)


 
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
Mommy/マミー [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
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内政問題?

2017-02-12 21:31:13 | 自民党憲法改正草案を読む
内政問題?
               自民党憲法改正草案を読む/番外71(情報の読み方)

 2017年02月12日読売新聞(西部版・14版)は「日米首脳会談」一色。どんな成果があったのか、よくわからない。1面に、

「尖閣に安保」明記

 という見出しが躍っているが、私はどうしても、それでは「北方四島は?」と思ってしまう。いまは無人島の尖閣諸島と違い、北方四島は実際にロシア人が住んでいる。これは、このまま放置? 日米安保条約の適用対象外? 北方四島を「棚上げ」にした安保条約なら、尖閣諸島も棚上げにしておいた方がいいのでは、と私は思う。
 外交とはもともと「二枚舌」でおこなうものなのかもしれないが、「二枚舌」の先に中国敵視の世界観があるようで、どうも落ち着かない。

 気になったのは「日米首脳共同記者会見」の次の部分。

質問 昨日の連邦控訴裁判所の判断について質問したい。今回の判断は大統領の権限行使を再考することにつながるのか。今後、どのように対応するつもりか。
首相 我々は世界において、難民問題、あるいはテロの問題に協力して取り組んでいかなければならないと考えているし、日本は日本の役割を今までも果たしてきた。これからも世界とともに協力し、日本の果たすべき役割、責任を果たしていきたいと考えている。
 それぞれの国々が行っている入国管理、難民対策、移民政策については、その国の内政問題なので、コメントは差し控えたい。

 「入国管理、難民対策、移民政策」は「内政問題」と言い切れるのか。どの問題も、最低二国間にまたがる問題である。ひとつの国の問題ではない。二国間にまたがるなら国際問題である。
 さらに国、宗教を基準にして、「入国管理」が行われるならば、それは「人権問題」である。「人権問題」は「内政問題」ではない。「国境」を超える、人間社会全体の問題である。世界はどうあるべきか、という「思想」の問題である。
 「人権感覚」のない安倍は、平気で日本国内において人権抑圧をはじめるだろう。「テロ等組織犯罪準備罪」の新設は、その第一歩だ。諸外国から日本の人権弾圧を揉んだに漉されたら、安倍はきっと「内政問題だ」と言うにちがいない。
 そういうことを感じさせる。

 だいたいアメリカは、アメリカ国外で難民を生み出す行動をしている。外国の「内政」に干渉している。それもアメリカとは隣接してない遠い国である。それが原因で難民を生み出し、またテロも誘発している。「入国管理、難民対策、移民政策」はアメリカの「内政問題」ではない。むしろ「外交問題」だ。
 たまたま今回の質問は「入国管理」についてのものだが、「移民政策」に目を転じれば、それは日本にも響いてくる「外交問題」である。トランプはメキシコ国境に壁をつくろうとしている。アメリカとメキシコのあいだには「車産業」をめぐる「経済問題」があり、そこには日本の企業も深く関係している。ほとんど「日米経済問題」の様相をみせている。だからこそ、安倍はトヨタの社長とも会談したのではないのか。
 「入国管理」は、そのまま「経済管理」(貿易管理)へと流用できる。日本からの輸出がアメリカの経済を破壊している。高い関税をかけることで日本からの輸入を減らせ、という「政策」を打ち出したとき、安倍は、「どのような関税を設定し、自国の経済を守るかは、その国の内政問題なのでコメントを差し控えたい」と言うのか。アメリカが「アメリカ・ファースト」を実現するためにどんな政策をとろうと、それはアメリカの内政問題と言い切るのなら、それはそれでいい。しかし、安倍はそんなことはしない。アメリカの要求のままに「経済政策」をのんでいたら、今度は日本の経済界からそっぽをむかれる。「企業献金」がはいってこなくなる。
 安倍はここでも得意の「二枚舌」を発揮している。
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山下澄人「しんせかい」

2017-02-11 10:14:59 | その他(音楽、小説etc)
山下澄人「しんせかい」(「文藝春」2017年03月号)

 山下澄人「しんせかい」は第 156回芥川賞受賞作。退屈で、やりきれない。
 芝居出身の人で、「間」を描いている。「間」がテーマである。「間」そのものは、この小説のなかでも芝居の稽古のところに出てくる。そこに出てくる「定義」は無視して、私自身のことばで言いなおすと。
 「間」というのは、人間(個人)がもっている「過去」が「現在」のなかへ噴出してくる瞬間のことである。役者の「存在感」によって具体化される。
 芝居というのは小説と違い「現在」しかない。「現在」から「未来」へと動いていくしかない。「過去」は役者が「肉体」で背負って具体化する。小説なら「過去」として説明できる部分を、「ことば」ではなく「肉体」としてさらけだしてみせてくれるのが芝居。役者(存在感)次第でおもしろくなったり、つまらなくなったりする理由はここにある。
 その「間」、つまり「個人の過去」が噴出してくる瞬間を克明に描こうとしたのがこの小説。しかもただの「間」ではなく、「間抜け」の「間」を描こうとしている。そういう意味では「野心作」なのだが、「野心」が丸見えで、その分、退屈である。ぜんぜんおもしろくない。
 具体的に指摘すると。馬に乗って原生林に入っていく。そうすると「コツコツと固い何かで木を小刻みに叩く音が聞こえてきた。」(文藝春秋、 411ページ)何だろう。

大きな黒い何かが木の幹に縦にいた。鳥だった。それが動くたびに音がした。あれがこの音を出しているのだ。キツツキだ。げんにくちばしで木をつついている。木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。( 415ページ)

 キツツキと気づくまでの「間(時間)」が描かれている。その「間」のなかで動いた意識が、動いたままに描かれている。「木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。」という言い回し(文体)に、この小説で書こうとしている山下の狙いがある。キツツキと断定するまでの、あるいは納得するまでの、自分自身への「言い聞かせ」。そのことばの動きが、ゆるりとうねっている。「間延び」している。
 利発な(?)ひとなら、「木をつつくからキツツキだ」でおしまいのところを、「……というのだからそうだあれが」という「認識」をとおって「キツツキだ」にたどりつく。「間抜け」である。「間(認識の動き)」をくぐらないと結論に至らない。
 おかしなもので、こういう「間」を省略でき(抜かすことができる)るひとを、世間では「利発」という。そして、それを省略できないひと(抜かすことができないひと)を「間抜け」という。「間抜け」というのは「間」を多く抱え込んでしまうひとのことである。
 この「間抜け」という批判と、「間抜け」の実体との「齟齬(矛盾)」を描き抜くということを山下はやろうとしている。
 それはそれで「野心」に満ちていて、とてもいいのだけれど、この「間抜け」が、「現実」そのものを突き破っていかないから、退屈。「間抜け」が過激になればおもしろいのかもしれないが。
 たとえば、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は「間抜け」を「時間の重力」にまで凝縮している大傑作だが。

 この「キツツキ」の「間抜け」のあとに、逆の「間抜け」が出てきて、その「衝突」というか、「対比」がこの小説の一番の読ませどころである。
 主人公は栄養失調で農作業中に倒れてしまう。それに気づいた農家のひと(雇い主)が救急車を手配したくて電話をかける。農家の人は主人公の名前を知らない。そこで、

「進藤です」
 を繰り返した。
「進藤です!」
「進藤です!」
 しかしそれは
「じんごうげす」
 にしか聞こえない。
「じんごうげす!」
「じんごうげす!」                       ( 417ページ)

 進藤さんの意識のなかでは、スミト(主人公)が倒れた、病院に運ばなければという意識が動いている。全力で突っ走っている。「説明」しなければいけないことがたくさんあるのに、その「説明方法」がない。ともかく「進藤です」と名前を告げることで、相手に察知してもらうしかない。しかし、急ぎすぎているので、いつものように「じんごうげす!」となまったままに言ってしまう。他人に理解してもらうという配慮が抜けて、他人に伝えたいという思いが先走る。そのために混乱する。
 これは、一般的な「間抜け」。そんなに急ぐなよ。落ち着け、といわれる瞬間だ。しかし、ここで「間」をきちんととってしまうと、今度は「劇」が消えてしまう。
 このシーン、舞台での上演を想像してもらうとわかりやすいが、「じんごうげす!」に「間」があっては間延びしてしまう。電話で対応しているひとの声を突き破って「じんごうげす!」が動くとき、緊迫感が出る。
 ここだけ、主人公の視点からふっきれた「他人」が登場している。「間」の違いが「他人」をつくりだす。
 
 「間」はいつでも「適切」であることが求められるものなのだ。

 この小説が退屈なのは、主人公のなかで「間」の変化がないからである。「間抜け(間延び)」のまま。「じんごうげす!」のような「認識」を突き破って、ことば、肉体が動く瞬間がない。「間」のない「間抜け」がない。
 「ゴドー」でさえ、「肉体」がことばを突き破っているのに。

 倉本聡の「富良野塾」をやめた(やめさせられた?)きっかけのなかに、「じんどうげす!」のような「緊迫の間抜け」があるのかもしれないが、私は小説からは読み取れない。
 倉本聡、「富良野塾」という「過去」がなかったら、「小説」になっているかどうかもわからない。芝居で言えば、倉本聡、「富良野塾」という存在感(肉体)によりかかっている作品ということになる。



 「選評」もひどい。川上弘美が積極的におしているのだが、「なんだかいいんですが、うまく説明できないんです」としか言っていない。ことばで金をとっているのだから、「うまく説明しろ」と私は思わずどなってしまう。。吉田修一は「空振り」という比喩で評価しているが、倉本聡、「富良野塾」というスター投手(?)に素人が「空振り」するなんてあたりまえ。「空振り」に「華」がなければ、意味がない。私は直接見たわけではないが、新人の長嶋が金田相手に三回連続「空振り」をしたときのような「華」がなければ「空振り」とは言えないだろう。
 なんだか山下の先生(?)の倉本聡、富良野塾、文藝春秋の「売り上げ」に配慮して受賞作を決めたという感じのする、こざかしい選考評である。こざかしいは「間抜け」ということでもある。
 村上龍がかろうじて「批判」しているが、はっきりと「だめ」といわないはだらしない。こんな口籠もり方は、やはり「間抜け」に見えてしまう。


しんせかい
クリエーター情報なし
新潮社
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