詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外25(情報の読み方)

2016-09-27 10:59:08 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月27日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「首相演説中 自民が起立、拍手/衆院議長注意/野党は抗議へ」という記事が載っている。安倍の所信表明演説注のことである。

 首相は海上保安庁職員や警察、自衛隊員の働きぶりに触れた後、「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけて、拍手をはじめた。これを受け、自民党員らが起立して拍手を約20秒間続けたため、大島氏が「ご着席ください」と注意した。 日本維新の会の馬場幹事長は演説後、記者団に「異常な光景。落ち着いて真摯に議論しあう状況ではない」と批判。生活の党の小沢共同代表も「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」と語った。民進党も「品がない」(幹部)と問題視しており、野党側は衆院議院運営委員会などで抗議する方針だ。

 「異常な光景」「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」「品がない」と感じたのかまでは、読売新聞は報じていない。
 私はネットで「拍手」の部分だけを見たのだが、やはり「異常」だと感じた。「恐怖」を感じた。
 なぜか。その理由を書く。
 人がだれかに敬意を表して拍手をするということは、ある。それ自体は、異様ではない。つられて拍手をすることもある。でも、そういうとき、その拍手をされる相手が私の目の前にいる。そういうときだ。
 目の前にいないときも、もちろん、ある。たとえばテレビでオリンピック中継を見ている。水泳の男子800メートルリレー。日本チームが銀メダルを獲得した。わっ、すごい。思わず、拍手をしたくなる。多くの人と一緒に見ていたら、みんなで一緒に拍手をするだろうなあ。
 これが現実ではなく、たとえば映画「ベン・ハー」。戦車レースのシーン。チャールトン・ヘストンが落ちそうになるのに耐えて、戦車にもどる。後ろでは敵(?)の戦車が壊れる。ここで観客から拍手が起きる。
 これは「目の前」に「現実」があるわけではないが、同じ時間を共有しているので、思わず「自分の肉体」が反応し、それが「拍手」にかわるのだ。
 ところが、演説を聞いているとき、目の前には自衛隊員らはいない。安倍は、演説の中で言っているように、確かに「夜を徹して、そして今のこの瞬間にも」「任務にあたっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全う」しているだろう。けれど、その「緊張感」「責任感」を、「映像」かなにかで「共有」しているわけではない。安倍は「緊張感」「責任感」というが、それがどんなものか「ことば」でも「共有」しているわけではない。(それが「ことば」で具体的に描写されるわけではない。)だから、「拍手」が「共感」として、つたわってこない。一緒に「拍手」する気持ちになれない。

 「拍手」というのは、称賛しているということを相手に伝えるものである。だから、その称賛を伝えたい相手が目の前にいることが「大前提」である。
 ここから、安倍の演説と自民党議員の態度を見ていくと、自民党議員は自衛隊員らに「拍手」を送っているのではなく、安倍に「拍手」を送っていることになる。実際、ネットの映像で見たとき、私は、その「拍手」が自衛隊員らに送られているのではなく、安倍に向けておくられていると感じた。
 感動で思わず手を打ち鳴らし、それがそのまま拍手に変わっていくというようなものではない。
 さらに、安倍の「拍手」の映像が、とても奇妙だった。「敬意」を表しているようにはとても思えなかった。縁談で「拍手」をしているが、それは「拍手」を誘う(強要する)ような感じである。「いま/ここ」にいない自衛隊員に向かって真剣に拍手をしている(リオにいる選手に思わず拍手を送る)というような感じ、我を忘れた、他者と自己を同化して真剣になってしまったという感じではなく、「ちゃんと起立して拍手しているか、おれは見ているぞ」と議席を「点検」する目つきなのだ。
 「おれがおまえたちを当選させてなったんだ、拍手しろよ」という感じでもある。安倍の「自画自賛」に自民党議員が追従している感じ。
 それが、気持ちが悪い。
 自民党議員の中で起立しなかった人、拍手しなかった人がいるのか、いないのか。読売新聞には書かれていない。「造反者」がいなかったとしたら、それはそれで、こわい。「民主主義」とは「多様性」が原則であり、「多様性」というのは「批判」を同時に含んでいる。だれも、安倍の「拍手の強要」に対して疑問も持たずに従ったのだとしたら、これは、おそろしい。自民党は「民主主義の党」では、ない。安倍「独裁」の党である。党を独裁支配し、それをそのまま国民に押し広げる。あの、議席を見渡す安倍の目つきは、そのままあすは国民一人一人に向けられるのである。



 所信表明演説で気になった点をいくつか。「憲法改正」について触れた部分の、

 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への端を架けようではありませんか。

 「思考停止」というのは、「第九条」を絶対視する、憲法は変えてはならないという主張を批判してのことばだが、そう「批判」するとき、安倍の方も「思考停止」に陥っていないか。「第九条」を変えなければ日本の安全は守れない、アメリカに押しつけられた憲法ではなく、独自の憲法でなければならない、というところで「思考停止」状態になっていないか。この憲法のおかげで七十年間、日本は戦争をせずにつづいてきた、という「事実」を見落としていないか。「未来」を語るときは、同時に「過去」も丁寧に点検すべきである。今回の演説には「未来」ということばがしきりに出てくるが、「過去」を掘り起こすという真摯さ、過去から学ぶ姿勢がない。

 「一億総活躍/働き方改革」の柱「同一労働同一賃金」についても疑問を書いておく。安倍は、こう語っている。

 同一労働同一賃金を実現します。不合理な待遇差を是正するため、新たなガイドラインを年内を目途に策定します。必要な法改正に向けて、躊躇することなく準備を進めます。「非正規」という言葉を、みなさん、この国から一掃しようではありませんか。

 安倍がこう語るとき「同一労働同一賃金」とは、どういうことを指しているのだろうか。「同一労働同一賃金」の「名目」のもとに「ノルマ」が厳しく設定されることはないのか。「ノルマ」を達成できない労働者の賃金は、そのために切り下げられるということはないのか。「非正規」をなくすために、どうするのか。全員を「正規」にするために、ある部署を「子会社化」し、その「子会社」で「正規社員」として雇用する。「子会社」を設置するとき、そこでの「賃金」を一気に引き下げる。「子会社」で「ノルマ」を厳しく管理しなおし、「同一労働同一賃金」を実現する。
 どんなことも「実現」には「具体的方法」がある。所信表明演説では「具体的方法」までは語らない。

 定年引き上げに積極的な企業を支援します。意欲ある高齢者の皆さんに多様な就労機会を提供していきます。

 というのも「ことば」は美しいが、裏を返せば、年金支給は七十五歳からにする。だから、それまでは「働け」ということかもしれない。「多様な就労機会」というのは働き手の少ない職場ならいつでも就労させるということかもしれない。








*

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村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」

2016-09-27 09:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」(「言葉の海へ」10、2016年07月02日発行)

 村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」の「キリギリス」の二つ目の文字は、「虫」+「斯」なのだが、私のワープロでは表記できないので「斯」で代用した。
 その後半。

午前七時の天気予報で梅雨明けが宣言され、窓を開け放ち西風を
呼び込むのは子供の頃からのならいで、ガスレンジの上でお湯が
滾っている薬缶が気持ちのいい音を部屋中にまき散らしているの
を耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが
嬉しく、瞼はあなたの一重が好みで、またあの夏が来たので詩人
なんか大嫌いと書き散らし、それでも振り向くとまた雨だれの音
が家の中までして季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も
今はなく、白い花の咲く頃の思い出も薄れ、カーテンは風に揺れ

 まだ続くのだが、こんなふうに読点「、」ばかりで句点「。」は最後にひとつあるだけで、延々と言う感じでことばが動いていく。
 どこが、おもしろいのか。この詩について、私は何を書くことができるのか。じつは、私にはわからない。いつも、誰の詩についてもそうだが、私は何わからないままに書く。読んでいて、ふと、つまずく。その「つまずき」について、ことばを動かしてみる。

眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、

 この部分で、私は少し立ち止まった。読み進むスピードが変わった。村嶋は「昨日のまま」と書いている。ほんとうか。ほんとうに「眼、耳、舌、唇、更に手足」という「肉体」は「昨日のまま」か。「肉体」の内部では、細胞の生き死にがある。だから、それは「昨日のまま」ではないということを、私は知っている。そして村嶋だって、そういうことは知っているはずである。知っていて、なお「昨日のまま」と書く。それは何といえばいいのか、「意識の修正」である。「意識」を「修正」して、そのうえで「肉体」をつづけるのだ。
 「肉体をつづける」とは奇妙な言い方である。自分で書きながら、これはおかしいなあ、と思う。思うと同時に、この「肉体をつづける」というのは「世界をつづける」ということだな、と思いなおす。
 「眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、」ということばにつまずいたのは、そうか、村嶋が「世界をつづけている」と感じたからなのだ。
 「世界はつづいている」、村嶋の「肉体」と同じように、村嶋の「意識」では動かせない形で、それは「つづいている」。けれど、その自分の「意識」では動かせないものを「動かせないまま」にしておくのではなく、自分で「引き受け」、そのうえで「つづけている」と感じたのだ。
 書きながら、そういうことを私は発見していく。
 「肉体」を「肉体」まるごとで「肉体」と呼ぶのではなく、「眼、耳、舌、唇、更に手足」と「部分」ごとにことばにしながら、それをもう一度「肉体」として「つないでゆく」。「つなぐ」と「つづける」は、そのとき同じものになる。
 同じことが、「世界」に対しておこなわれている。

窓を開け放ち西風を呼び込む

 「窓」と「西風」は「眼、耳、舌、唇」のように、別の名前で呼ばれる別のもの。しかし、それが「開け放つ」「呼び込む」という、村嶋の「働きかけ」(動詞/動作)によって「つながる」。そして「世界」になる。
 それは「昨日のまま」ではないかもしれない。けれど、それは「子供の頃」のままである。
 で、ここが、不思議。
 この詩には「昨日のまま」、つまり一番近い時間といまが「同じ形」でつづいているということが書かれていると同時に、遠いある瞬間といまがやはり「同じ形」でつづいていることが書かれている。「違う」のに「同じ」。そして、この「同じ」という感覚が「違う」を「つなぐ/つづける」。

瞼はあなたの一重が好みで、

 「好み」はかわらない。「好み」はつづいている。「好み」が「世界」を「つないでいる」。

季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も今はなく、

 「足早に過ぎる」、そして「なくなる」。「公園も今はなく」と、もう、つなげようとしても不可能なものもある。けれども、そういうものを「意識」は「つないぐ」。「ない」ということばをつかいながら「つなぎ」、そして「つづける」「世界」から切断しながら、もういちど「世界」へ呼び戻す。
 切断と接続を繰り返しながら、村嶋は「好み」を整え続けている。
 そして、その切断と接続のなかには、「昨日のまま」という「感じ」がいつも入り込んでいるのだ。あらゆることが「昨日」の「近さ」でととのえられる。「昨日のまま」にされる。
 だから、この詩には、あらゆるところに「昨日のまま」を補って読むことができる。

「昨日のまま/昨日と同じように」窓を開け放ち、「昨日のまま/昨日と同じように」西風を呼び込む。(それは)子供の頃からのならい(同じ行為)である。(「昨日のまま/昨日と同じような」行為である。)ガスレンジの上でお湯が「昨日のまま/昨日と同じように」滾っている。その薬缶が「昨日のまま/昨日と同じように」気持ちのいい音を「昨日のまま/昨日と同じように」部屋中にまき散らしているのを「昨日のまま/昨日と同じように」耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが「昨日のまま/昨日と同じように」嬉しく、「昨日のまま/昨日と同じように」瞼はあなたの一重が好みで、

 という具合だ。「昨日」は、「いま/ここ」にはないが、「昨日のまま」と思った瞬間に、それは「いま/ここ」そのものになる。
 新しいなにかをするという「充実」とは別の「充実」が、しずかな形で、ここに生み出されている。

晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂
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廿楽順治「ぜろですよ」

2016-09-26 10:28:07 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「ぜろですよ」(「八景」3、2016年08月01日発行)

 廿楽順治「ぜろですよ」は「家族詩」とでもいうのだろうか、ある「一家」のことが書いてある。その最後の部分は【天輪院みつお】、どうやら「戒名」らしい。「みつお」が死んだのである。行頭が不揃いなのだが、揃えて引用する。

みつおはひとりで
死ぬぞ死ぬぞと嘆いていました。
そのころからノートに書いていたのです。
死んだら、
これを詩に使え。
とくいげに言っていたがわたくしは、
とうとう相手にしなかった。

字引きがほしいというので
電子辞書を買ってやりました。
わたくしもこどものころは字引きと言った。
字を引き、
その字をみようみまねで書く。
他人事なんです。
その他人を詩にしろというのです。

 「詩」と「他人」のことが書かれている。「自分」ではなく「他人」を書く。そして、そのとき書く「他人」とは「字」のことである。「他人がつかっている字」、「他人のことば」のなかに「他人」がいる、「自分」を超えたものが生きているということか。そう思って読むのだが、そのときの、

みようみまね

 あ、ここが廿楽の(あるいは「みつお」の)、思想だね。言い換えると「肉体」だ。他人が肉体を動かして字を書く。その書いた字を、他人の肉体を思いながら、他人の肉体が動いたのを「見ながら」、それを「まねる」。ことばを知る(わかる)というのは、肉体をまねしながら動かしてみて、自分の肉体の中で、そのとき何が起きているかをつかみとることなのだ。
 その、肉体をつかってつかみとったものを書く。それが「詩」と定義されていることになる。
 こういう「抽象的」なことは、言うのは簡単。でも、実際には、どういうこと? わからないね。(私は、わからないまま、テキトウに書いているのである。)
 この「わからない」ものを、廿楽は、こう書き直している。

きみえの方は、
みんなに見まもられながら
死ぬ前に、
目覚めたように目を開けましたが、
みつおは眠ったまま、
わたくしといもうとだけに眺められていました。
でもわたくしが
目を離したすきに計器の数字は止まり、
みつおと
みつおでないもののさかいめが、
わからなくなった。
字引きがほしい。
これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 「他人」を「みようみまね」で「なぞる/たどる/再現する」とき、そこには「他人/わたくし」の「さかいめ」がある。人が死ぬということは、その「さかいめ」を見えるようにする(あるいは、逆に見えなくする)ことができなくなるということか。
 「みつお」が生きているときは、「みつお」もまた「他人」を「みようみまね」で再現していた。そのときになって、ふいに「どこまでがみつお」であり「どこからが他人(みつおではない)」かが、「消える」。完全に「わからなくなった」。そこには、ただ「肉体」だけがある。
 これが、死か。
 「わからない」ものを「わかる」ように手助けしてくれるのが「字引き」。だから「字引きがほしい」と叫んでしまうのだが。
 うーん、

これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 ここがすごい。「うそで書く」。「うそ」というのは、ほんとうではないもの。ほんとうというのは、この詩では「字引き/他人の肉体の動き」、つまり、それは「見本」である。「見本」にしたがって、「みようみまね」で再現できることが「ほんとう」のこと。「世間」で動いていること。
 「うそ」には「見本」がない。「うそ」は「自分」を語ることなのだ。「自分」がわかっていることを組み立てることである。「みようみまね」ではなく、初めて自分だけの「肉体」を動かすこと。
 それも「善」という「他人」に受け入れられるものを動かすのではなく、「悪」という他人が受け入れることを拒むものを「出せ」という。「他人」ではなくなる。たった「ひとり」の「肉体」になる。
 それが「詩」である。

 あ、こんなことを書いても、やっぱり「抽象的」なままか。
 だから、廿楽はさらに書き直す。廿楽の「肉体」と、廿楽の「悪」を。

ばりばりと、
ことばは
死んだものの肉を喰らい、
あぶらののった思い出を指でひきちぎる。
きみえもみつおも
とうにばらばらで、
なにか、
わたくしが子どものころ、
ちゃぶ台でこぼしたみそしるの具のようなんです。

二日目の
弱ったわかめのようなんですわ。

 「肉体」で「きみえもみつおも」たどり直し尽くした。いろいろな「思い出」が「肉体」で再現され、すべてが「ばらばら」になって、もう一度廿楽の「肉体」のなかで動いている。その「思い出のみつお(思い出の他人)」を、「こぼしたみそしるの具」と呼び、さらに「二日目の/弱ったわかめ」と呼ぶ。父母のことを「こぼしたみそしるの具」、しかも二日目になってちゃぶ台の下から「ここにまだあった」という具合にして拾い上げられる「弱ったわかめ」のようだと呼ぶのは、確かに、「世間」の基準から言うと「悪」だねえ。そんなふうに両親のことを呼ばなくても……。
 でも、そんな具合に、廿楽が廿楽の「肉体」で体験してきたことが、「他人のことば」ではなく「廿楽のことば」で語られるとき、そこに廿楽が「他人」として「生まれてくる」。
 いわゆる「理想化された思い出」のなかにも廿楽はいるだろうけれど、こんな具合に、自分をさらけ出した部分、「手本/見本」にならないことろに「詩」は存在する。なんといえばいいのか「見本/手本」にならない「現実」として、ふいに、出現してくる。それは「見本/手本」にはならないけれど、たしかにあるものなのだ。
 「字引き」とか「みようみまね」とか、「さかいめ」「わからない」「うそ」「悪」ということばが互いのことばの中を行き交いながら、「ことばの肉体」を獲得し、それが「詩」になっていく。それが、そのまま忠実に(正直に)書かれている。

詩集 人名
クリエーター情報なし
株式会社思潮社
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クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」(★★★★★)

2016-09-25 21:30:40 | 映画
クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー

 この映画のテーマはふたつある。ひとつは何度も繰り返される「初めて」。トム・ハンクスを裁く委員会の議長さえ、クライマックスで「機長、副操縦士と一緒にボイスレコーターを聞くのは、私にとってファースト・タイムである」というようなことをいう。これは、映画の中で繰り返される「ファースト・タイム」の念押しのようなものだ。いままで経験したことがない出来事に出合ったとき、どうするか。そこに、そのひとの「人生」すべてが出てくる。
 もうひとつは、「ファースト・タイム」の逆。「二度目」というか、「繰り返し」。これも、映画の中では何度か描かれる。「二度」を通り越して、複数回、飛行機の不時着のシーンがいくつかの角度から描かれる。その「二度目」のクライマックスが、調査委員会での「ボイスレコーダー」の再現なのだが……。
 あ、うまい、うますぎる。
 それは映画の冒頭で見た最初のシーンの繰り返しなのだが。そして、それは「ボイスレコーダー」で聞いているのだから「映像」はないはずなのだが、「映像」として再現される。それはすでに見ているシーンなので、また全員が助かったことも周知のことなので、何か安心してみていることができる。しかし、その「安心」は「安心」のままなのではなく、彼らは全員が助かるという「確信」にかわり、「確信」していることが、そのまま起きることに、なぜか、感動してしまうのだ。
 なぜか。
 ひとは誰でも「感動」を「二度(何度でも)」味わいたいのである。ひいきの野球チームが試合に勝った。それは知っていることなのに、翌朝、新聞を読む。そして、思い返すというのに似ている。
 で、そのときである。
 「二度目」だから、「一度目」は気がつかなかったことにも気づく。新聞で野球の試合を読み直したとき、あ、そうか、やっぱりあれがポイントだったのかと思うのに似ているかもしれない。すばらしいと感じたことを「確信」したいのだ。起きたことを「確信」に変えたいのだ。そうやって自分のものにしたいのだ。
 この映画では、トム・ハンクス、アーロン・エッカートの緊迫したやりとりの途中に、キャビンアテンダントが乗客に対して「体を伏せて、構えて」という指示を、懸命に繰り返している。その「声」がボイスレコーダーに残っていて、それが聞こえる。最初のシーンで、それが聞こえていたかどうか、私は覚えていない。たぶん、聞こえていなかった。聞こえていたとしても、私は気づかなかった。二人の緊迫したやりとりにひきずられていた。
 ところが「二度目」は、映画の中で、キャビンアテンダントがどんな行動をしたか、そして乗客がどう対応したかを知っている。それを知っているために、二人のやりとりの背後に、バックミュージックのように「体を伏せて、構えて」という声が聞こえてくると、いま/そこに「映像化」されていない「客室」の様子まで見えてくる。あ、頑張ったのはトム・ハンクスとアーロン・エッカートだけではない。キャビンアテンダントも頑張ったし、乗客も恐怖に耐え、懸命に頑張ったということがわかる。
 おそらくトム・ハンクスには、そのすべてが見えていた。聞こえていた。見なくても、聞かなくても、見えて、聞こえていた。自分ひとりではない。みんなが頑張っているということがわかっていて、それを力にして自分にできることをしている。
 最後にトム・ハンクスが、「これは私ひとりがやったことではない。全員でやりとげたことだ」と言うが、それは「二度目(繰り返し)」によって、初めてわかることである。「二度」繰り返すことには、そういう「意味」がある。
 「実話」を「映画化」するのも、「二度」事件を体験するためである。事件の本質を「確認」し、「確信」するのためである。
 と、書いて、また最初に書いた「初めて」にもどる。
 この映画の魅力は、「初めて」を、映像の抑制によって強調している。飛行機の不時着シーンなど、もっと「劇的」に再現しようとすれば、もっと「劇的」になったかもしれない。けれど、まるでなんでもないかのように「無事」に着水する。えっ、こんなものなの?と感じるくらいである。
 しかし、それは「初めて」だから「劇的」には再現できないのである。「初めて」のことは「劇的」かどうかわからない。「劇的」と「平凡」の区別がない。ただ、それが「起きた」ということしか、わからない。「劇的」に、つまり見たこともないような映像で再現しても、それは「事実」とは限らないのである。
 この「抑制」はトム・ハンクス、アーロン・エッカート、さらにはローラ・リニーの演技にも言える。「緊張している/動揺している」ということが明確にわかるような演技をしない。「緊張/動揺」がわかるような演技というのは、その「緊張/動揺」が何度も経験したことのある「緊張/動揺」の場合である。彼はいま悲しんでいる、彼はいま苦しんでいる、あるいは憎んでいるということが、表情や体の動きで納得できるのは、その悲しみ、苦しみ、怒りを、「観客」が知っている(自分でも体験したことがある)ときである。そうではない場合、たとえばこの映画でトム・ハンクス、アーロン・エッカートが体験したことは、彼らにしかわからない。だから「わかる演技」にならないのだ。見た瞬間に「わかる」のではなく、あとで、あ、そうか、あれはこういう「感情」だったのか、と思い起こす類のものである。
 「感情」は出演者がつくるのではなく、観客がつくるのである。観客が、思い出して、自分で「感情」をつくる、彼らの体験を自分のものにするのだ。
 イーストウッドの演出は、今回もそうだが、そういう「抑制」にあわせた演出である。「過剰」に見せない。もう少し見せればいいのに、と思う寸前で、ぱっとやめてしまう。そっけないくらいである。その瞬間は、もの足りないくらいである。
 しかし、コックピットの中に聞こえてきたキャビンアテンダントの「体を伏せて、構えて」という「声」のように、ああ、あれが大事だったのだと、思い出すとき、それがとてつもなく輝いて見える、という感じ。

 比較してもしようがないのだが、ふと、私は「怒り」を思い出した。ある映画では、役者がみんな「過剰」な演技をしていた。松山ケンイチの「存在感のない演技」さえ「過剰」だった。あそこでは、みんな、それぞれ「初めて」を体験しているはずなのに、その「初めて」が何度も体験したかのように「煮詰まった」感じだった。
 イーストウッドが監督をしたら、ああいう「文学的すぎる演技合戦」映画にはならなかっただろうなあ。「文学的」ではないからこそ、「文学的」な映画になっただろうなあ。
 「ハドソン川の奇跡」はみんなが知っている「感動的」な実話なのに、見ている瞬間は、そんなに「感動」で揺さぶられるというのではないのに、一言で言うと「うーん、感動的」としか言えない強さがある。
 イーストウッドは映画を知り尽くしている。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年09月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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水の周辺5

2016-09-25 00:28:20 | 
水の周辺5



川の中に動かずにいる魚。二匹、三匹。
だんだん砂の色に似てくる。透き通っ
ていくみたいな。透明魚。頭を水が流
れてくる方向に向けている。目が離れ
ている。



流れに逆らって泳いでいるのか。川の
底に腹をつけているのか。こんなこと
を考えている私を笑うように胸鰭が小
さく震える。



川は長い廊下のように、まっすぐで四
角かった。


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。

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斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」

2016-09-24 11:19:41 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」(「乾河」77、2016年10月01日発行)

 斎藤健一「図柄」は、短い詩。そして、相変わらず不可解である。

睡眠は衛生である。瞼を閉じる。苦痛になる。見えるも
のだけがおそく見えて。掌を前にかぶせるが馬鹿馬鹿し
いのだ。ぽかんとする。頬を急ぎあげる。球の奥は僧侶
の裾が映り。無愛想な招待状が重なる。スリッパ。五裂
の紫桔梗。拾われている如く脈は腫れる。

 不可解なのだけれど、「見えるものだけがおそく見えて。」の「おそく」に私は思わず傍線を引く。何かを感じたのだ。「おそく」とはどういうことだろう。「遅く」という漢字をあてることができるかもしれない。「遅く」は「ゆっくり」なのか、「遅れて」なのか。たぶん、それは同じなのだ。「ゆっくり」だから「遅くなる/遅れる」。そして、それは「遅れて」いま/ここにやってきている。「瞼」の奥に、眠ろうとして瞼を閉じたが眠られぬ、その瞼の奥に。それが「見えて」いる。
 何が「見えて」いるのか。
 「見えるものだけがおそく見えて。」ということばを手がかりにして、私は読む。「瞼」の奥にやってきたものは「見たもの」。「見たもの」しか、やってこないだろう。肉体は思い出さないだろう。しかし斎藤は「見たもの」とは、書かない。「見えるもの」と核。「見る/見た」と「見える/見えた」から、ことば(肉体)を動かしてみる必要があるのだ。
 「見る」。けれども、視界(世界)のすべてを肉体は「見る」わけではない。「世界」のなかから何かを選択して「見る」。つまり「見たいものだけを/見る」。では、その「選択した見た」ものだけが、「肉体」に記憶としてやってくるのか。
 しかし、それならば「おそく(遅れて)」とは言わないかもしれない。
 「世界」に存在している。しかし、それを「意識」として「肉体」に取り込まなかった。「ぼんやり」と「見ていた/見えていた」。それが、無意識のうちに「肉体」に住み着いていて、それが「遅れて/遅くなって/ゆっくりと」、「肉体」の奥からあらわれてくる。あれは「見た」とは意識しなかったが「見えた」もの。「見落としながらも/見えているもの」。これは「矛盾」だが、その「矛盾」が、ゆっくりと、おそくなって、おくれて、「見えてくる」。
 「見えて」のあとには「いる」を補うこともできるし、「くる」を補うこともできる。それは「違う」ことなのだが、あえて「違うもの」という具合に、相対的に限定しなくてもいいかもしれない。「おそく」を「ゆっくり」か「遅れて」か限定せずに、「そういう感じ」でつかみとるのと同じだ。
 あ、あれもあったな、これも「見えて」いたかもしれない。それが、いま/ここで「見えている/見えてくる」。それは、肉体(記憶)からの「招待状」とでもいうべきもの。ふいに、しかし、「おそく」あらわれてくる(見えてくる/見えている)もの。「僧侶の裾」「スリッパ」「五裂の紫桔梗」。「裾」は「乱れる」、「スリッパ」は「乱れたまま」床にある、「桔梗」の花びらは五枚に裂ける、つまり「乱れる」。そこには「乱れる」という「動詞/動き」が隠れているかもしれない。そして、それはそのまま、「見る/見える(けれど意識しない)」「見た/見えた(けれど意識しなかった)」という「肉体(意識)」の「乱れ」と重なるかもしれない。

拾われている如く脈は腫れる。

 これは、どういうことになるだろうか。
 「おそく見えて」くる何か。それは、「肉体(意識)」が、「おそく」拾い上げるものと言い換えることができる。「おそく/遅れて」拾い上げたものによって、「肉体」の内部が膨らんでくる。「記憶」が増えてく、膨らんでくると言ってもいいのだが、これを斎藤は「脈」ということばでとらえ直し、「膨らむ(大きくなる)」を「腫れる」とつかみ直す。
 「腫れる」には、何か病的なものがある。不健全なものを感じる。そういうことば(動詞)へと、斎藤のことばは自然になじんでしまうのだろう。書き出しの「睡眠は衛生である。」の「衛生」も同じである。
 「病」を抱えている「肉体」というものが、「ことばの肉体」と重なり合う。実際に斎藤が病気なのかどうかはわからないが、私は斎藤の詩を読みながら、自分が病弱だった(いまでも頑強と這い得ないけれど)、子どものときの「肉体」と「風景」を思い出すのである。斎藤の書いていることばに、自分の病弱だった「肉体」を重ねて読んでしまうのである。
 ふいにどこからともなくやってくる「映像/図柄」。それは「見落としていた」ものが、実は「見えていた」ものであると、「おそく」なってから、つまり「おくれて」告げに来る、「世界そのものの力」のようにも思える。

 この「おそく」やってくるものを、夏目美千代は「私を訪れる切れ端のような感覚」と呼んでいるように感じる。斎藤と夏目は別の人間であり、まったく別のことを書いているのかもしれないが、同じ一冊の同人誌で、「私(谷内)」の「肉体」がそれを読むと、ふたつはつながってしまう。
 斎藤の「おそく見えて(くる)」の「来る」が、夏目の詩では「私を訪れる」という形で言いなおされていると思う。
 詩人の「肉体」に「おそく(なってから)やって来る何か」とは、どういうものか。夏目は、こんなふうに書いている。

こんなこともあった。よく知っている簡単な漢字を書く時、
突然それが全く知らない形に思えたのだ。本当にこんな字
だったのか。私は疑い、混乱する。ずっと無意識に書いて
平気だったのが、急に奇妙な形に見え、自信を失う。そし
て、現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚が残る。

 「無意識」、つまり意識しないできたものが、意識となってあらわれてくる。「見えている」のに「見ていなかった」と感じていたものが、突然「見えていた」ものとして、肉体の奥からあらわれてくる。
 「見る/見える」、「意識して見る/無意識に見える」。その「境目」を夏目は「現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚」と呼んでいるのだと思う。
 斎藤は、それを「何かがあるような感覚」とは書かずに、そこに「ある/何か」そのものとしてことばにする。「僧侶の裾」「スリッパ」「桔梗」という具合に。
 夏目はつづけて書いている。

境目を歩く。どうなるのか判らない。
どちらに落ちても、それは成り行きだ。

 「どうなるのか判らない。」だから、書くのである。ことばを動かすのである。わかっていれば、たぶん、書く必要はない。ことばにする必要はない。
 詩は、わからないものだが、それは詩人が「わからない」こと/ものを書いているからである。詩人が「わからずに」書いたものを「わかった」と「誤読」する時、詩は詩人のものから読者のものにかわる。そうして、勝手に生きていく。
 読者(私)は、私に見えていながら見落としていたものを、詩人のことばのなかに見つけ、その「おそく」なってやってきたものを、自分の「肉体」で勝手に読みなおして、勝手に動かして、それを「感想」にしている。

私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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自民党憲法改正草案を読む/番外24(情報の読み方)

2016-09-24 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月24日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面に「「生前退位」会議 来月中にも初会合」という見出しで、「天皇の公務負担軽減党に関する有識者会議」が設置されたというニュースが載っている。メンバーは6人。(初報は23日の夕刊)3面には解説が載っている。
 気になる部分を取り上げる。 

生前退位と公務の負担軽減にテーマを絞り、皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い、提言をとりまとめる。政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている。

 「皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い」ということは、6人のメンバーのなかには、「皇室や憲法、歴史の専門家」がいないということ意味する。つまり、「生前退位を可能にした場合、皇室典範との整合性、憲法との整合性はどうなるか」ということを直接的に発言できる人がいないということ。
 それはそれで、メンバー以外から「ヒアリング」をするから問題がないということなのかもしれないが。
 そのとき、メンバーがだれにどんなヒアリングをしたか、つまりどんなことを問いかけ、どんな答えが返ってきたか、その「やりとり」はどうなるのだろうか。「有識者会議」そのものが非公開だろうし、当然ヒアリングも非公開だろう。これでは、いったいどんな議論が行われたか、国民には「想像」もできない。
 「政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている」とあるが、もう政府方針が決まっているなら、「有識者会議」は単なる「アリバイづくり」になる。政府は独断で「特例法」を提案しているのではなく、「有識者会議」を設置し、有識者の意見を踏まえて結論を出したという「アリバイ」づくりにすぎない。
 3面の解説に、次の文がある。

 2005年に女性・女系天皇を容認する報告書を出した小泉内閣の有識者会議では、10人中2人が皇室や憲法に詳しい専門家だった。

 このときの有識者会議の結論「女性・女系天皇の容認」に安倍が反対したことはすでに書いたが、もし「皇室や憲法に詳しい専門家」を有識者会議のメンバーに加えたら、「特例法ではだめだ、皇室典範の改正が必要。そうしないと憲法上も問題が出てくる」という意見が出てくる可能性もある。
 そうなっては「困る」と安倍が考えたということだろう。
 3面の解説のつづき。

 今回の人選について、菅氏は「組織の運営や会議のとりまとめの経験が豊富な方々を選んだ」と述べ、皇室などの専門家はヒアリング対象とし、有識者会議は意見集約の資質を人選基準としたと説明した。


 「会議をとりまとめる」、つまり「意見集約の資質」が大切であって、真剣に天皇制度の将来を考えることなど、最初から考えていないのである。そして、政府が「特例法の制定」を検討しているのだとしたら、もう、最初からそれにあわせて「ヒアリング」がおこなわれ、「特例法」にふさわしい意見だけが「集約」されるということだろう。
 さらに興味深いのは、

首相官邸筋は「専門家は簡単に自説を曲げることができず議論がまとまらない上、だれを選ぶかで方向性が推測できてしまう」と解説する。

 つまり、今回の有識者会議では、「簡単に自説を曲げることができる」メンバーが選ばれたということである。3面の見出しに「人選 にじむ安倍色」とあるが、安倍の考えにあわせて「結論」を出してくれる人間をメンバーにしたということだろう。
 1面の文末に、

会議の議論や世論の動向を見極め、早ければ来年の通常国会への関連法案提出をめざす。

 とある。
 逆算すると、年内にも有識者会議の「結論」が必要となりそうだが、10、11、12月の3か月で、「ヒアリング」を行い、さらに「意見の集約」を行うというのは、非常に期間が短い。6人全員が集まるための調整もそう簡単ではないだろう。
 3面に、

ヒアリングを行う専門家は「相当な数に上る」(首相周辺)とみられ、生前退位の是非をめぐっても賛否が割れる可能性が高い。

 とあるが、ほんとうに「相当な数」のヒアリングをおこない、それを「集約」するのだとしたら、膨大な時間がかかるだろう。
 また「民主主義」というのは、他人の意見を聞き、自分の意見も述べ、そのうえで意見を調整することだと思うが、ヒアリングで「生前退位に反対」「生前退位に賛成」という意見が出たとして、その意見を述べた人たちは、どうなるのだろう。他人の意見を聞き、あ、そうだ、と考えを改めるということもあり得るはずなのに、そういう「対話」はおこなわれず、かわりに「有識者会議」の6人が、かってに「意見調整」をするというのでは、民主主義でもなんでもないだろう。
 最初から、「意見」を聞く気などないのに、そのふりをしているだけだ。

 以前に書いたが、安倍はなぜ「特例法」にこだわるのか、なぜ「特例法」の制定を急ぐのか、それを考えてみる必要がある。「特例法」を持ち出す前に、官邸が「生前退位」ではなく「摂政」を天皇側に持ちかけていた、それを天皇が拒んだということを考えないといけない。
 自民党憲法改正草案の「第六条第十項の4」

天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 現行憲法では「助言」と定められていたものが、改憲草案では「進言」。「これこれしなさい」とすすめ、それに従って天皇が動く。操り人形としての天皇。それには、天皇そのものよりも「摂政」の方が都合がいい、と考えているのだろう。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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堤美代「空の畑」

2016-09-23 08:50:55 | 詩(雑誌・同人誌)
堤美代「空の畑」(「詩的現代」18、2016年09月発行)

 堤美代「空の畑」は、こう始まる。

トミばあちゃんが
草むしりをしている
歳(よわい)九十になるので
茄子の畑を這うように
草むしり
小さい躰が
草に沈んだ小舟のようだ

 「小舟」は「比喩」。しかし、えっ、どうしてここで「小舟」が出てくる? わからない。
 二連目。

ばあちゃんは草の舟を漕ぐ
舟に櫓はないので
草を引っぱって前へ進む

 あ、そういうことか。さらにつづく。

麦ワラ帽子が
日輪のように傾く

ばあちゃんが草を毟ってるのか
草がばあちゃんを毟っているのか

 草をむしるとはいいながら、あるいは草を引っぱるとはいいながら、逆に、草に引っぱられるようにして前へ進む。草を頼りに前へ進む。確かに歩いて進むのではなく、座り込んだまま、草を引っぱり体をずるずると前へ動かすのは、畑の上を小舟で進む姿になるかもしれない。
 なんだか力関係(?)が逆転するのだが、この「逆転」がなんとなく楽しい。小舟か……。草むしりが舟遊びのようにも感じられる。
 おばあさんの動きが目に見えるようだ。
 そして最終連。

よく晴れた 五月のいちにち
空と畑を
ぐるりと
逆さまにしても
ばあちゃんは
空から落ちて来ない

 草むしりが終わり、やれやれと、仰向けに寝ころんだのかな?
 このとき、おばあちゃんは畑を背にしているのだけれど、「小舟」なので、「畑」に浮かんだ感じ。そして、「浮かんだ」感覚のまま「空」に浮かぶ。
 気持ちがいいなあ。
 「空から落ちて来ない」は「空に浮かび続ける」という感覚なんだろうなあ。

 詩は、おばあちゃんを見ているのだが、詩を読むと、おばあちゃんになったような感じ。おばあちゃんのように、草むしりをしながら、「小舟」になってみたい。

 少しもどって読み直すと……。

ばあちゃんが草を毟ってるのか
草がばあちゃんを毟っているのか

 この二行は、よく「頭」で考えると変なのだけれど、つまり「草が草がばあちゃんを毟る」ということはありえないのだけれど、この「毟る」を「引っぱる」と読み直すと、どっちがどっちかわからなくなるね。
 おばあちゃんが草を引っぱるのか、草がおばあちゃんの舟を引っぱるのか。
 それは、どっちでもいい。
 というと、また違ったことになるのかなあ。
 まあ、いい。
 決めつけないことが大事なのだ。両方がいっしょに動く感じが楽しいのだ。そして、この「両方が一緒」という感じが、最後の「空」と「畑」が「一緒(ひとつ)」になった感じにつながるのだと思う。
 で、この「ひとつになる」感覚が伝染して、自分が「おばあちゃん」と「ひとつ」になった感じ、おばあちゃんになって草むしりをして、寝ころんで、ああ、いいことをしたなあ、だから空に浮かんで、こんなにさわやかでいい気持ち--それをやってみたいなあ、という気持ちになるのだと思う。
ゆるがるれ―一行詩集
クリエーター情報なし
榛名まほろば出版
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民党憲法改正草案を読む/番外23(情報の読み方)

2016-09-23 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
民党憲法改正草案を読む/番外23(情報の読み方)

 2016年09月23日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面の見出し。

 北方領2島返還 最低条件/歯舞、色丹 政府、露との交渉で/平和条約 4島帰属 前提とせず

 前文には、次のように書いてある。

 政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の2島引き渡しを最低条件とする方針を固めた。平和条約締結の際、択捉、国後両島を含めた「4島の帰属」問題を前提としない方向で検討している。

 つまり、4島の返還は求めない。4島の「帰属(どちらの領土に属するか)」も問題としない。ただ歯舞と色丹の返還を求める。
 どうして? なぜ、4島返還ではない?
 簡単に言うと、交渉がぜんぜん進まないからだが、変だねえ。2島だけ先に返還させて、そのあとどうするのだろう。ほんとうに返還されるかどうかわからないが、返還されたとしたら、ロシアの方としてはこれで決着、国後、択捉はロシアの領土と主張するだろうなあ。その「根拠」をロシアに与えることになるだろうなあ。
 本文中に、

日本政府高官は「過去の交渉経緯にこだわらずに合意をめざす」と決着に意欲を示す。

 とある。
 で、「過去の交渉経緯」って、何? どんな具合。いろいろあるのだが、2面に「北方領打開へ戦術転換」という解説(?)記事がある。そこに1956年の「日ソ共同宣言」からの「経緯」が書かれている。それによると、

歯舞群島、色丹の2島引き渡し。国後、択捉両島は協議継続

 とある。鳩山一郎首相とブルガーニン首相当時の「宣言」である。そして、今度の安倍とプーチン大統領との交渉の「あり方」は、

4島の帰属問題の解決を前提とせず、2島返還が最低条件

 あれっ、これって、1956年の「日ソ共同宣言」よりも「後退」していない? 歯舞、色丹の返還は共通だが、のこりの2島の部分がぜんぜん違う。1956年は「国後、択捉は協議継続」。今回は「4島の帰属問題の解決を前提としない」。これでは1956年よりも条件が悪い。
 安倍の「後退ぶり」を、最近の「交渉」と比較してみる。

1993年、細川-エリツィンの東京宣言「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結」
1998年、橋本-エリツィンの川奈提案「4島の北川に国境線をひき、施政は当面ロシアに委ねる
2001年の森-プーチンのイルクーツク会談「歯舞・色丹の返還と国後・択捉の帰属を平行して協議」

 安倍の「4島の帰属問題の解決を前提とせず」というのは、日本が「4島が日本の帰属する(4島は日本の領土である)」という主張を放棄した、ということ。こんな「条件」を提示した首相はいない。
 歯舞、色丹の「返還」はいいが、これでは逆に、択捉、国後はロシアの領土として認めるということ。しかも、その歯舞、色丹の「返還」も「いつまで」を明記して交渉するわけではないだろうから、実際に「返還」されるのは、さらに70年後ということも考えられる。
 こんなばかげた「交渉」があるのか。
 なぜ、こんな「交渉」をするのか。なぜ、「交渉」を急ぐのか。
 「北方領土」のことなど、安倍は気にしていないのだ。安倍の関心は別のところにあり、そのために「北方領土」を「犠牲」にしようとしているのだ。
 別のこととは、もちろん北朝鮮だあり、中国である。中国、北朝鮮向けの「包囲網」の形成と、日本に対して中国・ロシアが連携しないように工作しているのである。
 3面に、国連総会での安倍の「演説」に対する「解説」がある。安倍は18分の演説の半分近くを「北朝鮮や核問題に費やした」とある。安倍は北朝鮮への「制裁」を求めているのだが、

 安保理内では、英仏などは厳しい制裁で日米などと歩調をあわせているが、中露を中心に「制裁一辺倒ではなく対話を重視すべきだ」との声は根強い。

 という。
 中国、ロシアは、日本やアメリカと連携して北朝鮮包囲網をつくるよりも、北朝鮮と連携してアメリカと向き合うことを選んでいるということだ。
 一方に、日米(韓国を含む?)という「連携」があり、他方に「中露-北朝鮮」という「連携」がある。安倍は、その「連携」からロシアを引き剥がしたいのだ。少なくとも、何かが起きたとき、ロシアとは対決したくない。そのために「平和条約」を結びたい。「平和条約」を締結できるなら北方領土はどうでもいい。もう70年もロシア(ソ連)が実効支配している。歯舞と色丹だけでも「返還」させることができれば、「領土問題」は「前進した」ということにな。安倍の「手柄」になる。それが1956年の「宣言」よりも「後退」していても関係ない、そんな昔のことを国民は忘れている、と思っているのだろう。
  
 北朝鮮の核問題では日米、さらに韓国は連帯できるだろう。北朝鮮包囲網に韓国は積極的に加わるだろう。(ただし、北朝鮮は日本を標的にはしていないだろう。もし日本に核攻撃をしてくるとしても、それは日本と戦うのではなく、日本に駐留するアメリカ軍との戦争を意識してのことだろう。アメリカに圧力をかけるために核開発をしているのだ。日本や韓国に核攻撃しても、北朝鮮にとっては何のメリットもないだろう。)
 しかし、南シナ海の問題では、どうなのか。日米は「連携」しているが、韓国はどうなのか。よくわからない。韓国から遠く離れた南シナ海での中国の「領土拡大」は、どう考えられているのか。韓国の安全の「危機」と受け止められているか、そういう形で報道されているのか。ベトナムやフィリピンの「反応」は日本でも報道されているが、そのフィリピンにしたって「中国敵対」政策一辺倒ではないようだ。中国は、大事な隣国である。むしろ、米軍基地に批判的である。
 アメリカにしても、南シナ海で起きていることをアメリカの「危機」とはとらえていないだろう。「日本の北方領土」を「ロシアの領土」と「暗黙の了解」を与えるように、あのあたりまでは「中国の領土」と「暗黙の了解」を与えているではないのか。中東問題(イスラエル問題)のように「真剣」ではないと思う。
 だからこそ、少なくともロシアが中国と連携して日本に立ち向かうという事態を避けたい。中国・ロシアの関係を「分断」できないけれども、ロシアが日本と敵対することをさせたい。だから北方領土を犠牲にしてでも、ロシアとの間で「平和条約」を締結したいということだろう。これは、別な言い方をすると、何としてでも中国、北朝鮮と戦争し、征服したいという安倍の「夢」を語っていると思う。

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河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』

2016-09-22 11:06:33 | 詩集
河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』(書肆子午線、2016年07月25日発行)

 河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』はとても魅力的なタイトルである。このタイトルの詩はなくて、それは「咲きつぐ花」の後半に出てくる。
 その前半は、

今朝
早いうちに飛び立っていった小鳥が降らせた
雪が中空に舞い、滞る
その雪の魂が落ちながらひらいていくのを見ていた

 小鳥のからだから落ちた羽毛が雪にかわる(雪に見える)。しかも、それが舞うときに「ひらいていく」というのは、とても美しい。実際に雪の結晶/小鳥の羽毛が開く(大きくなる)ということはないのだけれど、目がだんだん細部まで見るようになる、その結果大きく見えてくる(開いたように見えてくる)。この変化を「ひらく」という動詞としてとらえたところが、この詩の強さだ。
 雪にしろ小鳥のからだから離れた羽毛にしろ、それは「意思/いのち」というものを持っていない。けれど「ひらく」という「動詞」と一緒に動くと、まるで「生きる力」をもっているように感じる。「いのち」を感じる。この「いのち/生きる力」を河口は「魂」と呼んでいる。
 このとき、その「魂」と河口の「魂」が対話している。それが美しいのだ。

雪ひとひら、ひとひらが
妹のように思える日よ
数枚の
さざんかの花びらがてのひらを零れ、雪に
雪に埋もれていく

 この最後の部分で雪は「妹の魂」になる。
 前半では「魂」は生きていたが、ここでは「妹の死」を連想させる。妹は死んでしまっていないが、「魂」は生きている、という感じ。「早いうちに飛び立っていった小鳥」とは、早くして(自分よりも先に)死んでしまった妹をあらわしているように思える。雪を見ながら、妹の「魂」を思い出すといえばいいのか。
 最後の「手のひらを零れ」というのは、花びらを地上に零し、その上に雪が積もるということかもしれないが、私は違うふうに読んだ。咲いている山茶花の花(たぶん妹が好きだった花)の上に、手のひらに触れながら舞った雪が積もっていく、「零れる」のは「雪/魂」と思って読んだ。
 山茶花の花に代わって、雪の花(魂の花)が咲く、雪が花を埋めるのではなく、新しい花になって「開いていく」と読んだ。

 河口の作品は、この作品は異例のものに属している。多くの作品は、一行一行がとても短い。私には、その一行の「短さ」が何をあらわしているのかよくわからないのだが、わからないまま、「晴れていく日」の書き出しは、おもしろいと思った。

やっと
ふたりきりに
なれるのは
この駅を
汽車が
通り過ぎていく
感じだ

 「短さ」がそのまま「孤立」をあらわしているように感じるからだ。「なれる」という「短い」ことばが、「通り過ぎていく」という三つの動詞(通る/過ぎる/行く)と向き合うとき、なんともいえず「孤立感」が深まる。
 「汽車」というのは、ちょっと「いまのことば」とは違うのだけれど、この場合、その古くささがいいかもしれない。「哀愁」とか「郷愁」というときの「愁」の雰囲気を呼吸しているかもしれない。
 引用しなかったが、「雪ひとひら、……」とこの「晴れていく日」には、改行の変化を無視すれば、「道の途中に立ち尽くしていた」ということばがある。
 「僕」のまわりに「降る(舞い落ちる)」「通り過ぎていく」という「動き」があり、その中で「僕」は「立ち尽くしていた」。「立つ」だけではなく「尽くす」。その「尽くす」のなかにある「過ぎていくもの/時間」を河口は「抒情」として描こうとしているのだろう。
雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ
河口夏実
書肆子午線
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水の周辺4

2016-09-22 09:21:39 | 
水の周辺4



そこまで来て
とまる。
あと少しなのに
届かない。



先端の
まるみ。
そのなかを
過ぎていく。



目を開いて
見ている。
ものが
思えなくなる。び散る光になる


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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Elena Gallegoの俳句翻訳

2016-09-21 14:42:58 | 詩(雑誌・同人誌)
Elena Gallegoの俳句翻訳(NHK「まいにちスペイン語」2016年09月号)
 NHKのラジオスペイン語講座「毎日スペイン語」。9月は俳句が題材。日本の俳句がスペイン語に訳されている。
 芭蕉の俳句は、こんな具合。

Un viejo estanque;
al zambullirse una rana,
ruido de agua.
(古池や蛙飛びこむ水のをと)

Silencio
En la roca se impregna
el canto de una cigarra.
(閑さや岩にしみ入る蝉の声)

 一句目は別な人の訳なのだが、二句目はエレナ・ガジェゴと太田(?)なんとか(忘れた)の共訳。
 日本語の場合、単数複数の区別がない。そこで翻訳するとき、書かれていることばを単数で訳すか複数で訳すかがむずかしい、という話題が出た。
 「古池や」の蛙は一匹。これは、私もそう思う。
 「閑さや」の蝉も一匹。これには、思わず、えっ、と声を出してしまう。

講師の福島教隆「どうして一匹ですか?」
エレナ「岩にしみ入るくらいの強い声。そういう強い声を持っているのは一匹だ」

 うーん、なるほどスペイン人らしい。ピカソとかダリとかセルバンテス(あるいはドン・キホーテ、サンチョ・パンサ)の国。何かを切り開いていくのは「集団」ではなく、強烈な「個人」。そういう人間観というものが、知らず知らずに、俳句の解釈にも反映しているということだろう。

 ここから少し脱線。
 きょうの「日記」のタイトルは「Elena Gallegoの俳句翻訳」なのだが、これは「まくら」。スペイン語の翻訳が的確かどうか判断するような語学力は私にはないので、以下は「俳句」の読み方。いや、「日本語」の「詩」の読み方に関すること。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 この句を読むと、「閑さや」でいったん句点「。」がある。ことばが一回終わる。それから「岩にしみ入る蝉の声」ということばが来る。このとき、「主語」と「述語」は?
 「蝉の声」が「主語」、「しみ入る」が「述語」。
 文法的には、そうなる。エレナの訳も、そういう「文法」に従っている。(ここでは、単数、複数は考えない。)「岩に」は「補語」である。
 でも、そう?
 
閑さや岩にしみ入る蝉の声

 この句の「述語」は「しみ入る」。これは確かだ。「動詞」が「しみ入る」しかないからね。
 ここからが問題。
 私はことばをどんなときでも「動詞」を中心に考える。
 「しみ入る」という「動詞」を聞いたとき、私は自然に「こころにしみる」「傷にしみる」という具合に、自分の「肉体」を「補語」として連想してしまう。句の最初に「閑かさ」ということばがあるので、どうしても「閑さ」が「こころ(肉体)」に「しみ入る」と連想する。「主語」は「閑さ」、「述語(動詞)」が「しみ入る」、「補語」が「こころ」ということになる。
 芭蕉は「こころ」と書いていないから、これは、私の「誤読」だが。
 「誤読」を承知で、私は「岩」を「こころ」の「ありよう」だと思っているのである。「岩」は「こころ」の、あるいはこういうときは「精神」のといった方がいいのかもしれないが、「岩」は「象徴」なのである。
 で、そういう風に、「俳句の切れ」を無視して、ことばを上から順に読んできて、「閑さがこころにしみこんで来る」という絶対的な「静寂/沈黙」を感じ、自分自身が「静寂/沈黙」になったと思った瞬間、「蝉の声」が来る。
 混乱する。
 だいたい「蝉の声」が聞こえているなら「閑」ではないじゃないか。
 この混乱は、意識(感覚)の「衝突」だね。
 そして、その瞬間感じる(聞こえる)のは、では「閑さ」か「騒音(蝉の声)」かというと、「閑さ」の方である。「静寂/沈黙」というのは「聞こえない」から「静寂/沈黙」というのだが、「蝉の声」があることによって、逆に、その聞こえないものが「聞こえる」と錯覚する。
 この「錯覚」の超越が「閑さや」の「や」という「切れ字」にこめられた「意味」だと思う。「感覚の超越」が「世界」を切断し、新しくする。
 「閑さ」が「岩にしみ入る」と、私は最初に書いたが、「しみ入る」は単に入るだけではなく、「入ってしまった対象(補語)」そのものになるということかもしれない。
 実際、私が感じるのは、「閑さ」が絶対的な存在となって、そこに「ある」という感じなのだ。「岩」の存在そのものが「閑さ」なのである。「閑さ」が「岩」という存在になる。そして、それが「しみ入る」と書かれているが、まわりの蝉時雨をはじき返している、拒絶している、という感じで句を受け止める。」閑さ」が「岩」からはみ出している、噴出している。それが蝉の声を、がしっとつかんで封じ込めている。蝉の声を、ほかに広がっていかないようにしていると感じる。

 また「閑さ」というのは「しずかな/しずかに」という形容動詞と繋がっている。それは「動詞」の一種なのだ。「閑さ」というのは「死すかな/しずかに」が「しずか」で「ある」という形で存在している。
 「しずかである」という「動詞の状態」が、「岩にしみ入る」というもうひとつの「動詞」によって強調されているとも感じる。「しずかである」という「動詞」と「しみ入る」という「動詞」は切り離せない、と感じる。つまり「しみ入る」の「主語」を「蝉の声」だけに限定できないと感じてしまうのである。

 ことばは不思議である。「文法」どおりに解釈すれば、私のような読み方にはならない。けれど、ことば、特に「動詞」というのは「肉体」と深く結びついているので、「文法」とは違うものをかってに引っ張り込んでしまう。最初に書いたように「しみ入る」という「動詞」に触れれば、どうしても「こころにしみ入る」「傷にしみ入る」というようなことを思い浮かべる。その「思い込み」がいったん否定され、そしてまた、いやそうじゃないかもしれないと反駁する。そういう、曖昧で、矛盾したものが、「文学」を支えているようにも思う。

Mar salvaje.
Sobre Sado se extiende
la via lactea.
(荒海や佐渡によこたふ天河)

 この句もエレナと太田の共訳。「佐渡に」を「佐渡の上に」と訳している。確かに「文法」としてはそうなるのだと思うが、実際に、海が荒れていて、佐渡があって、その上の空には天河があるという情景なのだろうが、この句を読んだときの私の印象では「荒海」と「天河」が逆になるというか、「一体」になる。
 佐渡は荒海に浮かんでいるのではなく、天河に浮かんでいる。荒海の「強さ」がそのまま「天河」の広大な「強さ」になり、そこに佐渡が浮かんでいる。地上の「荒海」と空の「天河」が「ひとつ」になって、その中心に佐渡が横たわっている、佐渡が荒海と天河をつないでいるという感じ。
 「横たわる」の「横」ということばは「縦」と対になっている。「縦に立っている」ということばと、「肉体」のなかで対をつくっている。「立っている」から「横たわる」とき、それはゆったりとする、ゆったりと広がるという広がりになって、それは「世界全体」の広さ、「宇宙」の広さにかわっていく。その「中心」に「横たわる」という「動詞」がある。
 「閑」と「蝉の声(騒音)」を「岩」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎ止めるときの「動詞」が「しみ入る」。
 同じように「荒海」と「天河」を「佐渡」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎとめるときの「動詞」が「横たわる」という「動詞」。
 「動詞」のなかで、「ふたつ」の「存在(主語)」が「ひとつ」になる。「閑さ」と「蝉の声」、「荒海」と「天河」が溶け合い、もうひとつの存在「岩」「佐渡」がそれを結晶させる。「世界」そのものの「象徴」になる。
 俳句に「遠心/求心」ということばがある。私は俳句を、俳句の決まりなど無視して勝手に読んでいるのだけれど、この「遠心/求心」という相反する動きを、たとえば「しみ入る」「横たわる」という「動詞」で、芭蕉は「ひとつ」にしている、ということを感じる。
 同時に、その「動詞」に自分の「肉体」を重ね合わせ、私の外にある「風景」というより、私自身が風景になって存在していると感じる。「私」が消え、私の見ている「世界」そのものが「私」という感じ。

 で。
 突然、エレナの訳にもどるのだが、私の感じるような「私」が「世界」のなかに消えていき、「世界」のひろがりそのものが「私」という感じは、スペイン人は持たないのかもしれない。強烈な個性が「世界」を変えていく、新しくしていく。それは「私」ではなく、もっと強い「だれか」なのだという感じが、「蝉」を「一匹」と感じさせるのかもしれない。
 「一」であることが「人間」に求められている、ということかもしれない。
 私は「世界」が「一つ」であると感じるが、スペイン人は「世界」に対して「ひとり」で「世界」に向き合うというか、「世界」と「私」は融合せず、「世界」を変えていくのが「私」という感じといえばいいのかな、とも思ったのである。
 ドン・キホーテがそうだね。たったひとりで「世界」と向き合い、世界を変えようとしている。あれが、スペイン人の生き方なのだとも、勝手に思うのである。
 そういう「人間観」が翻訳に反映しているのかな、と思うのである。

NHKラジオ まいにちスペイン語 2016年 09 月号 [雑誌]
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NHK出版
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水の周辺3

2016-09-21 00:12:55 | 
水の周辺3



水の上をわたる鳥の声
水の中を走る魚の声

聞いているものは聞こえない



水の中から見る空の色
水の上から見る魚の影

見ているはずのものは見えない



耳と目の先には
沈黙と無があって、

流れているが、



塞き止められて透明になる内部が
表面を突き破って、

飛び散る光になる


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
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書肆侃侃房
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小網恵子『野のひかり』

2016-09-20 10:04:44 | 詩集
小網恵子『野のひかり』(水仁舎、2016年08月01日発行)

 小網恵子『野のひかり』の作品は、どれも不思議な力がこもっている。「文体」に力がある。
 「ぐるり」という作品。

幼い子が嬉しそうに木の周りを走る
ぐるりくるり ぎこちない足の運び
すっぽりと黒い幹に隠れる一瞬がある
笑い声だけ あたりに散っていく

 子どもが小さい、木が大きい。そうすると、子どもの体が幹に隠れる一瞬がある。これは、ごくあたりまえの風景である。しかし、そのあとの

笑い声だけ あたりに散っていく

 これは、どうか。「散っていく」(散る)という「動詞」が、書けそうで書けない。この「散っていく」(散る)は、このあと二連目で「幼い子(幼女)」「少女」「娘」へと「育っていく」。そのとき「散る」が「育つ」になるのだが、それは「育つ」とは何かを「散らす」こと、「失うこと」という感じで響いてくる。「散っていく」のなかに、「育つ」がふくむ「失う」がある。そういうことを感じさせる「強さ」である。
 「ことばの肉体」が、その「肉体の奥」で、とおいことばと繋がっている、という強さである。

 「すみれ」の場合は、どうか。

水が溢れそうになるので
川を描く
泡立って 飛沫をあげる
水は留まれないから
岸の岩にぶつかって
流れていく

 「川を描く」の「描く」に、私は何かどきりとするものを感じた。
 「水」が流れると、それは「川」になる。「川」と「水」と「流れる」は、区別がつかない。区別できない。
 そして、その「川」の前に書かれていることばは「水」と「溢れる」である。
 瞬間的に、私は「川」は「比喩」であると感じた。いや「水」が「比喩」であると感じたというべきか。「川」「水」「流れる」が区別がないように、「水」と「涙」と「川」が、一瞬の内に入れ代わるのである。
 「水が溢れそうになる」は四行目で「水は留まれない」と言い換えられている。「感情は留めることができない(留まれない)」は「感情は溢れそうになる」ということばとなって引き返してきて、そこから「涙が溢れそうになる」ということばに変わる。
 この不思議なつながりが「描く」という、「涙」とは無縁のように思える「動詞」によって、何か、強い力で結びつく。
 「水(涙)」が「溢れそうになる」。それを「溢れさせない」ために「川」を「描く」。「涙」を「川」のなかに、ととのえて、流してしまう。「川」にしてしまう。
 そうすると、「比喩」のなかで、「涙/水」が、また何かに変わる。
 「泡立つ」(騒ぐ)は、「涙」のもとである「感情」が「泡立つ/騒ぐ」のである。「飛沫をあげる」は「感情が飛び散る」であり、「水は留まれない」は「感情は留まれない」。それは「岩に(障害物に)ぶつかって」、それでも「流れてゆく」。動くことをやめない「感情」そのものになる。「感情」が「川」の大きさで、動いていく。「感情」を「川」のように、小網は見ている。「描き出そうとしている」。
 「川」を「描く」のではなく、「感情」を「描く」のである。
 二連目以降は、その「感情」が向き合っている「こと」が描かれる。「感情」を「悲しい」ということばを避けて、その「感情」とどう向き合ったかを小網は書いていることになる。

ホスピスに入るという友人の整った手紙を
くり返し読む

そうして川に色を塗る
うすい水色と澱んだ緑色を重ねて
色鉛筆で塗る
水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない
曲がりくねった川の緑色の澱には
魚の気配がある

色鉛筆を走らせて
岸辺にすみれの花を咲かせる
友人の庭に咲くと聞いたことがあった
紫色をいっぱいに使う

 友人がホスピスに入るという手紙を受け取った。その「文面(文字)」は「整っている」。その「整った」感じに、「感情」が動いたのだ。友人は、自分自身の「感情」を整えている、整えようとしていると感じ、そう感じた小網自身の「感情」をそれで波動整えればいいのか。小網の「感情」をどうことばにしていいか、わからない。だから「川」を「描く」。小網自身の「感情」を整えるために。
 「川」は「友人」への「返信」の「比喩」かもしれない。お見舞いとして「絵」を送るということかもしれない。
 「色鉛筆」で描く(塗る)のは、その「感情」を「多く」伝えたいからだろう。

水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない

 この二行は、涙が流れそうになるくらい美しい。
 「きちんと」と「丁寧」が、何といえばいいのか、自分のことだけではなく、「友人」のことを思っている。自分の「感情」を伝えることに夢中なのではなく、友人がどう受け止めるか、そういうことを気にして「きちんと/丁寧」になっているのだ。それは先の友人の「整った」と正直に向き合っている。
 「友人」が庭にすみれが咲くという話をしたのは、きっと友人が、そのすみれが好きだったからだろう。そして、そんなことを思いながら、その友人の好きなすみれを、川の岸辺に「描く」のである。
 最終行の「紫色をいっぱいに使う」の「いっぱいに」が、とてもいい。この「いっぱい」は「きちんと/丁寧」と同じ意味である。
 「いっぱい」ということばを辞書で引いても「きちんと」や「丁寧」という「意味」は出てこないかもしれない。「きちんと」「丁寧」を辞書で引いても「いっぱい」という「意味」は出てこないかもしれない。けれど、私たちは「丁寧」なことをするとき、そこに「気持ちがいっぱい」込められていることを知っている。「気持ちがきちんと」込められていることを知っている。
 「いっぱい」と「きちんと/丁寧」は「ことばの肉体」のなかでつながっている。「整った/整える」とも繋がっている。そしてそれは、そのまま「友人」とも繋がる。
 「整う」「きちんと」「丁寧」「いっぱい」と、ことばはそれぞれ違う。しかし、それを「相対化」して「違う」ととらえるのではなく、そういうことばが「一緒」になって動くとき、それは互いの「ことば」のなかを行き来して、まじりあい、いままで気づかなかった、ことばにならない何かをあらわす。「ことば」が「肉体」となって動き、その「肉体」がそのまま人間の「肉体」にも重なる。
 小網のことばは、そういう「ことばの肉体」を思い出させてくれる。小網の詩は、そして、その「ことばの肉体」のなかで、とても静かに動いている。人間の「肉体」となって動いている。その動きは静かすぎて、なかなか、こう動いた、ということができない。私には、それを壊さずに取り出す繊細さが欠けていて、それを指摘できない。こんなふうに、ぼんやりした感想として書くことしかできないのだが……。

 「豆畑」という「散文詩」も、とてもおもしろい。いつか、感想を書いてみたい詩である。「豆畑」だけではなく、最初の詩から最後の詩まで、詩集の全作品を感想をいつか書いてみたい--そういう詩集である。

耳の島―詩集
クリエーター情報なし
書肆青樹社
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李相日監督「怒り」(★★★★)

2016-09-19 12:06:09 | 映画
監督 李相日 出演 渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、広瀬すず、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡

 うーん、文学的すぎる。見ながら、これは映画よりも小説の方がおもしろいに違いないと思いながら、しかし、この「文学」に迫ろうとする「肉体(演技)」というのはすごいものだなあ、と感心した。そういう意味では「映画」なのだけれど。「映画」でしかできないことをやっているのだけれど。
 何が「文学的」かというと、「事件」ではなく、ひたすら「感情」をえがこうとしていること。そして「感情」を「肉体」で再現しようとしているところが、もう、もちゃくちゃに重たい。
 「文学」ならば、そこにあるのは「ことば」だけ。ことばに描かれている「肉体の動き」を自分で想像するのだけれど、「映画」ではまず「肉体」がある。「ことば」(セリフ)もあるのだけれど、「ことば」よりも前に訳者の「肉体」がある。そして、その訳者の「肉体」というのは、それぞれに「過去」を持っている。その「過去」は「演じている役」の「過去」とは違うのだけれど、自分自身の「過去」を掘り起こすようにして、「役柄」の「肉体」を誕生させる。そのうえで、その「肉体」で「感情」を、さらにえぐっていく。
 これは間違いなく、とんでもない力作であり、とんでもない傑作なのだが、だからこそ、私は★五個をつけることをためらってしまう。
 だって、楽しくないでしょ?
 「怒り」というのは一体何なのか。それは、だれにもわからない。わからない、というのは、「怒り」をあらわす「ことば」がないということ。「怒り」を共有する「ことば」がない。共有する「ことば」がないから、ただ、ひとは「怒っている」ひとのそばにいて、「私はあなたとのそばにいる」ということを「肉体」で伝えるしかないのである。「ことば」ではどんなふうに言ってみても「怒り」の共有にはならないのである。
 こんなことを知らされるのは、人間としてつらい。「怒り」は共有できる。「怒り」から生まれる連体があると信じたい。けれど、この映画はそういう安直さを許さない。「怒り」から連体など生まれない、と言っているように見える。
 松山ケンイチと宮崎あおいの関係は「連体」のようにも見えるが、それは「怒り」を生んでいるものに対して一緒に戦うというものではないから、「連体」とは呼びにくい。「怒り」をおさえる方法のように感じられる。「怒り」とは違う「感情」を探し出し(つくりだし)それに向き合おうとする試み。これでは、「怒り」を生み出したもの、「怒り」の原因を解消する(解決する)ということにはならない。
 それでは、つらすぎる。
 このつらさを、ちょっと視点を変えて見直してみる。映画の中でおこなわれていること、演技と役者の関係で見直してみる。
 だれかの「怒り」を共有できないということは、「怒っている本人」も、「怒り」を共有してもらう方法がない、ということ。その「共有されないこころ」を役者は、役者の「肉体」のなかから掘り出して、演技している。どんどん「孤独/孤立」の深みにはまり込むということになる。
 だから、そこにはまったく知らない「役者」がいる。いままで知っている(共有してきた)役者が姿を消し、まったく知らない人が、孤立して、たったひとりで目の前で「怒り」を抱えている。「怒り」に振り回されている人間と向き合い、どうしていいか、わからずにいる。「好き」と言いた。「守りたい」と言いたい。でも、それをどう「ことば」にすれば「怒り」を超えて、その向こうにたどりつけるのか。そんな確信はだれにもない。
 壁にかかれた「怒」という文字が最初と最後に二回出てくるが、「怒り」は「壁」のように人間と人間の間をさえぎるのである。
 そのどうしようもない「壁」と向き合いながら、役者が、それぞれ自分の「肉体」を耕し、生まれ変わっている。まったく見たことのない「人間」になっている。松山ケンイチは、役者とは思えない存在感のなさで存在感を出している。(矛盾した言い方しかできないが、そういう人間になっている。)渡辺謙は服装までというのは変だけれど、何度も洗濯したような安物のポロシャツ、質の悪そうなズボン、腹を出した座り方や、姿勢の悪い歩き方を含めて、完全に漁港の町の「父ちゃん」になっている。宮崎あおいも、思わず、こんなからだをしていた?と不思議に思った。そういう「有名」な役者(私が知っているということなのだが)はもちろんだが、妻夫木聡の恋人役を演じた役者はだれなのか、私は知らないが、その知らない役者でさえ、「この役者、見たことがない」と感じさせるのである。知らない「生身の人間」が、そこにいるような気がするのである。そういう「肉体」が、ことばではな説明できない「怒り」をからだの奥で抱えながら、動いている。それを見ながら、どこへ連れて行かれるのか、わからない。
 結論が想像できない。結論が出たあとも、いったい何があったのか、ことばでは語れない。整理できない。
 あ、「文学的」だなあ。
 小説なら(文学なら)、何度でも気になったページ(ことば)を読み直すことができる。読み直しながら、ああでもない、こうでもない、と考える。「結論」は無視して、ある場面に夢中になり、そこから自分自身の「結論」を考えてみることもできる。
 でも、「映画」は、そういうことがむずかしい。決められた時間の中で、決められた順序で「映像」が動いていく。さっきの「肉体」の動き、「ことば(セリフ)」をもう一度確かめたいと思っても、本のページをめくり直したり、そこでペーしを繰るのをやめたりするようなわけにはいかない。一回限りのあり方で「肉体」が動いていく。「肉体」が動き、「感情」が生まれ、それが変化していく。
 文学は「読み返し」を前提としている。けれど「映画」や「舞台」は、つまり「演技」はそういうことを前提としていない。(何度も同じ作品を見るという人もいるだろうけれど。)そういう「一回性」と向き合いながら、「一回」で感情を吐き出してしまう演技を役者たちがしている。この「行為(演技)」そのものが、「文学」の「ことば/文体」となっている、ということも感じた。
                  (天神東宝スクリーン3、2016年09月18日)
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
悪人 (特典DVD付2枚組) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
東宝
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