4月3日(木)
今日は、仕事先のお話を!! 日本最古・日本三大名湯で有名な有馬温泉へ行きました。事務所から
で約1時間と至近距離なのです。
有馬に行ったのは、行楽ではなく有馬町にあるクライアントの不動産の仕事で行ったのであります。ただ、その現場が有馬温泉なのです。
有馬には、日帰りで利用できる公共の外湯として、『金の湯』、『銀の湯』の2箇所があります。無料の足湯は、 『金の湯』横にあります。
岡ちゃんは、金の湯 650円にて汗を流し帰阪したのであります。
以下は有馬温泉の記述です。
【有馬温泉の泉質】
有馬は、日本最古の温泉です。
最古、すなわち人間がまだ土を掘る技術を持たない時代より大地の恵みを蓄え湧き出ていた自然の温泉であるということです。技術の発達した現在でも、浅い場所(300mまで)からの採湯とし自然の恵み(温泉の有効成分)を十分に蓄えたお湯をご提供しております。
有馬温泉は、環境省の指針により療養泉として指定している9つの主成分(単純性温泉、二酸化炭素泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉、硫酸塩泉、含鉄泉、硫黄泉、酸性泉、放射能泉)のうち、硫黄泉と酸性泉を除く7つもの成分が含まれており、世界的にも珍しい多くの成分が混合した温泉です。
【発見】
有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。
有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593~641年)、第36代孝徳天皇(596~654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています。
釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日還幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があります。
【開創の行基】
「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後徐々に衰退に向かっていったといわれます、これを再興し有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基です。
行基は聖武天皇(701~756)の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し大きな業績を残した高僧といわれています。
行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬に連れて行く途中、さらにあれこれと望みごとを頼むその人の願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました。
行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約370年の間、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられています。
平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです。