旅と歴史

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真田昌幸の居城、上田城です。

2007年04月12日 | 旅 歴史
 上田城は真田昌幸(幸村の父)が天正10年(1582)、上田盆地の中心で千曲川支流の尼ケ淵の河岸段丘上に上田城の建築を始めました。平城で「尼ヶ淵城」とも呼ばれています。
 武田氏滅亡直後の天正10年(1582)、徳川家康と北条氏政・氏直は武田の旧領をめぐって甲斐、信濃、上野で対陣しました。その後和議が成立し、甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領と決められました。家康は真田昌幸に上州沼田領を北条氏へ明け渡すように命じました。武田家家臣だった頃、沼田も真田家が治めていたのです。昌幸は沼田領はわが父祖伝来の土地であるといって拒否しました。そして上杉景勝方に組するようになったのでした。
 家康は天正13年(1585)8月、鳥居元忠、大久保忠世らを中心に信濃・甲斐の国人衆を加え七千の兵で上田城に迫りました。昌幸は上杉方に信繁(幸村)を差し出し、上杉景勝を後ろ盾としました。昌幸は上田城に、嫡子信之は戸石城に籠もりました。そして丸子城、矢沢城にも兵を配置しました。
 攻め寄せた徳川勢は7千余、迎え撃つ真田勢は2千人弱であった。しかし、複雑な城下町や真田氏の巧妙な罠や、伏兵などの戦術によって徳川軍は思わぬ大敗となり死者を1300人余もだしたといわれています。これに対して真田氏の死者は40人ほどであったといいます。
 慶長5年(1600)6月、徳川家康は会津の上杉景勝討伐の名目で出兵しました。7月に石田三成が大坂で挙兵、下野小山の評定で、徳川軍は会津から上方に進路を変更しました。真田昌幸は、信繁と自分は石田三成勢(西軍)につき、信之は徳川 家康勢(東軍)につくという密議をしました。
東軍は徳川秀忠率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上しました。昌幸は上田城に籠城、9月2日、徳川秀忠は小諸城に着陣し、信之と本多忠政を遣わせて昌幸に対し降伏を勧告しました。恭順の意を示したかに見せながら籠城し秀忠を怒らせました。本多正信らの諫言にも耳を貸さずに上田城を攻めたてます。
 上田城攻撃が開始された後、昌幸は虚空蔵山に伏兵を置いて秀忠本陣を急襲し、上田城内の城兵が徳川軍攻撃をしたため大混乱に陥いりました。結局、秀忠は上田城攻略をあきらめ、抑えの将兵だけを残して中山道を西上しました。9月15日の関ヶ原合戦には間に合わず家康の大目玉を食らうという、なんとも情けない失態を演じる結果になったのでした。

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