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インテリアコーディネーターのブログ。
住まいのこと。インテリアのこと。仕事のこと。子どものこと。。。

5月8日 FUNDERTWASSER展

2006-05-08 | 美術館・展覧会



2006年4月11日(火)から5月21日(日)まで京都国立近代美術館にて開催中の「フンデルトヴァッサー展」へ行って来ました。

ウィーンにあるゴミ焼却場とか美術館なんかは有名で、彼を知らない人でも、(あ~。何かの雑誌で見たことあるなぁ。)と思うのではないでしょうか。

ゴミ焼却場


美術館

フンデルトヴァッサーは、1928年ウィーンに生まれ、画家・建築家・思想家として2000年、その生涯を閉じました。
彼の特徴は、鮮烈な色彩と曲線。「直線は私たちの文明を没落へと導く」という名言を残しているほど、直線を嫌い、建築さえも曲線で表現しました。

私たちの固定概念では、考えられない豊かな発想と創造性。鮮烈でありながらも調和した色彩が見るものを惹きつけます。

ルーブル美術館展のときは、性別・年齢問わず幅広い層の人たちが観覧に押し寄せました。私の大好きなシャガールも、その展覧会の際にはたくさんの人の隙間から覗かなければなりません。

今回の展覧会は、ひさしぶりにゆったり観覧できました。
訪れていた人たちも個性的な雰囲気のある人が多かったように思います。

鮮烈な色彩と渦巻く線を駆使する画家として、また人と自然との共存を訴え続けたエコロジストとして日本にもなじみの深い、オーストリアを代表する美術家フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928-2000)の業績を回顧する展覧会を開催します。
フンデルトヴァッサーは、アンフォルメル運動など第二次大戦後の美術が華やかに展開し始めた1950年代中頃から、視るものを幻惑する強烈な色彩と「生と死を象徴する」渦巻く流線を用い、画面の中で樹木も建物も人間も全てが同化し、渾然一体になる絵画世界を創造して大きな注目を集めました。
彼の芸術の根底にあったのはヨーロッパ近代の合理主義に対する鮮烈な批判であり、また自然回帰の願望であったと言えます。彼は早くも1958年にオーストリアとドイツ各地で「カビ草宣言・建築に於ける合理主義に対して」と題する講演を行い、また1968年にウィーンでの「アドルフ・ロースからの脱出」の講演によって現代の不毛な建築学からの決別を宣言しました。その後も彼は絵画制作と平行して、合理主義が生み出してきた現代社会の環境破壊の危機を訴え続けました。いま振り返れば彼のこうした活動は、1968年前後から世界各地で先鋭的な建築家やデザイナーたちが提起した近代建築や近代デザインに対する異議申し立てと共鳴関係にあり、1980年代のポストモダン論議の核となった理念を先取りした、きわめて実践的な直接行動であったと理解することができます。
本展は彼の製作活動を包括的に回顧すると同時に彼が生涯を通じて取り組んだ環境保護活動の側面と、人と自然との理想的な関係構築を目指した「建築」に焦点を当てます。彼が理想とした人と自然との共生と調和を雄弁に語る大型の建築模型、絵画、環境保護活動の過程で制作されたポスター、版画、タペストリーなど100点の作品により、美術を通じて自分の理想を実現しようと挑戦を続けてきた、美術家であり思想家であり実践家であったフンデルトヴァッサーを、いま再び考えてみることの意義は少なくありません。
(パンフレットより引用)

館内を順路にしたがって進むと、スクリーンに映し出された彼の映像に出会います。
彼の日常を撮影したもののようですが、その中でこんなことを言っていました。

「屋根の上に草を生やすなんて、常識では考えられないと非難される。だから絵の中に描くことにした。絵なら誰も非難しない」(表現は少し違うと思います)


ものをつくる人が必ず感じるフラストレーションのような気がします。
これほど有名な人でさえ、いくつものフラストレーションと戦ってきたのだと思うとなんとなく安心できました。

「常識」とか「非常識」、「普通」とか「変わっている」とか。そういうことって誰によって決められるのでしょうか。

彼の映像を長い間、眺めていると、私が一番好きな絵本「星の王子さま」の中に散りばめられたたくさんのフレーズと重なりはじめました。


これ、何に見えますか?

星の王子さまを読んだことのある人なら、答えは簡単です。
この物語は、まずここから始まるのです。
そして、私はこれにかなりの衝撃を受けました。

正解はこれ。↓


「ウワバミに飲み込まれたゾウ」です。
(絵が見つからなかったので、ネット販売されているぬいぐるみの画像を使用しています。)

私が星の王子さまに出会ったのは、小学4年生くらいの頃。
当時、十分子どもだった私も、本の中の王子さまのピュアでキラキラした表現にハッとさせられました。

なんとなく、これらと重なるものを感じたのです。

フンデルトヴァッサー展。
直線的で四角い大人の世界に疲れているあなた・・・。
彼の作品に癒されるかも知れません。

FUNDERT WASSERについて調べているとこんなサイトに出会いました。
彼の作品が好きな方、必見です!!!
http://home.s02.itscom.net/hyakusui/favorites/hw/t_index.html

9月5日 ルーヴル美術館展へ行ってきました。

2005-09-05 | 美術館・展覧会

9月3日(土)、休みを利用してルーヴル美術館展(京都市美術館 10月16日迄開催中)へ行って来ました。テレビCMもされているのでご存知の方も多いことと思います。

私も、随分前から注目していた美術展でしたが、想像以上の人の多さにとてもつかれました。
土曜日という日が悪かったのか、それだけの人気の証明なのかはわかりませんが、入口では入場制限が敷かれ、中に入ってからも自分のペースで見ることはできません。

普段、さら~っと流し見をして、心に留まったものだけをじっくり見る。という独自の鑑賞スタイルでも、美術館を訪れると異様な疲れを伴って帰宅するのが常です。
今回は、人の多さから、自分のペースで前へ進むことができず、展示された73点、全てをじっくり見ることができたので、その疲れはひとしおでした。

私はこの疲労感を「絵のパワーに魂が吸い取られる感じ」という表現をして、周囲を呆れさせますが、絵にはそんな見えない力が働いているような気がしてなりません。

この美術展は、京都以外からもツアーで訪れている方がたくさんいらっしゃいました。世代を超えて多くの人が美術展に訪れる。絵画の魅力って何だろうか。そんなことをふと思ってしまいました。

ぎゅうぎゅう詰めの館内では、あらゆる会話が聞こえます。絵の中に収められた女性のスタイルを賛美するもの、衣装の美しさに感嘆する声、時代背景を想うもの・・・。一枚の絵が見る人によって、見る角度によって、全く異なった印象を与えていることを感じました。

そんな私のお気に入りの1点が、ルソーの「森の落日」です。昨年12月、社員旅行でパリを訪れた時に、もちろんルーヴル美術館へ行って来ました。
ルーヴル美術館には、35万点以上が所蔵されているので、見たいものに的を絞り、広い館内をほとんど走るようにして移動しました。ですから、この作品を見たのは初めてです。
他にも、今回日本にやってきた大半のものが初めて目にするものでした。

ご興味のある方、もともと行く予定をされている方・・・。なるべく早い内、できれば平日にご覧になられることをお勧めします。

芸術の都パリのほぼ中心部、セーヌ川右岸に建ち、世界の美術ファンが一度は訪れたいと願う憧れの場所-それが、パリ、ルーヴル美術館である。

この壮大華麗な美術館には、古代エジプトやギリシアから19世紀ヨーロッパまでの絵画・工芸・彫刻などの名品35万点以上が所蔵されている。訪れる人の数は年間580万人を誇る。

 このルーヴル美術館の原型が築かれたのは16世紀。パリ防衛のため、12世紀にこの地に建てられた要塞を荘厳な王宮に建て替えることを決めたのは、16世紀に登場したフランソワ1世であった。レオナルド・ダ・ヴィンチの保護者としても知られる王は、美術品の収集を精力的に行った。その後王室コレクションは、ルイ14世の時代には1500点ほどに増大した。

そして王政を打倒したフランス革命後、国民公会は、1793年、この王宮を民衆の美術館とし、一般公開を決定した。

1989年には、ナポレオン広場中央にガラスのピラミッドが登場。ドノン、リシュリー、シュリーと3翼に分かれるギャラリーには、修行時代のマネやルノワール、シャガールらが、感動のため息をもらし、習作に励んだ名画が、今も不滅の輝きを放ち続ける。
(週間世界の美術館 ルーヴル美術館Ⅰ 200年2月1日発行 引用)

今回ルーヴル美術館展に集うのは、フランス革命期から王政復古、第二帝政とめまぐるしく政治、社会が変動した時代のフランス絵画傑作の数々。アングルの「トルコ風呂」をはじめ日本初公開の56点を含む73点です。

19世紀前半のフランス絵画は、特権階級を打ち倒した新たな市民社会から生まれ、理性を重んじる新古典主義、それに対して情熱に憧れたロマン主義、そして現実世界を直視する写実主義へと展開していきます。この新しい絵画の潮流こそが、やがて印象派に代表される近代絵画を覚醒させてゆくのです。日本でいえば幕末、京の都にようやく時代の嵐が吹き始めた頃のことです。
(ルーヴル美術館展 パンフレット 引用)

8月29日 MARC CHAGALL

2005-08-29 | 美術館・展覧会
    
(パリ オペラ座の天井画 2004年12月撮影)

昨日は「愛のシャガール展」(美術館「えき」KYOTO  京都駅ビル内  10月2日まで開催中)に行ってきました。
展示は、油彩、水彩など約15点、版画、ポスターなどを合わせた約140点で構成されています。
専門的なことはわかりませんが、シャガールの絵が大好きで、近くで開催される時は必ず観に出掛けています。絵をみている。というより、色をみている。という方が私にとっては正しい表現かもしれません。

青、緑、赤、黄の使い方の鮮やかさに何度みても飽きないものです。
美術館は、特に惹かれる絵に出会わない限り、さら~っとスルーしてしまうのが私の日常です。「目を惹く」といっても、どういうところがどう素晴らしいのかを説明できるだけの絵心はありません。ただなんとなく…なんとなく好きになります。

今回の展示の中で私が一番好きな絵が「アネモネ」という作品。赤と青と黄の独特のバランスが何とも美しい作品でした。
また、今回の展示にはありませんでしたが、これまでに知っている中で一番好きな絵が「窓から見たパリ(ここでは、「開かれた窓」というタイトルになっていました)」という作品です。


窓から見たパリ

たまたま、美術館を出た通路でその複製画の予約販売会が行なわれていたので購入することにしました。受注生産ということで、私の手元に届くのは約1ヵ月後になるそうですが、どう考えても部屋の広さに不釣り合いな大きな絵をどこに飾ろうか。と今から楽しみで仕方ありません。


マルク・シャガールは、1887年ロシア系ユダヤ人として生まれ、長い間放浪生活を強いられてきました。

19歳で地元の画家のアトリエに通い始め、翌年にはわずかな所持金を手に、サンクトペテルブルクに上京。王立美術館に入学します。しかし、古典に終始する教育はシャガールを幻滅させ、翌年には、パリ画壇に精通した舞台美術家バクストの学校に移ります。
そこで初めて、モネやゴッホなどパリの近代画家の作品に触れ、次第にパリへの憧れを強めます。

パリに旅立ってから、4年後に帰国し、1915年28歳でベラと結婚。あふれる幸福感を「誕生日」という作品で表現しました。
二人でパリへ行こう---。
しかし第一次世界大戦が勃発。出国は許されませんでした。
さらに、戦争の混乱の中で起こった1917年のロシア革命が彼を苦しめました。

1918年に大戦は終結しますが、混乱を極めるロシア国内の社会状況と、芸術への無理解から、4年後の1923年妻ベラと娘イダと共にフランス亡命を決意します。

1930年代には、シャガールの評価はピカソやマティスと並ぶほどになっていました。しかし、1933年、ナチス・ドイツがユダヤ人の絵であるという理由で、マンハイム美術館所蔵のシャガールの作品を全て燃やしてしまったのです。

1939年には第二次世界大戦が勃発。ナチス軍の侵攻とユダヤ人への迫害は、周辺国に広がっていきました。シャガールは南仏のゴルドへ逃れ、パリ陥落後にはアメリカへの亡命を決意します。(54歳)彼は大西洋を渡って再び放浪の旅に出なければなりませんでした。

1944年8月、ニューヨーク近郊の別荘に滞在していたシャガールとベラはラジオから流れるパリ開放のパリ開放のニュースに歓喜の声をあげました。しかし、ベラが伝染病にかかり、わずが数日後、49歳で他界。その後9ヶ月間、彼は絵筆を握ることはありませんでした。

翌年、58歳のシャガールは、亡き妻に捧げる大作「華燭」「彼女をめぐって」を完成。

1948年61歳でついにフランスに帰国したシャガールは、パリ近郊のオルジュヴァルを経て1950年には南仏の町ヴァンスへ。そして最晩年は、ヴァンスの隣村サンポール・ド・ヴァンスに居を構えます。
南仏の自然に魅了されたシャガールは、この地でリトグラフや陶芸など新しい分野に果敢に挑戦していきます。

1952年65歳でロシア人女性ヴァヴァと再婚。
安らぎを取り戻した彼は3年後、「聖書のメッセージ」の連作に着手。欧米各国の教会のステンドグラスの製作にも心血を注ぎました。

1973年、ニースに誕生したシャガール美術館は、南仏で輝きを増した彼の芸術の集大成とも言えるものでした。

1985年、シャガールは、33年間連れ添ったヴァヴァに看取られ、サンポール・ド・ヴァンスの自宅で97歳の生涯を閉じました。2度の大戦、革命、迫害などを経験しながらも、二人の妻と愛を紡いだシャガール。
「色彩の魔術師」とも評されるシャガールが生涯を通じて絵画制作の拠り所としたのは、「愛」「故郷」「聖書」の3つのテーマでした。
(参考文献:講談社 週間世界の美術館  シャガール美術館 2000年9月12日発行)