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病床で「あとを頼む」=強い信念、卓越した行動力-評伝・山田恭暉前隊長

2014年06月18日 | 原発

病床で「あとを頼む」=強い信念、卓越した行動力-評伝・山田恭暉前隊長

 
「福島原発行動隊」の集会で出席者の意見に耳を傾ける山田恭暉さん=2011年7月、東京都内

 東京電力福島第1原発事故の収束作業を志願する「福島原発行動隊」の初代理事長、山田恭暉さん(75)が17日、志半ばで他界した。厳しい作業が続く第1原発の状況や、現場入りが果たせていない行動隊の今後を、最期まで気に掛けていたという。
  山田さんは2007年、悪性リンパ腫を発病、医師から「3カ月先の約束はしないように」と言い渡された。突然の宣告に動揺し、朝からアルコールに浸る 日々。内臓を壊しもした。それでも、自分自身を静かに見つめるうち「自分の手柄だとか周りの評価だとか、そういうことは全く気にならなくなった」。
  原発事故が起きたのはそんな時だった。「これは大量の被ばく要員が要る。老人の出番だ」。東大工学部で学んだエンジニアの山田さんには、事態の深刻さがす ぐに分かった。早速、手紙やメール2500通を友人・知人に送り、「若年作業員の被ばくをわれわれの世代が肩代わりしよう」と訴えた。
 しかし、「人手は足りている」と言う東電の壁は厚かった。賛同者は瞬く間に2000人を超えたが、意欲をそがれ、焦りが募る。「除染や被災者支援など手近な活動を」との声も上がったが、「あくまで本丸は原発構内での収束作業」と、山田さんは揺るぎなかった。
 行動力も卓越していた。12年夏には米国に渡って1カ月間滞在。議会関係者やマスコミに、行動隊の意義を説明して回った。行動隊を紹介する本を出版、署名活動も展開するなど目標実現へと労を惜しまなかった。
 亡くなる前々日の15日。大学時代からの友人で、今年3月に理事長を引き継いだ塩谷亘弘さんが病院に見舞うと、それまで意識が混濁していた山田さんは目を開け、「何もできなくて申し訳ない。あとを頼む…」と声を絞り出した。
 行動隊は今も、以前と変わらず現場入りを目指して活動を続ける。創設者のリーダー不在でも、揺るがない組織をつくり上げたところにも、山田さんの類いまれな資質が見て取れる。(時事通信編集委員・芳賀隆夫)。(2014/06/18-18:52)



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