生涯を振り返ってブッシュマンは、ハーバード大学で学んでいた時に大きな転機を迎えた。2年生の時、厳しい信仰の危機を経験している。著名な教授から個別指導を受けることになって、その教授がモルモニズムは「がらくた」みたいだ、と言った時、ブッシュマンは何も言えなかった。日曜学校や家で習ってきた言い方で反応しても、教授には愚かなこととしか思われないことが分かっていたからであった。
ここには次のような不文律があったのだ。それは、人は何を信じても構わないが、なぜそれを信じるのか説明が求められ、聞く人に受け入れさせることができないにしても、なるほどと感じさせる賢明な答えでなければならなかった。少々ヘンであっても、筋の通った印象を与える信条説明である必要があった。
例
Q:「どうしてジョセフ・スミスが信じられるのか」
A:「モルモンとして暮らす時、それが自分に合った生き方であると感じるのです」
Q:「モルモン書をどう思うのか」
A:「学識あるクリスチャンが聖書を読むのと同じ読み方で読んでいます。この本の史実性やほかの問題があっても、書かれている言葉が真実であると感じずにはおれないのです。」
普通に教会で聞く表現に固執すると、事実上相手に関心を寄せず無頓着な態度を取っていることになる。相手に私たちの言い方に理解を持って欲しいと求め、私たちは歩み寄ろうとしていない。何十年も学問の世界で暮らしてきて、様々な同僚に自分の信仰を説明する立場にたち、「転がる粗石」を書くに至った、とブッシュマンは語る。あの本は私の信仰と研究が重なり合っている、と自己評価する。
日本の末日聖徒も皆同じように、周囲にどう説明したものか経験してきているが、大変参考になるのではないかと思う。知恵を用いて、相手毎にもう少し準備された、積極的なトーンで返事したいと思う。
Source:
Richard Lyman Bushman, “Finding the Right Words: Speaking Faith in Secular Times,” in J. Spencer Fluhman, Kathleen Flake, Jed Woodworth ed., “To Be Learned is Good: Essays on Faith and Scholarship in Honor of Richard Lyman Bushman,” Neal A. Maxwell Institute, Brigham Young University, 2017.
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-what-year-did-Jesus-die.html
クリスマスはキリストの誕生日ではない!?神に反逆した生誕を祝う日だった
https://believeitornot666.com/christmas/
イエスは西暦33年、33年の生涯を終え・・・
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/39613b90e7c3a1941d53e94844e08034
キリストの誕生日は4月6日
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1065936131.html
だけど、教義としてイエスの示した天国と地獄をどのように定義しているのかということや、我々が死んだらどうなるのかから始まって、イエスキリストがこの世の終末と復活をどのように進めてゆくのかと言ったことは、明らかにモルモニズムと言って良いでしょう。
ブッシュマンさんが進んだ方向は自分が想像するに、偏見を極力排除した等身大の教会歴史の紹介であって、外部の人に当時のモルモンがどうして反対され、ユタ州に疎開のような行動を行ったを良く説明しているようで(それは重要であり難いことですけれども)モルモニズムの肝心要の中心教義を、極力聖書に基づいて説明しているのか、その点確かめてみたいものです。
https://tenki.jp/lite/suppl/r_miwa/2018/12/18/28670.html
クリスマスの語源
http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM002.html
誰もキリストの誕生日を知らないのに、
クリスマスが12月25日になった理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47181
イエスの誕生日4月6日説を卒業している私
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/e9bd46a9cd463b400ba2bf6ad990e319
・イエスの誕生はフィクションである
・モルモン書はインディアンを改宗させるためにJSが創作した
こんな事をネットで匿名書き込みしてる人が教会内でも同じことを言ってると思う?
その著書『転がる粗石』、教会でとか翻訳されたらいいんじゃないべがぁぁ?!
本題に戻すと、我々に興味を持った外部の人間に、当教会を理解してもらうには、やはり新約聖書の記述を元にして、これらの記述を満足するのがモルモニズムであると理解してもらって、それからそれらを導いた、JSや聖典類を、信じられるという論法しかないと思います。
人口調査の年~幼児虐殺~ヘロデの死~イエスエジプトからの帰還の様子がマタイの2章に詳しく出ていますが、そこには明確な意図があって・・・。
ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
2:17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
の部分が書きたかったためのフィクションであって、それらの伝聞が寄せ集めであって、その子はイエス様ではなかったのでは? との説がくらいあるくらいです。
もしも、本当のイエスがガリラヤ産まれのガリラヤ育ちの平凡な大工の息子であったなら、福音書に振り回されても分からないのも当然(全てがナンセンス)でしょうね。
個人的にはバプテスマのヨハネの斬首の年(教団にとっては衝撃的な事件)が記録さていて、古文書のどこかから見つかって、そこから伝道を始めた年(伝統では30歳から)逆算される説を正解としたいです。
貧困 大阪
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%A4%A7%E9%98%AA%20%E8%B2%A7%E5%9B%B0
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-050.html
「24 また、聖任を受けた祭司たちは自分自身の手を使って生活の糧を得るようにすべきであると、アルマは指示した。
25 さらに、彼らが人々を教え、また主なる自分たちの神を礼拝するために集まる日を週に1日定めること、またほかにもできるかぎりしばしば集まることとした。
26 そして、祭司たちは生活の糧を人々に頼るべきでなく、自分の労働に対して神の恵みを受けるべきであるとされた。それは、彼らが御霊を受けて強くなり、神の知識を得られるようにするため、また神からの力と権能をもって教えることができるようにするためである。
27 アルマはまた、教会の人々が各々自分の持っている分に応じて持ち物を分け与えるように、つまり、ほかの人よりも豊かに持っていれば、ほかの人よりも多く分け与えるべきであり、少ししか持っていない人には少ししか求めず、持っていない人には分け与えるべきであると指示した。 」
に近づいて、神の力や祝福が大きくなるのかも・・
>その教授がモルモニズムは「がらくた」みたいだ、と言った時、ブッシュマンは何も言えなかった。日曜学校や家で習ってきた言い方で反応しても、教授には愚かなこととしか思われないことが分かっていたからであった。
つまり日曜学校で学んだことが実生活で活かせていないワケです。そこで考え方を変えてみませんか。日曜学校で学んだ事柄をそのまま外部の人に伝えれば納得してもらえる、そんな日曜学校にすればよいのでは?
こう提案する理由はNJさんも私も日曜学校の教師に召されているからです。レッスンの内容をインプルーブできる立場にあるのですよ。
ところで今年の日曜学校ではイエスの生涯を学んでいるはずです。イエスが誕生したのは西暦1年ではないことをNJさんはちゃんとお伝えになりましたか?
西暦が考案されたのは525年、ローマの神学者が算出してイエスの誕生はローマ歴の751年にあたるとしました。当初は一部のクリスチャンだけが教会内でのみ使っていて、ヨーロッパ全域に一般人にまで普及したのは16世紀です。普及後は、歴史上の出来事の照合に極めて便利であるため歴史研究が進みました。
それでヘロデ王が死んだのは紀元前4年だと判明しました。聖書にはヘロデ王がイエスの誕生を知り、2歳以下の男子を殺すように命令が出たとあります。聖書を受け入れるならイエスの誕生は紀元前5~6年となります。
ここで多くの人が誤解しているのですが聖書の記述が間違っていたのではなく、当初の西暦の元年の算出が間違っていた、と言うことです。
イエスが西暦1年に生まれたという人は、12月25日がイエスの誕生日であると誤解しているのと同じです。「基督イエス」の著者タルメージ長老も誤解していました。私たちはイエスを、聖書を事実として受け入れています。ならば事実を受け入れるのはイエスを受け入れるのと同じなのでは?
・・・という内容をステーク会長や教会員歴何十年の方々を前に、私は日曜学校でお伝えしました。もちろんNJさんもこの程度のことは当然されておりますよね?私たち教師がきちんと教えることで「モルモニズムはがらくた」などと言われることがないようにできるはずだと思います。
いろいろ情報ありがとうございます。
これって39番目の投稿かな
ちなみに私は伝道に出ましたよ。けれど別に素晴らしいとは思いません。教会員として義務を果たしただけと考えています。
若い時の伝道(専任宣教師)は出た方がよろしいと思います。人を見つけ、教えるのが専任宣教師かも知れません。
伝道会長や同僚によっては、その期間良い方へ、悪い方へ変わるかもしれないです。
だから自分の成長のため割り切ってやるしかない場合もあります。
しかし、言葉や態度、行いが剣のように人を刺し、ダメージを喰らうことがあるのです。
それでもいろんな経験を積み重ねることで、自分の成長、糧となるはずです。
ペテロの回心のように、改宗者や2世など教会員の子どもたちが将来回心するかもしれないのです。
ただ、強いられたり、神権者は義務だからと言って伝道に出ることはあまり勧めるべきではないと思います。
伝道に出て教会を去った教会員の中にはビジネス、仕事で成功された方も何人か知っています。
ある人は、宣教師の経験が生かされたと話していました。
また現在、帰還宣教師で教会の指導者として働いている教会員の中には良い指導者となっている兄弟が多数います。勿論、そうではない指導者もいますが。
なんでもかんでも伝道伝道って猛烈突進する必要はないと思います。それよりは、相手に寄り添い、必要なことを見つけ、そして助け、聖霊の導きと祈りをすることが、教会員として長く続けるべきではないでしょうか。
伝道はすべてが素晴らしいとは限りませんが、夫婦宣教師となって苦楽をともにするのもありだと思いますが。
教会の若い専任宣教師は、四国霊場の先達者や僧侶になる前のお遍路を歩く修行者ではないかと考えております。
人生、いろんなところで挫折をするものです。私も生身の人間ですから。
Uさんのように昔は東大一直線でした。
しかし道外れ、灯台一直線となりました。(笑)
ただ教会もミニスタリングに変更されて凄く良かったと思いますが、
やはり何故変更しなければならなかったのか?その目的、意義を知って、お互いに高い場所へ行けるように慈愛、愛と助け、喜びを持って、信仰者の皆さんにはこのミニスターしてもらいたいと思います。
これで絶望から失望に変わりましたね(笑)
>私なんか教会にも全然行ってませんし、責任もしておりません。
そうだったのですか。 私はYMさんは教会的に嫌なこと(失望等)があっても熱心に教会に通われるタイプの会員だろうと思っておりました。
伝道部制の廃止については、私も賛成に近いです。 アメリカと違い日本のような文化では、初心者にガツガツバプテスマを薦めたってむしろ逆効果(ドン引きされるだけマイナス)だし、宣教師はあからさまな布教よりも、内外ボランティア(ミニスタリング修行)に徹したほうがずっと良い。
日ごろの努力は怠らず、ハーバードの教授とブッシュマンのようなチャンスがめぐって来たら、すかさずモルモニズムについて「適切な言葉」で感化すればいい。
藤原聖子 『世俗化後のグローバル宗教事情』岩波
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%81%96%E5%AD%90%20%E4%B8%96%E4%BF%97%E5%8C%96%E5%BE%8C
雑誌『宗教問題 23』
限界集落化するキリスト教・・・
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E5%AE%97%E6%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C%22%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
鈴木正三 末日
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E4%B8%89%20%E6%9C%AB%E6%97%A5
まぁ、あの越本さんの本では、越本さんの前では逃げ回るような人だったとかってあったかな、ビジネス・マインドで? ヒンクレー一族に近づきになった・・おっとそれは菊地氏でしたかぁぁ・・
あと思い出したのでは、ヒンクレー管長がずーっとトップなんだよ(教会の真の実力者)と言ってましたかな・・
越本 (コメントさせてもらってま)
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%E8%B6%8A%E6%9C%AC
ある意味、宣教師さんとしての成功の心得に、感情的なのは切り捨ててないとかもね。伝道地では人を、面と向かってではなく、常に未開として下に見てなくてはならない、そういうふうにして2年間を終えることができてその後、一人前みたいな・・・
まぁ、霊的な改宗や個々人の信仰面とは別次元のこってあれですが、まぁ、そういう面もねぇぇ・・・フリーメイソン・白人リーダーの社会っすよ・・
小さい時から、訓練というか、たとえばボーイスカウト(少年偵察隊)とか、敵を征服するんだぁぁといった精神教育の面がある程度必要なんでしょう・・かつての中国であれば紅衛兵みたいな・・・
王道・帝王教育とでも・・・
早期教育の背景とも関係するのかな・・・ヒンクレー家には世界文学全集みたいなのはあってヒンクレーさんは小さい時から読み親しんでたっつうこったな・・・
あの7つの習慣のコヴィーさんが英国で伝道会長時、ベースボール・バプテスマという宣教師より年下の少年たちを誘って、意味分からずにバプテスマにというオリジナルがあったんでしたね、その数年後、除名手続き。
このパターン、他国でコピーされたんでしたかぁぁ・・
まぁ、優秀とされた宣教師の中からは、上官に服従ということで、軍や諜報機関等々でリクルート、重宝され、宗教別人口比率、モルモンがダントツ多いらしい・・・ギルバートさんもその系じゃないのかなぁぁ、なんてね・・・
まぁ、人間の組織、どうやって人に動いてもらえるかみたいな?!
そうなんですね、私も知っています。
心を病んで引きこもられました。
NJさんを含めこのブログのコメント欄で発言の多い方々は、口々に伝道は素晴らしいって言いますが、どなたも伝道に出てないんですよね・・・不思議です。(笑)
教会員を長くやっていくにはそんなしんどい事はやらない方がいいのでしょうか?
ちなみに私は伝道に出ましたよ。けれど別に素晴らしいとは思いません。教会員として義務を果たしただけと考えています。
YMより
を読んでください。
リアホナ2014年1月号
日本人が「救いの業を速める」には
https://www.ldschurch.jp/2014-jan-04
警告や助けの声を届かせるために
https://www.ldschurch.jp/%E8%AD%A6%E5%91%8A%E3%82%84%E5%8A%A9%E3%81%91%E3%81%AE%E5%A3%B0%E3%82%92%E
豚さんもオムナイさんも2人の考え方ですと、アイリング管長の預言は成就しないですね。
去年、私のユニットで会員の紹介でバプテスマを受けた会員がいます。
ですので、会員伝道はとても大切ですね。
伝道部の会長によって変わってしまうことがあります。伝道会長がノルマ主義なら、若い専任宣教師は疲弊してしまいます。また改宗が少ないのは専任宣教師が原因だっていっていたら、帰還したら人が変わったような人になってしまうことになるでしょう。
私は、帰還宣教師後、教会を休んだ、心が疲弊した、精神的なストレスが強まったなど、行かない方がよかったっていう教会員を何人も知っている。2世の会員も。
苦行といっても、良い苦行もあれば、悪い苦行もある。
私は、若い専任宣教師制度は本来はとても良い制度だと思っています。
四国霊場八十八カ寺には先達というのがあります。先達になるためには、4回廻らないと先達者にはなれません。
この教会も指導者となるためには専任宣教師となって経験して召された方がいい場合があります。
やはり会員と宣教師が一緒に働くことで良い結果がもたらすこともあると思います。
指示されてやるよりは、自由意志と御霊の導きによって、積極的に動くことだと私はそう理解していましたが。
預言者YMは、日本は伝道部を減らした方が良いと思います。
仙台伝道部は一旦廃止して、東京伝道部と東京南伝道部でのバンドリー変更する。そしてその後、東京伝道部と札幌伝道部が合併して、仙台伝道部となる。東京南伝道部は、東京伝道部と名称変更となり、本部は吉祥寺に置く。当たるかな。
伝道会長は地域七十人も兼務する。
そうすれば、アイリング管長の預言は成就するかも。
しかしそれらを明確に指摘すると結局、信仰の篤い末日聖徒からは嫌味、皮肉、冷笑をされるわけですね。で、私もつい同じように言い返してしまいケンカになると。これは大人げないと反省しているのですが
こちらこそ、宜しくお願いします。
Uさんは、私よりも凄いですね。
どんなことがあっても教会から離れないのですから。私なんか教会にも全然行ってませんし、責任もしておりません。
そして、反省ができるのも凄いですね。いくらでも「私は間違っていない」って正当化することができるのですから。
私が知る限り、問題や課題などがあってそれらが解決や納得できずに教会を去っていった教会員を何人も知っています。最終的に決めるのは本人しだいですからね。
私は完全な知識がありませんから、説得するのはできませんが。
伝統キリスト教も信者数を減らしていますし、成熟した民主主義国家は宗教全般伝道とう意味では苦戦してます。
おそらく会員伝道主導は今より会員の疲弊を招くのではないでしょうか。労多くして実り少ないのが目に見えています。
ステークや伝道部、ユニットを統廃合して一ユニットあたりの会員数を増やし楽しく召や責任を果たす。
専任宣教師は苦行でよろし。
伝道会長さんも有給にあたるのかな・・
https://blog.goo.ne.jp/izumi_yuuichi/e/fd4bc9af32fafb586d662f8921d87ccb
あと、ケントギルバートさんねぇぇ、一般庶民の心情にどうなのかなぁぁって・・・
アメリカはやっぱ異邦人・白人じゃなく先住民がリーダーになればさぁぁ、モルモン書にあるように・・・
ここ数年 会員増加数は減少傾向だし、2018年予想はどうでしょ??
600~700くらいに戻してるんだろうかぁぁ????
「前年が128,856ですから、2017年は479の増加。 初めて500を割りましたかぁぁ。
2016年での増加数は640。
増加数をさかのぼってみてみますと、
2015 - 581、2014 - 654、2013 - 574、2012 - 663、2011- 637、2010 - 1,066
2009 - 896、2008 - 803、2007 - 668、2006 - 706、2005 - 871、2004 - 930
2003 - 759、2002 - 1,179、2001 - 1,126、2000 - 1,216
」https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E4%BC%9A%E5%93%A1%E6%95%B0
ブッシュマンさん、NJさん他、そう思う人の考えには理解を示しますが、実のところ、当の教会幹部はその様な事を全く望んでいないと思います。
まず、会員には「知人を宣教師に紹介するだけ」を求めてます。
つまり、求道者を教えるのは先任の宣教師である。
よって、「会員は要らぬことを求道者に教えない方が良い」と言うのが、教会指導者の一貫した姿勢ではないですか。
そして、その選任宣教師もマニュアル通りのレッスンを行い、知恵の言葉、安息日、什分の一、と言った紋切り型の基準で振るい落とすわけです。
何処に、キリストの福音のすばらしさを共に学び、その祝福を共有して、主の道を歩もうって言う思いが有るのでしょうか?
前にも書いた様に、伝道部長主導型の伝道はもうすでに行き詰まっています。
会員が導き、バプテスマを受け、共に歩むという事をしない限り、会員が福音を分かち合う喜びを知ることは無いでしょう。
帰還宣教師を見れば、その事がよく分かります。
温暖化はしていない。
ソーラー発電、電気自動車には未来は無い。
ストロー廃止馬鹿馬鹿しい。
など、賛同できる意見が多いです。
>殺人者の正義論、アングロサクソンの伝統っすな。
同じワードだった兄弟が定年して数年間ソルトレークに留学して帰国した時。
アメリカの聖徒は日本人に考え方が似ている。との感想を聞いたことがあります。
日本ユ同祖論当たってるかも。
ノーベル賞多くは輩出してますしね。
日本人の宗教観も上手に説明する努力をすべきなんでしょうね。
あの・・・お気遣いありがとうございます。
私は今でも教会に行ってますし、地元ユニットで責任を務めてもおります。
昔はがむしゃらに教会一直線みたいな行動をしており、それが信仰を示すこと、神に近づくことだと思っておりました。常に教会を擁護し、幹部の指示に従い、神の王国の発展に寄与したいと。
今はそうではありませんが・・・教会には問題や課題があり、解決されるべきこと解決しなければいけないことたくさんあると理解しています。
しかしそれらを明確に指摘すると結局、信仰の篤い末日聖徒からは嫌味、皮肉、冷笑をされるわけですね。で、私もつい同じように言い返してしまいケンカになると。これは大人げないと反省しているのですが・・・。
まぁそんなところです、よろしくお願いしますね。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児としない」
ヨハネ14:18
https://penguinclub.net/sermons/j/j14-16c.html
どのような事情で教会を去ったとしても、また教会を来られなくても、神殿参入されてなくても、主イエス・キリストは見捨てず見放さずです。
私たちも主に倣い、愛を持って接することですね。
Uさんは、若いときには、教会のために奉仕し、犠牲と奉献を為されたことでしょう。
そういう方々がいま神殿推薦状がないからと言って、差別したり、否定したり、将来、昇栄できない、地獄にいく、また関わらないようにしたりする。
もしそのようなことをしたとしたら、
それはその本人が、未だにキリストの教えを理解していない、慈愛がない、ミニスターができていないと言うことになるでしょう。
あるときはロドニー・スタークが注目する大躍進中のメジャー宗教にしたり、
あるときはユダヤ人と同じマイノリティにしたり、
イソップ物語のコウモリみたいなことをおっしゃるお方がいらっしゃいますね。
以前と真逆のことを平気で言うのはどうして?とツッコミ入れようと思ったのですが、なるほど記事のタイトルどおり、話題に合わせて「適切な言葉を見つける」だったのですね。
ブッシュマンさんの教えは着実に末日聖徒に広まっているようです。(笑)
うぅぅんん、殺人者の正義論、アングロサクソンの伝統っすな。やっぱハイラムスミスはジョン・テイラーに殺られたんべがなぁぁ・・・
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno
世界一優秀な大学ハーバード。
そうでしたか。そんなにユダ系の教授が多いのですね。
http://chiba-chiba.com/wise-jewish/
ユダヤ人に優秀な人が多い理由
・・
1 幼少期だけでなく大人になってからも学び続ける姿勢
2 家庭環境
3 ユダヤ人というマイノリティ性
ーーー
これってまんま、末日聖徒。
やはり神の選民に王道なしでしょうか。
10 」(137)
何であれ、人の望みは大切でしたねぇぇ、法を犯すものでない限り、尊重されねばですな・・・
「米ハーバード大学の70%がユダヤ系の教授である。 大学生なら20%くらい。大学院生なら50%くらい。教授になるとほとんど70%くらいがユダヤ人だけになるという話である。 」
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2032388.html
学者さんの世界は学者さんにまかせておけば・・・
そうです。ビショップもそういいましたね。
ご自身のふさわしさの証明になれば、のような感じで。
またビショップは、あなたと一緒に神殿に参入できればいいなと思い勧めています、とも言いましたが、そのように説得しなさいと上から指示されているかも知れません。
しかしねぇ、ぶっちゃけたことを言いますと神殿参入にまったく魅力も必要性も感じないのですよ。たしかに若い頃は神殿参入が教会員としての一つの登竜門のように感じていましたが・・・
もちろん熱心に参入したい方々の邪魔をする気はありません。神殿に参入していない人、参入しない人を軽んじるのでなければ。
私の聞いたところでは、(教会に来ていて)神殿推薦状を更新されていない会員に対して、神殿には入らなくても更新して神殿推薦状は持ってくださいというを話されていました。
ブッシュマンさんをこのブログで紹介していただいて注目するとリアホナなどにも多数引用されていますね。
「転がり落ちるごつごつした岩」と訳されていますが。。w
ジョセフスミスはローリングストーンズですね。
去年クイーンがなぜか若者にも大ブーム。
ジョセフスミスとモルモン書の価値をうまく説明できれば若者にも大ブームが来るかも。
ブッシュマンさんハーバードだったんですね。流石。
「転がる粗石」読みたいなぁー。
んが、mozilla firefox というフリーでのインターネットOS・エンジンというんですかね、それだと起動して、すごく短時間であがりますな、見れるんすよね・・・
英語のもjpnを engにしてもやっぱfirefoxでないとですかぁぁ・・・
http://www.ldsendowment.org/timeline.html
あ、ところで、一説に、ブリガムは文盲だったと。
まぁ、自分の名前、署名くらいはできたんでしょうが・・・予言者の塾とかでジョセフに聖典から読むよう言われた時に隣の人に代わってもらったんだという・・・
いろいろ変わるのは、まぁ、エンダウメントや神殿儀式も古代にあったのの回復ということなんでしょうけど、特にエンダウメントは初めから完全にピュアということではなかったんでしょう・・
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/b60afdd1d6eaf95c989ae917624d5416
「3:14 そして彼らが、わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストによって禁じられていた、すべてのものにかけて、自分たちは敵のところに上って行って戦い、同胞の血の報復をすると誓ったとき、見よ、主の声がわたしに聞こえてこう言われた。
15 「報復はわたしのすることである。わたしが報復する。この民はわたしによって救い出された後に悔い改めなかったので、見よ、地の面から絶たれる。」
16 さて、わたしは敵に向かって上って行くことをきっぱりと断り、主から命じられたとおりにした。わたしは、将来起こることについて証をされた」(モルモン)
フリーメイソンのほうでは上の階級ではキリストを否定、悪魔崇拝のようになるんだとか・・・
エンダウメントがメイソン儀式のパクリだというのは(英語圏では)多数の指摘があり、教会もその関連を認めなければならなくなったということですかねぇ。
教会の公式サイトの説明ではジョセフ・スミスや初期の幹部がメイソンに加入していたり、儀式に似ている部分がある事を認めていますが、エンダウメントはメイソンの単なる模倣ではないとしています。
この表現は微妙ですね・・・ある人は両者に関連がないと受け取るだろうし、ある人はやはり元ネタになっているのかと受け取るでしょう。最近のLDS教会はこうした説明表現にばかり長けてきているように思います。
最近ビショップから神殿に行かないのかと勧められましたが、もう何十年も前に受けましたし何をそんなシャカリキに何度も行く必要があるのかと思うので、断ったのですが。
私らの頃は、エンダウメントの誓約を漏らす者があれば首チョンパされるとか、サタンが牧師を遣わしているとか、まぁこの記事のテーマで言えば「それどうやって外部の人に説明するのよ?」って内容が盛りだくさんでしたね。
まぁ現在の行われているエンダウメントの内容が見たければ Youtube に神殿儀式の隠し撮り動画があがってますので誰でも見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=Ms6ny86rXU4
何度も足を運ばなくても家庭にいながらエンダウメントの内容を学びなおせるのは良い時代になったものだと言える・・・かな?(笑)
おっしゃるとおりです。
「その人」の需要を満たす言葉でしょう。
>普通に教会で聞く表現に固執すると、事実上相手に関心を寄せず無頓着な態度を取っていることになる。
はまさにそうでしょう。 ミュージカル「BOOK OF MORMON」でさえ受け止める余裕が教会に出来ているのなら、「転がる粗石」が安心して内部に浸透できるように、中央幹部の誰かから会員の警戒を緩める程度の援護射撃が欲しいですね。
きっとそれは宣教師にも役立つツールになると思います。
https://www.lds.org/study/history/topics/masonry?lang=jpn
教会内で通ずる説明とは、祈りによってJSやモルモン書を問答無用に全肯定していることを前提にして、それを土台にして話し合うから、お互い通ずるのです。
一般の人はそうでないので、問答無用の部分をある程度論理的に説明してみなさいと教授が言うので、ブッシュマンさんの教会向けの説明では、いくら日曜学校で勉強して満点でも、いくら熱心に神話を述べても、教授にガラクタ(言い換えると自家中毒くらいのニュアンス)だと言われてしまうのは当たり前だったということ。
モルモニズムのすばらしさを外部に論理的に説明できるようになるには、少年JSのように外部の宗派を色々研究してそれぞれに限界を感じたプロセスを得て、初めてモルモニズムの需要が分かるものだったりする。 そうなれば外部への論理的な説明も簡単になるし、だからその原点であるJSが価値があるという結論にたどり着く。
勿論うちの教会ではそういうのは推奨していないから、宣教師もそこが盲点になっていて、真面目な会員ほど、ガラクタの説明をしてしまうってこと。
時宣にかなった言葉
http://ncode.syosetu.com/n8139cx/25/
箴言解読文書
教会員Rさんが示した箴言は、
タイミングとチャンスとその人にいま大事であろうとする言葉を発することを意味をしている聖句ではないでしょうか。
一方的に福音を伝えたとしても、その言葉がその人に伝わるかと言えば伝わらないこともあります。
福音を同じ事を学んで話しても、伝わるときと伝わらないときがあります。その人に今必要なこたをタイミングよく話せることがこの聖句の意味ではないでしょうか。
ブッシュマンさんの話は、よく準備して自発的に学んでないと、いざ話す必要な時に話せなくなりますよっていうことでしょう。
大切なのはウラオモテのない人格を築くことなのでは?私の友人で下ネタばかり口にする人がいるけど仕事の上では仲間を裏切らない、だから信用されてるし私も彼を信用している。私はそう考えます。
モルモニズムは重箱をつつくレベルではそうではないとしても、大枠は単純明快なものなのだから、納得感のある説明は可能なはずですよ。
例えばクリスチャン文化の中であるならば、一見矛盾するような難解なイエスの言葉や喩えをいくつか引用して、モルモニズムで解き明かすならば、(同意はないとしても)周囲の理解は得られるし、そのようなモルモニズムを近代になってから提供した無学のJS(聖書読んだけど分からんかったわレベル、からスタートした預言者)は、少なくとも霊的指導者として支持できる理由になりうるでしょう。
外部の人に伝えるために賢く言葉を変えようなんて小賢しいマネをしていると、あぁこの人、実は信じてないんだなとは見透かされますよね。
私は自分がどの程度信じているかを正直に表現すると先のコメントのようになります。だからそれで良いと思っています。
>ここには次のような不文律があったのだ。それは、人は何を信じても構わないが、なぜそれを信じるのか説明が求められ
これって記事のためのレトリックですね?そんな不文律ないですよ。それなら説明が苦手な人は信仰を持てないことになります。
信仰を合理的に説明しようとするのは一つの試みとしてアリかもしれませんが、それに拘泥するというのであれば、それは実は信じていないからでは?
それって10年以上前から護教派というのか知的派というのか分かりませんがNJさんの周囲の方々が好んで提唱していますよね。
そんな二枚舌の態度が私は嫌なんですよ。それはウソつきの始まりじゃないですか?賢い態度だと思われますか?自分の魂が汚れていく気がします。実際、そういう物言いでずっと前からネットで発言している末日聖徒を知っていますが彼からは不誠実さしか感じません。
教会内でも外部でも同じ言葉、同じ姿勢でありたいものです。私ならこう回答します。
Q:「どうしてジョセフ・スミスが信じられるのか」
A:「信じているのではなく探求しています。神の予言者から狂人までのあらゆる可能性についてを。それはイエスやルター、ヒトラーやガンジーについても私は同様の姿勢です。実に興味深いことだけは確かです」
Q:「モルモン書をどう思うのか」
A:「多くの検証からこの本に史実性はないと理解しています。しかし末日聖徒と自称する多くの人たちがこの本からみたまを感じると言います。そのみたまが単なる自己暗示なのか神からの啓示なのかを探求するための格好の材料ととらえています」